■ 3章 if 黒い獣/1



 /1

 死が見えてしまうものほど、怖いものはない。

 気が付けばそこは森。
 屋敷の中のその森は、とても広くて、広すぎる場所。子供が遊ぶには絶好の場所だ。家に閉じこもっていた私は少年に連れられて外に出る。今日は何して遊ぼう、といつも誘ってくれる少年。森で遊んでいるのに大人にバレればみんな怒られる。それでも少年は私を誘ってくれた。

『遊びたいから』

 笑顔で、青い空の下で誘ってくれた少年。その笑顔に私は誘われて、私だけじゃなく秋葉も誘われて、―――子供達は遊び始めた。屋敷にいれば大人しくしなければならないが、外に出れば私たちは子供に戻る。
 残念なのが……屋敷の知らない部屋の窓から子供が覗いていたこと。それに手を振ることしか出来なかった私。誘い出してくれた少年も、その窓際の子供は誘わなかった。あの部屋が屋敷の何処か知らない。広すぎる遠野の屋敷は、おばけ屋敷のようだった。だからあの子と話す事がなかった。
 秋葉はいつも駆け回って、私はそれを一生懸命追う。それを見守ってくれる優しい少年。それと。

 ……それと?

 ―――もうひとり。

 私たちには兄がいる。
 秋葉のことが大好きで、いつも秋葉をからかっていた。ちょっと強引で、お父さんたちに怒られるのはいつもその子。私を誘いだした少年もその子に手を焼いていたようだった。
 いつもの子供達。
 子供たちは遊んでいた。

 あの子達は一体何処へ行ってしまったのだろう。



 /2

「…………おはようございます」

 ―――聞き慣れない声がする。

「朝です。お目覚めの時間です。志貴お嬢様」

 やっぱり『志貴お嬢様』って呼んでる……。
 敬語だって使わなくていいのに。普通に、ごく普通に話したいのに……。
 ―――目を開ける。目を開けると、そこには人形が立っていた。そして見慣れない部屋が見える……。

「……」
「おはようございます。志貴お嬢様」

 お辞儀をする人形……じゃなくて人間だ。
 ……。
 そっか。ここは、私の家じゃ……有間の家じゃ、なかったんだ。
 あるモノを手だけで探す。

「眼鏡でしょうか」
「ん……」

 丁寧な動作で翡翠は眼鏡をくれた。眼鏡をかける…………。
 寝慣れない部屋だったせいか、身体がちょっと重い。

「おはよう、翡翠。わざわざ起こしに来てくれてありがとうね」
「―――勿体ないお言葉です。お嬢様をお起こしするのが私の責務です」

 淡々と、まったくの無表情で言った。
 どこまで崩れないものか、じっと翡翠の顔を見る。
 ……翡翠はすごく綺麗な顔をしている。無表情なのも綺麗かもしれないけど、琥珀さんみたいに笑えばすごくいいのに。男性に綺麗という言い方は可笑しいかもしれない。でも翡翠は、デパートのマネキンのように整った顔である。……でもやっぱり感情があったほうが人間面白い。
 流石にじーっと見てるのが気になったのか、翡翠は見つめ返してきた。そんな風に見つめ返したら……照れてしまう。

「―――何かご用でしょうか」
「ううん。こんな風に起こされるのって今までなかったから凄く……………………………………………………!?」

 ―――自分が、パジャマでいたのに気が付いた。

「あ、……ああの、翡翠?」
「なんでしょうか」
「…………何で私、パジャマで寝てるのかしら……?」

 確か、まだ、家から帰って着替えてそのままテレビを見て……窓の外を見て―――
 私服のまま、そのままベットに『倒れ込んだ』だけなのに、布団の中に居るってことは。

「あのままでは風邪をひいてしまいます」
「あなたがやったの!?」
「兄さんです」

 ……。

「………………翡翠」
「―――はい」
「……今度から気を付けるから。……こういうのやめてほしいって琥珀さんに言っておいてくれないかなぁ……?」

 顔を真っ赤にしながら、そう言った。お手伝いさんって、こういうのするの、知らなかった……。

「…………わかりました。そう伝えておきます」

 どこかため息をつくように、翡翠は目を閉じた。翡翠は……反対したのかな? ならそのまま反対を通して欲しかったんだけど。

「学校の制服はこちらです。……お手伝いしましょうか」
「結構です!」

 ……翡翠は全然悪くないけど、部屋から押し出すように出ていってもらった。……いくらお手伝いさんだからって、……男性なのに。やっぱり男のお手伝いさんは気が引ける……。
なんで秋葉は男のお手伝いさんを残したんだろう? 権力者っていったらやっぱり可愛いメイドさんを周りに置いてウハウハしたいと思うけど……。

「………………なんて事考えてんの、私ったら」

 あのニコニコした琥珀さんに、これからどうやって顔合わせしたらいいの……。



 /3

 ―――朝食を取ろうと居間に下りる。
 そこでは秋葉と琥珀さんがくつろいでいた。朝食は終わったらしく、ソファにでんと座っている深緑色のブレザーの学生服。

「二人ともおはよう」
「おはようございます! 志貴お嬢様」

 ……どうやら『お嬢さん』は私と一緒の時限定らしい。琥珀さんは相変わらず着物、今日も太陽のように明るい顔で返事を返してくれた。その反対……秋葉はちらっとこっちを見る……。

「おはよう……姉さん。思いの外、朝は早いんだな……」

 ……いつもより十五分は早い朝だけど、秋葉にはちょっと不満があるようだ。

「……秋葉は、朝ご飯は?」
「朝食ならとっくに済ました。……琥珀、姉さんに朝食の用意を」

 はいはーい、と脳天気に明るい声。

「―――そういえば、この家にペットはいるの?」

 いきなり、私は話を切り出す。唐突すぎたのか秋葉は不思議そうな顔をした。

「いない。……動物はあまり好きじゃないから、飼わないことにしてる」
「じゃあ他の家の犬だったのね。ずっと夜うるさかったじゃない?あれで寝不足になっちゃうかも」

 は? と秋葉は聞き返した。琥珀さんと顔を見合わせ、……もう一度私の顔を見る。

「昨日、ずっとワンワンワンワン騒いでたんだけど、気付かなかったの?」
「んー……その頃は屋敷の点検をしてたんですが、特に犬の鳴き声はしなかったですよ? 秋葉様」
「……同じく」
「じゃあ、昨日お客が来たのは見ましたか?」
「……一番のお客は志貴お嬢様だなー……悪い夢じゃないんスか? 犬にワンワン追いかけられるとかいう」

 思いっ切り聞こえる独り言を吐く琥珀さん。ふぅ、とこちらも思いっ切り聞こえるため息を吐く。そのままの動作で、秋葉は立ち上がった。

「じゃあ、時間なんで失礼させてもらう。…………犬には気を付けて、姉さん」

 そのまま居間を立ち去った。最後のは秋葉なりの冗談なのか、口元が笑っていた。
 そして、玄関まで送るのか、琥珀さんが秋葉の後を付いていく。

 ―――琥珀さんの用意してくれた朝食を食べ、玄関へ。

「すごいです……全部食事は琥珀さんが作ったの?」

 玄関で、鞄を持って待っていてくれた翡翠にそう問いかけた。昨日の夜も思ったが、この屋敷にはお手伝いさんが二人しかいない。その二人の片方が今目の前にいる翡翠だ。

「はい。兄さんが全てを管理してます」

 翡翠は、毎度のこと言われたことしか返さず、全て応えると黙り込む。きっとこれも慣れが必要なんだろうな……と心の中で笑いながら鞄を受け取った。

「ありがとね」

 笑って、お礼を言った。
 ……。

「…………お嬢様、お時間はよろしいのですか」

 ……やっぱり翡翠は照れ屋さんなんだなぁ。少し笑っただけで、こんなに反応してくれるだなんて。

「うん。大丈夫。ゆっくり行ってもまだ余裕ってとこ」
「―――では、門まで送ります」
「ハイ待ったー! ストーップ二人ともー!!」

 ……淡々とした会話の中、突如入り込んでくる大声。
 翡翠とそっくりの声だが、翡翠がいきなり大声をあげたわけではない。翡翠とそっくりの顔の人が……つまりは、琥珀さんが二階から走ってきた。

「あれ、……秋葉と一緒だったんじゃ?」
「いえ、秋葉様は車で学校に向かわれますから、今朝はお嬢様に渡したい物があって」

 にっこり、琥珀さんは笑う。そうして私に、ある箱を渡した。
 ……?

「有間の家から贈られてきました」
「え?……全部荷物は持ってきたはずなんだけど……」

 琥珀さんから、ある箱を貰う。
 その箱は、二十センチほどの木箱だった。とても古くて、見覚えのない。
 素直な感想をぶつけた。

「あの、なんでしょうか……これ?」
「お嬢様のお父様の遺品です」
「…………え?」
「もし自分が死んだら、お嬢様に渡すよう命じられてました」

 にこにこ笑いながら、琥珀さんは信じられない事を言った。
 それは、……おかしい。八年前、娘を家から追い出した父が、何故そんな物を?

「何……かな」
「何でしょう」
「…………」

 じーっと琥珀さんは木箱を見つめる。
 オモチャを買ってほしいと強請る子供のように。

「本当に見覚えないんですか?」

 ……すっごく、気になってる。
 ちょっと力を入れて蓋の端を持ち上げる。乾いた音とともに、木箱を開いた。木箱は、古ぼけているのに木の香りがする。中には………………十センチぐらいの細長いナイフが入ってた。
 …………。
 ……父の考えているのことは、わからない。

「女の子に凶器プレゼントするなんて、何考えてるのかしら……」
「護身用じゃないっすか? お嬢さんのためにですよ。最近殺人事件多いっすからね〜、って、8年前から予測してたら怖いか」
「兄さん……」

 いつの間にか琥珀さんは木箱からナイフを取り出し、まじまじと観察していた。それを後ろから翡翠が止めてる。
 琥珀さんが器用に指でナイフを踊らすと、……刃が出てきた。やはり料理をしてるせいかな……? ナイフの使い方が上手い。

「んー、なかなかにいい作りだなぁ……年号も彫ってあるし、かなりのお宝ですね」

 握りの下の方に、文字が刻まれていた。

 ―――数字の七に、夜という字。

「七……夜?」
「ナイフの名前かな……。それとも、作った人の名前?」

んーんーと琥珀さんが唸り出す。

「でも切れ味もよさそうだし、年代物だし、形見としちゃいいんじゃないですか?」
「……兄さん、いい加減に」

 翡翠は琥珀さんを睨みつける。

「え、えと……貰っておくね。ありがと、琥珀さん」

 鞄の中に、七夜と刻まれたナイフを入れた。礼を言うと琥珀さんは笑顔で手を振った。

 ―――中庭まで出てくる。門を抜け、一度屋敷の方へ向く。
 何やら、騒がしい声に気付いた。

「……何? 屋敷の右手の方、…………うるさくない?」
「今朝方屋敷の東の路面で血痕が見つかったそうです」
「血痕……? それってっっっ!?」
「発見されたのは血だけですが」

 屋敷の東側……
 ―――昨日の夜……黒いコートの男性がいたところだ。

「志貴お嬢様?」
「あ……、ごめんなさい」

 ぶんぶんと頭をふる。門の前には翡翠。頭を下げている。

「いってらっしゃいませ」

そう、静かな声で言って。

「はい、いってきますね」



 /4

 学校には、三十分ほどで着いた。まだ騒がしいホームルーム。やっぱりクラスでも入ってくるのは遅いほうだった。
 清々しい朝を迎えるには相応しくない男がやってくる。そして……とんでもなく場違いな人もいた。

「いよぉう、志貴!遅いぞっ」
「おはよう。志貴ちゃん」
「………………シエル先輩。なんで二年の教室いるんですか」
「乾君と話してたからだよ」

 ね? とシエル先輩は有彦と目を合わせる。……でもそろそろ担任が入ってきてもおかしくない時間なんだけどなぁ。

「もう戻ったらいいんじゃないですか? 予鈴はとっくになってますよ」
「………………。どうやら志貴ちゃん、ご機嫌斜めみたいだね」
「……ああ。やっぱ急な引っ越しはかなり堪えてるようだな」
「……二人とも、人の机の前で内緒話はやめて。するなら是非廊下へ」
「おぉ、なんだ! いつもの志貴ちゅあんじゃないか!!」

 どうやら有彦は『冷たくする=私的』と見てるらしい。
 ……一回刺してやろうか。

「んで、新しい家はどうだったんだ?」
「……とりあえず、犬にワンワン吠えられる夢を見てバカにされたわ……」

そう言うと、犬に追いかけられるような感じもするが、呟くように言って私はため息をついた。

「あ? お前、犬嫌いだっけ?」
「動物は基本的に好きだけど。…………まぁ、どちらかと言うと猫派かな」
「ああ。でもお前他の女子と違ってファンシーグッズとか嫌いだよな。前、折角土産に買ってきたヤツだって笑いやがって」
「……あれは、有彦が買ってる姿を考えたから笑ったの」

 うあ、ひでぇ……と笑いながら有彦は言った。
 その一方で、じぃーっとシエル先輩は私を見ている……。
 ……?

「どうしたんですか、先輩?」
「……いやぁ。志貴ちゃんと乾君はやっぱり仲がいいんだね」
「先輩、視力いくつですか? よっぽど眼鏡に度が入ってないんですね」

 シエル先輩は眼鏡をくいっと持ち上げかけ直すと、どことなく嬉しそうに笑った。

「志貴ちゃん、乾君の前なら気を抜いて話してるじゃないか。よっぽど乾君の事が好きなんだね」
「大嫌いです」

 ……素直に言った………………ら、何故か有彦は涙ぐんでいた。

 担任が来る直前まで先輩はいた。が、担任が入ってくる一分前に三年の教室に帰っていった……。タイミングいいというか何というか……。

「志貴」
「……つまらないことだったら聞かないでよ」
「…………そう冷たくすんな。昨日に変わって俺が相当ブルーになってんだから」

 ……。
 ……何か、あったのかな?

「もしかして、今度は有彦が引っ越し……?」
「んなわきゃない。……そうじゃなくて、シエル先輩。先輩、人の名前覚えるの苦手で有名なんだぞ」

 ……。
 そりゃ、とっても不思議な知名度で。

「俺だって名前覚えて貰うのに一週間かかった。……しかも普通の女子はその三倍ときたもんだ」
「……つまりなに。有彦は私が普通の女子じゃないってことが言いたいのね。ハイ、担任入ってきたわよ」

 しっしと手を払った。しぶしぶ有彦は自分の机に帰っていく。



 /5

 ―――授業。毎日同じようなリズムで進んでいく授業。
 学生のお仕事である今日の授業は、……とても眠かった。窓の外を見る。教室のベランダに、鴉がいた。
 ……鴉。
 昨日、夜……いや、夢に出てきた鴉を思い出した。鴉は鴉。この町には何匹もいる。まさかあの夜と同じ鴉とは思わない。
 くわあ
 鴉の鳴き声が聞こえた。それは、私の記憶の中の

 ―――どくん

「あ」

 ―――それは、突然やってくる。
 とくとくと心臓の鼓動が聞こえ、息苦しくなり、視界が真っ白になる。

 キモチワルイ。

 ずしっと、背中に石を乗っけられたように、重い……。
 これは、貧血。
 あぁ、人前で倒れるのって久しぶり……。

「はぁ………………」

 誰にも聞こえないぐらい小さな声で息を吐いた。
 聞こえるはずのないぐらい、小さな声で。

 イタイ…………。

「―――先生、ちょっといいですか」

 いつの間にか、有彦がいた。有彦は教室で後ろの方……決して席は近くはない。が、私の背中をドンっと押す。そのショックでか、身体が正常な感覚を取り戻す。

「遠野の奴が具合悪そうなんで、保健室連れてやってきていいですか」

 前に出てきた有彦は私を立たせた。

「あり、……ひこ?」
「遠野、本当に具合悪いのか?」
「え……あ、だいじょ…………」
「全然ダメだそうです。こりゃ早退させた方がいいんじゃないっすか?」

 大声が教室に響く。

「そうか。遠野が身体が弱いってのは聞いているからな」

 先生は、保健室に行くか、気分が悪いなら早退しろと言った。

「ほら、気持ち悪かったらキモチワルイって言わなきゃわかんねぇだろ」
「……………………それじゃあ、早退させていただきます。……有彦、ありがとう……」
「気にすんな。お前の苦しそうな姿見てるのはヤだかんな」

 そう言って有彦は自分の席に帰っていく。
 重い身体を何とか動かし、教室を後にした。



 /6

 ―――校舎を出る。

「……はぁ、やっぱり外の空気の方がいいや……」

 ……八年前。
 八年前の事故の代償としてか、私の身体はすぐ貧血を起こすという欠陥品になってしまった。
 はぁ、と深呼吸をして、家へ歩き出した。校庭は体育の授業をしていない。誰もいないような学校を後にした。
 大通りを出る。
 ここを越え、住宅地に出れば屋敷まで一直せ…………

 ―――どくん

「や……」

 また、視界が白くなった。ガードレールに手を掛け休み、ぼんやりと大通りを見ていた。
 動きたくない。だけど、動かなければ帰ることができない。

「……」

 しばらく、そこで立ち止まっていた。

 キモチワルイ

「……学校で休んでればよかった」

 そして、屋敷に連絡したら……迎えに来てくれたかもしれない。
 迎え? やっぱり琥珀さんなのかな……?

 ……帰ろう。

 我慢してでも屋敷に帰って休んだ方がいい。
 胸を掴んで、歩き
 ―――出そうとしたところだった。

「…………」

 ―――シロイヒトがいた。

「……………………」

 息が出来なくなるぐらい、美しいヒトが。

 金の髪に、朱い瞳。白い服装に、スラリとした長身。
 それは、絵本に出てくるような白馬の王子のような―――夢の中の住人のようなヒト。

 ―――どくん

 私は彼に見取れていた。
 それは、一般の女性が男性に向ける特別な感情ではない。
 特別、といったら特別なのかもしれないけど。

 考えられない。
 ある一つの単語を繰り返している。
 それしか考えられない。

 ―――どくん

 見取れていた。
 頭に浮かんだのはただ一つ。
 私は、あのヒトを、
 ……。

 スカートのポケットに手が当たる。
 固い手触りがした。

「……」

 何も考えない。私はあのヒトを追う。
 追って、追いかけて―――何と声を掛ける?
 そんなことしてどうする?

 私がしたいのは、違う。

 追う。
 あのヒトの向かう先には、マンション。その白い建物に寄っていく。

 あのヒトはその中に入っていって

 私もそのヒトを追って

 何がしたい?

 一つしか考えられない。

 思い付くのは、一面の朱のみ。

 悪い夢を見ている。
 父の形見の短刀。なんでお父さんはこんなものを私に寄越したのだろう。

 誰かが護身用とか言ってた。私のためにと。

『え?』

 私のためって

 それは



 目の前にはバラバラの死体。



 血の匂い。

 それは、捌くためじゃない。

 わかっている。

 そこには何もなくて、部屋にはただ自分とバラバラのカラダがあるだけ。

 それに短刀なんかじゃ斬ることなんてできない。

 なにって

 赤い血の海。

 ヒトの肉を。ヒトの骨を。

 足下にまで滴る朱い血が。

 ヒトの身体を。



 なん、で?



 遠野志貴の手で、一人の男性を
 ―――殺した。

 赤い血の夢。

「い、」

 手には赤い血と、それに染まった短刀。

「いやあああぁぁぁぁああああぁぁあぁああああ!!!!!!!」



 /7

 悪い夢を見ている。

 やけにリアルで、臭覚のある夢。
 気持ち悪いなんて問題じゃない。
 めまいで血の海に倒れそうだった。
 倒れると、ビシャっと私の制服に朱いものがつく。
 胃液が逆上する。
 涙が止まらない。

 ヒトを殺したこと、何の意味もないのにヒトを殺してしまったことが悲しかった。

 ……うそ。

 これは、夢。

 どうしてヒトをバラバラ死体にできるの?
 ヒト一人が、女一人が大の大人を解体できる? 

 そんなわけはない。
 力があればいいという問題でもない。
 短刀一本でどうやってヒトをバラすと!?

 ………………いや。

 痛い。
 泣きすぎて目が、吐いたことにより喉が。
 心が。
 イタイ。
 夢だというのに。

 ………………助けて。

 マンションを飛び出す。
 白い建物から逃げ出す。
 バラバラの、もうシロクナイ男性から走り出す。

 ―――これが夢だと信じて。



 /8

 ザアー……
 雨の音が聞こえる。

 ザアーー……
 随分激しい雨。

 冷たい。
 寒い。

 私はベットの中にもっと潜り込んだ。
 ……………………もっと?

「―――お嬢様?」

 声がした。こんなことを言う人は、彼しかいない……。
 目を開けた。天井が見える。横を向けば、…………あのマネキンが。

 私の部屋……?
 ……ベットに寝ていた。今更気付いた。

「おはようございます」
「翡翠……?」

 おはよう、と言われて窓の外を見ると……暗かった。雨で暗いもあるが、まだ夜だから暗いもある。

「お身体の具合はどうでしょうか」
「え?」

 なんだろう。私、どっか悪かったかな。何もやってないけ、ど―――。



 ―――シロイヒトハ?



「……………………んで」

 ……なんで。
 こんな所で寝ていたの?

「私は、ヒトコロ……」

 言いかけて口を閉ざす。目の前には、翡翠がいるから。

「ねぇ翡翠……私、どうやってここに?」
「……覚えてないのですか。学校の方から志貴お嬢様が早退したと連絡がありました。ですが夕方になっても戻らないので、兄が探しに行ったところ、公園でお休みになっていたそうです」

 ……公園?

「公園のベンチで休まれてたそうですが、兄が屋敷までお連れしました」
「……それ、全然覚えてない……」
「お嬢様のご気分さえ良ければ夕食の支度をいたします」

 時計を見れば、夜の9時だった。
 貧血で倒れて時間の感覚がおかしくなるのはいつものことだった。……でも、記憶がないなんて重傷だ。
 無表情で翡翠は私を見る。
 食事……?

 ―――思い出すのは、ヒトの肉。

 頭を振って目を覚まさせる。

「……ううん、いいよ。このまま寝るから。それと翡翠。……秋葉にゴメンナサイって言っておいてくれる? 二日目からこんな事になっちゃってゴメンナサイ、って……」
「…………はっ」

 翡翠は一歩後ろに下がった。

 ザアー……
 雨はかなり強そうだった。

「おやすみなさい。翡翠……」

 悪い夢を見ていた。

 そう信じる夢を見ていた。
 夢の中で夢を信じるという夢。
 何だかよく分からない。
 ……分からないほうがいい。
 もっと違うことを考えよう。

 例えば。

 翡翠には……ちょっと我が儘な態度取った。何も言わず去っていったが、心配していたのに何ていう態度をしてしまったのだろう。
 琥珀さんは……私を公園から連れてきてくれたといのに、お礼を言ってない。いや、言ったのかもしれないが、記憶がない。
 秋葉……。
 折角ゆっくり話せると思ったのに…………謝ることだらけ。
 有彦にも後で何かしないと……気にするなと言ってくれた。でも、気が引ける。明日、学校へ行ったら真っ先にお礼を言わなくちゃ。

 明日、学校へ行ったら……………………。



 /9

 ―――気が付くと朝になっていた。
 雨は止み、窓からは光りがさす。

「……はぁ」

 ため息。ベットから起きあがる。頭は、まだ重かった。
 ……本当に嫌な夢を見た。
 ―――ヒトをバラバラ死体にする悪夢。
 でもそれは夢。実際にはそんなことはできない。

 コンコン。ノックの音。なるべく普通に、ノックの主に応えた。

「…………はい?」
「おはようございます。着替えを持ってきました」

 翡翠の手には私の制服がある。

「ありがとう、そこに置いといて。……直ぐに居間に行くから」
「…………はっ」

 音もなく歩いていく翡翠。

 ―――制服に着替え階段を下りると、琥珀さんが居間から出てくるところだった。

「おはようございます、志貴お嬢様! 今朝は早いんですね」

 笑顔のままのお辞儀。

「お風呂にでも入ってたんですか? 髪のセットがいつもと違いますね」
「え、わかりますか……?」
「整髪料もちゃーんと用意してありますから使って下さい。あ、ちゃんと女性用なんで安心してください! その髪型でも十分可愛いっすよー」

 ぽんぽんと話題を振ってくる琥珀さん。
 朝から元気だ。見ているととても気分が良くなる。

「でも、いつもと何だか髪型違いません?」

 そういえば、いつもつけているリボンをつけてない……。

「えっと……朝食すませたら整髪料、使わせてください」

 その時、あの白いリボンを……。
 気恥ずかしくて、つい声が小さくなってしまう。

「はい! 直ぐに朝食用意しますんで!!」



 /10

「おはよう姉さん、身体の具合は……?」
「うん、おはよう。ごめんなさい昨日は…………でももう大丈夫だから」

 精一杯の笑顔で応える。
 秋葉は遠慮がちに挨拶してきた。心配してくれるせいか、昨日のような固さは無い。

「昨日の事だけど、……公園で倒れていたとは本当か?」
「そうみたい……。琥珀さんが手伝ってくれたって聞いたけど」
「まるで他人事みたいだな。……気分を悪くしたら、屋敷の方に連絡さえしてくれれば迎えを出すぞ?」
「……そんな小学生じゃないんだから、大丈夫よ」
「それじゃあ、姉さんは小学生だな。一人で帰って来れなかった。少しは自分の身体を大切にしろ」

 ……むぅ。
 しかし、秋葉の言うとおり……、昨日は一人で帰って来れないほどの貧血だった。
 本気で、秋葉は怒っている。流石に……怖い。
 何とか話を……良いムードにしないと……。

「そ、そういえば秋葉! 貴方、浅上学院に通ってるんでしょ? 最近共学になったっていう……」
「…………最近? まぁ、最近か。3年前から、俺が1年の時に共学になったんだ。……元々浅上学院は中学から大学までのエスカレーター式だし」

 それが何? とお茶を吸いながら聞いてくる。

「だって……あそこって全寮制じゃなかった?」
「父と学園長の仲が良かったらしいからな、多少の我が儘は聞いてくれるらしい」

 きっぱり、そう言った。

「……お父さんが死ぬまでは、秋葉は寮に行ってたんでしょう? なんで今は家から通ってるの?」
「……………………え?」

 ―――秋葉が、言葉をつまらせた。
 すると窓際で人形のように立っていた翡翠が代わりに喋り出す。

「お嬢様。秋葉さまは以前からこちらでお過ごしでした。なので特別ではありません」
「あ、そうなの? ……でも大変ね。確かあそこって隣の県じゃなかった? やっぱり寮の方が楽なんじゃ……」
「姉さんを一人にしておくのが心配だから、帰ってくるんだよ!」

 じろり、と姿勢を正して見つめてくる秋葉。

「……昨日のようなことがあると知ったら尚更だ」
「……ごめんなさい」

 そんな険悪なムードが続いていると、食堂から助けの琥珀さんの大声が聞こえた。

「お嬢様ー! 朝食の用意ができましたー!!」
「あ、はい、行きますー!」

 駆け出す。が、

「屋敷では静かにしろ!!!」

 ……と怒鳴られた。

「あ、別にこれぐらいだったらいいじゃない……っ」
「姉さんは女性だろっ。もっと遠野の……」
「えっと、もう時間だからまた後、ね?」

 そう言って秋葉の説教から抜け出した。

 ……あ。
 琥珀さんはその光景を見ていつものように笑っていたが、窓際の翡翠も……。
笑いを堪える必要なんてないのに。

 ―――翡翠に門まで送られる。いってらっしゃいませ、といつも通りの台詞を言い、じっと私を見つめてきた。

「志貴お嬢様、……昨日はどうなされたのですか」
「昨日……? 大したことじゃないわ。ただ学校で気分が悪くなって早退して……」

 ―――早退して?

「…………公園で休んでたら、琥珀さんと出会ったの。秋葉の言うとおり、少しは自分のからだを大切にしなきゃね」

 笑顔を作って翡翠に頭を下げる。

「心配させてごめんなさい」
「……志貴お嬢様が頭を下げる必要はありません…………………………では、お気をつけて」

 翡翠の表情は、昨日より曇りがちだ。

 ―――学校へ坂道を下りる。
 そこを下りれば交差点。交差点が見えればすぐ学校である。
 まだ時間はたっぷりある。ゆっくり歩いていこう。信号機が赤になって止まった。

 ふぅ、と深呼吸する。

 見回せば、生徒達がぽつりぽつりと見える。学校についたら……まず、『彼ら』に会うだろうな。
 それは私が会いに行く面倒が省けるから都合が良い。
 お礼、……言うだけじゃいけないかな。何か奢るとか……。
 どうせなら何か作ってくれば良かった……お弁当とか。有彦がお弁当持ってくるなんて考えられないし。

 この時間、生徒以外の人はほとんどいない。
 ……ハズだった。

 ハズだったのに。



「………………………………………………………………………………な」



 そこにいたのは。

 ―――シロイ、男性。



 金の髪に、白い服。
 整った顔立ちに、朱い目。
 たった一度しか見たことのない彼は、何度も出逢ったような感じがする。
 でも

 それは、夢。

 夢の中の住人のはず。
 出逢ったことのないヒトのはず。
 逢えることはないヒトのはず。

 だって



 ―――昨日、私がバラバラに殺されたのだから。



 信号が青になった。
 生徒たちはあちらへ進んでいく。

 一人取り残される。
 行かないで、なんて言えない。
 彼らはその男性を通り越してゆく。

 彼は、ガードレールに腰を掛け、誰かを待っていた。
 優しそうな笑顔で、綺麗な笑顔で、

 ―――嫌。

 まるで恋人を捜すように、彼は待っている。

 そして、
 彼が、
 こちらを見た。

 ―――目が合う。

 すると彼はガードレールから腰をあげ、手を振った。
 私に。
 私に……?

 ………………来ないで……………………。

 信号が赤になった。
 車が走り出す。
 でも彼はやって来た。

「来ないで―――!!!!」

 大声をあげても、彼は消えなかった。
 私は背を向けて彼から逃げ出した。

 ―――彼が追ってきたとしても。



 走る。

 全力で走る。
 息が苦しくなって、心臓がばくばくなっている。
 それでも走った。
 走らないと、嫌な予感がするから。
 後ろを見ると、彼は歩いていた。
 私を、追ってきてる。
 彼を殺した私を、追って。

「いや………………」

 泣きそうになったが走って涙が消えた。

 何事もなく歩いてくる男性。



 ―――走らないと、殺されてしまう。



 ばたん……と私は倒れ込んだ。

 路地裏の、誰もいない鉄の部屋へ。
 足が悲鳴をあげている。でも立とうとした。
 立ち上がった途端膝のチカラを失って、どすんと倒れた。
 苦しい。足が痛い。胸が、頭が、身体全体が、ぜぇぜぇと息切れをしている。
 酸素が、足りない。足りないから頭が回転しない。
 考えられない。
 一つのことしか。

 ―――殺される。

「殺したのに」

 死んだのに。

 殺したのに。

 消したのに。

 殺したのに!!



 ―――カツン。
 路地裏に高い足音が響く。

「こんにちは。昨日は本当にお世話になったな」

 男は笑顔を浮かべて路地裏に入ってきた。
 ……逃げなくちゃ。
 足が使えないから手で、何とか逃げようとした。

「おーいここ、袋路地だぞぉ。しかも人気のない場所だからだーれも邪魔されない」

 よっぽど嬉しいのか、男は笑っている。
 周囲を見渡す。勿論誰もいない。助けを呼ぶにも呼べない。
 これでは、「殺してください」と言ってると同じ……。

「長かったな。ま、一日経たなかっただけそんな時間経っちゃいないか」

 カツン、と音を立てて男は近寄ってくる。

「んー、あん時は顔見る余裕なんて無かったからわかんなかったけど、…………結構可愛いな」
「あ、あ、なた……………………っ」

 声を絞って喋ろうとする。

「おっ、覚えてくれてた?」

 華奢だと思っていた身体は、意外とがっしりしていて逞しかった。
 腕を組んで、こちらにやってくる。近寄って、すぐ側に男の顔があった。
 金の髪に、朱い目。
 白い服を着て、白い肌をして、

 ―――間違いない。

「昨日、君に殺された男だよ」

「そ、…………どうやって、…………ば、バラバラになった人間が生き返るていうの…………ッ!!」
「人間じゃ無理だな。だって俺、人間じゃないし」

 ……え?

『俺、人間じゃない』

 彼は、簡単に自分が生き返った理由を言った。





if 黒い獣/2に続く