■ 「 わ か ら な い 」



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 巨人の異常な強さの謎、どのように生まれてくるかは不明、他の生き物を喰らわない理由も不明。ただただ殺戮のために人を喰らう、理解不能の存在。
 人が巨人を恐れるのは、理不尽な程の絶対的暴力を振るわれるからだけじゃない。たとえ小さな問題でも、訳の判らぬ存在と対峙したときに恐怖心を抱くもの。それは誰だって同じ。

「せめて巨人が人を喰らう理由が、『お腹が空いたから』っていう普通の理由なら……まだこんなに怖いと思わなかったでしょうねぇ」

 サシャが何気なく雑談で口にした言葉に、大勢が「確かに」と頷いていた。
 判らないものは怖い。理解があれば愛すら生まれるという言葉があるぐらいだ。大勢が頷く姿を見ながら俺も納得する。
 そんなところで「にしたってサシャの説明つかない食欲は怖いぞ」という話題で食堂を湧かせた。



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 俺の拳が血に濡れていることに気付いた。
 
 それまで自分は食堂で仲間達と楽しく語り合っていた筈だ。今日も訓練が疲れただとか、お腹が減りましたとか、サシャは毎日それしか言わねーなとか、実際話に参加していなくても遠い所でいつもの2人が夕食後に喧嘩し始めたとか、今夜の騒ぎのキッカケは何だとか。下らない話をずっと仲間達としていた筈だった。
 それから先の記憶は無かった。だから何故自分が真夜中の森に居るのかも判らない。
 必死に記憶を探したがちっとも思い出せない。脳をぐしゃぐしゃ掻き混ぜられたような眩暈が襲うばかりだ。そうやって頭を抱えていると、

「……ライナー……」

 顔を腫らして血を拭っているベルトルトが俺の名前を呼んでいることに、やっと気が付いた。
 彼は地面に転がっていた。その上に俺が馬乗りになっている状態だった。転がる彼は頭から血を流しているし至るところに傷がある。口元には土まで付いている。涙も流していた。
 一体、何が?
 いきなり広がる異様な光景に、自分の顔が引き攣るのが判った。ベルトルトは両腕で自分の顔を隠そうとしている。まるで顔を庇うかのような動きだ。それでも腕の隙間から俺の顔を見上げている。ボロボロのまま俺を見ようとしていた。
 なんでそんなことをしている? ……そうか、俺が乗っかっているから見上げることしか出来ないんだ。そもそもなんで俺はベルトルトの上に……?
 誰にやられたんだと叫ぼうとして、一番最初に気付いた筈の自分の拳を見た。
 俺には傷が無いのに、何かの血が付いていた。でも彼は誰かに殴られて血を流している。
 何より空を見上げて俺の目を伺うベルトルトの表情は、恐怖に歪んでいるものだった。
 疑いようが無かった。

「俺が、やったのか」

 疑いようが無かった。



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「ライナーは、何も気にしないでいい。判らないならそのままでいいよ」

 自分がベルトルトに暴力を振るった事実は判っている。けど何故そこに至ったか、いつまで経っても思い出せなかった。
 おそるおそる何があったか彼に尋ねてみたが、ベルトルトは首を振るだけ。

「……僕が、ライナーを怒らせるようなことを言ったからだ」

 と、顔を伏せながら言う。
 確かにそうかもしれない。でも、そうじゃなかったかもしれない。ベルトルトの言ったことが本当なら、言われた瞬間『俺を怒らせた言葉』が頭に浮かんだっていいだろう。それなのに思いつくものは何も無い。そんなに思い出してはいけないものなのか、俺の頭はロクな働きをしてくれないまま眩暈を起こし続けている。

「それよりもライナー、大丈夫か? 頭、痛いんじゃ……」

 俺にやられた怪我よりも、ベルトルトは俺の頭痛に気遣う。
 そんなのどうでもいい、本当は何が原因なんだと問い詰めたが、ベルトルトは同じ言葉を繰り返すだけだった。更には「ごめん」の数を増やしてくる。ついには俺が何か言うたびに「ごめん」を言うだけの男になってしまった。
 声を掛けるたびに「ごめん」。そんなに謝らなくていいと言うたびに「ごめん」。何度も何度も謝罪を繰り返す。
 元からベルトルトは口は達者な方じゃない。心地良い話術も身に付けていない。だから無意味にも思える何重もの謝罪は、ただただ腹が立つ。これが人の気分を良くすることを知識として知っているアルミンや、天性の才能として持っているクリスタだったら……。
 拳を握る。

「あっ……」

 俺の目から視線を外していたベルトルトが、ちょうど俺の手を見ていたらしい。びくりと肩を震わせる。
 その声に気付いて、滲み出ていた黒い気持ちを抑え込んだ。
 ここでまた彼を殴ってしまったらいけない。申し訳無さそうに繰り返される謝罪はたとえ腹立たしくても、「彼が心から何かに対して反省している」ことだけは本物だと判らせる。今の涙ながらに許しを乞う姿は、演技には見えない。……それに、ベルトルトは俺を陥れるようなことをする奴じゃない。それは長年付き合っているから知っている。本当のことを話してないとしたら、それは彼なりに何かを考えての結果なんだろう。
 全然しっくりしなかったが、今はとにかく彼の言葉を信じることにした。これ以上問い質してもベルトルトは口を割りそうにない。追及するたびに眩暈が酷くなるのを感じ、口を噤んだ。



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 流れる血を拭い、木に寄りかかるように座らせ、再生を待つ。
 数分で顔の腫れは引き、傷口も無くなる。日の入りまでにはギリギリ全部治るだろう。だから朝に「何があったんだ!」と騒ぎにはならない。良かったと思いつつ、これだけの怪我を負わせてしまったのは何なんだろうと考え……出したらキリがなかった。
 もう一度ベルトルトに問い質そうとは思った。だが、木に寄りかかって座るベルトルトは再生に専念するべく目を瞑っている。少しだけ落ち着いてきた顔色が月明かりの中で見える。回復に意識を集中しているようだった。
 きっと今尋ねても「ごめん」しか言わないだろう。ずっと「ごめん」と言うしかしないと思っているだろう。変に声を掛けたら気が動転して治るもんも治らなくなる。なら、今この時間に尋ねるのはやめるべきだ。思い、黙って彼の呼吸の音を聞いていた。

「おい、ラクな姿勢になれよ」
「……ああ……」

 ひゅう、ひゅうと、普段よりゆっくりとした息継ぎの音を立てている彼に言うと、足を折って膝に顔を埋めてしまった。
 それがベルトルトにとってラクな姿勢なら良い。でもなんだか顔を覆うなんて俺から目を逸らすためにやっているように思える。自分がしてしまった事態の罪悪感が蘇ってきた。

「俺、水を汲んでくる」

 きっと口の中に砂が入っているだろう。洗い流すためにもと動こうとする。

「ライナー」

 だが、ベルトルトは俺の服の裾を掴もうとする。そんな指を伸ばされたってすぐに振り解ける。それぐらい、とても弱い制止だった。
 服に手は届かなかったが、立ち止まってやる。

「行かないでくれ」
「なんでだよ」
「…………僕は水よりも、ライナーが欲しい」

 ……気まずさはある。お互いある。
 それでもベルトルトは「より早く再生するには集中できるように手伝ってくれ」と、俺を隣に座らせようとしてくる。
 俺だってベルトルトを殴った事実があるんだ、この場に居心地の悪さはある。でも今は、治療が何よりも優先されること。「お前がそれで良いのなら」と、俺はベルトルトの横に腰を下ろした。

「ありがとう。……戻ってきてくれて……」

 するとベルトルトが俺の肩に寄りかかってくる。何も言わずに。

 ――殴ってきた相手を枕にするなんて、お前は良いのか。

 口に出してしまおうと開口するよりも先に、ベルトルトは俺の手を握る。

 ――これがお前を殴った拳だというのに、本当に良いのか。

 言おうとしたが、唇が重かった。ベルトルトは構わず俺の手を握り、また深呼吸をし始める。……いつの間にか俺はその手を握り返した。ベルトルトは何も言わなかったが、少しだけ微笑んだような気がした。
 彼にとってはこれで良い話らしい。罪悪感も居心地の悪さも、思い出せないことの焦りがある。だが今は、彼の寛容さに甘えて思考を止めることにした。



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 あの森は、故郷に戻る為の作戦会議に使う場所だった。
 兵舎では誰が俺達の話を聞いているか判らない。どんなに小声で話してもやって来る奴はいる。と言っても作戦会議なんて大袈裟な言い方をしているが、滅多にするものでもないので2人で集まっても昔の話をするためだけの場所だった。
 流石に3年目、そろそろ昔話をしてホームシックを誤魔化すことも少なくなった。だからわざわざ森に来ることなんて、よっぽどのことがあってどちらかが呼び出さない限りは……。



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 また拳が血に濡れていることに気付いた。
 
 はっとして今日の記憶を辿る。今日は確か教室で講義を聞くだけの日だ。それでも頭を使って疲れただとか、お腹が減りましたとか、サシャは毎日それしか言わねーなとか、やっぱりいつもの2人が喧嘩し始めたとか、でも今日はクリスタが近くの席に座ってくれて夕食の場なのに緊張したとか……今日しかない記憶が思い出されていった。
 だというのに、またそれから先の記憶が無かった。
 夜。兵舎の外。他に人気の無い森の中。いつも相談をするときに使う場所。ここで何をしていたと必死に探っても思い出せず、脳をぐしゃぐしゃ掻き混ぜられたような眩暈が襲う。そしてあのときと同じように頭を抱えていると、

「……ライナー……」

 ベルトルトが顔を腫らしながら怯えながら、俺の名前を呼んでいることに気が付いた。

「あ……? ベル……? なん、で……?」
「……ライ、ナー……」

 何もかも見たことある光景だった。でも前とは違った。全く同じじゃなかった。違うのは夜までに至る記憶と、より深い怪我をしているということ。同じなのはこの場で、ベルトルトが俺を見ながら名前を呼んで血を流してること。それと俺に記憶が無いこと。
 どうしてこんなことしているのか、二度目ともなると奇妙さよりも恐ろしさの方が大きくなってしまった。
 だって、同じ光景が繰り返されている、また俺には記憶が無い、同じようにベルトルトが血を流している、やっぱり俺には怪我が無くて、拳に血が付いてて、ベルトルトは俺から身を守るように顔を両腕で覆っていて……。

「ライナー、頭は痛くない……?」

 そして同じように、怪我の無い俺を気遣う怪我人。
 すぐにベルトルトを起こす。何があったんだ、今度こそ何かおかしなことがあったんだろうと口を開こうとしたとき、

「ライナーは……何も、気にしないでいいから。落ち着いて、そのままで……」

 と、同じことを言うだけ。
 そして「ごめん」の数を何倍も増やしてくる。そのうち目を閉じ始めるんだ。再生に専念するんだ。きっとそうだと思っていると、ベルトルトは腕を伸ばしてきた。また俺と手を繋ごうとするために。



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 そんなの納得できない。

「一体何があったんだよ!?」

 伸ばす腕を振り払う。肩を持つ。揺さぶる。彼の顔に目覚めたときに浮かべている恐怖が、再び張り付く。

「何も……無い……」
「あのな! ……何も無くて俺がお前を殴るか!?」
「あっ……。なら、僕がライナーを、怒らせてっ、それで……ごめ……」

 そしてベルトルトは「ごめん」を繰り返す。何度も同じことを言い続ける。
 その無意味に繰り返される言葉が、理解に繋がらない時間が、俺に怒りという感情を的確に抱かせていくことに気付いてはくれなかった。
 両肩を掴んで問い質す。ベルトルトの表情が引き攣る。多分俺の顔も同じぐらい酷いものになっている自覚があった。

「何があったんだよ! なんで俺、覚えてないんだ!?」
「覚えてなくていいことだから……忘れたんじゃないか」
「殴っておいて忘れたから良いって、そんなことあるか! おい、何が起こってるんだ!?」

 だって、何が起きてるか判らなくて、怖いのは普通だろう。怖がっていいものだろう。
 その恐怖から逃れるために知っている彼に助けを求めることは悪いことか。そうは思わない。
 しかも俺は彼を殴っている。彼は俺から被害を受けている。なのに、どうして原因を言わない。その徹底さが……更に恐怖を植え付けようとしていた。

「なあ……俺が、理由も無くお前を殴る訳が無いだろ……」

 俺が傷付いている仲間を放っておけないことぐらい、知ってる筈だ。その俺が仲間を傷付けてるなんて、悪い冗談だろう。
 そう何度言ってもベルトルトは口を開かない。何回言っても何十回言っても何も言わない。「いいかげんにしろ!」と右手を振りかぶって彼に下ろす……前に、滲み出る感情を抑えつけた。ベルトルトは覚悟していた顔をしていたが、寸前のところで拳を止めることができた。

「……なんで……?」

 ベルトルトが振り下ろさない拳相手に、そう呟く。

「……なんで……?」

 同じように、こちらも返す。
 よく判らない。……そんなにして、何を言いたくないんだ。
 また彼に新しい怪我を作ってしまうところだった。眩暈がまた生じる。思い出せそうで思い出せない。でもあともう少しで出てきそうな妙な息苦しさを感じる。腕を下ろすだけだというのに何故こんなに大量の汗をかいているのだろう。よく、判らない。今でも振るってしまいそうな暴力をなんとか抑えつけるために、ベルトルトから距離を取る。1メートル、3メートル。そこまで離れなければ危なかった。

「ライナー! …………まだ、戻ってこないのか?」
「……は……?」
「まだ混乱して……足りないんだな? じゃあ……我慢しないでくれ……」

 だというのに突然ベルトルトは身を乗り出し、滅多に上げない声を上げて俺に詰め寄る。

「何……言って?」
「……いいんだよ。ぼ、僕を、な、殴ればいいじゃないか。無理は駄目だ。いいんだよ、僕に何をしたって。無理することなんてない」

 気が狂ったのかと思う要求だ。
 彼は自分を殴れと言っている。そんな奴だったか。違う。……だって、言っているはなから震えている。今にも逃げ出しそうなぐらい怯えている。なのに俺の手を掴んでやれと言う。心では「嫌だ」って思っているのが目で判るのに、何故か彼は。

「ここなら誰も見てない。だから構わない。殺るなら今だ。……我慢しなくていい。怖いだろ、ライナー。早くしないとみんな、大変なことになるし……生かしたら、ダメだろ……。ちゃんと僕を……殺せば……。じゃないと、早く……戻って……」

 震えながら怯えながら叫ぶ姿に、異常さを感じる。
 何を考えているのだろう。大声なんてそう簡単に出す奴だったが。壊れちまったのか。どうして掴みかかって来るんだろう。
 ベルトルトが、理解出来ない存在に思えた。
 なんだこいつ。何を言ってるんだ。判らない。……怖い。……近寄るな……。そう思った瞬間、拳に力を入れている自分がいた。



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 夜。兵舎の外。他に人気の無い森の中。いつも相談をするときに使う場所。2人きりの場所。作戦会議室。故郷のことを話してもいい時間。
 訓練兵なりたてのときは大勢に囲まれて過ごすのが辛く、週に何回もここに来てしまった。僕があまりに外に出ようと誘うから、ライナーは「そんなに行ってたらバレる」といつもひやひやしていたらしい。それも数年経てば数える程度になり、1ヶ月に1回、3ヶ月に1回と2人きりになることは少なくなっていった。
 2人きりになれは必然的に話は故郷のこと、僕達の使命のことになる。嫌でも思い出すようになる。だけどその時間が無くなり、いつも故郷のことを考えている僕と違うライナーは少しずつ変わっていった。
 自分が巨人であることを忘れるようになるまで変わっていったなんて、流石に気付かなかった。
 気付けなかったのは理由がある。もし完全に忘却してしまったなら、話をした途端辻褄が合わないからすぐに異常に気付けただろう。でもライナーは少しずつ忘れていった。同時に少しずつ残していった。故郷に帰るという目的は覚えているのに、自分がどのように門を破壊したかを忘れていたりと。
 他にも、忘れたことでも指摘すればすぐに思い出すから、少しとぼけていると思う程度で判らなかった。僕が壁を壊したんだよと言えば、俺が門を壊したんだよなと続けてくるように。
 中途半端に忘れて、曖昧に思い出す。奇妙な心の病だった。早くに気付いて「もう人と関わるな」と予防線を張ればこの病は進行しなかったと、今になってみると思う。それに日常的にライナーと話している僕ですら気付かなかったズレに、なるべく距離を置くようにしていたアニが気付くことはなかった。明らかにライナーがおかしいことに気付き、アニに一度相談した。するとアニは感情を殺し切った顔で、

「ライナーはもう手遅れなの?」

 と、最悪の事態にはすぐ対処できると言うかのように尋ねてきた。
 僕は首を振った。手遅れだと頷けば、「邪魔者になる前に」と言い出してもおかしくなかったからだ。本来であればお互いで監視し合っていた役割である僕が処理するべきなんだろうが、咄嗟に「大したことじゃないよ」と言い切ってしまった。
 僕が彼を陥れることなんて、出来る訳が無い。
 忘れてしまっても、巨人であることをやめた訳じゃない。そう簡単にやめられるものでもない。僕が思い出させれば良い話。
 ライナーは、仲間を見捨てるような人じゃないのは長年の付き合いで知っている。だから平気だ。ちゃんと話をして自覚を持ってもらおう。夜に呼び出し、ちゃんと話をつけようとすると、

「ベルトルト、お前、巨人なんだよな」

 巨人であることを忘れて、巨人であることを覚えている彼は、仲間を守る為に戦い始めた。



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 ――自分を忘れて僕を覚えているなんて、酷い病だ。

 それでも彼は、仲間想いだった。傷付いている仲間がいたら自分を取り戻す人だった。目の前に半分巨人がいるから半分殺し、半分人間がいるから生かそうとする。さっきまで獲物を狩る目を向けていたくせに。都合良く忘れて人間に戻ろうとするんだから。本当に、質が悪い。

 ――そういえば、どうして僕は彼に反撃しなかったのだろうか。

 理由は簡単だ。きっとライナーなら僕を殺す前に元に戻ってきてくれるから。傷付いた僕を放っておく彼じゃないのは、知っている。
 本当に巨人と判っているなら急所を狙うだろう。中途半端に彼が人であるから感情に任せて行動し、中途半端に彼が巨人だから僕を守るため殴るだけに留まり、中途半端に彼が僕を覚えてないから殴り続け、中途半端に彼が僕を覚えているから元のライナーに戻ってくる。よって僕は安心して生命の危機を感じないで済んでいる。
 それでも、怖いものは怖い。痛いことは嫌だ。それ以上に、彼に殴られることなんて気持ち良いものじゃなかった。
 自分に振り下ろされる優しい拳を見ていると、「壊れる前にちゃんと彼のことを見ていれば良かった」と、どうしようもない後悔に胸が痛む。
 もしかしたらライナーはこのまま兵士として、巨人を倒す彼になってしまうんじゃないか。それを殴られるたびに考えてしまい、涙が出た。殴られるだけなら恐怖にはならない。だって殴るに留まり、本格的に殺してこないということはまだ彼が中途半端で帰ってくる余地があるということだから。
 いつか、僕に刃を向けてくることがあるかもしれない。それを考えるたびに震えてしまう。そしてどうにかする方法なんて、僕には思いつかなかった。

「……ライナー……」

 何も解決策が無い今、彼を失うことが最大の恐怖。それだけはなんとしてもと毎日考えながら、どうしていいか判らない。怖い。怖い。
 気が済むまで殴られていれば血が出る。顔が腫れる。息が切れる。痛覚が働く。上げたくないのに悲鳴が上がる。酷い状態になれば、彼の心が傷だらけの仲間を見つけてくれる。だから何もしないのが一番だと思った。

「ライナーは、何も気にしないでいい。判らないならそのままでいいよ」

 頭の悪い自分には、今はこの方法で彼を取り戻すことぐらいしか出来なかった。




END

「進撃」のライベルにすっ転びました。処女作はDVデビュー。スパロボ風に言うと、ベルトルトのHPが30%以下になると撤退するライナーさんの話。Mじゃないけど殴ってと言うベルさんかわいい。
2013.6.21