■ 外伝4 やわらかな傷痕/1
/1
「姉さん。前から聞きたかったんだが……」
夕食中。珍しく秋葉の方から質問があった。珍しい、というのは向かいあって食事をしているというのに会話を切り出すのは私の方からだった。
「……なんだよ、その顔は」
「ううん、なんでもないよー」
……そんなに驚いていたかな?
とにかく秋葉から来るのは初めてのコトだと思う。私が覚えている中では。……それで、その聞きたかったことって?
「姉さんはいつから眼鏡をかけているんだ?」
「いつから、って……」
あまりに真面目な顔して聞くから、凄く重い事だと思ったのに……。
すると、秋葉はまた顔を顰める。……私ってそんなに顔に出るタイプだっけなぁ?
「―――志貴お嬢様はご幼少の頃は眼鏡をかけていなかったと思います」
毎度、人形のように突っ立っている(時々琥珀さんの手伝いをする)翡翠も続けて言う。
「あぁ〜? 言われてみれば確かそうッスね」
んー? と何度も昔を思い出すように唸ってから琥珀さんも言った。
「最初会った時は本当に姉さんか戸惑ったんだ。眼鏡をするしないで人の印象は変わるからな。……そりゃ、数年経てば視力も落ちるのはわかってるけど。…………その」
「―――志貴お嬢様の眼は、綺麗でしたから」
……。
意外だなぁ。自分の目なんて鏡の前しか見えないから綺麗なのかそうでないのかちっとも分からないけど。
それ以前に……
「…………どうしたんだ翡翠?」
「―――ぁ、申し訳ございません秋葉様! 口が過ぎました……っ」
顔を赤くして、翡翠はまた人形に戻る。秋葉も(翡翠の突然の発言に)びっくりしたようだけど、琥珀さんは楽しそうにニヤニヤしていた……。また何かワルサでも思い付いたのだろうか。
「……琥珀さん、そんなに翡翠をいじめないで下さい」
「いじめてなんかいないッスよ〜♪」
…………語尾に『♪』を付ける所から、あからさまに怪しい。
「そう、ね……いつからかな……事故からすぐに? あ、別に視力は悪くないんだよ。多分1以上はあると思う」
「……眼が悪くないのに付けてるのか?」
「うん。そういうことになるけど…………」
コレは、私を不安定な世界から救ってくれる大切な物。
そして何より、―――大事な人の贈り物だから付けているのかもしれない。
/2
奇跡的、事故から目覚めた私は一人だった。
医者は九死に一生だと言った。目が覚めるだなんて誰が予想したか、そう言われるほど私の目覚めは予想外だったらしい。だから、何日経っても誰も私のお見舞いには来てくれなかった。
見えるのは、……病院に勤めている看護婦さんやお医者さんだけ。そして、前までは見えなかった厭な物。―――世界に書き込まれているラクガキ。ナイフでそれを切ると、力も入れないでバッサリ切れる。
……怖かった。
そんな力を、普段の私は出来なかった事をしてしまって、……自分が自分じゃなくなったようで怖かった。
病室はラクガキでいっぱいだった。……知らない世界に一人迷い込んでしまったようで怖かった。だから、病室にはどうしてもいたくなかった。何処かへ飛び出したい気持ちで胸は沢山。
それでも胸の傷が痛くて遠くにはいけなかった。無理だとわかっていながら、頑固な私はどうしても病室から逃げ出したくって外に出る。それでも走ることも、病院の敷地から出ること、身体が痛くて出来なくて…………こんな事は無かったのに、と全く違う『自分』がいた。
私はある所で隠れるように時間をつぶしていた。
街のはずれの野原。何もなくて、あるのは草原のみ。
そこで一人でいる毎日。お見舞いもないから、病室に戻ってもずっと一人。
なら、……ラクガキの少ない場所で一人でいたい。事故から目覚めた私は、世界から孤立して生きていた。
ずっと一人でいた毎日。
それを助けてくれたのが―――
その日も一人で野原に来ていた。その日は特別、身体の調子が悪かった。だが病室には居たくない。だから無理して野原にやってきた。
胸が痛い……傷口が痛い……喉が痛い。
全てが嫌だった日の事。
野原でしゃがんでいると
「君。そんな所でしゃがんでると危険だ」
後ろから、大人の男の人の声がした。
「………………え?」
見えたのは、野原に映る私以外の影。
振り返る。男の人がいた。
「え? じゃないだろ。君、小さいんだから草に隠れて見えなかったんだぞ。蹴らなかっただけでも感謝したまえ」
したまえ、だなんて。
不機嫌そうに、男の人は言った。
とても偉そうに。
小さい、という言葉は何だか頭に来る。確かに小さいのは認める……だってまだ子供だし、身長もあんまり大きくないし。男の人は大人だし、それより私の知っている普通の男の人よりこの人は大きい気がした。赤い髪に、白い半袖のシャツ、重たそうな鞄……しゃがんでるからかもしれないけど、巨人のように大きく想えた。大柄の男の人に恐る恐る質問した。
「……蹴る、って誰を……?」
「君は莫迦か。ここにいる物好きは私と君だけだろう。ちゃんと周りを見たまえ」
見たまえ……と男の人は言ったが、実際見なくてもそんな事は分かった。
……ああ、そうだ。でもなんか変な感じがする……。『私』って自分のコトを言ってる……。女の人のような顔だったが、体格はどう見たって男の人だ。
「だが、ここで会ったのは何かの縁。少し私の話し相手になってくれ」
馴れ馴れしく、まるで何回も会った友達のように男の人は話しかけてきた。
「私は蒼崎青というんだが、君の名は?」
手を私に差し出す。握手だ。……男の人の手はとても大きかった。断る理由もないので、私は「遠野志貴」とだけ答えて、……冷たい大きな手を握り返した。
それから、私は男の人に色々な事を話した。
男の人は私を子供だからといった目で見ない。お友達だってちゃんと話を聞いてくれる。だから私は調子に乗って沢山お話しした。
家の事。
とっても大きな家で凄く人が沢山いるんだ、って事。
弟の秋葉の事。
元気でいつもお父さんに怒られてるんだ、って事。
お父さんの事。
とっても厳しい人で、病院生活で一番よかったって思えるかな、って事。
それからいつもどうやって遊んでいるのか、お屋敷には沢山友達がいるんだよ、とか。
どんなにつまらない話でも男の人は真剣に聞いてくれた。
「…………ああ。こんな時間か。悪いなシキ。私はこれから用事があるんでな。今日はこれくらいにしておこう」
男の人は立ち去っていく。一人になるのが淋しくて、男の人を引き留めようとした。だが、すぐ
「明日また会おう。ここで待っていてやるから、ちゃんと医者の事を聞いて遊びに来るんだぞ」
「あ……」
私の想いを読んだように、男の人はそう告げて去っていった。
明日になるのが楽しみだった。
そうして、その日から午後になると野原に行くことにした。
男の人はアオと呼ぶと怒る。自分の名前が嫌いらしい。とってもいい名前だと思うのに。なので私は男の人の事を『先生』って呼ぶことにした。だって、本当に先生ぽかったし。もしかしたら本当に学校の先生なのかもしれない。
先生はなんでも聞いてくれる。私の悩みを全て一言で解決してくれた。
先生といると楽しかった。先生は話しも聞いてくれるけど、とっても面白い話もしてくれる。
私は直ぐに先生が好きになった。先生も……最初からみたいだったがお友達になってくれた。事故の後、暗くなりがちだった私が、少しずつけど元の自分の戻っていけそうな気がした。
「ねぇ、先生。私、こんな事ができるんだよ」
先生にもっと好きになってもらいたくて―――病院から持ち出した果物ナイフを使い、野原に生えていた木を切った。
あの『ラクガキ』で―――久しぶりに線を切った。
木はばっさり切られた。普通の人なら何度もナイフで斬りつけなければ出来ないような太い枝を……。
「すごいでしょ。ラクガキをなぞると何でも切れるの。私しかできな―――」
「シキ―――!!」
ぱん、
と私の頬を軽く叩いた。
「先……生?」
…………頬が、火照っていくのが分かった。それでも私の眼は、……先生だけを見ている。
「―――君は今、トンデモナイ事をした」
先生は、凄く怖い目で私を見ている。
鋭い目で、ずっと。
その時、やっとあの『ラクガキ』が悪いことだって気付いた。
何故なら、……理由は分からないけど涙が溢れてきたからだ。
「……ごめ、んなさ、い…………」
気が付くと私はボロボロ泣いていた。
コレは、頬を叩かれた痛みなんかじゃなく、先生『に』怒られたということと、……理由も分からず木を殺した事だろうか。
……殺した?
その時が初めてではなく、……ずっと私は周りの物を壊してきたということだろうか。私は、何て事を……。
「―――」
先生は、かがみこんで私を抱いていた。先生の匂いがする。
「シキには決して罪はない。だがさっきのは悪い事なんだ」
今まで聞いたことがない先生の声。とっても、静かな声だった。
「こう怒っておかないと、いつか君は取り返しのつかないことをする」
言いながら、先生はさっきより強く、私を抱きしめた。
「私の事を嫌っても構わない。だが、この事だけは分かっていておくれ」
「……ううん。先生の事……嫌いになりたくない……」
私は先生の大きな胸の中で泣いた。泣いている間はずっと、私の髪を撫でていてくれた。
「―――そうか。どうやら私が君と出会うのは運命だったらしいな」
先生はそうして、私だけが見えるラクガキ―――儚い世界の事について聞いてきた。病院のお医者さんと同じ事を話した。先生は茶化さずに真剣に聞いてくれた。それがまた、……嬉しかった。
私の説明を一通り聞いてから、ブツブツと一人でとても難しい事を話している。
「先生……私、自分の目でもよく分からない…………」
「―――ああ。分かってはいけない事だ。死が見えてしまうものほど、怖いものはない。一つだけ忠告しておくとすれば……決してその線を切ってはいけない。絶対に、だ」
真剣な眼差しで、先生は私の眼を見た。私もその眼を見つめ返す。
「―――うん。先生が駄目っていうなら私、しない……」
「……そうか。いいこだ」
そう言って、先生は私の頭を撫でてくれた。
「……ねぇ先生。……このラクガキを視てると怖いの。だって私がそれを視たら、みんな死んじゃうんでしょう?」
「そうだな。―――どうやらそれが、私がここに導かれた理由のようだ」
またよく分からない事を言って、先生は静かに笑った。
「―――シキ。明日君に最高の贈り物をしよう。私が君を以前の普通の生活に戻してやる」
/3
次の日。ちょうど先生と出会って七日目の昼。先生は大きなトランクを持って現れた。
「これをかけていれば妙なラクガキは見えなくなる」
先生がくれた物は、眼鏡だった。
「先生、私……目悪くない…………」
「いいからかけてみろ。度は入ってない、それに君にピッタリのを選んできてやったんだ。きっと似合うだろう」
自信満々で、先生は私に眼鏡をかけてくれた。途端―――
「うわぁ! すごい!! ラクガキがちっとも見えないよ!」
「当然だ。わざわざ姉の所にまで行って作らせた蒼崎印の一品だからな。粗末に扱いでもしたらただじゃおかないぞ」
「うん大事にするから! 先生って凄いね、魔法みたいだよコレ!」
「あぁ。―――私は魔法使いだからな」
先生は得意げに笑った。私は嬉しくって笑った。
「だがな。その線はまだ生きている。眼鏡によって視えなくしているだけだ。外せば元の世界になってしまう」
「え……そんな」
「そればかりはどうにもできない事だ。君はその眼と共に生きていかなねばならない。だがその力を使うのは君次第だ」
先生はしゃがんで、私と同じ視線になった。
「君がその力を持ってしまった事はきっと何らかの意味があるに違いない。全てを否定せず、君が正しいと想う人生を送ればいい―――」
先生はまた難しい事を言った。だが、その話はとても私の中にのし掛かってきた。
「先せ……」
「君は素直だからな。十年後にはいい女になってるだろう―――」
そう言って。
先生は立ち上がり、トランクに手を伸ばした。
「まぁ力を使う時はきちんと考えてするんだな。君の力は決して悪い物ではない。だが悪い物を呼び寄せる力があるかもしれないからな」
―――結局は、シキ、君次第だ。
トランクが持ち上がる。その時……もう先生とお別れなんだって、分かった。それは、イヤだ。
「…………嫌。先生……私一人じゃ嫌……先生がいたからずっと楽しかったのに、こんな眼鏡あったって、先生がいてくれなきゃ……!」
必死に叫んだ。
先生を止めるため。
だが先生は、不機嫌そうに眉を歪めただけだった。
すぐ私を慰めてくれる。
……だけなんだ。
「君はもう大丈夫だと、自分でも分かっている筈だ。しっかりしろ」
先生は背を向けた。
「だから、ここでお別れだ」
お別れ、と言われた。
とても悲しい。
だけど、先生にしっかりしろと言われたから、しっかりすることにした。
「……どんな人間だって厭な事だらけだ。君にはそれを乗り越えられる力を持っている」
「―――先生。さよなら…………」
「上出来だ。安心しろ、君なら一人でも乗り越えていける―――」
先生は笑う。
ザア……と風がふいた。
草木が揺れる。一瞬閉じてしまった目を開ける。
―――先生の姿はもうなかった。
元から居なかったように。
風と話していたように。
…………風に乗って去っていく魔法使いのように。
「……バイバイ。先生」
もう会えないって分かった。
野原に残ったのは私と先生から貰った眼鏡。
そして大切な言葉。
たった七日間……私は元の自分を取り戻す事が出来た。
そしてまた涙が出てくる。
私は、……ありがとう、の一言を言う事が出来なかった。
また泣いた。
でもまた振り出しには戻らない。
暗い私は、もういない。
それから、退院の日はすぐやって来た。
だけど遠野の家には戻る事ができなくって、親戚の有間の家に行くことになった。
でも平気。大丈夫。
先生が言ってくれた。
『君なら一人でも乗り越えていける』
先生の温もりを一生忘れない。
―――そうして大柄の魔法使いに逢った私の秋は終わった。
遠野志貴の新たな生活が始まる。
新しい家で、新しい家族で、……何もかも新しい学校に行く生活が始まる。
「やわらかな傷痕/2」に続く