■ 「じりじり針が進む。出口なんてなかった。」



※パラレルです。現パロとは何だろう、巨人のいる世界ではない彼らは彼らと言えるのだろうかという哲学に浸りながら考えたライベルは、ベルトルトではないベルトルトでもかわいく、ライナーではないライナーでもかわいい。
※某忍者TRPGのシナリオを元ネタにしていますが匂わす程度です。




 /1

 ライナーの指が暖かく、その熱のおかげで僕は目を覚ました。

 狭い宿舎のベッドではない、僕の足が伸ばせるほど大きなベッドに寝かされていた。一度目を開けたが瞼は重たく、無理矢理開こうとすると頭が嫌な音を立て悲鳴が上げる。
 頭を摩り痛みを和らげようとするが動く腕は右手だけ。左手は誰かに掴まれていて自由に動かせず、どうしてだろうと思いながら左側に視線を向けるとライナーが椅子に座り、僕の左手を握っていた。
 視界がぼやけているせいで腰かけている彼の姿がハッキリと見えなかった。それでも椅子に座る男性が同郷の彼だと判ったのは、僕の左手を繋ぐ暖かさが記憶の中の幼馴染と同じだったからだ。

「ベルトルト」

 僕を心配するライナーの顔を改めて目にしなくても、ぎゅうっと力を込めて左手を掴んでいることから彼の必死さが伝わってくる。彼は、訓練に失敗して事故を起こした僕を案じてくれていた、ようだった。
 「ベルトルト」と、名を呼ばれる。
 掴まれていない右手で自分の額を抑えてみると、包帯が巻かれていることに気付く。額だけじゃない。体中に包帯が巻かれていた。
 僕は立体機動の訓練中に落ちた。そこまでは覚えている。だけどその先がさっぱりだ。気を失い病室に寝かされているのは状況から読み取れるが、一体どれぐらい眠っていたのか、気を失っている間に周囲がどうなっていたかまでは判らなかった。
 「ベルトルト」と、またライナーに名を呼ばれる。
 混乱中の僕を他所にライナーは爪を立てるほど強く僕の左手を握り締め、僕の名を呼ぶ。……そして無言が続く。彼の付ける腕時計のじりじり動く針ぐらいしかこの病室に音は無い。針と無言と伝わる痛みに耐えきれなくなった僕は「強くしないでくれ」と文句を言う。それでもライナーは手を離してはくれなかった。
 心配性な彼は僕の左手を両手で包み込むと強く強く握り締め、涙を流す。そこまで心配してくれなくてもと言おうとしたとき、ライナーは掴んでいた僕の左手に口付けをした。

「お前が、生きていて良かった」

 搾り出すライナーの声はとても低く、涙色だった。

 ……ただ訓練中に着地失敗しただけだというのに。運悪く頭から落ちて気を失っただけだというのに。過保護すぎる行為に唖然とする。
 いや、運悪くではないか。僕は運が良い方だ。大怪我をしたら巨人化してしまうかもしれないのだから。普通の人間なら頭から落ちたら一大事だが僕にとっては。
 だというのに。

「お前が、消えなくて良かった」

 …………。今のライナーは戦士じゃないから、こんなに感動している。
 心配してくれる優しさは嬉しい。けど自分の傍に居たのが本物の彼じゃないと判った途端、心が急に冷めていく。
 ライナー、窮地から助かったっていつまでも感動しないでくれよ。こんなのどうってことないことなのに。君という人は。
 苛立ち、手を振り払う。だというのにライナーは悲しい顔一つせず、ただ僕が気恥ずかしくて手を解いたとしか思わないかのように笑顔を向けてきた。しかも今度は僕の頭を撫でようと手を伸ばしてくるじゃないか。
 溜息がもう一度出そうになる。僕は少し眠っていいかとシーツを頭から被った。気の抜けた平和な顔のライナーを見ていられなかったからだ。
 被ったシーツの外でライナーが何かと僕に話しかけていたが、僕の元には半分以上届かない。生易しい言葉なんて聞きたくなかった。相槌も中途半端に、僕は目を閉じて殻に閉じこもりたかった。
 訓練中に事故を起こして目立ってしまったことはしっかり反省すべきだと思う。きっとアニにも要らぬ心配を掛けてしまっただろう。後の会議で謝らなければならない。その会議のときまでライナーが元通り戦士に戻ってくれればいい。僕らはここから進まなきゃ、出ていかなきゃいけないんだ。じっと考えているとずきんと頭が悲鳴を上げた。こんなに痛いのだから傷は結構深いのかもしれない。でも騒ぎになっていないのだからそうでもないのかな。ずきずきと響く音を聞きながら、僕は――――。



 /2

「今年の誕生日は何をくれるんだ?」

 じりじりと太陽が俺達の肌を焼く夏の日。
 夏休みに入ってまだ数日しか経っていないその日は、俺の誕生日が近かった。家畜小屋の前で一仕事を終えたベルトルトに言うと、「ライナーは何が欲しいの?」とのんびり訊き返してくる。
 さっきまで鶏の世話について話し合っていたせいか、その前は彼が自作した絵本の話をしていたせいか。いきなりの方向転換で頭がついていけないのか、ベルトルトはぽかんとした顔をしている。「お前は何をくれるんだって聞いたんだ」ともう一度急かすと、「今年は何もいらないの? そっか」と一人で納得しやがった。おいこらそうじゃない、勝手に話を進めるな、それお前の悪い癖だぞ。早口で反論する。

「僕はね、ライナーが欲しいものをあげるよ。だってライナーに喜んでもらいたいもん」

 わざとやっていたのか俺に怒鳴られたベルトルトは、構わずニコニコと笑っている。
 庭にある蛇口を捻り、家畜の世話で汚れた手を洗い始めた。バケツの中に溜まっていく冷たい水で何度も何度も指を洗う。夏の暑い日だから無駄に水を浴びたくなるのは俺も同じだ。俺も一緒に流れる水に手を付け、考え込む。
 「何でもいいのか?」と尋ねると「えっと、小学生でも用意できる物がいい」と常識的な返事。ああ、そうだよな、10歳に用意できるものじゃなきゃダメだってことぐらい判っているけれど。

「……俺、ベルトルトが欲しい」
「ん……?」
「全部。欲しい。誰にもやりたくないから。俺の言ってること判るな?」

 流れる水に手を付けながら、2人でばしゃばしゃと水を叩きながら、夏の光の下でずっとずっと考え込み、答えた。

「それ、去年も聞いたよ。ライナー、去年と同じこと言ってる」
「そうだったっけ」
「うん。だから去年、あげた。僕を貰ったの覚えてない?」
「……そうだったな」
「今から返してくれればまたあげるよ」
「ううん、返すのは嫌だ」

 だって返したらまた貰うまで俺の物じゃなくなるし。理由を話すと「なんだよそれ」とベルトルトがクスクス笑う。
 じゃあどうするの。どうしようか。物欲が無い俺は彼と笑いながら夏の陽の下で過ごす。

「ベルトルト」
「なあに? んっ」

 水道水で遊ぶ中、至近距離にあった顔に顔を寄せた。何の前触れも見せず、俺は静かにベルトルトの唇に自分の唇を重ねる。
 滑らかに合わさった唇の位置を数秒固定する。
 お互い目は瞑らず、目の前にある目を見ていた。
 ただ合わせるだけの緩いキスを数秒した後は、ぺろりとベルトルトの唇を舐めてみる。すっとベルトルトが体を引いた。驚いてはいたが声を荒げるほどではないらしく、少しだけ顔を赤くして俺の目を見る。

「去年はお前とキスする権利を貰ったから……今年は、この続きが欲しい」
「え、えっと、その。具体的にはどれぐらいあげればいいの……」
「ぐ、具体的に言っていいのか!」

 「言い出したら止まらないぞ!」と前置きをすると「だって、ちゃんと言ってくれなきゃ僕、判らない……」とはにかんで唇を歪ませた。
 僕一人じゃ何も思い浮かばないもの……。その声は切なそうな色を含む。
 少しずつ確認していくと……ベルトルトなら何でもしてほしいという俺と、ライナーだったら何でもするよという彼が居ることに気付いた。なんてことだ。キス以上ってなると次は何をすればいいんだ……? でも早く貰っておかないと! 誰にもやらないんだからな! 俺のだから! などと考えていると、遠くから俺の親父が「水を出しっぱなしにするな!」と雷を落としてきた。
 叱られて慌てたベルトルトが蛇口を捻る。と、物凄い勢いで水が噴き出した。凄まじい水が俺の顔を襲う。その衝撃によって信じられないぐらい子供の身体が吹っ飛び、ベルトルトが絶叫を上げ、でも笑っていて、きらきらと夏の陽と雫の中で笑われながら、俺は――――。

 大切な幼馴染を、手放したくない。ずっとずっと傍に居なきゃ。
 そればかり考えるようになった。



 /3

 一休みして包帯を解こうとするとライナーが怒鳴ってくる。
 「何の為に包帯を巻いているのか考えろ!」なんて、怪我人に真っ当な言葉を投げ掛けたつもりなんだろう。そう、彼にとっては。
 でも僕にとってはなんて下らない言葉だった。包帯の下の怪我はもう完治しているのにどうしてこんな暑苦しいものを付けていなきゃいけないんだ。言い返してやりたかったが、ライナーは僕の言葉を挟む余裕も無く怒鳴り続けるから口を噤むことにする。
 そうだ、早く兵舎に戻ろう、訓練失敗を皆に謝りに行かないと。そう思って体を起こす。部屋の出口まで向かおうとする。だがライナーに「どこにも行くな!」と止められてしまった。
 落下事故後の怪我人なんだから大人しくしていろという優しさは伝わる。だけどその優しさを素直に喜ぶことはできない。動けるぐらい僕は凄まじい回復力があるというのにまだ君は戦士に戻らないのか? 彼を見て胸が、体中が、頭がずきずきと痛くなった。

「……ねえ、アニは。アニは……呆れているかな。こんな怪我しちゃった僕を……。笑われちゃうかな」
「そんなの考えるな。今は自分のことだけ考えろよ」

 僕の体を第一に考えてくれるライナーの目は、とても優しい。
 普段なら喜ばしいことなのに、泣きたくなるぐらい嬉しい筈なのに、本来のライナーではない彼を目の当たりにして素直に笑顔になることはできない。

「君はアニのこと、『そんなの』なんて言うんだ?」

 悲しい。仮にももう一人の幼馴染の少女だというのに。彼にとっては訓練所で偶然居合わせただけの存在になっているのか。

「悪いか。たとえお前にとって大切な存在でも……俺は、お前のことが一番心配なんだよ」

 嬉しい。でもそれ以上に彼女を蔑ろにした怒りが生じる。喉の奥からぐっとこみ上げるものがあったが必死に飲み込む。
 あんなに近い出口を名残惜しそうに見ていたが、それでもライナーは許してくれそうになく、言われるが儘にベッドに入った。普通の人は怪我をしたらどれぐらい眠らなきゃいけないのだろう? 大抵の傷は数分経てば治るから加減がよく判らない。そんな風に大人しく考える間もライナーは内容の薄い話をし始めてきたり、腕時計を見て食事の時間だと言い出して飯を持ってくるなり僕に食べさせようと献身的に介護をしようとしてきた。
 スプーンによそった飯を「あーん」とされるなんて、腕まで怪我はしてないよと間接的に拒絶してみたが、「俺がしたいからじゃ駄目か?」とおねだりされてしまう。……なんだろう、その不安げな目は。もっと君は凛々しい人だったろう? 平和な時間を過ごした君はこんなに生ぬるく、女々しい性格になってしまったのか? 妙に子供ぽい彼がおかしくて吹き出してしまった。
 苛立ちよりも、呆れの方が大きくなってしまった証拠だった。

「なんだ。急に笑い出して」
「……平和な君は抜けていて、可愛い」
「それ、喜ぶべきか?」
「巨人のいないときぐらい平和な時間のままでいいのかな。どうなんだろう。僕にはもう判らないよ」
「…………」

 僕は口を開ける。「あーん」と声に出して彼を誘う。
 彼がスプーンを向ける。口に入れる。栄養が全身に行き渡る。『こんなの子供のとき以来だ』。そういえば昔、同じことをライナーにしてあげていたような気がする。キスを強請られたり、食事を食べさせてくれって頼まれたり、肩を揉んであげたり耳掃除をしてあげたり。

「こら、ちゃんと食えよ。『毎日してることなのに』どうしてお前は上手に食えないんだ」

 そうだ、たまにはこんなままごと遊びもたまには悪くないと、僕は――――。



 /4

 日付が変わる。13回目の8月1日を迎える。
 真夜中でも夏の俺の部屋は暑い。クーラーなんて高級品は俺の個室にはなくて、それでも窓を全開で扇風機を最高風力で回せばそこそこ涼しくなるんだが、今日ばかりはそうはいかない。
 窓は全部閉めてある。厚手のカーテンで外を完全に遮断した。扇風機は最大風力で回している。おかげでさっきまでベルトルトが読んでいた漫画がパラパラ勢いよく泳いでいた。
 じとりと汗が垂れる。
 この汗は夏の暑さだけが原因じゃなかった。ポタリと額を這う汗は重力に逆らわず落下し、俺の下で寝転ぶベルトルトの胸に落ちる。ベルトルトはシーツの上で不安げに俺の顔を見上げていた。
 「ら、ライナー」 俺を呼ぶ声が扇風機の音で掻き消されそうだ。俺の体は真っ赤で、全身が熱くなっていた。同じく服を全部脱ぎ終えていたベルトルトも恥ずかしさのあまり真っ赤になって汗をだらだら流していたる。
 暫く裸で見つめ合っていたが、堪え切れずに俺から抱きしめて背中を撫でた。一時間前にシャワーを浴びたからべたべたとした不快感は無かったが、それでも汗ばんだ体は少しだけ気を重くさせた。

「や、イヤなら、やめようよ。ゲームでもしよ……?」

 自分の汗を気にするベルトルトが顔を背けながら問う。

「嫌じゃない! やめない!」
「そ、そう。ライナーが嫌じゃなければ、僕……」

 ベルトルトが言い切る前に、背中を撫で、今度は頭を何度も撫でた。
 撫でられた彼は気持ち良さそうに目を閉じることもあったが、やはりこれからすることが不安らしくそわそわしていた。
 度々目を開けて俺を見るが視線の先は定まらない。今日が始まるまでの間、漫画好きな彼が時間を潰しているときも落ち着きがなかった。漫画を読んでいたと思ったらいつも持ってる創作ノートに物を書き始めたり、かと思ったらうーうー唸り始めたり。もしかして眠いのかと尋ねると、「初めてなんだから、緊張ぐらいさせてくれよ……」と上ずった声を出されてしまった。
 気持ちは判る。かと言って今更俺は引けない。ベルトルトから貸してもらった漫画や小説を参考に、とりあえず少しでも気持ち良くなってもらうため、露出した彼の胸の突起に指を滑らした。
 「あっ」 緩い悲鳴を上げる。それが好い反応だと信じて指で摘む。
 くりくりと押したり、ぴんっと引っ張ったりする。「あっ、あっ、あ」と漏れる低音が正解なのかいまいち判らない。けど突くたびに泣いてくれるのはきっと良いものなんだと信じ込むことにした。

「は、恥ずかしい、よ」
「ああ、恥ずかしいな。でも、お前が嫌じゃないならやめない」
「……う、うん、嫌じゃない。けど恥ずかしいんだ。ごめん、ごめんね……」
「あ、ああ、すまん」

 ベルトルトは俺が突くことが嫌なんじゃなくて、「自分の口から漏れる嬌声に照れてしまうんだ」と赤面して言った。
 真っ赤になって声を上げるベルトルトは可愛いと思う。そうか、こんな姿が見たくてみんなはこんなことをするのか。好きな人の新しい姿は見たいものだしな。感動しながら何度も胸を指でいじくり舌で弄んでいると、いつしか彼は唇を噛み声を我慢し始めてしまった。
 「……ライナー、楽しいかい?」 熱い息を吐かれ、やや水気を含んだ瞳で何度もベルトルトは確認するかのように尋ねてくる。お前の見たことのない顔を見るのは楽しいと素直に頷くと、「君は恥ずかしいことをさせるプロだね」と困りながら微笑んできた。

「でも、ベルトルトが嫌なら俺……。んっ!」

 言い訳をしようとしたとき、ベルトルトはバッと俺の首に両腕を絡めてきた。胸に舌を這わせていた俺の頭を抱き締めるかのように。
 腕を彼の背中に回し、汗なんて気にせず体を密着させる。頬に口元、耳に息が吹きかけられる。変な声を出してしまうぐらい甘く熱い息遣いだった。

「お、俺が欲しいって言ったからって、全部あげる必要は無いんだぞ?」
「……今更それを言うのは、卑怯だよ」

 俺もそう思う。
 でも、ベルトルトは欲しいって言ったものを何だってくれた。去年も。一昨年も。その前の年も。小学生のときも中学生になっても。
 だからちゃんと彼の声は拾っておかないといつしかとんでもないことになってしまうような気がして。

「ベルトルト」
「う」

 時々、妙なほど弱気になってしまうことがある。深呼吸をし抱きついて、今更ながら精一杯の告白をした。

「ベルトルトが平気なら、朝までずっと愛し合おう」

 ……だというのにベルトルトはいつまで経っても頷かない。
 でも拒絶を示す行為も何一つしなかった。「いいんだよな?」と俺が確認して、絡めた両腕の力がぎゅうっと強くなった。
 それをOKだと信じて、震えて涙を流すベルトルトの両頬を掌で包み込み、口付け、俺は――――。

 彼を離したくなくて、長い時間を求めてしまった。



 /5

 部屋を出て行こうとするライナーの腕を、左手で掴んだ。
 窓の外は暗い。真冬の暗闇は静かで凍るように寒いだろう。僕が目を覚ますまでの間にどれぐらい夜が訪れていたのかは判らない。でも『僕にとってこの部屋での2人きりで夜は初めてだった』。
 ベッドの元までライナーを引き寄せて、顔をこちらに向けさせる。じりじりという針が響く中、「寝すぎて眠れないのか」と、そんなありきたりな言葉を口にする彼に、

「ライナー。まだ君は、戦士じゃないのかい」

 言い放つ。
 …………ライナーは、何も答えなかった。
 君は、まだ、違うんだね。
 ライナーの表情は、「戦士とか、何を言っているのか判らない」と今にも言いたそうなものだった。
 その顔だけで充分だった。本物の彼なら今の言葉だけで反応してくれるものなのに、何も言わずにぽかんとしているのだから彼は違う。
 僕の求めているライナーじゃない。彼はまだ、僕の元に来てくれない。
 露骨に落胆の溜息を吐いてしまった僕に、ライナーは不安げな目を向け、「どうしたんだ?」と優しく僕の頬を撫でてくる。
 苛立ちはあった。悲しさで突き放したい気持ちもあった。でもそれ以上に恐ろしさがあった。
 何とも言えない恐怖心に襲われていた。

「君が消えていくのが、怖いんだよ」

 また腕を掴み強く引き寄せ、今度は僕の方からライナーの手に口付けた。

「君が僕を守ってくれないんじゃないかって、怖いんだ」

 ……僕が目覚めたとき、ライナーは「消えなくて良かった」と呟いてくれた。僕が居なくならなったことを喜んでくれていた。
 その想いは嬉しい! 僕だって同じような安心感を得たい! ライナーが消えないという確信を持ちたいし、君が消えたままの現実なんて受け入れたくない!
 ライナーの腕を掴んで離さず、いきなり指に口付けてくる僕にライナーは困惑を隠し切れずにいた。「どうしたんだ?」 二度目の問いかけと共に、僕の頬をもう一度撫でてくる。

「ライナー、昔のことは覚えている?」
「……もちろん」
「なのに、どうして戦士のことは忘れちゃうんだ。そんなにライナーにとって、昔のことは……どうでもいいことなの?」

 深いところまで口にしたのに、それを聞いてもなおライナーは「何の話をしているんだ?」と不安げな表情を消さぬまま変わらなかった。
 何を言ってももう戦士の彼には会えないのか? 絶望感が押し寄せる。ああ、本当に僕は一人ぼっちになってしまったのか。そうなのか。実感し、あまりの寂しさに体が震えてきてしまった。
 するとライナーは僕の涙を流す両頬を包み込み、唇を寄せてくれる。
 そのやり方は、記憶の彼方にあるキスと同じだ!
 たとえ兵士になっても僕を包み込んでくれたあの行為をしてくれる! どうしてそこは忘れないのか不思議で堪らない! 都合の良いところだけ抜けて、大切な想い出はまた蘇って! いっそ全部無くなってしまえば吹っ切れられるのかもしれないのに!

「ライナー。……しよう? すれば昔のこと、思い出して……くれるよね?」
「…………そんなの、俺は最初から覚えている」
「ううん。覚えてないんだよ、君は……大事なことを、全部、忘れて……辛いことから逃げて……そんなの、許されない……」
「もういい! 言うな! ……辛いことなんて言わなくていいから……!」

 心配性な彼は、僕を慰めてくれるように体を重ねてくれる。
 暖かい。指も舌も絡みつく腕も足も。傷が癒えた頭を撫でる大きな掌も心地良い。ぐるぐると本物と偽物のことを考えながら、彼の愛撫を受ける僕は――――。



 /6

 中学3年生になったベルトルトは、相変わらず一人で過ごしているらしい。
 3年前もそうだった。俺が一年早く進学して、先に中学生になったときも彼は小学校で一人で過ごしていた。一年間ずっと。特別な仲の友達を作ろうとせず、平気な顔で一人で登下校をしていた。そして今年。俺が高校に入って3ヶ月が経ち、以前と同じようなことを繰り返していることに気付く。
 流石にどうなんだと文句を言うと、「僕は問題児じゃないよ」「この一年はライナーと同じ学校に行くために勉強するからいいんだ」「これでも僕、なんでもできる優等生ってことになってるんだい」と平然と言い返されてしまった。
 何でもそつなくこなすというのは昔からの評価らしい。虐められている訳でもなく、ただ特定の誰かと親しくなるということは一切無いだけ。その分俺と仲良しだからいいんだと胸を張って言うベルトルトに嫌な気持ちはしないが、正直誇れる話でもない。

「俺が大学に行くときも、同じことするんだろ」
「あ、ライナーは大学進学なんだ? どこに行くの? もう決まってる? 今から勉強しなきゃ」

 また3年後も同じことをしないか。不安でならなかった。
 ……夏の日差しが暑い中、俺の誕生日が明日に迫る夏休みの図書館。待ち合わせの時間より前に到着し、彼を探す。
 中学生達が賑やかに友人らと笑い合っている光景の中、俺の一つ下の幼馴染は、隅の席で本やノートを広げていた。
 一人きりで本を読み、ノートを広げ、ガリガリとペンを走らせ夢中になっている姿は、俺にとってはいつも通りの光景だった。普段通り無表情で必死にペンを走らせている。でもその隣で楽しそうに笑う学生達を見てしまうと、一人ぼっちの彼はどこか浮いているように見えてしまった。
 今より子供だった頃。俺のものだと言い張って、誰のものにもするもんかと言い回って、彼を俺だけの存在にしてしまった。それは後悔していない。でも独占欲が強すぎて彼を小さな世界に閉じ込めてしまった罪悪感はある。後悔はしてないのに罪悪感があるなんてと言われそうだが、あれから数年経って少しだけ俺の視野が広くなったからこんな考えをするようになってしまった。
 いつまでも一緒に居たいと思う。でも大人になっても彼を独占していることなんて出来ない。そうだ、今から少しずつ彼が……いや、俺が彼から離れなければ。今のうちから同い年の彼らの中で笑顔で混じる彼が見ておかないと。そう考えながら、俺はこっそり……机に向かうベルトルトの背後に回る。
 複雑な言葉がいくつも並んだページ。奇想な世界。歪んだ社会。凛々しく美しく力強い少女の姿。奇妙な魔物の声。迫力のあるマシーン。勇ましい男達のセリフ。「また小説を書いてたのか」 おどかしてやるつもりで後ろから声を掛けたつもりだったが、まさか「うあああああああぁ!?」と大絶叫を上げられるとは思わなかった。
 図書館中の利用達の視線を一身に受け、涙目のベルトルトがノートで殴りかかってくる。涙目だが俺だと判ったその顔はとても明るい。俺に会えて嬉しくてその顔なのは悪いものじゃない。けれど。

「なあ。やっぱり、俺以外にも友達を作るべきだと思うんだ」

 彼からノートを奪い取り攻撃を止めながら、以前真剣に話し合ったことを口にする。

 「だって、これから俺が居ないときなんて沢山あるんだし」と話を続けようとすると「今更何を言うんだ! 僕を守ってくれるのはライナーだけでいい!」と鋭く叫ばれてしまった。……また、利用客の視線を攫うようなことを。だがベルトルトは構わず、口をへの字にしたまま本を片付け始める。

「そんなことはいいから、ライナー、帰ろう」
「……ああ」
「誕生日のケーキ、買って帰ろうね。あのね、今年は何が欲しい? 何をしようか? 何でもいいよ」
「どうしようかな」
「今年もライナーの家にお泊まりするって言ってあるから。えっと、何でも……いいからね……その……何だって……するよ……」

 自分で言っておきながら、照れくさそうにどんどん声を小さくしていく。
 可愛いことしやがってと思いながら、俺は奪い取った彼のノートを捲る。彼はやや内向的で一人暴走しがちな面はあるが悪い奴じゃない。頭も悪い方じゃないし、人に誇れる趣味や特技も沢山ある。面白いことを沢山思いつくところとか。素直で何でも信じ込むところとか。ちょっと思い込みが激しいけど感受性豊かで……そう、長所がいっぱいある自慢の幼馴染で弟で恋人なんだ。だからもっと。俺から離れないと。嫌だけど。本当は嫌だけど。ああ、でも。
 暫く経ったらまたこの話をしなきゃな。彼の大量の字を見ながらそんなことを想って、俺は――――。



 /7

「ベルトルト。落ち着け。怖がらなくていい」

 ライナーが、ライナー自身を引き抜いていく。僕の中を満たしていたライナーが、離れていく。遠くなる? やだ、出ていかないで! 「でも」 もっと、もっと、いて! 「けど」 いやだ、どこにも、いかないで! 「…………」 こんなに懇願してるのにライナーは出て行ってしまう。いやだ。手放したくなかった。けど引き留めるだけの力は僕にもう残っていない。
 おねがいだ! お願い。ライナー、ライナー! 何度も名前を呼ぶ。痛くない。君のだったら全然。痛いけど我慢できる。それ以上に気持ちいいことだから。君となら何をしたって僕は嬉しい。痛いことだって構わないんだ。君だからだよ。君だけなんだよ、こんな風に思えるのは! 幼い頃から呼んでいた名前を何度でも呼んでやる。幼い頃からの彼を思い出してほしくて呼び続ける。
 けど、彼は帰ってきてはくれなかった。
 絶頂の余韻に体を震わせて、涙を零して快楽を堪能する。ああ、僕ばかりが気持ち良くなっちゃった、ごめん。まただ。彼は変わらず困ったような笑みを浮かべている。ごめん。自分よがりだと判っている。でもごめん。僕は昔の君に会いたいんだ。ごめん。だから夢中になってしまった。君を置いて僕は。見つけられず、遠くに。ごめん。ごめん。ごめんなさい。ごめ。

「いいかげんにしろ」

 何十回も謝罪を繰り返しているとライナーがぱちんと僕の頬を叩いた。
 叱られているのにそれでも興奮は鎮まらない。疼きも罪悪感も絶望も幸福感も何一つ止まらない。いくら優しく頬を叩かれたって、肩を揺さぶられてもざわざわした胸の振動と頭のずきずきという悲鳴が引っ切り無しに騒ぐばかりで。
 そんな僕を放っておけばいいのにライナーはずっと抱き締めてくれている。
 ふと耳にライナーの左胸が当たり、どくんと心音が聞こえる。僕のものとは全然違う脈動に驚き僕は声を上げる。
 そうだ。ねえ、ライナー! 僕以上に君も気持ち良くならないとおかしいよ! 君もいっしょにいこう! 僕達はいっしょがいいよ。僕ばかり乱れて君は落ち着いて、そんなの不公平だよね! 「そんなことは……」 ないって? だめだよ、今度はライナーが気持ち良くなってね。僕、もっと冷静になるから。ライナーにばかり大変なことはさせないよ!
 ベッドに腰掛けさせて、股間に顔を埋ずめる。ライナーは照れて僕の名前を呼んでくる。これぐらいのこと前にやったことあるのに恥ずかしがらなくていいのに。
 そうだよ、『何度も咥えたことあっただろう』?
 思い出して!
 さっきまで僕の中に入っていたモノに指を絡め、自分がされて気持ち良い動きをしてみせた。今咥えたらきっと僕の味がするんだ、でもライナーの味の方が濃いから判らなくなるに違いない。

「おい、やめろよ! そんなことしなくていい! 『初めてなんだから』、無理するな!」

 優しい言葉を吐いてくれるライナーに報いないと。
 だって僕はライナーが大好きだから、ライナーの体も、ライナーから出てきたものも全部好きなんだから……! 本物の君が好きなんだ。偽物の君から昔の君を取り戻してあげたいんだ! 早く任務に戻ろう! こんな平和なところから出て行こう! 僕達にはしなくちゃいけないことがあるんだ! 早くこんな檻から出ていかないと! だから思い出そう! 昔していたことをいっぱいやって、早く戻ってきてよ!
 息を吹きかけて、口付けて、舌を這わせて密着させて。深々と咥えこんで喉の奥まで味わって。溜まった精液を舐め取って唾液といっしょに飲んでいって。ライナーが気持ち良さそうな声を出してくれるまで、僕は――――。



 /8

 無事俺と同じ高校に通い始めた彼は、幼い頃から何も変わらず幸せそうに過ごしている。
 「また一緒に学校に行けるね」と笑う顔に迷いなど無い。文句を言えないぐらい晴れやかな表情に俺は何にも言えない。
 でも少しだけ心にしこりがある。17回目の俺の誕生日を迎えようとしていた1ヶ月前、その苦悩は形になって俺の前に現れた。
 誕生日の1ヶ月前から彼は「今年は何が欲しい?」と尋ねてきた。2人きりの帰り道、毎年恒例の会話にそのときは「どうしようかな」と曖昧に答えるだけにした。
 ガキだった俺はいつも「ベルトルトが欲しい」と強請った。大昔から俺は一つ年下の幼馴染のことが大好きで、何でも言うことを聞く彼を束縛したくて毎年言い続けてきた。でもそのせいで彼を一人きりにさせているとしたら。俺の執着のせいで彼を縛っているとしたら。
 十年近く続いてしまった失敗を、見直す時期なのかもしれない。

「何でもいい」

 不安になった俺は投げやりにそう答えることにした。
 そのときのベルトルトの顔と言ったら。例年通りの言葉が聞けなかった彼はひどく混乱し、に焦って「何って、何?」と何度も尋ね直してくる。「何でもいいんだよ」と言っても「だから、何でもって!?」と冷や汗をかきながら追及してくる程だった。
 けどその程度で俺達は喧嘩別れなどしない。一旦冷静になった彼はその会話から2日後、いきなり行動し始めた。なんとバイトを始めたという。
 高校生になったからと周りには話しているが、ああ、金を稼ぐ気になったってことは、つまり……何か買いたい物があるんだな……まさかと言うまでもなく、俺の誕生日プレゼントを買うために……。判りやすい行動に俺は唖然としてしまう。
 最初は不安だった。ちゃんと一人でやっていけるのかと毎日不安でならなかったが、元から彼は一人で何でもできる人間だった。俺が一年先に進学してしまった後も誰にも目にかかることなく優等生として過ごしてきた彼が、一人で何かをし始めたところで何も問題にはなれなかった。
 それどころか通学時に毎日のように「昨日のバイトでこんなことがあったんだよ」と楽しそうに話してくる。その話はどこを取っても普通で、彼が器用に今まで俺の居ないところでも生きていたものと全く同じ。そつなく何でもこなす彼らしく、何の不安も無い生活の切れ端を聞かされる。もしかして俺の心配は無用だったのかもしれないと思わせるほどだった。
 そうして終業式が終わり、明日から夏休みという帰り道。「ライナー、安物しか買えないから期待しないでね」「安物って何を買うつもりなんだよ」「えっと、秘密にした方がいい? でも今までライナーは事前に言ってたから、えっと」「別にいいさ」「あ、そのっ、もう少しだから楽しみにしていてね!」 彼が手を振る姿を見送って、俺は――――。

 彼を見失った。



 /9

 シーツの中。ライナーは僕を抱き締めながら「落ち着いたか」なんて優しく声を掛けてくる。「君こそ」 おどけて言うと、「俺は最初から落ち着いている」と返してきた。
 じゃあ……ねえ、思い出した? 僕がおそるおそる尋ねるが相変わらずライナーは「何を?」と不安げな顔のまま変わらない。……出来れば直接言わなくてもあのことに気付いてほしかった。真正面から君の傷を抉ることはしたくなかったから。
 でも幾ら努力しても思い出せないのなら……いつかは切り込まなければいけない。僕は意を決して「巨人のことだよ」と口にする。
 ライナーが黙る。黙って、僕を強く抱き締める。
 ベッドの中で彼の肩に顔を埋めている僕は彼の顔を確かめることができない。その力の強さが、彼が「巨人」という言葉に敏感に反応していることを表していても、どのように受け取って傷が開いたのか判らなかった。ねえ、君は今……と声を掛けようとすると、

「もう……言うな」

 ライナーは僕の言葉を奪った。気付いたのかな。顔色を伺おうとしたが、

「こんなときに嫌な話をするんじゃない。今は俺のことだけ考えていろよ」

 彼は……「自分の使命を思い出した」とは、言ってくれなかった。
 直接的な言葉を繰り出しても、彼は兵士のまま戻ってきてはくれなかった。

「……君は、いつまでそれでいいと思っているんだ……?」
「ベルトルト?」

 判るよ。友人を殺めなければならない未来を認められないことぐらい。優しすぎる君が辛い現実から目を背けて自分を隠してしまったことぐらい! それに弱い僕が居たことが理由の一つってことぐらい!
 だから強く言えなかった。本当の君はこうなんだって口にできなかった。責任感の強い彼に酷く大きな傷口を増やしたくなかったから!
 でもそれも限界だ。こんなに優しくても偽物じゃあ駄目なんだ。僕を愛してくれていることはとても嬉しいけど、君は君に戻らなきゃいけないんだ。強く抱き締められても喜んでいる場合じゃないんだ。

「なんで、そんなに泣くんだよ」

 壊れた彼が修復できない現状に、僕は振り出しに戻ったかのように涙を流してしまう。頭を抱える。ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱す。『数ヶ月前の傷跡が開いてしまいそうになっても気にせず』、頭を振り回し、肩で息をしてしまった。

「……なんで、だろ、うね」
「ここにはもう怖い奴らは居ないぞ。俺しか居ないんだから、怖がらなくてもいいんだぞ……」

 それから何時間経っただろう。涙を流しきってしまって何も出なくなった頭はぼうっとして、僕の中身が空っぽになってしまったかのような感覚になった。
 巨人のこととか、任務のこととか、訓練のことや人間のことや世界のことなんてどうでもよくなってくるぐらい僕は泣いて、全てを外に出しきって、さあどうする?
 真実を、話すしかないんだ。

「君にとっては辛い話かもしれないけど、聞いてほしいんだ。お願いだから耳を塞がないで僕の話を……」

 今更何を言ってるんだ、俺はお前の話をいつだって聞いているぞ。
 ……力強く言い放つライナーを見ているのは空しい。目の前で正体不明の僕を受けとめてくれているライナーは、どうしてここまで優しく生きていけるんだろう。
 彼は何時間経っても変なことを言い続ける僕を、僕の言葉を全部受けとめてくれた。
 壁。巨人。故郷。任務。人類。同期。皆殺し。座標。土産。内地。訓練兵。憲兵団。アニ。僕。君。僕が話せる限りの世界を全て話す。全部が終わる頃には、ライナーの表情は強張り笑顔はどこにも無くなった。
 随分長い時間話をしていたのに僕の中から水分は無くなることはないらしく、いつまで経っても涙は尽きない。真っ赤になった目を拭い、深呼吸をして……ベッドから抜け出した。上着だけを羽織った。窓に近寄る。外は真っ暗だと思ったが、あまりに長い時間を過ごしてきたせいか少しずつ朝陽が顔を出していた。
 僕らがここから出ずに長い時間迷っていようが、時はどんどん進んでいく。
 ライナーの時計の針がじりじりと絶え間なく音を立てていた。もしその音が止まったとしても、平和な日々が続くことはない。いつしか辛い現実がやってくるんだ。

「僕らは巨人達を利用して友人を殺めなければならないのに。こんなに混乱して立ち止まって。……情けない僕らを見て、アニは何を想うだろうね?」

 頭を抱えて乾いた声で笑ってみせた。
 いっそ彼女にこんな僕らの姿を見せて一発叱咤された方が良いのかもしれない。彼女には少しでも格好良いところを見せたいと思ったが、今から挽回できる気がしない。ねえ、君はどう思うとライナーの方を向くと、ライナーはベッドの上で眉間を抑えて深く深く考え込んでいた。
 当然だ。彼にとっては信じられないことが事実だと話されたのだから。今までの記憶が偽物で、辛すぎる現実が待ち構えていたのだから。でもいいかげん旅立たなければならない。出口はもう開いているんだから、歩き出さないといけないんだ。「ベルトルト」 ライナーが僕の名を呼ぶ。

「アニなんて女はどこにもいない。思い出すのはお前の方なんだよ」

 彼の涙を見ながら。微かな太陽の光を背に浴びながら。僕は――――。



 /10

 いくら連絡をしても返事は無い。
 誕生日当日まで楽しみにしろって? 何もくれるか教えてくれないって? どれだけ俺を待たせれば気が済むんだ? そんなに夢中になって働いてどれだけ大きなプレゼントを用意してくれるんだ?
 一体お前は何処に居る?

 7月が終わる。8月が始まる。8月が、終わっていく。胸を弾ませた日々は遠くなり、俺の誕生日になっても彼は現れない。
 ベルトルトが発見されたのは、夏休みの終わりのことだった。

 駆けつけた、病室に、居た、包帯を巻き、虚ろな眼でこの世とあの世を行き来する、変わり果てた、彼を、見た、俺は――――。



 /11

 何にも悪いことなんてしていないのに、おかしなことも怒られることも僕はしてなかったのに、いつも通りに学んで普段みたいに話をして、笑ってふざけて頭を撫でられて抱き返して手を振って喜んでもらうために歩いてあの道を通ってあの道は明るくてまだ暗くもなくて、人も居たし車も通っていたしでもたまたまの時間には誰も居なくて彼らしか居なくて彼は見ていなくて手を振った後で何処にも誰にもいなくて、腕を掴まれて引きずり込まれて殴られて痛くて押し込められて潰されて腕を捻られて刃を向けられて目を覆われて真っ暗で呼吸を塞がれて動けなくて縛られて痛くて苦しくて臭くて苦しくて痛くて怖くて怖くて助けを呼んで何度も呼んで名前を呼んで我慢して押し潰されて首を絞められて腕を着られて足を刺されて飲まされて毟られて押し付けられて挿れられて咥えさせられて舐めさせられて切り刻まれて叫んで呻いて引き千切って括りつけられて鼻水を垂らして引っ張られて放り出されて貫通させられて血を流して悶えて叫んで胃液を飲んで謝って苦しんで吹き出して泣いて嘔吐して飲み込んで食べさせられて咳き込んで折られて斬られて刻まれて何本も入れられて熱くて叫んで噴いて抜かれて縛られて蹴られてぶつけられて喚いて謝って許してって叫んで涎を撒き散らして名前を呼んで助けを求めてそれでも来てくれなくて叫んで見られて放出してまた戻されて挿れられて吐き出して戻して血を流して騒いで頭を振って名前を呼んで名前を呼ばれて名前を叫んで誰も守ってくれなくて彼も誰も僕を、僕は――――。



 /12

 『ベルトルトは一糸纏わぬ姿だ。何も身に付けていない』。いくら室内だとしても、上着一枚だけで耐えきれる寒さじゃない。
 だってもう彼の誕生日も近い、12月なんだ。ベッドから下りてふらふらと窓際に立つベルトルトにこっちに来るよう言って聞かせる。
 だというのにベルトルトはまだ呆けた顔で、「何を言っているんだ、ライナー」と、相変わらず泣いていた。
 涙が流れなくなっても、彼はぼろぼろと崩れて落ちていった。
 何を言ってるって、お前の方が何を言ってるんだよ。このやり取りだって俺達は何度してるんだ。そう、何度俺が正してやっても彼は戻らない。一瞬だけ元の彼に帰ってくることがあっても数秒ももたない。壊れた彼は壊れたたまま、いくら修繕してやっても簡単にヒビが入って砕け落ちていくんだ。

「らい、な」
「アニなんて女はいない。お前の幼馴染は俺一人だろ」
「何、を」

 再度言ってやると、最初は戸惑っていたが……深呼吸をした後「ああ、そうだね、アニは……いない……」と頷く。
 もう新品じゃない腕時計を置いたチェストの上には彼が使っていたノートがある。彼から貰う筈だった腕時計と共に置かれたノートは、もう暫くベルトルトに触れてもらえずにいる。そのページの中になら『アニ』という凛々しく美しい少女がいた。誘拐された彼が見つかった日、初めて読んで知った。
 が、そんな女が彼の周囲に居ることはなかった。小学校から高校までずっと俺に引っ付いて、俺がいないときは一人で平気で過ごしていた彼のどこに女の影が? そんな人物は、いない。
 そう、無いんだ。「でも、アニがいなくても、僕らは……巨人……」「いくら図体がデカいからって、お前は化け物じゃない!」「でも、でも、傷が……もう完治して……ほら、すぐ治るなんて、僕、人間じゃないよ……」「いつの怪我のことを言ってるんだ。『包帯なんて無いだろ』? もう12月だろ!」 そう、俺の消えた記憶なんてものも無いんだって!
 殺さなきゃいけない友人も、巨人という存在も、恐ろしい真実だって無いっていうのに! いくらでも言い聞かせる!
 ……いや、認めたくないぐらい恐ろしい現実は、彼にはあったか。

「ライナー、ライナー……ライナー」
「ああ」
「ごめん。僕は、また……ごめん。ごめんよ」
「……ああ」

 次から次へと思い出していったのか、目の色がぐるぐると変わり、ぺたんと窓の前で座り込んで頭を掻き毟り始める。ベッドに戻してやろうと近付くと、鋭く俺の名前を叫んだ。

「なあ、ライナー! 君は今、戦士なのか!?」

 ばっと顔を上げた彼は、いつもの言葉を言い放つ。
 それはベルトルトが頻繁に口にする言葉の一つだった。そして俺にはそれがどのような意味を持つものなのかいまいち理解できないものの一つだった。
 俺は出来るだけ刺激をしないように「それは一体」と問いかける。言うたびにベルトルトは傷ついた顔をするのが辛くても。彼にとってはとても大切な言葉だがいくらノートを読んでも判らない。曖昧に答えて傷付けてはいけないと思って聞き返す。戦士って何だ、教えてくれ、と。
 この後は決まってベルトルトは泣き出すか眠りに落ちるかのどちらかなんだが、

「……戦士の君は、ね……僕を守ってくれる存在なんだよ……」

 今日は俺の言葉が通じたのか、返事が返ってきた。頭を抱えながらも意味のある言葉が発せられる。
 お前を、守ってくれる存在?
 近寄って彼の体を暖めようとするが、首を振った。それでも冷えていく彼の肌に触ろうとすると、彼は突き飛ばすように腕を伸ばしてくる。

「ああ、だって戦士だもの、僕を守ってくれるんだ。僕が守ってくれって言ったら、君は守ってくれるんだよ。だって戦士なんだもの。でも君は戦士じゃない。偽物の君だから。だから守ってくれない、戻ってきて、僕を守って、僕は、戦士の君に会いたい、う、うううあああああ」

 頭を抱える彼は、おそらく暴漢達に襲われ長すぎる陵辱の日々の中でもそうやって泣いていたんだろう。
 暗闇の中、理不尽な暴力に晒される夏を過ごした彼は……たとえ現実的ではなくても、逞しい存在を夢に見ないと呼吸さえ満足に出来なかったんだろう。
 その涙はまるで、いくら助けを叫んでも守ってくれなかった俺を責め立てるように零れ落ちる。

「…………ベルトルト。俺は戦士だ」

 でも漸く彼の欲していたものの一つを理解した俺は、咄嗟にその言葉を彼に告げることができる。
 これで満足か? 戦士なんて漫画でしか見たことない言葉を現実のように言えばお前は満足するのか? 意を決して嘘を吐く。
 ……すると嘘みたいに嗚咽は止まる。ベルトルトが光のある目で俺を見る。涙が止まり、少しずつ顔が明るくなっていく。抱きついてきて、何度も俺の名前を呼ぶ。

「ライナー! ライナー、ライナー! もう何処にも行かないで!」

 ……結局、俺には壊れた彼を正すことは出来ないらしい。
 嘘でも彼を認めてやって、ヒビ割れていく心をこの世に繋げておくぐらいしか、俺には出来ないらしい。

「ああ……ごめんな、ずっと……お前の戦士じゃなくて……」
「ううん。これからずっと一緒に居ればいい! 帰ろう、全部終えて帰ろう! もう怖いものがどこにも無い、嫌な想いなんてしなくてすむ場所に!」

 涙を流して蹲るベルトルトを抱き締めてやる。今日だけで何度この腕に彼を捕えたか。何十回も抱き締めて撫でて「大丈夫だ」「もう誰もお前を傷付けない」と言っても、彼は聞かない。戻ってこない。どこかに旅立ったまま、こちら側に帰ってくることはなく、俺は――――。

 妄想の中に逃げ、出口のない世界を彷徨う彼を、見失わないように抱きしめることしかできなかった。



 /13

 ライナーの指はいつまでも暖かい。その熱のおかげで僕は自分を見失わずに済むんだ。

 彼はまた優しすぎる人間へと戻っていった。たった数分のことだった。
 戦士の彼になったと思ったらまた不安げな表情で涙している。壁の中に居る限り彼は兵士になってしまうらしい。ああ、早くここから出ていかないと! でもまだライナーはこんな狭い所で寝ていろという。一体いつになったら任務を終えられるんだ?
 僕が落ち着くまで宿舎のベッドではなく、足が伸ばせるほど大きなこのベッドで過ごしていいと言う。ずっとこんな所で休んでいたらエレンやジャンに成績を抜かされるかもしれないのに! 一般的な傷というのは一体どれぐらいの期間で治るものなんだろう? いつまで傷を治すカモフラージュをしてなければならないんだろう?
 ふと繋がれていない右手で額を抑えてみると、そこには包帯は無かった。
 あれ? 包帯は? どうしてだろう? 僕は立体機動の訓練に失敗して、落っこちて、ここに運ばれて病室暮らしになったんじゃ?
 ライナーに尋ねてみようとしたが起き抜けの瞼は重たく、無理矢理開こうとすると頭が嫌な音を立て悲鳴が上げる。なかなか尋ねられない。
 「ベルトルト!」 名を呼ばれる。
 心配性な彼は僕が頭痛で苦しんでいるのを気遣い、背中を何度も摩ってくれた。そこまで心配してくれなくてもと言おうとしたとき、ライナーは僕の肩を抱く。そして頬に優しく口付けをした。

「俺はお前の戦士だから。何も心配しないでいいからな」

 搾り出すライナーの声はとても低く、涙色だった。

 彼は戦士という言葉を覚えている。なのに、どうしてそんなに悲しい声を出すんだ?
 ああ、そうか、自分の任務を忘れていないけど同期達を殺める未来が辛くて苦しいからだよね? 判るよ。僕だって嫌だ。君が記憶を手放してしまいたくなるのも判るんだ。
 僕だって苦痛しかない世界に居たら都合の良い妄想に逃げてしまうもの。
 心配してくれる優しさは嬉しかった。けど自分の傍に居たのがあまりに優しすぎる彼なのが余計に僕を心配にさせる。
 僕を心配する彼。彼を心配する僕。きっとアニにも要らぬ心配を掛けてしまっただろう。後の会議で謝らなければならない。その会議のときまでライナーが元通り力強く逞しい戦士に戻ってくれればいい。じっと考えているとずきんと頭が悲鳴を上げた。こんなに痛いのだから傷は結構深いのかもしれない。でも騒ぎになっていないのだからそうでもないのかな。ずきずきと響く頭痛の音と、じりじりと時を刻む針の鼓動を聞きながら、僕は――――。




END

1つ年上のライナーの誕生日に体をプレゼントするショタベルトルト〜16歳ベルトルトは健気かわいい。精神崩壊ライナーもかわいいが錯乱ベルちゃんもかわいい。
2013.12.18