■ 外伝17 / 「奸計」



 ――2005年11月9日

 【     /      /     /     / Fifth 】




 /1

 ――脱力感と崩壊が起こり神より早く腐敗し牢獄の中で痛感したら猛毒に犯され無意識が蹂躙し犬の骨が炎に塗れる。早く。それゆえ、刹那、戦慄したら全部圧殺だ。真昼間に真の狂気。飛び廻る血。悪。否定する完全な土色の唇。垂れ流された体液に淫靡な声。夜の始まりが傷付けられた子供。腐り落ちる目玉に長い爪、それにここは臓物の海を欲望を解放し穢れた女が緑色に染まった刃を振りかざし闘争本能を街の声で愛する螺子を地獄の心へ緩んだ父が純粋を食べる。貪欲に罪が胎動し逃げるんだ、灰になる前に――。

 突如襲った電流のせいで、視界が真っ白になる。
 元からぐるぐる意識が巡りまわって真っ白。そのうち真っ赤。唐突な雷が走り、白から赤に染まった世界が金色で掻き消されていく。
 興奮した頭を一刀両断して、真っ青の何も無い状態に。白、赤、金、青と回り回る絵具の波によってパンクしかけた頭は、今度は何にも考えられなくなり、ついにはシャットダウン。
 最後に、ゴインという大きな音。頭を打つ衝撃は、意識を手放すに容易かった。

 ――これは、夢だ。

 俺の部屋。時刻は正午。布団でぐーすか眠っている。
 声がした。ゆすり起こされて渋々目を開けると、困った目をしたあの人がいる。
 『いくら声を掛けても起きなくて心配しました』。
 苦笑いをしながらあの人は言う。その目は、本当に俺を心配してくれたものだった。
 俺は朝早い方だということを何度も俺と朝を暮らしているのだから当然知っている。だから昼近くまでになっても俺が目を覚まさないのはおかしいと思って、心配してくれて、わざわざ俺の部屋まで起こしに来てくれたんだ。
 そういえば今日はどこかに一緒に行こうと約束をしていた。それなのに俺は眠り続けていた。なんてことだ。今もまだ寝間着姿で、寝ぼけた顔をしているなんて。俺のことを心配してくれるあの人に失礼だ。
 でも、なんだか良いなぁ。
 青空。良い天気。俺の部屋にやって来るあの人。
 滅多に無いシチュエーションを、この時間を、あの人といっしょに送ることが嬉しくて、俺は、あの人の、唇に……。

 ――だから、これは夢だ。

「いっ、つ」

 夢から目を覚ます。真っ黒の夜だった。



 ――2005年11月9日

 【     /      /     /     / Fifth 】




 /2

 ここは赤の世界。
 ちゃぷんと水音が立って数秒、ぷくぷくと気泡が上がる。
 暫くしたら水の中からざばぁと女性が出てきた。赤い水に濡れた裸体はとても扇状的。やや赤くなった美女の頬は彼女の表情をひどく幼くさせていた。
 深呼吸をした彼女は濡れた長い金髪をくるっと一つにまとめ、左肩に乗せる。少し息を乱して地上に上がってくる姿はセクシーで、火刃里くんのようなウブな少年だったら鼻血を出しちゃうかもしれない。

 赤い波打ち際で足だけ浸けてジャブジャブしていた月彦くんが、全裸の彼女にタオルを渡した。
 笑顔で「アっちゃん、お疲れ様」と笑い、彼女も笑顔で「お疲れ様よ、つっきー」と返す。いつも通りだ。
 彼は全身濡れ鼠の彼女に拭いてほしくて手拭いを渡したつもりだった。なのに彼女は彼から貰ったタオルを大切に抱きしめると、楽しげに再び赤い水の中へと沈む。背中からドボンと水面に倒れ込んでいった。
 月彦くんが慌てる。倒れ込んだ彼女を気遣い、駆け寄りながら「大丈夫?」と声を掛けた。すると彼女はすかさず彼の腕を引く。水の中へと誘なっていく。
 そのまま二人は赤の中へと呑まれていった。

 ……心底楽しそうだ。
 僕は自分の髪の水気を手拭いで取りながら、そんな試験管の中の二人を眺めていた。
 別の試験管から出たばっかだから、まだびっしょりの状態。いつもの入院着のような布を貰ったけど、新人研究員がやったから間違えてしまったのか、渡された服は僕のサイズに合ってなかった。『慧』と僕の名前が書かれていないちょっとぶかぶかな布を巻いて体を暖める。
 僧に「データが取れたから出ろ」と言われたからカプセルから出たけど、次の指令があるまで大人しく待機していろって言うのか。一息入れる暇も無く次の実験に駆り出されるときもあれば、数時間濡れたまま全裸で放置されることがあるけど、今日は(サイズが合ってなくても)服を渡されて椅子に座らせてくれるあたり、気遣いができる研究員が多いようだ。
 だから今日はラッキーな方。それに、ガラスの先で楽しそうな二人でも見て暇潰しもできる訳だし。
 無意味な時間を強要される『機関』の一幕としては、有意義な一日とも言える。

 月彦くんと金髪碧眼の彼女が今も尚入っているカプセルは、僕が入っていたものよりずっと広く大きかった。
 大きな筒であることは変わりないけど、筒の中で成人近い人間二体がバシャバシャと水遊びができるぐらいの広く深いプールがある空間でもある。
 ガラスで閉ざされ外に出られない世界。二人は真っ赤なプールでバカンスをしていた。
 二人とも全裸。水着は着ていない。その光景を多くの男達に見られている。清々しい爽やかな色のプールではなく、真っ赤な液体(中でも呼吸ができる。少し息苦しいけど、気分は女性のお腹の中に居るようなもの。一見不気味だが心地良い)を纏って遊んでいる。それでも、仲の良い男女が二人で笑い合っていれば自然と楽しそうな夏の姿に思えてきた。
 たとえ今が冬でも。
 あの赤が本物に血肉だとしても。
 夏はもうとっくの昔に終わっていた。でも二人は本物の夏を謳歌するかのように楽しく笑い合っている。
 ぱしゃぱしゃと水を掛け合ったり、ぺちゃぺちゃと水に濡れた体を寄せ合ったりして、二人のラブシーンは留まることをしらない。
 こんな所で楽しげに笑わなくても。そう思うのは「僕も早く恋人と二人きりで笑い合いたいのに」という嫉妬心からだった。
 醜い感情をあの男女にぶつけたって無駄だ。でも楽しそうなのが羨ましくて悔しい顔をしてしまう。辛い仕事でも笑い合えるあの二人が妬ましいと思ってしまうぐらいに。
 マイナスに物事を考え始めちゃったら駄目だ。無関係の人まで憎んでしまうのはいけない。そういや確か今日は三つ子の兄・陽平が遊びに行くってヘラヘラ笑ってたっけ。ついには目の前にいない無関係の家族にまで怒りの対象になる。いけない、違うことを考えないと……。

「先生」

 小さく、愛しい人を呼んだ。
 彼は仕事だから遠くに居る。こうやって呼んだって来てくれないけど、もう暫くの辛抱。
 終わったらいっぱい愛してもらうんだ。その想いだけでこの時間を過ごすしかない。

 先生。先生。
 心を愛する人でいっぱいにすることで、空回りの笑顔しかできない陽平のことなんか忘れる。
 どうせ陽平になんか立派なお相手なんていないんだ。なんであんなに楽しがってんだか。それはともかく、先生。先生。
 だんだんと幸せな気持ちになってきた。そうだ、終わったら先輩にいっぱい構ってもらおう。あそこで愛を語り合っている二人のように。
 現金なことに、もう目の前の愛が許せるようになってきた。羨ましさは変わらないけどなんだか微笑ましくなってくる。そう、そう、そうだ、僕もあんなことをしよう。その参考に二人を使わせてもらおう。そう考え続ける。
 待ち時間、同時刻に実験をしている隣の彼らを見ることで暇潰し。男女の語らいで時間を潰していると、白衣を着た一人が僕の元にやって来た。
 久々に会う三つ子の一人、さっき話題に上げた方じゃない兄・瑞貴だった。

「本日のお務めは終了。帰っていいよ」

 瑞貴は僕の兄としてではなく、白衣を着た単なる研究者の一人として伝達しに来たに過ぎない。
 僕が頷くと、それだけを見て他の白衣達と去って行く。
 それ以後は僕のことなど見向きもしない。彼が僕に冷たいからではない。用が無いから話し掛けず、他にやるべきことがあるから次に進んだだけだ。
 僕もそんな三つ子の兄に特別何かの感情を抱くことはない。「帰っていい」と言われたんだ、喜んで出て行こう。布を纏っているだけの控室から、僕の衣服を置いている脱衣室へと向かった。
 脱衣室のどこかに置いた、衣服を入れた籠を探す。
 この時間は僕以外にも数人が今の時間に関わっていたから、複数籠があった。迷わず自分のものを見付け、簡単に衣服を纏う。ちゃんと体は拭いたけどカプセルの粘着質な中身は完全に拭き取ることができず、袖を通すたびに不愉快な感覚が走った。
 さっさとここを出て浴室に行こう。気味の悪い物を全て洗い流して、新しい服を着てシャキッとするんだ。その後は……と考えていると、とある棚にあった籠が落ちた。
 五メートルほど離れた所にあった棚の、僕の身体より高い位置にあった籠が落ちた。
 脱衣室には僕以外は居ない。ちなみに僕の腕は五メートルもない。地震も起きていない(この地方は地震が少ないと言われてるぐらいだし)。なのに誰かの籠が独りでに落ちた。思わずそちらを凝視してしまう。
 落ちた籠がガタガタと揺れ、中から何かが出てくる。
 何かと思えば、のそりと出てきたのは白い猫だった。
 籠の中に入るぐらいのものと言ったらそのサイズの猫ぐらいか。『機関』の中で獣がかくれんぼしてるなんて驚きだが、仏田寺の敷地内には猫が多いし、洋館の中に入り込んじゃった猫が籠の中で寝ているのはありえないとは言えない。
 でもあまり宜しくない事態なのは確か。精密な機械多く詰め込んである洋館の地下だ。神経質な人間ばかりが集うこの研究所に、獣が闊歩してるとなったら。
 居るのが僕だからいいけど、梓丸さんだったら今ここで絞め殺しちゃうかも。いや、そんなことしないか。汚いだの不衛生だと喚くだけで駆除は別の人にさせる。殺虫剤を噴き掛けるぐらいはしそうだけど。
 正直どうでもいいことだった。
 だから猫が居ても無視して服を着ている最中に、

「貴様が、瑞貴の弟か」

 なんて声がしたときは、普通に驚いた。
 声の発信源は猫の口。白くてふかふかした小さな生き物が、男性の声を発した。

「……やっぱり。どっかで見たことあると思ってはいたけど。瑞貴の使い魔か。ごめん」

 着物を羽織りながら、話し掛けてくる白猫に謝る。
 白猫は眉間に皺を寄せて(という風に見える猫の表情。人間のような眉のある顔じゃないから、あくまでそんな風に見えるだけ)僕に近付く。
 僕から一メートルぐらい、話しやすい距離まで寄ってきて腰を下ろした。しなやかな腰つきがちょこんと座って、着替えている僕を見上げる。

「どうしたの。瑞貴とはぐれたの? 迷子になっちゃった? 連れて行ってあげようか」
「マスターの居場所など、契約した相手の魔力を辿れば判る。あやつは仕事中でも自分の近くに居ろと煩いが、我は必要以上あやつと関わるつもりは無い」
「……そうなんだ。ごめん」
「そうだ。マスターとサーヴァントが常に共に居るなど思うな。ふん」
「……でも、ごめん、姿を消す気が無いんだったら極力、契約者の元に居た方が良い。『機関』に猫が入って来たってうるさい人達に知られたら、殺虫剤を撒かれるよ」
「貴様、我を猫と同じだと言うか!? やはり貴様もあやつと同じ血かッ!?」

 ……猫じゃん。
 その耳、目つき、しなやかな体、長く鋭い尻尾、「にゃふー!」と威嚇する声。どこをどう見ても猫にしか見えない。

「まあいい、許してやろう。我は寛大だからな」
「はあ……そうなんだ、すみません」
「我は、貴様と言葉を交わしておきたかったのだ」

 尻尾を太くして威嚇されたけど、白猫は落ち着きを取り戻してまた腰を下ろす。
 僕が服を着替え終わるまで、ずっとそこに座って離れようとしなかった。

「何か……ご用?」
「瑞貴と同じ血を引く者がどんなものか、どこまで同じなのか確かめておきたいと思ってな。……ふむ、見れば見るほど似ておる。鼻も同じか。声もそっくりだ。が、やはり全く同じとは言えん。ううむ。香りが、性質が大きく異なるようだな。我が主より貴様の方が幾段と強い魔を持っておる。何故だ」
「何故……って難しいことを言うね、猫さんは」

 脱衣場から出る。
 別に白猫を無視も邪険にする気も無いけど、僕は今の体がとにかく不快だ。一刻も早く気持ち悪い『機関』から去りたいし、水浴びもしたい。可能なら先生の元に行きたい。猫とおしゃべりするために僕も腰を下ろすつもりは無かった。
 だから、話しながら地下研究所の廊下に出る。地上の洋館へと続く階段へ向かう。
 僕と話したいらしい白猫は、その後をするすると追っかけてきた。廊下で誰に会おうが気にしないのか、そこまで危機感が無いのか。歩く僕の後ろを悠々とついてくる。騒ぎにはなってほしくないなと思いながら、構わず歩いた。

「……『機関』の子は普通、何人も何人も産んだ後に……優秀な上位三名だけを跡取りとして生き残らせるようにしている」
「ああ、それは瑞貴から聞いておる」
「でも、僕の母は……優秀な人だったんだ。一度で何人もの子を孕んで、産まれてきた子供が全て継承者の刻印を持っていた」

 僕も、兄の瑞貴と陽平も全員適正のある子だ。
 こういうケースは滅多に無いという。年の近い人を挙げれば梓丸さんや福広さん、芽衣さんがいるけど、彼らだって『何十人もいる兄弟』の中の生き残りだ。父は仏田の出の一人だが、母候補は何人もいる。数多の『データ』の中での、選ばれた能力者が彼らだ。
 さっきの研究所にいる生活を長く続けていれば実感もわく。さっき僕が居た場所の隣の部屋では、新たな命が入ったカプセルがズラリと並んでいるぐらいだ。更にその隣では、不要な子達を再利用しようとする研究が続けられている。そういう所なんだから、この建物は。

「本当なら産まれる前に能力を調整してもらったり、産まれた後に手を加えたりするんだけど……僕達兄弟はちょっと特殊で。お母さんが優秀に産んでくれたから能力の差がまちまちなんだ。一定してみんな同じ力って訳でもないんだよ……」
「ふむ。瑞貴も我を召喚するほどの男だから稀有な存在だと思っていたが、貴様には勝てぬか」

 後ろから聞こえるのは、堂々とした男性の声。
 猫の声だと実際喋っているところを見たから判っているけど、猫の姿を見ないで背を向けたままだと、後ろに成人男性がついて来ているような錯覚が生じる。変な感覚がしっぱなしだった。

「その優秀な肉体を持っている貴様が、何故『あのようなこと』をしている?」
「……あのようなこと?」
「元々出来た体だというのに、またそれに手を加えるようなことだ」

 この猫は一体どこまで視ていたんだろう。
 あのカプセルに入った僕を見ていたってことは、壁越しに魔法の力で透視でもしていたんだろうか。まさかあの空間に堂々と忍び込んでいたとは思えない。一応表に出したくない機密事項だらけなんだからそこそこ目を隠す結界ぐらい貼ってある訳だし。

「……もっと強くするため、だよ。それ以外に理由が無い」

 階段を昇り、地下と地上を繋ぐ扉を開けながら、白猫に一般的な意見を述べる。
 開いた先は、千年前から意識を変えず変化を拒んでいる家とは思えぬ豪華絢爛な洋風建築。変な感覚はまだまだ止まらない。

「それに『ここ』は、人の体を弄る場所だから」
「ふむ」

 手術台に乗せて、メスで弄れば中身を変えられる。
 お薬を作って、飲んでしまえば中身を変えられる。
 妊婦さんのお腹みたいな試験管の中で、ぷかぷか色んなものを飲み込んでいれば中身を変えられる。
 魔法陣の上で、変われ変われと魔法をかけてもらえば中身を変えられる。……そうやって中身を外の手で変えちゃう場所だから。

「……僕にはもうちょっと強くなってほしいからって、あそこでぐつぐつ煮られていたんだよ。そうすれば、もっと良い味で煮詰まるからってね」
「ほほう」

 自分がみんなとはちょっと違うということは、小さい頃から言われ続けてきた。
 けどそれでも前に進むことを止める理由にはならない。できるのなら強化手術によって、身に付くことが力を身に付けていかなければ。……そうやってここで生まれ育った身としては何も感慨も持てない、ただそれだけのこと。

「よく、そのまま表世界に立てるな」

 嫌味のつもりなのか、白猫は鼻で笑う。

「……僕は、成功例だったそうだよ。失敗作はいっぱいいたそうだ」

 全部、『寺の外に出さずに事を終えた』だろうけど。

「失敗した連中を見て、貴様はどう思った?」
「……ごめん、それさ、君が尋ねたい質問とは遠いものになっちゃってるよ。それでも訊きたい?」
「む、ん、そうだな。聞いてみたいものだ。貴様は生まれつき恵まれた能力を持った子だ。それが更に優秀な力を授けられている。力を求めよ、全知全能に近づけという使命のために。優越感に浸ったか? 自分が優秀だと自覚するのは気持ち良いだろ。瑞貴はよくそういう顔をするぞ」
「ごめん、瑞貴のことは知らない。……普通に生活できない体になっちゃってパニックになった子は、可哀想だと思ったよ……」
「ふむ」
「そういう子は可哀想だから『本部』からすぐに情けを掛けられるけどね。……外に出る前に、殺してもらえるよ」

 僕は普通に念じれば力を出せる人間だ。
 でも「何かに触れるたびに爆発」とか「言葉を話すたびに破壊」とか「居るだけで害」、そのような、日常生活に支障を来すレベルの人間もいっぱい居た。僕が知っている限りでもいっぱいいたのだから、きっと相当な数、処刑人にお料理された子がいる。
 猫の言う『優越感』は、どうだろう。
 口にしようとしてあまりしっくりくる言葉が出てこなかった。少し立ち止まって考えてしまう。
 洋館から外に出る扉の前。ドアノブに手を掛ける前に立ち止まる僕。誰かの邪魔をしている訳でもないので制止したって一向に構わなかった。

「……能力を持って産まれたから嬉しいとか、能力を更に持てたから嬉しいなんて、あまり考えたことはないな。ごめん、それよりも……」
「それよりも?」
「……『そんな力を持って産まれてきてくれてありがとう、頑張って力を身につけてくれる努力にありがとう』って、いつも感謝してくれる人がいる。そんな優しい人のために、僕は頑張るんだ」

 たとえそれが苦痛を伴う実験だとしても。
 他者の血肉の中で漂う羽目になっても。
 愛する人のためにやっている。使命とかどうでもいい。ただそれだけで頑張れる。なかなか的確な言葉にできないけど、自分にとって力なんてその程度の問題なんだ。
 自然と唇が歪む。……先生のことを想って、微笑んだ。

「具合の良い頭だな、貴様のは。……瑞貴も貴様ほど洗脳しきっていればこの世界で生きやすかっただろうに」

 先生。先生。先生。考えながら地上へのドアノブに手を掛けた。



 ――2005年11月9日

 【     /      /     /     / Fifth 】




 /3

 夜。マンションのベランダで煙草を吹かしていると、緋馬が隣へやって来た。
 高校の学生寮から一時帰省していた緋馬は、灰皿の横に置いておいた煙草の箱から断りなしに一本取ると、俺の真似をして火を点けた。
 吸えないくせに変に大人を気取っている子供だ。良いものじゃないと思っているくせに格好つけたくて吸っている姿がいかにも子供だった。
 そう思う自分も人生最初の喫煙は、大人になりたいという憧れからだ。格好つけて吸っているうちに、いつの間にか虜になってしまった。煙草と酒に限らず最初は見栄えを良くするために始めてしまうもんだった。
 不良だなと俺が言うと、緋馬は笑い、「藤春伯父さんだってこの年ぐらいには吸ってたんだろ? ならいいじゃないか」と俺のせいにしやがった。そう言われちゃ許すしかない。

 俺の反抗期は早かった。
 仏田家当主・和光の次男として生まれた俺だったが、自分に流れる血を好きになれなかった。
 生まれてからずっと山奥の魔術結社の中で過ごしておけば外との違和感に気付かずに済んだのに、『仕事』がキッカケで外の世界に触れ合った俺は「あの血がおかしい」ということを知ってしまった。
 少年時代は消毒液まみれで生きてきた。でも外の世界に犯されてからは仏田一族というものに嫌悪感を抱いてしまって、なるべく実家に関わらないように生きようとした。
 一族から出て独立することを夢見て外界で仕事を持ち、マンションを買い、ごく普通の男として生活をし始めるまでに。
 今では嫁を貰って子供も三人いる。
 一見、外の人間のように擬態できている。
 と言っても擬態は擬態。独立したと言っても、結局は一族から抜け出すことは出来なかった。
 一時は実家と完全に縁を切る気でいたのに、ずるずると問題は重なり、首輪を掛けられた放し飼い状態のまま、今に至る。
 いくら外でマンションを買って、自分で決めた女と結婚しようが、どんなに遠くに逃げてきたって一族の長の命令に首を振ることはできなかった。敵わなかった。
 それでも充分な生活ができてしまい、「こんな放し飼いでも幸せなんだから良い」と思うまでに諦め……いや、落ち着いてしまった。

 反抗心剥き出しで一族に刃向っていた時期もある。
 でも嫁も子供も得た後では、生活を落ち着けるのが精一杯になった。
 自分の「独立したいという夢」や「上の連中をギャフンと言わせたいという欲」なんて、どうでも良くなってきてしまった。

 つまり俺は、数年かけて負けてしまったんだ。
 負けたというか、勝負すら捨ててしまったというか。これが大人になるということなのかもしれない。ほんの数年前まで認めたくなかったのに。

「緋馬。何か用があるんじゃないのか」
「……ん」

 マンションのベランダで二人、煙草を吹かす。
 隣の不良少年は苦い顔で必死に煙草を吸う。嫌なら吸わなきゃいいのに、そこまでして王道から外れたいものか……と、かつての自分に問いかけるように彼を眺めた。

 眺めた彼、緋馬はもうすぐ十七歳になる。今日は少し早い緋馬の誕生日を家族全員で祝っていた。学生寮で暮らしている緋馬は誕生日当日には家族のもとにいないからだ。
 緋馬が生まれて十七年。高校に進学し、もう随分と月日が経った。とっくの昔に大人料金を支払うようになったし、簡単なバイトも始められる年になった。
 余談だが、初めて緋馬が得た給料で買ってきた物はフライドチキンだ。お祝いだからご馳走にしたかったのか、単に帰り道で腹が減ってたからなのか判らんが、それが緋馬の選んだ大人の一歩なんだと思うと感慨深かった。
 飯だけでなく嗜好品だって自分から楽しめるようになった。
 そうやって俺が買い与えなくても自分で飯を調達できる年齢になったんだ。少しずつ立派な大人になりつつあるが、そんな中でもスリルと好奇心で不祥事を起こしていく彼の生活。懐かしさと羨ましさが湧き上がる。親の目の前で成長を見せつけやがって。立派だと思えた。

 暫く無言でベランダの煙を味わっていると、緋馬はごそごそとポケットの中をあさり、小さく折り畳んだゴミを手渡してきた。
 ガムの捨て紙かと思ったが、開いてみると保護者向けのプリントだ。
 A4の紙が折り畳みすぎて、みすぼらしい。折り目でか細い明朝体が読みづらくなっている。一つ文句を言おうとしたが、それよりも不自然さが際立った。
 緋馬は今年から、とある高校に通っている。校則は緩いとはいえないが厳しすぎもしない、マイペースにやりたいことを探している緋馬にピッタリな高校だ。
 保護者向けの広報が来ることぐらい普通だが、中等学校に比べ数は断然少ない。だから配布されるとしたら、重要なものであることが多い。その親元へ届けられるべき手紙を何故我が物顔でくしゃくしゃにしているのか。
 緋馬の顔を見る。表情を作らないようにしている表情だ。
 プリントの内容は、『授業参観の案内』。
 見たことのないものだった。
 日程は来週。妻が管理していたから知らないままでいたのかと思ったが、そういった報告は逐一してくる妻だから報告し忘れはありえない。こういったイベントは一ヶ月前から余裕を持って知らせが来るものだろう。あと数日しかない急な日程に驚く。もう一度、緋馬の顔を見た。

「それ、隠してたの」
「……どうしてそんなことした?」
「来てほしくなかったから」
「じゃあ、どうして今明かす?」
「それ、面倒なことに不参加表明もしなきゃいけないの。気付いたの、今日だったから。だから今日帰ってきたんだ。……サインちょうだい」
「そうか。何か言うことはないか」
「ごめんなさい」
「宜しい。とりあえず左腕を出せ」

 渋々出した緋馬の腕に、ピシッとシッペを食らわす。
 綺麗な音が夜の庭に響いて、緋馬は眉を顰めた。でも笑い始めた。腕は痛い筈なのに、違うところがくすぐったくなったらしい。
 もう一度、折り目だらけのプリントに目を通す。
 父兄参観の日程は、11月11日(金)。
 緋馬の誕生日当日。その日の夜は帰ってこないというので今日誕生日パーティーをしたんだ。
 そしてその日は既に違う予定が入っている。思わず緋馬に頭を下げたくなった。
 緋馬は緩い痛みに笑っているだけじゃなく、『授業参観に来てほしくない』から平気な顔をして誤魔化しているのではなく、敢えて口に出さない理由が、その表情にはあった。
 『俺のことが嫌いだから授業参観に来ないでほしい』なら、まだ思春期の子供っぽくて可愛いと思える。そうじゃない。
 変に聞きわけの良い大人だから、心苦しかった。
 苦しい理由がお互い、判っていた。

「何も考えなくていいよ。叔父さんは、あさかの方に行くんだから」
「……ああ」

 プリントに書かれている日程。11月11日(金)。その日は、あさかとみずほの学校に行く予定だ。
 実の息子、双子の兄妹が通う中学校の授業参観日がその日だった。
 既に仕事の休みはその理由で取っている。一日に二人分見に行くのは骨が折れるなと思っていた。だから三人になったらいくら魔法を使っても無理だ。瞬間移動の魔術で移動の短縮はできても、共に居る時間は無くなってしまう。
 緋馬は、元々立っていた予定を蹴らせるのは心苦しくなったという。「二人の相手をした方が良い」と思い、自分にも授業参観があることを言わずにいた。

「あさかは授業参観に来るの、楽しみにしてるから。だからそっちを優先させるべきだ」
「……そうか」
「そうだよ」
「……じゃあ、そんないかにも悲しいですって顔をするんじゃない」
「してないよ」

 誰がどう見ても今の緋馬は悲劇の色を灯している。けど首を振って認めない。
 これには笑わずにいられなかった。煙草を吸ったりなんなりしているが、こんなに強がりで子供っぽいなんて。
 無性に頭を掻き撫でたくなって手を出した。ぐしゃぐしゃに頭を撫でても嫌がる素振りもせず、その手はすんなり素直に受け入れられてしまう。

「今からあずまに休めるか掛け合ってみるか……」
「きっとダメだよ。おばさんは急にお休みは取れないっていつも言ってんじゃん。それに伯父さんは、おばさんと他人になるんでしょ」
「他人になるって言っても……」
「第一、高校の授業参観なんて面白くないって。誰も来なくていいからさ。叔父さんはあさかを見てあげなきゃダメだ」
「…………」

 ――俺が、息子のあさかの学生姿を見るのは、久しぶりだった。
 訳あって実の息子と共に暮らせなかった。あさかは入院生活を送り、その後も入退院と不登校を繰り返すようになってしまった。
 今では元気に学校生活を送っている。元気な学生の姿を見るなんて久しぶりだから、絶対に授業参観には行かなくてはと決めて……。

 かつて一人目の息子・ときわを家の事情で失った。
 緋馬とあさかとみずほをなんとか自分の手で育ててきた。でも事故であさかを失いかけた。
 未遂に終わり、少しずつ歩み寄ることができ、あさかの日常を修復しようと努力する日々。その苦労を、年長者の緋馬は全部見ていてくれた。
 ……出てくる隙なんて無いと、ちゃんと判っている顔をしていてくれた。

「おばさんは仕事に行かなきゃダメだ。叔父さんは約束通り見に行かなきゃ、あさか、泣くよ」
「もう十五になるんだからそれはねえだろ」
「じゃあ、行けなかったら叔父さんが泣くよ」
「俺はもう四十を過ぎたんだ、それもねえよ」
「だったら、あさかのところに行ってあげなきゃ、俺が泣くからね」

 それは、有り得る。
 聞き分けが良くて、甘えん坊。長男で大人びていて、子供っぽい。様々な角度から色んな姿を見せる緋馬に、何度も何度も心の奥で礼を言った。
 橙色の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、俺は大きく煙を吐く。ベランダに置いた灰皿を見ると、緋馬が無理をした灰が広がっていた。全然なっちゃいない。
 笑っちまう。なんて親想いな子なんだ。出来た義理の息子に、感謝しなければならなかった。
 普通にプリントを渡しておいて、『緋馬の学校には行けないんだ』と言われて『そうなんだ』と流せばいい話なのに。わざわざ自分が傷付けないようにプリントを隠して、こうして元から傷付いている心を抉って……。己の心を守るためにしたことが、裏目に出てしまったようだった。
 これで話はおしまいにしたがったが、やっぱり悔しさが残る。
 これほど体が二つあったらいいと思ったことはない。父親が二人になれないかと思ってしまった。

 考えて、「なにを馬鹿なことを」と自分を叩く。
 忘れたのか。緋馬は『既に父親が二人いる子』なんだぞ。
 緋馬自身にはちゃんと俺以外の親がいる。生きている。そのことを緋馬は充分に知っていた。俺が教えたのだから知っている。俺の言うことをちゃんと聞ける利口な子なんだから、必ず知っている……。

 夜も遅いから部屋に戻れと緋馬に言った。「おやすみ」と軽い口調で手を振る緋馬を見送って、俺は魔術で飛んだ。
 真っ直ぐに、実家へ。

 ……マンションのベランダは、10月になるとひどくひんやりと冷えていた。
 だが山奥の大自然の中にある寺院とは比べ物にならない。夜の気温が全然違う山に、都内に居た格好で訪れるのは失敗だった。急な温度差に風邪も引いてもおかしくない。庭には冷気が一面に漂っていて、思わず身震いをしてしまう。
 実家に帰るときは魔法など使わず、どんなに時間が掛かったとしても車を使って帰る。それが自分の作った外での生き方だった。
 だけど、今夜ばかりはそれを破ってしまう。
 すぐにでも仏田寺に帰って、会いたい人物がいたからだ。

 流石に結界を越えて境内に踏み入ることはできずに、山門の前に舞い降りて境内に入る。
 ふと寺の入口からとある建物を見ると、年若い一族の青年である慧がちょうど出てくるところだった。
 おそらく今日の修行が終わって解散した直後だったんだろう。端整な顔つきな慧は疲れた顔で、あまりサイズの合っていない装束を羽織っている。そして怪訝な顔で俺を見た。
 その顔は、とても疲れて生命力が失われかけているもの。
 元々顔色の良い子ではなかったは、石のように不格好な顔で立っている。
 今日は洋館の地下でどんな儀式をしていたのか、どんな痛々しい修行をしていたのか。狂信者の顔色からは察することはできない。
 だが緋馬やあさかやみずほが見たら怯えるような空気を、彼は纏っていた。決して息子達には見せたくない醜悪さを感じる。
 そんなことを思っていると、俺を見つけた慧が慌てて頭を下げてきた。
 普段は外で普通の暮らしをしている一般男性を装っているが、ここ一帯を所有する者……の弟だ。いくら安っぽいシャツを着てようが薄汚れたジーンズを履いてようが、偉いもんの元で生まれた事実は変えられない。

「すみません、藤春様。こんな夜遅くにお一人で……ようこそ、お帰り下さいました」

 少し乱れた装束を正しながら、線の細い慧はありきたりな挨拶を終える。
 声は震えている。寒さや怯えからくるものではない、真に疲労を感じさせる声だった。
 漂う彼の体臭からは、独特な薬臭さを感じる。一日どんなことをしていたかは判らないが、検討はついた。
 か弱い体格の彼が、絞り出すようにしなければ出せないほどの体で帰ってこなければならない事情があったということ。
 それこそが自分が最も忌み嫌った世界だった。

 慧に適当な激励をして、早々にとある屋敷へと入っていく。
 建物の中はどの季節でも風通しが良くて寒々しい。奥の方に行けば経でも読んでる松山さんや今日の会議を終えた大山さんが居るかもしれなかったが、そちらに向かわず、あまり人の通らない埃が舞う階段を下りていった。
 途中、様々な声に止められた。
 良い年をした昔ながらの僧侶。屋敷内を動き回れる下男。時に親戚、或いはそこを見守る使い魔や、次期当主・燈雅付きの主治医の青年まで丁寧に部外者の俺に挨拶をしてくる。
 マンションでは妻と子達ぐらいしか声を掛けられることはないのに、この家に居ると会話量が増える。それも何口かで追い返して、大きな樹の扉の前にやって来た。

「柳翠」

 あちこちに不自然な彫刻が施され、来た者を圧倒させる朱色の扉。
 庭に漂う冷気以上に「帰れ」と言うような無数の腕、筋肉隆々の戦士達、吠え猛る獅子の彫刻。不思議で不気味な入口だ。まるでピラミッドにチワワがいるような筋が通らぬ芸術が施された扉を、挨拶無しで開けてみせた。

 まず鼻に入ってくるツンとした漆の香り。その匂いが色んな汚物を隠している。パリの香水かよと思わずにいられない。
 床には彫刻刀や釘が放り出されているし、削り木があちこちに散布されていた。部屋の横を見てみると埃、埃、埃。食べかけの皿があれば、急須が空の状態でいくつも放り出され、茶葉もばらまかれていたりもする。漆の香りが無かったら、漂う空気は凶悪なものになっていただろう。
 この世の限りの醜悪さを現した一室。ここに訪れる度にそう思っていたが、今日は余計にそう思う。
 いつもだったら使用人の匠太郎が片付けている筈だが、どうやらこの様子だと匠太郎を数日この場に入れていない。
 それだけ奴が集中しているということだろうか。……世を捨てて。

「柳翠。生きているか」

 そんな醜悪な世界の中。唯一整えられた座布団の上で胡坐をかいて男が一人、筆を持っていた。
 小ぢんまりした生首を持って、その首の頬を赤く染めている。持っていたのはぷっくりと膨れた子供の顔で、少し雑に絵の具を頬に塗りたくった後に何度も溶かしている最中だった。
 人形師が生首の頬に熱を与えていく。
 神が子供に息吹を与えている瞬間に思えた……が、そんな優美な世界に浸っている場合じゃない。

「柳翠」
「何用か。言っておくが佐藤は無実だぞ。酒場のマスターに聞けば判るだろうよ」
「そうだな、後で使いを送っておく……って。お前の電波台詞を聞くのは久々だな。それはともかく聞け。お前、緋馬の学校へ行ってみたくはないか」
「何を突然。私はこうして今、彼女に第三の生を与えているさなかだというのに。私とこの娘の仲を引き裂くというのだな。嗚呼、怖ろしい、怖ろしい」
「第一第二の生があったのかよ……って聞かんか。来週緋馬の通う高校で父兄参観がある。それに行ってみるつもりはないか」
「無いな」
「即答かよ。……お前、父兄参観の意味が判らんこともなかろう。父親の仕事だ、行ってこい」
「ははは、兄者よ、思い出してくれ。我が父上はその仕事とやらをしてくれたか?」
「……いや」
「だろう? 世にしない親もいる。大勢いる。私もその中の一人だ。何がおかしい」
「それだと、緋馬もいずれ行かぬ親になる」
「はて。それほど強制力のあるものか、その参観とやらは。我々が特別でも無い。それに、それらを完全否定してしまったら、兄者は嫁殿をも非難することになるぞ?」
「そんなつもりはない。ただ、俺は、お前に『父親』をさせたいんだ」
「緋馬の父親は兄者であろう」

 呆気なく、至るところを墨で汚した着物を纏う男は言い放った。
 戸籍も血も、全て間違っていることを、彼は言ってのけた。……ここに自らを捕えている柳翠という男は、そういう人間だった。
 まるで本当に自分がそうではないかと思いたくなるほどの自然な口ぶり。しかし、事実は違う。全く違う。俺にとって緋馬は甥で、緋馬にとって父は、ここで胡坐をかいている男でしかない。
 柳翠の虚言を振り切り、言い返す。

「緋馬の父親は柳翠、お前だ。お前しかいない」
「緋馬も可哀想に。父親を父さんと言えずに育てられたか」
「だから、実の父がこうしているのに何故俺を偽りの呼称で呼ばせなければならん」
「実際に育てている父は、兄者だ。親として彼を支え、親として迎えているのも兄者。そこに私はいない。緋馬も兄者を父兄として指差すだろう、当然のように。私のことなど微塵も考えぬ。当然だ、そのようなことしておらん。自慢ではないが私はオシメも替えたことがないからなあ」
「……全然自慢にならないぞ」
「自慢ではないと言うたであろう。赤ん坊の奴を抱いたのは兄者だ。母として慕ったのは兄者の女だ。奴が親と思うのは貴方達夫婦だ。今更、私に何をしろと言う」
「何をしろ? 俺は、『寄り合え』と言っている。お前はそれができる。お前らは二度と会うなと運命付けられていない。死が分かったのでも法が縛ったのでもなく、自ら壁を作って見ようとしないだけだ。その壁は脆い、直ぐにでも壊せる。声だって直ぐに届く。出来ることを何故しない。その機会が作れないのなら用意してやる。そう思ったから今日、俺は……!」
「壁を作ったのは認めるが、この壁は自信作だ。壊すのは勿体無い。緋馬もそう思っているのではないか?」
「緋馬は壁の存在さえ気付いていない。お前が訳あって離れたことも理解していない。知っているのは、叔父である俺が育てているという事実だけ。父がこうして会える手段を持っていることも知らないんだ。……柳翠、お前が向き合わなければ緋馬は何もできないんだよ。どこにも進めないんだ。人は人を認識して初めて関係を持つ。お前がここに俺が立っていると思わなければ、俺はここに立っていないように」
「いきなりどうした。哲学者の真似事か」
「引用するはタダだろう? 本来の父親が目の前に現れなければ、子は考えることもできない。まずはスタートラインを引かなければ、歩き出すこともできない。走る前に行く先がなければ何も生まれないんだから」
「ふむ。捲くり立てて私を説得しに来たか、兄者は。要は、緋馬と直接会え……それだけだろう」
「そうだ。それだけなんだ。緋馬が立つ道の先にお前が居てほしい。実の父親がいることを彼に教えなければならん。でないと、ずっと俺は『叔父』と言う名の父親だ」
「それの何が不満か」
「不満だよ。……嘘だから。心優しくあいつの父として守ろうが、嘘には違いない。向き合える事実は向き合ってほしい。お前らにはそれが出来るんだから……」



 ――2005年11月9日

 【     /      /     /     / Fifth 】




 /4

「今日は俺に付き合ってください」

 ルージィルさんに出会い頭にそう言って返事も曖昧なまま、隣を歩いてもらった。
 こんなことでいいのかと彼は不思議な顔をしていた。でも優しいルージィルさんは言われた通りに隣に居てくれた。
 そんな、たった数時間の幸せ。
 たとえ数時間でも、他の人から見たら内容の薄い『一緒の時間』でも、俺にとってはデートのつもりだった。
 デートをするほど彼と俺は仲良くなっていない。俺は少しずつ彼に近付いている気でいるけど、やっぱりそれも、他の人からみたらとっても内容が薄い。
 人並みな愛の時間が過ごせるほど、仲は進んでいないかもしれない。
 それでも、俺なりに彼と交流を積んだ。食事もした。贈り物もした。お話をした。いっぱいした。

 お仕事大変ですね、とか。――そうでもありません、魂の収集は我らの使命ですから。
 いつからお仕事してるんですか、とか。――昔からです。
 休日は何をなさっているんですか、とか。――私に休日はありません、使命を果たしているだけです。

 色んなことをお話した。彼は三分咲きの口角を上げた微笑みを崩さず、いつでもにこやかに全く表情を変えず……無感情の笑みで、俺の質問に答えてくれた。
 どこまでいってもルージィルさんは綺麗な人だった。

「あの。俺……!」

 どこかで「進展しないといけないな」と思ったから、行動に出た。
 寺の外に誘った。なかなか首を縦に振ってはくれなかったけど、ときには強引さも必要。何度も何度も寺の外で遊ぼうと提案した。
 ついに了承してくれたから、暫く歩くだけのデートをした。人混みを嫌う彼のために、なるべく人通りの少ない場所を狙って歩いた。それでいい。
 洋館の食堂でテーブルを挟んで話すより、庭園で小さな池や橋を挟んで話すより、ずっと進歩だった。

 同じ時間を過ごすことが愛への近道。でも違う時間を過ごさなきゃ愛は前に進まない。
 寺の外に出ただけ俺は大したもの。いつもと違う環境、いつもと違う景色。それだけで、話しているだけのいつも通りとは違う一歩先に行けた、筈だ。

 あの、どうして『陽平様』なんですか。――仏田一族の方ですから。
 でも、分家の中でも下っ端の下っ端ですよ。――それでも、仏田一族の方ですので。
 様付けされるような男じゃないので、呼び捨てでいいですよ。――結構です。

 これでも、前に進めた方なんだ。無視されていない、一つ一つ応対してくれているのがその証拠。
 公園で、それなりの量の話をした。俺は楽しかった。前に進めて嬉しかった。彼は楽しんでくれたかは、恥ずかしくって顔を見なかったから判らなかった。
 そう、良い天気の公園を歩いているところで、「何気なく手でも繋いでみたら急接近できるかな」……と思って。
 気を失った。



 ――2005年11月9日

 【     /      /     /     / Fifth 】




 /5

 内臓プールの中で、男女は抱き合って眠り始めた。
 いつものことだ。あの二人はまるで恋人同士の楽しい時間を過ごすかのように、試験管でいつもはしゃいで眠る。
 大抵の被験者は先ほどの弟(陰鬱な顔をしていた慧のこと)のように苦々しい顔つきであそこに入り、やっと終わったという解放感に満ちた顔で去って行くもの。
 明るい性格の芽衣や福広だって、ここでチェックされるときは「面倒」や「だるい」など負の言葉を吐きまくる。吐きながらもやって来て、出て行く。『機関』の者なら『機関』に協力するのは当然のことだから、「従わない」という選択肢は無い。逆らうことなど出来る訳無いが、文句を言うぐらいは自由。みんな苦い顔をしてここに集まり解散するものなんだが。

 複雑な心のぶつかり合いがあったりなかったりするのが、この世界。
 その中でも異彩を放つのが、あの二人。彼と彼女だ。
 みんなすっかり慣れてしまったことだが、二人は異質なものには変わりないので時々、我に返った僧が不思議な顔をする。
 あの楽しそうな二人は何だろう、と。
 あれ、なんなんだろ、って。こんなところでランデブーって……。

 ――ああっ、ホントは俺だって早くこんなところバイバイしたいよ! シロンと一緒にお風呂入りたいよ! なんだよ慧の奴、すぐに帰してもらっちゃってさぁ……! 陽平も遊びに行きやがって! ロクな相手もいないくせに!
 実際叫んだって何も起こらない。何も生まれない。だから俺は叫ばず、お仕事モードを続ける。

「はいはい、みんなー。おっぱいに見惚れてないで仕事を終わらせよー!」

 ぼーっと男女を見ている研究者達のケツを言葉で蹴り上げた。笑顔で。
 するとみんな動き出す。

 ――ほら、みんな帰りたいんだろ? 俺は早く帰りたいよ。やんなきゃいけないことをちゃんと終わらせて、怒られずにさっさと帰りたいよ。あーあ、慧は良いなぁ。言われたことやれば良いんだから。
 こっちは年末までに巧いアイディアが出なかったら処罰になるし、面白い結果が出なかったら叱られちまう。常に上昇し続けなきゃ酷い目に遭うっていうのに。慧は薬飲んで終わりだろ? 良いなぁ。そりゃ、えっちするのが多いのは同情するけど。そんなのたまにだし……。

「はあ。いつも元気だね、瑞貴」

 別に好きでハリキってるんじゃないけど、そうしないと和が乱れるからやっているだけ。……そんなことは決して口にしない。

「そうでもないですよー」

 振り返ると、白衣の先生が立っていた。
 「はあ」なんて開口一番に溜息を吐かれたが、それはこの人の癖なだけ。彼はなにかと疲れたように「ほう」や「ふう」と呼吸を合間合間に入れる。いつも疲れているようだ。
 それもあってか、眼鏡を掛け少しよれた白衣を着ている中年の彼は、『機関』に入り浸っている僧の中では一番の年寄りに見えた。しゃっきりと背を正し、寝惚けたような顔を洗えばそれだけで十歳は若返りそうなのに。
 事実、五十歳を過ぎた研究者は彼の他に数人しかいないので、年寄りと思われても仕方ない。でもあまり年寄り扱いされないのは、誰よりもここ、『機関』を楽しそうに闊歩しているからだった。
 もし「姿勢を正せば十年は若返りますよ」と言ったとしたら、彼は「ならあと十年は研究できるね」と喜ぶかもしれない。冗談でも「顔を洗えば十年長く生きますよ」と言えば、その通り従うかも。彼はそういう人間だ。

「夜須庭先生。先程までのデータでしたら書類ができてます。そちらを見てください。俺のところに来なくてももう平気なんで。お急ぎでなかったら確認をお願いしたいんですが」
「あのね、瑞貴。話があるんだ。月彦達のことはいいからちょっと来てくれないかな」

 普段の仕事は置いておかれた。ついキョトンとしてしまう。
 周囲の男達もそう思ったのか、「はて?」と顔を見合わせていた。

 所変わり、夜須庭先生はいつもの機械の前に腰掛けた。俺も彼に言われた通り、先生の隣の席につく。
 室内には数人が居たが、先生は腰を下ろす前に彼らに席を外すように仕向けた。誰よりも年寄りでここ、『機関』の準責任者と言ってもいい彼の命令となったら、いくら作業が途中でも僧達は出て行くしかない。誰一人嫌な顔をせず命令に従い、機械と魔道具の畳部屋を後にしていった。
 単なる世間話だけなら『機関』の外に出て茶でも飲みたいところだけど、重要な物が多いここは飲食禁止。汚がしてはいけないものが多すぎる場所だった。
 そんな場所で話だ。緊張感が走る。「俺、何かしたかなー?」「長い話じゃなきゃいいなー」と考えながら、真正面に居る彼に「何でしょう? 何かありましたか? 困ったことでも?」と、無駄にハキハキと問う。

「ああ。ふう。そのねぇ」

 緩い呼吸の後、内容の無い自問自答の相槌。

「困ったこと、かなぁ。なあ、瑞貴」
「はい」

 彼は仏田一族の血は引いているものの、数代前の当主の血を引くだけの遠縁だ。殆ど部外者と言ってもいい彼が『機関』の総管理人(あくまで「準」が付くが)をしているのは、全て実力があってのこと。中身は凄い人なんだが、平凡な外見とかっこつかない言動が、そうは見せないようにしている。
 俺は先生のことをそんなに嫌いじゃない。「仏田の遠縁」ってだけで他の連中より好感が持てる。それも、「無関係者」に比べたらずっとランクは下がるが。
 それに冗談でも「先生のことが嫌いじゃない」とか「好き」なんて言ったら、三つ子の弟にズタズタに刺されるかもしれないし。嫌じゃないけど、関わらない方が良い人だと思っている。お互いの為にも。気分良く生きていくためにも。

「私はね、瑞貴を気に入ってるんだよ」
「……は?」
「好意に値する」

 ところがいきなり告白をされた。
 俺の知っている彼は、そういったことはあまり言わない人だった。だから余計に聞き返してしまう。
 もしこれを慧が聞いていたら。怒り狂うか? 泣き叫ぶか? 辺り一面血の海にするか? 平穏に生きていこうとは思わないのか、この人は。俺がにこやかに日常を過ごしているのは、荒波に呑まれないように努力しているからだというのに。

「ところでね、神が発見されたんだよ」
「……え……?」
「はあ、驚きだよね。私も初めて聞いたとき驚いて目が飛び出しちゃったぐらいなんだ。眼鏡があったからぶつかって平気だったけど。なーんてね」
「先生、もう一度お願いします」
「なーんてね」
「そこじゃなく」

 判ってるよ、と先生はフフフと笑って俺の聞きたかったことを言う。

「神が発見されたんだよ」

 耳に入って留まらなかった言葉を、ありがたいことに全く同じ形で言ってくれた。
 その数秒前の告白は何だったんだ。単なる話のウォーミングアップか? なんて無駄な。いや、それよりも。

 彼は語る。
 ――神が発見された。産まれたのではなく、産まれていた。十二年も前に。
 仏田の敷地内でなく、この街でもなく遠い世界で、仏田の求めていた神は産まれていたらしい。
 強い魔を持ち、あらゆる異端を引きつけていた。伝承にある『紫の眼』をした人間。『赤い髪』をしている小さな『女の子』。誰の子だと聞けば、前当主・和光様付きの使用人の孫らしく、つまり和光様の隠し子の子である可能性が高いという……。
 そして、その娘は……予定では、年内には仏田寺にやって来るらしい。
 やって来るというか、本来居るべき場所に帰ってくるというか。
 一度も足を踏み入れたことのない仏田寺に、帰ってくるのだという。

「そうですか。それは、大ニュースですね。まだみんなには知れ渡ってないようですが」
「はあ。そうだね。そうだねえ」
「最新ニュースですか。……まだ公開は早いニュースなんですね。そうか、みんなに公表するにも準備が必要ですか。しかし喜ばしい。おめでとうございます」

 第六十二代当主・光緑様の代では、誰一人女児を作り出すことはできなかった。
 光緑様の弟君らも、大山様ご兄弟も、一本松様ご兄弟も、全員男だった。数年後にやって来る出産ラッシュに賭けるしかないと皆が思っていた。
 そこに女児の姿があっただなんて、何の隠しようもなく実に喜ばしい話だ。

「今日だってお隣の部屋で悟司様らが頑張って女児を作ろうと何人も女を弄っていたそうじゃないですか。でもあの様子だと、諦めて優秀な男児を作る方にシフトしてたみたいですけど。心配事が一つ減りましたね!」

 良かった良かった、と喜んでおく。
 隠し子。外の子を引っこ抜く。そこには複雑な問題があるかもしれない。
 だけど一族が数百年願い続けていた大勢の悲願が、妙な形であれ叶ったんだ。望まれた命を祝福して何が悪い。悪い話じゃない。素晴らしい。何度も手を合わせ、まだ見ぬ女神に拝んでおく。
 そんな俺に先生は手を伸ばしてきた。
 何に? 俺の首元にだ。
 首元に不潔な指が近付く。
 咄嗟に俺は火炎術式を唱えた。

「こら」

 炎を目の前の男性に放つ。だが、一瞬でその炎は掻き消された。先に俺が呪文を唱えた筈なのに、先生の詠唱の方が先に終わったからだ。
 仮にも一族の生まれである俺の自慢の炎は、血の薄い一族の小さな炎により打ち消された。
 こればっかりは経験の違い。俺より先生の方がその呼び名の通り、先に生まれて多くの実績がある。攻撃にどう対処するか、その攻撃をまたどう対処していくか。知識があっても、所詮研究所務めでデスクワークの俺は、同じデスクワークでも修羅場を潜り抜けてきた彼より早く動けない。
 そんな状況説明はおいといて。
 説明を求めなきゃいけないことがある。

「…………なん、ですか、先生?」

 俺は席についた身を、後ろに下げた。
 まだ腰は上げない。でも先生が手を伸ばしても届かない位置まで下がる。
 ……彼のことは嫌いじゃない? やっぱ訂正する。
 こいつも嫌な家族だ。気持ち悪い血だった。

「はあ。私はただ、君に触れようとしただけじゃないか。……ねえ?」

 それでも俺に触れて害そうとしたことには変わらない。
 動くと同時に使い魔を呼んだ。シロン。……名前を呼んだが、シロンはマスターである俺の声に応じることはなかった。一気に血の気が引いていく。
 ――シロンが、無視した? 俺を? なんで? なんで!!!!!!!!!!??????

「ふう。ここでサーヴァントを呼んでも無駄だよ。この部屋に入ったときからそう細工をさせてもらったから。……こら、瑞貴。そんな顔をしない。君は殺気だけで人を殺せそうなほど恐ろしい負を持っているんだから。先生、怖くて何も話せなくなるよ」
「そうですか。失礼しました。ところで俺、もう仕事に戻っていいですかね?」
「駄目だよ」
「みんな、俺が居なくて困っていると思うんです。ほら、俺って何でも受け持っちゃってたから頼りにされちゃって。だからあんまり席を外すと大変だと思うんですよ」
「"黙りなさい"」

 心臓を鷲掴みにされた。

 骨が軋む。脳味噌を搾られる。目玉を硫酸で溶かされる。
 ありえないけど、一秒でそれらの感覚が押し寄せる。

 がくんと体が重くなり、俺はガハッと血を吐いた。
 大量の血を、中身を全て吐き出す。

 いいや、実際には何も吐いてない。痛みはあっても傷は無い。
 今までのは例えで、それらの拷問を受けたような、今から受けなきゃいけないような嫌悪感で吐き気がしただけ。『目の前の人の言うことさえ聞けばそんなの、しなくなる』。
 上げそうになった腰を深く椅子に乗せた。そうすれば、何も無い。

「ごめ、な、さい」
「判れば宜しい」

 ……スイッチを押されなければ、何も起こらない。
 痛い想いをしたくなければ、押されないようにすればいい。
 そうだ、『子は、大人しく親に従えばいい』。『そういう風に機関は子供を作った』。……それだけのことだった。

「先生が君をここに連れてきた意図を読み取ってもらえないかな。第一、こんな所で魔術を使ったら、重要な魔導書や魔道具が燃えてしまうじゃないか。ふう、ヤンチャの瑞貴に自重してもらいたくってここを選んだんだけど……君はどんな場所でもお構いなしか。危ない子だ」

 ――そんなところだけは、慧と似ているんだね。ちっとも似てない三つ子なのに。

 先生は、困ったように笑う。落ち着いて座りなさい、と言われた。命じられた。……スイッチ込みで。
 そのスイッチが押された間も、鼻に槍を押し込められた。氷のつららを耳に刺して右から左へ貫通させられた。口いっぱいに爆弾。毛穴という毛穴に毒。……そんなの実際には何もされてない。けれど、一年中その拷問を受けたような苦痛が俺の体には蠢いていた。
 とあるスイッチを押せばいつでもこの苦痛は生じる。
 この苦痛で親は子を、確実に正しく素直に従えるように設定してあるものだから。
 痛い想いをしたくなければ従え。猿や犬でも出来ることだから、選ばれた人間である俺もする。
 保身のために。
 それが、『機関』で生まれた子供が特注品である理由の一つでもあった。

「はい、はい、瑞貴、深呼吸だよ。久々のお仕置き、そんなに辛かったかな。呼吸の仕方、忘れてないよね?」

 ……俺は、『機関』出身の中では模範生だ。
 慧とは比べ物にならない弱さだけど、慧なんかと比べ物にならないぐらい優等生な態度で皆に接してきた。それを買われて、弱者でも中心人物として『機関』の中を歩けた。
 慧のような問題児でもなければ、陽平のように平凡なまま落ち着こうとしている奴でもなく、福広や芽衣のような文句を言いながら『機関』に従う馬鹿達とも違う。一緒にするな。俺は良い子だ。能力は三つ子の弟に劣るが、実験体として見られてるだけの弟達に比べ、扱いがてんで違う。
 優秀だろう、問題なんて何も無いだろう。だから、仕事以外のときは俺を構うんじゃない。
 構われたくなくて、模範生を気取っていたのに。……滅多に使われないスイッチに戸惑い、息が荒くなる。
 ああ、目の前に居るのが熟練者なのは知ってる。ここで何かしたら処刑人に即処罰されるのも判ってる。この男の罪は、馴れ馴れしく俺に触ろうとしただけ。それだけ。よくあること。許してやろう許してやろう許してやろう。何度も自分に言い聞かせた。

「我らが神の登場については、来年の1月1日に公表なさるそうだ。そう大山様がおっしゃられていた」
「…………そう、ですか」
「だから、このことを知っているのは一部だけ。はあ、そうだねえ。知っているのは大山様、狭山様、一本松様。ふう、一本松様のことだから銀之助様にも言っているかも」
「…………光緑様は?」
「ちょうどお眠りになっている最中だから、まだ。でも目覚め次第報告するだろうよ。いつお目覚めになるかは存知上げてないけど。元老の方々にもまだ内緒にしているらしい。燈雅様と悟司は知っているかな。彼らがお喋りじゃなければ、周りの子達は知らないだろう。燈雅様は男衾に話してそうだし、悟司は芽衣あたりが嗅ぎつけていそうだが」
「…………見事に上層部の方々ですね。それと、貴方、夜須庭先生がいて……層々たるメンバーだ」
「あと、鶴瀬。彼が『田舎の女児が我らの神だ』と調べ上げたんだから、知ってる。そして、君。瑞貴」

 『本部』達に、次期当主、次期『本部』の中心人物と名高い者、それに『機関』の管理人。一族の有名人ばかり。
 付け足した鶴瀬という名も有名だ。現当主の秘書のようなことをしている幹部じゃないか。外の一族の生まれだが、光緑様の義理の姉の子だ。仏田とも正式に契約を交わしてはいないがそのうち血を書き換えると言われている。
 そんな中で俺は、『機関』でまあまあな成績を残しているとはいえ、そこに仲間入りするには地味過ぎる。場違いな存在だった。

「さて。ふう、さっき何をしようとしたかと言うと」
「…………」
「命令だったら必ず『赤紙』のような紙面で準備するけど、今から話すのは命令じゃないんだ。これはね、お願いなんだよ」
「……お願い、なんて」
「ただこのお願いは、私の話を一度でも聞いたら絶対に従ってもらわなきゃいけない。従わないなら専用の契約をして絶対公言しないと約束してもらわなきゃ。それに、決して紙面に残せないお話なんだ。だから」

 彼は再度、俺に手を伸ばしてくる。

「私の指を通して、君の体に直接語りかける。口に出さず、君の中に私の語りたい言葉を流す。これなら君がバラさない限り秘密のやり取りが成立する」
「先生。なんですか、『それ』」

 今から言うのは命令じゃない。お願い。
 ただ、絶対に従わなきゃいけない。従わないなら面倒なことをする。紙面にして形を残しておくことも許されない。
 ……そう、威圧感ある年寄りの声が言う。
 なんだかまるで、悪行に引き摺りこむようじゃないか。……この模範生を、優等生な俺を、犯罪に引っ張りこもうとしているようだ。

「先生。俺は『機関』出身ですよ。あの試験管ベビーですよ」
「そうだね。一本松くんが武里さんに孕ませた結果、君のような逸材が産まれた。ちゃんと知ってるよ」
「それでも『機関』の子なんです。さっきみたいにスイッチを使って命令すれば、疑うことなく貴方の思惑に従うのに。そうもしないでわざわざこんな回りくどいことをするのは、何かの企みでもあるんです?」

 手を出す前に、もしくはそこから逃げ出す前に問い質す。
 今度は笑わず、真剣な眼差しで彼に問う。
 すると元から愉快なことを言っても楽しそうにしない声の人が、フフッと笑って目を細めた。
 俺は今にもスイッチを押されそうな雰囲気に恐怖し、胸を抱く。本当に何もされていないのに脈打つ心臓を必死で抑える。

「はあ、あのね。……洗脳は、もう飽きたんだよ」

 楽しそうな顔をしている。いつも笑っているけど、そんな表情、久々に見た。

「洗脳、ですか。慧のことですよね。慧に飽きた、と?」
「慧には飽きてない。好きだよ」
「おや、意外だ。慧のことは好きでしたか。『先生が慧の恋人をしてあげてる』ってみんな思ってましたよ。騙されてるのは、慧本人だけだと」
「恋人。はあ。いいじゃないか。私は離婚して独り身だし。それにあの子は半分好きだよ」
「半分……」
「半分『彼』だから好きだよ」
「半分、だけですか」
「そうだね。半分は別人だから、どうでもいい。……ああ、それだと半分以上『彼』な人間の方が好きなことになるな。……まあ確かに、ブリジットのことは好きだからいっぱい苛めてあげたさ。でも弟は一本松くんに全部あげちゃったし、微妙なラインだなぁ。」

 ブリ……? 聞いたことある名前だ。一体誰だと記憶の山を掘り起こす。
 確か……十年ぐらい前に狩ってきた能力者の子供がそんな名前だったような気がする。十年前に子供なんだから生きてればもう大人だと思うけど。

「スイッチで慧を従えるのはとっくの昔に飽きたけど、必要だからしているだけ。使わないと慧は言う事を聞かないからね。嫌でも、今年まではちゃんとお付き合いしていかないと。みんな家族だからね、最期まで家族は仲良くしていかないと」
「……意味が、よく判りません」
「ふう。それはね、君が何も知らないからだ」
「知らない人に向けて親切な話をしてないからですよ、先生」
「何故って君が協力してくれるよう、興味をそそるように話しているからね、今の私は。それに君は、私と同類だと思う。だから誘っているんだよ」
「何の。……何に」

 何度も問い続ける。
 すると不意に、瑞貴、と低く名前を呼ばれた。
 彼は眼鏡を少しずらす。リラックスして話をしたいだけなんだとアピールされたようだった。
 呼吸が乱れている時点で俺にリラックスなんて無理だ。それなのにこの人は。
 この声に一喜一憂している慧の気がしれない。俺達の親父や銀之助様と同じようなもの。これが支配者の声そのものだって、慧はなんで気付かないんだ。

「全部、真っ白くしてみたくはないかい? さあ」

 今度は唐突に俺の首を狙うことはせず、握手を求めるように右手を差し伸べてくる。
 眼鏡の下の目は笑っていた。口角も上がっている。でも声が、あまり愉快な色をしていなかった。
 どうせここで「嫌です」って言っても三度目のスイッチがあるんだろ。シロンが居てくれたらどうにかなったかな。いや、主が更なる主に負けてるんだから、底辺のシロンが勝てる訳ないか。
 手を取るしかない。

 右手を素直に掴もうとしたとき、予期せぬタイミングで部屋の障子が開かれた。



 ――2005年11月9日

 【     /      /     /     / Fifth 】




 /6

「ねえ、つっきー。ワタシ、つっきーのコト、好きよ」

 赤い海の中、沈みながら彼に言う。女と男、あと男がくれた手拭い。二人と一つが赤の中を抱き合い、漂い、くるくる回る。
 彼は目を瞑ったまま。眠りに落ちながら漂っていた。だから声を掛けている女声には応えない。柔らかい女の体を抱きしめたまま意識は還らない。

「つっきーのコト、好きよ。つっきーのコト、好きになったの。つっきーがワタシのコト好きだ好きだって言ってくれたから、つっきーのコト、好きになっちゃったの。……悲しいわ」

 ぎゅうっと男の体を抱きしめる。まだ、何も始まらない。
 でももうすぐだと、力無く海に揺れる腕を掴んだ。

「……みんないっしょになる。でも。つっきーに会えなくなるなんて、悲しいわ……」



 ――2005年11月9日

 【     /      /     /     / Fifth 】




 /7

 ――真っ暗闇の夜の中で、目を覚ました。

 目を開ければうっすら夜空。星はそこそこ、黒い雲月の間をぬって月が見える。
 頭の下には枕なんて無い。硬かった。寝ながら伸びをしようとすると、寝ている場所が不安定なことに気付き、気付いたときにはもう段差から落っこちていた。
 三十センチぐらいの高さから、ドスンと土へ落ちる。

「痛、い」

 声が小さく口から漏れた。あまりにその声が小さすぎて、自分のことながら違和感に襲われる。
 たった数センチの段差とは何だと見てみると、公園のベンチだった。どうやら俺は公園で眠っていたらしい。
 起きていた記憶があるところまで遡ってみる。記憶の中にある今日は、確か快晴だった気がした。でも今、落ちた場所で空を見上げてみれば夜空がこんばんは。どんだけ外で眠ってたんだと自分にツッコみたい。
 一人で馬鹿をしないで冷静に腕時計を見てみる。デジタル時計はやっぱり今夜の訪れを告げていた。
 つらい。
 時計を見ようと腕を持ち上げたとき、物凄い疲れを感じた。
 ただ腕時計を見ようとしただけなのに、途轍もない疲労感。つらい。苦しい。胸が痛い。
 唸って動けない。地べたに座り込んでいるのは汚いなと思って立ち上がろうとする。でもなかなか体に力が入らない。そんなことを数分していると、近くに何者かの気配を感じた。

「陽平様」

 幸い、首を動かす力は残っている。
 だから声のした方に首を向けてみると……そこには金髪碧眼、長身の綺麗な男性が立っていた。
 ルージィルさんだった。

「ル、ジル、さん」

 俺が今日デートを申し込んだ、静かな男性だ。

「目覚めましたか」
「……あ、ハ、イ」
「そうですか。缶コーヒーはいかがですか」
「……い、ただ、きま、す」

 淡々とした言葉。そして俺は、たった一音の会話でそれらを繋いでいく。
 一言一言。言葉にもならない音の羅列。人間らしからぬ行為に恥ずかしくなる。
 いつも通り喋りたい。それなのに体がいうことをきかなかった。
 声を出すのも辛い。返事なんてものは自然に出来るものだと思っていたのに、「ハイ」もロクに言えないなんて。それほど疲れていた。
 でもこの尋常じゃない疲れはおかしい。カラオケに行って喉が嗄れたという訳でもなく声が出ないなんて。マラソン完走の結果足が棒になったという訳でもなく動けないだなんて。
 体が悲鳴を上げているのとも違う。まるで身体全体が、機能停止してしまったようだった。
 喉も足腰も、心臓や脳でさえも止まったかのよう。そんな訳無いし、もし心臓や脳が止まったら夢から覚めることも出来ないのに。これは飽くまで比喩なのに、その例えは軽くスルーできなかった。

 ルージィルさんから缶を貰う。貰った瞬間、あまりの熱さに驚いた。
 そりゃ今の季節、コーヒーを買ってくるって言ったら自販機の「あったか〜い」を選ぶだろうよ。「あったか〜い」が熱いのは知っていた筈だ。でも今までその事実を忘れてしまったのは、気付けなかったのは……ルージィルさんが普通に缶を持っていたからだろうか?
 彼の手を見てみると、いつもの手袋をしていた。見るからに、とても厚い手袋だ。
 夜中だと何も変に思わない。けど、青空の昼間でそんな手袋をしていたらおかしい。……だから、昼間はしてなかった。いつもはルージィルさんは手袋をしているけど、今日はしてなかった。それはよく覚えている。

 俺が言ったんだ。
 今日は暖かいから外してもいいんじゃないですか、って。
 いえこれは、と断るルージィルさんに、何度も言って外してもらった。
 外して数時間経って。珍しく肌を出しているルージィルさんに(自分がさせたというのに)ハッとして。……そう、珍しく手袋をしてなかったから。
 俺は……。

「陽平様。立てますか、立てませんか」
「あ、……」

 ハイ、と言おうとする。
 でもそれが嘘になるとすぐに判って、言えなかった。
 今もまだ、コーヒーを受け取っただけでベンチに戻れず、地べたで彼を見上げている。そこから動けないんだ。這いずることすら無理。立つなんて高等な真似もできなかった。

 夜の闇の中、彼の顔はなかなか見えない。冬の公園の灯りはとても貧相なもので、彼の顔色や細かい表情が追えなくなっている。彼と言えばの金色の髪も、美しすぎて怖い碧色の眼も、あんな灯りでは見ることもできない。
 でも正直、顔をあわせてると照れるので、これくらいの暗さが丁度良いかもしれない。
 背の高い彼は立っていて、俺は公園の地に座っている。
 その距離は一メートル以上。二人で話すには少し遠い距離だ。
 なんとしても立ってみたいと思ったが、体がぐらぐら動くだけで終わってしまった。
 でも時間を置いたおかげか、感覚は少しずつ戻ってきている。正座を数時間して痺れて動けないぐらいには回復した。だからもう暫く地面のお世話になることにする。
 俺は地面に座り込んだまま、見上げた。闇によって見えなくなっていく彼の顔をこっそり見ようとする。

 少し悲しそうな顔をした……のは、俺の気のせいだ。
 寧ろ妄想だ。彼は何事も無かったかのような綺麗な顔をしている。
 ああ、本物の外人さんはウチのエセ金髪(色抜きした不自然な髪の連中)と違って、ホントに綺麗な色だなぁ。ルージィルさんを見るたびに何度も思ってしまう。どんな顔をしていても全然変わらなくても、彼を見るたびに「綺麗だなぁ」という心だけはいつまでも変わらなかった。
 彼が悲しいか悲しくないかは闇の中では判らない。
 一方、俺は……少し悲しかったりする。

「……ッ……」

 彼は、俺を立ち上がらせようとしない。
 手を指し伸ばして、「大丈夫ですか」の一言もない。
 さっきも俺の状況を確認するために声を掛けただけだし、眠っているところを揺すってくれれば夜まで起きないなんてことはなかった。今まで完全放置だったんだ。
 わざわざ俺の為に缶コーヒーを買ってきてくれた。そこは感動したいところだけど、俺はコーヒーなんて大人っぽいもの飲めない。コーヒー牛乳だってあんまり好きじゃないんだから、無糖なんてもっての他。これは自分用に買ってきたのをくれたと考えた方がいい。冬の夜だからルージィルさんが飲みたくて買ったもんなんだ。俺が起きちゃったからくれたんだ。そう思った方がいい。

 ――それでも、俺にくれたんだ。
 指先に神経を集中させ、なんとか缶を開ける。口付けて、熱さを確かめた。……熱い。苦い。
 それよりも悲しいが強かった。

「陽平様。これからタクシーを呼びます」
「……は、い?」
「運転手に公園のベンチまで来るよう連絡しますので、それまでもう暫くここで待って頂けますか?」
「…………」
「身体が痺れて動けないのでしょう? それは半日……酷いときは三日続きます。ですがそれほど症状は重くないようなので、明日には完治します」

 俺がこんなことになった原因は、彼に触れたから。
 これは教わっていた話。何度も注意されたこと。……月彦のカノジョさんが丁寧に説明してくれたこと。「決して触るな」と幾度も彼が言ったこと。
 でも俺は我慢できなくて、結果、最悪なことになっている。

 ――「こうやって誰かに肌と肌が触れちゃうとね。バチンてなる。相手は死んじゃうのよ」。
 ――「魔術を学んで火を出す人間はいる。学んでないのに火を出す人間もいる。火を出そうとすると出せちゃう人間がいる。火を出そうと思ってもいないのに出ちゃう人間もいる。知りたくなくても心が読める人間もいる。人間以外の声が聞こえてしまう人間もいる。相手に変調を与える力を持った人間もいる」……。
 カノジョさんだけじゃなく、一番最初にシンリンさんにだって言われたのに。……本当にこうなるとは。

「このまま動けない状態ですと公園で一夜を過ごしてしまう。深夜は氷点下になりますからね。その前にタクシーで送ってもらえるようにしましょう」
「あの……」
「では、さようなら」
「……ちょっと待ってください」
「タクシーに必ず連絡します。貴方を置いて見捨てるなんてことはしませんよ。ご安心を」
「……待って、ください。……お願いだから」

 問答無用で去ろうとする彼を、演技がましい悲痛な叫びで止める。
 演技じゃない。本当にどっか行かれるのが悲しくて、彼を止めた。腕を引っ張って引き止めることはできないから、声で止めるしかなかった。
 幸い、彼の足は止まる。けれど、直ぐに何か言わなきゃ追撃が来る雰囲気だった。

「タクシーを呼んでくれるのはありがたいです……。でも、せめて、運転手が来るまでここに居てもらえませんか」
「いえ、私はここで失礼させて頂きます」
「今日は俺に付き合ってくれるって約束してくれたじゃないですか。夜だけど、まだ、今日は終わってないんですよ……」

 咄嗟にそんな言葉が口から飛び出す。
 ……そんな約束、実はしていない。何度か言いがかりをつけて彼を連れ出しただけだ。

「そんな約束……していましたか」

 していない。
 でもルージィルさんは俺の会話なんてすっかり綺麗に忘れているからか、そんなのあったかという顔をした。

「……ええ、ルージィルさんと約束、してました」
「そうですか。してたなら居なければいけませんね。申し訳御座いません、忘れてしまって」
「いえ……ルージィルさんは、そこのベンチに座っていてくれるだけでいいです。まさか一緒に地べただなんて言えませんし。あと、タクシーを呼ぶのももう少し後でお願いします」
「それだと、いつまで経っても」
「いてください。お願いですから」
「では、陽平様。改めてお話でもしましょうか。お話させて下さい、私から。私は」
「……あの! 出来ればッ! 俺、良い話だけが聞きたいですッ!」

 不穏な流れが見えてくる。
 これでも空気を変調を読むことぐらいは出来るんだ。平凡ながら、それぐらいの人の動きは察せる力は身に付けているんだ。
 修行とか『機関』とか関係なく、俺が俺らしく楽しく生きるために身に付けたものが。

「いいえ、きちんとお話しなければならないことがあります。前にも話したつもりでいましたが陽平様は覚えていないようですね、もう一度言いましょう。……私は人と付き合えない体で、貴方とは相性が悪いと」
「いいや、聞いてましたし知ってますッ! 貴方の話を聞き逃すことなんてしないッ!」

 声を遮るように叫んでみた。
 それでも彼は、淡々と話を続けようとする。
 少し歩み出した彼との距離は、三メートル。座り込んでしまっている自分には、ひどく遠い。
 話しているのに、近寄ってくれることもない。このまま離れられたら、また勝手に淡々と話される上に俺の声が聞こえなくなる。
 ちゃんと俺の主張も聞いてもらいたくて、自然に声が大きくなった。

「勝手に俺が倒れたのは謝りますッ! 前に忠告してもらったのに自制が効かなくなっちゃったんですッ! 本当にすみませんでしたッ! だからと言って! 貴方が気を病むことなんてないんです!」
「いえ。別に、私は気になんて……」
「なら俺、自意識過剰ですねッ!? すみませんッ! 最初から注意してくれたのに俺が言うこと聞かなかったのがいけないに決まってますねッ! どっからどう見てもッ! 触ってほしくないって言ってたのに俺が……馬鹿ですみませんッ! 嫌われても仕方ないって判ってますッ! でも出来れば、嫌わないでくださいッ!」

 貰った缶コーヒーを握り締めて、遠くなった彼へ精一杯叫ぶ。
 暗くなったとはいえ、まだ夜が見え始めた頃の公園だ。他に誰か居たかもしれない。
 けれど、周りの目を気にして彼を見失うのは恐ろしかった。
 だから……自然と声はでかいものになってしまう。

「好きになってほしいですけど、普通で結構……俺、満足できますッ! これから、ルージィルさんが嫌がることは絶対にしませんからッ! あ……話しかけられることが嫌ならもう話しかけませんッ! 凄く悲しいけど凄く我慢しますッ! これぐらい反省してますッ! 昼間みたいに単に隣にいさせてくれるだけでとても……しあわせですからッ!」
「陽平様」
「ハイッ!?」
「声を抑えて」

 少しだけ距離が縮まってくれていることに気付いた。
 地べたから三メートルが、最初の距離に戻っただけ。だけど、去っていく過去が帳消しになったと思って安心した。

「陽平様」
「ハイッ! ……いや、ハイ」

 太陽はさっきよりも落ちて、闇が更に深くなる。
 おかげでどんな顔でさっきの言葉を聞いていたか、表情が読めない。

「ええ、それぐらいの声で充分聞こえますよ。……質問です」

 淡々とした声は変わらず、静かな視線の色も一切変化無し。
 優しい言葉を投げ掛けてくれることも、体を撫でたり案じてくれたりすることも無い。
 でも、そこに居てくれる。同じところに居る。いつもと違う場所に居る。同じ時間を過ごしている。いつもと違う話をする。
 ……俺達は、進展している。

「何故、私のことをそんなに好いているのです?」

 人を好くのに理由なんていりませんよ。……なんて言ったら、訳を聞きたい人は怒るか。
 正直に言えば、一目惚れ。夏の嵐の中で立っていた美しい人に目を奪われたから。
 泣いていたから。
 凄く美しい人が、自分と程遠いような……この世のものではないんじゃないかってぐらい神々しい人が、弱々しく人間らしく崩れかけていた。
 そのアンバランスさに胸が高鳴った。

 それから会う彼は、いつも微笑んでいる。
 余裕の表情で笑う。誰にでも丁寧に接し、完璧をこなしている。……でも、こんな綺麗な人だって滅茶苦茶なになるときがある。その落差に、完全じゃない造形の歪さに惹かれて。
 ……ああ、難しい言葉を並べたって説明できない! 俺の言葉になってくれない! 率直に言おう!
 『ギャップ萌え』です!
 …………そんなこと、いくら本当の声だからって言える訳ないじゃないかッ!!

「ルージィルさんは、普段から凄い人だと思います。カッコイイですし、一緒に仕事したことないけど強いらしいですし、冷静だし、難しいこといっぱい知ってるし、俺より日本語巧いし、いつも笑う余裕があるし」
「ありがとうございます」
「でも、カッコ悪くて弱くて言葉が出なくて泣いちゃうルージィルさんを俺は知ってます」

 暗闇だから何も見えない。俺が話しているから音が掻き消される。
 その筈なのに、俺には判った。
 ほんの一瞬。風が吹いたら気付かなかったぐらい些細な変化。……目前の彼が、目を見開いて絶句した。
 負だらけの姿なんて見られたくないに決まっている。いつも正しく完全に在り続ける彼なら余計にそうだろう。泣いてる姿なんて見られたらプライドが傷付くかも。

「俺は、強がりな人が好きなんです」

 でも、ルージィルさんから「好きな理由」を訊いてきたんだ。
 素晴らしい言葉を並べるより、最も単純なものを選ぶ。

「…………あと、綺麗な物も好きです。ライターとか、ビー玉とか夜空の星とか」
「私は」
「……ハイ」

 もう少し電灯が強ければいいのに。
 滅多に顔を直視なんてしないけど、今は強くそう思った。

「貴方が手を握っても、私は、握り返すことができない」
「……それでもいいです。寧ろ、握らせてくれただけで嬉しいです」
「貴方が倒れても、私は、貴方を抱えることができない」
「……それでもいいです。倒れて怪我しても直ぐに白魔術で治せますから」
「貴方が手を差し伸べても、私は、掴むことができない」
「……それでもいいです。もう、どんなものでもいいんです」
「そんな非情な私でも、貴方は本当に良いと思えますか?」
「好きです」

 あ、今のは判った。
 この人、ちょっとだけ赤くなった。

 本当に距離が近くなって、ルージィルさんが屈む。至近距離まで来て、すっと手を差し伸べられた。間違いなく俺に。
 この手に掴まって立て、と言うかのように。

「今の私は手袋をつけてますから大丈夫です。きっと」
「は……ハイ。大丈夫ですよね、きっと」
「故意にこちらが送信するようしなければ、素肌で無ければ平気のようです。過去の経験上、そうだと判断してます」
「そうなんですか……。ってことは、手袋上では手を繋げるってことでしょうか!?」
「どうでしょうか。こちらが神経と研ぎ澄ませないといけませんから、私が気を緩めた瞬間倒れてしまうかもしれません。……結局は、私との接触は極力行わない方が良いかと」
「……お母さんのお乳を飲むとき、どうしてたんですか?」
「…………私は、『機関』のカプセルの中で生まれました。貴方のように母に抱かれた記憶などございません。私を抱いた製作者達は身を守るための手段を叩き込まれた者達でして……」
「い、今から『機関』に頼んでめっちゃ霊力防御点を高くするような強化手術を受けようかなぁ!? 割とマジで! シンリンさんに頼んで……!」
「おやめなさい、純粋な身体が汚れますよ」

 シンリンさん、と聞いた途端ルージィルさんの声色が少し変わったような気がするが、気にしないでおこう。
 やっとの想いでルージィルさんの手を掴み、ぐっと立ち上がる。じんじんと足は痺れていたけど勢いをつけてなんとか二本足になれた。
 それも全部、手をがっしりと支えてもらったからだ。

 嬉しくてぐっと手を握る。
 つい、ぐっと手を握ってしまう……。

 けど、直ぐに離された。
 俺が掴んだ右手を、ルージィルさんは自分の左手が庇うように包み込んでいた。
 やっぱり掴まれて苦い顔をしている。大丈夫だと言ってもあまり好意的ではないらしい。軽く静電気でも走ったぐらいの痛みを感じてしまっただろうか。
 苦しそうに見えて、悲しそうに見える。
 もしかしたら気のせいなんかじゃなく、本当にそう思えてくる。

「あっ……」

 ふと気付いた。今のルージィルさんは……笑っていなかった。
 いつも三分咲きの笑顔だったけど、今は口をへの字にしている。
 自分の手を擦っていた。あまり愉快そうな顔をしていない。何より眉間に皺を寄せ、咳を我慢するかのような座りの悪い顔をしている。
 涙は流していない。でももし彼が小さな男の子だったら……俺は言っただろう。
 泣いてもいいんだよ。
 ……言わない。言えない。わざわざこの人がいつも笑い、誰に対しても丁寧に接しているのは自尊心の高さからだって判っているから。それを言って許される程、俺はまだ彼の心に触れられていない。
 今はまだそのときじゃない。
 今は……こんな表情を目の前で見せてもらえるようになっただけ、進歩。そう思うんだ。

「なんです」
「え?」
「先程から、陽平様が何か言いたそうな顔をなさっていましたので。やはりまだ本調子ではありませんか。何を考えていましたか」

 勝手に一人で悦になっていただけだ。
 ……貴方の表情をもっと崩していきたい。これからも頑張ってみせるぞ。いっぱい近寄ってもらうんだ。
 そう思っていたところだった。

「……今、貴方にとてもキスしたくなってました」

 思った瞬間、我慢できなくなって口走ってしまった。
 判っていたのに我慢できなくなって手を掴んだのと同じだ。
 よしやろう、後のことなんて構うなって思ってしまうのは俺の悪い癖。俺のというより……兄の瑞貴も弟の慧も同じ癖を持っているから、俺達の癖と言った方がいいかもしれない。
 流石のルージィルさんはどうしたかと言うと、眉を顰めて非難するかのような視線を送っている。……良い兆候とは言えない目だった。

「全神経を集中させれば出来ないこともありませんが、失神させる恐れがありますので。極力しないように心掛けても」
「いえ、そんなに真剣に考えてくれなくても。……って、あの、それって『その力が無かったら』キスしてもいいってことですか?」
「う」
「あっ、無理しませんから! 『したいなぁ』と思っただけですからッ! 倒れて大変なのは俺じゃなくてルージィルさんですからねッ! もう迷惑になる行為はストーカーだけに留めるって決めましたからッ!」
「それもどうかと思います。ですが」
「え」

 止まる。
 淡々とした声と優雅な動きが、目の前で止まった。

「もし倒れたら、きちんと私が介抱致しますので」

 瞬間的に影が、重なる。
 結果は――。



 ――2005年11月9日

 【     /      /     /     / Fifth 】




 /8

 柳翠の腕を掴んでそのままズルズルと部屋の外に引きずり出した。
 衣装を脱がせ、風呂に押し込める。行水しかしない柳翠をタワシで擦り、髪を洗い、湯に漬かせた。
 だらしなく生えまくっていた髭を剃ってやって、人前に出られる顔にしてやる。元は良いのだから整えれば外に出しても問題無い顔になるもんだ。

 柳翠は一体どれだけの時間、地下の工房に篭っていたのだろう。
 それを物語るように、寺に居る者たちが会うたび感嘆の声を上げた。本日の仕事を終えたらしい大山さんも例にもれず「おおっ」と感動するぐらいなんだから、全くどれくらい引きこもっていたんだか。

「本当に柳翠様のことは、藤春様にしか頼めませんね。きっと光緑様もそうおっしゃられるに違いありません」

 大山さんは呑気な声で、柳翠の腕を引く俺を見て呟く。
 ちっとも嬉しくない。そうやってこいつらは、柳翠を甘やかし続けたからだ。
 俺が柳翠を綺麗にしてやっている間に、柳翠付きの使用人である匠太郎を捕まえ、柳翠の私室を掃除しておくように命じた。先程の劣悪環境の工房で寝かせるなんて俺は許せない。匠太郎はそれに納得し(というか匠太郎自身もそう思っていたらしい)、滅多に使われない柳翠の部屋に綺麗な布団を敷いてもらった。

「藤春兄者よ」
「なんだ」

 私室に押し込め「さあ再度説得を」と思っていると、柳翠が飄々と口を開く。

「私は緋馬に会って第一声、『この人殺し』と言うぞ」
「……なに?」
「何故、私があやつと今まで関わらなかったか。判らぬか。……愛する女を殺した奴と、一緒に居たくなかったからだ。これは紛れも無い事実。一度も言ったことのない殺意を息子に吐き出す。事実と向き合うというのはこういうことではないか?」

 清々しくなった柳翠は突然そんな物騒なことを言った。
 あまりに唐突だったので殴ってしまいそうになったが、振り向くだけにしておく。

 ああ、そうだった。柳翠のことが可愛かった長男・光緑は、過酷な状況を負わせたくなくて俺に柳翠の子を押し付けたんだった。
 緋馬の母は、繊細な女性だった。体の弱い人で、子供を産んだら死んでしまうと言われていた。
 それなのに彼女は緋馬を産んだ。よくある悲劇だ。そんな小説や漫画を外ではいくらでも読んだことがあったが、本当にその場に居合わせてしまうと、なんて悲しく悔しい運命なんだと涙が出たのを覚えている。

「彼女は……陽奈多(ひなた)さんは、自分の命と引き換えにお前が授けてくれる命が欲しかったんだろう。それなのに、お前は」
「私は彼女を亡くしてまで命など欲しくはなかった。そもそも、産ませる気など微塵も無かった」
「産ませる気が無かった? 身勝手だな。陽奈多さんとの間に子を成すようなことをしておきながら……」
「あんなこと、する気もなかった」

 柳翠の言葉にじわじわと頭に血が昇っていくのを感じる。
 だが柳翠はわざと俺を怒らせ、本題を逸らそうとしているんだ。だから拳を握るだけに留めることが出来た。

「仏田の忌々しい血など無くなればいいと私はずっと思っていた。私のような者を殖やすなんて、父上達の計画に乗るつもりなど全く無かった。兄者だってそうなんだろう?」
「……それは……」
「ふふ、今から兄者が笑わせよう。事実だから言わせてもらおう。私はその気など無く、するつもりも一切無かった。だが彼女は、兄者が知らない面を持っていたよ。例えば、私より力が強かったとか」
「……」
「例えば、私を取り押さえることができたとか」
「…………」
「例えば、私を無理矢理……」

 その後に『確かに彼女を愛していた』と続けても、ついついポカンとしてしまうようなことを、柳翠は口にした。
 ……つまり、なんだ、その。
 柳翠の妻で緋馬の母は、ひどく温厚で優しく清楚な女だと思っていたが、それは……表面だけの話で、その、そういうことなのか。

 考えてみれば、柳翠は外にまず出なかった。
 屋敷内でも特殊な力だからと守られ、無力でも認められていた。人に関わることなど無かった。
 達者な言葉遣いはするが、実際はどうだろう。単に難しい言葉を並べるだけで、包み隠さず本当のことしか言えない子供のようじゃないか。
 そんな器だけが発達したガキが、一端に働く女に襲われたら……?
 柳翠は色白で、力は無い。体も逞しくない。中に引きこもっているだけの、折れそうな腕をしている。線が細くて中性的と言えば綺麗だが……女性でも負かせることはできそうだと思ってしまった。

 「どうして早くそのことを言わなかった」なんて、言えなかった。
 相手のことを良く想っていたとはいえ、女性から強姦されたとなれば屈辱を感じるのは男として当然だ。
 たとえ柳翠を酷くしたとしても、彼にとっては愛する女だった。傍にいるだけで彼は良かったのに、女は柳翠の主張も聞かずに、子を成し、我儘の末、死んだ。
 何故あの女が死んでも子を持ちたいと考えていたといえば……。彼女は家族が居ない人だった。無理にでも子を成したかったからだろう。
 もしかしたら、彼女も仏田一門と契約した女だ……『親しい仲になった当主の弟の子を身籠れ』という『命令』が下ったのかもしれない。
 ともあれ、女は子を望んだ。子が第一にある。子さえ考えなければ彼女は死ななかったかもしれない。
 つまり、子が彼女を殺した。柳翠はそう思っている。
 ただでさえ血族を嫌っていたのに自らの手で増やし、女を失わせた原因を……どんな感情で胸に秘めているのか。

 ――私は緋馬に会って第一声、『この人殺し』と言うぞ。

 おそらく本心だ。必ずいつかは想ったことだろう。

 ――愛する女を殺した奴と、一緒に居たくなかったからだ。

 俺は何度も息を吸い、吐く。
 言葉を必死に探した結果……辿り着いたのは、極論だった。

「言えばいい」

 非情な返答。
 けどそれが一番良いと、今の俺は思った。

「『お前は望まれて生まれた子ではない』と言えばいい。言えるものならな」
「……」
「言えるか? 言えないだろ? わざわざ傷を増やすようなことを、お前はしない。絶対に出来ない。今までだってそうだっただろうが!」

 これ以上傷付けたくないからこの血を否定した。
 彼女を失いたくなかったから彼女自身を非難しなかった。いつでも会える息子を貶すことを一度も口にしなかった……。

「緋馬を困惑させないため今まで無意味に動かないでいた……。お前は、みんなのこと……人のことを想っていつも行動しているよな。そんなお前が他人を傷つけるようなことは言わない。言えない」
「……口が滑って言ってしまったらどうする! 緋馬は傷付くぞ! 本当の親に付けられた傷は一生に残るぞ!?」
「緋馬が傷付くと知っているな。本当の親に傷付けられた傷は一生残るとすら考えている。そこまで理解しているなら言わないだろう! どうすれば傷が出来るか全部知っているお前が言う訳がない! 言える訳がない!」

 叫ぶようにして言い放った。
 それを聞いた柳翠は、うう、ううう、と呻き声を上げる。
 今し方、兄の手によって綺麗に洗い流した髪をぐしゃぐしゃに掻く。まるで地団駄を踏む小さな子供のよう。綺麗事を並べ人を圧倒させ、畏怖させる柳翠らしからぬ、目に見える慌てぶりだ。
 そして、

「何故何も言わぬ、『貴様』!」
「はあ?」
「『次の言葉』は何だ! 聞かせんか! 早く言え! ……違う、そんなんじゃない! そんなの言えるか! 違うものを、早く!」
「おい、柳翠?」
「無い……判らないだと!? どこが『全知全能』だ! 私が未完成だからか!? だから判らないのか! 貴様、あれだけ言っておいて何だ! 間違ってるじゃないかあ! 全然違うと言っているだろう兄者があ! 言うとおりにしただろう、何故行き詰る、答えを教えろと言ったんだ貴様ぁ……ッ」
「なに……変な事言ってるんだ、柳翠! 『ここには』俺しか居ないぞ!」
「『そう』答えれば傷付かないんだろう!? 言ったじゃないかあ! ああ、ああ私はそれを訊いたんだ、だから言うとおりにしてたじゃないかあ! なんでこんな、違う、事に、うあああああああぁッ!」

 明らかな異常な行動。俺は肩を揺さぶった。
 だが柳翠は振り解き、頭を抑えながら私室から出て、どこかに走り出していく。
 追いかければ直ぐに捕まえることができた。何故なら柳翠の体はか細く、一般的な男性の体に比べて弱い。振り解いて暴れても直ぐに取り押さえることが出来るぐらいだ。そう、おそらくそれは『女性でも可能』だろう……。

 庭に出て行こうとする柳翠を押さえつけて宥める。
 時折奇声を発して幼い子供のように暴れる彼を。
 ……それは、数年前に見たことがある光景だ。

 ああ、確か甥の一人……新座によくあることだった。
 新座も幼いとき、突然『何か』と話し出し一方的に会話を続け、泣き叫ぶ。彼の兄が困って助けを呼ぶのを俺もよく見ていた。
 あのときと同じことが、柳翠にも起きているんだ。
 一体これが何を意味しているか判らない。だが、訳の判らぬ自分は咄嗟にあのときと同じ対処法をしていた。
 ぐっと胸の中に抱きしめて声を掛ける。新座の兄がしていたことを、記憶任せにしてみた。

「柳翠、『貴様』、いや『そいつじゃなくて……』」
「ぁ……」
「『お前の言葉で説明しろ。他の誰かじゃなくて、お前の声で話すんだ。話せばラクになる。落ち着いて俺に教えてくれ』……!」

 確か志朗は……そんな風なことを言っていた。逃げ出さないように腕で柳翠を拘束しながら、何度もそう告げる。
 幼い新座のように泣き出しはしなかったが、今にも泣き出してしまいそうな姿だ。充分に成人した体でも構わず、俺は大人しくなるまで柳翠を抱きしめた。

「……判らん……私には……判らないッ!」
「判らない?」
「どうすればより良く生けるのか、どうすればこの世を渡れるのか知らないッ。知らないんだ! 全然知らないんだッ! だから教えてもらった、教えてくれる奴がいたから……そいつの言う通りにした、なのに兄者達はそれを非難する! 私はどうやったら誰も傷つけることが出来るのか知らないんだよ! そいつの声を聞かなければ何も出来ないッ!」
「……そんなもの、俺も知らない! 明確に知ってる奴なんて……この世界に居ないよ」

 柳翠の言う『そいつ』は誰だか知らなかった。
 俺の知っている柳翠の交友関係に思い当たる者は居ない。だけど、それが誰なんだとは決して言わない。
 今は柳翠の中を出しているだけだから、出したものをちゃんと受け止めてあげなければ、彼は崩れてしまう。……今度は自分なりの言葉で、柳翠を落ち着かせようと抱き締め続けた。

「柳翠。『そいつ』が緋馬と会うなって言ったのか。それに従ったんだな? ……それが無難だと言われたから、そうしたんだよな」
「……ああ……」
「……なあ。なんで『そいつ』なんだよ。俺に訊けよ。兄者だぞ、俺は。赤の他人の『そいつ』よりお前に近い存在だぞ。確かに俺は確実な事なんて知らないけれど、ずっと参考になれる。お前よりは六年早くこの世にいるんだからな。早くに生まれたって知らないこともあるけれど……全てを知らなくていいんだよ、そんなこと! 誰だって判らないことなんだよ、そんなこと! それが普通だ、それを恥じることなんてするな。お前は普通だから……だから、より良い結果を探すためにも、動き出さなきゃいけないんだ」

 柳翠の体が震えても、ずっと体を支え続けた。
 まだ、うう、うううと唸り続けている。
 それでも、ずっと彼を抱きしめた。

 ふと柳翠ではなく外を見やると、庭が広がっていた。柳翠が外に出ようとしたから庭が近くなっていた。それだけだが、やけに外が気になった。
 さっきの柳翠が逃げたのは……単に言いがかりをつけてくる兄から逃れるためか? 別の人に助けを求めるためか? ……なんだか後者のような気がした。
 でも、それは誰だろう。もう一人の理解者・光緑か、いつも世話をしてくれている使用人・匠太郎か。
 誰でもいいから出て行きたくなったのか……それとも。

 ――誰かも判らぬ『奴』だろうか。

 嗚咽を零す柳翠に問い質すことはしなかった。
 これも甘い、甘いと思う。この甘やかしが何十年も彼を救えずにいたのかと思うと、ちゃんと尋ねた方がいいのかもしれない。
 でも、出来る状況ではなかった。何かに震え、何かと懸命に戦う姿を胸の中に見て、俺は動き出す機会を無くしてしまった。

 柳翠の体に視線を戻したとき、ほんの一瞬だが何かが横切る。
 今度こそ狙いを定めて見てみると、猫が居た。
 夜だからよく判らないが……白い、けど少し模様掛かった猫に見えた。

「…………」

 虎柄模様の猫。寺に住んでいる猫なんて何匹も居ると知ってはいたが、このタイミングで横切るだなんて。
 ……黒猫でもないのに、占いも信じる質でもないのに、何故か「不吉だ」と思ってしまった。



 ――2005年11月9日

 【     /      /     /     / Fifth 】




 /9

 開かれた障子から、しなやかな体つきの白猫が走り寄ってきた。

「シロン……? シロン! シロン!!」

 呼びかけるとぴょんっと俺の胸の中に飛び込んでくる。椅子に座っていた俺の元へ、まるで本物の猫のように滑らかな動きで抱きついてくる。
 やっぱりシロンは猫じゃん。いつも通り茶化したかったけど、今はしない。あくまでシロンが「猫をしている」のは、使い魔としての役割を相手に見せつけるため。人間の形でないままここに来たのは、警戒はしつつもすぐに戦闘に入る意思は無いと見せつけるためだ。
 俺の胸に収まったシロンは、先生の方を向く。猫の目でそちらを流し見ただけ。人間だったら睨みをきかせたように見えるかもしれないけど……。

「そいつ、慧の所に居たぜ。オッチャンが回収しておいてやったよ」

 シロンが入って来て数秒後、今度は人間が部屋に入って来た。
 先程までここに居た研究者達が帰ってきたのではない。同じ白衣を着た男ではあるが、今日はここに居るべき人物ではない。いつもなら次期当主・燈雅様のお付きをしている。
 名はシンリン。
 夜須庭先生の一人息子だった。

「なんだよ、この完璧な結界。ただでさえ『機関』にも洋館にも寺の門にも結界が張られてるっていうのに、二重も三重も創るんじゃねーよ。こんな厳重なモン作っちまったら、もし瑞貴がサーヴァントを召喚したいとき……出来なくなるだろ? 緊急事態のときどうするんだ、クソオヤジ」

 障子を開けて入って来たが、シンリンさんは特別何かをするという訳ではなく、近場にあった机の魔導書に持っただけだった。
 これ、回収しにきただけだから。
 そう言うかのように一冊の本を持ってヒラヒラと見せつける。ホントにそれだけ。それだけをしに来ただけでも……二重三重に結界を張って、しかもスイッチで子を脅している人を危険視、警戒。現行犯逮捕なんて大それたこともしないしできないけど、この緊張感を解いてくれるぐらいの手助けはしてくれた。
 異常事態なのは、シンリンさんも判ってくれたらしい。
 組織に属するシンリンさんにとって先生は組織の上位者。公的措置でも武力でも真っ当にやり合って勝てる相手ではない。そもそも勝負にすら持ちこめないかもしれない。
 それでも、一番近い身内なりに文句を言える人ではあった。

「で、オヤジ。一本松様といい他の仕事を他に押し付けておいて、カワイイ子を閉じこめて何してたんだ? 慧がセンセーセンセーって探してたぜ。早く行ってあげなきゃあいつ、暴走するぞ」
「それは大変だ。はあ、慧には我慢を教えなきゃいけないな。何度も覚えなさいとは言っているんだけど。そう頻繁に暴走されたら困るよ」
「我慢を覚えたって、あんたが違う子に手を出したらその場でドカンだよ。誰も手ぇ付けられない。……で、ここで何をしてたんだ?」

 シンリンさんの目線が俺とシロンの方に向く。その後、シンリンさんの後ろをくいっと向かされた。……多分「さっさとここを出て行け」という意味だ。
 この場を逃がしてやる。父親の面倒は自分が見る。そう言っているかのような目。
 俺はシロンをぎゅっと抱きしめながら、隠れて会釈をして席を立った。

 先生はというと、席を離れる俺に何かを言う訳でもなく。シンリンさんに事情を説明することもしない。
 ただフフッと笑って、

「良い子には、教えてあげない」

 眼鏡を掛け直すだけだった。



 ――2005年11月10日

 【    /      /     /     / Fifth 】




 /1

 女の悲鳴が鉄で閉ざされた厨房に響く。
 台の上に裸で大の字に貼り付けられていた妖精族の女が助けを呼ぶ。女体は蝶の標本のように一番美しい形で固定されている。今では燭で焼けついた痕や鞭のせいで元の美しさを失くしていた。
 昨晩まで餌として一族に奉仕していた女だ、男共に食われてすっかり魔力を消耗している。魔力が無くなった状態のものを生かしていく理由は無い。ならば骨の髄まで一族に尽くしてもらうための調理が始まる。
 料理人が手を下すべきだが、兄・銀之助は本来の仕事があるため俺がすることになった。兄は今頃、朝食の準備をしている。寺に居る者達の体調管理を優先する兄に代わり、残った食材の料理を開始した。

 まず包丁を女の胸に押し当てる。刃を真っ直ぐ、胸から腹まで落とす。
 一直線に割れ目が生じ、女はまた悲鳴を上げる。釘付けの身体をじたばた動かしてきた。暴れたせいで傷から溢れ出た血がびちゃびちゃと様々な方向に飛び散る。でも台の上以外を汚すことはなかった。それだけ厳重に拘束されているからだ。
 刃物を更に突き立てる。今度は右胸から腰まで。次は左胸から腰まで。生魚で何度も練習したときのことを思い出しながら、びくびく震える女体を捌いていく。
 切り込みを入れるたびに血が噴き出し、甲高い悲鳴が上がった。丁寧にやろうとしても暴れる女が邪魔をする。せっかく気が落ち着いてきたから綺麗にしようというのに、思う通りにならず、俺はついに刃を無遠慮に突き立ててしまった。
 美しくない角度で包丁を立てる。そんなことをしたら中の肉がズタズタになってしまう。けど銀之助兄さんのように最後まで神経質に作業できない俺は俺らしく、大雑把に肉を暴いていく。
 悲鳴を上げ痛みに悶える女が耳障りな呻き声を上げた。それが気に入らなくて、余計に俺は不格好な角度の刃を繰り出した。
 何度も包丁で体を突くたび、リズムに合わせるように女が絶叫する。最初は内臓を傷付けないように表面だけを切り裂いていたが、中身を不仕付けに抉られて鳴き続ける。
 ドンと包丁を叩きつければ、ギャアと一声。ドン、ギャア。ドン、ギャア。
 ……なんだか面白く思えてきた。震える肉にドン、ドン、ドンと、刃を立てていった。

 女は激痛のせいで意識を失った。叫び声が上がらなくなる。
 それではつまらない。俺の気は収まっていない。違うことをしてやろうと、切れ目から内臓を引き摺り出した。
 だが引っ張ってもなかなか出てこない。もう綺麗に事を終わらす気も起きず、力任せに引き摺り出してブチリと切り離した。
 どんどん女の中身を取り出して、カラッポにしていく。取り出しては切り放し、大皿に置いてはまた切り刻む。
 反応の無くなった肉を弄んでも何も感じなかった。
 飛び散る赤い血は人間と同じ。だが異形のものだ。じっと生暖かい液体を見つめながら、ちっとも叫び声を上げなくなった女の顔を見る。
 妖精の女はどいつもこいつも綺麗な造形をしているものだが、悲惨な表情のまま絶命していた。
 腹から崩したから首から上は美しい状態を保ってはいる。この綺麗な顔を今度はどうしてやろう……。

「元気だな、匠太郎」

 考えていると、重く、耳の奥にまで響く兄の声がした。その声に俺は動きを止める。
 部屋の入り口に、一番上の兄・一本松が立っていた。
 思わず持っていた凶器を捨てた。血に濡れた凶器がガランと音を立てて転がる。その包丁を改めて目にして、なんだか急に俺の中で白熱していたものが冷めていった。今までの興奮が嘘のように、凄まじい速度で冷静さが戻っていく。
 あの低音のおかげで失った我を取り戻すことができる。元の自分に戻れたのだから兄の声はありがたかった。滅茶苦茶に処刑を楽しんでいたなんて、この年になったのに落ち着きが無いと笑われそうで恥ずかしい。それを制止してくれた兄には感謝しなければならない。
 思いながら眺める兄の表情は、冷たい目に歪ませた唇を備えていた。
 黒い着流しに身を包むのはいつも通り。影に隠れて俺の興奮を楽しんでいた彼は、今まで遊んでいた俺をいつから眺めていたのか。
 それと、全然気づかなかったけど兄の隣には『兄のお気に入り』が立っている。立っているというか、力無く俯いていた。どうやら兄はペットの散歩をしていたらしい。最中に俺を見付け、暫し一休みをしていたようだ。

「柳翠様を奪われたことが、そんなに悔しいか」

 兄を見たら冷静になったというのに、またその一言に興奮のゲージが上がる。
 さっきまで「落ち着いた」と思っていたのが、嘘みたいに。

「睨むな。全く忙しい奴だな、匠太郎は」

 ……ああ、そうだ。俺は単純だ。
 「柳翠さん」の名前で気分を平気で変える。柳翠さんのことで興奮して、柳翠さんじゃなくなると落ち着いて、また柳翠さんの名前を聞いたら熱を帯びる。
 スイッチ一つで体温が管理できるような、それぐらいシンプルな設計をしているのが俺だ。
 そんなの笑える。冗談みたいな話だと自分でも思う。たった一人の名前でこれほど激情するなんて馬鹿馬鹿しいって判ってる。
 でもやめようと思ってやめられる体じゃない。笑われるのが嫌でやめられるほど、俺の身体は柳翠さんを切り離すことはできない。
 そんな俺の馬鹿な様子を兄は知っていて、好ましいと思っているようだった。唇は上機嫌に歪ませたまま崩れない。俺が柳翠さんのことが好きで反応するから、わざと名を出して楽しんでいる。
 迷惑な話だがいつもそれで振り回されていた。兄には感謝することもあるが、不愉快に思うこともそれ以上にあった。

「悔しいさ」

 こんな自分が笑われ者だって判っている。
 だからと言って自分を変えられるほど、俺は出来た人間じゃない。出来た人間じゃないから、認めて開き直ることしかなかった。

「悔しい。悔しいよ。藤春様は柳翠さんの兄だから彼の中に入っていける。俺は兄じゃないから柳翠さんの中に入っていけない。同じ血なのに、全く同じ血じゃないから踏み入れられない」
「ふむ」
「……悔しい。悔しいんだよ。悔しいさ。気持ちの収まりが悪い。いつまで経っても悪いまま、悔しいままだ。くそ。落ち着きたいのに落ち着かない。何をやっても落ち着かないなぁ!」

 なんでこんなに心がざわめくんだ。
 ――俺が勝手に部屋に入ると怒るくせに、兄の藤春様が入室したことに何も言わないだなんて。
 俺が風呂に入ってほしいと何度言っても入らないくせに、藤春様の言うことを聞いて体を洗うだなんて。
 あんだけ尽くしているのに何も変わらず、藤春様のたった一押しで、柳翠さんは……。

 悔しい。
 さっきまで使っていた凶器は放っておいたまま、俺はウズマキから自分が持てるだけの短刀を召喚した。
 それを餌の頭上から降らせる。全ては自分の気を晴らすために。
 処刑を芸術と考えている父・浅黄や、食材にも敬意を示す調理人の兄・銀之助が見たら激怒されるかもしれない、無遠慮な暴力。ただただ頭に刃物を降らせるだけ、血を流させるだけの単純な惨殺。けどやらずにはいられなかった。
 悔しい。悔しい。悔しい。悔しかったからだ。

「……くそ……」

 俺は柳翠さんの幼馴染だ。藤春様より年が近い、一歳違いの兄弟代わりとして柳翠さんの隣に立っている。
 親友を経て、使用人の立場を手に入れた。召使に相応しいと呼ばれるまでになった。この寺で柳翠さんと普通に話ができるのは俺ぐらいだ。彼の言葉を理解できるのなんて俺ぐらいで、そうみんなも言っている。
 意味不明な柳翠さんを通訳してくれと俺に頼みこんでくる僧も多い。それぐらい俺は彼のことに精通している。
 毎日柳翠さんを世話している。毎日見ている。毎日相手をしている。頼みは全部聞いているし、食事の準備も体のケアだって俺の役目だ。
 毎日毎晩あの体を世話しているのも俺なんだ。これだけ柳翠さんに近い人間は俺しかいない。
 俺が一番柳翠さんと共に居るのに相応しい。
 だというのに。藤春様は簡単にその地位について。
 実の兄とはいえ藤春様は寺を出て行った人じゃないか。寺を出ていくどころか一族の枠からも出ようとしていた人だ。一族を、家族を、身内の柳翠さんを捨てて、外に出て自分だけ個々の幸福を手にしようとした不届者じゃないか。
 なのに我が物顔で中に入って来て、柳翠さんの苦痛も考えずズケズケと心の中に入り込んで、苦しめて、彼を……解放して。

 悔しい。
 近付き、勝手に解放した。
 俺が毎日やって出来ないことを、彼は、たった一日で。一日もかけず。
 ……悔しい。

「そんなにグチャグチャにしてしまっては、銀之助にハンバーグにしてもらおうか。あとは……航様に頼んでプールの中に入れてもらうしか、再利用ができないぞ」

 ふと兄の声でまた我に返る。兄が銀之助兄さんの名を出したから、俺はまた冷静に戻れた。
 我に返るまで女の頭から凶器を降らせ続けていた。やっぱり俺らしく単純なことに、シンプルな拷問を延々と続けていた。
 自分で言うのもなんだが、実に芸の無い処刑だった。

「……じゃあ、プールの材料にしてもらおうかな。自分で作っておいて言うのもアレだけど、こんな不格好な物をお更に並べて食べたくないし。それならまだ風呂に浮かべた方が、肌がすべすべになりそうで良いと思う」
「ストレスは発散できたか、匠太郎?」
「……うん。悔しい。なったよ。ストレス発散、できた。悔しい」
「それは残念だ。ストレスは発散してくれるな。元のお前に戻ってしまう。匠太郎は生易しく使用人をしている姿など似合わん。我々と同じ、鬼の形相の方がお前らしくて良い。ずっとストレスを溜めていてほしいものだ」
「嫌だよ。俺は柳翠さんの傍に居る立場がいい」

 目の前に居るのは、人を虐げて笑う兄。
 俺にはもう一人、ヒトを捌く兄・銀之助がいる。俺達三兄弟を作ったのは、ヒトで芸術品を造ろうと考えている父。そんな家族の中に並べるなら俺は、芸も無く人をミンチにし続ける者と言われるだろう。
 その中に並びたいとか、並びたくないとか、考えたことはない。
 そんなのどうでも良い。俺がどうでも良くないと思えるものは、この世でたった一つ、一人だけだったから。

「ごめん、一兄さん。ストレスは溜めたら身体に毒だ。極力発散させてもらうよ。貴方の希望に添えない」
「そうか。残念だ。我が弟らしくて良いと思えたのに」
「でももうストレス発散はおしまい。これ以上ぐちゃぐちゃにしたら、俺達の体に入るモノも何一つ無くなってしまう」

 そしたら「貴重な素材になんてことを」って銀兄さんにしゃもじでボコ殴りにされる。いくら調子に乗ってしまったからって、それだけは回避しなければならない。
 では生き物の処理は終わったことだし今度は塊の処理に入ろう。後片付けをしなきゃ。

「ぐちゃぐちゃにしたから終わりか。……無限に遊べるモノがあったら、お前はずっとその愉快な姿を見せてくれるのかな」

 笑みが灯った声で、兄には珍しく妙なことを言う。
 言って兄は、隣に待機させていたお気に入りのペットを俺の前に寄越した。
 俯いていた男が急に押されて揺らめく。そいつは押し出され、小さく唸った。
 途端、俺の気分が悪化する。気味の悪いものを見たらストレス発散した気分も台無しだ。

 ああ、そいつのことは知っている。――どれだけ傷を負っても再生する、夢のような玩具だ。
 自己再生の異能を持った気味の悪い異端。他人を虐げることで幸福を得る兄にとっては最高のペットだと、兄と親しく話さない俺でも知っている。
 だって兄は暇なときはこの玩具で遊んでいた。十年近く、壊れないこの玩具で遊び続けているんだ。
 この化け物以外にも兄はいくつも玩具を所有していたが、そいつは特に思い入れがあるらしい。ペットのように自分専用の鎖なんて付けて自分の物だと主張してるんだから、この人も案外子供っぽいところがある。でもって俺に薦めるぐらいには、使い慣れた玩具だってアピールしたいのだろう。

「俺は人のお気に入りで遊ぶ趣味は無いさ。たとえ一兄さんが推してくれたとしても、人様の玩具を壊してしまうかもしれないから後が怖くて使えないよ」
「匠太郎は何をするにも乱暴だからな。いや、匠太郎も乱暴と言うべきか。よく柳翠様も匠太郎を床に誘う。いくら魔力供給のためとはいえ」

 ――それは一番都合の良い供給の方法を、俺がしてあげているからだって。

 俺以外の他人じゃ効率の良い供給を提供できない。だから俺が、柳翠さんに、供給してあげなければならないんだ。
 研究疲れの柳翠さんの供給は、俺の仕事。
 他の者にはやらせるものか。名乗りでもしたら、すぐにでも食卓に並べてやる。
 ……くそ、また熱が上がる。兄が無遠慮に柳翠さんの名前を出すからだ。くそ。

「良かったな、ブリッド。壊してしまうかもしれないから手を出さないだとさ。匠太郎はお前を気遣ってくれた。優しいな。感謝するといい」

 兄は笑う。ペットの後ろから、ペットの両肩に手を置く。
 前に押し出された玩具の男は、後ろの兄に体重を預ける。どうやら立っているのもやっとなぐらい、身体を消耗させていたらしい。
 って気味が悪くてよく見てなかったが、男の着物の下に縄が走っているのが見えた。頬を真っ赤にして息を荒くしている。なんだ、下に何か突っ込まれた状態で地下の散歩をしていたのか。そういうプレイの最中だったか。暇さえあればこんなことをしているんだから、兄も仕事以外にするものが無いのか。これが兄のストレス発散と思えば簡単な話だけど。

「……そろそろ銀兄さんを呼ぶかぁ」

 二人に興味は無い。話し掛けられれば応じるけど、こちらから兄に話し掛けるつもりは一切無い。
 怒られるレベルに到達していない(筈の)肉塊を前に、ぼやく。
 バラバラにしたまな板を傾けて、ポリバケツの中に押し込んだ。このまま地下に持って行けば今日の風呂に入れる薬もどきにはなるだろう。無駄に血液が垂れ流してしまったけど、それなりに質の良い妖精を捕まえてきたのだからそう簡単に肉に詰まった魔力は消滅しない筈。

「片付けして……ああ、もうこんな時間。柳翠さん、寝たかな。うん、寝てる時間だよな。寝顔、見に行こ。ふふ」

 したくて凶器を降らせたが、したところであんまり楽しいとは思えない行為だった。
 しないよりはいい、でもしなくてもいい程度。頭も下半身も熱くならない。幸福を得られない行為。快楽も求められない行為。
 俺が幸せを得られるのは、やはりあの人があってのことだった。




END

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