■ さわれぬ神 憂う世界 「序章」


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 夏の終わりを告げる風が、山の奥を掠めた。蝉の声は弱まり、代わりに木々のざわめきが耳を洗う。
 上門 圭吾(かみかど・けいご)は、気まぐれで選んだ獣道に迷い込んだ。軽い探検心のつもりだった。その先で見たのは、まるで時間から切り離されたような清廉な屋敷。そして、そこに座る少年の姿だった。
 白い肌。黒く整った髪。墨の香に包まれた静謐な中、少年は畳に正座し、筆を執っていた。
 手がなぞるのは経文だろうか、呪文だろうか、幼い圭吾には読み解けない。ただの習字には興味がなく、そこにあった少年の表情が圭吾の胸を強く打った。
 無表情。無感情。人形のように冷たく、完璧な顔立ち。
 なのにその目だけが深く淀んだ湖の底のようで、ひどく寂しい。
 圭吾は思わず足を止め、見つめた。自分の存在に気づいたのか、少年の筆が止まる。
 瞬間、互いの世界が交わった。
 言葉にするにはあまりにも唐突で、あまりにも拙い始まりだった。
「一緒に、俺と遊ばないか?」
 声が震えた。それは臆病からではない。人形のような少年に話しかけるという緊張からだ。
 少年は無言のまま圭吾を見つめ、小さく瞬きをして問う。
「遊ぶ。何を?」
 本当に分かっていない声だった。
 圭吾は驚き、そして笑った。どこかくすぐったくなるような気持ちだった。
「鬼ごっことかさ、なんでもいいんだ。ただ……お前、凄くつまんなそうな顔してたから」
 少年の眼差しが揺れた。
 感情というものが初めて心に触れたような、壊れそうなほど繊細な変化。
 名前は、と圭吾が聞けば、「……とうが」と彼は答えた。
 名を聞いただけでその響きが彼の姿に似合いすぎていて、圭吾は自然と笑顔になる。
「とうが……かっこいい、綺麗な名前だな。お前にぴったりだ」
 言葉は全て本心だった。圭吾は少し砂で汚れた掌を少年に向けて差し出す。
 彼の手から筆が音もなく滑り落ちた。初めて自分の手で手放したかのように。

 それからというもの、圭吾は幾度となく山奥の館へ通うようになった。
 草の生い茂る獣道を抜け、苔むした塀の隙間から裏手に回る。陽の傾きに照らされた縁側にいつも彼がいた。
 膝を折り、筆を握り、静かに経をなぞる。息を殺すようにして、微動だにせず在るその姿は、結界の中で何かに封じられた人形のようだった。
「なあ、今日はかくれんぼしようぜ。裏の竹やぶ、けっこう広いんだ。行こうよ」
 無邪気な提案に、燈雅はふと顔を上げた。
「……外。今日も、出ていいのか?」
「いいだろ? だってここ、牢屋じゃないんだからさ」
 少しの間だけ思案するように瞬きをし、立ち上がる。嫌とは言わなかった。ただ静かに、圭吾の背を追う。
 まるで紐をつけた風船のようだった。
 地に足をつけて跳ねるように走る圭吾に、ふわりと引かれて、風に漂うようについてくる。
 最初は歩くことすら不慣れな様子だった。草を踏む音に立ち止まり、枝葉が肌に触れるたびに目を細める。この世界そのものが彼にとって異界であるかのように。
 風が吹き、木々が揺れ、葉が擦れる。そのたびに、彼は耳を澄ませる。鳥のさえずり、虫の羽音、圭吾の笑い声。その全てが、彼にとって初めての旋律だったのかもしれない。
 柔らかな風が黒髪を乱したときも、裾が泥に汚れたときも、ただ小さく瞬きを繰り返す。
 石に躓いて倒れかけた瞬間、圭吾の手が彼を支えた。
 そのとき、笑った。
 ぎこちなく、けれどその笑みは、氷の中に埋もれていた光のようだった。圭吾には、眩しかった。胸の奥が熱くなるほどに。

 仏田 燈雅(ほとけだ・とうが)は、仏田家という千年の血を継ぐ魔術の家に生まれた。
 その生は選ばれし器として定められたものであり、愛も情も不要とされた。ただひたすらに力を蓄えること。そうして精製された存在に、外の世界など必要ないと誰かが決めた。
 燈雅自身は言う。
「仏田家の者全てが軟禁されて育ったわけじゃない。ただオレは、出てはいけない子供だった」
 生まれつき病弱で、幼い頃は寝たきりの日々だったという。幾度となく繰り返された手術の末、ようやく健常と呼べる体を得た今も、彼は変わらず山奥の館に縛られている。禁を解かれぬまま、薄暗い屋敷の奥に静かに息を潜めてきた。
 だから圭吾と出会うまで、外で遊んだことも、友と笑いあったことも、一度も無かったのだと。ある日、笑って燈雅が話したとき、わけもなく圭吾の心が騒いだ。
 無垢な笑顔を見せてくれる。その笑顔をもっと見たい。心の奥で圭吾の何かが叫んでいた。
 最初から気になっていたのだ。初めて出会ったその日、筆を執る無表情な少年を見つめたときから。
 感情の無い人形のように見えた。殆ど喋らず、誰にも心を見せない。けれどそれは、必要が無かったからに過ぎなかった。誰も彼に心を使う理由を与えなかっただけなのだ。
 圭吾という友人に出会って、燈雅は変わった。無意味だと思っていた感情を、初めて必要だと感じたから。圭吾の前では、笑うことに意味が生まれた。言葉を交わすことに温度が灯った。
 そのことが圭吾にはたまらなく嬉しい。圭吾の胸に、言葉では追いつけないほどの温もりが広がっていく。
「圭吾……また、来てくれるか。来てくれたら、すごく嬉しい」
 囁くような声音。どこか甘えるような、祈るような響き。
 その声が心をかき乱す。思わず圭吾は燈雅の手を掴んでいた。衝動に躊躇いはなかった。
「来るよ。俺、燈雅と一緒だと、毎日が全部楽しいから」
 燈雅の笑みが柔らかくほどけていく。あまりに眩しくて、圭吾は胸が痛くなるほど。
 だから通った。何度でも、あの縁側へと。
 その笑顔が見たくて。手に触れたくて。名前を呼ばれたくて……ただそれだけのために、何度でも。

 夏の名残がまだ地を温め、秋の気配が空気の端に宿る頃。
 仄かに色づき始めた風が仏田寺の縁側をすり抜ける。圭吾と燈雅はいつものように並んで腰を下ろし、静かな時間を過ごしていた。
 圭吾は封筒を取り出した。中には数枚の写真……初めて手にしたカメラで撮り溜めた、彼の視た世界がある。
「練習として、あそこの神社を撮ってみたんだ」
 差し出された一枚を燈雅は受け取る。指先で慎重に紙を挟み、じっと目を凝らす。
 朱塗りの鳥居が夕陽に照らされている。遠くには静かに拓けた空。橙と金が溶け合う空。燈雅はそっと写真の角を撫でた。存在しないはずの温度を、指で探るように。
「……綺麗だな」
 その神社は仏田寺の敷地からさほど離れていない場所にある。地元の子どもたちが遠足に訪れる細やかな場所だ。走ればほんの一時間も掛からない。
 けれど燈雅は、その場所を知らない。地図に記されるにはあまりに近い世界に、自分の足で辿り着いたことが一度も無い。
 たったそれだけのことが、どうしようもなく……圭吾には悔しかった。
 圭吾の手が伸びた。
 躊躇うことなく燈雅の腕を掴む。白く繊細なその手首を、しっかりと包むように。
「行こう」
 短く、けれど真っ直ぐに言った声に迷いが無い。
「燈雅。お前を、連れていってやる。見に行くんだ。あの空を。自分の目で」
 しばらく、風の音だけが二人の間を満たした。
 やがて、ぽつりと彼が言う。
「……走るの、遅いかもしれない」
 呟きに、圭吾はふっと笑って頷く。
「いいよ。燈雅の速さで、行こう」
 夕陽はまだ空の端に残っていた。二人は立ち上がる。縁側に伸びる影が、静かに伸びていく。
 仏田寺という名の牢獄から、ほんの少しだけ自由へ踏み出したその影は、淡く滲む光に向かって走り出した。


 ――そうして、二人の小さな冒険は呆気なく幕を下ろした。
 夏の終わりの夕暮れ。しっとりと湿った土の匂い。山道を駆け下りるときの草を踏む音。繋いだ手の熱。見上げた空の、あまりの大きさに息を呑んだ。
 燈雅は目を細めて、空を見上げていた。目的だった神社の夕陽を、彼がちゃんと見られたかどうかは分からない。
 けれど、外に出せた。それだけで圭吾の胸はいっぱいだった。
 幸せな時間は長くは続かなかった。大人たちが現れ、怒号が響き、腕を捕まれ、引き剥がされた。
 なんてことをしてくれたんだと怒鳴られたのを覚えている。お前は何をしたか分かってるのかと拳骨を食らわされたのも覚えている。
 圭吾は泣いた。叱られたからではなかった。燈雅に、もう会えなくなる。その予感が、胸を裂いたのだ。

 目を覚ましたとき、壁の時計は午前3時を指していた。
 息が浅い。心臓がやけに騒がしい。夢の残滓がまだ、瞼の裏に残っていた。
 もう20年以上前の出会いなのに……三十路になっても、圭吾はあのときの出会いを夢に見る。
 都内のマンションで一人暮らし。一般企業の会社員、収入は安定していて職場の人間関係も悪くなく、休日は好きな車でドライブに行き、映画を観て、気が向けば友人と出かけたりもする。一人で過ごす時間にも満足していた……そう、満足していた筈だった。
 けれど、夢に見るのは燈雅のことばかりだ。
 あの屋敷の縁側。経文に筆を走らせる白い指。写真をじっと見つめていた横顔。初めて笑ってくれたときの、やわらかい声。
 「けいご」と名前を呼ばれたときの胸の奥が痛むような感覚は、33歳になる今もどこかに残っている。

 あの『誘拐事件』の後、圭吾は燈雅に会えなくなった。
 大事な御曹司を誘拐した罪を償えと死刑にされなかっただけマシだったのだ。遠くの学校に進学し、企業に勤める社会人の道を薦められた。
 最初は拒んだこともあった。誰より大切で、誰より近くにいたかった相手。初恋だったのだ、と今では分かる。
 その後、恋をしたこともある。誰かと付き合い、別れ、日々の流れの中で何度か心を揺らした。
 けれど、そのたびに思い出してしまう。燈雅の目を。
 何も知らないようでいて何もかも見透かすような、静かな闇を湛えた目。無垢と深淵が同居する、不思議な眼差し。
 圭吾は、未だに彼に恋していた。
 「ただの思い出だ」と自分に何度も言い聞かせてきた。けれど心の奥にはまだ、少年のままの燈雅がいる。
 あの夏、手を繋いで走ったままの姿で、息をして微笑んで……今もそこにいる。
 ベッドの中で天井を見上げながら、圭吾は静かに目を閉じた。
 忘れてしまえたら、どれだけ楽だろう。
 でも、忘れたくなんてなかった。
 二度と会えなくても、今どこで何をしているか分からなくても、それでも好きだった。
 そして今も、ずっと好きだった。
 けれど、会いに行くことはできなかった。
 自分はただの一般人だ。彼に再び会いに行けるような勇気も、資格も、持ち合わせていなかった。


 ――山間に潜む研究施設には、常に血の匂いが立ちこめていた。
 超人類能力開発研究所機関。
 政財界に深く根を張り、粛清と隠蔽の果てに姿を変えたそこは、今や異能研究施設として世界にその名を知られている。だがその実態は、かつて存在したある魔術結社の成れの果て。人の理を逸脱した知と力の集積地である。
 異能を宿す能力者、魔力を有する超越者、そして人外種族……彼らは「研究材料」として捕らえられ、生きたまま壊され、分類され、売られた。
 解剖という言葉はこの場所には優しすぎる。むしろ公開処刑に近い。肉は裂かれ、声帯は潰され、眼球には呪式が刻まれる。臓腑は媒体と呼ばれ、異能は数値化され、データベースへと組み込まれた。
 それは研究ではない。収奪と暴力の儀式だった。
 白衣を纏う研究員たちが、感情の抜け落ちた空洞のような顔で器具を操る。口にする言葉は記号。悲鳴はログ。涙は廃棄物。人を対象にしているという意識すら、最初から欠落していた。

 機関は二つの絶対によって守られている。
 一つは、暴力と恐怖を支配する極道組織。
 路地裏での処刑を請け負い、試作実験体を輸送し、逃亡者の粛清に躊躇いがない。
 もう一つは、千年の歴史を誇る魔術結社。
 世界を裏から操るその一族は、国家すら欺き、「神を蘇らせる」という狂気の儀式を進めている。研究と支配の本質は、彼らの血の中に息づいていた。

 暴力と魔術。冷酷な現実と、非現実的な悪意。その連携の前に誰が抗えるというのか。
 ――レジスタンス。
 それは、人間ではない者たちの命を、人間として扱おうとした者たち。機関に家族を奪われ、仲間を引き裂かれ、生きる価値すら否定された被害者たちを守るために立ち上がった灯火たちの名である。
 けれど、彼らにはあまりに多くが足りなかった。力が足りない。武器も、資金も、情報も、仲間すらも足りない。
 それでも立ち上がった彼らは、蹂躙された。踏み潰され、焼かれ、笑われ、それでもまだ、声を上げていた。

 追い詰められた小さな集落に、ある夜、黒塗りの輸送車が突入した。
 ――嵐山組。機関の暴力装置。
 闇を裂くように、魔術師が火を撒く。狩人が無音の銃を放ち、風のように命を奪った。
 人ならざる血を宿す子供たちは叫ぶ間もなく血を吐き、崩れ落ちていく。
 それでも一人の能力者が最後の力で結界を張った。仲間の命を守るため、ただそれだけを願って。
 結界は十秒と保たなかった。
 人間の輪郭をわずかに外れた存在たちは、血を「資源」と呼ばれ、肉を「素材」と呼ばれ、魂すら「数値」へと変換された。

 ある男が、指をひとつ、弾く。

 その瞬間、数人の人生が終わった。
 艶のある黒髪。切れ長の双眸。白磁のような肌に、微かな香を纏う和服。微笑みを絶やさず、優雅に歩むその姿は、まるで舞台の主役のよう。
 その足取りの先には、必ず屍が横たわる。
「当主様が、直々に狩猟など……」
 従者が口を濁すと、彼はくすりと笑った。
「何を言う。全部任せきりなんて申し訳ないじゃないか。自分の食卓に載せる食材くらい、自分の手で選ばないと」

 仏田 燈雅――仏田家 第63代当主。
 神を蘇らせる儀式の首謀者であり、機関の核であり、美しき破壊者である彼は、慈しむような声音で語りながら焼け落ちた集落を見下ろしていた。
 塵一つ許さぬ和装に身を包む彼の眼差しは、誰よりも優しく、冷たい。
 ――勝てる筈がない。あのような異形に、ただの能力者が敵うはずなどない。
 奪われていく青年が、同じく奪われる少年の震える肩を抱きしめた。逃げられない、もう奪われるしかないのだと。
 けれど生き延びた者の中には、なおも希望を捨てきれぬ者がいる。
 たとえ十人に一人しか生き残れなかったとしても、たとえ次に死ぬのが自分自身であったとしても、「機関に殺されなかった命」には、意味がある。
 そう信じた。信じるしかなかった。だからまだ終わっていない。
 血に濡れた地下の闇の中でも、抗うという意志は息づいていた。
 命を弄ばれた者たちが、命を賭して繋ごうとする……微かな灯火。それが、レジスタンスという名の最後の火だった。

 今宵もまた、誰かの叫びが記録される。誰かの死が研究の糧になる。
 全ては『世界を終わらせる大儀式』のために――神を蘇らせるために。
 今宵もまた、誰かが燈雅に見つめられ、名を与えられ、道具となる。

 ――だが世界は、そう易々とは終わらない。




 さわれぬ神 憂う世界

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