■ 29章 if 凶つ夜/1



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 遅れて帰ってきたというのに、みんなは暖かく迎えてくれた。
 明日になれば秋葉はまた私の都合を問いただしてくるだろうが、夜は休ませてくれるらしい。琥珀さんは私の傷を見てくれて、美味しい夕食を用意してくれて、―――そして今日も無事にベットへと辿り着いた。

「…………」

 今夜は、いい天気だ。月が雲と雲の間に綺麗に出ていて、電気なんて付けなくても明るく見える。しばらくベットにも入らず、窓を開けて夜風にあたっていた。

「……はぁ」

 流れてやってくる夜風を追い返すのは、ため息だけ。
 最近忙しい……というのはシエル先輩に愚痴ってしまった。この屋敷が賑やかになったのは嬉しいし、秋葉と四季が(一見見ると殺し合い寸前だが)楽しくやってくれてるのを見てるとこっちも楽しくなる。翡翠もそれを一緒に楽しんでくれる。琥珀さんも、勿論……。
 ……。

「……気にしすぎ、なのかなぁ」

 今の生活が激しすぎて、一日が疲れる。一番の理由は、―――バイバイ、も言わずに去っていってしまったあの男のせいだろう。
 目を伏せて、
 悲しそうな目をして、
 私の顔も直視出来ずに、行ってしまったあの男。
 ……やっと仲直りができたと思った。昨夜は彼とまた会えるだろうか、そう何度も思っていた。そして今夜もまた、彼と再会できるか悩む。何度も、何日も続いていく。

 ひどく静かな空間で、凍ってしまったみたい静かな空間で彼の事を想い続けた
 ……時に。

 彼はひょっこり窓から姿を見せた。

「………………」
「……アルクェイド!?」

 現れたのは白い影。物音をさせず、屋根の上で立ちつくす男性の影が見えて窓際へ駆け寄った。

「アルクェイド……!」

 声を掛ける。

「…………」

 だが、彼は何も言わない。声を掛けても答えてくれない。目を私と合わせようとしなかった。
 何を言っても答えてくれなそうで、怒られそうで、……悲しませるだけになりそうで。
 ついには私も声を掛けるのをやめた。

 ただ、立っているだけの彼。
 何も言わず、目も合わせず、ただいるだけの彼。
 つられて彼と同じ行動をとってしまった。
 その沈黙を破ったのは……彼の方からだった。

「…………志貴」
「……何。中……入る?」
「いや、此処でいいや……今日は寒くないだろ?」

 あくまで自然な会話が続く。窓を開けてずっと夜風に当たっていたのは、今日は冷たい風じゃないからだ。決して、彼を待っていたから……じゃないと思う。

 それとも、
 無意識のうちで私はアルクェイドを待っていた―――?

「俺、本当は今日は……いや、今日から会わないって決めた所だったんだけど、……もう会いに行かないって言おうって、それで……」

 継ぎ接ぎだらけの文。なるべく『普段』を見せるよう努力するような彼の姿が伺えた。
 『もう会わない』。
 そんな悲しい台詞を、傷つけないように言っている。そんな台詞、どんな言い方したって結果は変わらないのに……。

「……私、何が、ダメだったかな……?」
「……志貴は全然ダメなんかじゃないっ、……俺が、その……うん」

 はっきり言わない。……きっと自分でも何がダメで何が良かったのか判っていない。きっと『会わない』と決めたのも唐突で、特に理由も言い訳も考えてないんだろう。

「……じゃあ、何で会っちゃダメなの……?」

 窓に身を少し乗り出して、なるべく彼の顔が見えるようにして聞いた。答えを、誘い出すように。

「……そんなの、言うまでもないだろ。やっぱり俺は吸血鬼で、君は人間だったって、それだけの事だよ」
「…………もっと私に判りやすく説明してよ」

 少し意地悪な言い方だが、アルクェイドの本心を聞き出すために言ってみた。こんなに何度も声を掛けているというのに、アルクェイドはまだ私と目を合わす事をしなかった。

「志貴が俺を助けてくれるってのはもう終わった事だし、……俺はもう君を本当に護れるかどうか不安になったんだ。俺には君を助ける資格なんてないって、今更判ったよ。―――むしろ君を台無しにする所だった」

 と、アルクェイドは呟くように言った。
 ―――今更、この男は何を謝っているのだろう。人生を台無しにされたのは、―――アルクェイドと出逢って最初からだというのに。

「……まだ、苦しいの?」
「苦しいって……何が」
「貴男を苦しめていたのは私がつけた傷なんかじゃなくて、吸血衝動ってやつなんでしょ? ―――もうみんな知ってるんだから、全部言ってもいいから」

 そう声を掛けると、アルクェイドの目が細まったのが遠目に見ても判った。

「……あの眼鏡か。余計な事教えやがって……」

 ぼそり、忌々しそうに先輩に愚痴る姿も。
 ……この事を教えてもらったのはシエル先輩だけじゃないけど、今私が知っている大半の吸血鬼・アルクェイドの知識は殆ど先輩から教えてもらった。『夢みたいな』空間であの男性に教わってもらったのは―――嘘だと信じたい。
 夢の中の『先輩に似ている』彼は、いつも恐ろしい事を口にする。けど、私はまだ『彼』が誰か判っていないけど―――。

「―――志貴」
「もしもな、もしも俺が本当の吸血鬼だったらどうする?」

 ……変な事を聞いてくる。アルクェイドは自分で、血を吸うことが怖いと言った筈なのに。

 アルクェイドがため息をした。疲れた、……そんな意味が充分につまったため息だった。

「ねぇ、アルクェイド……あと何日か休めば元気になるんでしょ? 公園で我慢できたんだから、これからも大丈夫よ」
「…………」

 私の声を聞いて辛そうに、弱々しく笑った。

「だから、そんなに落ち込む事なん…………」
「―――志貴は全然判ってないな。無理なんだよ。俺は―――今でも君の血が欲しいって思っている」

 手をこちらに真っ直ぐ差し出して、まるで、本物の吸血鬼のような台詞を吐いた。
 ……その腕に手を出したらどうなるというのだろう。私を屋敷から引きずり出して、首もとにがぶり、と囓る?
 それとも、……アルクェイドはある劇のマネをしているだけなんだろうか。
 こんな状況でもあくまで笑顔の、……疲れた、色褪せた笑顔を見せるアルクェイドだった。

「……それだって思ってるだけでしょ? こうやって、普通に私と喋ってるじゃない」
「……そうだな。このままいけばいいんだ。でも、ダメなんだ。もしこの手を引いてくれたら、―――そのまま君の首に口をつけたいって思っている」

 ……やっと腕を下ろす。

「……なぁ、志貴。俺が初めて君を待っていた時の事、覚えてるか?」

 唐突に―――アルクェイドは遠い目をして、想い出話をし始めた。

「……覚えてるけど? 殺した男の人が笑ってこっちを見てるなんて、強烈すぎて忘れられないし。―――あの時は学校へ行って色々とみんなに謝らなきゃならなかったけど、それを貴男に全て台無しにされたんだから……」

 ……忘れるわけがない。あの時の恐怖。あの時の足の痛み。
 未だにあの激痛は夢に見る。―――最近になって、何度も。

「あぁ。俺も君に全て台無しにされたんだ。……俺の吸血衝動も限界だって判っていたし、敵の……『蛇』の居場所も殆ど判ってた時だった。けど君にいきなり殺されて、蘇生した時には君も『蛇』もみんな消えてて、……痛いし、ムカつくし、―――とにかく、俺を殺した女の子の事が、憎かった」

 言葉とは裏腹に、とても優しい声でアルクェイドは言った。こんな話を、私も穏やかな気持ちで聞けた。

「だけど、俺……そんな風に違う感情で人を想うの、初めてだったんだ。そりゃ最初は殺してやるっていう気持ちだけだったんだけど、女の子を追ってるうちに不思議に思ったんだ。―――なんで俺、あんな娘に負けたんだ、って」

「アルクェイド……?」

「今までヒトを分けて見ていたわけじゃないけど、女の子が見ず知らずの男性を、一人で、しかもバラバラにするわけないだろ? ……そうしたら面白くなってきた。不思議だな、って思って……あの眼鏡みたいな凶暴な野郎だったらまだ何も考えずにぶっ殺してたけど、あまりの不思議さに疑問とか……興味とか、沢山湧いてきたんだ。……そしたらどんな子なんだって想って、ワクワクしたな」

 一人、昔の事を思いだして笑い出す。殺されたというのに、殺した女を楽しげに待っていた。
 ……それだけで面白い話だ。
 …………だからあの時、ガードレールの所であんな笑顔を見せてたのか。

「こう言うと変に思われるかもしれないけど、……あんまり人間の女の子って、俺から見れば得体の知れない生物だったからさ。最初どう話しかけるか悩んだりもしたんだぜ?」
「そう言うと何だか『初めてのナンパ』みたいね……」

 可笑しくって、つい笑ってしまった。……彼も、淡く笑う。

「だーから、前もって『変に思われるかも』って言っておいただろ? 元居た場所には一応、姉貴みたいなのも居たけど、……それでも会ってすぐ殺すような奴、初めてだったさ。男も女も関係なく、な」

 やたらとその部分を繰り返す。そうとう因縁を持ってそうだった。
 ……そりゃそうだろう、だって『殺された』んだもの。文句は全部聞くべきだ。―――償い、として。

「また先に言っておくけどな……色々想像してたんだ。俺を殺した女の子の予想。ちょっと妄想入ってたけど」

 楽しそうにアルクェイドは口を早めた。明るくなったノリに、私も口を揃える。

「……で、実際はどうだったの?」
「あぁ! 想像通りで、……一発で惚れたんだ」

 ……。

「こんな事、思ったの……言ったのも初めてだぞ? 改めて想ったら……それが俺が弱くなった原因だな」

 …………なんで?

「―――あの時志貴を追いかけないで……蘇生したら自分だけで敵を追えば良かったんだなって、今思う」

 …………。

「……志貴はさっき俺が我慢できたって言ったけど、本当は我慢できなかったんだ。ただ志貴が怖がってたからなんだ。志貴が、俺を化け物に見るのは凄く嫌だったんだ。……どう見たって俺はバケモンなんだけどな」

 アルクェイドは、乾いた笑いをこぼした。

「あれは……私、突然の事だったから、驚いて…………」
「嘘だろ。……だったらあんな怯え方しなくてもいいじゃないか」
「……」

 怖いのは、本当だった。あのまま血を吸われて、違うものになってしまうんじゃないか、一瞬のうちだったけど色々な気持ちがぶつかり合った。
 ―――だから、怖かった。アルクェイドはアルクェイドなのに、私は変な目で彼を見てしまった……。

「だからさ、決めた。俺、もうツライんだ。これから何をしたらいいか判らない。―――君が傷つくのも、考えたくない。あんな目で見られたら俺はおかしくなっちまう。―――だから、今日でお別れしよう」

 くるり、と背を向けて。
 私の顔を見ないようにして、アルクェイドは言った。

「―――なに」

 ……本気?
 ……こんな、こんな哀しそうな顔で何を言っているんだろ?

「……じゃぁな。この数週間、……志貴に殺されて楽しかったよ」

 やっと最後に朱い目と私の目が合い、
 アルクェイドは足を、



 ―――進める前に、スリッパを彼の後頭部に思いっ切り投げつけた。



 パンッ……という軽めの音。
 見事、スリッパは彼の金髪の頭にヒットする。

「なっ……!」

 振り返る。

「いいかげんにしてよ! こっちは死ぬ気で貴男に追われたのよ! そりゃ私だって貴男を殺したのは死んで償いたいぐらいだけど……『混沌』を倒して一度別れて、それでも会いに来たのはそっちでしょ? 会いたいって言ってくれたのもそっちの方じゃない!!」
「おぃ、志貴……」
「それでっ、……ツライからバイバイって……! そんなんでいいと思ってるの!? こっちの都合無視して……っ、そんなの勝手すぎるんだから……!!!」

 ……見回りの翡翠がやって来てもおかしくないぐらいの大声だった。
 アルクェイドはしばらく唖然と私を見て、……言い返してきた。

「じゃあ、何だよ、このまま俺が君の血を吸っていいっていうのか!?」
「そんなわけないでしょ!! とにかく、そのっ……『蛇』さんっていうヒトをこの街から追い出せば、貴男だって沢山休めるんでしょ? なら、私の事なんか考えてないで頑張って、全部終わったら文句の一つでも言いにくれば!?」

 そうすれば万事解決。
 問題なんて一つもない。

「そんなに悩んでるんだったら……私がこれから貴男の予定を決めてあげるから!」
「は……?」
「一つずつクリアしてくの! ……まずは、『蛇』さんと決着をつける!! それでゆっくり休んで、私の所に来て!」
「…………なんで」
「これでももう『これから何をしたらいいか』なんて悩まなくていいでしょ? まずはやってみるの!」

 ……。
 いまいち納得いかない顔をする。
 が、アルクェイドは静かに、そうだな、と納得したように頷いた。

「そうか……『蛇』との決着をつけてくるか」
「そう! それまで私の事は考えないで…………」
「じゃあ、終わったらどうするつもりなんだ? ……もしかしたら、俺は君を……」



「その時は、私の血を吸いに来れば……!?」
「………………」



 ……目を見開く。
 一番楽な方法を聞いただけで、彼の動きが止まった。

「……本気で言ってるのか?」
「嘘に決まってるじゃない。…………でも、負ける自信はないから」

 もし血を吸いにやってきたのなら、
 ―――何度も殺してあげる。
 何時の間にそんな事を言う勇気が出たのか、言ってる自分も仰天物だった―――。



 /2

 ―――そうして夜が過ぎ。朝がやってきて、いつもの通りに翡翠が起こしに来て、学校へ行く。HRギリギリに入ってきて、有彦や弓塚くんと話して、

「おはよう、志貴ちゃん」

 と先輩と挨拶をした。

「……おはようございます。先輩」

 変わらぬ笑顔に、身を引いてしまう。

「どうしたんだぃ、逃げ腰で……?」
「い、いえ…………。本当に残ってたんですね。学校……」
「……悪かったかな?」
「そ、そういう意味じゃないんですけど……!」

 ―――シエル先輩は、どんな時でも明るい。
 時々鋭い目つきを見せる時があるが、そんなの滅多にない。

「そうだ。部費がやっと入ったからいいお菓子を買ったんだけど、どう?」

 学校内ではこんなに優しい声を掛けてくれる。

「え……いいんですか? だって私、茶道部じゃないし……」
「いつも食べてるのにどうしたの? ……難なら正式に茶道部入るかい?」
「……考えておきます」

 ……そういえば、何でシエル先輩以外に茶道部員がいないんだろう。
 やっぱりコレも……『暗示』ってヤツで入らないようにしているのかな。

「じゃ、放課後に茶道室でね。ちょっと遅れると思うけど早めに行くから」
「あ、急ぎの用とか何にも無いんでゆっくり来て下さいね……」



 ―――そんな約束をしたのが、今日の朝。

 授業が終わり、待ち遠しい時間になった。ざわざわと校門が騒がしくなる中、私はまだ教室にいる。

「……そろそろかな」

 みんなが教室を去っていた後に、ゆっくりと茶道室に向かった。そこで先輩と和菓子を待とう……。

「おじゃましまーす…………」

 ―――茶道室は静かだった。
 いつも静かだったけど、今日は一段と物音がしない。夕方、赤く日が窓から入ってくる畳の空間。まだ先輩の影はなかった。
 ……ちょっと遅れると言ってたから、気長に待とう。腰を下ろし、窓から差し込んでくる夕日を頼りに本を読んで待つことにした。

 ―――日が落ちてきても、来ない。
 鞄に入れていた本という本に目を通し、先輩を待つ。
 今月のお菓子は何かな、と考えながら。
 私、貰ってばかりだなぁ……今度は何か先輩にあげなきゃ、と考えながら。
 ……でもやっぱりお金ないや、と涙しながら。
 先輩を待った。

 ―――それでも、まだ来ない。
 本が読めないくらい、暗くなってきてしまった……。

「先輩……?」

 念のため、誰もいない茶道室に声をかける。勿論音は返ってこない。あまりに静かで、……ちょっと怖くなってきた。もしかしたら此処は茶道室じゃなかったり……?

「でも、畳があるのはこの学校じゃ此処だけだし…………」

 まさか、先輩が、約束を忘れた……? でも、そんな事があるわけがない。だって約束したのは、あの先輩だ。

「もしかしたら急用が出来たとか……?」

 ……先輩は先生達にも信頼されていて、学校内ではいつも忙しなく動いている。委員会の仕事から、自分から始めたボランティアまで、『此処の三年生』を演じているにしてはちょっとやりすぎじゃないか……ってくらい、よく働いていた。だから、断れきれずにそのまま……って事はありそうだ。
 ―――なら、職員室にいるのかな?

「……迎えに行こっと」

 足が少し重かったが、茶道室から離れる事にした。時計を見る。
 ……もう6時は近く、外は薄暗い。
 この学校は5時に生徒は下校時刻になって、5時半には大半の先生達も帰っていく。でも室内の部活や何か委員会活動は7時になってもやっている事がある……。

 …………寒い。

 校内の電灯も何故か消えていて、廊下は青白く光っていた。今日は、一段と静かで、寒い。防寒具なんてまだ必要ないって思ってたけど、そろそろ出さないといけない季節のようだ。
 ……背筋が、寒い。
 …………身体が、振るえる。
 ………………呼吸が、荒い。

 それは、寒さなんかじゃなく。

 ―――ぞくん。

「ぁ……っ?」

 突然、変な感覚に見回れた。
 貧血じゃない。……苦しくない。悪寒。

 ―――びくん。

 身体が跳ねる。……痛くない。でもどこか、気持ち悪い。胸に手を当て、深呼吸して、無理矢理落ち着ける。

「はぁ……、はぁ、あ……?」

 立ち止まって、……しばらくそこに蹲った。
 少し息が休まった所で立ち上がる。……そして目眩。ふらり、と身体が横に揺れる。
 どんどん、気持ち悪くなってきている……?
 もう、こんな唐突に起こる発作は……無いと思ってたのに。

「四季がまた、悪さをしたとか……?」

 悪さ……今までの貧血をそんな言葉でかたづけていいものかちょっと迷った。が、コレはそんな優しいものであってほしいとさえ思う。

 ―――これは、なんというか
 『混沌』と戦った時の、あの緊張感と同じ―――?

「んっ……!」

 呼吸が乱れて、まとも立っている事が出来なくなり壁に寄りかかった。
 どんどん、頭が痛くなってきた。
 どくどく、胸がいうようになってきた。
 ぶるぶる、振るえるようになってきた―――。

「…………ぁ…………」

 弱々しい声が、口からもれる。

 どく、
 どく、
 びく、
 びく、
 ぞく、
 ぞく、
 かつ、
 ―――かつ

 ……心音だけじゃなく硬い音が、廊下に響いた。

「え……?」

 誰か、やってきた。
 遠くからこちらに向かってやってくる……。
 かつ、かつ、と足音が近づいてくる。

「……っ」

 必死に左手で胸を抑えて、右手でナイフを捜した。……ポケットに硬い感触がある。何故かいつも持っているコレによって私は何度も助けられてきた……。
 そして今、また助けられる事に……?

 かつ、かつ…………
 廊下が震える。
 音が、耳に直接やってくる。

 人影が、
 やってきた。

 その男の顔が、ハッキリと見てとれた。

「………………あ」

 男が見える。
 血走った目。長い髪に、手元には凶器。
 異質なまでの静けさを漂わせて。
 かつ、かつと硬い音を立てながら私を追う。
 いつか、……白い男性に追われて、間違ってナイフを向けてしまった相手。

「……い」

 男はまっすぐに私だけを凝視して、笑った。
 自分に向けられたナイフを見てか、可笑しそうに笑った。
 男は間違えなく、―――あの『悪夢』の主だった。

「……う」

 ナイフを構えていた腕を下ろす。
 このヒトは……知っている。何度も親切に私にアルクェイドの事を教えてくれたヒトだ。二度も、私は見ず知らずの男性にナイフを向けていることになる。なんだか恥ずかしくて、ナイフを下ろした。

「……え?」

 でも、何で彼が学校なんかにいる―――?
 そういえば、アルクェイドと吸血鬼に襲われた時、彼と出会った光景は『茶道室』だったような―――?
 かつ、かつ、と音を立てて男が近寄ってくる。
 ―――ナイフを片手に。

 なのに私は、手からナイフを落としてしまった。

「……お」

 元から身体はがたがた振るえていた。やっとの思いでナイフを握りしめ、前に向ける事が出来たが、下ろした途端に力が失せ、持っている事が出来なくなった。
 ナイフを、落としてしまった。今まで私を護ってきてくれたナイフを…………

 すると、
 ―――男が、ナイフを逆手に取った。

「…………え?」

 私が叫んだ時、
 凶器を持った男がその腕を動かした。

 ―――どうしてナイフを下ろしてしまったのだろう。
 どうしてナイフを落としてしまったのだろう。
 男は、ずっと遠くからやってくる所から、ナイフを持っていたのに。
 私に、それを振り翳そうとしていたのに。

 ―――ずっ

 肉を裂く音。
 男のナイフが、ざっくりと、
 私自身の『胸』に深々と突き刺さった―――。

「……がっ」

 身体が男の身体に寄りかかり、自然に倒れ込んだ。
 胸にナイフを刺したまま。
 動くこともできずに倒れ込む。
 ……だって、もう胸にナイフを刺されたんだから、動く事なんかできるわけがない……。
 倒れ込んでも、目は彼の顔を追っていた。
 どんな表情で、私を刺したのかを知りたくて……。

「そんなに私の顔が見たいのか?」

 刺されても、彼の声が聴こえた―――。

 やっと判った。
 このヒトが、アルクェイドとシエル先輩の言っていた、

 二人が追い続けていた『蛇』だとやっと認識した―――。

「ロ―――ア?」

 倒れ込んだ私の身体を支えて、顔を近づける。はっきりと、男の、赤黒い目が動くのが見えた……。

「そうだ。……何度もそう奴等が説明してくれたじゃないか」

 この声。やっぱり夢の中で出てきたあの神父服の男性と同じだ。
 それと……屋敷の塀の外で、笑いながら私の『点』を狙ってきた男性とも同じ。

「安心しろ。直接点はうっていない。しばらく意識は残っているだろう……すぐにそれも切ってやるがな」

 奴の目が細まる。見おろしてそう言った。男は、―――ロアは、満足そうに口元をつり上げた。

「いいかい、吸血鬼が不死身であるのは、かろうじて息が続いている間だけでね、完全に止まってしまえば治癒機能も停止する。それは、真祖の皇子も、代行者も、君も同じ事だ」

 ロアは胸のナイフを抜き取ろうとする。

「完全に切ってしまえば治らない。―――全部、終わるのだ」

 ぐっ、と胸に刺さったナイフの柄の部分を握りしめた。
 抜こうとする。
 それを抜けば、どうなる?
 抜けば……、私の胸胸からびゅーっと綺麗に吹き出て
 確実に、私は死…………

 ―――パァンッッ!!!

「ぬっ―――!」

 突然の破壊音。それと同時に男が飛んだ。
 突然、ロアの身体が横へと吹き飛ぶ。この光景は……何度か見たものと似ていた。吹き飛ばされてロアが倒れて、―――黒い法衣を着込んだ人影が見えた。廊下の窓ガラスを破って、彼は派手に登場した。

「……一度ならず二度までも邪魔をしたな」

 何メートルも吹き飛ばされて、ロアはゆっくりと立ち上がって、笑った。派手に窓とロアを吹き飛ばした彼もロアを凝視する。

「全く見苦しい。あのまま大人しく死んでいれば、楽だっただろうに」
「―――」

 先輩は何も言わず、ロアを睨む。だがロアには襲いかからず、直ぐに腰を下ろした。

「どうした? 貴様は私を倒すためにやってきたのではなかったのか? それとも、彼女を連れて逃げる気か?」
「―――」

 先輩は答えない。ただ、ロアを睨んでから倒れ込んでいる身体を抱き上げてくれた。

「……ほぉ。私との因果を絶つよりも、彼女の方が大事か」

 嘲笑う声だけが聞こえる。
 この廊下は、男の足音と笑い声をよく響かせていた。

「―――黙れ、『蛇』。今は貴様とやり合っている暇など無い、だけだ」

 先輩は一言、そう言って、
 私の身体を抱き上げて、吸血鬼から背を向けて三階から飛び降りた―――。





if 凶つ夜/2に続く
03.2.9