■ 7章 if プラネタリウム/1
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有彦と別れ、屋敷への坂道と続く交差点についた。
まだ夜の7時だというのに、人は誰一人もいない。やはり連日の殺人事件のせいだろう。犯人はいなくなっても、まだそれをみんな知らない。それに殺人事件がなくても、用心はしたほうがいい。いつ、新たな事件が起きるのかもしれないから。
「………………」
暫く、交差点のガードレールの所で立ち止まっていた。夜7時はそんなに明るくない。もう少し時間が経てば、直ぐ真っ暗になってしまうだろう。
有彦に『ちゃんと帰れよ』と言われておきながら、……夕方までには帰ると翡翠に言っておきながら、交差点を渡る事が出来なかった。
―――誰を、待ってるんだろう。
待ってる?
待ち合わせなんてしていない。だけど、ガードレールに腰を掛けて、ヒトを待っているような仕草。誰もいないこの場所で、誰かが通るのを待っているような自分。
……もう、居ないのに。
居る必要がないヒトだから、もう逢える事がない。
吸血鬼と戦った記憶はあるのに、……何故か、彼と楽しく話した記憶は薄れている。
ふと。
誰かが、視界に入った。
茶色の髪。
ウチの学校の制服。
背中をこちらに向けているが、
自分が追い求めていた姿に似ていた―――。
「…………って、まさか!?」
一瞬だけだけど。
弓塚くんの姿を視界がとらえた―――。
/2
弓塚、くん―――?
一瞬だけだったけど、交差点の向こうの方に、茶色の頭をした学ランが通った。
……あれは確かに弓塚くんだった。
何ともなかったんだ…………。
安心した。病気でずっと休んでるわけでもなく、……事件の犠牲者というわけでもないらしい。それでも、家出だ病気だと言わせておいて、夜の街に繰り出すほど元気だなんて―――なんだか、頭にきた。
交差点を渡る。屋敷とは逆方向の街へと。
弓塚くんはフラフラとした足取りで街を歩いていく。街はまだ賑やかで、……それでもいつもよりはおとなしい気がした。人混みをかき分け、……彼はどんどん行ってしまう。とにかく追いつめて引き留めようと思った。
「待って、弓塚くん―――!」
追いかけながら声をかける。人混みの中、大声を出すのは引けたが、一向に止まらない弓塚くんを追うため、声を絞り出すように言った。
「………………」
声が聞こえたのか、弓塚くんはこちらに振り向いた。
…………振り向いただけ。
「………………」
……また、歩き出してしまう。
弓塚くんは、何ともない。いつもの顔で、何事もなかったように、……学校にいるときみたいにこちらを向いた。
なのに、
―――どくん……
「……え?」
この、悪い予感は、なんだろう。
胸を抑える。これは、多分貧血……ではない。まだそんなに走ったわけではないから、息切れで調子が悪くなったというわけでもない。
でも、イタイ……。
すごく、イタイ……。
走るように去っていく彼。
「ま……待って! 弓塚くん!!」
走りながら呼び続ける。
胸を抑えながら走り続ける。
だが、弓塚くんはふらふら先を歩いていくだけで止まらなかった。
……何か、おかしい。
「待って…………って、言ってる、でしょう!!」
叫ぶ。それでも、止まってはくれない。
それよりか、
「…………あれ」
もう、どこにも居なかった。
弓塚くんが、消えた。視界から消えてしまった。
「いったい、どこに―――」
―――どくん
「………………」
無理を、してしまったらしい。
さっきから痛かった胸は、余計痛み出してきた。
ふらり、と電柱に寄りかかる。
場所は、街の中。
というのに。
「………………」
空は黒い。
月は見えない。
夜の街。
閉まったお店。
誰もいない。
殺人者には格好の的のような、ソコ。
「…………もう、吸血鬼はいないんだってば」
そう、何度も自分に言いかける。
でも、何か悪い予感はしていた。
それは、昨日の夜の事。
アルクェイドが叫んでいる中、私は目を閉じた。
疲れきった私の身体を揺らし、何とか起こそうとした。
その後は、屋敷に連れて行ってくれた……。
…………その前。
何か引っ掛かるを言っていたような気がする。
『 もういねぇから―――今は、いないから―――』
―――今、気付いた。あの時、アルクェイドの作った作戦で吸血鬼……ネロを倒そうと突進したとき、肝心の『死の線』が見えなかった。
奴には死がない。
あの時、死んでしまうかと思った。でもあの後、アルクェイドがネロと戦って……一瞬だけ、『点』が見えたようが気がする。
そして、
ただ走り、
ぶつかった
―――だけ。
「それって―――?」
今、本当に今、気付いた。秋葉にもう大丈夫だと言っておきながら、有彦の会話でもう安心していながら、―――さっきだって『もう、居ない』と信じ切っていたのに。
完全に倒したという実感がない。
奴は、……吸血鬼は、死んでいない。
「夢……だったっていう、わけじゃ……ないよね?」
誰も答えてくれるわけでもないのに、―――震える声で言った。
その時
―――ゴトンッ
……その音と一緒に震え出す身体。
―――物音が、路地裏の方で聞こえた。
建物の裏の方で、何か強い音がした。その音は一回だけ……もしかしたら、聞き間違えかもしれない。聞き間違え、そう思いたい、けど……嫌な予感がさっきからずっとしている。
電柱に寄りかかるどころか、倒れてしまいそうだった。
息をのむ。
音がした、建物の裏の方を見る。
―――路地裏の方で誰かがいる?
―――それとも風で荷物が倒れた?
―――でも、疲れた頭に思い浮かぶのは、
「弓塚くん―――?」
自信のない声で、そう呟いた―――。
―――あたりは人影はない。頼れるものといったら、……琥珀さんが渡してくれたお父さんの形見であり、アルクェイドを助けてくれたナイフだけ。もう持ち歩くのはヤメようかと思った。でも、何故か持ち歩いている。
理由はワカラナイ。
―――嫌な予感がしてたから?
まさか、そんな事はない。
のに。
冷たい感触。
もう使うことなんてないと思っていたけど、ただの変質者相手には脅すくらい武器にはなると思う。
―――いざとなれば、私には『眼』がある。一回、大きなため息をついて
「音は、こっちかな……」
覚悟を決めて、路地裏へ足を運んだ。
―――どくん
心臓の高鳴りが耳でも聞こえる。それだけ周りは静かだ。
物音は路地裏の奥で聞こえた。
ゆっくりと、足を進める。
誰にもバレないように。
……誰もいないことをずっと願いながら。
そして、路地裏の広い世界に辿り着いた。
真っ赤な世界に。
「……………………え?」
それしか言えなかった。
路地裏の広場は、闇の中、一つの電灯が灯している場所にしか、色はない。真っ暗な空間に、真っ赤な世界が広がっている―――。
朱だけの世界と思いきや、……ゴミや瓦礫に交じって、手足が散乱している。
「―――」
それは、犬や猫ではなく、白くて固い骨、朱い肉、ぐにゃぐにゃとした何かがそこには散乱していた。
オマケにつん、としたニオイ。このニオイは、一体何処に行ったら嗅げるのだろうか。……嗅ぎたくもない、朱のニオイ。
「―――」
動き出しそうな、ぐにゃぐにゃしたナニカ。勿論、それは動かない。普段は生物の教科書でしか見られないようなナニカがある。
……もう、そのナニカの名前、知っているけれど。
「―――」
声も出せず、ただそれを見ていることしかできなかった。
死体は幾つあっただろう?
立ちつくす。
だって他に何が出来る?
「や―――」
出来ると言えば
叫ぶことぐらいしか。
「あ……あああ……!」
目が覚めて、その場から逃げようと後ろに下がった。
見たくない、とやっと脳が動いてくれる。それから視線を外すため、身体がやっと180°回ってくれた。
駆け出す。駆け出して、今すぐここから逃げ出したかった。
ドン、とナニカにぶつからなかっていなければ……
「あ…………」
ナニカ、とは、人だった。
正面衝突したというのに、相手は蹌踉けもしない。顔を上げる。それでも、……意外なものを見てしまった感じは、もうしない。
「遠野さん。そこにいると危ないよ」
「―――!」
……顔を見上げと、ちゃんと、生きてる人間の顔が見えた。
私は、その人にタックルしてしまったらしい。
後ろに下がる。……だが、下がりすぎると赤い海に足を入れてしまうため、離れる事が出来なかった。
男は、……私がぶつかってしまった所をポンポンと手で払った。
その服は、学生服。見覚えのあるその姿。顔。……に、紅い目。
入ってきた路地裏の裏に、―――弓塚くんが立っていた。
「ゆ、みつ、か……?」
「こんばんは。こんな所で遠野さんに逢えただなんて嬉しいよ」
街で、偶然に出逢ってしまった時のように、軽い口調で弓塚くんは喋っていた。
「弓塚くん……一体、ここで、何をしてたの……?」
「俺? 俺はただの散歩だけど、遠野さんこそこんな夜中に何をやっているの? もしかしてそんなに沢山ヒトゴロシしてたとか?」
淡い笑顔を向けられて―――私は周囲を改めて見渡した。……一面の血の海の真ん中で呆然と立ちつくしている私。
「ち、違う! 私がやったんじゃ……!」
「嘘つくことないだろ? 遠野さんだけ生き残ってるなんて、俺以外が見たって遠野さんがヤったんだって思うよ? 可笑しい事を言うよな」
息をのむ。
弓塚くんは、笑っている。
…………可笑しいのはわかっていた。
何でこんな死体が散らばっているのか、とか。
ずっと見ていない弓塚くんに何で逢えたのだろう、とか。
どうして血の海を見て弓塚くんは笑っていられるのだろう、……とか。
「ゆみ、つかくん……?」
全て、信じられない出来事で、顔を覆いたくなる事ばかりだった。
もう、前が向いていられないぐらい、……視界が歪んでいる。
「ごめん。泣かないで……そんな顔しないでくれよ。俺がちょっと言い過ぎた……。そうだよな、遠野さんがこんなヒドイ事するわけないもんな」
弓塚くんは、路地裏の入り口から一歩も動かない。
だから、赤い海の外へ出る事が出来ないのだ。
弓塚くんは両腕を、背中の方で後ろに組んでいる。不自然な格好だ。まるで何かを隠しているようにも見える。
そして、見えるのは
足下の、血の斑模様―――。
「弓塚くん―――」
「なに、遠野さん?」
ずっと彼は笑っている。全然面白くないのに……。
「違う……」
『コレ』は、弓塚くんじゃない―――。
「…………弓塚くん。どうして手を隠してるの……?」
「あ、バレちゃった? 流石は志貴ちゃん、だよな」
志貴ちゃん、と強く発音して、……弓塚くんは手を出した。
―――真っ赤に染まった手。
その手から血が滴り落ちている。
そして、口元に笑み。
「弓塚くん、その手―――」
「ああ。俺が殺したんだ」
「な―――」
「あ、でも仕方ないんだよ。殺さなきゃ俺が死んでたんだから。生きるためには血が必要だから、仕方なく殺したんだから」
―――ワカラナイ。
何を、言っているのか。
それじゃ、まるで、―――吸血鬼みたいだ。
「殺したって―――、本当なの? 弓塚くん……」
「嘘だって言ったってもう信じてもらえないんじゃないか?」
弓塚くんの笑みは崩れない。
誇らしげに真っ赤な手を前に出している。
『凄いだろ』いや、『羨ましいだろ』?
新しい玩具を買って貰った子供のような、そんな自慢の目。
…………信じたくはないけど、この惨劇は
「本当に、弓塚くんが―――」
起こしたもの……。
「どうして……? どうして、こんな事を、弓塚くんが……?」
「だから、生きるために殺したんだってば」
「そんな……! どんな事だって、どんな理由だって人殺しは悪いことでしょ―――!?」
「そんなことはないさ。最初のうちはわからなくても、落ち着けばわかるコ……」
ト、と言いかけて。
弓塚くんの笑った表情が崩れた。
「!?」
「がはぁっっ……!」
表情を歪ませ、苦しみだす。
尋常ではない、こんな苦しみ方―――見たことがない。
「が、……あ!」
最初は首を、次は胸をおさえて、膝を地面につける。
「弓塚くん―――!?」
いきなりのことだった。いきなり現れて、ずっと笑っていたのに、いきなり苦しんでいる。
口から、血を吐いた。吐いた血は綺麗に路地裏に撒かれる。口元が真っ赤に染まっている。
「いてぇ……やっぱりキレイな血じゃないと駄目なのかよ……」
咳き込む。そのセキは、朱い息だった。
弓塚くんの身体はガクガク震えている。何が起きたかはよくわからないけど、……とにかく、弓塚くんが苦しんでいることだけはわかった。
「苦しいの、弓塚くん!?」
弓塚くんに駆け寄って手を取ろうとする。
「来るな!」
大声で止められ、身体がビクっと跳ね上がってしまう。
それでも、弓塚くんは肩で呼吸をしていた。
「どうしたの……苦しいなら、病院行かなきゃ…………」
思い付いた台詞が、そんな言い方だなんて。
表情を歪ませていた弓塚くんは、……ほんの少しだが、落ち着いた……苦笑いをしたような気がする。背中をさする事も出来ないなら、声をかけて落ち着かせてあげたい。
……でも、思い付くのは、どうでもいいような事ばっかだった。
「…………人を殺したって、そんなの嘘でしょ、弓塚くん……? 人が、こんな酷い殺し、できるわけないでしょ……?」
嘘を言っている。
私は以前、これと同じ光景を見たことがある。
自分で捌いた人間。
「弓塚……くん」
優しく声をかけて、近寄る。
だが、弓塚くんはよろりと後ろに逃げた。
「―――痛ぇ」
そう、呟く。
「痛いのなら本当に看てもらわなきゃ! そんな身体のままじゃ治らなくなっちゃうよ……!?」
呼吸を乱して、朱い息を吐く。
顎はもう真っ赤で、学ランも不気味な色に染まっている。
それを、医者に診てもらって何て言われるだろう?
―――もうとっくに、彼が普通じゃないことなんて分かっていた。
「……本当は、今にでも、志貴ちゃん……に助けてほしい」
―――でもまだいけない。
そう言って、弓塚くんは突然身体を持ち直した。
そして、笑う。もう苦しくなさそうな笑み。
だが、服や手に付いた血で、恐ろしい光景になっていた。身体が、恐怖で後ろへ勝手に動いている―――。
ぴちゃ、と足が赤い海に入っても、…………何か嫌な足ごたえがあっても、近寄ることが出来なかった。
そんな姿を見たからだろうか、……悲しそうな顔をする。
「…………ごめん。驚かせて」
「いつか、一人前の吸血鬼になって君を迎いに来るから」
駆け出す。
「弓塚くん―――!?」
一瞬にして彼はいなくなった。
「待っ…………」
路地裏の入り口からいなくなり、出口を解放される。急いで彼の背中を追った。
……だが、弓塚くんの姿はない。
………………光のように消えていった。
いくら弓塚くんの走りに自信があっても、音もなくいなくなるなんてことはできない。
まるで、―――獣のようだった。
―――どくん
「は、あ―――!」
胸が痛む。
酷い痛みだった。
「な、……さっきとは違ッ……!」
走ったからイタイとか、嫌な予感がするから胸が押しつぶされそうだとか、そういう痛みとは違う。
ガクン、と膝の力が抜けた。狭い、街と建物の裏を結ぶその通路で独り倒れる。
今更、……今更、あの惨劇を想い出したというのか。頭を抱えて、路地裏を見た。
「え…………?」
残っているのは、赤い血のみ。
足も手も臓器も……全てなくなっていた。
全てではない。……赤い海だけが、路地裏を満たしている。
よくわからない。
一体どうなってるのかよくわからない……!
でも、その赤い海も。
降り出した雨に、すぐ流れ消えていってしまった。
/3
ザア―――
雨の音がする。
するだけで、他には何も感じない。
公園にいた。
特に理由はない。公園のベンチで、座っていた。ココロを落ち着けていた。
あれから考えて、他にすることが思い付かなかった、だけ。
ザア―――
少し経ってから、寒い……そう感じるようになった。
でも、冷たい……とは感じない。感覚が怒れてしまっているのだろうか。
―――ずっとベンチに座っている。
手元にはナイフ。握りしめ、身体はずっとずっと震えてたままだった。
「弓塚くん……」
今更帰ったって、また秋葉に迷惑を掛けるだけ……
また有彦の家に向かったら……なんて怒るだろうか。怒るどころか呆れて相手にされないだろうな……。
……ベンチに横に倒れる。
「―――」
何だか、最近―――色々な事がありすぎて、疲れている。
触覚だけでなく、神経さえもイカれてしまったから。
……それはそれでいいかもしれない。
「―――」
目を、閉じた。
何だか楽になれそうな気がしたから。
…………………………志貴ちゃん?
不意に、名前を呼ばれた。
「―――」
目を開け、顔をあげる。雨の中、視界が歪んでいてよくわからない。
目を凝らして見ると、……シエル先輩がいた。
シエル先輩はまだ学ランのまま、赤い傘をさして立っていた。寒いからだろう、ボタンは上まできちんと留められている。傘をちゃんと持っていても、……藍色の学ランに水滴がいくつもこぼれ落ちていた。それだけ、この雨の激しさがわかる。雨でよく見えないシエル先輩の 表情は……心配そうに私を見ていた。眼鏡の奥の細い目が、不安げにこちらを覗かせている。
……そりゃそうだろう。雨の中、傘もささず、公園のベンチで、夜……電灯もあまりついてない所にいれば。
「一体……どうしたんだい? こんな雨の中……もう夜の10時だよ?」
「え―――」
まだ、それしか、経ってなかったのか……。
もう何十年も経ってしまった気がする。
「このままじゃ風邪…………引いちゃうよ。早く家に帰って着替えた方が―――」
……優しい、声。雨の寒い音と一緒に、暖かい声が耳に入ってくる。
……何て心地よいんだろう、と思った……。
「志貴ちゃん……? 僕の声、聞こえてる?」
「ん―――うん。聞こえて……ます」
「聞こえてるだけじゃダメだろ。本当に風邪引いたら―――」
シエル先輩の手が、何気なく私の肩に触れた。
……そして、言葉が途切れる。目を見開いて、傘を投げ捨てて私の両腕を掴んだ。
「志貴ちゃん……! こんなに冷たくなってるじゃないか……!!」
まるで、怒っているように……シエル先輩は叫んだ。両肩を揺さぶられ、首が力無くガクガクと揺れる。
そういえば、寒い……。サムイサムイと思っていたけど、……声をかけられるまで寒いは本当か嘘か実感できなかった。
そして、先輩は私の腕を掴んで、強引に立たせる。流石に、痛かった―――。
「僕の傘を貸してあげるから、早く家に帰って温まった方がいい……じゃないと、本当に身体を壊してしまうよ……!」
シエル先輩は傘を無理矢理持たせた。
雨に濡れる青い髪。また、学ランに水の玉が流れた。
「―――こ、わ?」
弓塚くんは、何が壊れて『しまった』んだろうか……。
数日前の私のように。
「今、帰っても……迷惑かけるだけだから、帰れな……………」
「……」
シエル先輩は黙って私を見た。
「…………うん。じゃあ僕の家に来て。志貴ちゃんのお屋敷よりは近いから」
傘を持って、私の肩を引っ張る。
「相合い傘だけど……許してね」
微かに笑った。おそらく、……ヒトを落ち着かせるための笑み。
「―――」
そんな人工的なモノでも、……アッタカイ……、と思えるほど、身体は冷えていた。
/4
―――先輩の住んでいるアパートは、よくある二階建ての部屋の一つだった。学生一人が暮らせる程度で、あまり広くない。それでも寝るところと台所、洗面所はある。結構片づいた住まいだった。
「……じゃあ、これで身体を拭いてね」
バスタオルを手渡される。
「ちょっと大きすぎるかもしれないけど、僕の服を着ていてくれるかい? ……流石に女の子にぴったりの服は無くってね。今すぐ、あったかい飲物用意するから」
先輩は台所に消えていった。綺麗な部屋に一人にされる。
……まさか、こんなカタチで先輩の部屋に入るとは思わなかった。先輩はちゃんと掃除がしてあって、……綺麗だ……。
「………………嘘言っちゃったな。有彦……」
ちゃんと帰れると約束したのに。
……。
「………………志貴ちゃん!? ちゃんと拭かないと肺炎になっちゃうかもしれないよ……!」
何もしなかった私を見て、急いでシエル先輩は駆け寄った。
タオルを私から奪うように(といってもただ持っていただけなので抵抗はしなかったが)掴むと、頭から少し乱暴に拭き出す。だが、ある一定と所までいくとピタリ、……とシエル先輩の動きが止まった。
「あー、……下着……どうしようかな?」
着替えろ、と言っておきながら、シエル先輩はどうやって着替えさせるか考えていなかったらしい。頬が赤く染まっていた。
「あ……お風呂、狭いけどあるから先に入ってきてね。下着は……」
雨の下に長時間いたせいか、ブラウスはずぶ濡れで、下着も完全に濡れていた。
「大丈夫です。これくらい―――」
「大丈夫……ってせめて上だけでも暖めないと危ないよ。…………そうだ、志貴ちゃん」
素早くシエル先輩は上着を着て、出かける準備をする。
「僕、ちょっと出るから、お留守番、頼めるかな?」
「あ、はい、……大丈夫ですから」
「直ぐ戻ってくるから。……その間、お風呂入っていて。ゆっくり浸かって身体をちゃんと暖めなきゃ駄目だよ」
……半ば、勝手に話を進められたように、シエル先輩はアパートから出ていった。
―――また、独りになる。
「…………ありがとうございます」
何でもしてもらっている、テキパキと動く先輩に、……聞こえないだろうけどお礼を言った。
―――お風呂から出て、バスタオルでスカートを拭く。それでも濡れているので、このまま掃いていると毛布まで濡らしてしまいそうだ。ブラウスを着ずそのまま乾かしておき、……ブラジャーも外したままでタオルで水気を拭き取る。水気を取れるだけ取って、また身に付けた。
……そしてシエル先輩に貸して貰ったシャツに着替える。そんな事をしていると、
「ただいま、志貴ちゃん」
そう、玄関の方で声が聞こえた。
先輩の大きめのシャツに急いで着替えて、先輩を迎えた。
「あ、もう出てたんだ……もっとゆっくりしていてもいいんだよ」
「いえ―――迷惑ですから」
遠慮がちに言うと、そうか、とあっさり言う。先輩は何やら色々買い込んできただけみたいだった。手にはビニール袋をぶら下げていた。……コンビニの袋である。
「…………先輩、私、もう帰ります。お風呂貸して貰って嬉しかったです。けど……このままいたら迷惑ですから……」
「迷惑だなんて。こんな夜中、例の殺人事件が騒いでいるんだから、一人で帰らせるわけにはいかないだろう?」
……。
それが一般的な考えというものだ。そう優しくしてくれるのはとっても嬉しい。
でも……。
「直ぐにお茶入れるから、……座っててね」
上着を脱ぐと、すぐにヤカンに火をかけ……買ってきた食べ物を二人分、用意し出す。
「志貴ちゃんは座ってていいから。ほら、休んでなよ」
……先輩のすることは、……親切すぎる。少し気が病んでしまうほど、丁寧すぎて、……嬉しい。
「…………ごめんなさい」
謝っても先輩は、笑って何も責めてくれはしなかった。
ザアー、という雨だれの音。
夕食をごちそうになって、ベットまで借りて眠りにつこうとしている。
「…………志貴ちゃん。早く寝ないと遅刻しちゃうよ」
暗くしてもらった部屋。今、……本当に迷惑ながら、私はシエル先輩のベットの中にいる。
「先輩…………起きてるんですか?」
「ああ。……志貴ちゃんが寝たら僕も寝るから」
何もしないよ〜、と冗談入りの先輩の声が聞こえる。先輩は台所で寝ている。一人暮らしなのに私にベットを譲ったから。
『これで女の子にベットを譲らなかったら最低だよ』という先輩の意見。……一般的にそうなのかもしれないが。
……。
「どうして寝ないの?」
私を気遣ってか、シエル先輩が話しかけてくれてきた。
「何だか……何でしょう?」
「雨の下じゃないと寝られないとか?」
「そんなことないです……」
先輩は眼鏡を外していた。視力はそんなに悪いというわけではないらしい。眼鏡を外していてもちゃんと物を取ったり、いつものテキパキとした気の利く行動は劣らない。
先輩は、まだ学校のYシャツの姿だった。
「……先輩は、部屋でも着替えないんですか?」
「あー……着替えるは着替えるんだけど……。男の着替えなんて見たくないんじゃないかな、と思ったんだけど」
「大丈夫ですよ、もう寝ますから」
そう言って、……私も眼鏡を外した。
キン、という一瞬の頭痛と一緒に目を閉じた。目を閉じてしまえば線は勿論見えないし、頭痛もない。
―――本当にごめんなさい。
秋葉や翡翠、琥珀さん、有彦、弓塚くん、……先輩。
迷惑かけっぱなしで謝っても謝りきれないくらい、バカな自分が腹立たしく思った。
それから逃げるように……。
現実から逃げ出すように、眠りに落ちていく………………。
―――突然フッと目を開けた。
シエル先輩が、……私服に着替えている。Yシャツを脱ぎ、もっと楽な格好に……。
「……」
見ちゃいけないものだとわかっていながら、見てしまった。でも夏では授業で上半身だけなら出してるのだろう? なら別に恥ずかしい事も無いだろうに…………。
「先輩って―――痣があるんですね」
「あ、志貴ちゃん!? 寝てるんじゃなかったの……?」
「寝てます」
驚いているシエル先輩の声を聞いて、―――安心した。目を閉じる。先輩のあまりの驚きように口元がつい笑ってしまう。
「ごめんなさい。もう寝ますから」
「はは……おやすみ。志貴ちゃん…………」
疲れたようなシエル先輩の声を聞いて、………………その日は眠りに落ちた。
……シエル先輩の身体中に、青い何かが輝いていた。
一瞬頭に浮かんだのは『痣』という言葉だが
―――まるで、入れ墨のようだった。
if プラネタリウム/2に続く