■ 1章 if Enter



 /1

 今まで見ていたモノは、
 全て夢だったんじゃないかってそう思うときがある。

 もう一人の自分を、見たあの時から。
 ずっと、あの視線が気になっている。

 トンデモナイ、夢のはじまり。

「―――お嬢様。お起きになられていますか、志貴お嬢様」

 朝。静かな呼びかけに目を覚ます。

「…………」

 朝になった。しばらく天井を見つめること数分。
 やがて真っ直ぐ上を向いていた視線の先に翡翠の顔が現れた。

「―――もうお目覚めになられる時間ですが。志貴お嬢様?」

 私の顔を上から覗き込む翡翠。相変わらずの仕事の時の無表情……より崩れめな翡翠の顔が、今日見た最初の景色だった。
 じっと見られて、しばらく沈黙。

「―――お嬢様……」
「ン、うん、もう起きるから……」

 翡翠に退いてもらって、身体をゆっくりと起こした。
 ……まだ完全に寝惚けていた。何故か身体をすぐ起こせなくて、巧くしゃべれなくて、……だから目を開けたまま寝ていた。
 身体を起こす所までくればもう安心できる。そっからはふっ切れたように意識は完全に覚醒できる。
 でも最近、夢と現実の『境目』がよく判らなくなっている。
 前よりは、……数週間前のあの事件よりは確実に回復してはいたけれど。

「おはようございます、お嬢様」
「おはよう翡翠。……ごめんね、いつも起きるの遅くて……」

 翡翠は、私が起き上がっているのをじっと心配そうな顔で見て、その後すぐに真剣な仕事の時の目になった。

「……お嬢様? 今日はお顔の色が優れないようですが…………」
「え、……普通だけど? 最近は特に寝不足とかじゃないし、食欲もある方だと思うけど……?」

 自分の右手で、自分の右頬を触ってみた。

 ―――冷たい。
 ほら、いつも通り冷たい。琥珀さんだと色白で綺麗だって誉めてくれるけど、秋葉に言わせると白すぎて病的だという。うっすらと窓の硝子にうつる自分の顔は、色をおびてなかった。

 ―――冷たいけど、普通だ。
 どちらかといえば低体温症。そのくせ熱が出ると40度近く出るという変な身体だ。……もう17年も付き合っているのだから慣れてはいるけど。

 ―――今日は、健康だ。
 だって、今起きたばかりなのにグーッとお腹の音がなろうとしている。とっさにお腹を押さえたからか大きな音はしなかった。……翡翠には聞こえていないと思う。気分も悪くない。貧血ももう殆ど起きていない。
 だから、大丈夫だ……。

「……うん。でも何かあっても、明日には時南先生の所に行くつもりだし。大丈夫よ」
「―――何か、あったからでは遅いのですが」

 私の言葉を聞いて、翡翠は困ったような顔で返答した。
 それを聞いて私も笑ってしまう。翡翠の言うとおり……ちょっと言葉を間違えてしまったから。

「あれ、レンは……?」
「レン―――というと、あのクロネコですか」
「うん、この頃は朝起こしに来てくれるんだけど…………」

 ……。

「―――今日はいません」

 ムッとヘの字の口を見せて、翡翠はぶっきらぼうに挨拶をして部屋から去っていった。

「……そんなに怒らなくても」

 そりゃ、レンが私を起こすと翡翠の朝の仕事が無くなっちゃうけど……。
 ……。
 ……視線の正体は、レンじゃなかったか。でもレンは気紛れで、毎日来てくれるわけじゃない。……だから、全然変わったことはない。
 今日は学校でも疲れる一日になるだろうけど、それは学生をしてる限り何度も来る日なだけで……ちっとも、おかしくない。

 ただ、奇妙といえば。
 あんなに毎日見ていた夢が、一切思い出せない。
 そんな所に、違和感を憶えていた。



 /2

 ぱしゃ―――っ。

「…………え?」

 突然のシャッター音。突然のフラッシュ。
 学校に行こうと門を出て、翡翠と別れた瞬間だった。何も考えず、学校への坂道を一人おりている時だった。

「えっ、しゃ……」

 写真?
 ……いきなり、住宅地へ向かう道の影から、写真を撮られた……。

「……どなたですか?」

 声を掛ける。と、直ぐに写真を撮った人は出てきた。

「すいません、驚きましたか?」

 と、現れた……ふとっちょさんは言った。この人は……。

「……確か、久我峰さん……でしたよね?」
「おぉっ! ワタシの事を覚えていられたのですねっ」

 ふとっちょ……じゃなくて、―――この人は、久我峰斗波さんは笑った。

 ……この人はつい最近まで遠野の屋敷で住んでいたという、久我峰家の長男さんだ。
 久我峰さんは遠野家の分家筋でも最も格式の高い一族らしく、色々秋葉もお世話になっているという。前に、秋葉に用があったらしく屋敷で会ったことがあった。
 私より一まわりぐらい年齢が大きい人で、体格も凄くいい人で、何でもいくつも会社を持っている人だという。
 お父さん……秋葉や四季の槙久お父さんとは長年の付き合いだったらしいけど、秋葉は、……いや翡翠も何だか嫌ってる一面はある。けど、私は凄く優しい人だと思う。……ちょっとおかしい所もたくさんあるけど。

「あの……久我峰さん? 一体どうしてココに……?」

 通学路の足を止めて久我峰さんと話す。

「お嬢様もゆっくりしていていいのですか。―――今日は体育祭では?」

 体育祭と言っても、文化祭の時より盛り上がらない。どちらかと言えば運動部用の『記録会』と言った方が正しくて、運動部に入っていない人達には迷惑な日でもある。
 でも必ず一つは競技に強制出場しなくてはならない。出来る事ならサボリたい日でもある……。

「は、はい。よく知ってますね……」
「えぇ、とても大切な日ですからね―――」

 笑う久我峰さん。細い目がうっすらと、私を見た。
 久我峰さんはとても優しそうな顔をしているけど、とても目つきは鋭い人だ。……だから私も時々、この人が『ワカラナイヒト』になってしまう。

「えぇと、……何かあるんですかウチの学校の体育祭に?」
「何を言っているのですか。志貴お嬢様が出場なさるのでしょう、ならばいいシーンを写真の撮っておかなければ」

 そう言って、片手に(凄く高そうな)カメラを見せる。
 ……そんな、高校生の体育祭に写真を持ってだなんて、幼稚園の運動会じゃあるまいし……。

「というわけで今のフラッシュは『志貴お嬢様 体育祭前』のシーンです」
「はぁ……」
「それにしても、―――志貴お嬢様はお綺麗ですねぇ。ちょっと白すぎるのもありますが……何か良いお化粧品でも?」
「な、何もしてません……」

 ……でも、久我峰さんが写真を撮ってくれるのは思い出に残る事をしてくれるわけで。
 いきなり撮られたのはびっくりしたけど、そう思うと久我峰さんは悪い人じゃない。……多分。

「では、今度は運動着に着替えた後に向かいますね」
「え、……そ、それはちょっと恥ずかしいんですけど……」
「何を言っているのですか、一番輝いているいい所を撮らないでどうしろというのですか! そのための日ですぞ!!」

 ……今日、私は50m走(一番ラクそうだと選んだ競技)とクラス全員リレーしか出ないんですけど……。

「……それではワタシはこのヘンで。……お嬢様撮影部隊の指示を送らねばなりませんので」
「……そんなに沢山撮るんですか?」
「はい。ベストショットが撮れたらすぐそちらにも焼きまわししますので」

 ふふ〜と静かに笑ってみせて、久我峰さんは大きな身体で、あっという間に走り去ってしまった。まるで逃げるように……。

 今更思い出したけど、久我峰さんは昔から(私が屋敷にいた時から)写真を撮ってくれた。
 あの時は撮られるのは全然恥ずかしくなくて、逆に嬉しかったから凄くお世話になった覚えがある。
 でも何故か私しか写してくれなかった気もする。あんまり好んで(進んで)秋葉達は撮らなかったような……?

 ……。
 ……気になっていた視線て、久我峰さんの事だったのかな?



 /3

「…………志貴ちゃん。気分が優れないのなら、保健室行こうか?」

 開会式が終わった所で、運動服姿のシエル先輩がそう声を掛けてきた。
 今日、朝掛けられた言葉と同じ事を……。

「……そんなに私、顔色悪いんですか?」
「ん、いや顔色は元から良くないけど、…………あっ、ゴメン! その、志貴ちゃんは凄く肌白くて綺麗だから……!!」

 何か間違えたのか、言葉を懸命に弁解しようとする。

「でも志貴ちゃん。何か……今走ったら保健室に運ばれそうな顔してるよ」
「……そうですか?」

 そうは自分では思わない。
 でも会うたび人にそう言われるなんて、そんなに今日の私は弱々しい顔なんだろうか。

「えぇ、ちょっと今日は日差しが強いですね……もしかしたら倒れちゃいそうです」
「……志貴ちゃんが言うと冗談に聞こえないから、イヤだな」

 でも、あはは……と先輩は力無く笑った。

「……50m走終わればラストまで出番無いですから、そこまで頑張ってきますね」
「うん、…………無理しないでね―――」

 そういった会話をして別れた。

 そういった会話をした所までは覚えている。

「―――」

 日差しが、強い。
 真夏のように、暑い日。
 太陽が睨んできた。
 じっと、私だけを睨んできたような。

「――――――」

 太陽の視線。
 見慣れない視線を感じる。

 憶えのない、感覚が襲う。



「――――――あれ。志貴ちゃん、何処行ったか知らない?」
「え、シエル先輩知らないんですか。遠野さんなら今さっき保健室に運ばれましたけど」
「………………」



 ―――シエル先輩の宣告通り、私は50m走終了直後、保健室に運び込まれた。
 ゴールして応援席に撤退中……もしくはその前には倒れたらしい。そこら辺の記憶はもう曖昧で、唯一覚えているのは50m走は一位でゴールした事と、記念すべき体育祭の保健室利用者一号目に登録された事だけだ。
 私の身体は弱いらしいけど、足の速さや瞬発力は普通の人に負けない程の自信はあった。
 ……って、普通の人って何だろう。

「……自分で墓穴掘ってる」

 まるで、自分はもう『普通の人』じゃない事を認めてしまったが如く。

 ―――保健室には、誰もいない。
 保健の先生も、委員会の人もいない。一人だけの空間。
 ガヤガヤ、ワーワー、ギャーギャーと声が聴こえる。ひたすら騒いでいる外の声が聞こえる。……とても楽しそうな声が聴こえる。

 なんだろう。
 こういうのを、
 ひとり、取り残された……というのかな。

「―――」

 淋しいわけじゃないけど。
 誰か、来てくれないかな、と想った……

 ―――時だった。

「こんにちは」

 と、声が近場でする。

「……っ?」

 目を開けて、保健室のベットから起きあがる。そこに、―――見知らぬ青年がいた。

「こんにちは」

 再度、挨拶。無表情で、青年は挨拶をした。

「……あ」

 青年を見て、思わずドキリとした。
 青年があまりに不思議すぎる格好だったから。

 特徴的な服装と帽子。紫色の……まるで軍服のような格好をしていた。
 しかも青年は、日本人じゃない。どう考えても東洋風の顔立ちをしていない、珍しい、外人さんの顔だった。……って言ってもアルクェイドやシエル先輩や、……蛇さん達も外人と私の周りには沢山いるんだけど。
 青年は、綺麗で静かな日本語で私に声を掛けてきた。

「何か」
「へ……?」
「何か話したかったのでは?」

 ……怖いくらい静かな視線で、青年は言ってきた。

「え、ナニ……ってあの、別に用が特別あるわけじゃないです……!」
「でも、キミは誰と話をしたい、来てほしいと思わなかったか?」
「あ、思いましたけど……でも、……考えてみれば私っておしゃべりあんまり巧くないし、喋る事無いし……」

 ……って、何で私はこの人にそんな事を言わなきゃいけないんだろう。
 改めて話しかけてきた青年の姿を見る。
 ……紫色の軍服のような格好に、帽子。青年……と表現するのだから私よりも年上。でもそんなに違わないくらいの、琥珀さん達と同じ20歳ぐらい青年。外は暑いのに、軍服をキッチリ着込んでいた。
 軍服……? 応援合戦のコスプレなんだろうか。でもこの学校に外人はシエル先輩くらいしかいないと思ったけど。…………じゃあ、この人誰?

「あ、あのー……?」
「挨拶」
「……は?」

 ……保健室の外は大声で叫んでいる生徒達。カーテンで外は確認出来ないけど、凄く盛り上がってるに違いない。
 だから此処の静かな会話は、聞き逃してしまいそうな会話だった。
 それにこの青年の声は、静かすぎて聞き漏らしてしまう…………。

「挨拶、キミはしてないな。……オレに」

 さらりとした口調で、迫ってきた。
 椅子に腰掛けたまま、ずっとこっちを一直線に見つめているだけでベットに寄ってはいない。
 でも、声だけで迫ってくるような迫力はあった。

「……こんにちは」

 ……押されて、私も遅れてしまった挨拶をする。

「今の時間はおはようございますが普通か。いや、キミとの挨拶なら初めましてが正確かもしれない」

 音量を一切変えず、そんな独り言を青年は言った。
 椅子の上で腕を組んで、どっしりと座って、
 じっとこっちを見て、
 ずっと睨んでいて、

 ―――視線をずっとこちらに向けていて、

「あの……どうしたんですか? お怪我でも……?」
「いや無い」
「そ、そうみたいですね……」

 青年は全然痛がっていない。
 じゃあなんで保健室にいるんだろう。本当の応援団だったら外でしてるんじゃ……だから、こんな綺麗な男の子はウチの学校じゃないないんだってば。

「…………」

 ……夢でも見てるのかな、自分。
 眼鏡を外して、目を擦る。……勿論何も変わらない。
 よく出来た夢。そうでなかったら、タチの悪い現実。どっちがホンモノだろう。
 ……多分、9割以上、後者の確率の方が高いだろうけど―――。

「はぁ…………」

 ため息。それしか出ない。
 本当によく判らない…………。

「遠野志貴」
「え、はい……っ?」

 名前を呼ばれて、一度下げていた顔を上げる。
 相変わらず、冷たいままの視線を送る青年がいる。
 まだ名乗ってもいない、名乗られてもいない、彼が何をする人なのかも判らないまま、睨めっこが始まった……。

「オレは吸血鬼に逢いたい、遠野志貴がよく知っている男にな―――」

 いきなり無表情のまま、まるで『何をする人……』という私の心の声を読みとったように、軍服の青年は言った。
 『こんにちは』ってずっと言っていた顔と、声と同じに。―――でも悪寒がした。

 そして、青年もふぅとため息を吐き、幽かに腕を揺らした。
 カチャリ、という聞き慣れない音をさせて。

「オレの名はシオン・エルトナム・アトラシア。吸血鬼を捜している者だ」



 ―――そして彼の手には、黒い拳銃が見えた。



「無理だとは思うが抵抗はご勝手に。―――キミには真祖の皇子に逢わせてもらう道具になってもらう」

 ……学校の保健室じゃまず聞かないだろう台詞を、彼は笑って言ってくれた。



/// Melty Blood ///





「Recollections in a safe」に続く