■ 「 劇 場 と 淫 行 と 羨 望 と 」



 /1

 アニ・レオンハートだ!

 僕は貼り出されたインディーズ映画のポスターに目を見開いた。

 何も予定の無い休日に散歩をしていて、まさか好きだった女優の名前が見られるなんて! 小さな映画館にチケットを買い求めて滑り込んだ。
 上映時間はあと三分もなかった。自由席に座って場内を見回し、客が自分以外一人も居ないことにやっと気付くぐらい必死だった。
 貸し切り状態の映画館。それはそれでいい。混み合った劇場よりはずっと気が楽だ。一人で映画館に入ることは苦ではなかったので、こういった突発的な時間の潰し方は悪くなかった。

 ――アニ・レオンハート。小柄で引き締まった体つき、鋭い瞳と低い声が魅力的な女優。

 Vシネマで顔を見かけてから、「なんて良い演技をするんだろう!」と僕は釘づけになった。出演している作品があればついチェックしてしまうぐらいお気に入りのタレントだ。
 だけど彼女は所属事務所に名前を載せているだけで、ブログやツイッターもしていない。作品が公開されて暫くするとウィキペディアの出演作品が更新される程度の、地道に活動を探し出さなければ会えない希有な存在だった。
 それなのに、こんな所で彼女を見られるなんて! しかも上映中の劇場で! スクリーンで! 走ったせいでまだ息が荒いうちに、映画館はたった一人のために暗くなっていく。自然と高まる胸を落ち着かせながらスクリーンを見上げると、開始三分で男同士の濡れ場が始まった。
 なん、だと。
 驚愕していると、オープニング映像が始まる。成人指定のマークが写る。そしていきなりダイジェストで男達が乱れていく光景が流されていった。

 僕はなんてものを見ているんだ。汗が噴き出す。興奮してきた訳じゃない。全身が警告音を発してるから汗が流れているんだ。
 成人向け作品を毛嫌いしている訳ではない。
 寧ろアダルトビデオは見ることもあるし(恥ずかしくてお店で借りに行くことはできないが、ネットで動画をダウンロードすることはある)、嫌悪感を抱くほど高潔であるつもりもない。
 だが、もし内容が男同士の愛欲弾け乱れるものだと知っていたら、少しは思い悩んだのに。
 呆然としながら大画面の中で喘ぐ男の姿を見ていると、次第に頭の中が、『嫌な噂話』に満たされていく。
 いけない、考えちゃ駄目だ。そう焦り始めているときだった。唐突に男性が隣の席に座り、僕の膝を撫でた。

「ひっ……!」

 ――自由席タイプの映画館なのに? 他の席が大量に空いているのに? どうして僕の隣に? まさか、あの噂、本当に!?
 左隣に座ったスーツ姿の男性は、大きな掌で僕の膝を撫でると、そのうち手は僕の腿へと移動していった。

 こういう際どい内容の映画館には、こういうタイプの人間が集まって、こういうことをし始める。だってこういう映画を見ているんだから、こういうことをされても文句は言えない。そんな噂を聞いたことがある。
 寧ろ自分から足を運んでいるんだから、好きだって思われるんだ。思われているんだ!
 なら、どうするのが一番の礼儀なんだ? 断るには何のアクションをすればいいんだ? 映画館は元より静かにする場所なんだから断る方法も静かに済ませなきゃいけないんだろう? 一体何をすれば!?
 だらだらと大量の汗をかきながら思案していると、男の手が僕の腿から脚の根本まで進んでいった。少しずつ僕の中央に近づいていく! 背筋がぞわっと震え上がった。
 どうするべきかと思っている場合ではない。なるべく小声で、相手を刺激しすぎない程度に拒否を示してみた。

「……やめて、ください……」『オーウ! イエス! カモン!』

 タイミングが悪かった。
 大画面が激しく揺れ、男が雄叫びを上げる。とても情熱的なシーンだ。
 激しく筋肉がぶつかり合い、カメラカットが忙しく回る。おそらく盛り上がるシーンなんだろうが、一体どんな怪獣戦が繰り広げられていたんだろうか、見入っている余裕なんて無かった。
 僕が絞り出した懸命な声は男優の嬌声によって潰れていき、男の手を止めることなどできなかった。
 怖くて俯いてしまい、無言で男の手を受けてしまう。そのうち隣に座るスーツの男は……明確に僕の股間を押し潰してきた。
 上からぐいぐいと、あからさまに刺激させたいと主張する動きだ。

「……う、あ、あ……」

 呻き声を出して嫌がっていることを示してみても、アクションシーンに入ったかのような筋肉大合唱に悲鳴は潰されていくしかなかった。

 零れる涙を拭うことができないぐらい固まってしまった僕は、俯く顔を勇気を出して横に向けてみる。
 僕よりもずっと体格の良いスーツの男は、スクリーンを見ていた。
 でも口元を歪ませている。映画館の暗闇の中、うっすらと口角を上げている姿を見えた。
 まさか無意識に僕を責め立ている訳が無い。意図して僕の顔を見ず、僕を困らせている。なんて人だとと驚いていると、

「……ひっ……」

 ぐりぐりと刺激を与える指は、更なる動きを繰り出してきた。
 叩くような指遣い。万遍なく押してくる彼の腕を退けようと、思い切ってスーツ姿の男性の手を取った。
 映画のシーンもさっきよりも大人しい、自分の声が届くような時間を見計らって。

「……おねがい……」『カモン!』

 でも、やっと絞り出せた言葉が悪かった。
 『おねがい、やめて』……そう言いたかったのに。迫りくる恐怖と異様な映画館の空気、そして確実に与えられた刺激によって、涙を流し始めた僕から飛び出した台詞は、途中で途切れてしまった。
 それどころか映画内の主人公が、ブロンドの男を静かに誘惑しているシーンだ。僕の声とタイミング良く重なって……隣の男が顔を近づけてくる。
 目なんて見られない。俯くしかない。男は肘掛に体重を預け、僕にもたれかかると、俯く僕の耳元に唇を寄せた。
 僕の首元に男の息とともに、「判ったよ」と笑いを噛み殺そうとする声色が掛かる。

「激しくしても良いタイプだったか? 大人しそうな顔をしていて、お前ってなかなか」
「ち、違っ……」

 途端、スクリーンにお目当ての顔が見えた。

 ――ああ、やっぱり出演していた。アニ・レオンハート。
 彼女はゲイ映画のサブキャラクターだった(役柄は、『主人公の弱気な男性』と『恋人関係にあたる年上の男性』の間を取り持つ強気な少女だった。とてもクールで彼女らしい役柄が見られた。でも映画のメインは主人公二人のゲイセックスだった)。
 まだ彼女はインディーズ映画に出演するだけのマイナー女優だ。作品が選べるほどの力も無い。それでも男性メインの作品で名前のある登場人物を演じているのだから、とても良い扱いを受けている。
 見られたものが見られて嬉しかったけど、幸せに浸っていられる状況ではない。
 男にガシッと腕を掴まれてしまう。
 立ち上がれない。そもそもここまで刺激されて、涙が頬にほろほろと伝う状態で何が出来るか。

「おね、がぃ……やめ……」『やめないで、お願い、僕にプリーズ!』

 僕は何も身動きができず、座って嗚咽を噛み殺しながら、大きな掌に陵辱されるしかなかった。



 /2

 アニ・レオンハートは変わらず可愛かった。

 大きな掌に散々弄ばれた僕は一人放置され、抑えきれない欲情を抱えたまま映画館を後にすることになった。
 上着を脱いで下半身を隠しながら自宅に向かい、シャワールームで自分を慰め……あまりの無力さにぼろぼろと涙してしまった。

 最悪な休日を過ごしながらも、映画の随所を思い出すと、アニ・レオンハートが彼女にピッタリと言えるクールな女性役をしていたことに胸が熱くなった。
 にこりと笑う顔よりも、澄ました横顔やキリリと声を張るシーンの方が映える女優だ。映画の中で出てきた少女はそういう演技が必要な役柄で、彼女の魅力を最大限発揮できるハマリ役だった。
 翌日。いつも通り会社に出勤し、仕事をしたが、その間もずっと映画のことを考えてしまっていた。
 休憩中に『もう一回アニの格好良いシーンが見たいなぁ』と考えながらスマートホンを操作していると、気付いたときには、昨日行った映画館の上映時間を調べていた。

 通りすがりの同期が「映画、見に行きたいんですか?」と尋ねてきた。いつも笑顔の彼に声を掛けられて、慌てて違うページを開く。
 「え、ええ」 頷きながらメジャーな映画の宣伝を見せた。裏では成人指定映画を上映している小さな箱を表示させながら。

「劇場に行くのはお好きなんです?」
「ええ、まあ」
「今日も退勤後に映画ですか。良いですねえ。楽しみがあると思えば仕事も捗るし」
「はは……」

 明るい声で笑ってくれる彼に頭を下げながら、スマートホンの画面を伏せた。
 折角僕に声を掛けてくれる優しさを無碍にはしたくないが、この話はすぐに終わらせたかった。
 もっと楽しい話を笑顔でしていたいのに。そう思いながら次の言葉を探していると、彼はあっという間に次の話題を探してくれて、何とかこの場を乗り切った。
 世間話が終わって仕事に戻る頃には、自分の『映画を見たい』という感情を改めて思い知らされ、今日もまた同じ映画館に行く決心がついていた。

 今度は落ち着いてチケットを購入し、席に座る。
 今度は心構えが出来た状態でスクリーンを眺める。混乱しないで見るオープニング映像は、荒削りだが悪いものではなかった。

 主人公と恋人の関係がセックス描写をメインにダイジェストで流れる映像は、歌が流れる短い時間の中で二人の関係性を描ききっている。
 製作予算の無さが映像美から伺えるが、そのチープさがインディーズ映画の長所だから目を瞑ろう。
 昨日のトラブルのせいで見られなかった大盛り上がりのシーンも、実は『あんなに仲の良かった二人が喧嘩をする羽目になってしまい、それでも二人は……!』という、作中に無くてはならないシーンだと判明した。
 繰り広げられるドラマティックでハードな性描写に釘づけになっていると、隣に誰かが座ったことなんて全然気にしなかった。

 喧嘩をしていた主人公二人が、仲直りの口付けを交わす。
 とても濃厚なキスのカットが入り、ブロンドのタチ役が舌を突き出して主人公の青年の唇を、顎を、喉を撫でていく。
 生き物のように動く舌を、わざとカメラに写している。口外でめまぐるしく行われる責めの様子は、『喧嘩をした後も彼にとっては憎い相手という訳ではなく、未だに大切に愛撫をしている』……という、えらく感動的な演出だった。
 舌で喘ぐ男の映像は、笑ってみるものではない。舌で恋人を愛でるという絵だけで、直接的な描写を入れずに二人の心を近づけていくのを表現している。
 ブロンドの男が主人公の男の体を、ありとあらゆる場所を舐めていく。物静かだったネコの男が、少しずつ声を荒げていく。
 気持ち良さそうなキス。気持ち良さそうな舌の動き。男の体に、赤い印を次々と付けていく……。
 思わず画面に見入り、喉がゴクリと鳴った。あまりに深い描写に体が熱くなってくると、特に熱くなった部分をさらりと撫でられた。
 見ると、左隣の席からとある腕が伸びていた。

「……あっ……」

 暗闇の中、少し視線を動かしただけで判った。
 僕の膝を……いや、直接股間に触れてきたスーツの男は、昨日と同じ人物だった。
 顔を見ようとするが、今日は大きめのサングラスを掛けていてどんな人物なのか見えない。でも口角は相変わらずつり上がっている。そもそも上映中の映画館でサングラスを掛けているなんて!

「う、あっ……」

 昨日と同じことをしようとしているんだ。
 男の手が、昨日と同じように僕の股間を上からぐいぐいと押し込んできた。
 押し込むだけじゃなくて、早くもぐにぐにと揉みしだいている。濃厚なシーンに心から見入ってしまっていた僕のそこは、熱を帯び始めている。そろそろ刺激が欲しいと思ってしまっていたところだった。
 だからと言って、暗くて人が少なくても公衆の面前である映画館でそんなことは出来ない。
 やめてくださいとハッキリ言おうとしたとき、男の片手が不思議な動きをしてきた。
 器用に二本の指が、僕のズボンのファスナーを下ろしている。
 そんなこと! そんな! 絶句している隙も与えてはくれなかった。
 滑り込んでくる無骨な指は、下着越しに僕の熱くなりかけたモノに触れてくる。厚手のズボン越しとは違う指遣いは、さっきよりも……いいや、昨日よりも更に刺激的だった。

「……うそ……いっ、や、だっ」『嫌だ、キスだけじゃなくて、もっと君自身をおくれよ!』

 拒絶の言葉を言おうとすると、スピーカーから『我慢できない!』と男の声がした。大画面の二人は絡み始める。
 ムーディーな音楽が流れている世界で、今度こそ直接的な描写で求め合う男と男。
 その間も下着越しに僕に触れる男の指は、側面を撫でるものからゆったりと先端を探る動きへと変貌していった。
 見つかってしまった僕の先端をノックされ、五つの指が覆い始める。人の手で触られているのに、自分が膨れが合っていることがよく判った。
 
「ぁ、う、う、ぁっ……」『ああ、欲しい、君が』

 下着越しに先端を弄られる。くりくりと口の部分に軽く爪を立てられる。
 人差し指一つが、指の平で尿道口をしゅっしゅと擦った。次は親指がプラスされ、二つの指でこねくり回される。
 じわりと下が破裂した。恥ずかしくても湿り気を帯び始めたことを認めなければならない。
 僕は、まだ噴き出してはいなくても、感じきって……最後を迎えかけていた。

「はぁ、あっ、あっ」『ああ、ああ、欲しい、欲しいんだ、君が』

 大画面の主人公が恋人の更なる愛撫を求めて鳴いていた。喉を仰け反らして、ほしいほしいと騒ぎ始める。
 僕も同じ気持ちだった。
 一枚の布越しにくりくり、しゅっしゅと擦り付けられては、少しだけだった興奮が次第に大きく開花していくしかなかった。
 ――もっと気持ち良い愛撫の仕方を知っている。
 直接、人間の暖かい指で刺激をしてもらえたら、掌でもっと掻き乱してもらえたら。唇でそこを綿密に揺さぶられたら。
 画面の向こうの男のように、喘ぐことができるんじゃ……。

「ぁ、ぁぁ、ぁぁぁ」『あ、ああ、あああ』

 僕は自然と座席に浅く座り、大きく両脚を開いていた。
 隣に座るスーツの男にもっと深いところまで刺激してもらいたくて。下着越しじゃなくてもっと激しく責め立ててもらいたくて。
 脚を開く。それだけじゃなく、大口も開いていた。

『何をやってるんだい、アンタら』

 アニ・レオンハートの声がする。
 音楽がコミカルなものになる。画面の彩がポップになる。『わあ、なんでお前がこんな所に!』 男達が少女の登場に場の空気が崩され、シーンが一気に変わった。
 途中のシリアスシーンから場面転換するために必要なギャグだった。あまりの移り変わりに、僕に圧し掛かろうとしていたスーツの男がバッとスクリーンを見た。
 涎を垂らしながら指を受け入れた僕も、画面のアニ・レオンハートを見る。サァッと背筋が寒くなった。我に返った僕は、力を解いた男を突き飛ばすと飛ぶように劇場を出た。



 /3

 無力感に苛まれるのは昨日と同じだ。だが、更なる絶望が僕を襲った。
 帰宅するなりシャワールームで達し、「なんてことをしていたんだ、僕は」と重苦しくしていると……一度抜いたにも関わらず、頭の中は映画館のことがいっぱいで、また興奮してしまった。
 「僕は、あんなことで……」と再びの熱に絶望してしまう。

 深夜、僕はパソコンの置いてあるデスクに付属されている背凭れ椅子に腰掛け、二日間のことを考え始めてしまった。
 徐々に頭の中を男同士の絡み合いが満たしていき、同時に指で甚振られたことが思い出されていき……。

「ぁ……ん、ぁあっ……」

 気付いたときには、右の肘掛けに右脚を、左の肘掛けに左脚を置いて、大股を開きながら自分を慰めていた。
 衣服を脱いで、遮るものが無い状態で、両手で自分のモノを慰める。
 誰も見る者もいない、理性で抑えなければならないものもどこにも無い。一人暮らしの部屋で、たった一人、一番気持ち良いところを好き勝手に指でなぞっていく。

「はっ……はぁっ……うう、ああっ、あああっ」

 オナニーをするときは大抵ベッドでしているけど、その日は何故か椅子にもたれてしてしまった。
 肘掛けに両脚を掛けて、ぐりぐりと自分を甚振る。

「ああっ……ほし……欲しいっ……」

 大きく声を上げても誰も聞いている人間はいない。いくられも声が出せる。抑圧された空間じゃないことに安心しきった僕は、脚を開ききって、存分に涎を垂らしながら自分を慰めていた。

「欲しい……欲しいっ……ううぅっ……!」

 ――もう少しでイける。
 でも唐突に、真っ黒なパソコンのディスプレイに自分の姿が写っていることに気付いた。
 カアッと顔が赤くなるのと、サアッと青くなっていくのを同時に感じた僕は、急に気持ち悪くなってしまい……その日、もやもやとした感覚でベッドに篭った。
 シーツの中でまた気持ち良くなりたくて自分の体を撫でてはいたが、思うように欲しい快楽を見つけることができず、悶々としたまま翌日を迎えてしまった。

 それでも朝になれば妙な昂ぶりは収まっているもので、仕事中は仕事のことしか考えられないぐらい正常な一日だった。
 僕の仕事は、人から回されたものを仕上げて終わらせるというものだ。
 なので人から仕事を与えられなくては動けないし、注文が来るまで待っていなくてはならないという受け身の仕事だった。
 外に出て自分の足で成果を稼いでくる部署は別にある。僕は営業職には向いてないので、彼らが出て行く姿を見送りながら……今日も命じられた物を時間内に終わらせていた。
 あちこち動き回る仕事ではないから、昨日のもやもやが解消されてなくてもなんとか助かった。あまり良くないことではあるけれど、もし外回りの仕事だったら。いや、考えないようにしておこう。
 走り回る社内の様子をじっと見つめながら、なるべく昨晩のことを思い出さないように仕事の資料だけを眺めていた。

「定時後なのに熱心ですね」

 昨日のことを考えないようにし続けていると、皆が帰り始めている時間だということにも気付けなかった。
 外回りから帰って来た一つ上の同期ライナー・ブラウンに、昨日同様声を掛けられなかったら、帰らずずっと仕事に向かっていたかもしれない。

「あ、ありがとうございます……」

 咄嗟に頭を下げて、時計を見た。
 残業をしなくてはいけない状況でもないのに、僕が残っているのはおかしいと思われても仕方ない時間だった。

「フーバーさん、先週まで相当忙しかったようだけど。それに比べると今は落ち着いているんじゃなかったかな? 休む暇も無く忙しいんです?」
「い、いえ、今のうちに有給を取れって言われるぐらいには暇です……。た、多分、来週ぐらいにならないと、忙しくはならないんじゃ……」
「じゃあ帰りましょうよ。じゃないと怒られるだけですよ。怒られたいんですか?」

 ライナー・ブラウンは茶化すように忠告してくる。
 確かに無駄になるような仕事は一切してないけど、今の時間にしなくてもいいことだった。
 慌ててタイムカードを切って、身支度をする。
 「あっ、あの、ありがとうございます」「いいっていいって」 同じく退社するライナー・ブラウンにもう一度礼を言って、僕達は同じ時間に職場を出た。

「今日は映画館に行かないんですか?」

 駅に向かうため、同じ方角を歩きながら、営業向きの爽やかで男らしい笑みを浮かべたライナー・ブラウンが話しかけてきてくれた。
 昨日の休憩時間のときもそうだったが、彼は何かと自分に声を掛けてくれる。
 それは自分だけではなく、どんな人にでも気さくに話しかけてくれる彼らしい一幕だった。だから笑って「暑苦しい」と言う人は居ても、彼を嫌う人間を僕は知らない。
 自分の部署以外の人間に話し掛ける勇気の無い……けど、そんな人になれたら良いと思う僕としては、積極的に世間話を仕掛けてくる彼には好意しか抱けなかった。
 自主性なんてものは僕には無いから、たとえ僅かな好意を抱いていても、幼馴染でもない限り話し掛けることなんて出来ないが。

「そんな、僕、毎日のように行ったりはしませんよ」
「へえ。昨日も映画について調べていたから、大好きなのかと」
「好きですよ。でも万遍なく映画なら見るという訳ではないです。好きな女優が出演してたら見るぐらいなんです」
「昨日もお話していましたね。フーバーさんの好きな女優、何でしたっけ」
「アニ・レオンハート」
「そう。…………この女優だ」

 この、と言いながらライナー・ブラウンは、とあるポスターをちょんっと指差した。
 そこには、二日間続けて見に行ったインディーズ映画のポスターが貼られていた。
 僕が休みの日に見てしまった、忘れようとして仕事に没頭していた原因の映画を、彼は指差している。

「もうこの映画、見ましたか。どんな映画でしたか。良かったですか」

 いつも皆の前で見せるにこやかな表情を浮かべながら、僕に問い質して来る。
 彼が指を差すアニ・レオンハートの名前が掲載されている出演者欄の隣には、はっきりとこの映画の概要……成人指定の同性愛を描いていることが記されていた。

「い、いえ、実は……ちょっと内容がショッキングなものでして、勇気がなくて見られないんです」
「そりゃあ、どうして。アニ・レオンハートが好きなのに? ラストシーンは見てないんですか? あんなに感動的なのに」
「……ブラウンさんは、見られてたんですか?」
「はい。実を言うと俺、この映画の主演男優が結構好きなんです。綺麗な黒髪で、ひょろっと背が高くて。AV男優なんですけど、顔が好みで。ああ、引かないでくださいね。俳優として好きだからついついブログをチェックするぐらいですよ。だから内容がどうであれ、出演者が好きで見に行ってもいいじゃないですか」

 笑ってべらべらと話しながら、ライナー・ブラウンはとある日付を指差した。
 もうすぐ上映期間が終わる。「早くしないと見られないですよ」 彼はアニ・レオンハートのファンである僕を気遣うように、見た方が良いと薦めてくれた。
 その心遣いはとてもありがたかった。僕の好きなものを楽しんでほしいと笑顔で言ってきてくれる。なんて良い人なんだ。
 どんな趣味でも寛容に受け入れてくれそうな彼の広さに感動しながら、「ええ、じゃあ見に行きます」と笑って頷いていた。
 すると急に腕を掴まれ、チケット売り場まで連れて行かれた。

「えっ、あ……?」

 あれよあれよとライナー・ブラウンは大人二枚を買い上げ、実は残り時間三分だった劇場へと入って行く。
 僕の腕をがっちり掴んだまま。
 相変わらず劇場内は人は居ない。一番良い席に座らされた僕が「別に今日見なくても……」と彼に笑って言おうとしたとき、彼がどすんと左隣に座って、気付いた。
 同じスーツだったことに。



 /4

 三度目のオープニングを見る頃には、どんなプレイをしているのか暗記できてしまっていた。

 主人公と恋人のシリアスな喧嘩シーンが始まる。二人の男の物語だというのは判っていたが、今回は演出面ではなく内容をしっかり把握することができた。
 気の弱い主人公は、精神を病んだ恋人と……かつて交わしたセックスで関係を続けていこうとする。
 『君は君なんだ』と泣きながら訴える主人公に、『自分が何者なのか』葛藤し始める恋人。メインはゲイセックスで構成され、コミカルなシーンが入ることもあるが、なかなか深い脚本だということに気付かされた。
 彼ら二人の仲に口を出したり、事件を引き起こしたり、取り持ったりする役がアニ・レオンハート演じる少女だ。

『人の趣味にとやかく言わないよ。アンタらがどうであれ、私は二人に幸せになってほしい』

 彼女の言葉はクライマックスに必要だった。少女のその一言で、主人公の二人は結ばれ合う。
 あのときの視線。あのときの声。アニ・レオンハートだから出来る演技だ。
 なんだかんだでクライマックスシーンまで見ることができずにいたので、やっと見られた彼女のクールな演技に見入ってしまった。
 おそらく、一度目にここまで見ても感動することはなかっただろう。
 最初は突然のゲイセックスシーンにポカンとしてしまった。
 二度目は独創的な演出に心を奪われて台詞まで聞き取ることができなかった。
 三度目にしてここまで辿り着けたのは、ある意味良かったのかもしれない。

 でも、それからだった。
 この作品は大半を男二人の濃厚な絡みで構成されている。アニ・レオンハートはメインのキャラクターではあるけれど、ラストを飾るのは男二人の愛情ひしめき合うベッドシーンだ。

『はぁ、ぁぁ、ああ、きもちいい、きもちいいよ! もっと、もっと!』

 全ての苦悩から解放され、ただただお互いを求めるだけになった二人は、どろどろに愛欲の中へ溶けていく。
 途中にあった舌の愛撫に匹敵しない、それを格段に越えた淫劇が繰り広げられていった。

『イイ、イイ、イエス、イエス!』

 感情が昂ぶった主人公が、元は低い声を高く上げる。
 バックから突かれて、中を限界まで抉られて、涙を零しながらよがり狂っていた。
 主演の男性は、カメラにとろけきった顔を晒している。後ろから犯されていた腰を持たれ、陰部をカメラの前に晒されるように足を開かされた。
 大きく興奮しきったペニスが(荒いモザイクが掛けられているが)映し出されて、相当彼が感じきっているのが露わにされた。

「……ぅぅ……」

 カットが変わった。ベッドの上に腰を下ろしたタチの男の上に、繋がったまま座るネコの男の体が映し出される。
 ぼやかされていても、上に乗った黒髪の男が大きな棒を体内へと挿入していく。『アアッ……!』 激しく喘ぎながら、膨らんだ自身を手で擦りながら、男の上で上下運動を繰り返す。上下するたびにお尻の穴がぐちぐちと音を立てて喜ぶ映像が、続いていく。
 絶叫するほど痛い筈なのに、お尻でペニスを咥えた黒髪の主人公は動きをやめない。
 脚本としては『愛する彼と心から繋がることができたから、今の彼は快楽しか生まない体になっている』とのことだが、出演している男優もあそこまで気持ち良くなれるものなのか。
 顔をぐちゃぐちゃにしてしまうほどのセックスとは、いかなるものなんだろう。
 男性同士のセックスって、あんなに気持ち良いのか。
 容赦なく責め立てられ、自分でも止められないんじゃないかってぐらい気持ち良すぎて暴れ狂っている姿に……注視してしまう。

「盛り上がっているな」

 隣に居る彼が、僕の股間に手を伸ばしながら言った。
 すぐに「それは映画の中の二人の話だろう」と茶化して言うことだってできたけど、言っている余裕は注視していた僕には無かった。

「ぅ、ううっ……」
「また今日もパンパンに張って……もぞもぞしやがって。相当、激しくしてほしいタイプだったんだな」

 その声は、にこやかに話し掛けてくる声とは全然違った。
 まるで別人のような彼の声にビクリとする。
 着ているスーツや、うっすらと上がった口元、そして器用で激しい指遣いは間違いなく昨日まで僕を苛んでいた本人だった。
 ライナー・ブラウンは多重人格なのか。そう思ってしまうほど別人に見えるが、

「あ、ああっ、やあ……」
「誰も居ないからって、いきなり声を上げ過ぎだろ」

 僕を快感に追い立てていく指は、間違いなく昨日までのものと同じ。
 僕は昨日と同じように両脚を広げてしまう。いや、それ以上に自宅でオナニーをしたときみたいに大開脚をしてしまった。
 そして、自分でも信じられないことだが……僕自身がズボンのファスナーを下ろそうとしていた。

「ああっ、さ、さわっ……て……僕、を……」
「本当に、物静かに見えて大胆だな……お前。会社ではあんなに大人しそうな顔してるくせに」

 ククッと隣の彼が笑い、手を伸ばしてくる。
 下着に触れたと思ったら、いきなり直接触れてきた。

「ぁ……!?」『アアッ、アアッ、もっとだ、来てくれよぉ!』

 僕の言葉を代弁するかのように、主演男優が喘ぐ。
 やっちゃいけないことなのに、待ちに待った時間に僕はぎゅっと目を瞑った。
 暗闇の中、聞こえてくるのは男達が気持ち良さそうに絡み合う声。
 そして訪れる確実な快感。

「ふあ、ぁぁっ……き、きもちいっ……一人でするより、ずっと……!」

 自分がするよりもずっと気持ち良いものが、ぐいぐいと押し寄せてくる。
 太い指が何本も僕のモノに絡みついてくる。休みなく責め立ててきて、まともな言葉はもう出せなかった。
 いくら誰も居ないと言っても、劇場の従業員は居る。微かな理性が僕の口を閉じる。そんなものを気にしないのか、隣から襲い来る指は僕の叫びを止めてくれない。
 さわさわと大雑把に撫でられてから、ぐりぐりと先端をこねくり回される。一定の責めだけじゃない。だから予想ができなくて、慣れない器官はあっという間に精液を噴き出しそうだった。
 真っ暗闇の中だけど、おそらく僕は全身真っ赤に染めているだろう。どんなところに触れたって悶絶するほど敏感になっている。
 それぐらい……暴れ回りたいほど気持ち良くされていた。

「ぐぅ……うぅう、僕、ぅううっ……んぁ、ああ……っ!」

 口を抑え、目を瞑り、両脚を大きく開いて……隣の人に自分の者を扱いてもらっている。
 周囲には絶頂に近い男の悲鳴。隣から……微かに聞こえてくる興奮した息遣い。
 僕の体だけじゃなく、精神を犯していくものが多すぎた。
 不安定な姿勢から丁寧に指でぐちゅぐちゅにされて、僕は「もっともっと」と……あの男優のように『もっともっと』と……腰を彼の指に押し当てていた。

『「うぁ、ぁぁぁ、ぁあああっ……!?」』

 びくんと僕が声を振り絞ってしまった瞬間、主人公達は幸福なエンディングを迎えた。
 結ばれ合って口付けを交わす二人。ぐったりとした主人公に唇に吸いつく恋人。
 僕も主人公と同じように、ぐったりと背凭れに体重を預けてしまった。
 スタッフロールが流れてハッとする。

「……ご! ごめん……! ごめん、なさい……」

 ライナー・ブラウンの掌が、僕の吐精を全て受けとめていた。
 官能映画を見て感情が昂ぶっていたとはいえ、なんてことを。
 少しずつ熱が収まって逆に寒すぎるぐらい僕の背が凍えてきた頃、彼は持っていたティッシュで丁寧に、淡々と精液を拭う。
 僕は謝罪し続けた。何も言わずに口角を上げている彼が怖かった。
 折角一緒に帰れるぐらい仲良くなれたのに。彼が、こんなことをする人間だったなんて。

「お前が、こんな風に乱れる人間だったなんて」
「っ……」

 彼の手が綺麗になると、その手は僕の腕を掴む。掴んだ僕の手をぐいっと引き寄せ……ゆっくりと彼の股間に導いていった。
 乱暴に引き寄せられ、彼の座る座席に寄りかかってしまう。ライナー・ブラウンの顔が間近に見える。
 にこやかな顔など何処にも無い。別人だと思っていた通り、そこに居たのは社内で明るく誰にでも声を掛ける彼ではないと確信できた。

「俺が興奮しているのは、映画を見たからじゃなくて……お前の声のせいだからな」
「……ごめん……なさい……」
「お前のを気持ち良くしてやったんだから、今度は俺がお前に気持ち良くしてもらわないと、不公平だよな? でも、映画が終わっちまったからもう外に出ないと」
「……えっと……?」
「このままお前だけは、不公平だよな? じゃあ、もっと声の出せるところで公平にしてもらおうか」

 映画館の照明が点く。少しずつ明るくなる。
 大柄な彼は立ち上がり、上映前に脱いでいた上着を着ることもなく前に持ち、自然な動きで座席から立つ。

「行くぞ、ベルトルト」

 いつも呼んでいるものではない声。それでも親しみを込めたような声で、僕の体を引く。
 声を掛けてくれたのではなく、命じられたかのようだ。咄嗟に「う、うん」と答えてしまう。
 僕はその声に首を振るうことはしなかった。そんなもの、出来る訳が無かった。




END

会えないアニに恋するリーマンベルトルトはかわいいし、痴漢に遭うベルトルトはもっとかわいい。「間違ってエロ映画を上映している劇場に入ってしまったベルトルトが痴漢に遭う」「リーマン」というお題を頂きました。社会人の現パロというものを初めて意識して書きました。普段書かない「幼馴染ではないライベル」はとても新鮮です。幼馴染がいないと命じてくれる人がいなくておろおろするベルトルトは本当にかわいい。オーウ! イエス! 続きを読む場合はわっふるわっふると打ち込んで略。
2014.6.24