■ 「 堕落の声と唾液の雨 」



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 頭上から降り注ぐ堕落の声と唾液の雨。
 熱情に犯されて見失った理性は取り戻した筈。万を期して宋江のもとへ従者としてやって来たつもりだった。なのに早くも吹き荒ぶ感情の嵐に身を滅ぼしてしまいそうだった。


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 夜々中というのに妾の元から帰ってきた宋江を、あやふやな表情で見つめてしまったかもしれない。武松はそう思いながらも、声を掛けられなかった。
 女を囲っていると表明しているのだから構いにいく、それについて何の問題も無い。誠実で清楚すぎる男よりもふしだらな生活をしていた方が怪しむ外の目を欺く効果がある。元より彼の行ないにとやかく言うつもりは無い。
 しかし半端な夜中に一人で戻ってきたのは不用心ではないか。魯智深の提案で宋江の従者として付けられた以上、何よりも先に考えてしまうものは身の安全だった。遣いと言っても護衛というほど仰々しいものではないが、兄の話から宋江の周囲に緊張感が増していると判っている。
 心配は過ぎる方が丁度良い。無用な心配はされる方は堪ったものではない。それも判っているからこそ、従者として来たばかりの武松には声を掛けられなかった。一言二言掛けて自室に去って行く宋江を、いつもの顔で見送ることしかできなかった。

 苛立ちを含んだ声だ。そう思いながら、武松は床に就く。
 無駄に警戒する必要は無いのだ、まだ気を張らなくてもいいと言い聞かせ、身を横たわる。
 今夜は蒸し暑くもなく、寒くもない。おそらく宋江は、妾の女性と少し面白くない会話をしたのだ。そして何か気が立って、妾の家を出た。こんな良い夜なら夜風でも浴びればささくれた心も癒えるから……なるほど、そうに違いない……。そうふつふつと内心考えながら横になる。
 すると暫くして、渦中の人物が現れた。
 武松は宋江様と呼びかけすかさず飛び起きる。足音を隠すこともなく、堂々と入ってくるのでもない。そんな宋江が静かに、武松の居る小屋へと訪れている。
 一体どうなされましたかと声を掛けるが、何かがいつもと違う。
 暗闇の中でも主人だということは判った。何か言い足りないことがあったのか。すぐに体を起こすが宋江は何も口にしない。
 ただ呼吸がいつも以上に乱れている。武松はそれが、嫌な予感に思えた。

「嫌なら断れ、武松。従者だからと言ってもお前には断る権利がある」

 言いながら宋江は、身を起こした武松の肩に触れてきた。
 武松には一瞬何を言っているのか判らなかった。だが肩に触れた左手の指が、やけに優しく蠢く。ただ撫でるのではなく、歯で緩く噛まれたように掴まれた。
 まるでその指は、捕らえようとする口のよう。
 そう考えると穏やかな口調だと思っていた声も、強張っているように聞こえてきた。苛立っている、と言った方が正しいかもしれない。拒絶すれば引くが強い声色に、物恐ろしさを感じる。
 武松は当惑の眉を顰めた。そんな表情の変化などお構いなしに、宋江は肩を撫でる。夜の中では伝わらないものだ、断らなければ彼は続ける、判っているのに、武松は何故かそのとき気迫に圧倒され、何も言葉が思いつかなかった。

「無言は肯定だぞ」

 囁く声と共に、宋江が寝台に寄りかかる。
 ぎしりと軋む木の音が武松の心を、途端に慌ただしく困惑した気持ちで満たしていった。弱り果てる前にと、口を開く。

 ――もう一人の従者、唐牛児とも、このようなことを?
 
 思い煩ずった結果、あまり聞きたくもないようなことを言い放ったなと、後で武松は後悔した。
 すると強張っていた宋江の気迫が、少しだけ和らいだ。何故そんなことを訊く、と前置きして、笑い出すほどだった。

「いいや。あいつは女の体ばかり追いかけている。私になど興味は無いだろう。誘っても応じようもない奴には声を掛けない」

 肩に置いていた指が、ゆるりと胸元へと降りた。今にも寝衣の中へと侵入してくる。

「だが武松はどうだ、お前であれば求めたいと私は思ってしまったのだが」

 突然主人がやって来た後も、実を言うと武松はまだ寝惚けていた。あれこれ考えながらも眠りに落ちる寸前だったから、一連の会話も呆けた頭が勝手に始めたものだった。
 けれど最後の一言を聞いたとき、目が冴えた。後頭部に貼りついていた眠気が消えていき、全身に血が巡る。
 宋江にとっては何気ない言葉だったに違いない。武松にとっても、何がそこまで自分に突き刺さったのか、自分のことなのに困惑するほどだ。
 けれど、全身を覚醒させるには充分な言葉だった。


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 逸る言葉を抑え込むことすらできずに、宋江様、俺は何をすればいいでしょうかと、興奮して早口になる。
 主人はその声に吹き出しながら、身を起こした武松を再び横たわらせる。頭上から囁きが降りそそぐ。まるで薬を飲んだかのような胸が波打つばかりだった。

「夜の中でも判るぞ。そう目を輝かせるな、武松。笑ってしまうではないか」

 見上げた影が楽しそうに上下していた。そのとき漸く、宋江が帰宅したときから纏っていた苛立ちが拭えたと思えた。
 どんな会話から苛立っていたのか武松には判らない。男女のいざこざなのか、それとも同志間者との討論からなのかも、尋ねていないのだから判る筈が無い。むしゃくしゃした苛立ちが解消されたなら、このやり取りにも意味があると安心しながら、宋江の仕打ちを待つ。

「おや、武松……」

 下衣に手を出される。宋江の掌がゆるゆると腰を掴み、中央を撫でた。
 ゆるゆる、するするとあまり大きくない掌が中心を押し込んでいく。何をしようというのかが一発で判る動きに、武松は素直に声を漏らしていった。

「早いな、もう勃起するのか」

 宋江に言われるまでもなく、武松自身もそうだと頷く。些細な言葉で既に興奮していたぐらいだ、直接的な刺激はあっという間に全身を躍らせた。

「長くしていなかったのか? 武松のように端正な顔立ちなら相手には困らんだろうに。私と違って」

 妾の元から帰ってきたばかりの口が、平然と動く。仰向けに倒れている武松の横に座り、上から掌が満遍なく刺激を繰り返している。降り注ぐ声の位置からして、宋江の顔はおそらく……武松の真上にあった。少し顔を上げれば接触するかもしれない、その考えが余計に熱を高まらせる。

「もちろん初めてではないな? だがしかし、ああ、その反応は……良い。初々しいぐらいの反応が、丁度良い」

 丁度良い、というのは、どういう意味だろう。
 声が遠くなる。下衣を剥がれ、直接指が触れる。

「私を興奮させるには丁度良い、ということだ」

 きゅっと強く指で挟まれて、情けない吐息がより形になっていった。

「何故私が武松を誘ったか。武松を使ってでも、私は私の熱を抑えたい。でなければ今日は眠れん、そう思ったからだ」

 熱を抑えるために武松を使わせてもらう、そう付け足して離れた口は遠くへ向かう。
 何をするつもりだと問うよりも先に、武松は自身の下半身に、奇妙な水気を感じた。唾を吐きつけられたのだと判るまでには時間を要した。
 べっとりとした生暖かさなら性器をしゃぶられたとすぐ判っただろう。そのような従順な奉仕ではない。ぬるっとした水気を纏ったモノを、親指が広げていく。先端を軽くぐりっと湿った指を押し込んだ。暗闇の中でも、自身が跳ねたと、武松は思った。

「ふ。お前のここは今、私の唾を飲んで、喜んだぞ」

 体内に押し込まれたのは唾液だけではない、その笑い声もだ。恥ずかしくて全身が紅潮していくのを感じたが、構わず宋江は続けていく。

「もっと飲みたいと言うかのようにビクビクと踊っているな。武松のここは、武松自身より素直と見える」

 とろっとした液体の感覚がまた下半身を襲った。指先が敏感なところを撫で回し、唾液をまぶしたくちゅくちゅという音を纏って襲っていく。

「ここに灯りがあれば、武松の情けない姿が丸見えだ。お前はどうだ、見てみたいか? まあ、後悔するかな」

 いえ、と声を上げる。上ずった声だった。
 その水音以上に、高鳴る心臓の音も隠すことなどできなかった。思わず息切れの声も高くなる。情けない音達が主人の機嫌を良くし、次々と激しい動きを繰り出していく。次第に腰回りはベトベトになっていった。

「強がるのだな。留守の間、少しは大人しくなったと思ったが……まだお前は、可愛い奴だ。もっと求めてやりたくなった」

 甘い一言にぐっと胸が熱る。
 思わず両手で支配者の頭を押し退けようと伸ばした。……届かない。本気を出せば彼の躰など跳ねのけることは容易い。だが、熱された頭がそれを良しとしない。
 頭上から降り注ぐ堕落の声に、唾液の雨。
 熱情に犯されて見失った理性は取り戻した筈だった。万を期して宋江のもとへ従者としてやって来たつもりだった。なのに早くも吹き荒ぶ感情の嵐に身を滅ぼしてしまいそうだった。
 はあ、はあと息が荒くなる。手を伸ばしたことも、声に全身がやられていることも、今すぐ爆発しそうなぐらい誘惑されかかっていることも、きっと全部伝わっている。それでも起爆となる一言を出さずにいると、宋江は再び「強情な奴」と笑った。

「さて、強がってみせた訳だが。お前はどうしてほしい?」

 ……言い訳だ。限界が近づいているのが武松にもあった。そしてもっとしてもらいたいという心が、強がりよりも大いに勝っていた。
 何より、宋江の声が唾液と共に体内へと反響していく。それがとても心地良い。
 いくらでも力づくで反抗することはできる。反論する口だって塞がれている訳ではない。でも、出来ない。あの……人を惹き寄せるために生まれてきたような澄んだ目で、全て見透かされているようなあの目で、捕らわれているかのようだ。暗闇の中だというのに、ほんの数分で魅了され侵食されていく。
 自分が食われていくという現実を、自覚するしかなかった。

「言わないのか。『私が欲しい』と、言わないのか?」

 繰り返し発せられる堕落の声が、全身を駆け巡る。
 もう限界だ。
 起き上がり、蹂躙していた手を引く。
 唾液に塗れた腕を引き、弄ぶ唇を奪う。
 下半身に纏わされた唾液を今度は口から摂取する。初めて味わう体液の味は、予想以上に濃厚で全身を震わすほろ苦さを感じた。
 今すぐ押し倒し、腰を掴んで叩きつけてやりたい。それぐらい興奮しきっていたが、寸前のところで堪える。
 縦横無尽に犯してはならないと全身が警告を発する。宋江は黙々と自分を声と指で犯した。それだけだ。準備など何一つできていない。そんな状態で犯せば負担は尋常でない。
 今すぐ押さえつけて我が物に欲求を堪えながら唇を放す。息も絶え絶えになりながらも、

「俺は……宋江様を、抱きたい……です……」

 と、理性的な台詞を吐き出すことで、精一杯だった。


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 ――しかし何故そこで、素っ頓狂な声を出されるのだろう――。

 変なことを言ってしまったのか、熱に侵された武松には、絞り出した一言がおかしなものだったのかすぐに判らなかった。
 だが、正直な想いだった。求められたのが嬉しかった。触れられて体は我慢ができなくなった。恥じらいを捨ててでも、主人を求めたいと思ってしまった。本心を口にした、つもりだった。だというのに全ての動きが止まる。

「ん。ああ。……そうだな、確かに、そうなる」

 降り注ぐ声に、覇気が無い。
 締まりの悪そうな、居心地の悪くて逃げ出してしまいそうな弱さを感じた。
 思わず目を開けるが、暗闇に動く影は無い。楽しそうに肩を震わせる姿も見えず、硬直して……どうしたものかと頭を傾げている。

「武松は男だ。私よりも逞しい、男らしい男だ。……私を抱きたい、そう思うのが当然か。そうだな、うん……」

 優越感に浸った支配者の男だった声が、昼間の……ぼんやりしているときの主人と同じものになっている。
 まるで、自分が抱きたいと言われることを想定していないような声だった。

 ……いや、ような声ではなく、その通りらしい。
 この人は、他人を抱くことしか、考えていなかったらしい。

 言われてようやく自分が抱かれる可能性に着いたらしく、様々な複雑な感情が縺れ合った呻き声を上げていた。

「ううん……焚きつけておきながらここで逃げるというのは、難しいだろうな。……仕方ない。武松」

 放した頭を、胸元へと押し込まれた。

「仕方ない、武松に抱かれよう。……真似事で良いならな」

 体を押し込められ、より近くに体温を感じ、吐息を味わい、香る汗を堪能する。
 宋江の胸の中へと顔を埋ずめた武松は、一体何を、と問い掛けようとした。それよりも先に覚悟した主人は事が早い。

「ふふ、灯りがあればと先に言ったが、私のような男を抱くのだ、今度こそ後悔するぞ。思い込むのは難しいと思うが、適当に女の姿でも思い浮かべておけ」

 言いながら宋江は腰を浮かし、濡れた股間へと自らの腰を接触させていく。いつの間に宋江も脱いでいたのか、素肌が触れ合う静かな音がした。
 柔らかく導く穴は無い。濡れた性器と触れ合うのは、太腿に面した肌だけだ。それでも指だけではない熱に頭の中が解けそうなぐらいの感覚が味わえる。この程度でも気持ち良いだろう、と宋江が抱きかかえながら呟いた。
 武松は乗りかかる宋江に全身を預ける。すうっと深呼吸をして、一心不乱に動く主人の体に熱い身を委ねた。
 じれったさはあった。もっと激しく追い求めたい欲もあった。しかし、抱えられた頭の額に口づけをされて、上下されながら吐かれる息を顔に浴びているうちに、不自由な皮膚の愛撫でも射精感が込み上げてきた。
 間髪言わず股の激しい接触が繰り返される。熱を帯びた肌がぶつかり合うだけで惚けてしまう。性感が高まる。あと少し逸れれば、もしかしたら。そんな妄想だけでも心地良い。擦れ合う体液が余計に体を火照らせる。痙攣する肉棒が激しく寄り添うだけで……。

「宋江様っ……」

 堰を切ったように精を放つ。白く濁った液体が、触れていた宋江の下半身に飛び散ったことだろう。
 姿は見えなくても、主人を汚したことは判った。そして怪訝そうな顔をされたことも、見下ろされながら笑われたことも。

「…………私の名前を呼んで達するか」

 ふうふうと息を吐いている中、宋江は抱きかかえた頭を撫でる。子供をあやすかのように髪を掬っていた宋江は、耳元に唇を近付け、

「物好きめ。付き合ってくれる時点で知ってはいたが。……武松は、私の中で、達したかったか?」

 と、淫靡を纏った声で尋ねる。
 頷いた。すぐにでも抱きたいと言うかのように頷いた。
 ……笑う宋江が、静かに、ある詞を呟く。
 すぐにでもという頷きのつもりだったが、呟いた宋江にその意思が伝わったかは判らない。呼吸を整えるために首を下ろしたとしか思われたかもしれない。何故ならすぐさま宋江は武松の腰から下りると横に寝転んだからだ。
 今から眠るということも言わず、すぐ隣で大人しくなる。武松は、脱ぎ捨てられた衣を掴んで濡れたであろう主人の体を拭った。そうしろと命じられた訳でもなく、勝手に体が動いていた。

 寝転がる前の呟き。それが無我夢中で求めてしまい、求められたいと思った武松の妄想でなければ、

「……武松が熱望するのなら。そのうち、させてやろう」

 という慈悲の囁きであった。

「………………はい」
「私は眠るぞ」
「はい」

 実際の囁きはどうなのか判らない。問い掛ける前に、主人は寝息を立てていた。渦巻く感情に翻弄された武松は揺り起こすことなどできなかった。
 熱望するのなら、と言う。確かに欲してしまうだろう。だけど真に欲しいものは、違う。決して抱き潰すことではない。違うのだ、と反論したかった。

 ――お前であれば求めたい。

 その一言だけで、こんなにも燃え盛ってしまった。放出した熱に浮かされながらも、再度武松はあの一言を反芻する。
 あのときの宋江には些細な言葉だっただろう。情けなくも、単純にも程があると判っていても、それでも……武松にとって言葉は、あってはならないものだった。
 求められるのには弱かった。
 自分から求めるばかりで、その逆はてんで無かった。免疫が無かったと言っていい。わびしいもので、そんな一言ですら体を震わせてしまうほどだ。
 魯智深に言われるがままにここに来た。その前も、それよりも前も、同じように言われるがままだった。
 再会したばかりの宋江が「前よりも武松は随分と強く雄々しい目になった」と褒めてくれたが、そんなときよりも「私の従者をやるがいい」と命じられたときが満たされていた。
 自分の意思が無い訳ではない。本当なら、誰よりも強欲だと思っている。強欲に身を焦がした一件から、恐怖してしまうようになってしまった。だというのに誰からも干渉せずに無心に生きることもできない。そういう性分なのだと、割り切るしかなかった。


 ――お前であれば――。主人の口からもう一度、その言葉を聞くことはできるのか。慈悲よりもそのことばかりが未熟な頭を埋めていく。
 横たわる彼の体に触れたくて手探りで手を伸ばした。……見苦しいと笑われるかもしれない。それでも、無様でも。……熱情に犯されて見失った理性。取り戻したつもりでいて、そんなもの元より無いのだと、帰ってきたばかりだというのに思い知らされてしまった。




 END

2018年4月30日