■ 外伝07 / 「召喚」



 ――2004年8月31日

 【    /      /     /      / Fifth 】




 /1

 ハッキリ言って俺の家族は尊敬できない。とても素晴らしい人達だということは知っていても、俺自身は絶対に思えなかった。それは昔からある心で今も拭うことができない。
 父の一本松は、寺で偉い重役である。普通の人ではできないことをしている。寺でも父を信頼する者達は多い。黙っているだけで伝わってくる威圧感は並大抵の人間では出せない生粋の力だ。父は上に立つために生まれてきた素晴らしい人間だ。
 母の武里(たけさと)は、かつては一目おかれる力の巫女だった。仏田家に嫁入りしたのは、一本松の母(俺の祖母にあたる)清子様が彼女の力に惚れたからなんていう噂が立っているぐらいだ。とても立派な力を持っているらしい。もしかしたら自分の才能も母から受け継いだものかもしれない。感謝しなければならないことは沢山ある。
 それと俺には、弟が二人いる。俺と似ていて目立つことを嫌う謙虚な性格な陽平(ようへい)と慧は、世の中をうまく渡り歩いている。
 もし二人が他人で、道先に行きかう人の一人だったら、きっと頼りになる良い友人になれる。実の兄の俺が言うほどだ、決して贔屓目に見ているからじゃない。

 皆、世間体的に非常に立派だ。だがそれはたった一面を見た人間の考え。
 ありとあらゆる角度で家族を知っている俺は、快くは思えなかった。なんでそんなに世間の評判が良いのか、いつまで経っても俺には理解できないぐらいに。

 息子の目から見て父母も、そして二人の弟達も、俺から見れば『人間ができていない』ように見える。
 誰も彼も関係は良好でない。あの人達だってマイナスな面を沢山持っている。人間だから当然だが。
 父とはよく喧嘩をしていた。弟達も喧嘩をする。「それが仲の良い証拠だ」「年の近い兄弟ってそういうもんだよ」と親戚に言われたこともあったが、どうしようもない理由で言い争いになるのが苦しかった。いつも心が痛む。「年子の兄弟は頻繁に喧嘩をする」と言うが、俺達三つ子だから、年が近いどころか一分単位の違いだ。喧嘩は「頻繁」ってレベルじゃない。

 俺達三兄弟は、仏田の兄弟の中でも珍しい三つ子だった。
 三つ子の一番最初に生まれてきた長男。でも所詮その程度の兄だ。威厳なんてものは無い。父と母、弟と弟。近すぎるゆえに嫌なものを知りすぎていて、全員好きにはなれなかった。
 家族に対する反抗期がまだ抜けてないのか。第二次性徴はもう何年も前に終わったつもりなのに。でも自分の家族を見ている度に、「ああ、なんて嫌な人達なんだ」と思う。思ってしまう自分が馬鹿らしく思えた。そういうのを世の中では『中二病』と言うというのを知っているからだ。

「瑞貴(みずたか)さぁーん。暗い所でご本読んだら、おめめ悪くするなのですー」

 舌ったらずの寛太(かんた)が俺を叱った。
 十歳以上も年下の男の子(寛太は、父・一本松の弟・匠太郎の三男。今年で確か中学生になったばかりだ)に叱られて、仕方なく本を閉じた。
 無限に続く回廊にも錯覚できる我が家の書物庫で読書をし始めると止まらない。そもそも今日は今は読書のために埃臭い書物庫に来たのではない。祖父・浅黄から抜粋してもらったいくつかの本を借りに来たのではないか。
 祖父から『今夜の作業』には最低でも必要な魔術書は十一冊。
 たった十一冊だが、延々と木製の本棚が続き、時には山積みになっている紙束の中から十一項目の文書を発見するのは難しかった。

 仏田の書物庫は一人で歩いてはいけない。牛の頭の化け物がいてもおかしくないぐらい広い書物庫なんだ。こんな所に好んでいるのは虫ぐらいだ。あっちこっち行ったり来たりしなくてはならない。だから寛太に手伝ってもらっていた。
 効率の良い探し方は分担作業。あとは祖父であり師である浅黄が書いたヨレヨレの筆字を頼りに動くこと。単純に見えて根気が必要な作業だった。
 書物庫の資料は、数百年前から色んな工夫が施され保存されている。薬物加工で劣化しないようにされているのが大半だが、その匂いが人を狂わせるような強烈なものだ。只でさえインクの匂いで充満しているのに、千年間の知恵は奥へ奥へ進むたび強烈なものになっていく。
 まるで「知恵を『実際の形』にしたら、こんな毒の空間になるのだ」と言うかのようだった。

「寛太、持てるか? これは重いぞ」
「はいなのです。だいじょぶ、なのですーっ」

 広辞苑より少し薄いぐらいな本(でも十分重い)を、カート代わりの寛太に渡す。
 十一冊も辞書を広大な敷地から歩いて探しまわる助っ人は、ちっちゃい体なのに立派な助手の仕事をしてくれた。
 寛太は俺と同じように祖父の浅黄に魔術について教わっている同門の兄弟。門下最年少だ。
 つい最近までハイハイしていたような甘えん坊で、真っ黒の真ん円おめめと洒落っ気にまだ目覚めていない黒い髪をしたチビッコ。成長期を迎えていない小さな体に子供らしい元気さ。決まって捻くれた性格が多い魔術師達の中で、まだ真っ直ぐで素直な性格を保っている少年だった。
 彼にはキナ臭い話が一切無い。今ここにいるのも「俺が困っているから手伝ってあげる」という奉仕の心で動いている。
 きっと術をマスターした後は皆を指揮るよりは、己の力を理解し誰かに尽くし仕えるタイプだ。そんな優しい少年は、一生懸命俺の探し物に手伝ってくれている。小柄な体で、必死にブ厚い魔術書を運んでくれた。

「さんきゅ、寛太。ここからは部屋まで俺が持つよ。元々俺の勉強のために使うもんだしな」
「僕、まだ二冊ぐらい持てると思いますなのですよ?」
「うんにゃ、寛太に筋力があっても先に紙袋が悲鳴を上げるよ。だからお前は四冊だけでいい。それでも充分手伝ってくれてるから助かる。残りは俺も重ねて持っていけるしさ」

 腕を伸ばしても重ねた本の一番上が、顎につくぐらいの高さだった。
 腰を固め、ぐいっと持ち上げる。うん、やっぱり重い。
 一冊減れば相当な重さが減るのだから、何冊か減らしてもいい気がした。もうちょい寛太に付き合ってもらう。

「朝っぱらから力仕事任せて悪いねえ。まさか今日、馬鹿力の連中が狩りに出るとは思わなくってさ」
「僕もそのこと知ったの、朝の四時でしたからビックリなのです。でもでもよくよく考えてみれば、昨日みんながリュックサックを引っ張り出してお出かけ準備してるの見てましたですー」
「そうなの? ……ああっ、もうこんなに時間食っちゃったな」

 随分と時間が掛かる作業だった。
 でもじーさん達を引っ張ってくるより若い寛太が支援してくれたおかげで、予定より早く終わってくれた。

「寛太がいてくれて助かったよ。よしよし」
「えへへなのです」
「七時か、太陽がすっかり昇っちゃったな」

 いつもだったら日の出を見るのに、今日は書物庫の暗闇から太陽に直接こんにちはをしてしまった。暗いところから明るいところに出てしまって、目が痛い。書物庫は豆電球があるが殆ど光が入らないから特にだ。
 闇が訪れる時間は、もう十二時間も無い。
 それまでにこの十一冊を読みきらなければ。今夜ほど美しい満月が、一ヶ月後にやってくるとも限らないのだから。

「朝飯、もう冷めちゃったな。ごめん、寛太」
「いいなのです。ごはんは冷たくてもごはんなのです」
「じゃあその冷たいメシ、俺の分まで食べていいよ。全部あげる。ついでに陽平の分も食っちまっていい。アイツ、今病気だから。それでこのお礼ってことにしておいてくれるか?」
「了解なのですっ。ごはん二人前分のお仕事、がんばりますなのですっ」

 にこり笑いながら、寛太は俺の部屋まで紙袋を持ってきてくれた。優しいイトコ弟が可愛いと思った。
 ――ああ、血が繋がっていないだけで少しだけど愛おしく思える。血の繋がった家族には嫌悪感を抱いているのに。
 思って、気を引き締めるために頬を叩いた。思いを吹き飛ばす為にも。

「ええっ!?」
「ん?」
「えっ……あ、あのあの。いきなりパシンって、どうしたなのですか?」

 自分で自分の頬を叩いたことで、寛太がびっくりしている。前後の会話無しでやったのがいけなかったか。失敗した。



 ――2004年8月31日

 【    /      /     /      / Fifth 】




 /2

 召喚の時がやってきた。

 満月が中央にやって来た裏山の森では、獣達が騒いでいる。人を見るなり襲い掛かってくるような動物は寺の裏の森にはいないと思うが、蝿一匹入れる訳にはいかないとドーム上の結界を張った。
 結界の色は白。白と緑は俺の好きな色だから、その色でデコレートした魔法陣を描く。本来なら血を使って真っ赤に染め上げる方が雰囲気があって良いけど、この際無視。元々魔術師の『呪文』や『印』なんてものは魔術師自身のテンションを上げるための道具だ。興奮させるすべが他にあるなら別のもので構わない。
 自分のテンションの上げ方は自分が一番知っている。人間を興奮させる色でなく、俺だけを満たす色であれば構わないと思い、ミルク色の魔法を唱えた。
 周りに生き物は何もいない。在るのは自分だけ。
 次の瞬間『在るものは二つになる』筈。
 これから、召喚術を行うのだから。

 真夜中。ここは……俺、瑞貴の一大イベントの会場。
 こぽこぽと地面に零す甘い香り。巨大冷蔵庫から持ってきたばかりのミルク瓶をひっくり返していた。
 ミルクの香りなんて意識したことはない。でも意外と濃いもんだな。深々とした森の中で、強い匂いを放ち始めていた。
 牛乳は数分放置しただけで異臭を放つ。生の液体として血液の代用には合っているのかもしれない。召喚の儀式にはピッタリじゃないか。毎朝飲んでいるけど大発見だった。

 頭上には満月。月は随分上に位置していた。
 俺の待ち侘びている時間までもう少しだ。一番良い時間までに手製の魔方陣を用意しなければならない。朝から魔術書の解読に勤しんでいたが、予定の三分の二ぐらいしか進まなかった。仕方ないので未完成な知識の状態で、魔術の準備に取り掛かる。
 場所は実家近くの山の森。邪魔が入らないようにするために白い結界を張り、やがて来る最高の瞬間を支度する。
 すると、音がそこに響く。風が吹いてもいないのに、牛乳瓶が転がったような気がしたからだ。
 自分以外を追い払ったばかりなのに部外者が入って来た? 俺は振り向く。不審に思い向いた先には、『生き物がいないように』下準備をしたのに、人が立っていた。

「十リットルもいりませんよ」

 ――人の準備に文句をつけてきたのは、背の高い、金の髪の外国人だった。
 その手にはカラの瓶を持っている。中身は、先程、俺が撒いたばっかりだ。

「え……えっ?」
「瑞貴様、召喚の術を行うのですね。初体験ですか? お一人で大丈夫ですか? 召喚魔術には確かに大きな力がいりますが、こんなに素材の量は必要ありませんよ」

 にっこりと笑う男性に、見覚えがあった。けれど、話し掛けられるほどの相手ではないと思っていた。
 だって、相手は金髪碧眼の外国人だから。

 我が寺に訪れる外国人は少なくない。魔の総本山だからやって来る物好きもいれば、なんと外人さんでも自分と同じ血を引く人だっていると言う。目の前で忠告してくれる男性は、後者だった。
 そう、この男は俺と同じ血を引く者である。たとえ薄くても、俺自身と同じものを引いている。
 明らかに日本人以外の外見をしているが、『仏田一族と同じ血』を引く者。同じ能力を持つ者。……それが俺にはむず痒くて、つい警戒してしまう。

「今の瑞貴様の魔力量から察するに、ミルクは四リットルもあれば魔方陣を描けるでしょう、あとはネジの無駄遣いになってしまいますよ」
「ネジの無駄……?」
「ええ、今から貴方は召喚に必要なものを集めている。自身の体や、歌を持って部品から完成させるモノを」
「あ、うん」
「でも不必要な量のネジがあったら、召喚された方も混乱してしまいます。例えば、三つあればお腹が満たされるクッキーなのに、お皿に十個も二十個もあったらなんだか気が滅入りませんか? 満腹はいきすぎると苦痛ですし、クッキーは湿気るから美味しくなくなりますね。花に水をやるにも多すぎれば枯れてしまいます。召喚される側も、いきすぎた接待はゲンナリされます。魔術の部品も、ありすぎたら召喚されたモノの手が……二本では済まなくなりますよ」

 確かに手が二本以上あるサーヴァントは怖いな、と手にしていた牛乳瓶を置いた。
 我が知恵を全て出し切っての召喚術のつもりだったが、少々張り切りすぎたらしい。それを注意してくれたのだからと、素直に目の前の男性に頭を下げた。

「アドバイス……誠にありがとうございます」
「いえいえ、口出しをしてすみません」

 上品な笑い方と流暢な日本語に、少し気味悪さを感じた。
 純粋な金髪の男性は、背は高く、女性のように綺麗な顔をしている。それでいて魔術も嗜んでいるとは。『博識なことぐらい聞かされていたから知ってはいたが』、あらためて忠告を受けてなんともいえない感情になった。
 彼の名前は知っている。『なにせ何度も聞かされていたから』。……他ならぬ、弟に。

「あの、どうしてここに? もしかしてここ、貴方の陣地でした?」
「いいえ、そうではありません。ここは一族の陣地ではありますが、私一人のものではありませんよ。けれど、私の散歩コースだったんです。甘い香りが漂ってきたので、一体どんな罠があるんだろうと思いまして。ついつい立ち寄ってしまいました」

 罠だと思っているのに近寄ってきたのか。俺の中では釈然としなかった。
 森の中で蝋燭を立てて魔術の準備をしているのだ、ちょっと不思議に思った魔術師が釣れてもおかしくはないが。
 男性の体をもう一度見る。全身スーツで堅苦しい。手には手袋をしていて、顔以外は露出が一切無い。夜だから不思議ではない。でも夏場だというのにその格好は。
 ……変人だと、俺は認識した。
 ハッとして持ち場に戻った。男性観察に時間を潰している暇は無かった。読む筈の本を飛ばすほど急いでいたのだ。もう一度頭を下げて、次の作業に取り掛かる。
 そんな俺を見て、男性はくすくす笑った。その細々した俺の動きがおかしかったらしい。

「呪文はもう覚えましたか。召喚に用いるのは長いから、大変でしょう?」

 男性は、ミルクの魔法陣を踏まないように俺に近寄ってくる。
 急いでいる雰囲気を全面に表しているつもりだったが、話し掛けてくるので仕方なく言葉を返した。

「カンペを見ながらやるつもりです。……えっと、貴方、英語得意ですか?」
「ええ」
「あの、『時間を破却する』って表現があるじゃないですか……あれって、"Yab"って訳すんでいいんですか?」
「ハキャク。どんな字か音だけでは解りかねますが、それはハカイやフンサイと考えれば貴方達にも判り易いのでは?」
「『破壊』と『粉砕』ですか? ま、まあー……確かに破却はすっかり壊すことを差しますからねえ。……って、そんなラクな考えでいいんですか?」
「はい、呪文というのは術者のモチベーションを作り出す手の一つにすぎません。自分を躁状態にできる手段が他にあるのでしたら、そちらを使えばいいのですよ。わざわざ決められた仕方に則らなくてもよいかと。呪文が言い伝え残されているのは催眠効果があるから、万人にきく洗脳であるからです」

 彼の口から出る豆知識にそんなもんか、と用意した成分を魔方陣に撒きながら思った。彼の話を聞いていると、召喚の儀式にそれほど準備を凝らなくてもよい気がしてくる。
 俺には、絶対に今日呼び出すだけの自信とやる気があった。
 それだけで興奮していた。彼の言う躁状態にはなれていると思う。だから大丈夫か、とまた自信が沸いてきた。
 もう、戻れないほどに。

「召喚を、隣で見ていてはいけませんか?」

 テンションが着々と頂点の満月に向かって上がっている最中、男が口走る。
 男を見る。彼は自分の体を抱いていた。それによってスラリとした体つきが強調されている。俺はただでさえ興奮していたせいか、少しどきっとした。体格はまるっきり男性なのに、この人は魅惑的なとこがある。ああ、これじゃあ『弟が病気になるのも無理はない』。
 けれど、彼から放たれる魔力が……いいや、自らの血の匂いが気に入らなくて、顔を背けた。知識のありそうな彼が傍にいてくれるのは失敗無く召喚ができそうな気もするけど、ここは提案を蹴っておく。

「すみませんね。俺は一人じゃないとやる気がおきないタイプなんです。宿題でもゲームでもなんでも、一人で追い込むタイプなんですよ。だからご退場ください」
「そうですか。面白いものが見られるかなと思ったんですが、邪魔をするようでは失礼しますね、瑞貴様」
「はい、頑張るためにも失礼させてください。失敗する訳にはいきませんから、もう一度資料を確認したいんです」
「ええ、お邪魔しました。でも大丈夫、貴方のその真直ぐな想いは式さえも無視する力ですから。――貴方の夢は、叶いますよ」

 ……夢。
 ああ、『俺だけの夢』だった。絶対に叶えてみせよう。

「私は人の夢を見るのが好きなのですよ。見るのも好きですが、それを叶えようとする姿も好きなのです。だから今、貴方の輝く姿はとても魅力的だ。これからも、欲に溢れる姿を皆に見せ付けてあげてください。一族中に。きっと目が、映えますよ……」

 失礼、と一礼して男性は森の向こうへ去っていく。最期はおかしなことを口走っているような気がした。
 『想いの気持ちが力になる』とよく聞くが、魔法の世界ではそれは本当に通用する。数学は数式を立てなきゃ答えはでないが、魔法はある程度頑張れば色々すっ飛ばしても答えに辿り着けた。その『ある程度頑張れば』の部分で数式が必要になるから、結局はしっかりしなければならないのだが。
 突然登場した彼が完全に見えなくなってから、また一人の作業に戻る。作業を行いながら「危ない人だったなぁ」と考え始めた。
 なんというか、雰囲気が。話しているだけで催眠にかかってしまいそうな不思議な人だ。
 ああ……睫長かったなぁ、とか。外人さんってベッピンだよなぁ、とか。目鼻ハッキリしてたし、日本語を使うときの声がヤケに可愛かったなぁ……とか。
 そう、俺はこれからもっと危ない人となる。

 ――月が傾きだしたとき、歌がスタートする。

 俺は正直歌があまり得意ではなかった。口がまわらないのは魔術師として致命傷だと知っているけれど、それでも今までそれなりの成績を収め続けてきた。
 炎を出したければ炎を出せたし、風を起こしたければいくらでも風を呼べた。山があれば乗り越えられる人間だった。でも俺には『天性の才能は無い』自覚がある。母の持つ風水の力が仏田の血と融合し、まあまあ優秀な刻印を持って生まれたが、高名な術師になるには及ばなかった。
 あくまで俺は『山があれば上って下りて来られる人間』であって、『山を崩して自分の道を通る』までの力は無い。
 歌を唄えられる。でも得意ではない。だから術師として活躍してやろうという野望も無い。術師の勉強はしているものの、いつも術師を客観的に見ていた。
 家族なのに家族ではないと思って遠くから見ているのと同じ。
 ふっとそんなことが過ぎったが、今は関係の無い話として気を引き締め直す。カンペを見ながら詠唱を続ける。

 再び深呼吸。落ち着いて精神を高める。
 そうして、スイッチを入れた。
 瞬間、俺は瑞貴という人間ではなくなった。
 今の俺は道具だ。儀式に必要なネジに変身する。ぐるぐると機械が動くためのネジとなって、周りのミルク色もネジや止め具、部品らに変身する。部品が全部足りたとき、機械が作られ始めた。
 目指すゴールは車。ぐるぐる動く車になろう。そうイメージしたとき、部品たちが動き出す。風に吹かれて俺の黒髪がゆらゆら揺れた。
 最終段階に向かうために、ぐるりぐるりネジたちが踊る。空を漂う儀式の道具たち。でも俺の本来の姿は人間だ。本当はネジじゃないからネジ扱いされて体が怒り出した。我ヲニンゲントシテアツカエと全身が異質な悲鳴を上げ始める。
 黙れ。お前は、いや俺はネジなんだ。一本でも足りなかったら車は動かないんだぞ。
 その叱咤を歌にして俺は唱え続ける。もしこれで負けてしまったら、皮膚が反抗期になる。肉からぷしゅうと噴出す赤い液体は、折角用意したミルクを赤く変色させてしまう。そうなったら失敗だ。失敗は嫌だ。……この場合、死ぬってことと同じだから。
 白は好きだけど、ピンクは嫌いなんだ。身体の中の色みたいで嫌だ。痛みに耐え、歌を唄う。絶対血なんて出してたまるか。
 歌を唄う。呪文を唱える。詠唱を続ける……。

「■■■■■■■■■、■■■」

 神経は過敏になり、身体に行き渡る魔力はこれ程は無いというぐらいに完全。
 身体中の魔力を、真っ白の空間に注ぎ込む。
 いきなりバアッと視覚を失った。目前には肉眼で捉えられぬこの世の知。
 なんともいえぬ快楽の渦。
 たった一秒の爽快感。苦痛。けど解放!
 俺が俺でなく何かになった絶頂。そして、爆発的なまでに存在が吹き上がる。

 ――瞬間。すべてが崩れ去った。

「なぬ」

 視界が戻ったとき、全てを理解した。
 森は変わらず、虫たちの声が聞こえる。結界は破れてしまったようで、そこら中で吐息がした。生きた世界に戻り、『生きるものは俺だけではなくなった』。
 折角描いた傑作であるミルクの魔方陣は、本当に踊り狂ったかのようにぐちゃぐちゃになっていた。
 そして、何かが天井から落ちてきたようで。
 ……魔法陣の上に、白い猫――ネコミミネコシッポを付けた男――が、にゃーにゃー鳴いていた。
 ミルクにまみれている猫が鳴いている。
 いや、正しく言うと、

「なんだ貴様! 突然呼ばれたからわざわざ来てやったというのに、訪れた途端にミルクをブチ撒かすとは! ガキか! ガキだってこんな馬鹿馬鹿しい真似はせんぞ! 馬鹿か! 馬鹿だな! オイ、貴様! 何か言ったらどうなんだメイガスよ!」

 と、叫んでいた。
 ……ああ。教室の扉に危うい物を挟んで『開いた瞬間バシャア』なイタズラがあるけれど。でも、小学生はそんなリスク背負ったイタズラしないって……。
 それに『歌』がミルクをブチ撒かしたのであって、俺の意思ではない。なのに……目の前の白猫は、にゃーにゃーにゃーと文句を続けている。
 今、白猫、と俺は言っているが……少々勝手が違うようだ。
 四本足のしなやかな体つきの動物……ではなく、『召喚された彼』は、見上げるほど大きい。二メートルはないが、180……190センチ近くある。
 白い髪をしている。目の色は黒……じゃなくて、紫色。切れ長な目。今はへそを曲げてるせいで顔が歪んで見えるが、黙っていれば美形と言われるぐらいの男性だ。
 でもただの男ではない。……頭には猫耳と、お尻にはふんわりしてそうな尻尾が生えていた。
 人間の体に、ふわふわとした毛並みの耳と尻尾。獣人だ。けたたましい声で鳴き喚いてはいるが、それに目が言ってつい……和む。
 さっきから引切り無しに喚いているから、『白猫』と形容したくなってしまう。
 だからつい、思ったことをそのまま口にしてしまった。

「それで、お前、何?」
「何、だと……」

 絶句したような声を搾り出している。
 ぴくぴく動いているが、怒りで逆に何も言えなくなってしまったようだ。
 そりゃあ、いきなり呼ばれて飛び出て牛乳バシャンは失礼だと思うけど。でも、どうしてこんなことに。
 歌を、詠唱を間違えたのか? やっぱり十一冊あるオススメ本を八冊しか読まなかったのが駄目だったか。だって、時間が無かったんだから仕方ない。こちらは飯も我慢して勉強したのだから。

「確認する。白猫、お前が俺のサーヴァントで間違いないか?」
「……こちらこそ確認させてもらおう。貴様が我を求めるメイガスに違いないか?」

 改めて魔術師らしい会話になり、猫の目がギリッと細長い目になる。低い声で問われ、一瞬体が凍った。
 目の前にいるだけなのに、桁外れの魔力を帯びているのが判る。

「……ああ。俺、瑞貴がお前のマスターだ、違いない」
「はっ、大した術師に引き当てられたものよ。血にまみれ立っているなら多少の無礼な召喚も許してやるところだが、まさか自分も紛れてミルクまみれとはな。これはなんだ、ギャグか?」
「いや、赤色の絵の具はやたら目が痛いから嫌いなだけなんだけど。血を集めるのも今のご時世、厄介なんだよ。人の血なんか以ての外だし、牛一匹潰すのだって大変なんだぞ。俺は緑色も好きだから青汁も本気で考えたんだよ? けど草を集めんのも面倒でさ、ジューサーを使うにも匂いがアレじゃんか。だから冷蔵庫から牛乳四本、ちょっぱってきた」
「……………」

 白猫は、何ともいえない顔になっている。
 そういや『血にまみれてるなら許してやる』とは言ったが、今の状況を許してくれているのかはまだ言ってない。
 けど、最初のにゃーにゃー以降、怒鳴りついてこないところを見れば……まあ、そういうことなんだ。



 ――2004年8月31日

 【    /      /     /      / Fifth 】




 /3

『俺の分まで食べていいよ。全部あげる。ついでに陽平の分も食っちまっていい。アイツ、今病気だから』

 僕は、瑞貴さんと別れてから気が付きました。そのようなことを、彼は言っていたような気がするのです。
 既に瑞貴さんの分だった朝のデザート(今朝は、銀之助伯父さんの手作りオレンジシャーベットでした)を食べさせてもらっています。
 いつもの朝食風景とは違い、一人ぼっちの食卓です。時刻はもう七時半、普段と比べると随分遅い朝ご飯でした。瑞貴さんの言う通り、朝食は冷めきっていました。レースのカバーがかけてある瑞貴さんの朝食トレーから、玉子焼きや鯖の美味しいところだけを頂戴していたとき、僕はもう一つのトレーに気付きました。遠くに同じように保留してあるのは、瑞貴さんの弟さんの朝食でした。
 瑞貴さんの弟さんは、先ほど思い出した『食べてもいい』の中で名前は挙がっていました。陽平さんといいます。瑞貴さんの三つ子の弟さんです。三つ子に差は無いけど、三兄弟の真ん中の弟さんでした。
 この寺では、『家族揃って食事』をすることは多くありません。それぞれすることが決められているから、職業が違えば生活スタイルが変わるように、同じ所に住んでいても同じ時間に食卓につくのは難しいんです。
 外に出る人は早めの食事になるし、朝から修行に励んでいた人達はその人達で食事をします。ズラリと並んで皆で黙々とご飯を食べる光景は、ありがちと思われますが、そんなの宴会ぐらいしか見ることは出来ません。
 毎日、厨房の人は用意するのが大変だといつも思います。多分、僕以外の人も大人子供限らず考えていることでしょう。
 僕は普段、門下の兄弟と食事を取っていました。祖父で師である浅黄様が「食事にする」と言ったら、みんなでご飯を食べる形式で暮らしていました。
 でも今朝、僕は瑞貴さんの仕事を手伝っていました。瑞貴さんが師匠である浅黄様に許可を取っておいてくれたと言うから、門下生とは食事を取りませんでした。だから今日は一人で食事をしています。特別な空間でした。
 正直な話をすると、まさか瑞貴さんのお手伝いが二時間程度で済むとは思っていませんでした。『十一冊の魔術書を扱う大作業』だと聞いていたから、浅黄様には一日丸々休みを申請してしまったのです。
 休みはわざわざ『上』に申請しないと取れないという訳ではありません。だってここは会社でも学校でもない、『我が家』ですから。そんな堅苦しいことしなくてもいいけど……なんかみんなしているから、自分もしてしまいました。そして、無駄に二十二時間、余ってしまいました……。
 普段だったら門下生と共に師の元で魔術の勉強をする時間です。みんな優しく魔術を教えてくれるんです。魔術は世間的には隠されるものですが、僕は学ぶ使命がありました。

『お前は仏田一族。いずれ儂らに従ってもらうのだからな』

 そう浅黄様に、さも当然の如く、言われてしまいました。自分が今日一日暇をしているという事実は置いておいて。
 僕にはお兄さんがお二人いますが、二人ともアウトドア派なので、今日は活発な武術組と共に朝から狩りに出かけているそうです。おかげで、我が家はほんの少し静かでした。十人ぐらいいないだけの、本当にほんの少しですけど。
 さて。瑞貴さんの弟さんこと陽平さんが朝食を未だ取っていないことに気付いて、僕は首を傾げてしまいました。
 陽平さんは自分らと同じ、浅黄様の門下生です。瑞貴さんの弟さん(三つ子なのに顔はそんなに似ていません)で、術を習っている一人です。瑞貴さんほどおどけた性格をしていないので、年が離れている僕はそれほど仲良くはありません。けど、親切で明るく愉快な人だったと記憶しています。
 お兄さんである瑞貴さんは陽平さんのことを『病気だ』と言っていました。そして、今ここにあるレースの下の食事を見る限り、陽平さんは朝食を食べていません。
 あれは、嘘じゃなかったようです。彼は食事をしないほどの重症なのでしょうか。
 三つ目のシャーベットが食べられるかな、と思ってちょっとわくわくしてしまったのは内緒なのです。瑞貴さんの悪ふざけで言った言葉だったとしたら後が怖いから、手は出さないでおきましょう。
 あれこれ思いながらも、僕は移動し、とある襖の前に座っていました。陽平さんという、イトコのお兄さんの部屋の前に居ました。

「陽平さん陽平さん、お元気なのですか」

 こんこんとドアをノックするように、襖を軽く叩いて中へ声を掛けてみます。
 もう片方の手には、今朝のデザートのシャーベット。銀之助伯父さんが「手作りだからシャーベットでも時間が経てば危うい。食べる者がいないなら犬にやる」と言い出したので、慌ててその場にいた僕が貰ってきた物です。
 手作りで賞味期限が危うくても、銀之助伯父さん特製なら三ツ星の味には変わりない味です。捨てるなんてそんな勿体無いこと、出来ません。取り上げた途端、昔から敷地内で飼っているわんこが寂しそうな声を出したけど、僕は涙目で振り払ってきました。

「すいません、食べていいですかー」

 シャーベットを。
 陽平さんの部屋に向けてそう言いました。でも返事は、ありませんでした。こちらに動いてくる気配もありません。
 ああ、もしかしたらお便所に行ってるのかもしれませんね。
 そう思いましたが、僕はつい、ゆっくりとですが襖を開けてみました。手に持っているのは氷菓子だから、モタモタしてるとジュースになってしまうからです。
 部屋は、意外にも綺麗に整頓されていました。いくつか本が散らばったりしています。読みかけの魔術書ばかりでした。陽平さんって実は勉強熱心な人なんだと感動します。
 ……と。そんなに広くない畳何畳かの部屋の隅っこに、布団が盛り上がっているのを見かけました。

「誰だ」
「寛太です。陽平さん、いきなりすいません、食べていいですか」
「……お前、最近の子供は早熟だって言うけど、いや、でも俺より十歳年下だぞ? 積極的でもそれは許しちゃいけないんじゃ……」
「駄目なんですか? ……残念です」
「残念!? そこまで俺のこと考えてくれていたのかっ!?」

 がばぁっと布団から出てくる男性は、いつも見ていたイトコのお兄さんでした。ちょっと顔が赤いのは、本当に病気なのか……興奮しているからか、判りません。
 ちなみに顔は、さっきまで一緒だった瑞貴さんとほぼいっしょです。さっすが三つ子。ただし服装は真っ黒です。寝ていたせいかオシャレ力は皆無。いつも真っ白な瑞貴さんと違い真っ黒な彼は、年も離れぬ同じ顔の兄弟ですが、陽平さんの方が少し騒がしい……いえ、「元気で幼い印象がある」言うべき顔をしていました。そう、小学生の僕にも感じるぐらいの人でした。
 陽平さんの部屋をよく見たら、魔術書が散らばっているだけかと思いきや、漫画なども多々散乱しています。親戚には漫画好きもいるのでなんらおかしなことでもありません。でも、布団の周りに散らばっているのは、ちょっと不真面目だなぁと思ってしまいました。

「あの、言葉足りなかったですね。何かよく判らないけど誤解しているようですし、ちょっと理解してないみたいだから改めて。このシャーベットのことなのです。コレは今朝の陽平さんの分ですけど、陽平さんが食べないとわんこ行きになっちゃいます。できれば助けてあげたいのですよ」

 シャーベットを。
 少しずつ説明すると、何と勘違いしていたか判らないけど、陽平さんは納得し、項垂れました。
 顔が赤いのは、間違えたことに対する照れ隠しでしょうか。それとも、やっぱり病気なんでしょうか……?

「ああ、今朝のデザートか……あげるよ。朝食は喉通らなそうだったから食べなかっただけ。休むの、瑞貴にしか言わないで連絡しなかったのはスマンかった……悪ィ」
「お元気ないのですね? 食事が通らなくても水分は摂った方がいいんじゃないですか? 牛乳でも持ってきましょうか? お顔も赤いですし、病気だって聞きました……あ、コレはちゃーんと僕が貰いますけど」

 シャーベットは。
 いいかげん手の中に収まっていたシャーベットがとろんとしてきたので、その場で携帯していたスプーンで口を付けます。相手を看るのも怠らずに。
 僕は改めて、まだ布団の中から出ようとしない陽平さんを見ました。うーうー唸っています。体調が悪そうにも見えるけど、悪いのは体調というより、気分の方だと思えます。

「病気」
「はい?」
「……病気、ね」
「……はい?」
「うん、俺、病気かもしれない」
「あっ、それは大変ですっ、銀之助伯父さん連れてきますか? あ、でももう昼食の準備をしていて大変だろうからー……リンさん連れてきましょうか?」
「誰、それ」
「シンリンさんですよっ。おじいさんのところに外国の男の人がいたじゃないですか、みつあみの、ちょっと大柄な……あの人、薬師でもありましたしっ」
「……外国人……」

 陽平さんの動きが(ただでさえのろのろしていますが)じっと止まります。
 暫し固まり、何かを真剣に考えてから……。

「部屋を片付けておく! ゆっくり時間をかけてそのヒト連れてきてくれっ!」

 と、非常に真面目な顔を僕に見せつけてきました。
 掃除する体力があるぐらいだったら元気なんじゃないか、と僕は口を出さずにはいられませんでした。

 ――瑞貴さんが『今夜、召喚を行う』と言って書物庫に入ったのが、朝の五時。
 僕一人で朝食を食べたのが、朝の八時ぐらい。
 そして陽平さんの部屋を訪れ、シンリンさんを連れて行くためあっちこっち彼を探し回って、二人手を繋いで戻ってきたときはもう時針は、朝の九時をさしていました。

 あっという間に過ぎていく時間を、僕はぼうっと見ています。一日暇になったらついつい時間は遅く流れるものかと思ったけれど、あれこれ人が多いおかげで退屈はありません。一人一時間話を聞いてまわったって、ここ仏田寺なら何週間過ごせるでしょう。
 陽平さんの部屋で、用意された座布団の上に座らせてもらっていました。シンリンさんと揃って二人仲良く座りました。
 陽平さんは自分の布団の上で鎮座しています。そして、自分の病気について真剣に語ってくれました。
 曰く、非常に熱っぽいとか。
 曰く、動機が激しいとか。
 曰く、それはある人のことを考えているとよく起こる症状とか。
 ……それは、子供の僕でも判る病名でした。シンリンさんは顔を見て一発目で判ったらしく、必死に陽平さんが説明するのを楽しげに、いいや馬鹿にした表情でにやにやしながら、聞いていました。

「そ、そっ、そのっ、どう思われますか、お医者さんっ」
「どう思われ、ね」

 自らの長い髪をくるくる弄りながらシンリンさんは、言おうか言わないか悩んでいます。
 いや……シンリンさんのあの顔は、絶対楽しんでいるものでした。僕は先に言ってしまおうかと思ったが、自然にシンリンさんの目で止められて、言う機会を奪われていました。
 シンリンさんは医者の立場ですが、一向に陽平さんのご病気を治す気は起きないらしいです。真面目な医者が真面目な病気を治す席で、ニヤニヤ笑う訳がありません。

「では陽平クン、いくつか質問させて頂くが、オッチャンに嘘をつかず答えるよーに」
「は、はいっ」
「それはある人のことを考えているとよく起こる症状、と言ったな。キミは」
「はいっ」
「どのようなことを考えているんだい。例えば、熱い熱い熱いと考えている人は自然と体が熱くなってくるもんなんだ、マジだぞ。催眠でどう自分のモチベーションを掴むかで自然は変わるもんなのさ。人体だって無意識に操ることもできる」
「でも……俺はあの人のことを考えながら『熱よ出ろ!』とか『動悸よ激しくなれ!』とか思いませんよ?」
「だろーね。だったら『ナニ』を考えてるかな?」

 僕は、『医者は笑顔を患者の為に自由に操れる』、そんな言葉をどこかで聞いたなと思い出しました。
 しかし今のシンリンさんは全面にそれが出てしまって制限ができていません。それで患者さんが怒り出さないのは、陽平さんが我を失っているからでしょう。

「…………」
「言えない? 言えないようなコト、考えてるんだ?」
「くっ……」

 その言い方は、まるでイジメのようだなと僕は思いました。
 思っただけで言わないのは、シンリンさんに押さえつけられているだけでなく、シャーベットを手にしているからです。
 今、しゃくしゃくと口に運んでいく物を手にしています。それは、シンリンさんのシャーベットでした。「甘い物は好きだが柑橘系は苦手なんだ」と年少者の僕にくれた物だったので、今の僕はシンリンさんの言うことならなんでも聞くようにしています。だって大事なシャーベットを貰ったんですから。

「……俺がどんなコトを言っても引きませんか?」
「ああ、医者は患者のために最善を尽くす。しかし、力を出し切るためにも患者のことをちゃーんと知らなくちゃならん……なんでもいいから話し給え」
「……じゃあせめて、そこの子供には聞かせたくないのでコッチ来てくれますか?」
「おーよ」

 耳打ちをする二人。僕はわざと音を立ててシャーベットを食します。しゃくしゃくしゃく。
 空間にはボソボソという微かな話し声。それと氷を砕く音だけ。……だけど、すぐに笑い声に部屋は染まります。若干一名のものによって。

「あっはっはっはっはっはっは!」

 爆笑。
 笑われて陽平さんは布団の中でばんばんと身悶えしていました。その仕草がおかしくってか、またシンリンさんが大爆笑です。なにしてんだろこの人達と思わずにはいられない僕でした。

「引いたっ! やっぱ引いた! ひでえっ!」
「いやいや引いてない! 笑っただけ! だから引いてない! あっはっは! だっ、大丈夫だって、手ぇ繋ぎたいとかキスしたいとか押し倒したいとかそれフツーだって!」
「ぐあああぁっ! ガキに聞かせたくないから伏せたのに、何で言うんだアンタあああぁっ!」
「いや、それ以上言ってないじゃんか! まだセーフだって! あっはっはっはっは! 安心しろ、オッチャンは異常性癖の部分は言わないからー!」

 笑い続けるシンリンさんを、今度は枕で殴り続ける陽平さん。ここまで元気なんだから病気でないのは確かですね。いや、違う病気にかかっていることは承知してますが。
 笑い疲れてゼーハーするお医者さんに、真っ赤になって悶えてゼーハーする患者さん。熱が上がっている二人の間で冷ますように、僕はしゃくしゃくとシャーベットの音を立てていました。

「……で、お前。『アイツ』と話したコト、あったっけ?」

 不意に、真剣な声でシンリンさんが尋ねました。
 笑い転げていたのと一転しましたが、真っ赤の方は更に真っ赤になるだけで変わりませんでした。

「いいえ、全然。一言もありません」
「そりゃまたフシギな……あいつと何かキッカケとかあったん? 『同じ本を取ろうとして手と手が触れ合った』とか? 『雨宿り中に傘を貸して貰った』とか?」
「どこの学園ロマンスですか、それ。……全くもってそういうことはありません。その、どうして好きになったって……」

 ああ、もう『恋の病』で確定なんだ……と、第三者の僕は思いました。
 お医者さんにちゃんと病名を告げられた訳ではないのに、陽平さんは理解してるじゃないですか。

「まあ。ズバリ、一目惚れ……ですよ」
「…………」
「…………」
「だって、凄く綺麗じゃないスか! 綺麗な人に惚れるのは普通だと思いません? 確かに人の好みとかありますけど、俺の中ではもうハートを弓矢を射られたぐらいの衝撃だったんですよ。目の色は綺麗だし、髪だってさらさらしてそうだしきっと良いニオイ……いやいやいや。しかも才色兼備? 文武両道? 凄い完璧じゃないですか。でもって英語ぺらぺら?」
「それヤツにとって普通だから」

 ……僕は、陽平さんの『病気』のお相手が、どんな人だか知りません。
 けれど、「とにかく凄い人なんだなー」というのは、彼……の一人語りからして、判りました。
 陽平さんの顔の赤くなりようは、普通の赤くなりようと違うものでした。とても綺麗な桜色です。病的な色ではありません。……けれど、この態度は病的かもしれないと思います。この病気は、ここまで精神を汚染するものなんでしょうか。
 シンリンさんは笑いながら、頭をポリポリかきました。そして病状を話すことに夢中になっている陽平さんと別方向を向いて、ぼそっと呟きます。

「……こりゃあ、随分強烈なチャームをかけられたっぽいなぁ……」

 困ったように呟いたのを、僕は聞き逃しませんでした。
 恋を『タチの悪い呪文』と言い換えるなんて、失礼だと思います。
 けど、やっぱり手にはシャーベットがあるので黙ることにしました。



 ――2004年9月1日

 【    /      /     /      / Fifth 】




 /4

「――――して。貴様が我を喚び出したのは、何故だ」

 仏田の敷地内にある、露天の湯。二人で並んで温泉に入っていた。
 ミルクまみれのまま二人放置は堪らなかった。だって牛乳って乾くと『学校の雑巾』を思い出させる匂いになるから。それが嫌で、二人揃って真夜中の入浴に来ていた。
 湯に浸かる男の体。湯気の中、それを見て「やっぱり相手は猫なんだな」と思った。
 現代人ぽくない衣装を脱いだ異世界の獣人は、それなりに身がついている。男性らしい体格だった。ごく普通の人間に、猫耳と尻尾が生えていた。カチューシャやズボンについたアクセサリーじゃなかった。
 綺麗な顔をしているが、その声は男のもの。背が高いから女性的という訳ではないが、全体的にか細いイメージがあった。よく見せてはくれなかったが、背中の下……腰の辺りから、白い尻尾が生えている。本当に、猫男だった。

「えーと。理由は……『魔術師だから』? 異世界召喚ぐらい朝飯前、みたいな?」
「阿呆。真面目に答えろ。貴様の目的は何だ。と言っても、我は他者の願いを叶えてやるほどの力は無い。もしそれを欲しているなら、何処かの勾玉か聖杯でも求めていろ」
「だから、理由は『魔術師だから』だよ。お前も猫だけど魔術師っぽいなら判るだろ。それなりに力を得たら、それを蓄える為にも魔術師はサーヴァントは欲したくなるもの……だろ? 魔術師の修行と発展のために二本以上の手足は欲しい。サーヴァントを増やして四本目、六本目の手足を作るのは普通であって……」
「我をそこらの使い魔といっしょにするな、うつけ。手下を持ちたがるのは権力を振り回したがる三下のすることだ。本当に手駒が欲しいだけなら、虫か爬虫類を遣い魔にすれば良かろう。それと猫と言うな、我は猫型のライカンスロープだ」
「それって猫じゃん」
「猫ではないっ!」

 ――魔術師は従者を持ちたがる。そして虫などは、サーヴァントとして扱いやすい。
 従者は主が使役するもの、だから理性が無い方が操りやすい。頭の良い哺乳類を操ろうとすると反抗される可能性が増えるから、一般的に魔法使いのお伴は虫、鳥、できて四本足の猫が使用される。
 人間をサーヴァントとして操れば、知能もあり力もある、とても強い配下を持っているとして誇れる。
 だが人権がある。絶対服従のルールの中でも『飼い犬に手を噛まれる』ことだって度々発生する。
 知能の発達した生き物をサーヴァントにするなんて、相当自分に自信が無きゃ使役できたもんじゃない。それを考えるとサーヴァントに、言葉を話す猫人間(しかもメイガスで超頭良さげ)を扱おうとするのは馬鹿がすることである。
 いつ食い殺されるか判らない頭脳明晰な者を従わせるのに必要なのは、力押しだ。魔力で無理矢理縛って飼いならすしかない。そんな手間を取るぐらいなら、知能の低いものの方が扱いやすいのは常識、なのだが。
 ……ちなみに、人間同士でも『契約』をして片方をマスター、片方をサーヴァントにすることもできる。それはさっき述べた通り、一人の人間を使役し、たとえ名目上だけでも絶対服従にさせるのだから、普通の社会では禁忌にも近い危うい行為だ。
 なにせ、マスターが「死ね」と言えばサーヴァントは死ぬ。拒もうとしても、契約の際に課した霊的な力によってその身は縛られる。魂の誓約によって普段体の中に眠っている力を呼び起こす儀式、それが『縛令呪識契約』。命の主導権を預けてもいいと思える信頼関係が無ければしてはならない。
 頭の悪い生き物を配下に従えるだけなら、そんなリスクを負わずに契約が出来る。だからこの猫は、手足が欲しいなら虫としろと言っているんだが。

「えーと、俺、虫も蛙も嫌いなんだよね」
「ならば猫にしろ、普通のな」
「お前も猫じゃん?」
「猫ではないと言っているであろうが!」

 フシャアッ、と耳をピンと立てて言い返す奴の、どこが猫でないと言うのか。
 並んで温泉に入っているというのに、やっぱり見下ろされている。体格全てが負けている。猫なのに、大きな猫だ。耳を隠されたらただの人間の男にしか見えないけど。
 それでもじわじわと伝わってくる熱いものがある。それが温泉の熱ではなく強烈な魔力なのだと思うと、隣の男が「単なる男ではない」のを思い知らされる。

「お前さ。召喚された理由を訊いてくるって、やっぱり喚ばれたからには代償が欲しいワケ?」
「当然だ、無償の奉仕などするほど我は暇ではない」
「お前、いつも何してるの?」
「我が一門は新世界の創造を目指し、より濃い血を目指し、滅亡するであろう世界の精算を覆す法を捜している。この世界ではない……異世界というものだな、我々は別世界の瓦解する結末を知っている。崩壊しない未来を証明するため為、在る筈の知恵を求め温習うのだ」
「お前さ、ミルクは嫌い?」
「……好きでも嫌いでもないが、先ほどの一件で嫌いになった。貴様、我が我が一門の理想を語っているときに何だ。高尚な我々の……」
「俺は特に好きでも嫌いでもないけど、血よりはミルクの方が品があっていいよね。そう思ってミルクをお前の召喚に使ったんだ。確かに格好はつかないけどさ。溶かした宝石とか使ったらいいんだろうけど。俺にはそんな金無いし」
「無視か、貴様、無視なのか」
「俺ね、自分の血を見ただけでクラクラするんだよね、つい酔うんだ。酔っちゃうんだよ。だから『自分の血が他にふらふら歩いているのがたまらなく嫌い』。流血は死を及ぼすから恐怖してるってだけじゃなく」

 一般的には『血=死』と連結してしまうから怖いのだと言うが、そうではない。
 俺は純粋に血液というものが嫌いだ。
 ……おそらく俺や父達の存在が気に入らない理由は、『自分に一番近い血液が歩いているから』なんだろう。それを言ったらこの温泉がある寺の一族殆どが嫌いになってしまうが……それも嘘ではない。
 正直、俺は我が一族全員が嫌いだ。みんな薄気味悪い。
 寛太のように可愛い弟分はいる。梓さんのように優しく話をしてくれる兄貴分もいる。福広や芽衣のように楽しいと思える連中もいる。魔術の心得を教えてくれる祖父も……決して尊敬できない『訳ではない』父親達も、良き存在であることは認めよう。
 だけど、俺は彼らが大嫌いだった。
 本心をどう思おうが俺の勝手である。彼らがみんな良い人達であることは事実で、俺が勝手に苦手意識を持っているのも事実。ちゃんとイコールが結べて、矛盾もしていない思案の錯誤。でもおかしいところなんて、無い。

「でもお前は嫌いじゃない。お前は一族じゃないから。俺の家族じゃないから」
「…………」
「なあ。お前がお腹空いたら、俺が欲しいだけのミルクをあげるよ。それでマスターとサーヴァントの契約はオーケーだな?」
「……猫扱いするな馬鹿者と何度も言っている」
「お前はさっき『願いを叶えられない』と言ったけど、俺の願いは十分にお前でも叶えられているんだ。そう、俺の願いは、カッコつけて言ってしまえば……俺の仲間に……いや、『俺の家族にならないか』ってことだから」
「そ、それが我に対する願い、だと?」
「あっ、別に俺の家族の誰かが欠けたから寂しいというんじゃないし、親戚一同もみんながみんな元気なんだけどさ。……俺はね、『血の繋がらない家族』っていうのが欲しいのよ」

 だって、同じ血がウロウロしているこの世界は、気持ち悪くてたまらないから。

「…………。それは、難しいな。血の繋がらない絆を形成させるのは、難題だぞ」
「うん、凄く難しいことだ。だから、『理解のある』頭の良い子を召喚したんだよ。ちゃんとこの状況を理解してくれて納得してくれるだけの脳を持った誰かが欲しかったっていうのが、俺の願い。そのために一番俺のコンディションが良くて、風水的にも最高で、天気も良い満月を選んで、最高の相手を喚んだんだ」

 ふっと天を見やれば、月は下がっていた。でも、まだ月の夜だった。
 我が家の温泉から見る月夜は最高だと、誰かが言っていた。いいや、誰もが言っていた。でも……その『一族の誰も』から言われるのさえ、むず痒さを感じる。俺は、相当の捻くれ者である。
 湯煙を掻き分け見る月は素晴らしいものと認められるのに、どこか歪んだ式のせいで、腹立たしさを感じる。これを取り払う方法を願いとすればいいのに、そこまでする気にもなれなかった。
 少し、壊れていると思う。自分が。
 意味も無く人を嫌う自分はおかしいと判っている。けど、おかしい自分を認めて逃れる方法を考えついてしまったんだ。――『誰か別の者を引き寄せる』ということ。それが手っ取り早い逃げ方だと。

「……はあ。そのための我か。貴様の空虚な穿孔を埋めるために召喚されたというのか」
「そういうこと。茶化す気もなく本心で言ってるからな。ミルクをぶっかける気は最初から無かったけど、ミルクを使うことは当初からあったから」
「もうミルクの話などどうでもよいわ。しかし、完全にマスターとして契約するなら血を流すことは避けられんぞ。解っておるな?」
「あ、その辺は我慢するよ。契約するためなら血ぐらいドバドバあげる。……今なら血がグツグツいってる。イケそうな気がするから」

 風呂の中、熱いお湯で茹でられて、きっと皮の中、肉の中も煮え滾っている。
 この方が相手も喜ぶ。単に牛乳まみれから逃れるためにもあったけど、こんなところでも好都合とは。

「で、白猫は『俺で』いいの? 一応お前を召喚した理由は言ったけど、こんな俺と理解した上で契約してくれるのかな?」
「無償で我が動くと思うな。この世界で使われている魔術の知恵を寄越せ。しかし……むう。暫く考えてきたが逆上せてきたようだ……上手く思考が働かん」
「茹で猫か。……苦しいならお風呂、出る?」
「猫ではないっ。……そうだな、貴様が嫌う貴様の血、そして知恵を受けることは我らの求める知の為にもなる。我々は最高に到達しなければならぬ。その糧になってもらおうか。貴様が旧い血であるのは我にも判るからな。少しは我の役に立ってみるがいい」
「わあ、そんなの判るんだ、きもちわるい」
「気持ち悪いとはなんだ、貴様だって我の魔力を読んでいるだろう、さっきから! 似たようなことを既に我も貴様にやっているだけだ。そちらの集める知恵と、少量のミルクがあれば貴様の下らん『家族ごっこ』に付き合ってやるわ!」

 ――その答えを聞いて、または言い終えて、にやっと笑った。
 今度は二人揃って、笑ってしまった。
 そして契約だ。



 ――2005年9月1日

 【    /      /     /      / Fifth 】




 /5

 『縛令呪識契約』。
 自らの異能力機能を用いて能力者本人に架せられる限界突破の呪い。
 人は他人と関わり合うことなく生きていくことなどできない。どんなに孤独な人間でも親があり、思い出がある。その思い出の大半は、超越的存在から強制的に授けられたイベントではなく、人ひとりが自分の意志で作り上げていくものである。関わり合い、絆が時に人々を救う切り札となる。その繋がり合いの方法として、『契約』というものがある。
 契約とは、超越的な力を持って主従の関係を結ぶ専属契約のことを表わす。主従といっても込められた意味は様々であり、親兄弟の契り、恋人同士の契り、義兄弟の契りなど人によって違うものだ。霊的な力で二人の絆を結びあうことによって、魂は力を合わせ合い、通常では引き出すことのできない力を何倍にも高めることができる。互いの体液を交換し身に混ぜ、誓約の呪を承認することで契約は成立する。主になる人物を「マスター」と呼び、従者になる人物を「サーヴァント」と呼ぶ。
 サーヴァントは自我と自由意志を持っているが、基本的にマスターの命令には絶対服従となる。イメージとしては、命令に逆らおうとすると「逆らえなくはないがヤル気が起きない」、もしくは、「体が一段と重くなる」など、意見はできても苦痛を伴う。
 マスターは複数のサーヴァントと契約することができるが、サーヴァントは複数のマスターと契約することができない。また、サーヴァントがサーヴァントを従えることは可能である。つまり、サーヴァントは複数のサーヴァントを従えることもできる。
 契約したマスターは、サーヴァントへの絶対命令を与えることができる。契約が完了したマスターとサーヴァントは、『縛令呪刻印』なるものが契約した双方、身体のどこかに現れる。この刻印は刺青のような形状をしており、身体のどこに現れるかはその人間による。
 絶対命令権は、能力を増大させるもの、ありえない現象を起こさせるもの、サーヴァントの意に添わない命令を強要するもの、空間点にさせるものなど様々である。例えば、一瞬でビルの屋上まで駆け上がるとか、数キロ先まで跳躍するといったことすら可能となる。また、この効果はお互いが霊的な契約状態であることを知覚した状態でなければ発動しない。己が主であること、従者であることを意識していないケースではその能力を使いこなせない。
 配下は主人に逆らえなくなるが、主人から超人的な恩恵を授けられる。
 多くの魔術師が意識の薄い使い魔を好むが、意識のある人間達の契約も例が無い訳ではない。リスクが多いので警戒している者は多いが。
 また、契約破棄の方法は以下の通り。
●マスターが契約破棄の命令を下す。
 マスターが「契約を破棄する」とサーヴァントに命じれば、呪令呪刻印は消滅し、お互い対等の関係に戻る。
●縛令呪刻印のある肉体を切り離し消滅させる。
 縛令呪刻印のある箇所を、肉体から切り離す。本体から離れた刻印は「本体に込められた魂」からの供給を受けることができなくなるので消滅する。
●教会の聖職者による心霊治療を施す。
 心霊治療が行える心霊医師によって手術を受ければ、肉体を切断することなく、苦痛を伴わず縛令呪刻印の刻印を消滅させることができる。

 記録完了。
 さて、そろそろ彼の料理の香りがしてきた。キッチンに行ってみるか。私はペンを置き、自室を出た。



 ――2004年9月1日

 【    /      /     /      / Fifth 】




 /6

 真夜中の風でも少し暖かく感じるのは、白猫自身の体が熱いからだ。
 白猫は、直ぐに外に出た。あれ以上湯に浸かっていたら、本気で逆上せてしまうと思ったからだ。
 自分の衣服はミルクにまみれているからまだ着られない。「これでいいか?」と渡された着流しに袖を通し、外に出る。
 東の国の風は蒸し暑かった。それにこの土地が空に近いせいか余計に干される。
 それでも風は気持ち良く感じる。人間用の衣服なので長い尻尾が出せないが、本当ならピンと張って伸びてたら気持ち良いと思った。
 白猫は魔術を使い、至る所に目を飛ばした。瞬時に周囲数キロの景色を把握する。

 ここは仏田寺というらしい。山の奥にある土地で、能力者の一族の本拠地だけあってあらゆる場所に結界が張ってある。
 大体の地理を理解できた。強く結界が張られた場所が最重要機密の場所なのだろう。なるほど、仏像が並んでいるあの屋敷の中がちっとも見えない。つまりあそこがこの一族の心臓ということか。
 仏田という一族を見つめながら真夜中を歩き回ると、白猫好みの洋館があった。古臭い館ばかりと思いきや、近代的な建物も敷地内には建てられているようだ。
 洋館の傍には、その建物に似合った花の庭が広がっている。なんだこれは? ここだけ世界が違うぞ。異様な。まあいい。この一族の大きさが、それだけで貪欲に測れる。

 今は夜。闇が深い時間だ。こんなときに風呂に入る者は他にいないのか、この国は完全に寝静まっていた。
 虫の声がすんすんと聞こえ、耳を澄ませば大勢の寝息が聞こえてくる。和風なあちらの建物には、多くの人間がいる。そう、あちらの方では大勢が。
 こちらの方では……ただ一つ。
 白猫は振り向く。寝息ではなく、吐息に気付いたからだ。
 その先に人間はいなかった。人間はいない。けど…………いた。
 白猫は低い声を出してしまう。元々あまり高い声ではないが、威嚇の鳴らしが含まれていた。
 けれど相手に敵意が無いことから、白猫は警戒心を少しだけといた。いつでも呪文を繰り出せる状態にしつつ――夜空の下に、対峙した。

「驚いた。此処は空に近い鬼種の地であるから化け物の一つや二ついてもおかしくないと思っていたが……『本来の意味の』……化け物――ばけたもの、がいるとは」

 こんな時間に闇夜の中に居るなど、自らを『異端』と名乗っているようなものだ。白猫は警戒するしかなかった。

「このような高尚なものを見せてくれるとは……ふう、あのマスターに喚ばれて正解だったと思うべきか。知が洗われる、感謝せねばな」

 これは幸福。白猫はつい口元がニヤけてしまった。
 だが途端、白猫は凍る。
 びきり。全身が凍てつき、動きを止める。

「!!!!!」

 鋭い、視線が、どこからともなく白猫を襲っていた。
 凍るような視線に、白猫の体も凍る。先ほどまで暖かかった体が、瞬時に氷付けにされた。生暖かい風が吹いて、漸くよろけることができた。
 ……なんだこれは。今さっき、全方位視覚を使ったがこんな危険なもの、把握できなかったぞ?
 ……なんなんだこれは。いや、『なんでこんなものがいるのに誰も起きないんだ!?』
 白猫は、今度は振り向かなかった。『振り向いた先に何かがいる』。今度は駄目だった。たらりと冷や汗が首筋を流れる。

「ようこそ。貴方とは血を分かち合えた家族。私達の家族になれたのね」

 ――声が、聞こえた。
 身動きのできないまま、背中越しに声を聞く。
 声は、女。先程まで白猫が聞いていた瑞貴とは似ても似つかない。……幼く、小さな子供のものだった。

「貴方に瑞貴を任せるわ。あの子はただ、頼りになるお友達が欲しくて貴方を喚んだのよ」
「…………」
「どうしてなのかしら、あんなに自らの血を嫌ってしまって。それって代々伝わるご先祖様を否定しているってことよ。……悲しいわ。傷付けたくはないのにあまりに反抗していたら制裁をしないといけないのに。ずっと続けてきたことなのに途切れさせたら創めた人に悪いって判らないのかしら。千年も知恵を溜めて、頑張って頑張って続けてきたことなのよ。だからこれからも続いていかなきゃ。千年続けた結果が、私達にはあるのだから」
「……貴様が何者なのか知らん。自己紹介も無しに現れられてもな。しかし先程契約したマスターの保護者だというのは判る。だがその声で『傷付けたくない』と言っても、説得力に欠けるぞ。無償で我が動くと思うな」
「無償じゃなきゃ任せてもいいの?」
「……我は異世界からこの世の知恵を蒐集しにきただけだ。そうだな……協力しろと言うなら、貴様の言う千年の知恵を寄越せ」
「いいわよ、あげる。そのうち結果は出るわ。あと一年で、千年間の成果がね」
「…………な……」

 白猫は耳を疑う。背中に話しかける少女のあっさりとした承諾に、違和感を覚えた。
 この一族は千年の知恵を蓄えてきた。先程瑞貴と契約した際に、そして彼女の今の言葉でそのことを察することができた。魔術結社として広大な土地を持ち、研究に明け暮れていることも数分前のサーチで把握済みだ。
 偉大な研究が行われている。それを……簡単に、「いいわよ」なんて言うものか?
 いともたやすく口にできるほど、この声の主は……この一族にとって……?

 暗闇の中に生暖かい風が突き抜ける。
 唾を飲み込み、振り返った。背後には誰もいない。かわりに、白猫を呼ぶ男声が残されていた。

「…………」

 白猫は思う。
 誰だ。唐突に現れて命令して去っていった……一体あれは、『何』なんだ。
 それともう一つ。『この一族はどうしてアレに恐怖しないんだ』。

「おーい白猫! なあ、白猫さ!」

 先程、浴場で契約を果たしたばかりのマスターが、白猫に駆け寄り、すぐに腕を引いた。
 その声でやっと白猫は、元通り自分の身体を動かすことができるようになった。

「……なんだ、真夜中に叫ぶな。それと我は猫ではない」
「猫じゃん。お前って、何食うの? ムチャ言わない程度だったら銀之助叔父さんって人が用意してくれるよ。あ、明日の飯の話をしてるんだけどさ。今朝のメシは寛太に全部やっちゃったから俺、腹減ってさー」
「我はネギとイカとカカオ以外だったら何でも食す。……それにしても睡眠の前に食事の話をするのか、貴様」
「やっぱ猫じゃん、お前……。って、もう眠い? 寝に行く? 俺の部屋、それなりの広いから眠れるよ……お前デカイけど布団長く敷けばいいし」
「構わん……どこかの木だって寝れる。だから猫と言うなと言うとろうに」
「ノラ猫だって木の上なんて危なくて寝られないよ。いいから俺の部屋で寝ろよ。つーか流石に朝から書物庫行ったり本漁ったりして俺も眠いからさ。俺の部屋、行こう?」
「引っ張るな、これやめんか、たわけ」
「それとさ。俺の名前は瑞貴だって名乗ったけど……白猫、お前は名前無いの?」
「あるに決まってる。もう契りを交わしたのだから知っておけ。我の名はシロン、シロン=カッツェだ」
「…………この上ないぐらい、猫じゃん」
「猫ではないっ! あと引っ張るでない、瑞貴よ。何度も言うが我は猫ではないぞ!」

 暗闇にあるのは、生暖かい風。
 白猫と、――――――それを呼ぶ声だけ。

 それ以外は何も無い筈だ。



 ――2004年9月1日

 【    /      /     /      / Fifth 】




 /7

 ミルクが踊っていた。遠くの木から白の結界を眺めていた私は、そんなファンシーな空間に笑みをこぼさずにはいられなかった。
 白の結界に光が差し込む。それもまた白だ。どこまで彼は『白』が好きなのだろう。
 そしてどうやら召喚は完了したらしい。彼の念願の夢は、無事叶えられたようだ。
 私は一頻り笑ってから、その光に背を向けた。森は妙な光を察知してか不思議と静まり返っている。通常、森に新たな仲間が増えたときは歓迎の歌を唄う筈だが、異様な白に包まれたものに近寄っていくものはいないらしい。静かな方が性に合う私には喜ばしいことだった。

 森から出ると日本家屋の集まりが見えてきた。
 山奥にある総本山は未知の力が渦巻いている。隣接する神殿は更に大きな力がある。大きすぎて自分には震動してしまうくらいのものだった。
 頭以外の全ての体を布でカバーしているが、この空間は魔が強すぎて私には少々居辛くもあった。それほど多くの魔が集結する月日をこの地は送っている。神を生み出すほどの研究を。遠き日の声を聞く者達を生み出すほどの連鎖を。
 完璧な先にあるものを求め幾度となく実験を繰り返れてきた。その集大成がこの、魔が充満した世界だ。
 だがあと一歩足りない。そのあと一歩はもう少しで終わる。ここまできたのだ、いつか完遂するに違いない。この連鎖の終末が見えてきた。終わらせてはならない。たとえ惨劇と言われようが――。

「うおおおぉーい! そこのキッモーイ顔で恍惚してるルージィルさあーんッ!」

 明らかに自分の名前を呼ばれ、表情を固めてしまう。真夜中のある一部屋から……。
 みすぼらしい目に入れただけで腐食してしまいそうな男が、手を振っていた。大半の人間は寝静まっているのに、その常識さえも失っているのか、あのいかれぽんちは。
 呼ばれたからには行かなくては失礼だ、と無駄に紳士な私はそちらへと歩いていく。明らかに紳士的ではない豪快な歩幅で。

「御機嫌よう。人々の安眠妨害をするだなんて躾がなってませんね、いつか僧侶長にケツの穴から張扇を刺してもらって体内改造をしてみては如何ですかこの下郎」
「あ、良かった。幸せそうな顔してたけどトリップしてねえな、普通のルージィルだ」
「用件を言いなさい。これで『ただ呼んだだけ』だと言ったら、その腰巻きを剥ぎ取りますよ」
「いや、呼ばせてもらったのはオッチャンだけど、用があるのはオッチャンじゃない」

 体を建物から乗り出して話しかける下品なシンリンは、顔を引っ込めて中にいる者を促した。思わず腕を組んで舌打ちをしていた私も、部屋の中に誰かいると見せられて体勢を直す。
 シンリンに呼ばれ、少し中の人物は喚いた後に。ばっと、窓から飛び出した。

「っ……?」
「そ、その、そのっ、こ、こんばんはっ!」

 まさか普段着の青年が窓から出てくるとは思わなくて、流石に驚きを隠せない。
 次に窓の方に向いたときには、シンリンが窓を閉めカーテンまでかけてしまう。先の見えなくなった部屋は電気まで消され、もう誰もいないようにも感じ取られた。
 居ないのではなく……森から出た私と、窓から出た青年だけの夜の空間になっただけだ。
 シンリンは、呼ぶだけ呼んでそのままどこかに行ってしまった。まるで、この男に会わせたいかのように。
 いや、それが目的か?

「――こんばんは。そんな格好で寒くはありませんか?」
「さ、寒くないですっ! って、ちょっとアレな格好でしたね、す、すみませ……」

 見やれば、青年の身なりは少々不格好だ。日本人は外着はいつでも清潔でお洒落なのに、部屋着に拘らないというのを私は学んでいる。青年はまさにそれだった。
 外ではスーツでも着て格好をつけるだろうに、自宅では布を一枚羽織っただけで済ますのだから……不思議だ。くだけた格好でもその人の個性として私は受けとめる。

「すみません、その、いきなり、アレ、ですよねっ」
「アレ……ですか、何でしょう?」
「いきなりで本当に申し訳ない! マジすみません! シンリンさん呼ぶの急なんですもん! けど! けれども、言わせてください!」
「はい」
「大好きです!」
「はあ」

 以下、沈黙。

「…………いかがですか?」

 おずおずと身を縮めて、黒い着流しを大きく被って、恐る恐る尋ねる。
 その姿が青年であるのも関わらず、私は小さな鼠に思えた。……大分、可愛げは無いが。

「あの、初めて見たときから決めてました……! よろしくお願いしますっ!」

 顔を下にして、右手を垂直に出す。
 ……ああ、これは『日本人の伝統的な愛の伝え方』であると無駄知識を持ったブリジットが語っていたような気がする。ねるとんとかなんとか……。
 真っ直ぐ差し出された手は、まるで握手を求めるかのようだが、親愛を表す笑顔はない。顔が下を向いてしまっているから、本当に手を求められているのかも判らなかった。
 それに……『我が手』を使うのは、気が引けた。

「その手は、私に触れたくて差し出しているものですね?」
「フれっ!? ……あ、そ、そうです……触れたいです。手ぇ、繋ぎたいです……貴方と……っ」
「ならばやめた方が良い。私と触れるとあらぬ事が起こりますよ」
「あらぬこと……?」
「ええ、貴方のためになりません。逆に傷付けてしまうかもしれません。私は結構危険な男ですから、受け入れるのは……」
「どんな形であれど受け入れてみせるのが愛ですっ!」

 再度、以下沈黙。

「…………は……はあ」
「その、まだ俺、貴方のこと全然知りませんからっ! 一目惚れですからっ! 初めて見たときにどきゅんときたんですからっ! だからこれから宜しくお願いします! 貴方を、受け入れていきますっ! よろしくおねがいしまぁすっ……!!」

 ぐぐっと手が更に伸びる。
 思わず後ずさりしてしまうほどの迫力。

「………………」
「………………」

 そして継続する、無言。

「………………」
「………………」

 答えなければ、一切合財動かないというかのようだった。……いうかのよう、でなく、そうなのだろう。
 私は今日、誰かに言った自分の台詞を思い出した。

 ――『何かに必死になっている人が好き』だ。
 何かに熱く、それに走っていく人間の滑稽な姿が、好きでたまらない。それに自分も身を焦がす。だから、熱くなっている人間は好きである。ぐっと胸が押された。相変わらず青年は手を伸ばしたまま。
 だから、これは自分が自分の胸を押したのだろう。ああ、きっとこれは、『惹かれている』証なんだろう――。
 私は、暫しの沈黙の中、その空気に耐え切れず伸ばされた手を取った。……まだ手袋はしたままだったが。
 手を取られ、下を向いていた顔がばっと上を向く。夜中でもよく判る涙目だった。
 その目が涙でキラキラしていたから判った。そう、キラキラ輝いている姿が好きだから、余計に惹かれ――。

「ああ、そうだ。付き合うとか前に、重要なことを一つ教えてください。……貴方、お名前は……?」




END

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