■ Sweet



 いいにおいが家中を満たしているようだった。
 
 甘い香りが鼻につく。重くて喉が壊れそうだ。
 嫌な感じはしないけど、ちょっと辛い。甘いものは好きだからよく買ってくるし、同居人達も好んでいるから比較的よく食べる。けどキッチン中を満たすほどの甘い香りに頭がおかしくなりそうだ。狂いそうになる頭を震い、冷静を装う。

 折角滅多に作らないものを作っているのだ。ここで意識を手放すなんてしちゃいけない。
 隣では楽しげに生クリームで遊んでいるのがいるじゃないか。彼女を見守るのも今の醍醐味だろう。
 焼菓子の作り方もある程度はマスターしている。火加減も大丈夫、準備も万端。

 だから大丈夫、少しぐらい余所見をしても平気だ――。



 ……自分がしていることに気付き、頭を抱えた。



 何で今更『見取れて』いるんだろう。
 何度も会わせた顔だ、見慣れた表情だ。なのに必死になって泡立てている姿は新鮮で、つい惚けてしまう。
 そんなに楽しいこともないだろうに口元は歪んでいる。…………お互いが。


 キッチンという所に立つこと自体が彼女の楽しみだという。
 今まであまり体験したことの無い事だから楽しんでいる……ということらしいが、自分にとって料理とは生活の一部だった。
 勿論つまらないなんてことは言わないし楽しいことは認めるが、毎日やる作業のひとつでそんなわくわくして笑顔でするようなことではないと思ってしまう。お菓子作りの手伝いにこんなに楽しんでいるだなんて。彼女は子供のようだ。

 ……子供の頃にできなかったのだから本当に彼女は「こども」なんだろう。
 未開拓のものに目を輝かせるのはおかしい事じゃない。
 段々とふっくら泡立っていくすがたを見て感激しているところも、腕が疲れたと言っても自分の役目をやめないところも、周りを散らかしながら楽しんでいるところも、全てが子供らしく見える。

 否、子供らしいという言葉は相応しくない。
 愛らしい、と言うべきか。

 思ってまた頭を抱えた。今度は掌で顔を覆う。
 …………顔が真っ赤になっていることに気付かれたら、ややこしくなるに違いない。



 甘ったるいクリームの香り、苺の甘酸っぱい香り、スポンジの香ばしさ、全てが幻惑へと誘う要素になっている。
 夢のようだと思った。
 あまりの甘さに、在り来たりな材料の渦に苦笑してしまう。
 彼女は無邪気に今を楽しんでいた。

 元々彼女がやりたいと言ったことだ、他意は無い。少しでも彼女の楽しめる場所と時間を提供してあげられればいいと思っている。
 しかし、彼女は特別甘い物が好きだったということか? 聞いたことがなかった。自分はよく食べる方だし、彼女に分けてやったこともあるがどういう風の吹き回しだろう。
 いつもあげようとするとダイエット中だからいりませんと言っていたのに。その後切なそうな目で見てくるのは辛かったのに。
 ……まぁ、女の子というのは糖分に目がないというのが一般論らしいし、どういう気の変わりになっても可愛いからいいとしよう。



 ふと考えていると、唇に熱いものが触れた。
 それが生きた指のあたたかさだと気付くのに数秒かかった。
 突然の行為に思考の転換が鈍い。甘ったるい香りのせいで脳の回転が遅くなっているようだ。
 だからこそ夢見のようだと思ったのだが。

 触れた人差し指に甘い香り。生クリームの鼻につく匂い。
 味見してくださいと言うかのように差し出していた。少し戸惑って、舐める。
 彼女の数分の格闘が実になったようだ。巧いと言ってやると顔が綻ぶ。
 そのまま指を押し付けてくるので何度も舌で応えてやった。

 おかしなことを始めたもんだ。取り終わった指にまた付けて、舐めさせる。
 舌の感触が気持ち良いことに気付いたのか、何度も繰り返ししてくる。
 もっと舐めて貰って、良いと感じるところがあるだろう。

 クリームを口に含んで、今度はこちらから彼女の唇を押し当てる。
 只でさえ眩暈のする深い口付けを、甘さで補強した。重度の麻薬に脳が混乱を起こしてしまう。
 壊れるスピードが速まる。気持ちが悪い。頭が、痛くなる…………。

 もう立っていられなかった。今度はべとべとした口元を綺麗にしてやろうと、彼女の舌が伝ってゆく。
 ぴちゃぴちゃと甘い水音を立てて這っていく蛭のような舌。
 こんな甘い夢のような素材で彼女を汚していけと誰かが命令したような気がした。この行為は、綺麗にするんじゃなくて逆に汚してるんじゃないのか……?

 言おうとしたが喉にあたる感触に声が出なかった。彼女の舌が美味しい、そうしあわせに感じることが今の精一杯だった。





 END

 06.2.28