■ 「 快楽には弱い人間だった。 」



 /1

 旅を始めて、まだ四日も経っていなかった。

 戻る場所はあれど帰る場所を失った旅立ちは、予想以上に宋江の重荷となった。五日を過ぎれば収まるかもしれない。
 現に三日を過ぎたときから長旅の痛みは薄れていた。外体が慣れを覚えるのだから、中身も次第に順応していくと考えた。
 同時に、忘れてはならないものがあると、宋江は自身に何度も言い聞かせていた。だからこそ、負担は簡単には消えなかった。
 いつまで経っても心の重心の置き場が無い。心を集注する熱意が、宋江の胸には欠乏していた。

 武松はそんな主人を気遣い、民家を訪れることにした。
 まだ先を進み四日も経っていない、人目を避けたいという心があっただろう。それでも野宿ではなく屋根の下で休もうと言い出した。宋江を気遣うためだとは口に出さない。ただ、目のつくところに家屋があったから。そう話すかのように宋江を誘導した。
 気を回す武松に、宋江は感心し、感謝した。同時に、惨めさを味わっていた。思わず武松を一瞬睨みつけてしまう。我ながら大人げないと自分を恥じるほどだった。

 宋江は手を見る。武器を持ち、手にコブを作ってまで鍛錬を積んでいる手だ。身も心も鍛え上げたものの、つもりだった。そうは、どうだか。多くの同志達の声を聞き、自分にも立ち上がる覚悟があるつもりで、だというのに、心身共に通りが悪い。二人の女を死なせた悔恨が、重く、いつまでも付き纏い拭えずにいる。
 予想以上の重症に、困惑するほどだった。

 山奥にぽつりぽつりと置かれた民家が現れた。武松がその一つを訪ね、顔を出した老人に訳を説明する。しかし「男二人を泊められるような家ではない」と断られた。
 断られた武松は丁寧に礼を言い、その家を去ろうとする。
 するとそれが何故か老人の気を良くしたらしい。荒々しく見えて謙虚な姿勢に気を済ませた老人は、「少し離れた場所にある廃屋なら使えるのでは」と言い出した。
 なんでも以前住んでいた者が死に、暫く誰も使っていない小屋があるという。取り壊すこともできず放置された汚い家だとも話した。
 「それでも人が住んでいた場所なら文句は言うまい」と老人の気紛れに、頭を下げた。

「食い下がりもしなかったのは何故かな、武松」

 あの老人の家は、かつて多くの子がいたのだろう、広くて貧しくもない、余裕のある家だった。
 老人に宿泊を断られたとき、武松は家を覗き込み、それが判った筈だ。後ろに下がっている宋江ですら判った。

「不満がって下手に印象強く覚えられても、困るからです」
「ここにまで人相書きを持ってくる者はいないと思うが」
「どうでしょう。俺は一人で旅することには慣れていますが、お尋ね者としての旅は初めてです。その旅を始めて出会った一人目となったら、慎重にもなります」
「その慎重さが功を奏した。ありがたい話だ」

 辿り着いた廃屋には、人の匂いは無かった。
 人が住まなくなってどれぐらいが経ったかは判らないが、あまり汚らしくもない。屋根の下であればどこでもいいと考えていた武松も、手足を伸ばして寝転がれるほどの場所に声を漏らす。

「本当に、ありがたい話です」

 武松が微笑む。
 その笑みを見た宋江は、一瞬、言葉に詰まった。そういえばここ数日、笑いかけることはあっても、安心した笑みは見ていなかった。やはり、武松にも重荷を強いていたのだ。それを強く感じた。
 閻婆惜が死に対面したときから、武松は気を張っていた。咄嗟に手を引いて逃げると判断も、それからの手引きも、多くの負担を掛けている。
 今更だとも思った。
 彼への感謝は、既に何度も口にしている。宋清に生の尊さを打ち込んでくれたときも、旅を始めるときも、何度もだ。
 言葉というものは重ねると安くなる。だからあまり言わない方がいいかとも考えたが、思ったからには吐き出さずにはいられなかった。
 「ありがとう」、と。

 それを聞いた武松が、何とも言えない表情になったことを見逃さなかった。
 理由だが、何となくだが宋江には検討がつく。武松は、この言葉を言われ慣れていない男に違いない。だから驚いてしまったのだと、珍しい顔を眺めて笑った。


 /2

 不思議なことに、手足が伸ばせるぐらいの場所に居るというのに、宋江は武松の隣から離れられずにいた。

 今まで、そしてこれからのことを考える。
 多くの民に会い、同志に会い、いずれ梁山泊に入山することを夢想した。何度もだ。しかし不安がある。後悔は消えない。閻婆惜の心が頭を過ぎり、無念がって情けなく歯を食いしばってしまう。
 それがもう数日続いていた。女々しいと自分を叱責しても、無念は拭えない。
 しかしだ。先ほど、武松のことを考えた。そのときだけは、胸の重荷が少しだけ消えていた。
 ふとそのこちに気付いてしまい、寝支度をしている武松を眺める。それは武松を観察するのではなく、武松を通じて見る自身を観測していた。

 ――この男が傍にいることが力強く、自分にとって慰めになる。
 感謝しても感謝しきれない。今もなお、情けなく眉を垂らす自分を護ろうとしているのだ。非常に頼りになる。彼は、大事な配下だ。
 ――そうであるが、『所詮それだけ』である。

 以前の武松なら纏っていた弱さのために厳しく扱ってきた。だが今はその必要も無いほど、凛とした目をしている。気兼ねしなくていい、無心でいられる。穏やかに身を預けられる……。
 つまりは――この男を想っているだけで、胸が安らぐ――そうなのだと、辿り着いてしまった。

 武松は廃屋の中を最低限片付け、今後のことを話し、灯りを消す。
 いざ身を横たえようとするとき。宋江は、胸の厚いその体に寄りかかっていた。
 声を上げるでもなく、武松は寄りかかってきた宋江を受け留め、そのまま身を倒した。既に廃屋の中は光が無く、お互いの表情を読み合う手段など、直接顔に手を当てる以外ありもしない。
 表情は読めない。だが、その方が宋江にとっては都合が良かった。

「武松、お前に触れたい。断りたいなら、断れ」
「お疲れではないのですか、宋江様」

 先程まで灯りを点していたせいで目が闇に慣れない。それでも宋江には、武松が自分を真っ直ぐ見つめていることが伝わっていた。
 暗闇の中の会話というものは良い。表情を取り繕う手間も無いことに、宋江の胸中は穏やかになる。武松が誠実な眼差しで隣に居てくれるということだけ判れば、後は構わなかった。

「確かに私は疲れている。しかし体はな、棒の稽古のおかげかまだ動く。お前の狩りのおかげで満たされてもいる。そんな中、心が空虚なのが、なかなか堪える。体だけが元気で、参ってしまった。……余計に恋しくなってしまう」

 今までこの空虚を埋める者がいた。無作為に抱いて、無造作に放り投げても良いとしていた者がいた。
 『そんな都合の良いものなどなかった』というのに、宋江の中には確かにあり、救いになっていた。
 失ってから気付く大切なものに胸を痛め、数日。忘れてはならない痛みだと胸に抱えて、数日。そろそろ、耐えきれなくなっていた。

 先ほど、『忘れたこと』が、心地良かった。

 この先のこと、不安。今までのこと、後悔。どちらも手放してはいけないと理性では判っていながら、まったく別のことに心が奪われた瞬間、愉快で堪らなかった。
 胸の痛みなど消え、気持ちが井戸のように落ち着き、そうしてまたその愉悦に飛びつきたいとも考えてしまう。
 おそらくこの愉悦は、『武松でなくてはならない』という理由は、無い。
 『都合の良いものが近くにいた』。今までとなんら、変わっていない。
 この先とこれまでのどちらでもない、今ここに在るものとして武松が目についただけで、一時の疲れを癒せるものなら何でも良いのだろう。
 ……このままではまた二の舞いになる。けれども今の鬱屈した宋江は、目先の快楽に弱かった。

 一度でも武松が拒絶したなら下がるつもりでいた。
 老人と武松のやり取りを後ろから見ていた宋江にも、「下手に食い下がって悪印象を抱かせることは今後のために良くない」と判っていた。
 それに宋江は武松の過去を詳しく知らない。好色であるかなど尋ねたことなどない。

「んっ」

 だが、返事を待つよりも先に武松から唇に吸いついてきたことから、男体を毛嫌いしてはいないと判る。
 上唇を舐め、下唇を食み、口内に舌を突き刺し奥へ侵入させてくるのだから、この提案に嫌悪はしてないのだろう。

「私から頼んだのだ。こんな男の体を無理に触らせることが、どれほどの負担か判っている。せめて武松の好きにさせよう」
「無理にではありません。断りたいなら断れと宋江様はおっしゃられていますし、それに、負担でもありません」
「ほう」
「ただ、何分初めてです。壊してしまわないようにしますが、覚悟をしていただきたい」

 俺はどのような男かご存知でしょう――と、武松が耳元に唇を近付け、囁く。
 そんなことを言われたのは初めてだ――と、宋江は小さく震えながら、呟く。

 壊すぐらい激しく女を抱いたことはあっても、激しく男に抱かれることはなかったなと胸が巡った。
 踊っていたかもしれない。それ以外考えられなくなるぐらいだ。
 その感覚が、心地よかった。

「ん、ん……武松……」

 囁きと同時に武松は宋江の衣服の中へ手を差し入れ、撫で回す。
 武骨で固い指に、宋江は体を凍らせていく。当然ながら柔らかい女の指ではない、それは承知だったが、痛みが呆けた体によく効く。手当たり次第に思えて情熱的な肌への愛撫は、悪いものでもなかった。
 人の手で腹を撫でられると自然に心が落ち着くものだ。だから素肌を撫でられて安堵していくのだろう。
 親が子を撫でるものと同じだと理解はできる。そう頷くと同時に、やはり自分は誰の手でも良かったのだと、実感してしまった。

「宋江様は、触れられて好きな場所はありますか」
「そんなことを訊く奴があるか。慎重すぎるぞ、武松」
「一人先走って失敗した経験があるもので、そうなってしまうものなのですよ」
「武松の好きにさせる。私は言ったぞ」

 固い手による愛撫は、長く続いた。
 時折、舌を絡ませながらも武松は胸や肩だけでなく、局所も満遍なく撫でまわし、宋江を恍惚とさせる。
 力の強い武松についつい気圧されてしまっていたが、宋江自身も武松に触れようとした。お前に触れたいと、言い出したのは宋江だ。屈強な武松の手に為されるが儘にされつつあるが、暗闇の中で武松の体を探した。
 だが、力強く献身的な武松はまるでその手を拒むように、両腕を片手で掴む。

「あっ……」

 宋江の両腕は、頭の上で縛られたように抑えつけられた。
 必死に腕を振り解こうにも、武松の力に敵う訳が無いと判りきっている。しかし痛くはしてこない。腕を抑えられていても苦痛ではない。そんなこともできるのか、と感心しているうちに、次第に責め立ては激しくなり、宋江は息を切らせる。
 片腕だけで事足りるのか。一本の手だけで、快感を呑まれるのか。
 たった一人の力で、侘しさを救ってもらえるのか。

「気持ち良いな……思った以上に、お前の愛撫は繊細で、驚いている」
「いけませんか」
「いや、気持ち良くて堪らん。夢中になってしまいそうだ。もっと良くしてほしい……」

 ぐるぐると巡る意識の中で、宋江は舌を伸ばす。
 暗闇の中だというのに、想いが通じたのか、再び長い口吸いが始まった。
 噛みつかれるように唇が食いつく。武松は一体、どのような表情をしているのだろう。
 夜の中では何も見えず、本当に武松にされているのかも判らないほどだ。
 それでも、息遣いは武松のものだ判る。香りも武松そのものだ。これは、頼りになり、自分の傍にいてくれる彼に違いない。熱い愛撫も雄々しい武松らしいと言える。……安心しよう。緩んだ心で、激しい攻め立てを受け入れることができた。

「……腕を離してくれ。武松にしがみ付きたい」

 呼吸と言葉を奪う口付けが終わり、涎まみれの顎でようやく宋江は武松を止めることができた。武松の慈悲が無ければ、このまま蹂躙されたままであった。
 武松は言われた通りに腕の拘束と、愛撫していた片手を離す。肌の上から武松の熱が無くなっていく。途端、一気に空虚が押し寄せてくるのを、宋江は感じた。
 闇の中で体の自由を奪われている間、男に組み敷かれている間、激しく呼吸を制されて一方的な手淫を受けている間。考えているのは、武松のこと以外、無かった。
 気付いたとき、興奮を隠しきれなくなる。
 これまでのこと、これからのこと。忘れてはいけないもの、抱だき続けていかなければならないもの。多くの重荷であり宝は、見捨てることなど絶対にしないと決意したにも関わらず――――ただただ快感に走ったとき、言葉に出来ない心地良さを感じた。

「良い……。これは、女が虜になっても仕方ないな……」

 元々、宋江は色事を好いていた。快楽には弱い人間だった。だからこそ閻婆惜の肉に走り、心まで触れようともせず、悲劇を招いた。
 既に肉体は、すっかり熱く、固くなっている。この、ほんの数分間で自分という情けない人間の縮図に直面し、そして御することができず、また武松の手を引いた。


 /3

 宋江が意識を取り戻したのは、空が白み始めた頃だった。

 肛門を犯すことはあっても、犯されるのは初めてだった、筈だ。
 あまりに良過ぎて、意識が飛ぶほどの快楽に酔うたびに、実は昔に経験があったのではと笑いたくなるほどだった。

 髪が汗で貼りついている。それほど体は濡れた。
 人語も話せなくなるほど、体を揺らした。喉も腹も引き攣って、みすぼらしい顔を晒しただろう。
 頭を振って悦びもした。体を貫かれる衝撃に、涎や涙を垂れ流しもした。しかし鈍い声を上げるたびに、武松が髪を梳かし、肌という肌に口付けて気遣ってくれた。
 武松らしいとは、微塵も思わなかった。

 宋江は本当の武松の姿を知らない。しかしこれほど大人しく甲斐甲斐しくはなく、本気になれば手出しのできない男だと思っている。
 最後まで武松は、達観していた。繋がり合っているにも関わらず、冷淡に見下ろされているような気すらした。
 ……いや、二人して激情に駆られてはいけない。私は我を忘れ、武松は冷静でいる。今日はこれで良かったのだ……。宋江は、何度も心でそう呑み込んだ。

「ひどく長い時間を、強要させてしまったな」

 見やると、武松は横で目を閉じている。手を伸ばせば届く距離だが、少し遠く居ると感じた。
 そういえば閻婆惜は宋江に抱かれた後、抱擁を求め、近くで何気ない話を聞きたがった。命じられるまで傍に居たがることもあった。武松は、そうではないらしい。
 いいや、激しい交接の末に気怠くなった主人の体を気遣って、手足を投げ出せるように距離を置いたのだ。宋江の服は、既に正されていた。武松が直さなければこうはならない。
 暗闇の中で悶え狂い、意識を手放した主人の面倒を最後まで見たのだと、宋江は感心せずにいられなかった。
 まったく、良い男だ。以前まで体つきは雄々しくてもどこか弱く危うい若造だと思っていたのに。いつの間にこれほどになっていたのか、驚きを隠せない。

 そうして思い知るのは、どこまでも自分の不甲斐なさだ。

 武松との行為は、心地良いひと時だった。
 ああ、何もかも投げ出して自分だけの悦に入るというのは、こんなにも病み付きになってしまうものなのか。この身勝手な考えが一人一人巣食うことで全体を腐敗させるのだと、判っているのに、止められやしなかった。
 大したものだけを掲げていても、やはり自分は弱い人間なのだ。そう何度も反芻する。
 簡単に意志は強くはなれない、だが鋭く強固な意志に育て上げることができる。その筈だ……。闇が終わり、目に入る視界の中で、淡く夢想していく。

 すぐには、とても難しい。一人笑った。
 眠る武松の体へと手を伸ばす。無意識に、また武松の熱を求めたいと動いていた。無意識に、だった。

 悔恨は尽きることはない。仕方ないと、身勝手にも思い定める努力をしなければならなかった。




 END

一時の快楽のために人格が変わってしまう宋江様はかわいいし、愛情のせいで人格が変わってしまう武松はかわいい。

2018年4月12日