■ 7章 if プラネタリウム/1



 /1

 有彦と別れ、屋敷への坂道と続く交差点についた。
 まだ夜の7時だというのに、人は誰一人もいない。やはり連日の殺人事件のせいだろう。犯人はいなくなっても、まだそれをみんな知らない。それに殺人事件がなくても、用心はしたほうがいい。いつ、新たな事件が起きるのかもしれないから。

「………………」

 暫く、交差点のガードレールの所で立ち止まっていた。夜7時はそんなに明るくない。もう少し時間が経てば、直ぐ真っ暗になってしまうだろう。
 有彦に『ちゃんと帰れよ』と言われておきながら、……夕方までには帰ると翡翠に言っておきながら、交差点を渡る事が出来なかった。

 ―――誰を、待ってるんだろう。

 待ってる?
 待ち合わせなんてしていない。だけど、ガードレールに腰を掛けて、ヒトを待っているような仕草。誰もいないこの場所で、誰かが通るのを待っているような自分。
 ……もう、居ないのに。
 居る必要がないヒトだから、もう逢える事がない。
 吸血鬼と戦った記憶はあるのに、……何故か、彼と楽しく話した記憶は薄れている。

 ふと。
 誰かが、視界に入った。

 茶色の髪。
 ウチの学校の制服。
 背中をこちらに向けているが、
 自分が追い求めていた姿に似ていた―――。

「…………って、まさか!?」

 一瞬だけだけど。
 弓塚くんの姿を視界がとらえた―――。



 /2

 弓塚、くん―――?

 一瞬だけだったけど、交差点の向こうの方に、茶色の頭をした学ランが通った。
 ……あれは確かに弓塚くんだった。

 何ともなかったんだ…………。

 安心した。病気でずっと休んでるわけでもなく、……事件の犠牲者というわけでもないらしい。それでも、家出だ病気だと言わせておいて、夜の街に繰り出すほど元気だなんて―――なんだか、頭にきた。
 交差点を渡る。屋敷とは逆方向の街へと。

 弓塚くんはフラフラとした足取りで街を歩いていく。街はまだ賑やかで、……それでもいつもよりはおとなしい気がした。人混みをかき分け、……彼はどんどん行ってしまう。とにかく追いつめて引き留めようと思った。

「待って、弓塚くん―――!」

 追いかけながら声をかける。人混みの中、大声を出すのは引けたが、一向に止まらない弓塚くんを追うため、声を絞り出すように言った。

「………………」

 声が聞こえたのか、弓塚くんはこちらに振り向いた。
 …………振り向いただけ。

「………………」

 ……また、歩き出してしまう。
 弓塚くんは、何ともない。いつもの顔で、何事もなかったように、……学校にいるときみたいにこちらを向いた。
 なのに、

 ―――どくん……

「……え?」

 この、悪い予感は、なんだろう。
 胸を抑える。これは、多分貧血……ではない。まだそんなに走ったわけではないから、息切れで調子が悪くなったというわけでもない。
 でも、イタイ……。
 すごく、イタイ……。

 走るように去っていく彼。

「ま……待って! 弓塚くん!!」

 走りながら呼び続ける。
 胸を抑えながら走り続ける。
 だが、弓塚くんはふらふら先を歩いていくだけで止まらなかった。
 ……何か、おかしい。

「待って…………って、言ってる、でしょう!!」

 叫ぶ。それでも、止まってはくれない。
 それよりか、

「…………あれ」

 もう、どこにも居なかった。
 弓塚くんが、消えた。視界から消えてしまった。

「いったい、どこに―――」

 ―――どくん

「………………」

 無理を、してしまったらしい。
 さっきから痛かった胸は、余計痛み出してきた。
 ふらり、と電柱に寄りかかる。
 場所は、街の中。
 というのに。

「………………」

 空は黒い。
 月は見えない。
 夜の街。
 閉まったお店。
 誰もいない。

 殺人者には格好の的のような、ソコ。

「…………もう、吸血鬼はいないんだってば」

 そう、何度も自分に言いかける。
 でも、何か悪い予感はしていた。

 それは、昨日の夜の事。
 アルクェイドが叫んでいる中、私は目を閉じた。
 疲れきった私の身体を揺らし、何とか起こそうとした。
 その後は、屋敷に連れて行ってくれた……。

 …………その前。
 何か引っ掛かるを言っていたような気がする。

『 もういねぇから―――今は、いないから―――』

 ―――今、気付いた。あの時、アルクェイドの作った作戦で吸血鬼……ネロを倒そうと突進したとき、肝心の『死の線』が見えなかった。
 奴には死がない。
 あの時、死んでしまうかと思った。でもあの後、アルクェイドがネロと戦って……一瞬だけ、『点』が見えたようが気がする。
 そして、
 ただ走り、
 ぶつかった
 ―――だけ。

「それって―――?」

 今、本当に今、気付いた。秋葉にもう大丈夫だと言っておきながら、有彦の会話でもう安心していながら、―――さっきだって『もう、居ない』と信じ切っていたのに。
 完全に倒したという実感がない。
 奴は、……吸血鬼は、死んでいない。

「夢……だったっていう、わけじゃ……ないよね?」

 誰も答えてくれるわけでもないのに、―――震える声で言った。
 その時
 ―――ゴトンッ

 ……その音と一緒に震え出す身体。
 ―――物音が、路地裏の方で聞こえた。
 建物の裏の方で、何か強い音がした。その音は一回だけ……もしかしたら、聞き間違えかもしれない。聞き間違え、そう思いたい、けど……嫌な予感がさっきからずっとしている。
 電柱に寄りかかるどころか、倒れてしまいそうだった。
 息をのむ。
 音がした、建物の裏の方を見る。

 ―――路地裏の方で誰かがいる?
 ―――それとも風で荷物が倒れた?

 ―――でも、疲れた頭に思い浮かぶのは、

「弓塚くん―――?」

 自信のない声で、そう呟いた―――。

 ―――あたりは人影はない。頼れるものといったら、……琥珀さんが渡してくれたお父さんの形見であり、アルクェイドを助けてくれたナイフだけ。もう持ち歩くのはヤメようかと思った。でも、何故か持ち歩いている。
 理由はワカラナイ。
 ―――嫌な予感がしてたから?
 まさか、そんな事はない。
 のに。

 冷たい感触。
 もう使うことなんてないと思っていたけど、ただの変質者相手には脅すくらい武器にはなると思う。

 ―――いざとなれば、私には『眼』がある。一回、大きなため息をついて

「音は、こっちかな……」

 覚悟を決めて、路地裏へ足を運んだ。

 ―――どくん
 心臓の高鳴りが耳でも聞こえる。それだけ周りは静かだ。
 物音は路地裏の奥で聞こえた。
 ゆっくりと、足を進める。
 誰にもバレないように。
 ……誰もいないことをずっと願いながら。
 そして、路地裏の広い世界に辿り着いた。



 真っ赤な世界に。



「……………………え?」

 それしか言えなかった。
 路地裏の広場は、闇の中、一つの電灯が灯している場所にしか、色はない。真っ暗な空間に、真っ赤な世界が広がっている―――。
 朱だけの世界と思いきや、……ゴミや瓦礫に交じって、手足が散乱している。

「―――」

 それは、犬や猫ではなく、白くて固い骨、朱い肉、ぐにゃぐにゃとした何かがそこには散乱していた。
 オマケにつん、としたニオイ。このニオイは、一体何処に行ったら嗅げるのだろうか。……嗅ぎたくもない、朱のニオイ。

「―――」

 動き出しそうな、ぐにゃぐにゃしたナニカ。勿論、それは動かない。普段は生物の教科書でしか見られないようなナニカがある。
 ……もう、そのナニカの名前、知っているけれど。

「―――」

 声も出せず、ただそれを見ていることしかできなかった。
 死体は幾つあっただろう?

 立ちつくす。
 だって他に何が出来る?

「や―――」

 出来ると言えば
 叫ぶことぐらいしか。

「あ……あああ……!」

 目が覚めて、その場から逃げようと後ろに下がった。
 見たくない、とやっと脳が動いてくれる。それから視線を外すため、身体がやっと180°回ってくれた。
 駆け出す。駆け出して、今すぐここから逃げ出したかった。
 ドン、とナニカにぶつからなかっていなければ……

「あ…………」

 ナニカ、とは、人だった。
 正面衝突したというのに、相手は蹌踉けもしない。顔を上げる。それでも、……意外なものを見てしまった感じは、もうしない。

「遠野さん。そこにいると危ないよ」
「―――!」

 ……顔を見上げと、ちゃんと、生きてる人間の顔が見えた。
 私は、その人にタックルしてしまったらしい。
 後ろに下がる。……だが、下がりすぎると赤い海に足を入れてしまうため、離れる事が出来なかった。
 男は、……私がぶつかってしまった所をポンポンと手で払った。
 その服は、学生服。見覚えのあるその姿。顔。……に、紅い目。

 入ってきた路地裏の裏に、―――弓塚くんが立っていた。

「ゆ、みつ、か……?」
「こんばんは。こんな所で遠野さんに逢えただなんて嬉しいよ」

 街で、偶然に出逢ってしまった時のように、軽い口調で弓塚くんは喋っていた。

「弓塚くん……一体、ここで、何をしてたの……?」
「俺? 俺はただの散歩だけど、遠野さんこそこんな夜中に何をやっているの? もしかしてそんなに沢山ヒトゴロシしてたとか?」

 淡い笑顔を向けられて―――私は周囲を改めて見渡した。……一面の血の海の真ん中で呆然と立ちつくしている私。

「ち、違う! 私がやったんじゃ……!」
「嘘つくことないだろ? 遠野さんだけ生き残ってるなんて、俺以外が見たって遠野さんがヤったんだって思うよ? 可笑しい事を言うよな」

 息をのむ。
 弓塚くんは、笑っている。
 …………可笑しいのはわかっていた。
 何でこんな死体が散らばっているのか、とか。
 ずっと見ていない弓塚くんに何で逢えたのだろう、とか。
 どうして血の海を見て弓塚くんは笑っていられるのだろう、……とか。

「ゆみ、つかくん……?」

 全て、信じられない出来事で、顔を覆いたくなる事ばかりだった。
 もう、前が向いていられないぐらい、……視界が歪んでいる。

「ごめん。泣かないで……そんな顔しないでくれよ。俺がちょっと言い過ぎた……。そうだよな、遠野さんがこんなヒドイ事するわけないもんな」

 弓塚くんは、路地裏の入り口から一歩も動かない。
 だから、赤い海の外へ出る事が出来ないのだ。
 弓塚くんは両腕を、背中の方で後ろに組んでいる。不自然な格好だ。まるで何かを隠しているようにも見える。

 そして、見えるのは
 足下の、血の斑模様―――。

「弓塚くん―――」
「なに、遠野さん?」

 ずっと彼は笑っている。全然面白くないのに……。

「違う……」

 『コレ』は、弓塚くんじゃない―――。

「…………弓塚くん。どうして手を隠してるの……?」
「あ、バレちゃった? 流石は志貴ちゃん、だよな」

 志貴ちゃん、と強く発音して、……弓塚くんは手を出した。

 ―――真っ赤に染まった手。

 その手から血が滴り落ちている。
 そして、口元に笑み。

「弓塚くん、その手―――」
「ああ。俺が殺したんだ」
「な―――」
「あ、でも仕方ないんだよ。殺さなきゃ俺が死んでたんだから。生きるためには血が必要だから、仕方なく殺したんだから」

 ―――ワカラナイ。
 何を、言っているのか。
 それじゃ、まるで、―――吸血鬼みたいだ。

「殺したって―――、本当なの? 弓塚くん……」
「嘘だって言ったってもう信じてもらえないんじゃないか?」

 弓塚くんの笑みは崩れない。
 誇らしげに真っ赤な手を前に出している。
 『凄いだろ』いや、『羨ましいだろ』?
 新しい玩具を買って貰った子供のような、そんな自慢の目。
 …………信じたくはないけど、この惨劇は

「本当に、弓塚くんが―――」

 起こしたもの……。

「どうして……? どうして、こんな事を、弓塚くんが……?」
「だから、生きるために殺したんだってば」
「そんな……! どんな事だって、どんな理由だって人殺しは悪いことでしょ―――!?」
「そんなことはないさ。最初のうちはわからなくても、落ち着けばわかるコ……」

 ト、と言いかけて。
 弓塚くんの笑った表情が崩れた。

「!?」
「がはぁっっ……!」

 表情を歪ませ、苦しみだす。
 尋常ではない、こんな苦しみ方―――見たことがない。

「が、……あ!」

最初は首を、次は胸をおさえて、膝を地面につける。

「弓塚くん―――!?」

 いきなりのことだった。いきなり現れて、ずっと笑っていたのに、いきなり苦しんでいる。
 口から、血を吐いた。吐いた血は綺麗に路地裏に撒かれる。口元が真っ赤に染まっている。

「いてぇ……やっぱりキレイな血じゃないと駄目なのかよ……」

 咳き込む。そのセキは、朱い息だった。
 弓塚くんの身体はガクガク震えている。何が起きたかはよくわからないけど、……とにかく、弓塚くんが苦しんでいることだけはわかった。

「苦しいの、弓塚くん!?」

 弓塚くんに駆け寄って手を取ろうとする。

「来るな!」

 大声で止められ、身体がビクっと跳ね上がってしまう。
 それでも、弓塚くんは肩で呼吸をしていた。

「どうしたの……苦しいなら、病院行かなきゃ…………」

 思い付いた台詞が、そんな言い方だなんて。
 表情を歪ませていた弓塚くんは、……ほんの少しだが、落ち着いた……苦笑いをしたような気がする。背中をさする事も出来ないなら、声をかけて落ち着かせてあげたい。
 ……でも、思い付くのは、どうでもいいような事ばっかだった。

「…………人を殺したって、そんなの嘘でしょ、弓塚くん……? 人が、こんな酷い殺し、できるわけないでしょ……?」

 嘘を言っている。
 私は以前、これと同じ光景を見たことがある。
 自分で捌いた人間。

「弓塚……くん」

 優しく声をかけて、近寄る。
 だが、弓塚くんはよろりと後ろに逃げた。

「―――痛ぇ」

 そう、呟く。

「痛いのなら本当に看てもらわなきゃ! そんな身体のままじゃ治らなくなっちゃうよ……!?」

 呼吸を乱して、朱い息を吐く。
 顎はもう真っ赤で、学ランも不気味な色に染まっている。
 それを、医者に診てもらって何て言われるだろう?
 ―――もうとっくに、彼が普通じゃないことなんて分かっていた。

「……本当は、今にでも、志貴ちゃん……に助けてほしい」



 ―――でもまだいけない。



 そう言って、弓塚くんは突然身体を持ち直した。
 そして、笑う。もう苦しくなさそうな笑み。
 だが、服や手に付いた血で、恐ろしい光景になっていた。身体が、恐怖で後ろへ勝手に動いている―――。
 ぴちゃ、と足が赤い海に入っても、…………何か嫌な足ごたえがあっても、近寄ることが出来なかった。
 そんな姿を見たからだろうか、……悲しそうな顔をする。

「…………ごめん。驚かせて」



「いつか、一人前の吸血鬼になって君を迎いに来るから」



 駆け出す。

「弓塚くん―――!?」

 一瞬にして彼はいなくなった。

「待っ…………」

 路地裏の入り口からいなくなり、出口を解放される。急いで彼の背中を追った。
 ……だが、弓塚くんの姿はない。
 ………………光のように消えていった。
 いくら弓塚くんの走りに自信があっても、音もなくいなくなるなんてことはできない。
 まるで、―――獣のようだった。

 ―――どくん

「は、あ―――!」

 胸が痛む。
 酷い痛みだった。

「な、……さっきとは違ッ……!」

 走ったからイタイとか、嫌な予感がするから胸が押しつぶされそうだとか、そういう痛みとは違う。
 ガクン、と膝の力が抜けた。狭い、街と建物の裏を結ぶその通路で独り倒れる。
 今更、……今更、あの惨劇を想い出したというのか。頭を抱えて、路地裏を見た。

「え…………?」

 残っているのは、赤い血のみ。

 足も手も臓器も……全てなくなっていた。
 全てではない。……赤い海だけが、路地裏を満たしている。

 よくわからない。
 一体どうなってるのかよくわからない……!

 でも、その赤い海も。
 降り出した雨に、すぐ流れ消えていってしまった。



 /3

 ザア―――
 雨の音がする。
 するだけで、他には何も感じない。

 公園にいた。
 特に理由はない。公園のベンチで、座っていた。ココロを落ち着けていた。
 あれから考えて、他にすることが思い付かなかった、だけ。

 ザア―――
 少し経ってから、寒い……そう感じるようになった。
 でも、冷たい……とは感じない。感覚が怒れてしまっているのだろうか。
 ―――ずっとベンチに座っている。
 手元にはナイフ。握りしめ、身体はずっとずっと震えてたままだった。

「弓塚くん……」

 今更帰ったって、また秋葉に迷惑を掛けるだけ……
 また有彦の家に向かったら……なんて怒るだろうか。怒るどころか呆れて相手にされないだろうな……。
 ……ベンチに横に倒れる。

「―――」

 何だか、最近―――色々な事がありすぎて、疲れている。
 触覚だけでなく、神経さえもイカれてしまったから。
 ……それはそれでいいかもしれない。

「―――」

 目を、閉じた。
 何だか楽になれそうな気がしたから。



 …………………………志貴ちゃん?



 不意に、名前を呼ばれた。

「―――」

 目を開け、顔をあげる。雨の中、視界が歪んでいてよくわからない。
 目を凝らして見ると、……シエル先輩がいた。
 シエル先輩はまだ学ランのまま、赤い傘をさして立っていた。寒いからだろう、ボタンは上まできちんと留められている。傘をちゃんと持っていても、……藍色の学ランに水滴がいくつもこぼれ落ちていた。それだけ、この雨の激しさがわかる。雨でよく見えないシエル先輩の 表情は……心配そうに私を見ていた。眼鏡の奥の細い目が、不安げにこちらを覗かせている。
 ……そりゃそうだろう。雨の中、傘もささず、公園のベンチで、夜……電灯もあまりついてない所にいれば。

「一体……どうしたんだい? こんな雨の中……もう夜の10時だよ?」
「え―――」

 まだ、それしか、経ってなかったのか……。
 もう何十年も経ってしまった気がする。

「このままじゃ風邪…………引いちゃうよ。早く家に帰って着替えた方が―――」

 ……優しい、声。雨の寒い音と一緒に、暖かい声が耳に入ってくる。
 ……何て心地よいんだろう、と思った……。

「志貴ちゃん……? 僕の声、聞こえてる?」
「ん―――うん。聞こえて……ます」
「聞こえてるだけじゃダメだろ。本当に風邪引いたら―――」

 シエル先輩の手が、何気なく私の肩に触れた。
 ……そして、言葉が途切れる。目を見開いて、傘を投げ捨てて私の両腕を掴んだ。

「志貴ちゃん……! こんなに冷たくなってるじゃないか……!!」

 まるで、怒っているように……シエル先輩は叫んだ。両肩を揺さぶられ、首が力無くガクガクと揺れる。
 そういえば、寒い……。サムイサムイと思っていたけど、……声をかけられるまで寒いは本当か嘘か実感できなかった。
 そして、先輩は私の腕を掴んで、強引に立たせる。流石に、痛かった―――。

「僕の傘を貸してあげるから、早く家に帰って温まった方がいい……じゃないと、本当に身体を壊してしまうよ……!」

 シエル先輩は傘を無理矢理持たせた。
 雨に濡れる青い髪。また、学ランに水の玉が流れた。

「―――こ、わ?」

 弓塚くんは、何が壊れて『しまった』んだろうか……。
 数日前の私のように。

「今、帰っても……迷惑かけるだけだから、帰れな……………」
「……」

 シエル先輩は黙って私を見た。

「…………うん。じゃあ僕の家に来て。志貴ちゃんのお屋敷よりは近いから」

 傘を持って、私の肩を引っ張る。

「相合い傘だけど……許してね」

 微かに笑った。おそらく、……ヒトを落ち着かせるための笑み。

「―――」

 そんな人工的なモノでも、……アッタカイ……、と思えるほど、身体は冷えていた。



 /4

 ―――先輩の住んでいるアパートは、よくある二階建ての部屋の一つだった。学生一人が暮らせる程度で、あまり広くない。それでも寝るところと台所、洗面所はある。結構片づいた住まいだった。

「……じゃあ、これで身体を拭いてね」

 バスタオルを手渡される。

「ちょっと大きすぎるかもしれないけど、僕の服を着ていてくれるかい? ……流石に女の子にぴったりの服は無くってね。今すぐ、あったかい飲物用意するから」

 先輩は台所に消えていった。綺麗な部屋に一人にされる。
 ……まさか、こんなカタチで先輩の部屋に入るとは思わなかった。先輩はちゃんと掃除がしてあって、……綺麗だ……。

「………………嘘言っちゃったな。有彦……」

 ちゃんと帰れると約束したのに。
 ……。

「………………志貴ちゃん!? ちゃんと拭かないと肺炎になっちゃうかもしれないよ……!」

 何もしなかった私を見て、急いでシエル先輩は駆け寄った。
 タオルを私から奪うように(といってもただ持っていただけなので抵抗はしなかったが)掴むと、頭から少し乱暴に拭き出す。だが、ある一定と所までいくとピタリ、……とシエル先輩の動きが止まった。

「あー、……下着……どうしようかな?」

 着替えろ、と言っておきながら、シエル先輩はどうやって着替えさせるか考えていなかったらしい。頬が赤く染まっていた。

「あ……お風呂、狭いけどあるから先に入ってきてね。下着は……」

 雨の下に長時間いたせいか、ブラウスはずぶ濡れで、下着も完全に濡れていた。

「大丈夫です。これくらい―――」
「大丈夫……ってせめて上だけでも暖めないと危ないよ。…………そうだ、志貴ちゃん」

 素早くシエル先輩は上着を着て、出かける準備をする。

「僕、ちょっと出るから、お留守番、頼めるかな?」
「あ、はい、……大丈夫ですから」
「直ぐ戻ってくるから。……その間、お風呂入っていて。ゆっくり浸かって身体をちゃんと暖めなきゃ駄目だよ」

 ……半ば、勝手に話を進められたように、シエル先輩はアパートから出ていった。
 ―――また、独りになる。

「…………ありがとうございます」

 何でもしてもらっている、テキパキと動く先輩に、……聞こえないだろうけどお礼を言った。

 ―――お風呂から出て、バスタオルでスカートを拭く。それでも濡れているので、このまま掃いていると毛布まで濡らしてしまいそうだ。ブラウスを着ずそのまま乾かしておき、……ブラジャーも外したままでタオルで水気を拭き取る。水気を取れるだけ取って、また身に付けた。
 ……そしてシエル先輩に貸して貰ったシャツに着替える。そんな事をしていると、

「ただいま、志貴ちゃん」

 そう、玄関の方で声が聞こえた。
 先輩の大きめのシャツに急いで着替えて、先輩を迎えた。

「あ、もう出てたんだ……もっとゆっくりしていてもいいんだよ」
「いえ―――迷惑ですから」

 遠慮がちに言うと、そうか、とあっさり言う。先輩は何やら色々買い込んできただけみたいだった。手にはビニール袋をぶら下げていた。……コンビニの袋である。

「…………先輩、私、もう帰ります。お風呂貸して貰って嬉しかったです。けど……このままいたら迷惑ですから……」
「迷惑だなんて。こんな夜中、例の殺人事件が騒いでいるんだから、一人で帰らせるわけにはいかないだろう?」

 ……。
 それが一般的な考えというものだ。そう優しくしてくれるのはとっても嬉しい。
 でも……。

「直ぐにお茶入れるから、……座っててね」

 上着を脱ぐと、すぐにヤカンに火をかけ……買ってきた食べ物を二人分、用意し出す。

「志貴ちゃんは座ってていいから。ほら、休んでなよ」

 ……先輩のすることは、……親切すぎる。少し気が病んでしまうほど、丁寧すぎて、……嬉しい。

「…………ごめんなさい」

 謝っても先輩は、笑って何も責めてくれはしなかった。

 ザアー、という雨だれの音。
 夕食をごちそうになって、ベットまで借りて眠りにつこうとしている。

「…………志貴ちゃん。早く寝ないと遅刻しちゃうよ」

 暗くしてもらった部屋。今、……本当に迷惑ながら、私はシエル先輩のベットの中にいる。

「先輩…………起きてるんですか?」
「ああ。……志貴ちゃんが寝たら僕も寝るから」

 何もしないよ〜、と冗談入りの先輩の声が聞こえる。先輩は台所で寝ている。一人暮らしなのに私にベットを譲ったから。
 『これで女の子にベットを譲らなかったら最低だよ』という先輩の意見。……一般的にそうなのかもしれないが。
 ……。

「どうして寝ないの?」

 私を気遣ってか、シエル先輩が話しかけてくれてきた。

「何だか……何でしょう?」
「雨の下じゃないと寝られないとか?」
「そんなことないです……」

 先輩は眼鏡を外していた。視力はそんなに悪いというわけではないらしい。眼鏡を外していてもちゃんと物を取ったり、いつものテキパキとした気の利く行動は劣らない。
 先輩は、まだ学校のYシャツの姿だった。

「……先輩は、部屋でも着替えないんですか?」
「あー……着替えるは着替えるんだけど……。男の着替えなんて見たくないんじゃないかな、と思ったんだけど」
「大丈夫ですよ、もう寝ますから」

 そう言って、……私も眼鏡を外した。
 キン、という一瞬の頭痛と一緒に目を閉じた。目を閉じてしまえば線は勿論見えないし、頭痛もない。

 ―――本当にごめんなさい。

 秋葉や翡翠、琥珀さん、有彦、弓塚くん、……先輩。
 迷惑かけっぱなしで謝っても謝りきれないくらい、バカな自分が腹立たしく思った。

 それから逃げるように……。
 現実から逃げ出すように、眠りに落ちていく………………。

 ―――突然フッと目を開けた。
 シエル先輩が、……私服に着替えている。Yシャツを脱ぎ、もっと楽な格好に……。

「……」

 見ちゃいけないものだとわかっていながら、見てしまった。でも夏では授業で上半身だけなら出してるのだろう? なら別に恥ずかしい事も無いだろうに…………。

「先輩って―――痣があるんですね」
「あ、志貴ちゃん!? 寝てるんじゃなかったの……?」
「寝てます」

 驚いているシエル先輩の声を聞いて、―――安心した。目を閉じる。先輩のあまりの驚きように口元がつい笑ってしまう。

「ごめんなさい。もう寝ますから」
「はは……おやすみ。志貴ちゃん…………」

 疲れたようなシエル先輩の声を聞いて、………………その日は眠りに落ちた。

 ……シエル先輩の身体中に、青い何かが輝いていた。
 一瞬頭に浮かんだのは『痣』という言葉だが
 ―――まるで、入れ墨のようだった。





if プラネタリウム/2に続く