■ 9章 if 揺籃の庭/1



 /1

 今更だが、私は帰ってきたんだ。
 何の心配も無く、元の家に帰ってきて目覚める―――そんな平凡で幸せな朝を迎えられる。
 今日は日曜日。学校は勿論、外に特別出る予定もない。久しぶりにゆっくりとした朝食。食堂で、目の前には秋葉。窓際に立っている翡翠と、料理を用意する琥珀さんがいる。

「お嬢様はお茶の方が宜しいですか?」
「うん。ありがとう」

 テキパキと動く琥珀さん。一つ一つの動作もとても楽しそうだった。翡翠は食事に関しては一切手を出さないのか、私か秋葉が何か命令をしない限り動くことはない。銅像のように立っている。

「遠慮なんてしないで下さい! ここはお嬢様のおウチなんですから楽にしてくださいな!」
「ん……そうだね」

 ……もうすぐこの屋敷に来て一週間が経つが、まだ自分の家として安心していない。
 この屋敷が嫌いとかそういうわけではなく、……8年間の空白、それを一週間で績めるのが無理なのだ。
 しかもその一週間の半分以上は非現実的な事件に振り回せされて生きた感触さえしない。本当の意味でこの屋敷で暮らす―――それは、今日が初めてだった。

「……琥珀、あまり姉さんを甘やかすなよ」
「はは。秋葉様は志貴お嬢様にだけ厳しいんですね」
「わざと厳しくしてるんじゃないっ」

 やたらとテーブルマナーがうるさい秋葉。きっと私がこの屋敷を去った時から……8年間、うるさく育てられてきたのだろう。そして今、姉が『被害者』……。

「……ふふっ」

 驚いた。琥珀さんと話している秋葉は、凛とした雰囲気がなくなっている。いくら大人びたと言っても、秋葉はまだ十五の年の筈……。この二人はとても仲が良いのかもしれない。一方、こっそりと翡翠の方を見る。……翡翠は変わらず、ただ窓際で銅像のように立っていた。

「―――なんでしょうか。お嬢様」
「あ、何でもない。ただ、翡翠大人しいなぁーって」

 ……微かに目を細めた。
 当然の事を聞いてしまった……かもしれない。翡翠は主の命令を待っているのだ。だから話しかけない限り……。

「―――志貴お嬢様。一つ宜しいでしょうか」

 ……なんて事は無かった。

「ん? 何?」

 でもこれで少し安心する。完璧な『人形』なんか居ないんだ、と。

「お嬢様は有間の方にいらした時、普段は何時頃に帰宅していたのですか」
「え……?」

 …………そぉーっと、秋葉の顔を盗み見る。秋葉はただ黙って私と翡翠の方を見ていた。

「ん……5時くらい、かな? ちょっと最近は特別。……もうそんなコト無いから」

 ……これからはそう願いたい。でもそこに、琥珀さんが口を挟んだ。

「でもですね、お嬢様! お嬢様は一応遠野家の一人娘なわけなんですから、何かあったら大変すよ? しかも貧血持ちなんですから、もう少し外出は控えた方がいいッスよ。時南先生も心配してますよ」
「んー……。あのヒトが心配するわけないけど―――」

 ちなみに、時南先生というのは私が事故以来からお世話になっているお医者さんの事だ。ここから30分くらい車を走らせた所に病院がある。……遠野家の専属医らしい。前、聞いた話だが、琥珀さんの恩師でもあるらしい。

「そうだな……もう1ヶ月ぐらい病院行ってないような……」

 でも最近、貧血が多い。琥珀さんから薬を貰ったりしてるから大丈夫だが、ちゃんと見てもらった方がいいに決まっている。

「駄目ッスよ。俺も頑張りますけど、正式にお嬢様の医者じゃないんで色々できないんです」
「…………色々?」

 低い声で、秋葉が琥珀さんの方をジロリと見た。

「べ、別に疚しい……とかそういうわけじゃなく……っ」
「わかってる。医療と栄養は琥珀に任せているからな」

 後ろの方にアクセントを置いて、まるで確認するように言いティーカップに口を付ける。

「……だけど姉さん。もし何かあったら……」
「大丈夫! 本当にここ数日心配かけたけど、もう……」



 ―――もう?
 あの事件を、忘れる気?



「………………」

 あの日、弓塚くんの『線』を切った。それは『吸血鬼の死』。彼は未だ苦しそうだが、吸血鬼の悪血から解放され、人間に戻りつつある。時々トマトジュースを飲んでる姿を見ると、冗談だと思うが似合いすぎている。でも、彼は吸血鬼なんかじゃない。
『戻れないから吸血鬼として生きてた』
 それが、彼が路地裏で人を捌いていた理由。
 でも彼は戻って来れた。それが出来たのは、吸血鬼さえも殺せるこの『目』を持ってるから―――。

 私しか無い。
『ラクガキは私にしか見えない。みんなには見えていない』
 8年前、苦しんでいたあの言葉が。

 ―――唐突に琥珀さんはパン!と手を叩いた。

「そうだ、今夜は歓迎会をしましょう!!」

 なんて大声をあげる。秋葉も私も、……声まではあげなかったが翡翠も琥珀さんの方を向いた。

「ですからお嬢様の歓迎会をしましょ! 今夜は秋葉様も外出の予定は無いことだし、引っ越し祝いをして元気を取り戻さないと!!」

 にっこり、笑顔を向ける。人を誘う笑顔だ。琥珀さんに一番似合っている表情だと思う。

「秋葉様、宜しいでしょうか!?」

 その表情は秋葉も勝てないらしい……秋葉は小さく微笑んだ。

「俺は賛成だけど、姉さんは?」

 ……そんなの、聞くまでもなく…………答えは。

「賛成! 琥珀さんの御馳走が沢山食べたいな」
「翡翠もいいよな!」
「………………志貴お嬢様がそう仰るのなら」

 顔色を変えず、頷いた。

「決定だな! じゃあ期待に応えられるよう今から食事の準備をしますんで!」

 琥珀さんは翡翠に何か言ってから食堂へ向かう。まだ朝だというのに今夜の用意をするなんて、さぞ豪華な料理が用意されるに違いない。

「―――では、私は仕事がありますので」

 続けて翡翠はロビーの方へ向かった。……ということは、琥珀さんは一人で御馳走を……?

「それじゃ、俺も部屋に戻るか」

 秋葉も立ち上がる。

「姉さん。何処にも行かないでくれよ」
「大丈夫。もう何処にも行かないから」

 静かに笑って、秋葉は食堂を出ていった。



 /2

 ロビーに出ると、翡翠が掃除をしていた。無駄のない動きというか、キビキビして働く翡翠の姿を見ていると、……手伝う事なんてなさそうだった。

「―――お嬢様?」

 視線に気付いたのか、翡翠がこちらを向く。翡翠が私を見る、いつも思うことだが何だか睨まれているような気がして…………。

「翡翠って目、悪い?」
「いえ」

 単調に答えられる。視力の悪い人は目を細めてモノを見るとよく言う。……つまり翡翠は地で目つきが悪いと。

「―――お嬢様。兄さんの準備が出来次第お呼びに参ります。なのでそれまで部屋に―――」
「えと……それだと難だから、ね。翡翠のお手伝いしようと思って」

 精一杯の笑顔で微笑む。
 …………が、効果はナシ。

「お断りします」

 という、予想した通りの返事が返ってきた。手伝うつもりが、何だか怒らせてしまっている。
 翡翠は……秋葉以上に不機嫌な人間だ。しかもあまり話さないし表情も出さないから何を思っているか理解できない。そう。今の翡翠の表情が物語っているのは―――

『こんなの俺一人で出来るんだから素人は邪魔だ消えろ』

 ―――と言った感じだろうか。(使用人だからまさかそんな事は言わないけど……)
 無表情ほど怖い表情はない。顔を背けて、翡翠は花瓶を拭きだした。

「……あの、翡翠?」
「なんでしょうか、お嬢様」

 たとえ背を向けても、話しかければちゃんと振り向く。……全く、使用人の鏡だ。

「こんな大きな屋敷なんだから二人でやった方が早く御掃除終わると思うよ? いつもは琥珀さんと二人でやってるだろうけど今は…………」
「―――」

 ……押し黙る。これは私を無視しているのではなさそうだった。言うなら、『気まずくなって』口を閉ざしてしまった様な……。
 そもそも秋葉は何で二人だけこの屋敷に残したのだろう? 下手に部屋数が多いこの屋敷を今は全部使っているわけではない。だから私が思っているよりは掃除する所は少ないと思うが、……だがこのロビーだって掃除するのに何時間かかるだろう―――?
 でも、深く考えてみれば私の言っている事は翡翠の仕事を減らしているようなものだ。それがいいのか悪いのか分からないけど。
 ……まだ、翡翠は黙っている。動きを全て止め、下の方を向き、何かを我慢しているように。

「あ……ごめんね、気にしないでっ!」

 二階に駆け上がろうとする。

「―――いえ。二人ではやってません」
「え?」

 …………何やら、的が違う話になってしまった。

「ですから、いつも兄さんと掃除はしていません。兄さんは掃除は出来ませんから」
「出来ない……? って、どういう…………?」
「兄さんの破壊のプロです。作る事も得意ですが、壊す事に関しても天才です」

 こわ……?

「今日、兄さんがこの花瓶の手入れをしようものなら、明日には違う物が置かれていたでしょう。……それを取り替えるのは、私の仕事です」

 こわ……い。今の翡翠の表情は、さっきまでの『無表情』ではない。感情豊かという意味でもなく―――ここには居ないあのヒトに対する怒りを発しているようだった。

「それが一度や二度ならともかく、十や二十、三桁になるものですから、当主命令で兄さんの清掃は禁じられています……!」

 ぐ、っと握り拳。……おそらく、琥珀さんがやった失敗は翡翠に被害を与えていたのだろう。一度や二度じゃなく、十……二十、三桁の被害を。
 ……でも何だか意外だ。きっと琥珀さんは壊してものほほんしてるんだろう……。

「―――翡翠って、琥珀さんと喧嘩するの?」

 まさか、まさかとは思う……そんな事は―――。

「します」

 ……。

「しないわけありません」

 …………相当力んでるよ、翡翠…………。
 翡翠にとっては恨みなんだろうが、……何とも平和な喧嘩だなぁ。

「あー、元気だなぁ翡翠」

 そんな熱心に(琥珀さんの不祥事を)語る翡翠につられるように、台所の方からエプロン姿の琥珀さんがやって来た。にこり、と笑いかけてくる。……その笑顔には……本当に、破壊魔なんてイメージは無いんだけどな。

「あ……どうしたんですか、琥珀さん?」
「んー、何か俺呼ばれてる気がして…………」

 コホン、と翡翠は咳払いをして琥珀さんに背を向ける。そのまま清掃作業に戻った。……本当は、さっきの話を聞いていたのかもしれない……でも琥珀さんは翡翠に言い寄らず、

「お嬢様。少しお時間ありますか?」

 階段の前で突っ立っている私に笑顔を向けた。

「はい、ありますけど……」

 あるから、翡翠のお手伝いをしようと思ったんだけど……。

「そりゃよかった。宜しかったらキッチンに来ません? 歓迎しますよーっ」

 ……随分遠回しな言い方だが、直に説明すると『パーティ料理を作るの、手伝わないか』だ。

「はい。私で良ければ……料理の自信なんて全然ないですけど」
「いやぁ。居てくれるだけでも助かりますよーっ」

 そう言って、琥珀さんは私の腕を引っ張った。

「―――」

 その光景を、横目で翡翠は黙って見ていた。



 /3

 台所はやけに賑やかだった。そこには琥珀さん一人しか居ない筈。音楽、雑音、そしてコンコンという包丁の音や、グツグツという鍋の音。様々な音楽が奏でられていた。きっとラジオを聴きながら支度をしていたのだろう。

「……一人で用意するの、大変だったでしょう?」
「そりゃもう! 手伝ってくれるだなんて嬉しくってもう三品ぐらいデザート作りたいぐらいッスよ」

 にっこり笑って私にエプロンを渡した。一人しか料理をする人がいないのにこの広さ……この道具の多さ。今までこの屋敷でどれだけの人が暮らしていたかを物語っている。琥珀さんは付けていたラジオを消して作業を再開した。

「あんまり料理とかってやらないから、力になれないと思うけど……」
「じゃー簡単なやつにしときますんで、よろしくお願いしマース!」

 琥珀さんは凄く上機嫌だった。
 コトン。
 ……。
 コトン。
 …………。
 私に与えられた役目は、野菜を切るという一番簡単に見えて重要な作業だった。あまり持ち慣れない刃物―――包丁が重い。
 ……いっそのこと、お父さんの形見でやろっかな……。

「あの、琥珀さんてお料理以外に何か趣味ってありますか?」

 こっそりあのナイフに持ち替えて野菜を切り始めた。ちゃんと洗っているから大丈夫……多分。

「俺、屋敷の裏を使わせてもらってるんスよ」
「使わせてもらってるって?」
「昔っから何かを育てるのが大好きで、その例がやっぱ花で、今ではジャングルっぽくなってますけど俺の作品が色々ありますよ」

 そういえば、二階の窓から花壇らしきものが見えてたっけ。

「琥珀さんて園芸が趣味なんだ」
「園芸も時間を有効につかう術の一つッスね。他にもゲームとかテレビとか……あと秋葉様たちのお食事も用意しないとメシが食べられなくなっちゃうし」

 あはは、と笑った。
 園芸をしている琥珀さんの姿を思い浮かべる……凄く手際の良さそうだ。翡翠は先ほど『破壊のプロ』とか言ってたが、全くもってそんな姿は思い付かない。翡翠が嘘をつくわけがないというのは分かっている。だから、余計分からない。ヒトは見た目ではなんたら……と言うが、そのとおりだ。

「…………お嬢さん、ホントはお料理出来るんじゃないっすか? 絶対有間さんの家でも料理やってたでしょう!?」

 横目で琥珀さんが私の作業を見て驚いたように叫んだ。少しオーバーな言い方だが、……本当に私は料理は専門外だったりする。ただ、昔から味付け前の素材の準備段階、つまりは今やっている野菜を洗ったり切ったり並べたり……そんなサラダしか出来無そうな才能しかなかった。なので、実は御飯もロクに炊けなかったりもする。……お粥になるのはいつもの事だ。理由はきっと、有間のお母さんこと啓子お母さんが料理のプロで『自分で作るよりも美味しいから』という理由で逃げていたからだろう。

「そんなコト無いですよ。ずっと琥珀さんや翡翠の方がうまいですよ」
「………………いやー、ここだけの話。翡翠は料理出来ないんスよ」

 苦笑い。

「翡翠は昔から味覚がひと味可笑しくて、料理なんてやらせたらとんでもないッスよ」
「とんでもない……って、どういう風に?」
「一度食べてみれば分かりますよ。翡翠の凄まじさが」

 あはは、と笑って言った。
 ……意外だ。翡翠は何でも静かにやってみせる完璧な人だと思っていた。否、きっと『何でも静か』にやってはみせるだろうけど、完璧まではいかないのだろう。
 琥珀さんが掃除が出来ないように、翡翠は料理が出来ない。全く、翡翠と琥珀さんは双子なのに対照的だ―――。

「…………考えてみれば、琥珀さんも翡翠も何もかも一緒ってわけじゃなかったね」

 ―――懐かしい。
 トントン、という包丁が俎板を叩く音が……過去の記憶を蘇らせた。
 事故でここを去る前…………元気な男の子たちと一緒にママゴトをして遊んでいた。私は女の子だったからいつもお母さん役。拾った葉っぱをお皿にして、時には泥だんごを作ったり、……子供なら必ずやる遊びだろう。それを誘ってくれたのは―――。

「琥珀さんは昔っから私のお兄さんだったし、翡翠はずっと大人しかったし……」
「へぇ、そんな風に見えました?」
「うん。琥珀さんは一緒に走り回ったじゃない。秋葉が危ない遊びをしようとしたらちゃんと止めてくれたし……」

 それは、鮮明に……ちゃんと覚えていた。8年前の事……最初は思い出せるか心配だった。だがあの坂道……この屋敷を見た途端、想い出が蘇ってきたのだ。
 手を引いて遊んでくれたお兄さん。
 こっそりメイドさん達の目を盗んで遊びに来た元気な秋葉。
 屋敷の窓からずっと私たちを見てた少年。
 それと。

 ―――それと?

「…………翡翠には悪い事したって思ってる」

 ―――彼はずっと、屋敷の窓から私たちを見ていた。たった独りで、外に出てくることもなく、ずっと窓の外で私たちが遊んでいるのを見ていた少年―――。
 まともに話したことがなかった。私の手を引いていた男の子が呼んでくると言っても、彼は一度も屋敷を出てこなかった。外でしか彼の姿は見られなかった。
 外で見る、屋敷の中の少年。
 囚われているのかと思った。
 まさか、そんな事はないけど。

「……なんでかな。ずっと一人で淋しそうに見てた……こっちに来て遊べばいいのに」

 髪を触る。
 彼から貰った、白いリボン。彼は何にも言わないけど、きっと覚えているはず……。
 今、ずっと髪を束ねているリボンがその贈り物。

「―――付けていて、くれたんだな」

 顔をあげる。この上無いくらい優しい声で、琥珀さんが呟いた。思わず微笑み返す。
 ……琥珀さんならこの白いリボンの事を知っていたのだろう。翡翠のお兄さんなんだから……。

「俺も、翡翠がもっと幸せになってくれるなら自分はどうなってもいいって思ってたんだ」
「そっか。琥珀さんて弟想いなんだね」
「はぁ、俺的にはそう思ってるんだけど…………翡翠は認めてくれないッスよ」

 それはきっと照れているから―――。
 秋葉もきっと。
 ―――。

「ありがとう、琥珀さん……」

 は? と琥珀さんは手を止めてこちらを向いた。

 ……こんな風に話しているのも、これからもっと話すのも琥珀さんのおかげ。まだ完全に溶け込めてはいない。だが、今夜を機会に実弟と仲良くなれる気がした。
 ―――八年間。その溝を埋めるためにも

「俺…………そんな大それた事してませんよ?」

 少し困ったような顔をした。こんな顔を見たのは、……もしかしたら初めてかもしれない。
 八年前だって、ずっと笑顔だったから。

「……翡翠は幸せ者だなぁ。こんなに優しいお兄さんがいるなんて」
「それを言うなら秋葉様だって幸せ者だな。とっても優しいお姉さんがいるなんて」

 そうかな、と自分で問いてみた。決して、優しい……だなんて思えない。たとえ自分のことでも。

「だってお嬢さんは帰って来たじゃないッスか」

 琥珀さんはお鍋の前に立っている。味付け……は私には難しくて出来ない。あの作業が琥珀さんらしさを表す料理なんだろう。だから、……野菜を切っている私に背を向けている。どんな顔なのか分からないが、とても優しい声だった。

「よく、帰ってきてくれましたね」
「それは……帰って来いって連絡があったから」
「でも抵抗はあったでしょう? ……自分を追い出した家に」

 琥珀さんは、どんな顔でこの事を話しているのだろう。
 そう思うぐらい、……優しい声だ。

「……この屋敷を出る時にね、ある子にプレゼント貰ったんです」

 ―――。
 手を止める。
 もう一度、……白いリボンを渡してくれたあの日を思い出す。
 遠野家を追い出される日……庭の大きな木の下で、私は初めてあの人形のような男の子にあった。

『あげる。似合いそうだから』

「……思えばロクに『ありがとう』も言えなかった。それが言いたくて此処に来たのもあるの……」

 ―――。
 場の雰囲気を察してくれたのか、琥珀さんは黙っている。
 でも。
 肝心の翡翠は、覚えていない―――。

「仕方ないけど……八年も前の事なんだし」

 ―――。
 沈黙が、重い。
 少しでもこの雰囲気を崩そうと、わざと俎板で音を立てた。

「…………志貴、お嬢さん」

 琥珀さんは、声色を変えて私を呼んだ。

「―――秋葉様の部屋に向かわれたらどうッスか?」
「え……?」

 突然、言った。まだ、作業も途中なのに?

「きっと寂しがってますよ? 俺なんかより秋葉様を構ってあげなきゃグレますよ」
「でも……」

 折角誘ってくれて、まだ……ロクに手伝いもしてないのに。すると琥珀さんはいつもの笑顔を向けた。

「思い出したんですけど、今夜のパーティの主役は志貴お嬢さんと秋葉様でした。……俺はそれの手伝いをするだけ。お嬢さんに手伝って貰っちゃいけない身でした」
「そんな……」

 琥珀さんにエプロンを外され、……背中を押され外に出される。

「俺は、……志貴お嬢さんがここに来た理由が分かっただけで得したと思います」

 ありがとう、と言った。

「それと、時南先生の所に電話入れといたんで、行ってくださいな」
「ん……今日も痛くないし……本当に大丈夫ですよ?」

 秋葉も琥珀さんも……心配性だなぁ。

「もしものことを考えて、ですよ。…………痛いのは、俺も嫌ですから」

 ネ? と琥珀さんはにっこり笑って言った……。

「じゃあ、……失礼します……」

 何だか乗る気はしなかったが、琥珀さんのにっこりとした笑顔に押され外に出る。

「そんじゃ、俺は美味しいもん山ほど作るんで。あぁ、料理中は無口になっちゃうんで宜しくっ」
「ん……うん。お願いね」

 そう言って、キッチンを離れた。



 /4

 秋葉は居間でくつろいでいた。居間で静かに読書をしているようだった。その本にはブックカバーがしてあって何の本だか分からない。分かれば、少しでも秋葉の趣味が分かっただろうに―――。

「……どうしたんだ、姉さん……」

 いつの間にか合い向かいのソファに座っていた私に問う。

「ただ、秋葉と話したいな、って思っただけなんだけど」

 ……。
 黙って、本を閉じる。

「…………それなら早く言ってくれればいいのに」
「ううん。本に熱中してるならそれでもいいかなーって」
「……話したいんだろ?」
「そうだけど」

 ……。
 …………。
 ………………。
『秋葉と話がしたいな』
 そう、さっき自分は言った。なのに何で一言も話しかけられないんだろう―――。
 ……結局出た言葉は、どうしようもない質問だった。

「ねえ、秋葉」
「なんだ、改まって」
「本当はどうして私なんかを家に呼び戻したの?」

 ……。
 前から聞こうと思っていた。でも前―――8年前に再会した瞬間、同じ事を問い、数秒で話がついた。それは今も同じ…………。

「姉さんの家は此処なんだから、当然の事だろ」

 …………。
 そうだけど……。

「それともなんだ、姉さんは………………」

 少し、黙って、

「有間の方が幸せだったか?」

 秋葉の静かな声は、怖かった。

『うん』
 つい最近まで、そう思っていた。でも今はどうだろう。
 有間の方が少しは自由が許される。だとすると…………。

「―――ううん。遠野家に戻ってこれて、良かったと思ってるよ」

 しばらく、秋葉は黙って私の顔を見ていた。が、ふいっと秋葉は開いてもいない本に視線をやる。

「あのね……」
「うん?」
「秋葉は秋葉なりに私の心配をしてくれたの?」
「っ! 当たり前だろ、……たった一人の、身内なんだから……っ」

 ……そうか。
 もう、……お父さんもいないんだっけ。

「そんなに拗ねないで……」
「拗ねてなんかいないだろ!」

 ……じゃあ、何でそんなに怒るかな。

「姉さん。良い機会だから俺も一つ聞きたかったんだけど」
「……なぁに?」
「胸に、傷があるって……本当なのか?」

 聞き難そうに秋葉は言った。
 胸の傷……それは、8年前に起きた事故の傷の事だろう。医者に聞いた話によると、道を歩いているとき自動車の交通事故に巻き込まれ、胸に硝子の破片が刺さった。とても助かるような怪我じゃなかったらしいが何とか一命を取り留めた。しかしその代償としてか、激しい運動も出来ない、気分が悪くなりやすい、……『死』が見えるというとにかくマイナスな身体になってしまった。
 人の言葉を借りれば『死んでしまった方がマシ』だったのかもしれない。
 でも小学生の時はいつも気持ちが悪かった。生きた心地なんて無かった。それを助けてくれたのは……。

「もう痛いって事はないから大丈夫。時々、胸が軋む事はあるけどそんなに酷いものじゃないし、最近は貧血の回数も少ないから」
「少ない? 『アレ』で少ないのか!?」
「……まぁね」

 屋敷を追い出され、有間の家で迎えた新たな小学生活。本当にボロボロだった。助けてくれる人がいなかったら、一人で学校にも行けなかった。でも、病院は何だか嫌だったから、苦しくても学校に行きたかった。
 その時だろうか。―――腐れ縁のアイツに逢ってしまったのは。

「……ちゃんと病院行ってるから大丈夫。朝言ってた時南先生に見てもらってるし」
「でも、この頃全然なんだろ? 今度の休みにでも看てもらった方が……」
「なんなら見てみる? 胸の傷」
「ああ。……って姉さん! 言ってる意味わかってんのか!?」
「? 姉弟なんだから少しはいいと思うけど……」
「んなわけあるか!」

 無気になっている。耳まで真っ赤にして……まぁ、高校生になれば身体も精神も大人になってくる。いつまでもこんな事言ってたらいじめてるようで可哀想か。

「…………でも、本当に心配性ね。秋葉は」

 そう笑うと、秋葉はムッとした顔をした。

「姉さんは何があっても全部我慢するような人だろ。だから心配してるんだ!! 痛いって思った時は、ちゃんと痛いって言わなきゃ駄目だろ!」

 怒った。いつのまにか秋葉はこんなに大きな声を出せるようになっていたんだ。それもそうだ。いくら年下だからって、もう15、6歳。背だって、随分高く見える。普通の男子生徒に比べると少し小さい気もするが。
 ……あぁ、もう一度言い直そう。『怒っているというより、拗ねている』ような感じ。とっても、可愛かった。

「なに、笑ってんだよ……っ」
「秋葉、変わってないなぁ……ってね」

 ……しまった。また秋葉が怒鳴るぞぉ。

「じゃ、秋葉。また後でね」

 とりあえずこの雷から逃げることにしよう……。

「姉さん……っ! いつまでも子供扱いすんなよ……!!!」

 そんな、乱暴な言い方でも秋葉なんだと分かって良かった。

 ……秋葉の言ってる事は正しい。何事も一人で考え悩むのは良くない事、そんなの分かっている。でも、……先日の『悩み』を、私は秋葉に告白出来ただろうか?

「琥珀さん……大丈夫かな」

 今更になって、彼が心配になった。一人で料理を作っていること、私を気遣って追い出したこと……それと、急に黙ってしまったこと。
 気になった……。

「……猫でも構いにいこーっと」

 部屋に戻って色々見直すことにした。





if 揺籃の庭/2に続く