■ 8章 if プラネタリウム/2



 /1

 夏の、暑い日。
 木々から覗く光り。
 蝉の声。
 太陽は直ぐ傍にあるように、熱い。

 目を覚ます。
 目を開けると太陽があって、何が何だか分からなかった。
 分かったのは、隣で泣いている
 私の弟。

 それと、倒れている
 誰か。



 /2

「……ん」

 ―――窓から光が差し込んでいる。雨は止んだのか、雨音はしていない。周りを見渡す……自分の部屋ではなかった。

「あ、おはよう。志貴ちゃん」
「あ―――」

 いい匂いがする。直ぐ隣にキッチンがあるからだろう。屋敷ではこんな事はない。
 ―――そう、ここは屋敷ではない。

「おはようございます。シエル先輩…………」

 眼鏡を直ぐにかけて、先輩の笑顔を見た。
 ―――そうだ、ここは先輩の部屋。昨日は先輩のベットを借りて一泊した。

「今、朝ご飯作ってるところだから、もうちょっとゆっくりしてていいよ」

 ずっと一人暮らしと聞いている。部屋にはコンビニ弁当の空き箱もない。だからシエル先輩はきっと料理の腕もそこそこなんだろう。きっと、あんまり家事が出来ない私よりも巧かったり……。

「朝……ごはん……?」
「あぁ。昨日志貴ちゃんあんまり食べてくれなかっただろ?だから……」

 香ばしい香り。
 例えるなら
 そう、インド―――。

「……えっと、あの先輩! ……昨日は、その、すいませんでした。色々お世話になっちゃって、その…………もう帰ります!」

 ……その前に、この人は朝っぱらからアレでいいのか。

「って、まだ朝の6時だよ?」
「そ、そうだけど、昨日は無断外泊しちゃったから。早めに帰らないと……弟に何言われるかわからないし……」

 今度はどんな風に怒られるか、検討がつかない。
 秋葉の直球な怒りももう何回も見てるけど、……翡翠の無言の圧力とか、琥珀さんも流石にここまで続けば怒るかもしれない……。

「ああ。それなら昨日電話しておいたから大丈夫だよ」
「……えぇ?」
「いくらなんでも外泊しますって連絡いれとかないと家の人だって心配するだろう? 最近は本当に物騒だから、すぐ警察の出番になっちゃうかもしれないしさ」

 それはそうだけど……。

「電話……先輩が?」
「他にいないだろ?」

 先輩自ら、屋敷に電話……秋葉は何て言うだろうか。『先輩のウチに泊まります』と聞いて……。
 どんな反応をしたのか、楽し……じゃなくて恐ろしい。

「……困ります。連絡してくれたのは凄く嬉しいけど、……家の人たち厳しいから」
「でも連絡一つも入れないで外泊する方が心配すると思うよ?」

 ……うぅ。
 そもそも外泊なんてしなければよかったわけで……何て言い訳したらいいだろう……? まさかそのまま説明しても……。

「……あはは」

 突然、先輩は笑い出した。

「ごめん。半分嘘」

 言ってる所からずっと笑っていたが、ついに笑いが絶えられなくなったという風に、先輩は突然笑い出した。

「僕が電話を入れたのは乾君の方で、乾君から志貴ちゃんの家に電話入れてもらったから」
「あ、そうなんですか。それなら安心…………」

 ……なわけない。どっちにしろ、外泊には変わりはない。秋葉は有彦の事を知らないわけだし、あんな男と一緒……そう思われたら。いや、悪いわけじゃないけどね……。

「でも、確かに早く帰った方がいいね。もう制服乾いてると思うけど、一回家に戻って着替えた方がいいと思うし」
「あ、はい。すいません、先輩」
「はい、じゃあ学校で会おうね」

 ―――先輩は笑顔でおくってくれた。



 /3

 まず屋敷に入ったら何て言おうかな……、なんてずっと考えて屋敷に向かった。だが、そんな事心配する必要もなかった。

「あ、おかえりなさいませ!」

 なんてロビーに入るなり明るい声で琥珀さんが迎えてくれた。

「あ……あの、ただいま。……琥珀さん」
「朝ご飯スね? 今すぐ用意するんで。秋葉様は先ほど済ませたばっかなんで直ぐできますよー!」

 琥珀さんは素早くキッチンに移動する。

「その! …………朝ご飯、食べて来ちゃったから……」
「はぁ、でも秋葉様の所には行った方がいいですよ? ……怒ってますから」

 ボソッと、琥珀さんは小声で忠告してくれた。

「……わかってます」
「そんならよろしい! あ、あと翡翠にも一言かけてやってください。あっちもブルー通り越して黒くなり始めたんで」

 俺はあっちの方が怖いな〜。……怖いと言いつつ楽しそうに、唄うように琥珀さんは去っていく。
 ……なんて平和な。
 とりあえず着替えをとりに部屋に戻ることにする。

 ―――替えの着替えに着替えて、居間に向かった。居間に行くと、……いつものとおり秋葉がソファーに座っていた。

「…………」

 いつもと違うと言ったら……いつもより怖い顔で「おはよう」も言わないで座ってる事ぐらい……。
 あぁ、完全にキレてる……。

「いつのまに帰ってたんだ、姉さん」
「う…………おはよう、秋葉」

 さりげなく挨拶作戦…………もきかず。
 窓際で人形のように立っている翡翠の顔も厳しい。が、琥珀さんは本当に楽しそうに笑っている。本当にイジワルな人だ……。

「その、秋葉……怒らないで聞いてくれる?」
「怒ってなんかない。姉さんがあんなに忠告したのに、次の日には外泊するなんて、キレる前に呆れてるんだ」

 ……そういう態度が怒ってるんだってば。
 でも怒られてもしょうがないとは自分でも自覚出来るけど。

「……まぁ、体調が悪くなったのは仕方ないとは思うけど。……乾さんというのは小学生の頃からの友人らしいな」
「え……? あ、うん」

 ……そうだ。電話を入れてくれたのは有彦という設定。
 ―――何だか不安になった。有彦はシエル先輩から電話を貰って、どんな反応をしたのだろうか。
『ちゃんと帰れよ』
 そう言われたのに、私は彼の忠告通り帰る事ができなかった。……有彦も、呆れてるのかもしれない。

「…………どんな風に言ってた?」
「は?」
「有……その、電話くれた人。怒ってた?」

 ……。
 しばし沈黙。そして代わりに(電話に直接出たらしい)琥珀さんが前に出てきた。

「いやいや〜。乾様は決して怒ってはいなかったスよ。どちらかと言えば心配そうな雰囲気でしたけど、お嬢様はご一緒じゃなかったんですか?」
「あ、……多分、その時…………寝てた? から」

 咄嗟の嘘。とりあえず、有彦が変な事しなければそれでいい。
 ……また謝らなくちゃ、いつも迷惑かけてる、なんて事ばかり頭に浮かぶ。

「…………大体、体調が悪くなったら直ぐに連絡してくれれば迎えの車を送れるじゃないか。姉さんは身体が弱いんだから」

 秋葉は微妙に視線を外す。

「―――? どうしたの秋葉」

 その視線は、……どこか淋しそうなもの。

「……何でもないって昨日も言ってただろ! 琥珀、俺は学校に向かう!!」
「あー……まだけっこー時間ありますけど?」
「いいから行く!!!」

 怒鳴りつけるように琥珀さんに命令して、秋葉はロビーの方へドスドスと行ってしまった。
 途中、……秋葉の後に着いていく琥珀さんがこちらを向き、苦笑いをした。その苦笑いは、何か私に訴えてるような顔だった。

「…………『後で秋葉様を構ってやって下さいな』」
「ひ、翡翠!?」

 突然。
 翡翠らしくない口調を、翡翠の口から聞いてしまった。

「…………そう兄さんは言いました」

 ……通訳?

「秋葉様はお嬢様を気遣っているのです。……私も兄さんと同じ意見です。お嬢様、無理をなさらぬよう―――」
「うん、わかってるから……」

 分かっていても、実行にうつせない自分がいる。それに迷惑をしているのは、秋葉も翡翠も……。

「…………つかぬ事をお聞きしますが、何か有ったのですか」

 淡々と、静かに言った翡翠にも、不安の目。

「どう、して?」
「……………………お嬢様、悲しそ…………」

 ―――言いかけた時、……翡翠は突然、自分の口を押さえた。

「?……」
「…………申し訳ございません。口が過ぎました」
「そ、そんな事ないよ……?」

 ……。
 翡翠は黙って一礼をして、ロビーの方へ消えていった。
 ……よくワカラナイ。
 でも、翡翠も心配してくれている……。

 ―――路地裏に散乱した死体。
 両手を赤く染めた、弓塚くんの姿。
 血が必要。
 まるで、吸血鬼のような言い訳。

 いつか一人前の吸血鬼になって―――。

 よく、思い出せない。

「……」

 少しでも、……秋葉の傍にいてあげたかった。
 でも、今日がそれができない。

「迷惑だって思われても…………」

 私は、私の事で頭が一杯なんだ―――。



 /4

 ―――学校に来ても意味なかった。少し送れたHR。ギリギリの時間に入っていきた私を有彦はいつものように迎える。
 そして担任がやってくる。普段と何も変化なんていない。弓塚くんは欠席扱い、誰も彼を心配なんてしていない。そんな気がした。
 ―――気分は、まだ晴れない。昼になって、午後の授業が始まっても、学校が終わっても、ずっと頭は同じ事ばかり繰り返している。

 ―――弓塚くんを、探さなければ。

 ただそれだけがループしている……。

 学校が街中歩き回っても、弓塚くんの姿は見つけられなかった。
 すぐに日が沈んでいく。もしかしたら、……夜にならないと弓塚くんは見つからないと思った。
 暗くなっていく。……一度、屋敷に続く坂道の方角を向いた。

 弓塚くんと、夕日のあの日、一緒に帰った場所。
 たった、それだけ。

「……」

 どうしてだろう。こんなにも、弓塚くんが気になるのは―――。
 彼が、もしかしたら吸血鬼かもしれないから?
 それとも、私は彼を?
 ……。

 華やかな大通りを離れて、公園にやってきた。
 勿論人影はない。明るい繁華街も、人は少なかった。なら街頭しか灯りがないここは人が集まるわけがない。キレイに整備された公園も、夜になってしまえばその美しさが半減する。夜、ここを訪れる人なんて……。

「―――」

 …………ここは、アルクェイドと吸血鬼を倒した場所。

 でも、吸血鬼は生きている。
 弓塚、というカタチになって……。

 でも、――――――どうして?

 問う。そこの、誰かが答えてくれるか分からないけど。
 蹲っている、誰か。
 顔色は真っ青で、呼吸が荒く、喉を押さえ込んでいる、誰か。
 間違えなく、その姿は―――。

「弓塚くん…………なの?」

 少し伸びた茶色の髪。ガクランが、闇と一体化してしまって真っ暗に見える。でも、誰かは直ぐ分かった。

「ゆみつか……っ」

 逢えた喜びもあってか、直ぐに彼に駆け寄る。

「待って!」

 弓塚くんは、声だけで止めた。その声と一緒に止まる―――。

「…………待ってくれ。遠野さんの方から来てくれるのは嬉しいけど、今は、近くに来られると、困るんだ……」

 この声は、確かに弓塚くんの声。
 滅多に聞かなかった声。
 でもすぐに分かった。例え、苦しげな呼吸でも。いまにも倒れそうな身体でも、弓塚くんは声を絞り出すようにして言った声でも。

「弓塚くん―――!」

 彼の名前を叫ばずにはいられなかった。
 ―――闇の中、蹲っていたがスッと立ち上がり、こちらを向く。暗闇でも分かる、青い顔。

「俺は、大丈夫だから。……志貴、ちゃんが来てくれたおかげで、元気になったよ……」

 無理矢理、笑顔を作ったような顔。
 見ていられない、顔。

「弓塚くん……」
「…………嬉しいな。そんなに、志貴ちゃんに俺の名前、呼んでもらえるなんて」
「そんなの……いくらでも呼ぶから…………ねぇ」

 意を決して、彼に問いかける。

「…………一体、何なの。どうして家に帰らないの?昨日だって、アレ……あんな」
「アレ?あんな?って何?」

 赤い海。赤い手。それだけの事。
 だが、認めたくないのか、口がうまく動かなかった。

「優しいな、志貴ちゃん…………」

 くすり、静かに弓塚くんは笑う。

「そんなところも、好き…………なんだ」
「弓塚くん……?」
「ああ。俺があの人たちを殺したっていうのは事実だよ」

 あっさりと
 弓塚くんは笑いながら、照れくさそうに言った。

「そ……それじゃあ、街で起きてる殺人事件って……!」
「認めたくはないけど、俺がやったって言うことになる。殺して、血を吸い取った。多分、これからもするんだろうな……」
「弓……塚…………」

 身体が、震えてくる。そんな私を見て、弓塚くんは悲しそうな顔をした。

「どう思う?……志貴ちゃん…………」
「どう、思うって……! そんな、バカなこと…………!!」

 目の辺りが熱くなる。もう崩れてしまいそうだったが、震える足に力を入れてなんとか立っていた……。

「俺ってバカかな。…………何年間もずっと見てただけなんだから」
「え…………?」
「ずっと志貴ちゃんの事見てた。これも…………事実だ…………」

 これも。
 信じたくないのは、どっちだろう―――。

「そんな顔しないでくれよ。中学の時、ずっと志貴ちゃんは、乾の事しか見てなかったし、あんまり着飾らない性格だったから他のクラスメイトも関心が無かったみたいだしさ……俺とか同じ中学だった、なんて覚えてないだろ?」
「あ―――」

 事実。私は、中学の時、……そして今もあまり人とは関わらなかった。
 有彦という物好きな人しか、私の存在を気付いているという人間がいないとも思っていた。
 決して人と一緒になろうとは思わなかったし、人気になろうなんて考えたことなかった。だから、……いつもクラスの中心的な存在である弓塚くんとは、まったくの無縁だった……。

「それでも良かった。一緒の教室に居られるだけで俺は幸せだったから」

 気まずい。

「俺、気付いてくれないって分かってたけど見てた」
「そ、んなこと……」
「なかっただろ?」

 ……正直に、コクリ、と頷いた。
 すると笑う。
 乾いた声で、弓塚くんは笑った。

「素直だなぁ、志貴ちゃん…………」

 その声が、どんなに淋しそうな音だったか。
 ―――初めて聴くような音だった。
 正直、弓塚くんの気持ちは嬉しい。
 まさかこんな事を言われるとは思わなかった。それは、弓塚くんだから、とかそういうのではなく、……男性に。
 だから。
 ……どう答えるべきなのか……。

「―――な。志貴ちゃんは、俺のことどう想ってるんだ?」

 彼に、何て言えばいいんだろう…………?

 刻だけが、過ぎる。
 刻しか、過ぎない。
 他の物は、何もかもが止まった状態。

「弓塚くん、私は―――」

 …………答えられない。
 自分でもヒドイと思う。弓塚くんがこんなに想ってくれてるのに……嬉しいのに。
 でも、本当の気持ちは……きっと違う。私はずっと、弓塚くんをクラスメイトとしてしか見てなかった。意識したことさえなかった。
 今、初めて弓塚くんの事を想っている……。

「―――そうだよな。俺のことなんて見てなかったもんな」

 怖いくらいの沈黙。
 それを、壊さなければならないと思った。

「ごめんな、さい……………………」

 そんな言葉しか思い付かない自分が悔しい。

「はは……謝る必要なんてな…………」

 ぷつん



 ラジオの電源が切れてしまったように、弓塚くんの音が、切れ、た。

「あ―――」

 びくり、と弓塚くんの身体が跳ねた。

「ぐ、あ、あぁああぁぁ!!!!!」

 ―――奇鳴。
 ガクンと膝から地面に倒れ込む。
 喉を押さえ、ごふっ、という奇怪な音。大きく咳をして、血の塊を吐いた。

「弓塚くん……!!?」

 急いで弓塚くんに駆け寄った。上下する肩に手をやる……。

「あ……」

 服の上からでもわかるほど、弓塚くんの身体は冷たかった。氷のように、……死人のように。

「な、身体が冷え切ってるじゃない! どうしてこんな冷たくなるまで……っ」
「……志、貴ちゃ…………」

 虚ろな声。
 そのまま弓塚くんが肩にかかってくる。
 ―――重い。
 どすん、と私の身体に寄りかかり、尻餅をついてしまった。
 彼の背中に手を回す。……身体をさすっても、荒い息は止まらなかった。
 ……はあ、はあ、と。
 熱い息が、肌にあたる。

「弓塚く……?」
「…………別に、俺の、事、……好きじゃなくて、も、いいよ……」

 苦しそうだった。
 言葉を発する度に、消えてしまいそうな。

「弓塚くん! しっかりして……!!」
「助けてくれるよな……? きみ、なら」

 瞬間。
 ガッと私の首を掴んで
 首に歯を突き立てた。

「あ………………?」

 一瞬の事なので、何が何だか分からなかった。
 どうしてそんなに弓塚くんは痛がってるんだろう、とか
 いきなり首を掴まれて痛い、とか
  どうして牙を、とか
 全てが、何もかも
 ……。

 ―――意識が、遠退く。
 首筋には弓塚くんの牙が抉り込んできている。

 ―――どくん

 心音。
 その音を聞く度に、……私って生きてるんだな……と思った。
 こんな死にそうな身体でも、ちゃんと……動いてるんだな……と思った。
 それが、止まりかけている。
 それは

 嫌だ。

「弓塚―――!!」

 両腕は反射的に、弓塚くんの身体を引き離した。

 弓塚くんの身体は直ぐに離れた。
 押さえ込んでいた腕は意図も簡単に接がれた。
 弓塚くんは、驚いていた。

「は―――あぁ……」

 下で苦しむ私を見て。

「い、た………………」

 首筋から、とくとくと流れている。
 首筋に歯形。
 二つの、牙で傷つけられた歯形。
 そこを手で押さえても流れは止まらない―――。

「―――安心していい。俺は志貴ちゃんを殺そうとはしないから。俺と同じ生き物になるだけだから」
「な……っ?」
「夜活動して、人間の血を吸って、ずっと俺だけを見ている―――それだけのことだ」

 彼が、こんなに大きく見える。
 堂々と、月夜をバックにして立っている彼。
 口からは一筋、赤い血を流して。

 まるで、それは。

「吸血鬼みたい、か?」



「言っただろ? 憎くて人を殺してるんじゃない。俺は、もう血を吸わないと生きることができない怪物になったんだ」

 正直。昨日、赤い海の中の彼は、綺麗だった。

「志貴ちゃんも同じだろ?憎いとか嫌い、そんな感情に左右されることなく……ヒトゴロシが出来るんだろ?」

 そして今も、恐ろしい事を口走り、不可思議な笑みを浮かべ、月の前に立つ彼は

「そんなこと―――!」

 『彼』のように、美しかった。

「―――吸血鬼は、自分の血を与えることによって自分の分身が創り出せるんだ。さっき志貴ちゃんの中にいたのは、俺の血だよ」

 満足そうに言う。口から零れている一筋の血を手で拭き取ると、私に手を差し伸べた。

「志貴ちゃん……立って」

 ……命令が聞こえる。その声につられて、……重い腰をあげた。

「よかった……これで俺と同じなんだな」
「……」
「こっちに来てくれ……」

 手を出す彼。
 その手は大きくて。
 とても、冷たい――――――。

 ―――どくん

 私の身体は、後ろに下がった。

「志貴……ちゃん?」

 弓塚くんの声が困惑する。

 ―――どくん

 続く、心臓の高鳴り。
 その音と共に、震える身体。
 その音と共に、……聞こえてくるもう一つの命令。

 ―――目の前にいるモノは……敵だ。そんな命令が身体に伝わっている。

「どうしたんだ……? 俺の、言うこと、聞いてくれないのか……?」

 ―――どくん

 苦しい。
 さっきの弓塚くんのように、肩で呼吸をしていた。

「なぁ、シ……」
「目を覚まして…………弓塚くん」

 弓塚、を、見据えた。その目は、はっきりと、彼を見つめる―――。

「俺の血が効かないというのか!? 何で……ッ」

 困惑、恐怖、そして殺意。彼の目には一瞬にして色々な感情がぶつかり合った。
 目の前にいる、敵を睨んで。

「イタイ……ね」
「ああ、痛いだろ。俺もなんだ。この痛みから救ってくれよ……ッ!」

 ずっと弓塚くんは『痛い』を繰り返していた。
 やっとあの気持ちがわかる。
 弓塚くんは元から吸血鬼なんかじゃない。
 初めて弓塚くんに遭った頃……あの頃から、吸血鬼なわけがない。
 彼は、吸血鬼にされてしまっただけなんだ。
 不運にも、吸血鬼の、被害者なだけ……。

「やめて。…………もう、こんな事をしても何にもならない」

 もうこれ以上、苦しめたくない。
 吸血鬼になってしまっても、待ち受けるのは……。
 なのに、弓塚くんは憎しみの目で、私を睨んだ。

「俺の血は確かに体内に入った筈だ……じゃあ何だ、既に誰かが支配してたっていうのか……!?」
「わからない……でも、私は」



「ただ、弓塚くんを助けたいだけだから」



 吸血鬼がナニカなんてワカラナイ。
 初めて出逢った吸血鬼は、人間と何も変わりはなかった。人も襲わなかったし、逆に助けてくれた。
 それなのに、彼はどうして人間なのに―――道を誤らなければならなかったんだろう。

「どうして、こんな、ことに……」
「俺が知りてぇぐらいだよ! ……気付いたらこんな身体になってて、人の血を吸わないと生きていけなくなってた。それだけの事だ!!」

 殺意のある視線。
 それはずっと止まらない。
 彼は、私を、殺そうとしている。
 逃げろと本能が叫んでいた。

「……それなら、もう、死んでた方がずっと楽だったのになァ!!!」

 そう、ワケのワカラナイ笑顔で、叫んだ。

 ―――弓塚くんは、……弓塚は迷いなく私の首を掴もうとした。
 引き裂かれる前に。
 私はポケットの中のナイフを出して。

 ザク……ッ

 声より早く、ナイフは彼の腕を斬りつけた。

「いっ、がああぁっ……!」

 苦しむ。
 顔が歪む。
 死の線を切ったわけではない。ただナイフで人の肌を傷つけた。
 それが、こんなにも心地悪いなんて……。

「あ……あぁ……ッ」

 ―――彼の腕からは血。
 その血が、ナイフに付いている。
 弓塚から、身体が遠退いていた。
 それは、恐怖から生まれたものではない。

「弓塚くん。……お願い、やめて」

 もう一度、……無理だとわかっていても彼に言った。
 さっきより、何倍も強い口調で。

「本当に優しいな、志貴ちゃん…………優しすぎるよ」

 斬りつけられた腕を押さえる。苦痛に歪んでいた表情が、もう何もなかったように平気な顔に戻っている。
 吸血鬼は、痛みさえ和らぐのだろうか。

「でもな、あの頃にはもう戻れないんだ。……もし戻れるのなら、俺はどんな代償を払ってでも戻りたい」
「なら―――!」
「だから、駄目なんだよ。方法なんて知らないんだからな、なら、外道でも最もいい道を進むだけだ……」

 弓塚くんは俯く。
 腕からがポタポタと液体。
 もう片方の腕で傷口を押さえるなんて事はしていない。
 何も抵抗もなく零れる赤い水。

「……助けてほしい、って言っただろ?」

 懐かしそうに。
 何十年も前の事を想い出すように、弓塚くんは昔の話をした。
 昔と言っても、昨日の夜―――弓塚くんが居なくなる前に呟いた台詞。

「私は、どうやれば、……弓塚くんは……」
「簡単な事だよ。君が、君が俺の仲間になってくれればいいんだから―――!」

 近づいてくる。
 その足と同時に、遠退く。

「―――弓塚くん。私は、あなたを助けられない―――」
「そんなことはない。大人しくさえしてくれれば、幸せにしてあげるさ……!」

 ―――水の音。
 後ろは噴水。
 夜、噴水は吹き出してはいない。公園の象徴が動いてはいない。
 本当に、刻が止まってしまったようだった。

 弓塚くんは、苦しんでいるんだ。
 なら、少しでも救ってあげる方法は……。

「―――」

 ……眼鏡を、外した。
 ずきん、と頭痛が走る。
 世界が蒼い。
 死が、見える……。

「……そうか。やる気なんだな」

 弓塚の声が近づいてくる。
 私は止まったまま、動く『死』を見る。

「そんなナイフなんか持ってたら危ないだろ?どっから出したか知らないけど、捨てた方がいいんじゃないか……?」

 クスクス、と愉快げに笑う。
 手が伸び、目を瞑る。
 弓塚がくる方へナイフを向けた。

「無駄だって言ってるだろ―――!」

 ―――どくん、という心音。

 一気に踏み込む。
 顔を見上げれば、弓塚の胸。
 ナイフで彼の中心部を突き上げた。

「あああぁあっ!!!!」

 悲鳴。
 突き刺す。
 ズ……という苦い音。
 切れたのは、服と少しの肌。
 そしてポタポタと流血。
 だが中心を射止めなければ、危ない。
 覚悟を決して真ん中に入り込んだのに一発で仕留められなければこちらに被害がやってくる。
 だから、今度は確実に心臓を突き刺……

 ……すことが出来なかった。

「弓塚く―――!」

 思わず口にして彼を見る。
 戸惑いの瞬間を見て、弓塚は激しく殴りかかってきた。

「あ―――っ」

 ゴスッ
 頭の一撃は免れたものの、彼の振り下ろした一発は、左肩に入った。
 肩が、砕かれたように身体が曲がる。

「きゃああああああ!!!!」

 叫ぶ。
 痛い。瞬時に襲ったその激痛は、感覚を無くしてしまうほど―――。
 視界が薄れてしまいそうだったが、あまりの痛さにまた現実に振り返る。
 目を開ければ、弓塚は容赦なくやってくる。

「君を傷つけたくないんだよ、大人しくしてくれ!!」
「……っっっっっっっっ!」

 目にも止まらぬ早さとは、こういうことを言うのか。
 ナイフで傷つけられたはずの腕で、横腹を突かれる。

「がはっ……!」

 もう弓塚は手加減なんてしていない。
 自分の方が能力が上だから、とか、私が女だからなんて理由は全く無い。
 只、私を殺したがっている。

 大人しくしていれば何だというのだろう。
 私も吸血鬼の仲間になれと―――?

 それは
 殺されるってコトと同じじゃない………………。

 振り下ろされた、彼の腕。
 覚悟はしていた。
 もう彼とは、…………こんな出逢いしか出来ないってことも。

 じゃあナンデ
 彼にわざわざ会いに来たんだろう―――?

「ごめん、ね…………………………」

 ―――ガンッッ

「……え?」

 大きな音は、私の耳もとでした。
 仰向けに倒れている身体。
 顔から数センチ左にズレて弓塚の拳は地を叩いただけだった。
 メキ、と地面が抉れている。
 私はもう、……殺されるなんて分かっていた。
 最後の、抵抗。
 そんなもの、信じてなんかいなかった。
 だから、弓塚……くんがワザと外したとしか言えない。

「………………志貴……ちゃ…………」

 目の前には、彼の顔。
 なんて、淋しそうな、顔。

「俺、……こんな、つもり、じゃ―――!」

 弓塚の声は震えている。
 その目から、熱いモノがこぼれ落ちてゆく。
 それは下にしか行くことができない。

 ―――ポタリ、と私の頬を掠めた。

「―――弓塚……くん」

 身も心も吸血鬼になってしまっても、彼は……被害者なんだ。

「ねぇ、弓塚くん―――」
「し、き……?」
「私の血で良ければ吸っていいよ」

 恐怖心なんて忘れて
 ………………そんなものなんて有ったのか、なんて考えて

「ずっと、一緒にいよ」

 私……こんな優しい声出したの、生まれて初めて……
 そう言えるくらい、彼を包み込む声が出せた。

 弓塚くんは少し躊躇った後、仰向けに倒れていた私を抱き起こした。

「………………本当にいいのか?」

 その声には、戸惑いと喜びが交じっている。

「なに、ずっとそうしたかったんでしょ?」
「そうだけど……でも」

 微かに、彼の口が動く。
 何て言ってるのかよく聞き取れない。
 でもその言葉は
 まだ、暖かい吐息に交じっていた―――。

「―――ずっと、痛いのなら」
「志……貴………………」

「私の血を吸って助かるのならそれでいいと思う」
「……………………」

「………………遠野、さん……」
「なに? もう志貴ちゃんて呼んでくれないの……?」

 目を閉じる。
 彼を受け入れることを決心したから。
 最初からこうしていればいいのに、してあげなかった。

「ごめんなさい………………」

 何度も彼に呟いたその言葉を最期にしようと決めて―――。



 ―――彼は、唇を重ね、る。



 オワリ。
 全てがヲワリ。

「――――――」

 心音が、聞こえない。
 五月蠅いぐらい鳴り響いていたあの音は、どこに行ってしまったんだろう。



 でも
 本当に、これでいいの?



 ―――彼の胸にある線。
 ナイフを突き刺した―――。



「―――志貴、ちゃん?」

 声が途切れて聞こえる。

「ごめん……………………私は貴方のモノになれない………………」
「………………」

 もう見られないのかな、と思った月は蒼く。
 彼の表情はとても人間らしく

「―――やっぱり、ずっと……一緒にいてくれないんだな」



 その声はヒドク穏やか。

「でも、嬉しかった。少しでも、俺を選んでくれたんだな……」



 吸血鬼になった血の線を切れば
 きっと―――。

「ありがとう…………それと……、ごめん……………………………………」



 ―――私は、吸血鬼の弓塚を、殺した。



 /5

 ―――いつものように学校を登校する。
 交差点。生徒の数が多くなる。
 何事もない毎日。時間ぎりぎりで教室に入り、HRぎりぎりまで2年の教室にいるシエル先輩に挨拶する。

「もう時間ですよ……」
「んー、流石に朝の挨拶は『おはよう』じゃないと淋しいなぁ。志貴ちゃん」
「よぉ、相変わらずお前は遅刻予備軍なんだな」
「……何で私の机で喋ってんのよ」

 彼らをどかす。そう言えば、彼らは素直に従ってくれるって知ってたから。
 別に二人とも私にイジワルがしたくてそうしてるんじゃないって分かっていた。鞄を置くと、ほぼ同時なり出す予鈴。

「じゃあ、またお昼来るから。また三人で…………」
「あ、シエル先輩」

 去ろうとするシエル先輩を止める。

「あの」
「?」



「これからは、四人でもいいですか?」



 ……そう言って、
 こちらをチラチラ見ていた『彼』を見た。
 にっこりと笑うと、彼は少し顔を赤くしてこちらにやって来た。
 凄く、恥ずかしそうに―――。

「ああ。勿論……!」





if 揺籃の庭/1に続く