■ 16章 if 静夢/2



 /1

 気が付けばそこは森。屋敷の中のその森は、とても広くて、広すぎて、子供が遊ぶには絶好の場所。
 ―――いつか見た『夢』の話。

 子供たちが遊んでいる。家に閉じこもっていた私は少年に連れられて外に出る。
 今日は何して遊ぼう、といつも誘ってくれる少年。
 笑顔で、青い空の下で誘ってくれる少年。
 ―――何年も前にこの眼で見た記憶。

 その笑顔に私は誘われて、私だけじゃなく秋葉も誘われて、子供達は遊び始めた。屋敷にいれば大人しくしなければならないが、外に出れば私たちは子供に戻る。私がいて、秋葉がいて、その少年がいて、―――もう一人いた、気、がす、る。
 秋葉はいつも駆け回って、私はそれを一生懸命追う。それを見守ってくれる優しい少年。それと。
 ……それと?

 もうひとり。―――そう、もう一人。大好きな秋葉と少年ともう一人、いた。
 私たちには兄がいる。秋葉のことが大好きで、いつも秋葉をからかっていた。ちょっと強引で、お父さんたちに怒られるのはいつもその子。私を誘いだした少年もその子に手を焼いていたようだった―――いた、筈、な、んだ。

 いつもの子供達。子供たちは遊んでいた。―――いつも、遊んでいた筈なんだ。

 夢から覚めると彼らの事が想い出せない。―――あの子達は一体何処へ行ってしまったのだろう、とまた悩む。現実だと何を思い出すのかも分からない。
 悩む。
 本物の『遠野志貴』という私は何処へ行ってしまったのだろう。



 /2

 静かな時間が経過していく。お互い、会話がなかった。いつもは元気に話がきれることなく喋ってくれる琥珀さんも、大人しい。
 私の様態を気にしてか。
 私の心境を気にしてか。
 ……とにかく、この沈黙は気持ちよかった。
 …………とても、静か。そして、ひどく懐かしい。
 気分はまだ晴れない。琥珀さんの気遣いで横になった。涼しくて冷たい畳の匂いのする部屋で、横になったまま部屋の障子を見ている。視界には入らないが傍で琥珀さんがいるのは分かった。その琥珀さんが私の手をとる。

「……うーん、もうちょっと寝てた方がいいッスね。お嬢さん、やっぱ俺薬とって……」
「大丈夫ですよ。……こんなの慣れてます。だから、……」

 ―――さっきの続きを、話して下さい。
 そう口が勝手に開いた…………それほど、私は知りたかったのだろう。

「―――御館様のお話、ですか?」

 琥珀さんは、声のトーンを一つ落として言った。黙って頷く。すると、困ったように琥珀さんの笑い声が聞こえた。琥珀さんは、私の言葉通りに、何処にも行かなくなった―――。

「御館様の医者様が言ってたことなんスけどね……安定剤を使っていました」
「言ってた……? 琥珀さんはお父さんの事は診てなかったの……?」
「え、……ハイ。まぁ男のロマンとしてはやっぱり可愛い看護婦さんに診てもらった方が嬉しいでしょ?」

 ……ふざけて言ってるんだか、本音なんだか。しかし多分今のは前者の方だろう。

「遠野家のは……御館様もそうだったように、幼い頃から精神が病んでしまって自殺してしまった人が十人以上いるそうです」

 ……精神が病んでる?

「―――御館様は夜になると屋敷の庭に出歩き、犬や猫を殺してしまったり、自分の躰を傷つけたりすることが珍しくなかったそうです。……そうして、朝になると何も思い出せず、真っ赤になった両手を不思議そうに見ていた…………らしいです」

 琥珀さんは目を伏せながら言った。楽しい話題ではないのは分かっている。
 その人は、……私の父は、狂っていた。そう言っているのだから。

「昔は御館様を看ていたのは、……はい、俺達の母だったんですけど、最近まで診ていたのは時南先生のお嬢さんですよ。知ってるでしょう? ……安心して下さい、何もされてませんから」
「…………何を安心するんですか?」

 あ、と琥珀さんは余分に出てしまった言葉を手で塞ぐ。
 少し気まずそうな顔。冗談に失敗したからか、―――それとも別の意味でか。
 身体の怠くなければ、じっと琥珀さんの顔が見られるというのに…………。
 ―――否。顔を見なくたって、目の前にいるのは優しい琥珀さんなんだ。

「…………もっと、優しい言い方もありましたね」
「いえ、……私は、本当の事が知りたかったんです」

 その声。スウ、と風が通り抜けるような、静かで爽やかな『音』。言葉がすぐ傍で聞こえる。それだけで安心感を得る―――そうして。

「―――お嬢さんは怖くないんですか」

 と問う。……一瞬、翡翠じゃないかと思うぐらい落ち着いた声だった。これが、琥珀さんの本当の………………?

「どうしてですか……?」
「見せてもらいました、時南先生から。―――お嬢さんの診断書」

 ―――あぁ、秋葉がいつか言ってたアレ……。
 昔、覗き見てみたけど全然意味の分からなかった診断書…………。

「その様子だとやっぱり最近病院に行ってないんですね」
「あ、そうです…………ね」

 あはは……と、自分でも情けなくなるような元気の無い笑みを浮かべた。
 ……最近、色々忙しくて行ってなかった。忙しいといったって、殆どが遊びである………ルクェイドとかの。身体の心配より、遊びたいという気持ちの方が勝っていた。それが大きくなればなるほど、身体にくる苦痛は鈍くなる。だけどそれは、治ったわけじゃない。……感じなくなっているだけだ。
 それは、恐い。自分で『痛い』と感じなくなる。イコール、いつ倒れるか分からなくなる。
 ―――みんなに心配がかかるのが、恐い……。

「それ見て俺……正直驚いたんスよ。……本当にお嬢さんは毎週土曜日遊びに行っていいものかって」

 ……アルクェイドと、一般人とはしないような話をしに行くだけ……それが病院に通わなくなってしまったキッカケか。

「お嬢さん。……自分で分かってると思いますけど、お嬢さんは普通なら病院のベットで暮らしてなきゃいけないんスよ? ……非常に弱いモノなんです」
「……えぇ」

 勿論、自分で分かっている。…………でも一見したら、私の行動は分かってないと思われてもおかしくないのか……。

「…………なのに、常人と同じように暮らしている」
「―――悪い、ですか?」
「あぁ」

 少し、琥珀さんの声は怒っているようだった。それはきっと、……私の身体の事を想ってなんだろうけど。

「ハッキリ言っちゃいますけど、…………お嬢さんは『いつ死んでも可笑しくない身体』なんですよ」

 ……。
 …………。
 なんだ。改めて、琥珀さんが真剣な声で聞いてくるから特別大変な事だと思ったら、毎度病院に行くたびに聞かされる事だった。

「なんだ、じゃないッスよ! これがどれだけ重要な事か分かってるんスか!? 死ぬかもしれないんですよ?」
「えぇ、……そうですね」

 それぐらい、分かってます。と付け加える。自分の身体ですもの、……とも。感覚がバカになっているんですよ、…………ついでにそれも呟いて。

 そう、いつの間にか感覚が鈍ってしまった。
 線が見える眼。
 死が視える眼。
 不安定な世界に入ってしまった私。
 それでも真っ暗な世界に戻ることも逝くことも出来なかった私。

『死が視えるほど怖いものはない』

 ―――かつて、先生が言っていた言葉。
 先生がおかしくなってしまった私を現実世界へと戻してくれた言葉。
 ……それこそ怖かった。当時は毎日が死にそうで、本当に怖かった。だから病室にいたくなかった。
 線が見えるのは嫌だから。
 誰も相手をしてくれない毎日が嫌だから。
 ……今の私は、開き直っているだけなんだ。そう、ただのひねくれ者なのかもしれない…………。

「でもね、琥珀さん。……例えるなら風邪の日。この時ほど健康な体が愛おしいと想う事はない。それと同じで、死と隣り合わせだと生への喜びは凄まじいもの……」

 …………死に拘っているだけじゃなくて、前に進む。ありきたりな言葉だけどそのとおり。
 『君がその力を持ってしまった事はきっと何らかの意味があるに違いない』
 その言葉は、本当なのか分からない。生かされているのか。生かされていないのか。……まだ、その刻が来ないのかも。
 『全てを否定せず、君が正しいと想う人生を送ればいい―――』
 だから、こう解釈した。動けるうちに動いておこう、と。結論は簡単だけど、そこまで達するのにどれだけ時間がかかったか。もう分からない……。
 ―――私は先生とも約束したから生きてられる。

 …………『とも』?
 我ながらおかしな台詞を思い付いた、気が、する…………。

「…………そっか。お嬢さんは本当凄い人だ」

 琥珀さんの指が、私の髪を撫でた。その指の方へと、視線を向ける。見えるのは、琥珀さん、ただ一人。穏やかな笑顔を私に向けてくれている男性。
 今も、……昔もずっといてくれたんだな、と。…………指がリボンを触って、改めて想った。

「笑顔…………」

 目の前にあるのは、いつもの琥珀さんの表情。懐かしい、室内に籠もっていた私を青空の下に誘い出したあの少年の笑顔と同じ



 でも、
 ―――何故か、
 ――――――この人の笑顔は、初めて見た気がした。



 指。髪を撫でる、白いリボンを揺らがせる琥珀さんの大きな手。
 よく思い出せないけど、懐かしいようで、……初めての光景だった。

「―――変ね」

 薄暗い和室の中、声が余計に響く。いつもなら二人きりだなんてドキドキしてしまって出来ないだろうに。

「―――やっと笑ってくれましたね」

 すると琥珀さんは照れて赤くなり、いつも通りあははと声を上げて笑った。

「寝惚けてますねお嬢さん。俺は、…………ずっと笑ってたじゃないか」

 ……。

「……そうですね」

 瞼が、重くなってきたからだろうか。目眩は治まった。気分も悪くない。いや、良い。
 ……夢でも、これなら、安心できる。
 涼しくて冷たい畳の匂いのする部屋で、横になったまま部屋の障子を見ていた。―――琥珀さんの、手を止める。

「志…………?」

 指で、指を押さえた。
 しっかりとした手。

「……」

 昔、私を外へと誘いだして繋いだ…………

「ヒ―――?」

 …………手と違う気がした。



「――――――琥珀、先に来ているのか?」

 勢いよく障子が開いて、和室に入ってきた影。

「ぁ―――!」

 部屋に入ってきたのは、…………秋葉だった。
 びくん、と思わず、指が凍った。一緒に、琥珀さんの表情も。

「…………何をしている」

 感情のない、秋葉の声。

「あ、そ、あの……これ!」

 誤解だって! ……という言葉も出ないくらい焦ってしまう。秋葉はただ冷たい目でこちらを見ている。

「秋葉……っ、その、さっき……私、貧血で倒れて……それで琥珀さんが……」

 看病……と言い切ろうと思った、
 が。
 秋葉は琥珀さんを睨みつけ和室に入り込み、

 そのあと、
 琥珀さんの頬に、拳が入った。

「…………なっ…………」

 一瞬の出来事だった。琥珀さんの身体がグラリ、と蹌踉ける。まるでスローモーションの映像を見せられたかのように、秋葉が、和室に入ってくる足と同時に琥珀さんを殴るシーンを見た。琥珀さんの顔が一瞬歪む。力強く受けた拳はどんなに痛いだろうか―――っ。

「あ、秋葉っ、貴男―――!!」
「姉さん! ここは立ち入り禁止って言っただろ! 気分が悪いんなら自分の部屋に戻るんだな!!」
「そ、そんな事はどうでもいいでしょ! なんで琥珀さんを殴ったの!?」
「当たり前だろ……っ! 此処は老朽化が進んでいる建物なんだから、こんな所で姉さんを休ませるなんて馬鹿げてる」

 秋葉は、いつも以上に涼しい顔つきだった。琥珀さんは殴られた頬をさすっている。……そんな姿を見向きもしない。何事もなかったように振る舞う秋葉。
 ……人を殴っても、何も感じないというのだろうか……!

「秋葉! 倒れたのは私なんだから琥珀さんは悪くないの……っ」

 思わず立ち上がる。少し頭の片隅の辺りで頭痛がした。が、それに構うことなく秋葉と向き合う。

「それに、此処に来てしまったのは私の我儘だし……!」
「――――――姉さんは琥珀を庇うのか?」

 ギロリ、と見たこともないような目。
 秋葉の視線が鋭くなった。

 ………………何か。
 これも、
 何かを思い出す。
 ……今の、秋葉の目は…………?



 ―――いつかの殺人鬼を思い出す。
 いや、そのもの、……じゃない………………?



「…………わかった。姉さんがそんなに言うなら俺は何も言わない。だけど、これからは此処に近づくな!」

 ……そんな馬鹿げた錯覚も一瞬で消えた。改めて秋葉を目を向ける。
 ……秋葉は、たとえ鬼のように怒っているけどいつもの秋葉だ。コレは、秋葉なんだ。

「戻るぞ、琥珀。……姉さんもな!」

 そう言い放って、…………秋葉は早足でさっさと部屋を去った。―――でも、何かが、引っ掛かった。

「……琥珀さん」

 叩かれて俯いていた琥珀さんに声を掛ける。

「あの、大丈夫ですか……?」
「ん、何が?」

 ―――笑顔。
 ……向けられた表情は笑顔。こちらが迷ってしまうぐらいの、笑顔。

「え……」

 驚いてしまう。……琥珀さんは、ピンピンしていた。
 今さっき、秋葉の痛恨のストレートが顔面に入ったというのに、……まるで無かったように元気だ。

「琥珀さん、本当に…………?」
「ほらほらっ、早く出ないと閉めますよーっ。もうこれからは此処入っちゃダメッスよ?」

 あはは、と笑いながら、私の背を押した。その笑い声が、……作り物だなんて分からなかった。琥珀さんは、……いつもの笑っている琥珀さんに戻っただけなんだ……。
 今日の秋葉も秋葉で何かが違い、琥珀さんもおかしな所が沢山ある。二人のように、……何事もなかったように屋敷に帰ることなんて出来なかった。



 /3

 玄関前で、人が立っていた。

「―――」
「おぅ、ただいまー!」

 ……その人は、何も言わず私たちを目だけで迎えてくれた。後ろから私の背中を押すように歩く琥珀さんが声を掛ける。それがスイッチのように、……翡翠は口を開いた。

「―――おかえりなさいませ、志貴お嬢様」

 ……後ろで、ガクッと倒れた兄は置いといて。

「あ、……ただいま。翡翠……」
「―――」

 しばらく、秋葉と同じように私を睨んで、一礼をした。
 ……その目は怒っている。きっと行ってはいけないと言われていた離れに、……みんな揃って行ってしまったからだろうか。

「翡翠…………その、秋葉は……?」
「―――先に入られましたが」

 そう言って、翡翠はノブに白い手袋の手を掛ける。……どんな指をしているのだろうか。そんな、どうでもいいような事を思い付いた。

「傷だらけですよ……」
「えぇっ!? 何で……」

 背後霊のようにボソリ、と楽しそうに耳打ちする琥珀さん。

「味覚オンチで料理下手ッスからねー、最近目覚めたんですよ。…………お嬢さんのた・め・にv」
「―――兄さん」

 鋭い視線が、琥珀さんに向けられる。

「だからお嬢様も翡翠の手料理で死ねる日が近いかもしれないなぁ♪」
「……死ねる?」

 あはー☆ ……と琥珀さんは愉快そうに笑った。それと相対するかのように、……不愉快そうにギリ、と歯を噛んだように見えたのは錯覚だろうか?
 翡翠は何も言わずに、ドアノブを握る―――。



 その先は、毎日通るロビー……
 ……の中に、秋葉が俯せで倒れていた。



「―――ッ!?」
「秋葉様!?」

 翡翠の後ろから覗いたその光景に絶句する。翡翠が秋葉の名を呼び、駆け出した。

「…………秋葉!」

 そこには、階段に転げ落ちてしまったような秋葉の姿。秋葉の呼吸は乱れていて、顔色は真っ青。……その姿は、一目で尋常ではないと分かった。

「秋葉!」
「………………近寄るな!」

 屋敷に踏み入れると、……凄まじい声で私にそう叫んだ。はぁはぁ、という苦しそうな息と共に。

「近寄るなって…………何言ってるの。そんなに苦しそうなの、放っておけるわけないでしょ……っ!」
「いいから……っ、近寄るな!!」

 ただ、苦しげに息を吐く秋葉。息を呑んで、こっちを見上げる視線。
 血走った目。普段の秋葉とは思えないほどの、―――荒れ様を見た。

 ―――その姿。また、想い出す。いつかの男性。

「………………ぁ」

 どうかしている。さっきから私はおかしい。これで二度目だ。
 秋葉の苦しげな姿に、重なる人物が見える……だなんて。
 それほど、秋葉と――は、まるで本物の兄弟のようにソックリだった。
 そんな筈はない。秋葉は、……私のただ一人の弟なのだから。

「秋、葉……」
「来る、な…………俺は、大丈夫だから…………」

 弱々しい声。そんな声を聞かされて、大丈夫だなんて思えない。

「こ、琥珀さん!」
「…………っ」

 いつの間にか私の横をするりと抜けていた琥珀さんが、秋葉に肩を貸した。

「部屋まで歩けますか?」
「……」

 返事はない。だが、コクンと小さく首が縦に動いたのが見えた。肩を貸せば動けそうだった。苦痛に顔を歪ませ、秋葉は立ち上がる。

「ゆっくり、行きますんで!」
「叫ぶな……っ、耳が、痛い…………」

 そのまま、琥珀さんの助けで秋葉は部屋まで向かった。

 ……ロビーに、玄関に残される。
 ―――何が何だか分からなかった。
 苦しそうな秋葉を見た。秋葉は私に近寄るなと言った。……それがどうしても理解出来ない……。
 ゆっくりと去っていった階段を見つめる。

「秋葉……」
「―――お嬢様」

 ……私を気遣うように翡翠が声を掛ける。その目は、……秋葉の様態を心配するような、困惑した目だった。

「翡翠には、秋葉に何が起こったか分かる……?」
「―――秋葉様は突発的な呼吸困難におちることがあります」
「え」

 翡翠は、静かに頷く。
 いつか、秋葉が言っていたように……私が貧血で倒れるように、遠野家の人間がみんな病気持ちであると。秋葉もまた、その一人であると。
 自分もその一人。……私より酷くない。今日の夕方の公園で、確かに秋葉はそんな事を言っていた。それが、嘘じゃなかったということだ。

「……でも、秋葉は今日も元気そうだったのに……!」

 ……心配だ。あんな苦しそうな顔を見せつけられて、不安にならない方が可笑しい。

「―――」

 翡翠は応えない。応える言葉が無い。…………ああ。もしかしたら、秋葉の方が私よりも酷い病気なのかもしれない。そんな、悪い方向へと考えが進んでいく……。

「――――――秋葉様の事でしたら、兄さんに任せてください」

 翡翠は、いつもの口調とはどこか違う、落ち着いて安心させるような声で言った。きっと、私が慌てている……そんな姿を見せたから。恥ずかしくなって、笑ってみた。

「……そうね。琥珀さんは私たちのお医者さんだし。…………秋葉も信頼しているようだから」

 ―――ようだから。
 おそらく、……あの離れの出来事はカッとなってしまったから。いつもはとても仲の良い二人だから。それに医学について全然解らない私がいたって役に立たない。今は琥珀さんに任せるしかないだろう。

「お嬢様―――」

 続けて翡翠は話す。申し訳なさそうな目をして……。

「―――秋葉様は、秋葉様の病気は薬で治せるものだと兄さんに聞いています。……秋葉様は治療方法が分かっている自分の事より、お嬢様のお身体の方を気に掛けています」

『―――普通なら病院のベットで暮らしているぐらい』

 琥珀さんは、そう言った。なら琥珀さんの傍にいる秋葉がその事を知っていてもおかしくない。いつでも死と隣り合わせなんて、自分でも分かっている。

「……わかってる、けど……」

 それでも、…………人が倒れるのを見せられたら、怖いんだ。

 夏のある日。
 死の見える世界へと倒れ込んでしまった私は、外に出るのが怖かった。
 もう死を視たくないから。
 ずっと死の無い世界に戻りたかったから。
 ……だが、完全に死が消える世界になんて帰れなかった。
 先生も無理だと言った。
 それに、今になって理解る。
『この世に死が無い世界などない―――』
 そんな当たり前な結論に辿り着いたのは、つい数日前だった。



「―――何を、わかってるんだ」

 声。
 声を発した人物の方へ向く。

 その声は、…………一体どちらのものか分からなかったから。
 この声の持ち主を、私は二人知っている。
 でも振り返っているのは、翡翠の姿だけ。
 琥珀さんは先ほど二階へ秋葉を運んで行った。ここにいるワケがない。

「…………翡翠? どうしたの俯いて……」

 その翡翠の様子は、……さっきの秋葉のようだった。
 まさか、翡翠も身体が……?

「―――いえ。お嬢様は、本当にあの離れの屋敷を思い出せないのですか?」

 ………………え?

 思い出せない、って。
 ………………一体、何を。

 それは何故…………。

「槙久様はあの屋敷を取り壊すと決定されました」

 ……あの、離れを……?

「ですが、秋葉様が反対したので今のまま残してあるのです」

 ……何の、話……。

「ですから、お嬢様の身体のためにもあの離れには近づかないで下さい」

 そう言って、―――翡翠は走り去るようにして私の前から消えた。

「……」

 翡翠、やっぱり私がこっそり離れに行ってたの、知ってたのか…………。
 『お嬢様の身体のためにも』。それは、一体どういう意味なんだろう。

「………………頭痛が止まらないや」

 まだ身体は動く。今のうちに部屋に戻ろう。そのまま眠ってしまえば、何かが済む、と思って―――。





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02.10.6