■ 18章 if 沈夢/2



 /1

 ―――毎日同じような夢を見るのにその刻は何故かが、違った。

 闇。
 夜の中。
 まだ眠りに落ちていた頃の話。
 全てが止まっている時の事。

 ―――がちゃり、とドアが開いた。誰かが部屋に入ってきて、眠る私のベットに近づく足音がする。
 闇の中に響く音。
 そして、声。

「―――……さん」

 小さな、声。
 聞き覚えのないその声は、よく聞くフレーズを放つ。
 呼びかけられているのか、否、違う。……これは男の独り言だ。
 私は眠っているから彼とは話せない。
 それとも、話せない相手に男は語りかけているのだろうか。
 ……どっちにしても、眠る私には分からない事だ。

「―――ごめん。…………こんなに苦しんでいるのに、俺は……」

 苦しそうな、声。
 冷たい、指。

「―――こんな、事しか俺にはできな……っ」

 辛そうな、声。
 絡まる、指。
 どくん、という鼓動。
 伝わってくる、体温。
 冷たいモノから、暖かいモノへ。
 冷めていた私の指を暖めてくれる、指。
 力強い、…………誰かの指。

「―――待っててくれ。俺が、すぐに楽、にしてやるから」

 心強い、指。
 はっきりとした、声。
 全てを言い終えたように言葉が切れる。

 そして、指が、離れる。

 足音が、遠ざかる。
 がちゃり、とドアが閉まる音。
 もう聞こえない、音。
 朝を待つ、吐息。
 それだけしか聞こえなくなった、部屋。

 今日はそんな不確かな夢を、見た。



 /2

 つまらない一日の始まりだった。
 昨日と殆ど同じ、ただ最初からベットにいたのが話を早くしたか。私を起こしに来た翡翠が顔を真っ青にして琥珀さんを呼びに行って、琥珀さんは私の身体を見てくれた。
 その後また秋葉が駆けつけて、結局ベットで大人しくしてろと言われる。……流石に一日ベットに寝ていると調子が悪いので、今は身体を起こさせてもらっている。

「…………おはよ、秋葉」
「…………」

 秋葉の顔は、……昨日より酷かった。秋葉が調子が悪いというわけではない。……私の調子が優れないのが悪いらしい。と言われても、……身体が動かないのは仕方ない。

「え、と……学校は?」
「…………すぐ行く。車はもう用意してある。……けど、姉さん……」

 ……このままだと秋葉も倒れてしまいそうなくらい、顔が青い。いくらなんでも秋葉の今の顔色は心配しすぎというより…………。

「秋葉、貴男もどこか悪いんじゃ……?」
「人の事より自分の事を心配しろって言ってるだろ!!!」

 ……。
 ……怒られちゃいました。
 しかも昨日とまるっきり同じ事を。

「……ん。これって原因とかあるんスかねぇ?」

 身体を看てくれてる琥珀さんは私に水を飲ませながら、そんな事を呟いた。答えることが出来ず、首を横に振るのみ。
 ……だが、あるとしたら、8年前の胸の傷。8年前、医者に言わせれば生きてるのが軌跡というくらいに酷い事故だったらしい。8年経って、そのツケがまわってきた……。
 もう二日も調子が悪いとそんな事思うようになった。そう、もう身体が動かなくなってもおかしく…………。

「あ、ダメッスよ。悪い方にばっか考えると本当に悪くなる! ここは栄養もちゃんとつけてちゃんと寝ていればなんとかなるって。………………な、翡翠」

 そう私の顔を見ながら琥珀さんは言ったが、……どうやらさっきの台詞は翡翠に向けられたものらしい。―――翡翠は、窓際に黙って立っている。私の朝の状況を秋葉と琥珀さんを知らせて連れてきてから、……一歩もそこを動こうとはしない。本当に、人形になってしまったように。

「とりあえず、コレお嬢さんの今日の薬だから宜しくな。じゃあ俺は学校に電話かけときますわ〜」

 人形のままの翡翠に、琥珀さんは薬の入った袋を手渡す。……ちゃんと受け取るのだから、本当の本当に人形になってしまったのではない、と思い安心する。
 駆け足で琥珀さんは部屋を出ていく。

「…………翡翠。姉さんを頼んだぞ」
「―――はっ」

 横目で私を見て、秋葉も去っていった。

 ……そしてまた、昨日と同じシュチュエーションだ。
 部屋に残ったのは、まだまだ身体を動かす事が出来ない私と、俯いたままの翡翠だけ。

「……翡翠。そんな顔しないで……別に痛がってるわけじゃないんだから、翡翠が心配するような事じゃないって」
「――――――申し訳ございません。志貴お嬢様」

 ……いつもの十倍近く低い声で謝って、頭を下げる。そういう所が悪いんだが、そんなことツッコんじゃいけないだろう……。

「……翡翠は、今日一日看ていてくれるの?」
「―――はい。お嬢様が、宜しければ」

 ……全く、昨日と同じ。もしかして、同じ一日を繰り返しているだけなんだろうか。そんなばかばかしい、世にも奇妙な物語風な考えが過ぎる。に、したって気分は悪くないのに、身体が悪い。無理に身体を動かそうとすると吐き気や頭痛が襲うが、それ以外の時は何でもない。至って普通の状態なのだ。

『じゃあ志貴ちゃん、また明日……』

 公園口で有彦と先輩と別れたときの、言葉。明日が、もう二日も来ない状態。
 学校は好きでもないけど、……やっぱりずっと家に縛られているのも嫌だ。
 学校に行けない。みんなに逢えない。外に行けない。話が出来ない。
 ……一体、いつまでこんな状態なんだろう。最近、レンも来てくれないし。窓際を歩いていないかな、と窓の方を向く。いるのは、―――ただ立っているだけの翡翠がいた。

「…………翡翠? また、昨日みたいに椅子と本でも持って……」
「―――」

 休んでいれば、と昨日と同じように声をかけられなかった。翡翠は、……私を看ていないのだ。
 いや、ずっと俯いていて『私を見ていない』。動かない。
 ただ、……握り拳が見えて痛々しい。
 何を考えているのか、……翡翠の考えは全然解らない。また私の事を考えているのなら…………。

「ごめんなさい…………」
「っ!」

 顔を上げる。私が、どうして謝ったのか判らない、そんな顔をしながら。

「そ、お……お嬢様は何も……!」
「うん。何でもないから。…………ただ、謝りたかっただけだから、翡翠は何も言わなくていいよ」

 ……。
 ……言われた通り、翡翠は喋らない。私の『命令』に従っているだけなのか、……いや、こんな私に放つ言葉なんて無いからか。
 どっちにしても、翡翠の表情は本当に辛そうだった。
 ……身体は動かなくても、全然辛くない私に比べて……動けるのに、どうして動かないんだろう、翡翠は本当に辛そうな顔をして。
 ―――何だか、羨ましかった。

「…………なん、て」

 自分の出した感情に嫌気が差す。二日間ぐらい動けなかったぐらいで、昔はもっと動けなかったくせに、私は動ける翡翠を『嫉妬』している。
 なんて、馬鹿な感情。心配してくれてるという人に、どうして恨む事なんか……。

「喉、乾いちゃった…………ね」
「…………水でしょうか?」

 言うと、翡翠はすぐ用意していたグラスに水を注ぐ。……本当は、水なんて飲む気はなかった。ただ、沈黙と自分の気持ちが恐くて、それから少しでも逃れたくて声を出しただけ。
 それなのに、翡翠はグラスを私に向ける。
 言われたらそうするしかないって自分でも判っているのに、…………どうして翡翠の行動一つ一つにつっかからなくてはいけないんだろう。本当に、『自分』が嫌になる。
 でも折角入れてくれた水を頂こうとし
 たが、

「…………」

 ―――言い出してから、気が付いた。
 身体が、腕さえも動かない状態だったんだ。口はきけるし、苦しくもないから言ってしまったけど、今の私は一人で水を飲む事も出来なかったんだ。

「…………ごめんなさい。自分だけじゃ……飲めそうになかったわ……」

 だから、下げて。そう言おうとしたが、

「―――失礼します」

 翡翠は遠慮がちな声でそう言って、
 私の身体を起こした……。

 ……って、え?

「ひ、……翡翠?」
「どうぞ、……お飲みになって下さい」

 翡翠は、今確かに両手で私の肩を持ち上げた。いつもの流れるような動き……とは言い難い、どこかギクシャクした動きで、私の身体を支える。そして、……ゆっくりとグラスを口に運んでくれた。

「……」

 成されるままに……こくん、と口に水を数回含んだ。
 飲み終えたのを確認して、翡翠はグラスを置いた。

 ―――今まで、今まで決して、私に触れようとはしなかったのに―――。

 そのまま、手のひらを私の額に重ねる。
 瞬間。―――どくん、と……今までにない心臓の高鳴りを感じた。

「…………いいの、翡翠?」

 翡翠の手のひらが離れる。翡翠は一息ついてから、

「………………熱はありません」

 言って、俯いた。

 ―――翡翠は、感情が無いんじゃない。ただ、……殺していただけなんだ。

 ……今ごろになって、そんな事を思い付く。

「翡翠。お願いが……あるんだけど」
「…………なんでしょう」

 俯いていた視線を、ゆっくりと上げ、交差させた。

「もう少し、手を重ねていてくれないかしら……?」
「…………何故ですか」
「……翡翠の手、冷たくて気持ちいいから……」

 ……返事はせず、翡翠は黙って手を差し伸べた。
 その手を、握る。

 ―――冷たい。夢の中で、出てきたあの指とは……違う気がしたけど。
 ―――不思議だ。懐かしい気分になる。
 ―――落ち着く。

 全ての痛みが消えてしまったような気がした。

「ありがとう…………翡翠」

 しばらく握っていた翡翠の手を放す。暖かくなった右手を、翡翠は黙って見ていた。
 ……こうされた時、どう言えばいいのか。そんな事を考えているのだろうか。私がもし逆の立場なら、恥ずかしくって何処か行ってしまいそうだ。

「…………みんな心配性だよね。翡翠も、そういう所が琥珀さんと一緒」
「―――兄さんと、似ているのですか?」

 意外そうに、翡翠が尋ねてきた。そりゃ、顔とか声とかソックリなんだけど、色々な所が違う。琥珀さんなら自分からベタベタしてきたりしそうだけど、翡翠はさっきの両手を後ろに組んでしまった。

「うん。昔の話。…………琥珀さんてあの頃からお兄さんだから、私や秋葉が怪我とかすると琥珀さんたらすぐ心配するの」
「―――」
「あの頃は傷の治療なんて水洗いしてバンソウコウ貼るぐらいしか判らなかったから、秋葉が膝擦りむいた時なんてバシャバシャ消毒液かけてたっけ」
「―――」

 そうそう。……あの、転んだ時より痛そうだった秋葉の顔は忘れられない。
 昔はよく駆け回って、駆け回った分だけよく転んだ。……そしてその回数以上秋葉はよく泣いた。そのかわり笑い、怒り、喜び…………昔は喜怒哀楽がハッキリしてた子供だった。……今は2番目ばかり目に付くけど。

「何かな、琥珀さん。……アレは心配性というより楽しんでたんだと思うけど」
「―――」
「あ、でも迷惑だったってわけじゃなくて、秋葉も随分お世話になってたし、…………琥珀さんのそう言う所、私は大好きだったな」

 とても優しくて、心配性で、それでも元気で明るくて、いつも屋内にいた私を外へ連れ出してくれた男の子。琥珀さんのおかげで、楽しい幼年期を過ごせたと言っていい…………。

「―――そうですか」

 翡翠は静かに頷く。
 ……って、しまった。と口を紡ぐ。何故、いきなり琥珀さんの話をしてしまったのだろう。翡翠にこんな話つまらないだけだろうに…………。

「ご、ごめんなさい。私……調子に乗って…………翡翠には判らない話だったよね」
「―――いえ。…………そんな事はありません」

 そう言った翡翠の顔は……退屈ではなさそうだった。

「お嬢様のお身体が宜しければ、どうぞ続けてください。……兄さんもなるべく身体を動かした方がいいとおっしゃってましたから」
「そう……なの?」

 そうアドバイスされても……今の私に出来ることといったら口を動かすぐらいしかない。では、今はそれに専念してみよう。

「……そう改まって言われると、一体何話したらいいのかな……。昔の事だったら色々思い出せるけど」
「それで構いません。……どうぞ、お嬢様の子供の頃のお話しをお聞かせ下さい」
「それでいいの……? ホント、つまらないと思うけど……」
「はい、…………楽しいです。俺」

 嬉しそうな顔をして、翡翠は頷いた。

 ―――俺。
 翡翠の口から出た、『自分』という言葉。
 翡翠自身がそう言ったのは、初めてだと思う。
 滅多に見られない、笑顔。それは、本当の翡翠の姿だと思う。

「…………お嬢様?」
「あ、ごめ……! ……えと、昔話だったね、うん」

 そうして、……記憶を少しずつ掘り起こしながら翡翠につまらない話を聞いて貰った。



 /3

 ―――二日も同じ風景を見ているのはとてもあきる。
 だがまだ身体が動かせない。
 涼しい夜風に揺られるカーテン。
 翡翠と一日中話して、琥珀さんと交代して食事。夕食の間は秋葉もこの部屋にやって来ていた。

「秋葉、夕食は?」
「…………もう食べた」

 壁に寄りかかって、ベットで食事をする私を見ている。食事をすると言っても、殆ど流動食。しかも、……今日は秋葉と翡翠も公認の『赤ちゃんプレイ』だ。

「琥珀さん……本当にすいません」

 スプーンを運んでくれる琥珀さんが一息ついた時に、そう謝っておく。

「俺は大歓迎スからこーゆーの!」
「………………なんだと?」

 ……夜風以上に涼しい……というか冷たすぎる声が襲う。

「い、いえいえっ! 仕事ですからっ、お嬢様をお世話するっていう!!」

 慌て気味に琥珀さんは秋葉の恐ろしい視線をかわす。そんな二人のやりとりをずっと見ていて、つい笑って口の中の物を出してしまいそうだった。
 ―――半日以上経っても、回復無し。むしろ悪くなっている現状。
 食べさせてもらっている間に、ため息が出ることもしばしば。それをするたびに、……秋葉の表情が崩れる。それは見たくないから、なるべく笑おうと努力した。

「秋葉様、やりますか?」
「…………何をだ」
「お嬢様の看病」
「……………………やめとく」

 照れることも詰まることもなく、秋葉は琥珀さんの誘いを断った。

「そうですよね〜、やっぱお年頃ですからね〜」
「なんだそりゃ。…………姉弟にそんなもん、無いだろ」

 ぷいっ、と顔を背ける秋葉。……その動作は、きっと照れているに違いない。私と琥珀さんは静かに、秋葉にバレないように笑った。
 この屋敷に住んでいる人間で、一人だけ部屋にいない人物がいた。

「あの……翡翠は?」

 昼間ずっと居てくれたのに、今は居ない人。

「ん……キッチンにいますよ。多分」
「え……」

 でも、翡翠は料理出来ないんじゃ…………。

「いや、俺が志貴お嬢様のお世話をさせて頂いてますから、翡翠にお願いしてるんですよ。料理は出来なくても後片づけは翡翠の方が巧いですからね!」
「…………少しはお前も見習え」

 後ろから、キツイツッコミを入れる秋葉。どうやら秋葉は琥珀さんが不器用……というか破壊魔ということを知っているらしい。……そりゃ、『秋葉専属の使用人』なんだから色々知っているかもしれないけど……。
 秋葉と琥珀さんの二人を見ていると、……とても仲がよい。主と使用人、そんな関係ではない。どちらかと言うと、友達…………そんな感じがした。出来ることなら、私も翡翠とそういった雰囲気の方がギクシャクしなくていいのに……。

 ―――コンコン。
 ノックの音。失礼します、という声の後、翡翠が入ってくる。

「おー、片づけ終わったか。あんがと」
「……ああ」

 琥珀さんは、食べ終わった食器を片づけて翡翠に話しかける。…………とても自然な、会話だった。いや、兄弟で敬語使っている方が不自然か。

「じゃあ姉さん、俺はこの辺で失礼するよ」

 翡翠と入れ替わるようにして、秋葉は出ていこうとする。

「おやすみ、秋葉」
「…………お大事に」

 音を立てないようにドアを閉めて行った―――。

 秋葉はいつもこの時間になると部屋に帰る。おそらく学校の課題とかをやりに行くのだろう。……夜、秋葉の部屋にお邪魔した事がないので予想だが。

「そんじゃ、俺達も失礼しますわ」

 …………時計を見ると就寝時間が近かった。

「本当は食べた後直ぐ寝るのは良くないことなんスけどね〜」
「……病人ですから」

 よく栄養をとって、ちゃんと寝るのが一番。……これが、普通の風邪ならばそんな方法で治るであろう。

「んじゃ、おやすみです〜っ!」
「……おやすみなさいませ」

 対照的な夜の別れを告げて、二人は部屋を出ていった。
 部屋を、暗くしてもらって……窓は閉められた。風は入らない。
 熱い空間が、其処に用意された。
 今は、―――ただ眠ろう。眠れば何かが変わるかもしれない。
 ……そう思って昨日は寝てみたけれど、何も変わらなかった。いや、―――どうせ眠るのなら早めに。
 あんまり眠気はなかったが、無理矢理瞼を閉じた。そうしていれば、いつかは夢に辿り着けるから―――。



 /4

 興奮。
 ―――頭が痛い。
 熱帯夜。
 ―――喉が、乾く。
 駆け回る。
 ―――動けない筈なのに。
 鏡。
 ―――ちっとも似ていないのに。
 殺す。
 ―――喉が乾いているから。
 追いかけられる。
 ―――殺したから。
 誰か。
 ―――殺しにクル。
 秋葉。
 ―――………………。

 そんな不確かな夢を見た。



 /5

 水が欲しくても、身体が動かないのだから飲むことなんてできない。

 あたりは、―――闇。
 夜の中。
 まだ眠りに落ちていた頃の話。
 全てが止まっている時の事。

 ―――がちゃり、とドアが開いた。
 闇の中に響く音。
 そして、声。

「―――………………様」

 小さな、声。
 聞き覚えのないその声は、よく聞くフレーズを放つ。
 呼びかけられているのか、否、違う。
 ……これは男の独り言なんだ。
 自分は眠っているから彼とは話せない。
 それとも、話せない相手に男は語りかけているのだろうか。
 ……どっちにしても、眠る人間には分からない事だ。
 分からない筈だ。
 分からないに決まっているんだ。

「失礼します」

 その声は、―――翡翠だ。間違いない。眠っていたが、ちゃんとこの目で彼の服をとらえた。翡翠はトレイを持っていた。そのトレイの上には、水の入ったグラスと、何か薬のような包みがあった。もう、……就寝時間もとっくにしぎた中、どうしたのだろう。

「喉がお渇きではないかと思ってまいりました」

 カチャリ、とドアに鍵を掛けて翡翠は近づく。
 ―――そう、鍵を掛けて。

「お一人で身体を起こせますか? 無理でしたら手をお貸ししますが」
「…………」

 断った。
 声もきちんと出なかったが、確かに断った。
 ちゃんと断った筈なのに……、翡翠は肩に手を掛けた。

「お一人で立てないのならそう言ってください」

 ぐいっと強引に身体を起こされた。
 翡翠はトレイに置かれた薬を、また強引に口に放り込む。
 拒む力もない。
 むしろ、…………翡翠がそんな行動をしてくれた。それが何処か嬉しかった。

「お飲み下さい。―――兄の特別な薬です」

 そして、口に注がれるグラス。
 シーツに水を零しそうになりながらも、その水を飲む。
 いきなり、何をし出すのか…………。

 ―――起こされた体がベットに倒れ込む。
 ……力が入らない。
 最初から力は入らなかったけど、それとは違う。
 …………身体が熱い。
 喉が乾いて熱いのではなく、身体の芯が、急に―――。

 でもなんだか。
 ………………身体が再び動けそうな感じがした。
 ……凄い。これならすぐ動けそう……。

「兄の話では、少しずつ身体の感覚を取り戻さないと意味が無いそうです。なので大人しくしていて下さい」

 翡翠がそう言うなら、今は大人しくしておこう。
 言って、身体の力を抜く。
 ……だからそもそも身体に力なんて無かったんだけど、じっと動かないように―――。

 ―――してると、翡翠の指が…………の首を、うなじを触った。

「―――!」

 厭な、予感がした。
 身体に残ってるだけの力を振り絞って、その指から逃げる。
 脈を測るんだったら手首の筈だ。

「いいえ。―――俺は脈じゃなくて、……鼓動を感じたかっただけです……」

 ひやり、と。
 冷たくて気持ちいい指を感じた。

「どうかお静かに。あまり動かれては折角の貴重な薬の効力が無くなってしまいます」

 何故。ただでさえ身体を触らない翡翠が、触ってるだなんて―――。

 どくん
 どくん
 どくん

 そんな、薬が効いているのか翡翠に緊張しているのか判らない、鼓動。
 ああ、今生きている、そんな感動と共にやってくる。

「大分落ち着いて来たようですね。……そのままでしていれば、本当に動けるようになりますよ。」

 翡翠が、何かを言っている。
 翡翠の、声が、遠い。

 ……。
 …………。
 ………………。

 ああ、今…………死んでいくんだな、という感動。
 やってくる。
 共に。
 ―――。

「でも多少時間がかる。それまで俺は見ていなければならいない」

 反転。
 視界がグラグラする。
 ベットに突っ伏している筈なのに、地震が起きているかのようにゆらゆら揺れる。

 クラ。
 クラクラ。
 クラクラクラ―――。

 ああ、……自分は、今…………。

「その間―――そう、お嬢様がして下さったように、お嬢様のお好きな子供の頃の話をしようか」

 立ったまま。
 倒れた人を上から眺めながら語る。
 それはまるで、―――いつかの少年のように。



「アキハさま達と遊んでいた時、いつも窓を見上げていた。何故か決まってあの時間になると、お嬢様は空を見上げた。遊びを誘う者達の言葉も無視するかのように、―――俺を見てくれたんだ。俺はあの時間を待ち遠しかった。屋敷の人間は俺の事は居ない物として扱われていたから。ただ一人、俺を『居る』存在として見てくれた人間がいるんだな、それだけでも判って嬉しかったから。俺を見るお嬢様の目は無言ながら、毎日マイニチ語りかけてきてくれた。早く外に出てきて。一緒に遊ぼう。と。だけど俺は屋敷の外には出なかった。出る方法も判らなかったし、そんな事に意味があるのかも理解らなかった。俺は、別に外が見たかっただけじゃない。遊びたいなんて思ったこともなかった。ただその時の自分の居場所から離れたかったから、自分に許された場所は彼処しかなかったからいただけだ。そんな事どうでもよかった。シキさまやアキハさまが中庭で遊んでいる姿は、窓の風景の一つにしか見えなかった。一つ一つ違う筈の木々もみんな同じモノに見える。色なんて判らない。動き回る塵だって気にならなかった。見ていたかったのは、そんな物じゃないから。物を見て感動したい、考えたいなんて想っていなかったから。ただ中にいるだけの無かった存在、それから逃げていただけだったのに。―――お前さえ、俺になんか気付かなければ。お前が俺に手を振って、何も知らないくせに俺を呼んばなければ、俺はどうなっていたか判らない。今、俺がこうして見下ろしているのも、全てお前の責任なんだ―――」



 そう言って、
 翡翠らしき人物は、嬉しそうに笑った。



「毎日、あの時間だけは楽しかった。あの中庭から、一つの窓を探す姿を、いつも見ていた。いつも、今日こそ遊ぼう、今日こそ出てこい、と言っていた。―――そこでやっと気付いたんだ。俺は外に出られる足のある人間なんだと。窓の外から見おろしていた塵共と同類だったんだ、って。俺、ずっと子供の頃からお前と話してみたいと思っていたんですよ。こうして話がしてみたいと、それだけを願っていたんですよ。何て言おうか何度も考えたんですよ。どんな楽しい事を喋ろうかって。結局、こんな恨み辛みしか言えないですけどねぇ………………」

 口元が、歪んでいる。
 嬉しくて、楽しくて仕方がないというように。

「待ち遠しかった。本当に待っていた。俺が外に出る日を、なんかじゃない。そんな事は不可能だと分かり切っていたからな。言いたかった事。これだけは言いたかったんだ。―――希望なんてよくも持たせてくれたな。そんなものなければ絶望なんて知らずにいられたのに。なのにお前は得意げに、出てくるのが簡単だ、当たり前だとも言うように俺を見る。早くそんな所から出てこいという目で。―――嗚呼、本当にあの時間は楽しかった。憎たらしいぐらい可愛かったお前を見ているのが。あんなに感情をぶつける事が楽しかっただなんて知らなかったんだぞ。いや、忘れていただけかもしれないけど。お前は、呪いをかけたんだろう? しかも、そんな事を想って考えている人間がいるだなんてお前も知らなかったんだろう? ……同じなのに。本当の意味で同類だったのに、判らなかった。俺は御館様は特別悪い人だとは思わなかった。ただ時折血のせいで凶暴になる。それのせいで俺はここにもいられるし、こんな事もしていられる。どうしようもない事だけど、―――お前にあったことだけは感謝しないとな。どうしても彼奴だけはと思ったからこんな事になってしまったんだし、こんな性格にもこんな身体にもなったのも彼奴のせいだ。ただ、―――一人だけ別世界にいるようなお前が許せなかっただけなんだ。どうしてそんなに意味の無いことをやるのか、理解できなかった。此処と其処とは別世界なんだから関係ないじゃないか。なのに何故、誘う。
彼奴にお前もそう誘われたからか? 俺は彼奴を助けて、彼奴はお前を助けて、……それでお前は仕方なく俺を? 羨ましいとか憎いとかそういうんじゃなくて、正体の分からない連中の事を、ナンデか想うようになったんだ。そんなくだらない気持ちのせいで苦しめられるのが恐かった。―――そして、お前は死んだ。無関係なのに、関係のあるあの方を庇って、其奴等に何もかも奪われた筈のお前が庇って死んだ。その時、俺、痛くて、何時もの様に殴られても蹴られてもいないのに胸が痛かったのを覚えている。苦しくって泣くのは知ってたけど、嬉しくって泣くのはその時初めて知ったんだ。そう、遺体に抱きついてる彼奴等を見ているのが俺、とても嬉しかったなぁ。その時、決めたんだ。
 ―――――――――彼奴にはそう死んでもらおうと」



 笑顔は崩れない。
 本当に楽しそうに話す声。



「ちゃんと聞こえてるか? 薬が効いてるからって無視しないでくれよ。今、全部俺が出血サービスして教えてやったんだから、この後は宜しく。そう、出血サービスというのは俺なりに面白く掛けているんだから感謝してくれよ―――」



 わけの判らない事を一通り話して、
 ―――翡翠……は、熱い物を喉に通した。



「お前は死んだ後、屋敷から去ってしまったけど、それは屋敷の者には極秘の事だった。一部の人間しか知らなくて、その一部の人間の食餌になっていた俺は知ることができた。他の連中になんか教える暇なんてなくて、とりあえず似合いそうなものをあげたんだ。―――ほら、やっぱり白が一番綺麗だしな。それしかなかったんだけど、……汚れやすいけどやっぱりそれが最高だ。もう一人、後々殺された奴がいたけど、其奴も絶賛だったんだぞ。だから、それだけは手放さないでくれって―――」



 ……。
 …………。
 ………………。
 ……………………何時からか、声がしなくなった。

 それは、……私が完全に眠ってしまったからか、
 そもそも全部眠りの中の事なのか。
 ……でも、そんな事どうでもいい。



 朝起きた時、全て無くなる記憶だから。





if 透る爪痕/1に続く
02.10.20