■ 「 心地良い掌 」



 /1

 長く伏せっていた宋江がようやく食べ物らしい食べ物を口にするようになったのは、意識を失って二週間ほど経ってからだった。
 普段通りの彼が戻ってくるのは、まだ遠い。


 十日も意識を失う病があることを、武松は知らなかった。幸い大病にかかっても完治できたし、薬があれば目は覚ますものと考えていた。
 だから、慌てた。大いに取り乱した。
 目覚めた宋江は慌てる武松を覚えていたと話した。
 意識が無いものだと思っていた武松はまさか覚えていた宋江に度肝を抜かれたが、同時に情けない自分を見られていたことを知って、心苦しくて逃げ出したい想いでいっぱいだった。

 義兄に命じられ、宋江の命を守るために護衛を買って出た。
 腕には自信があった。追手を負かす力ならあった。脅威から彼を生かす自信だってあった。
 危機から逃れる手段も思いつけたし、恐ろしい事態にも新たな弟達のおかげで対処できるようになった。『確実に宋江様をお守りする力はある』。自信があった。
 だが病だけは自分の力ではどうにもできなかった。慌てるしかなかった。……怖がるしかなかったのだ。

 悔しいことに、弱い母の看病をしていた李逵は美味い粥を作ることができた。釣りをよくしていたという欧鵬は、獲ってきた魚を軽く捌いて精をつける手助けをした。
 二人は冷静で、驚いて何も出来ないと考えてしまうほどだった。

「そんなことはない、兄貴だっていつもやってるじゃねえか」

 李逵が慰めの言葉を向ける。
 そんなの、宋江様を救えない自分への慰めなのだ……と思ってしまう武松は、それが自分の弱さだと思い知らされた。
 意識が戻った宋江様の口に粥を流し込む、それぐらいしかできないのか。
 何もかもが悔しい。
 普段通りの彼が戻ってきてくれれば、普段通りの自分も戻ってくるかもしれない。
 祈るしかなかった。


 /2

「なんだそれは。自分で粥を食べることもできない私への当てつけか?」

 病人よりも病人らしい顔をしていた武松に、宋江は口を割らせる。
 比較的元気になった主人に、ありのままの想いを語る。もちろん武松は、「そんなつもりは」と弁解をした。
 おかげで、傾けていた匙がさらに傾く。
 宋江の口元を汚してしまう。冷めきった粥で慌てる宋江ではない。なおかつ、自分で拭おうとする宋江でもなかった。

「武松。綺麗にするがいい」

 それは、全身が重くて拭えなかったから、ではない。
 もう既に宋江の体力は回復している。それでも宋江は武松に手間をやらせたのだった。

 すぐさま武松は唇を拭う。清潔に干しておいた布巾で口元を拭い、水を欲しがればすぐに飲ませた。
 その後は、体を拭かせた。数日間寝たきり生活だったが、定期的に全身を拭かせてはいる。
 だから不潔ではない。むしろ普段より綺麗なぐらいで、それでも面倒を看たがる従者に任せる。全部武松を戻すためだと思いながらのことだった。

「私はもうこの通り、普段と変わらん。食欲は無いが、普段の私に戻りつつある」

 大男の武松にしては繊細すぎる動きに、宋江はひとしきり眺めた後……笑う。

「だというのに、武松はまだ戻らないのか」
「……普段の俺は、どんなものだったでしょうか」
「私が口を汚せば唇で拭ってみせた。私の肌を見たら食らいついた。そんな武松はまだ戻らないのだな」
「……そんなこと、したことがないですよ」
「おや、したことがなかったか。そうか。あれは病に伏せている私が見た、夢の武松だったか」

 挑発するように、いや、充分に回復したと見せつけるように、宋江は笑う。
 もう気遣うのはやめた方がいいのだろう、気分だけじゃなく機嫌を悪くしそうだ……そう察した武松も、とりあえずは口元を歪めてみせた。


 /3

 体を動かす気にはなかなかなれない宋江だったが、このままでは身動き一つできなくなると懸念はしている。
 そのやり取りをした三日後には、欧鵬達が勧めてきた魚を獲ろうとしていた。
 食べられなくは、なかった。好んで食べようとは思えなかったが、少しは無理しなければこのまま床から出られない気にもなっていた。
 李逵と欧鵬は、姉妹の老婆が耕す畠を本格的に手伝うようになっていた。宋江が長く伏せっている中の収入源であり、世話になっている老姉妹への恩返しと、二人なりの気遣いの行為を止める者はいない。

 武松も手伝った。だが全員で出ると、宋江が余計に気兼ねした。全員が働いていて、自分だけが何もしないとはと、宋江は焦るのだ。
 焦った拍子で無理に立ち上がり、転んだ。
 幸い全員が居る前であり、どこかをぶつけたという訳でもない。
 ただ、病を伏せる前に宋江は大怪我を負っていた。大怪我の後に大病にかかり、そしてまた怪我をしたら……。

 その日。宋江を含めた全員がそれを考え、武松が宋江を留どめるような形で、寝床に押し込んだ。

「武松。こちらへ」

 看病に関して、李逵が特に口うるさい。
 ただでさえいつも騒々しいのに、兄である武松に対しても「宋江様を看ていてくれよ!」と大声で訴えているほどだ。
 言われた武松は、弟からの忠言を思い出しつつ食事を手伝う。
 さらに体を清め終え、何もしない時間を迎えた。

「枕になれ」

 だから宋江は呼びつける。

「……男の膝枕なんて、するものではない……そう以前、宋江様は言っていませんでしたか」
「そうだったか」

 数ヶ月前。冗談めかした宋江が武松を誘い、寝たはいいものの『数分で飽きた』遊びを思い出す。
 だが宋江は構わないと武松を寝床に招く。……家の者は誰も居ない。全員が全員、外作業へと出て行ってしまった。
 寝床に近づき、添い寝でもするべきなのかと武松は考えた。
 その武松の手を、宋江は掴む。掴んで大きな手の日を開かせ、その上に自分の頬を置いた。
 武松の大きな掌に、すっぽりと宋江の顔が鎮座する。

「宋江様、何を」
「私は枕になれと言ったぞ。……ああ、冷たい。気持ち良い」
「気持ち良いですか」

 先ほど、宋江の体を拭うために手拭いを水で浸していた。当然、手は冷えることになる。

「お前の手は大きい」

 宋江は暫く、冷えた掌を堪能する。
 冗談で膝枕を所望して、数分で飽きたことを覚えている武松は、それならばと掌を預けることにした。

「この大きな手に、守られているのだな。……気持ち良い」

 だがその飽きるまでの数分、宋江は冷えた肌の心地良さだけでなく、武松自身を堪能するようなことを言い出した。
 食事を終え、体を清潔にしてもらった後だ。外の天気は良く、寒すぎることもない。ぼんやりとした声色なのは眠いからで、だからこんな、前後も繋がらぬ不思議なことを言うのだ……そうなのだと、武松は思うことにした。

「心地良い掌だ」
「そんなことはありません。俺の手はゴツゴツとして、不格好で枕には向いてませんよ。本物の枕の方が何倍も良い」
「信用できないのか」
「そんな寝惚けた声ですからね。宋江様、眠いのであれば、もっと心地良い枕を使った方がいい」

 それに、あまりその手を心地良いと何度も言われることに、武松は抵抗があった。
 その手は不満をぶつけてきた負の塊であり、多くを叩き落としてきた凶器なのだ。たとえ主人を握り潰すような馬鹿な真似はなくとも、剥き出しの刃に指を這わせるなんてことはさせたくない。……暖かい陽気の時間だからこそ、武松もそんな浮ついた考えを巡らせてしまった。
 鞘から抜かれた剣と共に寝ようというのだから、危ないと言いたくなったのだ。
 馬鹿げたことを考えながら、武松は手を引こうとする。すると宋江は「近頃、動けてないな」と、武松も承知の事実を呟いた。

「武松の大きな手で撫でられるのも、悪くないと思うのだが」

 掌を枕にしながら、宋江が寝台横に座る武松を見上げる。
 気紛れな目だった。冷えた掌を枕にして、やはり数分で飽きてしまったのだ。それまでは予想していたが、まさか指に唇を寄せてくるとは思わなかった。
 けれど、それもまた数分で飽きるのだろう。
 飽きるまで、付き合うべきなのだろうか。


 /4

 身を隠して布団は、宋江自らが剥いだ。
 一度は着させた着物の上から武松は弱々しい胸に触れる。老姉妹から、古いが清潔な着物を借りていた。
 衣服の大きさは宋江の体にあっていなかったが、少し大きめな女物なら、比較的小柄な宋江の寝間着には使えた。

「お前の掌で、撫でてくれ」

 せっかく借りたものなのだから、乱してはいけない。そう言い出したのは宋江で、着物の上から愛撫しようとした武松を止める。
 武松は言われた通り、自分が着させた衣服をゆっくりと剥いでいく。先ほど体を清めたばかりの彼とするのは、悪くない。いや、病人とするなんてと理性は止めてきたが、これも命じられてのことなら、仕方ない。

「んっ……」

 今、自分ができる彼の為のことといえば、これぐらいしかないのだ。
 そう武松は自分に言い聞かせて、直接、宋江の肌に触れた。
 言い聞かせている時間に、とても充足感を抱いていた。

「冷たい……心地良い……」

 清めた肌を大きな掌で撫でると、宋江はくすぐったさを堪えきれず、くすくすと笑い始める。
 宋江が心地良いと口にしたからだが、武松にとっては口にされたことが余計に心地良くなり、何度も掌を使って胸や脇腹、首筋や腰を撫でた。
 くすくすと笑いながらも、敏感なところを撫でられ、宋江が息を乱し始める。
 くすくすから、くっと、喉を鳴らす声に……さらに心地良さを感じた武松は、我慢できず覆い被さり、口付けた。

「んっ……ぅ、ん……ふっ……」
「ぁ、んっ……。なんだ、武松。暫く相手をしてあげられなかったから、たまっていたのか」

 口付けを繰り返す。
 脇腹や腰を撫で続けていた掌が、少しずつ次へ、太股に固く始めたものを撫でた。
 それもまた優しく広げるように愛撫を始める。指で突くのではなく、広い面で覆い込むように触っていった。

「あっ……。武松、焦らすな……」
「焦らしてはいません。宋江様の言う通り、撫でているだけですから」
「……ふっ、ふふ。そうだったな」

 腹の下を掌で撫で、汗ばむ脚を撫でる。
 宋江は体を捩って、それ以上の行為を求めるような動きをする。だが、あくまで掌が肌に触れ、離れるのみ。熱を与えて、去るだけ。その繰り返しを唸りながら味わう。
 次へ、次へ……どうか次へ、次はもっと激しく……と強請ろう。宋江が腰を浮かせ、口を開こうとする。
 だがその口元に、武松の掌が現れた。

「しません……」
「なに……?」
「宋江様は病人ですから。抱ける訳が無い……」

 意地悪でもなく、本心でそれ以上はするつもりは無かった。
 ただ、それ以上を命じるというのなら、精を放つ手伝いはしよう。何も無ければ手を離し、剥いだ着物を戻そう。主人の言葉を待ってみる。
 すると、思った以上に低い唸り声を宋江は上げた。彼には気に入らないことがあると唇を強く噛む癖がある。そう知ってはいたが、息も届くほどの目の前でそれを見てしまうと、思わず身じろぎしてしまうものだった。
 どんなことを言われるのか、どう激昂されるのか。身構えていると、

「では武松は何もするな。私が、勝手に動く」

 気難しい顔でゆっくりと起き上がり、武松の手を持ち、それを……自分の性器に近づけさせた。
 武松の一部を使って、自慰を行なおうとしているのだ。

「ん……ぅっ……」
「宋江様……」

 武松は手を、指を、何一つ動かさない。
 掴まれた腕は力なく奪われ、無理矢理それに触れさせられる。

「んっ……んっ……ぁ」

 動かない手に無理矢理ぶつけて、性感を昂らせようとしている。
 そこに接触している指は、動かない。ただ触れているだけだ。その程度なら自分で自分を慰めた方が意義がある。
 だというのに、敢えて武松の掌で、心地良くなろうとしている宋江は……本当に、優しい気温の中で寝惚けているのかもしれなかった。

「ふっ……ん……ん……」

 しっとりと汗ばんではいるが、まだ快楽を得られるには程遠い。
 熱く火照ってはいるが、ただただぶつけているだけでは、何の悦も生まれないだろう。……そこまで必死になっている姿を眺める。
 ……何か自分に出来ることがあるのか。ああ、自分が求められている瞬間なのだ……。
 先に悦になったのは、武松の方だった。ぶつけられたものに、ゆっくりと指を這わせていく。

「ぁぐっ……!」
「寝たきりだというのに、貴方はどこまでも……淫乱なお方だ……!」

 身を寄せ、優しく囁き、指を絡ませる。
 片手を掴まれて急所に引き寄せられていたが、もう一つの手も追加する。ゆっくりと熱を持って、丁寧に性器を蹂躙し始める。

「ぁっ……ぁ……ん、ぐ……!」

 ただでさえ一人でしていて固くなっていた性器が、目に見えて勃ち上がる。
 敏感で欲しがる箇所に指の先端を宛てがい、しゅっしゅっと擦った。びくんと体が震えていく。そのまま、射精を促していく。
 腰を引かれたが、今度は武松の方から身を寄せる。

「んんっ! ん、んぅ……!」
「逃げないでください。そのまま……精を放って……」
「ぁ……ぁあっ……ぶしょ、武松……!」

 激しく律動し、数日溜っていたそれが跳ね上がった。


 ――時刻は夕刻に差し掛かる。
 今日は天気が良かった。そして明日からは崩れそうな空模様だった。だから李逵達は、今日のうちに畠仕事に励もうとする。
 そのおかげで帰りが遅かった。とはいえ、年老いた姉妹はそう長く力仕事などできない。実際体力勝負をしているのは李逵や欧鵬だが、彼女らの体が冷えるより先に帰ってくるだろう。
 そして、それよりも先にぐったりとした宋江を浄める仕事が、武松にはあった。
 精を放った宋江は、それ以上のことをしなかった。放った精を拭うことも、痴態を見たことで性感が昂り勃起している武松を気遣うことも、しなかった。

「武松。綺麗にするがいい」

 宋江という人間がそういう人だということは知っていた。だけど、あんまりじゃないか……武松は悪態をつきそうになりながら、宋江の体を再び拭う。
 今は文句を言うよりも、彼女達が家に戻ってくる前に片付けなければならなかった。
 勘の鋭い李逵にも気付かれないように事を終えた武松は、溜息を吐きながら、椅子に座っていた宋江を呼ぶ。手を掛け、寝床へ横たわらせようとした。

「まだ、武松は昂っている」

 のんびりとした声で、宋江は武松の下を眺めた。そうさせたのは宋江なのだが、武松は頷くだけで、反論はしなかった。

「彼らは、あとどれくらいで帰ってくると思う?」
「もう陽がだいぶ落ちています。暫くすれば帰ってくるでしょう」
「そうは思わない。まだ彼らは帰ってこない。だから……私が、口で、してやってもいいと思ったのだが?」

 それは、嬉しい提案だ。
 しかしどうせこの人は、提案したとしても、きっと数分で飽きるのだ。

 武松は力を込めて宋江の体を転がした。大きな掌で肩を制された宋江は、あっという間に布団の上に転がる。
 少しだけ不満そうな表情だった。だが、やはりちょっとした『運動』をして疲れているのか、わざわざ起き上がってまでの抵抗は無い。
 今は……体を動かす気になってくれた、普段通りの彼が戻ってきてくれたのだと、喜べばいいのだ。

 読みは正しかった。彼らは、それから数分もしないで帰宅した。
 言った通りでしょうと武松が宋江を小突く。宋江は、その通りだったな、と笑った。
 その様子を見て、帰宅した李逵達は元通りの二人が戻ってきたことを喜び、夕食に支度を始めた。
 旅の再開は、近い。




 END

2018年11月1日