■ 1章 if 反転衝動/1



 /a prologue

 ……気が付くと、私は病院のベットにいた……。

 カーテンがゆらゆら揺れている。外はとってもいい天気。季節は秋。夏が終わったばっかりでまだ風は暑い。

「はじめまして。遠野志貴ちゃん。回復おめでとう」

 初めて見るおじさんは、そう言って私に握手を求めてきた。白衣を着たおじさん。それはお医者さんだというのがすぐわかった。だってすぐそばに看護婦さんもいる。

「志貴ちゃん。先生の言うことがわかるかい?」
「……いえ。私……どうして病院にいるんですか……?」
「覚えてないんだね。君は道を歩いているとき、自動車の交通事故に巻き込まれたんだ。胸に硝子の破片が刺さってね。とても助かるような怪我じゃなかったんだよ」

 笑って、お医者さんはそう言う。
 胸、刺さった?
 看護婦さんみたいに膨らんでいない胸をそっと触る。
 気分が、悪い……。

「眠いです……眠っちゃだめですか?」
「ああそうしなさい。今は無理しなくてもいいからね」

 お医者さんは笑顔にまま。

「先生、一つ聞いていいですか」
「何かな、志貴ちゃん」

 何を笑っているのかわからなかった。
 どうしてそんな、カラダをしているのか。―――口元を走っている線は、何?

「どうして、そんなに体中ラクガキばっかなの? 部屋もところどころヒビだらけで、今にも崩れちゃいそう……」

 お医者さんはほんの一瞬だけ笑顔を崩した。
 けど、すぐ笑顔に戻って、歩いていってしまう。

「…………やはり脳に異常があるようだ」

 お医者さんは私に聞こえないように看護婦さんにそう言った。

 誰にも見えないナニカ。
 私だけの世界。
 私だけが許された世界。
 知りたくない、世界…………。

「…………変なの。みんな、体中にラクガキしてる」

 見ているだけで気持ち悪いラクガキ。
 ベットにもラクガキがある。

「…………あ」

 すぐ傍にはたくさんの美味しそうな果物がおかれていた。
 私はその果物には興味はいかなかった。あるのは果物ではなく、そのとなり。
 となりにあった果物ナイフでラクガキをなぞってみた。
 力も入れてないのにナイフは沈み込む。

 ごとん。

 重い音をたてて、ベットはきれいに―――裂けた。

「え」

 ラクガキにナイフで切ると、何でも切れた。
 力なんていらない。ベットも椅子も机も。……おそらく人間も切れてしまう。
 ラクガキは私にしか見えない。みんなには見えていない。
 みんなは見えてないから知らない。―――こんなに世界が崩れやすいってことを。
 なのに私は知っている。―――こんなに世界が崩れやすいってことを。

 ……私は、ラクガキだらけの脆い世界に生きている。



 /1

 ―――季節は秋。台所から啓子お母さんの声が聞こえてくる。もういつもの登校時間はすぎてしまっていた。

「志貴ちゃん。早くしなさい」
「はい、今出ますー!」

 返事をして、今まで私の部屋だった部屋にお礼を言った。
 制服を着て、大事な物をつめこんだ鞄を持って、……学校を登校するにはちょっと大荷物だったけど、引っ越しなのだから仕方がない。
 ……いいや、これは引っ越しなんかじゃない。本来の自分の家へ帰るんだ。
 玄関を出て、今までの自分の家を見る。八年間過ごした家を、庭を、母を…………。

「……志貴ちゃん」
「……いってきます。お母さん…………お元気で」

 見送りに来た啓子お母さんは淋しそうに私の名前を呼んだ。
 もう此処には帰ってくることはないだろう。だから『いってきます』と言ったのは可笑しいかもしれない。

「今まで……本当にお世話になりました。お父さんと都古ちゃんに……言っておいてください」

 お母さんは、頷くだけだった。凄く悲しい顔をしていた。―――私も悲しい気持ちになる。

「遠野の屋敷の生活は大変でしょうけど、頑張ってね。貴女は身体が弱いのだから、無茶しちゃだめよ」

 大丈夫。と返す。他に返す言葉が見あたらなかった。

「ほら……朝から泣かないの」

 母にそう急かされ、もう一度礼をすると、私は八年間慣れ親しんだ有間の家を後にした。

 ―――八年間。
 本当なら私は八年前交通事故で死んでいたという。
 だが奇跡的に生きてしまった私は、遠野家から離れた有間家で過ごしてきた。小学三年生までずっと暮らしてきた屋敷から離れ、高校二年生になったら有間の家を離れる。
 ……今更、本当の家である遠野家には戻りたくはなかった。このまま有間の家で暮らす方が幸せだったからかもしれない。有間家の娘として生きていけたならば……。
 本当の言えである遠野家は、自分の家にも関わらず、豪華な屋敷で、父の教育も厳しかった。
 事故後、回復し、有間へ養女に行けると聞いた時、正直私は喜んでいた。一般家庭に憧れたお嬢様ならではの感情である。
 それからは、ごく普通に小学生を楽しみ、中学生を楽しみ、ごく普通の女子高生を楽しんでいた。
 だが、数日前…………遠野家当主から、手紙がやってきた。

『遠野の屋敷に戻ってこい』

 ひどく短くて冷たい手紙だった。
 私は後悔のない生活をこの八年間過ごしてきた。だが、一つだけ後悔が残っていた。それがいつも気がかりでたまらなかった。
 それは、一つ年下の、遠野家に残してきてしまった弟。

 弟はきっと私を恨んでいるだろう。
 厳しい家から逃げ出してしまった長女。きっと父のスパルタ教育の矛先は弟……秋葉に向けられたに違いない。

「……はぁ」

 ちょっと大きめな眼鏡をかけ直してため息をついた。
 ―――この眼鏡は、大事な人から貰った大事な物。
 これをしていると、……事故から回復した日から見えてしまったあのラクガキが見えないのだ。この眼鏡のおかげで事故後はずっと平和に過ごせてきた。ただ、事故の後遺症としてか身体が凄く弱くなってしまったが…………。
 今日、学校が終わったら遠野の屋敷に向かう。
 まずは学校だ。
 いけない、自分は遅刻してるんだ。
 ダッシュで通学路を走った。



 /2

 学校から家まで走ってきた。なんとか遅刻は免れる時間だった。
 自分は足は結構早い方で、もし身体がもう少し強かったなら陸上部に入ってもよかったかもしれないと思っている程だ。
 ……カラダがツヨかったなら、か。

 ―――小学生の頃はずっと体育は休みだった。『志貴ちゃんいつも走らなくていいな』とか他の女の子達に言われたりもしたが、今はもうすっかり回復した。時々、胸が痛むぐらいにまで……。
 ……それ、回復したことにならないか。
 今、いくらいいタイムが出たって遅刻してはどうにもならない。裏門を素早く抜け、二年に教室に向かう。
 女子で遅刻するのは私ぐらいで、いつもは一人で裏門を通る。でも今日は、私より遅い女子は沢山いた。

 ―――教室にたどりつく。
 深呼吸をして、窓際の自分の席につく。すると、あまり聞き慣れない声の男子が挨拶してきた。

「お早う。遠野さん」
「…………え?」

 突然の事で戸惑いながら振り返る。振り返った先には、茶髪の男子生徒がいた。

「遠野さん。さっき担任が探してたよ。なんか家の事で話があるとかないとか」
「あ、ありがと……。やっぱり引っ越しの手続きかな……」

 ちゃんと昨日のうちにやっておいたはずなんだけどな……。ちゃんと先生も確認してたし……。
 ……話は終わっても同じクラスの男子生徒はじっと私を見ていた。

「……えっと……おはよう、弓塚くん」
「ん、おはよう! 遠野さん。……俺の名前、覚えていてくれたんだね」

 ホッとした顔をして、クラスの男子……弓塚くんは笑った。

「うん。クラスメイトの名前は覚えてるよ。でも、その……弓塚くんとはあまり話したことなかったから……」
「そうだね。俺もちょっと遠野さんに話しかけるの不安だったんだ」

 言って、彼はどこか嬉しそうに笑った。
 学生服をきっちりと着こなしているこの男子は弓塚くん。クラスでも目立った存在で、男子の中でも明るい性格は好かれてるし、性格は真面目で明るい好青年といって女子も黙ってるわけがない。
 私はあまり弓塚くんとは親しくはなかった。今年同じクラスになっただけで、あんまり話す機会がなかった。
 弓塚くんはとっても元気そうで、見ているだけで楽しくなるような男子で……。
 ……そこまでは知っているけど、私は彼とはあまり話した事はなかった。社交性を持っていない引っ込み思案の私が、仲良くなれないだろうと思いこんでいたから……。
 話し上手な弓塚くんに、どちらかと言うとお昼寝や読書の方が友達な私を覚えていてくれる。……なんか不思議だった。

「あのさ、遠野さん」
「…………はい?」

 小さな声で返す。……やっぱり話慣れてない人と話すのは怖いし。

「ちょっと聞くけど、もしかして遠野さん……引っ越しちゃうの? 転校とか……」

 言いにくそうに弓塚くんは聞いてきた。

「……あの、違うの。住所が変わるだけで学校は変わらないから。引っ越してもこの街だし、ちょっと方角が変わるぐらいで……」
「あ、そうなんだ!」

 ホッと胸を撫で下ろす。……何か安心したらしい。

「……そっか、良かった」
「? ……何が、よか……?」

 ……そういえば私、引っ越しの事については、彼にしか言ってなかったような……。

「いよぉう、志貴!!!」

 ―――と、いきなり教室の外から大声でやってくる『彼』。その声にクラスにいた殆どが振り返る。

「おっ、弓塚じゃんか。めっずらしいな、お前が遠野と話してるなんて」
「…………おはよう。乾」

 いきなり現れた男子に、弓塚くんは元気のない声で挨拶した。

「それにしても逆ナンとは珍しいもの見ちゃったなっ、やっぱ朝は早く来てみるもんだな!」
「…………バカ。弓塚くんとは、先生からの伝言を聞いただけよ」

 朝からこの男は愉快な挨拶をしてくる。
 底抜けで明るい大声で、弓塚くんとは違った元気さを持った男子。彼が、私の小学生からの知り合いの―――乾有彦である。
 オレンジ色に染めた髪に、耳にはピアス。喧嘩はするし、目つきは悪いし、制服だってまともに着たことはないし。今だってシャツのボタンも全部とめてなくて、胸出しちゃってるし。まだ夏だからいいけど……これでも先生には注意されてるのに。
 進学校の我が校に、自由きままに過ごしている『不良』。朝からうるさい男、それが有彦だった。
 乾を無視して自分の席に座る。ちょっとため息をついた。

「……色々こっちは込み合ってブルーな朝なんだから、近寄らないでくれる?」
「あのな、志貴ちゃん。どうちてキミはそんなにボクにだけ冷たいのかな?」

 大げさにため息をつく有彦。
 私はわざと彼に冷たくしてるわけではなく……ただ彼と話してるといつもこうなるだけである。
 それはきっと、知り合いだから出来る技で、……彼しか知り合いのいない私は彼にだけ冷たかった。

「ところで、有彦。どうして今日はそんなに早いの?」
「早起きしたからだ」
「……そうだけど。早起きする事自体異常じゃない? そんな健康そうな貴方を見たのは久しぶりなカンジだし」
「そうだな、最近夜遊べないからだな。ここんとこ多発してるだろ、通り魔事件」

 ……。
 ……そっか。巷ではそんなニュースが流行ってたんだっけ。
 ここ数日間、ずっと引っ越しで頭がいっぱいだったから、ニュースなんて見なかった……。

「そんなに多いの? その通り魔……」
「多いもんてもんじゃねぇぞ。被害者はみんな若い女性で、もう八人被害者出てるんだぜ?」

 ……。
 ……そんなに沢山?

「若い女性なら、有彦貴方が狙われることはないでしょ。…………もしかして?」
「俺はやってねぇよ!」

 なんて、小学生のような事を話している。わかりやすい性格である。

「全員の体内の血液が著しく失われている………………事件の事だろ? 自分の街のニュースぐらい覚えとけよ。乾」

 弓塚くんが有彦にかわって私に説明してくれた。
 苦笑いして弓塚くんはそう言った。どうやら有彦と弓塚くんは仲が悪いわけではないようだ……。
 さっき挨拶された時、弓塚くんは一瞬暗い顔をしたので、もしかしたらと思ってしまった。でも私もその『自分の街のニュース』を知らなかったり……。
 ―――そして、予鈴がなる。

「授業はじまるよ。早く席つきなよ」

 そう言うと有彦と弓塚くんは自分の席に戻っていった。



 /3

「―――遠野。書類に不備があったからあとで職員室に来なさい」

 HR終了後、担任に去り際に言われた。直ぐ終わることなので、休み時間中にすませてこようっと。

 教室から廊下に出て、
 二年の教室は三階だから職員室のある一階まで下りて、
 少し急げば休み時間に済むから大丈夫だ。
 早速ダッシュで階段を…………

「あっ……!?」

 ドン、という衝撃を受け、尻餅をついた。
 頭から思いっ切り何かにぶつかってしまった。いきなりのことで頭がクラクラする―――。

「いた、ぁ…………」
「だ、大丈夫?」

 どうやら曲がり角で通りすがりの生徒と正面衝突してしまったらしい。
 ……すぐ近くから声がする。聞いたことのない男声だった。

「っ、すいません! 大丈夫ですか!?」
「あ……僕は大丈夫だけど、……君こそ怪我はない?」

 自分であたっておきながら、声のした方に謝った。
 男声は、こっちを非難してくるような響きはまったくない。凄く、心配そうな声で……。

「ハイ、ごめんなさいっ……私は大丈夫です! けど……」

 ふるふると頭をふって、急いで立ち上がる。……だがフラフラした頭はぐらりと傾いた。
 立ち上がろうとしたけど、今度は前に倒れてしまう。

「おっと……」

 どこの誰だか知らない男子生徒は、私を支えてくれた。
 彼の胸に頬があたる―――。

「あ、すすすいませんっ!」

 顔を見上げる。
 …………見上げた先は、蒼い髪に眼鏡の男子生徒がいた。
 彼から離れて、額に手をあてた。すると痛みが走った。たんこぶが出来てしまったようだ……。

「僕は大丈夫だから。…………それより君、オデコ腫れ上がってるよ」
「ごめんね。僕がぼうっと歩いていたからぶつかっちゃって……オデコ、痛いだろ?」

 申し訳なさそうに、男子生徒は私の顔を覗き込んできた。
 どうやらこの眼鏡の男子生徒は……三年の先輩のようだ。二年生ではこの顔は見たことがない。……なんて、弓塚くんも思わず覚えてないって言いそうになった私が言っていいことなんだろうか。頭を下げる。

「いえ! いいんです。私のほうからぶつかったんですから……こちらこそ先輩、すいません!」
「ダメだよ、廊下は走っちゃ。僕だけがボーっとしてるわけじゃないんだから、またぶつかるかもしれないだろ?」
「はい、気を付けます………………先輩、お怪我は?」
「僕は全然平気だけど。それより君の方がすごく派手に転んだみたいだけど、本当に大丈夫?」
「はい……大丈夫だと思います……」

 と答えたけど、まだお星様が見えていた。かなり派手に頭うったらしい……。
 ……。

「……えっと、それじゃあ、私はこれで」

 スカートの埃をはたきながら、職員室に足を進める。けれど眼鏡の先輩は、じーっと私を見つめてきた。
 ……。

「えっと、……?」

 ……どこの先輩かな? もう一年半この学校にいるんだから、一度は見たと思うけど……。

「あの……私、職員室……行くんです。それじゃ……あの、保健室、痛いんだったら行ってくださいね? 私、二年三組の遠野です」

 はい、と先輩は素直にうなづく。
 ―――なんだか、すごく優しい先輩のようだった。

「じゃ、志貴ちゃん。廊下は走っちゃいけないぞ」
「はい、わかりました」

 そう返して、手を振った。

 ―――あれ?
 私、この人に名前言ったっけ?

「…………あの、私……先輩とどこかでお会いしましたか?」

 振り返って、思わず聞いてしまった。
 それを聞いて先輩はえぇ!? と驚いてちょっと表情が曇る。

「もしかして、僕のこと覚えてない?」
「……え?」

 というより、会った覚えがないんですけど……?

「あの……」

 その、目は……どこかで……?

 ―――そういえば、何度か挨拶した…………?

「…………………………シエル先輩、ですか?」

 ……恐る恐る、名を口にする。

「覚えててくれたんだね! 志貴ちゃん、ぽーっとしてちゃだめだって言ったじゃないか」

 先輩は笑う。
 笑ってくれた。……どうやら、怒ってはいないようだ。
 ……そんなに、ぽーっとしてはいないと思うけどなぁ。

「それじゃ、またお昼でも会おうね」

 ぺこりとお辞儀をして、シエル先輩と別れた。―――別れた時、予鈴がなった。
 休み時間中にすますことはできなかったが、そのまま職員室に向かう。
 授業中の教室の中に入っていくのはちょっと抵抗があったけど……オデコをさすりながら職員室に行った。



 /4

 ―――お昼休みになり、私は食堂へ向かう。
 食堂の席はもう殆どうまっていた。シエル先輩に言われたとおり、ゆっくり廊下を歩いていたら席なんてなくなる。パンの所では、既に『戦争』は終わっていた。一応席があるかどうか確認をし……。

「いよぉう、志貴!!」
「……」

 ぶんぶんと手を振ってきた生徒は、オレンジ頭のクラスメイト。
 ……こんなところでも、大声で名前を呼んで……。
 でも彼の隣の席は空いていたから、仕方なくそちらへ向かう。

「……人の名前、大声で言うのやめてくれる?」
「おーい、だけじゃ誰を呼んでるんだか判らないだろ?」

 確かにそうなんだけど。……でも一瞬、食堂にいるみんなの目が私の方に向いたんだよ?
 そんな愚痴を零しながら席に着こうとすると……テーブルには、有彦と意外な人が座っていたのに気付いた。

「……あれ、シエル先輩?」
「あれ、志貴ちゃんじゃないか」

 二人してマヌケな声でお互いを確認しあう。

「…………なに? 先輩、遠野のこと知ってるの?」
「うん。今日も一度会ってるんだ。廊下でどーんとぶつかっちゃって」

 後輩の有彦に、とても仲良さそうにシエル先輩は話した。
 同じ男でも有彦の方が背が高いし体格もいいので、一見見るとシエル先輩の方が後輩のようだ。……それでも、シエル先輩は私よりは背がある。女子が男子に勝てるわけないし、私は特別小さいのもあると思うけど……。

「……その、すいません……」
「あぁっ、別に謝ってほしいんじゃないよ!」

 それでも私は頭を下げた。
 ……先輩は笑顔だった。全然怒ってない。
 ……それはこの人は笑顔に独特な雰囲気を持っている。見ているだけで落ち着く、そんな力を持っていた。
 …………昔からこういう人だったと思う。

「でも意外だなぁ。乾くんと志貴ちゃんが知り合いだなんて。同じクラスなの?」
「その通り!俺と遠野は小学4年の頃からずっっっっっと同じクラスで腐れ縁&大親友っすよ!」

 ……あ、そうなんだ。腐れ縁は認めるけど、小4から&親友ってのは知らなかった。
 騒いで食事なんて出来そうにないけど、有彦とシエル先輩の真ん中に座らせて貰った。
 ―――シエル先輩と有彦は親しげだった。まだ数回しか話したことがない私は、二人の話を聞きながら力うどんを食べていた。

「ところで、さっき先輩とぶつかったとか言ってましたけど?」

 有彦がその話をし始める。

「あ、僕がぼーっとしてたのと志貴ちゃんがちょうどぶつかっちゃったんだ」
「はぁ、…………人をあんまり触らないコイツがねぇ」

 ……触らないとは失礼な。
 触る方が失礼なんだ。ずっとベタベタしてるよりもいいじゃない。それに急いでたんだから、先輩にぶつかろうとしてぶつかったわけじゃない。
 でも次には、有彦の声は真剣に私を気遣ってくれるものになる。

「………………もしかして、志貴。また貧血か」
「……違う。私が走って職員室向かってたのが悪いの。走るくらい元気だったんだから」

 有彦の気遣いはありがたいけど、……ちょっと有彦は心配性すぎるところがある。それは有彦のいいところでもあるけど……。

「……そっか。引っ越しさわぎで疲れてるわけだな」

 有彦は腕を組んでうなずく。
 ―――が。

「…………志貴ちゃん、転校!?」

 なんて、シエル先輩はいきなり大声を出して驚いた。
 弓塚くんの時もそうだったけど、……みんな引っ越し程度で驚きすぎだ。

「……違います、先輩。同じ街で同じ学校です。……けど、住む家が変わるだけです」

 養女の有間の家から、本家の遠野の大きな屋敷へ。
 ……この街の人々は、遠野の屋敷をどう思うだろうか。広い敷地に、洋館。しかもいくつもの会社の株主、大金持ち……丘の上の怪しげな屋敷と思っているだろうか。
 今日からそこが、私の家。
 八年間、足を入れたことがなかった家。

「え……、志貴ちゃんってあの豪邸のお嬢さんだったんだ……」
「ん……豪邸っていうかなんていうか……でもあそこの娘だったりするんです。はい、すいません……」

 ……何故か謝りたくなる。

「ま、最初は戸惑うのはしょうがねぇよ。それは引っ越し以外でもそう思うぜ」
「うん……」

 ―――きっと最初だけだろう。緊張するのは。
 あの大きな敷地には沢山の人が住んでいる。お手伝いさんや、親戚や、弟が…………。

「……もしダメだったら、有彦のウチ行くから」
「いつでもOKだからな。そん時は夕飯お前に頼むからな」
「………………やっぱ行くのやめる」

 私はいつも何か嫌なことがあると、乾家に逃げ出していた。今だってそんな避難場所がある。だから、不安なことはない。そんな私と有彦の会話を聞いて、シエル先輩はあまり歓心しないことのように、顔を曇らせた。
 ……それは、私が女で有彦が男だからだろうか。

「……乾君ちに、お泊まり?」
「あ、あの……。私とこのバカ、キョウダイみたいなもんですから。それにバカのお姉さんも一緒に住んでるし!」
「姉貴は姉貴で『可愛い妹ができた』とか言ってどんどん連れてこいとかかますし……ったく、なんでもかんでも俺にやらせるし!」

 有彦は握り拳を震わせる。

「………………えっと、ご飯を食べ終わったので失礼させていただきます。じゃ、ごちそうさま……」

 先輩はぺこりとお辞儀をして、席を立った。―――テーブルには有彦と二人きりになる。

「…………ごめん。折角先輩と食べてたところ……」
「ま、男二人より女と話してたほうが先輩もいいだろ」

 ずずず、とうどんをすする有彦。長話のせいか、すっかりうどんは冷めてしまっているようだった。

「それでよ。…………本当のところ、どうなわけ?」

 話の間、私のうどんもやっぱり伸び気味で冷めてしまった。制服を汚さないように食べる。

「……何が?」
「遠野家から放されて、八年間も別々に住んでたのに、いきなり帰ってこいだろ? 一人娘をどーいう目で見てるんだ、お前の父」

 ……どうだろ。たとえ遠野家の跡継ぎが欲しくても、きっと弟がいるから私はどうでもいい。そう思ったんだろう、父は。病弱で、すぐ貧血で倒れる娘はいらない……と。

「でも、大企業の父だったら、その病気な女の子を放っておくか? フツー、どんなに金かけても大切にするね」
「……そんな父じゃなかった。それだけの話でしょ」

 きっと……『娘になんか構ってられない』。
 ……そういう父だったんだろう。

「……」
「……貴方が黙ると私、何も話せないんだけど」

 怒ってるわけではない。ただ、話題作りの苦手な私は……有彦の話しで自分を作っていける。
 だから有彦がシリアスになるのは、何だか嫌だった。
 もちろん、有彦の勝手だっていうことはわかっていたけど……。

「……………………何かあったらすぐ言えよ」
「……………………うん」

 有彦は両手で丼を持ち、冷めた汁を飲み干した。私は汁は残して、有彦と一緒に教室に向かった。



 /5

 一日の授業が全て終わって、放課後となった。
 外は真っ赤な夕日。痛いくらいの朱に目がズキズキする。
 帰ろうと教室から廊下に出た途端、見知った顔の人に出くわした。本来なら違う階の人が、まるで私を待っていたかのように……。

「……あれ、シエル先輩? どうしたんですか」
「あのね。いい和菓子が入ったんだけど、他に食べる人がいないから誘いに来たんだ。もしよかったら一緒にどうだい?」

 ……。

「……有彦、いないんですけど?」
「ああ。乾君ならさっき出てくの見たんだけど……止める前に行っちゃってさ。もし暇だったらでいいけど」

 にっこり、とシエル先輩は笑った。

「……あの、………………私でいいんですか?」
「うん。志貴ちゃんだからいいんだよ」

 ……。
 そんなこと言われたら……付き合うしかないじゃない。
 ちょっと赤くなりながらも、夕日だからと誤魔化してシエル先輩の後をついていった。
 ―――着いた場所は、畳の部屋。一年半通った学校で、初めて入った部屋だった。
 ……うちの学校ってこんな部屋あったんだ。
 夕日の光りが綺麗に部屋を差している。上履きを脱いで上がると、畳独特のギッという軋んだ音がした。
 先輩は畳に上がると色々用意をしだした。

「一応、茶道部の部室になってるんだ。まぁ僕が入るまで使われてなかったみたいだけど」
「でも私、茶道部じゃないから他の部員さんに見つかったら……」
「それは大丈夫。茶道部といっても僕以外に部員はいないから」

 先輩は柔らかに微笑んで、湯飲みにお茶を注ぐ。
 なるべく音を立てないように…………お茶を飲んだ。シエル先輩が貰ったというお菓子も頂く。
 私の作法を見て、シエル先輩が呟いた。

「……志貴ちゃん、思いの外上手いね……」
「前いた家は茶道の家門だったんです。だからこういうのには慣れてて……」
「そうなんだ! じゃあ茶道部入らないかい? 僕、茶道部らしいことっていったら、こんな風にお茶飲むことぐらいしか出来ないから」
「……でも、そんな詳しくはないんです」

 ……きっと部活に入っても、来れないだろうし。
 眼鏡の下のちょっと真剣な目で、私の顔を覗き込んでくる。

「ねぇ。前にいた家って…………一体どうして引っ越すことになったの?」
「…………その、簡単の言っちゃうと……本当の家でゴタゴタしてて……なら親戚の家に預けちゃえ、ってことです」

 本当に、簡単に、楽天的に説明するとそんな感じ。
 はぁー、と何を歓心してるのかわからないけど、シエル先輩は言った。

「でも、お昼休みに乾君が気にしてたとおり……最初に緊張は付き物だからね。まずは慣れってことさ」
「はい。…………わかってる、つもりです……」

 ……ちょっとナマイキな言い方になってしまった。
 お菓子をつつき、お茶を飲む。―――それだけである。電気を付けず、夕日の赤い光りだけの畳の部屋。まるで、元いた有間の家のようだった……。

「……なんだか志貴ちゃんのことが知りたくなっちゃったな。何でもいいから話してくれると嬉しいんだけど」
「あ、の……私の話なんて全然面白くないですから……」

 先輩は姿勢を正してこっちを見て、うん、と先輩は相槌を打った。……しょうがない。学校である出来事を話すしかないでしょう。

 ………………先輩はどんな話でも盛り上がった。学校のこと、趣味のこと、今日起きたどうでもいいこと。
 それを一つ一つ聞いてくれるシエル先輩。とてもイイヒトだと思う。

「ほら……やっぱり私、面白くないでしょう?」
「そんなことないよ。志貴ちゃんは志貴ちゃんらしい面白さがあるよ。ちょっと控えめだけどさ」

 ……よく言われます。
 主に、有彦に。

「…………あの……先輩のことも、私知りたいです」
「僕の話は全然面白くないから。じゃあ帰ろうか」

 ―――あぅ。
 きっぱり綺麗に断られた。
 先輩は立ち上がった。ずっと正座だったけどすぐ立てたのは、流石茶道部。
 送っていこうか? と言ってきたけど、今日から帰る方向が違ってしまって先輩と一緒には帰れなかった。
 玄関の所でまた明日、と別れた。

 真っ赤な夕日は、どんどん『黒』に近づいてくる。

 我が家へ向かうため、正門からでて住宅地に通じる交差点に出る。
 反対方向に有間の家があったせいで、こっちの方向には全然来たことがなかった。
 昔……屋敷があった場所を思い出し……進み出す。



 /6

「あ……」
「……遠野さん?」

 交差点のところで、ばったりと見知った顔に出会した。
 同じクラスの……今日少し話をすることが出来た男子の、弓塚くんだった。

「あれ、遠野さん。確か反対方向だったよね、家」
「あ、うん。昨日までそうだったけど、今日からこっちの方向に引っ越したから……」

 そう、朝説明したと思う……。
 それを聞いてぽん、と手を叩いて納得する弓塚くん。

「そっか! 遠野さん、本当は丘の上の城の王女さまだもんな。俺と乾ぐらいしか知らない秘密だったけど、これじゃすぐみんなにバレちゃうな」

 ―――夕日の向こう。丘の上の城こと……遠野の屋敷を見る。
 ここからではイマイチ見えないけど、すぐ歩けば急な坂道が現れて、その上には妙な屋敷が建っている。
 ……それが、これから私が住む家。
 元々、私が住んでいた家だ。

「でも大丈夫? 八年間も行ってないんだから、不安じゃない?」
「そうね…………実際不安はあるけど。今帰ろうと思ってるのに他人の家におじゃまするみたいで……」

 弓塚くんは、ちょっと俯いて私の話を聞いていた。
 何故だかなかなか顔を上げずに……。

「…………弓塚くん?」

 放っておくわけにもいかず、私もずっと彼を見ていた。―――と。

「…………遠野さん!」
「は、はい?」
「そ、その……俺の家って坂を行くまでが同じ道なんだけど……」
「そうなの? じゃあ一緒に行かない?」
「…………え?」

 目をきょとん、とさせる弓塚くん。
 しばらく固まった後、ニカっと笑った。

「ちょうどよかった……私、こっちあまり行ったことがないから……案内してくれる?」
「ああ! それじゃああっちの道に行こう! 坂までの裏道知ってるから!!」

 ……いつもクラスでこっそり聞いている、元気な弓塚くんの声になった。
 弓塚くんの横に並んで歩く。道を案内してもらいながら、色々な話もして……。

 ―――弓塚くんは、本当に一緒にいて楽しいタイプだと思った。
 だから友達も多いだろうし、女の子にも人気があるのかも……。だからだろうか。こんな私と一緒に帰ろうと言ってくれたのは。

「…………?」

 話をしていると、弓塚くんは突然思い出し笑いのように笑みをこぼした。

「なに? 私、変なこと言った?」
「あ、違うよ。……たださ、俺。明日から遠野さんと一緒の通学路なんだな、って思って」

 本当に嬉しそうに、弓塚くんは笑う。私は彼の笑顔を見る。
 とっても嬉しそうに笑う彼に、私も微笑み返す。

「その、さ。……俺、遠野さんと同じ中学校だったの、覚えてる?」
「え……」

 言われて、気付いた。
 今まで幼馴染みは有彦しかいないと思っていた。だが改めて考えてみると……違う。弓塚くんは、同じクラスになったことないけど、同じ中学校だった。

「やっぱり忘れてたか……」
「あ……ごめんなさい…………」
「無理もないよ。だってあそこ、一学年の人数がヤケに多い学校だったし、同じクラスになったことなかったし……」

 気にしないで、と言いつつ、……やっぱり弓塚くんの表情は暗かった。

「…………ごめんね」
「いいって。……………………今、こうやって同じクラスにいられるんだし」

 ―――黙る。なんだか雰囲気が重くなってしまって、何気ない会話が切れてしまった。
 元々、弓塚くんの話を聞いていただけの私が、話題なんて作ることができず、……ただ、歩いていた。

「―――俺、遠野さんとずっと話せたらいいなって思ってた」

 ……どこか思い詰めた声。なんだか淋しそうにも見えた。

「うん。私も弓塚くんと話せて嬉しいよ」
「ホント!?」
「……これから通学路同じになるんだから、毎日話せるね」
「あぁ! ………………でもきっとダメだな。遠野さんには乾がいるからな……」
「………………あ、あのバカの事なんて考えなくていいんだけど」

 ―――苦笑いをして、……遠慮がちに返すと、弓塚くんは私から離れていった。

「え、…………そのっ、弓塚くん!」

 急に離れてしまったのにびっくりして、私は弓塚くんの名前を叫んだ。

「それじゃ、俺の家こっちだから」
「あ……そっか」

 仕方ないか、と弓塚くんの家の方を向いて立ち止まった。

「………………また明日、会おうね」

 笑顔で、弓塚くんは別の道を歩いていった。

 夕日は私の背に。
 既に黒い世界になった方へ、弓塚くんは歩いていく。
 見えなくなった所で、私は夕日の……屋敷の方へ向いた。

 坂を上れば遠野の屋敷。
 八年ぶりの我が家。

 今まで経験をしなかった緊張感が身体を襲った。





if 反転衝動/2 に続く