■ 040 / 「本性」



 ――2005年12月13日

 【 First / Second /     /      /     】




 /1

 家の近くに、交通事故多発地域がある。
 『魔の道路』『地獄交差点』などと呼ばれているそこは、いくら警告の立て看板やミラー、厳重なガードレールを建てても事故が起きていた。たった二年で数十回にも及ぶ接触事故、中には死亡事故にまで発展する危険な場所とされている。
 たまにワイドショーで取り上げられるほどで、小学生の登下校では絶対に使われないようになっている。大勢で渡るようなら必ず大人が見張るようにしているし、噂では近々監視カメラが設置されると聞いている。
 しかしどんなに危ない所でも道路は道路。危険だからゴミ箱へポイッと捨てられるものでもない。周辺で住む人の為の道なのだから、そこに住んでいるあたしは毎日通らなければならなかった。
 他に道など無い。その道を通らなければ帰宅できないのだから止むを得ない。学校の先生や大人達に「気を付けて帰りましょうね」と言われるのも慣れてしまうぐらい、仕方ないことだった。

 今年は非常に寒くなると言われた12月が到来。極寒の風と共に、燈雅さんが我が家にやって来るようになった。
 来訪するたびに燈雅さん(というより、燈雅さんのお家?)を嫌うお父さんに追い帰されていたけど、懲りずに彼はやって来る。ピカピカでとっても綺麗なリムジンで、怖そうなボディガードを連れて……来るたびにお父さんが不機嫌になって一日中ピリピリするから最初は嫌だった。けど、あたしは次第に好意を抱くようになっていった。
 お父さんが嫌う理由が、あたしには全く見えてこないからだ。
 あたしに用があるにも関わらず、無理矢理あたしを連れ去ろうともしない。いつも優しそうに笑っていて、掛けてくる言葉はいつもあたしことを心配したもの。大人であれば当然の気遣いなのかもしれないけど、優しくて暖かくて格好良い人に笑いかけられたら嫌な気分はしなかった。

 極めつけは、あの日の出来事。
 小学校からの下校時。例の『地獄交差点』に燈雅さんがいるところを偶然見てしまう。
 車が行き交う道路の端。注意看板が立ち並び、田舎に不釣合いな立派すぎるガードレールが建てられている一角。そこに綺麗な着物姿の男性が立っていた。
 電柱に故人を偲ぶ花が活けられているのを見ていたのかな、ふと思いながら近寄ってみると彼は……怨霊に囲まれていた。
 見るからに、怨霊というモノの群れだった。
 父や兄が『教会』という退魔組織のエージェントという仕事をしていて、お化けを退治してお給料を稼いでいると知っている。そういった『人とは違う力』は遺伝しやすく、父達が異能力と呼ばれるものを扱っている以上、あたしにも『幽霊を視る力』は最小限備わっていた。
 だから兄達の仕事が理解できたし、そのような人々が世界には多く隠れていることも承知だ。
 お化けの群れの中に、一人でいる燈雅さん。これから襲われてしまうのか、怨霊達に殺されてしまうのかと思った。
 結果は……火を見るよりも明らかというやつだ。
 燈雅さんが左手を掲げる。誰かに手を差し伸べるように、誰もいない空に向かって。
 誰にも気付かれないぐらい静かな呼吸の中で、燈雅さんは歌を唄う。その歌を聞いた怨霊達は綺麗サッパリ消えていった。
 一部始終は『怨霊が成仏した』というよりも……『燈雅さんの体の中に入った』といった方が的確だった。

「紫莉ちゃん。おかえり」

 掲げていた左腕を下ろして、一人立っていた燈雅さんが下校中のあたしに振り返る。
 先ほどまでの恐ろしい集団は燈雅さんの体に全て収納されていた。元々こうあるべきとでも言うかのように涼やかさで微笑みかけてくる。

「当分この道は平和だけど、お家まで送ろう」

 そうしてほんの数百メートルの道を隣り合って歩く。
 あんな意味深な行動を見せつけられてしまっては、何をしていたと訊かなければ逆におかしい。気になって仕方ないという目で燈雅さんの顔を覗き込み、説明を求めた。

「紫莉ちゃんにも以前話した筈だ。君は強すぎる魔力を体に宿している。大きすぎる魔力を食べたいって在らぬモノが近寄ってきてしまうんだ。今のはそいつらだよ」
「……燈雅さんが倒してくれたの?」
「ああ。オレの家は、君のおじいちゃんが住んでいる家は化け物を退治するお家なんだ。倒しておかないとここでたくさん事故が起きる。あいつらが君を狙うと同時に、この周囲の人達も全員不幸にするから。ここで起きてる交通事故はみんな怨霊のせいなんだよ」
「じゃあ、もう……オバケは倒したから事故は起きないの?」
「そうだね」
「……一番目のお兄ちゃんもオバケ退治してるの。なんでお兄ちゃんやお父さんはさっきのオバケ達を今まで倒さなかったの? ずっと前から事故は起きてたのになんでなの?」

 ほんの数百メートルで自宅に到着だ。
 だから問いかけだけで二人きりの散歩は終わり。
 自宅前……祖母が長年住んでいた古い一軒家の前で、二人して立ち止まる。
 ここでバイバイしちゃいけない話だったからだ。

「きっと紫莉ちゃんのお父さん達は退治していたよ。君や、ご近所さん達を守るためにね」
「でもさっきいっぱいいっぱい燈雅さんが倒して……」
「退治しても、異端はやって来るんだよ。君のお父さん達が守ろうとしても、元を断たなければ奴らは強い魔力に惹かれてやって来る。あの危険な交差点や、子供達のいる学校、そして君のもとへ血という餌を求めて。……もう一度言うよ、紫莉ちゃん。君にも以前話した筈だ」

 ――君は強すぎる魔力を体に宿している。大きすぎる魔力を食べたい連中が近寄ってきてしまうんだ……って。

 あたしは二年前まで、海外にいた。
 どこの国って言えない。お父さんが原因であっちこっち引っ越しをする生活だったからだ。
 でも二年前におばあちゃんが腰を悪くした。車椅子や寝たきり生活も危惧された。長いリハビリと、二番目のお兄ちゃんが『体を治す異能』ってやつがあるから少しずつ回復して……今はとっても元気になった。
 お父さんの家族は母であるおばあちゃんしかいなかったから、体を壊したとなったらすぐに日本に帰国。この二年間は日本で、たった一つの街で穏やかに暮らしていた。
 来年あたしは中学生になる。やっと日本の学校に慣れてきたし、このまま中学校に進学してもいいと思えてきた。あたしの家族にとっては和やかな二年間だった。
 でもその二年間で、事故が多発した。交通事故というのは世間一般に被害を報じるための嘘で、実際は……あたしの血に引き寄せられた異端達の悪行だ。
 話によると夜になるたび怨霊が湧いて周囲を騒がしているらしい。毎日のように燈雅さんの家の人が倒しているが、それでも間に合わないという。
 このままではいずれ、交差点だけでなく街そのものが地獄と化す。
 だから元を断たないといけない。
 異端達を引き寄せているモノを失くさなければ、この街に在らぬモノが溢れてしまう……。

「ひどい話なの」

 そんなこと言われたら、選択肢なんて無い。
 この悪い話を燈雅さんは、あたしのお父さんや……おばあちゃんにも話していた。話を聞かされた二人の顔色は、見てないから知らない。でも安易に予想できる。

「紫莉ちゃん。これから少し厳しいことを言わせてもらう。君の家族やお友達、いや、君自身を守るために」
「……なぁになの? どうぞなの。言ってくださいなの」

 これ以上何なのという本音を隠しながら、耳を傾ける。
 今まで長く同じ場所に滞在しないからこんな事故が起きなかったけど、まさか二年間移動しなかっただけで……悪い連中が集まってくるなんて。お父さんもおばあちゃんも、酷い表情を浮かべただろう。
 どこにぶつけていいのか判らない、怒りや悔しさの表情になったのではないか。

「君のお母さんは交通事故で亡くなったよね」

 その一言を聞いた瞬間、表情を気取る余裕すら無くなった。
 無知で可愛らしい少女を装って燈雅さんらに一線引こうというのが狙いだったが、このときばかりは素に戻った顔をしてしまう。
 その表情の変化に気付いたからか、燈雅さんはそれ以上直接的な言葉を続けなかった。あたしがある考えに至ったのを、凍った顔で察してしまい……気遣いのできる彼は、「厳しいことを言う」と言いながら口ごもった。
 そう。燈雅さんはただ事実を述べただけ。あたしの母が事故死したという事実を言っただけ。
 どこの国で住んでいたときだったか。覚えていない。だって少なくとも十年は昔なんだ。十二歳のあたしが覚えている筈もない。
 具体的な事故の内容や、どのような最期だったのかも……子供のあたしは詳しく聞かされていない。
 でもこの話の流れで判る。『魔の交差点』の事故は異端によるものだった。異端はあたしの血を嗅いで惹かれてくる。母は事故で死んだ。
 つまりそれは、あたしが原因で母が……死ん……で……。

「必要なことだからもう一度言おう。仏田寺に来てほしい。君を迎える準備なら出来ている。……何か不安なことがあったらオレに連絡をしてほしい」

 ――自宅の前で、立ちっぱなし。
 おばあちゃん達は燈雅さんを好いていないからお家に入れようとしない。あたしは構わないけど、この家はおばあちゃんのものなんだから家主に従わないと。
 よってずっと立ち話。12月の寒空の下、とても大事な話をすることになってしまった。
 冬の放課後はすぐに日が落ちる。十七時になる前に外は真っ暗だ。「そろそろ君の体が冷えちゃうね」と燈雅さんは別れの挨拶をし始めた。そうしていると頃合いを見計らって立派なリムジンが現れ、彼を連れて行った。
 彼のお家である、山の上のお寺に帰るために。

 自宅二階の窓からでも、あの交差点……『魔の道路』を見ることができる。
 今日は事故が無い。ドライバーや歩行者が注意すれば事故なんて起きやしない? いや、そうも言えない。あそこは悪い奴らが死を呼んでいたのだから。
 きっとこれから数日事故は無い。でも数日もすればまた悪い奴らがやって来る。それではいけないからと、燈雅さんは現れた。
 全ては、人々の為に。平穏の為に。
 そしてあたしの為に?

 テレビ番組の特集で例の交差点が取り上げられたときを思い出した。
 近所が映っているからとハイテンションになって観た内容は、たったの五分。被害は出ているが原因が判らず警告喚起するしかない現状という投げやりなナレーションの特集だった。
 当然だ。『原因は藤岡 紫莉です』なんて報道できない。
 そもそもオバケ退治をしている人達が世界に住んでいるなんて大々的に知られてない。

 本日は祖母の姿は無く、父や兄達も仕事で外出中。皆それぞれの時間を過ごして、あの道を通って、自宅に戻るだろう。
 彼らだって危険な道を通るかもしれない。帰るだけでも死ぬかもしれないんだ。あたしのせいで?
 ……こうなったら、本格的に父達と戦わなければならないか。「仏田っていうお寺に行こうと思うの」と告げようにも、どうやれば一番喧嘩にならずに済むか。
 お兄ちゃん達が帰宅する前に考えることにしよう。



 ――2005年12月17日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /2

 『教会』の宿舎から仏田寺へ一旦帰りたい。でも一人で帰るのはつまらない。何気なく圭吾さんに話したら、「なら新座くん、俺のドライブに付き合ってくれないか?」と提案された。
 美味しいご飯を奢ってくれる圭吾さんのことだ、絶対危険は無いという信頼感がある。「寄り道、大歓迎です」と快諾した。

 美味しいランチを奢ってもらってその足で仏田寺に帰省すると思いきや、圭吾さんの車は若干遠回りをして某霊園に向かう。
 仏田の管轄ではない、県外のとある公営霊園。庭園風の真新しい新規霊園だった。
 駐車場から見える薔薇園のような綺麗な墓地。思わず感嘆の声を漏らしていると圭吾さんは車を停めるなり「すぐ用事は終わる」と出て行った。

 車内で三十分ほど待っていると、お墓参りを終えたらしい圭吾さんはご年配の女性数名と一緒に駐車場に戻ってきた。
 圭吾さんを始め全員、喪服とまではいかないが礼節を弁えている質素な格好だ。みんなで誰かのお墓参りに来たんだと姿だけで判る。
 巨大苺ジャムパンを食べている僕には彼らの会話は聞こえない。何度もお辞儀をする圭吾さん。女性達も一人だけ年若い圭吾さんにお辞儀を返している。
 仕事関係の人達なのかな、と思っていると……特にご年配の老女が頭をペコペコ下げ続ける圭吾さんの手を取った。
 遠目で見ても、涙ながらの会話だと伝わってきた。

「ただいまー、ちょっと遅くなってごめんよ。……新座くん、それでパンいくつ目だい?」
「むぐ、三つ目でーす。でもさっき食べてたホイップマロンパンとチョコチップメロンパンは、ほら小さいでしょ? それにジャムパンは口直しだし」
「口直しならせめて飲み物は緑茶にしよう、メロンソーダはいけない。いくら君が食いしん坊だからって甘いものに甘いものを重ねたら……」
「ご忠告ありがとうございまーす。圭吾さんも食べたい?」
「いや、俺は別に一口ちょうだいって言ってる訳じゃなくてな」

 圭吾さんは気難しい顔をして僕の食事風景を見つめる。
 暫くして堅めの上着を脱いでから運転席に座った彼は、仏田寺へ向かい始めた。時刻は十五時を過ぎている。師走となればあと一時間もすれば暗くなる。お夕飯までにお寺に着けばいいと思いながら車は走っていく。

「圭吾さん。誰のお墓に行ってきたんですか?」
「俺のお母さんのだよ」
「……圭吾さんの、お母さん? じゃあさっきの女の人って……」
「俺のお祖母さん。今日で会うのは二回目なんだ。前々から今日会おうって約束をしていたからズラせなくって。だから新座くんに待ってもらうことになったんだ」

 お祖母さんとそのご家族。実の親戚同士だったんじゃないか。たった三十分しか時間を取らず離れることになってしまって、申し訳無い。
 予定があったなら僕のお願いなんて断ってくれても良かったのに。
 けど圭吾さんは「元から三十分だけって約束だったんだ」と笑う。気にしなくていいと朗らかに。
 あまりに軽快に言うものだから、つい、

「圭吾さんにお母さんなんていたの?」

 なんて、失礼な言葉が口から飛び出してしまった。

「いるよ。……先月、ときわのお母さんが亡くなっただろ」
「う、うん」
「あれで触発されたと言ったら変な話だが、ときわと一緒にあずまさんのお墓参りに行った帰り、一人になったとき……考えたんだ。『俺の母さんってどんな人なんだろう』って」

 車が実家へ向かう高速道路へ乗り上げた。
 よそ見運転などしない信頼安全の走行の圭吾さんは、真っ直ぐと平然に発話する。

「それまで知らなかったの? ……考えもしなかったの?」
「考えたことはあったさ、思春期は特に。でも母親役を演じてくれたお手伝いさんはたくさんいたし、その人達を本当の母さんと思ってあげなきゃって義務感が子供ながらあった」

 育ててくれた人達のために文句は言ってはならないと思ったんだ、と幼少期の彼は……子供とは思えない気遣いを抱いていたらしい。
 さすが圭吾さん。小さい頃の僕が、彼のことを『お母さん』と思っていただけのことはある。

「ときわも俺と同じで本当のお母さんとは暮らせなかった子だ。でもあずまさんのお葬式でときわが『お母さん』って呼んでいたのを見て……。『俺も母さんを、母さんと呼んでみたい』って思った」
「…………」
「俺、思い立ったらすぐ行動しちゃう癖があるんだ。その日のうちに親父に訊いたよ」
「狭山さんは答えてくれたの?」
「『お前の卵子提供者は機関を退職している。せめて手続きを行なった人事部に聞け』って言われた」
「……むぐ」

 彼は笑っている。予想はしていたが三秒で話が終わるとは思わなかったよ、って。
 狭山さんは『どうしていきなり実の母親のことなんて尋ねる?』の一言も無かったらしい。不機嫌になることもなかったという。興味など無い、尋ねられたから管轄の者へ案内された……それだけの親子の会話だった。
 狭山さんにとって、圭吾さんのお母さんは卵子を提供した人に過ぎなかった。それだけの冷たさなんだって判る三秒という時間に、パンがうまく呑み込めなくなる。

「新座くん。菓子パンばかり食べるのはいいとして、せめて飲み物はジュースじゃなくてお茶にしよう。カロリーを摂りすぎだ。寺に戻れば夕飯が待ってるんだよ? ……君がいっぱい食べるのはいつものことだけど」
「えー。僕ってそんなにいっぱい食べるキャラじゃないよー」
「そんなことないだろ、いつだって君が一番食いしん坊だったじゃないか」
「カスミちゃんほどじゃないもんー」
「はあ……どの口が言うんだよ。『霞よりもおかわりを何杯もするのは、いつも君だったじゃないか』」
「…………そうだったかな」

 詰まりかけたパンをメロンソーダで流す。
 糖分が染み渡ると抱いた嫌悪感が全て吹き飛んでいく。
 ……今の台詞、なんだか気になる。気に掛かって問い質そうと思ったぐらい。

「機関は……って言っても新座くんは判らないか。仏田一門は、出て行く手続きが面倒なんだ。面倒な手続きが必要だからこそ、退職書類はしっかり残っている」
「手続きって、『はい辞めますバイバイ』じゃ駄目なの?」
「駄目だよ。『研究資料は一切外には出しません』って誓約を書いて、血の契約を解除しなきゃ。束縛術式を解呪するんだ」
「……契約って、そう簡単に解除できないものでしょう?」
「うん。規律を守らせるためのギアスなのに、簡単に解除できたら約束が安くなるからな。他にも業務の引き継ぎや退職金の話、住み込みで働いてるから引っ越し作業があるから、どうしても一ヶ月は掛かる」
「……そうなんだ……」

 一ヶ月丸々、仏田から出ることに費やさなきゃいけない。それほどの苦労を、当時の人は味わっている。
 おかげで出て行った女性のことを覚えている人は多かった。資料も当然廃棄処分にはなっていなかった。
 たとえその後のことは知らなくても、足掛かりになる情報は多かった。同志として親しかった者達を尋ね、心当たりをしらみ潰しに探していく。圭吾さんは数ヶ月掛かることを覚悟していたそうだが、あっさり五日も掛からずお母さんの居所に辿り着いてしまった。
 居所というか、その人が住んでいた場所に。

「ご両親と姉夫婦の家族と一緒に過ごしていた。ちょうど十年前に癌で他界したんだって」
「……病気で亡くなっていたんだ」
「彼女のお父さん……俺にとっては祖父さんにあたる人も癌で死んだらしい。同じ病気で死んだんだと。俺も息子なら気を付けろ、定期的に検診を受けろって散々脅されたよ」

 今さっき霊園の前で挨拶をしていたのは、圭吾さんにとって伯母さんとおばあちゃん。二人とも愛想良く圭吾さんに笑みを浮かべていてくれていた。
 突然現れた甥、孫にも関わらず。

「むぐ、いきなり挨拶しに行ったんでしょ? 最初どんな反応されたの?」
「驚かれたよ。母さんは仏田を離れた後はずっと一人身だったそうだし、どうやら高坂さん達には魔術結社とか自分が能力者で異能研究をしていたってことも一切話さなかったみたいだから」
「お母さんの名字が、高坂さん? ……それ、圭吾さんが外でお仕事するときに使っている名前だよね」
「ああ。外だと『仏田』の名前は大きすぎるから、無断で母方の名前を使わせてもらってたんだ。どんな人か知らないのにさ。……ハハハ、裏家業なんて知らない人達だって途中で気付いて、誤魔化すのが大変だったよ。だから『娘さんが三十年前に職場で出会った上司と作った子供が俺です』って言っておいた」

 嘘じゃないけど……。そんな境遇を話されたら、おばあちゃん達もビックリしただろう。

「驚かれたけど、『こんなに大きい孫がいたって判って嬉しい』って笑ってくれた。いい人で良かったよ。『また遊びに来てくれ』って強請られたし。いやぁ、本当にいい人達で良かった」

 圭吾さんが明るく話す。
 どうしてこんなに明るい話題にできるのか。きっと出会えた彼女らがこれからも明るく付き合えるいい人達だったからだ。
 ……間違いなく圭吾さんがいい人なのは、そのおばあちゃん達の血を継いでいるからだと思える。きっと亡くなったお母さんも明るくて優しく気の良い人だったに違いない。
 それもそうだ、だって三十年経った後も数人のお手伝いさん達が退職を覚えているぐらいだもの。おそらく圭吾さんをそのまま女性にした人……だったのかもしれない。
 大抵はこうあるべき? いや、圭吾さんは例外だろう。羨ましいと思える程の特例だ。

「……むぐー、暗い話を覚悟していたけどホッとしました」
「俺もホッとしている。親孝行はできなかったけど、その分、高坂さん達にしないとな」
「そうだね。あ、圭吾さんもミニチョコパン食べる?」
「ちょっ、また食べてるのかっ? 新座くん、いいかげん少し量を考えた方が……」

 車を停車したら口の中にチョコパンを突っ込んでやろうか、と考えたけどそういや高速道路を運転中だった。
 赤信号機まで遠い。千切ったパンをそのまま自分の口に放り込む。

「圭吾さん」
「なんだい」
「僕も、親孝行ってしておくべきですか」

 頬張りながら、何気なく尋ねてみた。

「新座くんは、したいと思ったことはあるのかい」
「どうだろ、判んない。この話をするまでお母さんのことを忘れていたぐらいだし。それって駄目ですかね?」
「……駄目なんかじゃない。俺だってときわのお母さんの件があって、初めて自分の母親を意識したぐらいだ。……でもしないよりはした方が良いとは思う。優しくできるときにしておかないと、俺達より何年も先に生まれている人達は天国に逝ってしまうから。今まで忘れていた俺がしなさいとは言えた義理じゃないが」

 暫し無言でその言葉を聞き入れる。
 圭吾さんの声は、明るくても真剣なもの。きちんと僕に言い聞かせるために真面目な声色を作ってくれていた。
 僕がずっと黙ってそれを聞いていたせいか、圭吾さんがしんみりとした無言に少し焦り始める。「そのうち親父には酒でも贈る予定だ。『何のつもりだ』って怪しんで突き返されそうだけど」と茶化してくるぐらいに。
 父親の狭山さんにも気持ちを贈ろうとしているのか。……やはり圭吾さんは凄い人だ。縁の無かった母親だけでなく、近くに住む父親相手にも動き出そうとしているのだから。

 話上手な彼の語りを聞いていればあっという間にインターチェンジを下りて、寺最寄りの駐車場へ辿り着く。
 そこからは長い石段を徒歩で行く。
 下方の駐車場から、中腹の霊園までは灯篭がいくつかあるだけの暗い石段。ひたすら真っ暗な石段を一歩ずつ上がっていった。
 冬の夜、お客様はまず寺に来ないし、寺の人間なら十八時前後は夕食を取っている頃。だから夜の石段は僕らみたいな外に出る関係者ぐらいしか使わない。必要無いから灯りが無く、長い石段だから疲れて言葉も無く、ただただ静かに山を登る。
 ――終始無言だったのは、ずっと自分のお母さんのことを考えていたからだった。

「おかえりなさいませ、新座様」

 こうして辿り着いた山門には、女中さん達が数人……僕の帰りを待つ人達が頭を下げて待っていた。
 12月の夜は寒いというのに僕らが通り過ぎて屋敷に向かうまでの間、頭を下げ続けていた。
 彼女達は、僕の帰りを出迎えるために待機していたんだ。今日僕が圭吾さんと一緒に帰ると事前に連絡していたから。お仕事とはいえ大変だな、と思っていると圭吾さんが「俺一人のときはこんなことないよ」とボソッと呟く。
 改めて自分の扱われ方に変な感情を抱いた。圭吾さんに言われるまで気付かない自分も自分だが。

 圭吾さんと別れ、もはや定番となった自分に宛がわれた客室に向かう。
 僕が使っていた自室は寺にもう無い。家出した後に銀之助さん主導で綺麗さっぱり無くなっていた。だから帰省のたびに客室を使っている。定期的に帰るようになったのだから、いっそ新しい自室を作ってもらうべきなのかもしれない。

「龍の聖剣。君ってチョコパン好き? 一つだけ余ってるんだけど」
「……一つしか余ってないなら新座が食べちゃいなさいな」
「さっき圭吾さんに食べる量を考えなって言われたしさ。顔を立てて上げるべきかなって」
「どの口がそれを言うの。全部食べたその口が言っているんでしょ」
「むぐー、しょうがないじゃんー。……『この世界』に来てから、食欲がおかしくなっているんだよ」

 夜の廊下を歩いている最中、一つだけ残ったミニチョコパンを彼女に渡した。
 僕にとっては一口で食べられる菓子パンだが、小さな女の子にとって両手で抱えて食べるような大きさだった。

「それが、貴方の『今回のループの代償』よ」

 客室に入って、畳の上に鞄を放り投げる。
 独り用のお部屋とは思えぬご立派な机の前にあった座布団を指さした。指をさされたそこに彼女は座る。そうでもしないとこれみよがしに机に腰掛けるからだ。

「……代償。むぐ……魔術でも契約でも何でも、効果には対価が付き物だっていうけど、何の?」

 ちゃんとしっかり座布団を使って、その後にようやく渡されたパンを、パクッ。
 僕みたいに廊下でジュースをずるずる飲むような不良じゃなかった。

「記憶を引き継いで『世界』を跳ぶ代償よ」
「……『世界』を跳ぶ代償、か」
「新座は12月31日まで生きていた。でもあの世界はもう駄目だったから、また10月1日まで時間を巻き戻して跳んだ。その秘術の代償。……以前は『腕一つ』だったけど、今度は『体の中が変化した』みたいね」
「物凄くお腹が減るというか、甘いものがとにかく食べたくてたまらない体になっちゃったというか。それでいて体重は今まで通り増えるんだから、むぐ……僕が女の子じゃなくて良かったね」
「貴方が女の子ならこの一族も安泰。良いに決まってるでしょ」
「むーぐー。……でもさ、前回まで僕ら……9月1日にタイムリープしてたと思うんだけど、一ヶ月時間跳躍がズレているのはどうしてかな」
「単純に考えて、貴方の魂が時間跳躍に耐えきれなくなっているからでしょう。四ヶ月も巻き戻すより、三ヶ月だけ巻き戻す方が難しくなかった。都合が良かった」
「三ヶ月あれば大丈夫かなぁ」

 ……確かに、今の僕の魂には多くの知識が蓄えられつつある。
 みんなに襲いと詰られそうだけど、大きな魔術の知識や、家のこと、そして家族の中に悪い人がいること、多くのことを度重なる四ヶ月間で選べた。
 スタートが若干変わっても、それがペナルティにはならない程度には。
 それよりも大きいのは。
 ……お腹を抑える。

「あー、誰かお夕飯を僕の部屋まで届けてくれるのかな? それとも取りに行かなきゃいけないのかな?」
「部屋に電話があるでしょ。それで訊きなさいよ。……もうお腹が減ったの?」
「……ねえ、聖剣。これ、明らかにおかしいでしょ。今からでも僕、さっきと同じ物を全部食べられるよ。こんなんじゃマトモな生活できないな」

 そんなの今更。
 マトモな生活なんて、『いくつかの世界』の前に置いてきてしまったって判っている。

「魂の情報に、支障が出てきたのね。新座の器は、故障しているの」

 お腹を抑えているよりも先に、ご飯を強請ろう。そう思って部屋に備え付けの子機へ近づく。

「新座はもう何度も魂の結合を行なっている。だから綻びが生じ始めているのかもしれない。それが一言で言うと代償というやつなんだけど」
「魂の結合って……」
「『前の新座の魂』を、『今回の新座の器』に入れた。『今回の新座の魂』のある器に。二つの同じ魂は、結合して一つになる。だから『前の』魂も、『今回の』魂の記憶も、『今の』器はどちらも引き出せる。それをもう、何度か繰り返してきてしまった。魂は一つに合体しているけど、それは実質……」
「一つのものじゃない」
「本来、一つの器につき魂は一つしか定まらない。仏田の血筋は特殊だけど、一部より耐性があるってだけで、本来は推奨できるものではない」
「……手っ取り早く言えば、『使い過ぎて摩耗し始めちゃった』ってこと?」

 情報齟齬が起きて、器が正常に機動できなくなった。
 体の一部を動かす魂の外的情報が欠如したり……そういうこと?

「魂が変わると、それを囲う器も変化するわ。そしてそれは個人だけに留まらない。器を囲っている世界も順応していくもの」
「…………むぐ」

 僕がいくつか世界を跳んで、有利になって喜んでいたけど……腕の力を失くすという器の変化が発生した。
 魂は元から僕には腕の力が無いものとして振る舞い出した。だから器の一部である腕は使い物にならなくなった。さらには腕が使えないという器の変化は、周囲……お兄ちゃんもそれを把握しているという、世界の変貌を引き起こした。
 同じように『この世界』でも、僕は甘いものが大好きで大食らいとして見なされている。圭吾さんの反応がそうだったように。

 『前の世界』まで僕らの中で食いしん坊といえば、カスミちゃんだった。
 でも『この世界』では僕が一番の食いしん坊ってことになっている。圭吾さんがそういう認識になっているのではなく、きっと志朗お兄ちゃんや悟司さんの意識も変革しているだろう。
 今まで使えているつもりだった左腕が、使えないものになったと書き換わった時点で……志朗お兄ちゃんの中で「僕は左腕に障害を持っている」と変化したように。
 全部、僕の魂が周囲を書き換えた結果……少しずつ世界が変わって……?

「……こんなのこと進めていったら、きっと僕は別人に変わっていくだろうね」
「でも誰も変わったことには気付かないわ。在る魂に合わせて世界は都合良く書き換わっていくものだから」

 良いことなのか、悪いことなのか。
 うん、良いことだな。僕一人が甘くて美味しい物を食べたくて堪らなくって苦しむだけで、誰も不安になったり苦しんだりしないのだから。
 僕一人が苦しめばいい話か。



 ――2005年12月17日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /3

 普通の道場のように見える造りの建物には地下へ続く階段があり、B2にあたる空間はコンクリート打ちっぱなしの大空洞になっていた。
 換気はしっかり成されている。天井も申し分無い高さだ。「木造の体育館では炎を使った修行はできない」とは聞いていたが、こんなに最適な鍛錬場が仏田寺の敷地内にあるとは知らなかった。
 仏田寺と一括りに言ってはいるけど、寺社だけでなくホテルのような洋館やこのような体育館があるし、小さくても泉や畑まである。街というか、本当に国のようだった。

「それでは緋馬様。おさらいをしていきましょう。制限時間は、三十秒です」
「はい……」

 高校の全校生徒が入れるぐらい広い石畳の一室には、俺と師となる魔術師の女性しかいない。
 彼女がボソリと口ずさんだ後、俺の前に巨大な黒い炎が現れた。ただボウボウと燃え盛るだけの火の塊だ。
 それを消してみせろというのが本日の課題だった。既に時間を掛けてなら成功している。だから今度は時間を短縮しての挑戦だ。

 消火なんて三十分あれば、消防に通報して消してもらえる。一人でやれと言うなら二十分あれば、水を汲みに行って消火することだって可能だ。魔術の心得がそれなりにあれば、十分だけで打ち滅ぼせる。
 けど、相手が動き回る敵なら十分も掛けていられない。五分だって戦闘は続かない。息が上がって戦意を消失した途端敗北が決定するからだ。
 だから、やれるのは一分。本気を出して全力で相手を消す一分間が勝負。
 魔術の鍛錬のつもりで始めた修行の日々。精神論から体力作りまで、ありとあらゆることを詰め込まれた三日間。
 その最終日なのだから、本気でぶつかるしかない。

「……いきます!」

 瞬間的な詠唱を始める。
 能力者の奏でる音を音叉のように振動調節し、平静だった魔力を高めていく。眠っている異能のスイッチを起動させ放出。
 鋭さは、未熟な俺にはたかが知れていた。素人では放射する威力はいくら努力してもさほど変わらない。だから呪文でバックアップだ。
 ホースで水を放つときチョロチョロと半端な水量でしか射出できないのなら、出口に爪を立て狭めることで爆発力を高めればいい。
 そして自分の炎を向ける先は、弱点。燃え盛る対象にも心臓部がある。能力者から独立させたモノなら核となる部分が存在した。
 ならそこに狙いを定めて、自分の力を即物的照射すればオッケー……!

 以前の世界で、火刃里が奔出させた炎を芽衣さんが更なる火炎で消した光景を思い出す。
 記憶の意図を手繰るたびに左胸が痛むが、死に直面したときの苦痛を追想したときとは比べ物にならない。深呼吸を一度すれば吹き飛ぶぐらいの痛みなんて無視だ。
 今は三日間の成果を放ち、黒い炎を自分の赤へ塗り潰すのみ。

 ――12月17日土曜日。終業式まであともう少し。
 だが12月1日に冷水を全身に被った俺は風邪を引いて重症、あれから風邪を引いたり治したりまた引いたりと授業に復帰できないから寮から一時帰省……ということになった。
 風邪を引いたのは嘘だ。四十度を出した体温計は、炎の異能の応用で高熱に見せかけただけ。「寮に菌をばらまいてはいけないから」と自分で言い出して家に帰った。
 伯父さんの住むマンションに帰省した俺は、素直に仮病であることを伯父さんとみずほに告げた。

「俺って未熟にも程があるってやつだから。三日ぐらいお寺で勉強させてもらうことにするよ」

 魔術や異能について、寺で勉強したい。だから仏田寺に行ってくる。

 そう告白された藤春伯父さんは、形容しがたい表情をしていた。
 驚いただけじゃなく、とても複雑な顔。そして苦笑いをしながら、

「じゃあ、伯父さんから寺に頼み込んでおくよ」

 と了承してくれた。
 彼が納得できる理由はいくつも用意していた。
 ……9月に男子校へ転向してから幽霊退治をして、自分の不甲斐なさを感じたから。このままだといけないから本格的に能力者として鍛錬を積まなきゃいけない。それは自分を守るためにも、これからのためにも必要なことだ……。
 正論を並べられたら文句のつけようがない。言われた藤春伯父さんも頷くしかない尤もな理由。だけど言った俺も、言われた彼も、一口では言えない心情になったのは確かだった。
 裏の稼業に引き込みたくなかった藤春伯父さんと、そんな裏社会に苦手意識を持っていた俺。
 本当なら伯父さんは「自分から寺に行く」なんて言い出してほしくなかっただろう。俺だって言いたくなかった。
 でも、時間を掛けて学ぶことが必要なんだと思い知らされてしまったんだ。

 12月14日に寮を出て、伯父さんに報告。
 翌日には仏田寺にお世話になり始め、そして丸々三日間……今日がとりあえずの最終日。
 研究棟に住み込みで働いている人(藤春伯父さんの義姉らしい。つまりは現当主様の奥様。凄い立場の人だ)に教鞭を取ってもらった。
 初歩中の初歩しか学んだことのなかった俺だったが、実地で覚えた知識が多かったから勉強はすんなりと進んでいく。
 初心者から中級者を名乗れるぐらいにはなれたと思う。前よりは良くなった筈だ。
 それに知識というものは判り始めれば面白いもの。最初はちんぷんかんぷんだった魔術理論も、一定のハードルを越えたら理解が恐ろしく早くなっていった。基礎だけ卒業できたらいいと考えていたけど、これから応用を学び始めてもいいかもしれない。
 そう思えてしまうほど、俺は魔術の才能に溢れているみたいだった。

「さすがは、緋馬様です」

 子供なので褒められることは嬉しかったが、その一言だけが余分だった。

 ……寺での勉強は、今日までだ。
 明日になれば寮に戻る。明後日月曜日から学業に復帰だ。一週間以上休学したら学業についていけなくなるし仕方ない。
 教鞭を取ってくれる彼女達も、本来の仕事がある。藤春伯父さんからの(それと口を合わせてくれた『本部』の)頼みで俺に指導をしてくれたが、要は三日丸ごと残業をさせられたようなもんだ(彼らにも見返りが用意されているとは思うが)。
 正式な寺の一員ではない俺は今日までお客様。これ以上学ぶとしたら、本当に寺の門を叩くべきなのだろう。
 途中で無邪気な弟の火刃里が俺にへばり付いては、

「兄ちゃん兄ちゃんーっ! 兄ちゃんもさっ、おれといっしょにずっとお寺でおベンキョしようよっ!」

 何度も何度も強請ってきた。
 ハイハイそのうちねと剥がすのが天丼芸だったが、今夜はつい「……考えておくわ」と返事してしまう。

「おおうっ!? やったーっ! 兄ちゃんのお返事が変わったよーっ! これって好感度が上がった証拠だよねっ! やったぁーっ!」
「……間違ってもそれ、火刃里へのポイントじゃねーからな」
「あのね好感度が上がるとね新イベントがプレイできるんだよっ! イベントクリアすると新しいエンディングにいけるの!」
「なんだそりゃ」
「福広さんの言ってるゲームっ! でもおれ格ゲーとかの方が好きっ! ボタン押してるだけでいいからっ!」

 福広さん。
 俺達の先輩の男性。
 この三日間のうちで、彼にも会った。

 ……そりゃ会うさ。福広さんは寺に住んでいる人だもの。
 普段は掃除をすることが仕事だって話していた通り、屋敷や霊園を掃除したり、来客に見せる庭をいじったりしていた。
 元々俺達は仲が良い。三日間も俺が寺に泊まるとなったら親しい彼がちょっかいを出してくるのも当然だ。
 でも勤勉なふりをして彼との交流を拒絶した。僅かな時間で勉強に励むのだから彼だって無理に近寄ってこない。ふざけてはいるが良識はある大人だ。初日に一言二言挨拶をしただけで、大した会話もしなかった。

「兄ちゃん? 全然遊ばないけど、マジメさんなのっ? キャラ変えちゃう努力中なのっ!?」

 挨拶、しただけ。
 ああ……挨拶ができただけ褒めてほしい。
 だって福広さんにどんな顔をしていいか判らない。殺された人間は、殺した人間をどんな顔で見るのが正解なんだ?

「……うるせーな。俺は元より真面目だよ」

 『この世界』の福広さんは俺を殺してないのだから、彼に悲しみの矛先をぶつけるのは間違い。
 そんなの判っている。『この世界』も福広さんに殺されると決まった訳じゃないんだし。
 でも……「上からの命令だから」と言って笑って銃口を向ける福広さんのことが、忘れられない。
 トラウマが出来ちまったんだろう。思い出すだけで心臓が過剰に動き出して、身が震えるぐらいだ。

 そう、あれは悪夢や妄想じゃない。成功した『越境の書』が語っている。
 あの出来事は、『別の世界』の記憶。これから来る未来の可能性。ある時間に確かにあった事実……。
 それらに打ち勝つためには、力が必要だと思った。現に『時間を跳躍する』知識が魂を救って……俺が生き続けている道を作ったのだから。
 もしまた死ぬような未来が待っていたとしても、知識とそれを実行できるだけの力があれば、俺はまた生き延びることができる。
 袋小路の死に直面したとしても、次々に生きている世界に飛んでいけば生きていける。
 そうだ、そのために高度な魔術が……!

 ……ちょっと待て。考えが飛躍しすぎだ。

 別に俺は、永遠に生きたくて学びに来たんじゃない。『死んで蘇えらせたいから』自分を鍛えに来たのではない。
 あった方がいいのは確かだ。力があれば生き延びることができる。そうじゃなくて、最初に考えたのはそんなもんじゃなくて……。
 死を持ってくるモノが何であろうと、排除できるだけの力があればいいと思ったから。中途半端な自分では無理だから打開しようと……。
 そうだ、自衛のためだ。
 また12月31日になったら理解の出来ない死がやってくるかもしれない。
 それは31日に限らない。来年かもしれないし、明日かもしれない。
 どんなときでも自分を守るために、得られるものは得ておこう、俺は得られる境遇にあるのだから。
 ……これが、正解だ。

 十八時になり、自室として用意された部屋(大晦日に俺に割り当てられる洋室。カーペットがふかふかのあの個室だ)に夕飯が運ばれてきた。
 昨日まではお手伝いさんが食事を持ってきてくれたが、やって来たのは寄居だった。
 『仕事』があるとき以外は寺で悠々自適に暮らしている寄居なら、飯を運ぶぐらいの手伝いをする。それが同い年の友人である俺相手だったら引き受けるものなのだろう。

「ウマ。今日は二人でメシ食っていい?」
「いいけど。……お前っていつもは誰かと食ってるの?」
「朝は修練に行く同僚達と食堂で食べる。昼はまちまち。夜は自分の部屋で一人が多いかな」
「へぇ。わりと自由なんだな、ここ」

 寺にいる一族や住み込みで働いている人達には、学校の寮みたいな個室が与えられている。
 火刃里と尋夢は馴れ合い好きなガキ同士だから喜んで共同部屋を使っているが、一端に研究を抱える魔術師達には鍵付きの個室は必要だ。
 俺も寄居の部屋へ遊び行ったことがある。ごく普通の和室で、いかにも寄居が住んでいそうな雑多な部屋だった。ずっと使っている部屋だから誰かを呼ぶのにも掃除をする時間が必要だ。せっかく寺に来ている俺を呼ぶには難しいかもしれない。
 となったら、三日間借りているだけの客室に遊びに来た方がお互い気分が良いか。

「三日間お疲れ様。大山さんから聞いたけど、本来ならウマに今日……」
「なんだよ?」
「今日、高校の幽霊退治をしてもらうつもりだったんだって。そろそろ溢れる頃だから念入りにしておかないと年が越せないかもしれないってことで」
「……またかよ」

 追想する。『過去の世界』を思い起こす。……左胸を咄嗟に抑えながら。
 確かに……12月の中旬に、でかい山に立ち向かったこともあった気がする。嫌な攻撃をしてくる亡霊とやり合って、敗北しかけた記憶がじわじわと左胸から染み出してきた。
 けど今日やらなくったって、あの高校近くはいくらでも怨霊は湧いて出る。退魔の仕事を一日遅れても一日早めても……元を絶たなければ平穏なんて訪れやしないのだろう。

「……かったりぃな。明日帰ったら一番に幽霊退治しておくよ」
「おお、ウマってばやる気だねぇ」

 その後に食事をしながら話すことと言えば、「修行つらかった?」「そうでもない」というありふれた世間話。
 いつも『仕事』を任されたときにするような雑談と同じ。何がどうだったという結果報告。そして時々混ざる「今日の味噌汁、大根だ」「大根の味噌汁、好きなんだよね」「俺も」「仲間だ」という飯の会話。
 二人、暖かいカーペットの上で胡坐をかきながら、夕食らしい夕食を腹に流し込んでいく。

 俺にとっては仏田滞在最終日だが、今日は思いっきり平日。
 ご馳走でも何でもないディナーを平らげて、箸を置いた。

「ウマが思い詰めているのは、おばさんが亡くなったからなの?」

 発展性の無い会話の応酬が終わる寸前。
 寄居は俺の顔を見計らいながら口を開いた。

 ただの時間潰しのために夕食を誘ったのではないとは判っている。
 寄居なりの気遣いだとも知っていたし、相応した話をされると予感もあった。自然な声で尋ねる寄居の顔は、「言いたくなければそれでいい」と物語っている。
 だというのにわざわざ口にするのだから、それほど俺のことを心配していたってことだ。

「…………寄居はおばさんがどう亡くなったのか聞いているか?」
「交通事故でしょ」
「違う。……殺されたんだ。俺がそうだって言い張ってるの、お前は知らないのか」
「知っているよ。お葬式の真っ最中に叫んだことぐらい。ウマにしちゃあ聞き分けの無いことしてるね。一応『本部』直属の調査員が事故の原因を探りに行ったことになっているけど」
「……それが、なんだ」
「異を唱えるの? 調べがついているのに? ウマは証拠でも持っているの?」
「持っていたら突き出している」
「だよね」

 実際に俺は、黒い戦士と戦って……負けている。
 殺される寸前のおばさんと一緒にいたことは嘘じゃない。ちゃんと『この器の魂』が記憶していた。
 そして……福広さんが『俺の死の間際』に告白してくれている。
 冥途の土産という言葉がピッタリな状況で、俺は冥土に行かずに土産だけ持って帰って……今を生きていた。

 ――男衾という人が、おばさんを見せしめに処刑した。交通事故だなんて嘘の報告をした人が。
 憎いとは思う。そのことを笑顔で話し、銃弾を浴びせてきた福広さんのことだって忌まわしい。
 だが知っているからと言って、今からその復讐をしに行くことが出来ない。
 自分には力が無い。仕返しするほどの能力が自分には無い。どんなに男衾が、福広が憎くても、ろくな魔術も学んでいない未熟な俺には太刀打ちできない。
 ならまず力を得なければ! おばさんと俺を殺した二人をぶち殺すぐらいの実力が……だから俺は今日までこうやって修行を……!

 ……いや、だから、それはおかしい。

 また話が飛躍しすぎている。さっきから考えがあちこちに飛び過ぎだ。
 学ぶことは得だと行動した三日間。その動機が、どうもさっきからあやふやになってきていた。

「ウマ? どうしたよ、黙っちゃって」
「…………」

 左胸を抑えつける。
 気が動転している自覚があった。
 「どうにかしなければならない!」という突き動かすものが生じている。殺気立って興奮していた。違いない。
 けど……彼らは数日で敵う相手でもない。そもそも殺した先にあるのは何だ? 復讐だと刃を向けてどうなる? その後に待っているものは……かと言って何もせずにまた時間が過ぎていっていいのか……?

「ウマ」
「…………なんだよ」
「思い詰めた末に無言になって俺に声掛けられるの、これで五回目だよ」
「そんなにお前喋ってないだろ」
「言っているよ。何度もウマウマって呼ばれてるの気付かないぐらい、ウマは思い詰めちゃっている」
「……理解しろよ。母親が亡くなって自暴自棄になっている息子の心情ぐらい」
「そうだね」

 寄居の表情は、淡々としていた。
 元から優しくも、自己主張の激しい性格でもない。マイペースで平坦、激情に駆られない静かな奴だった。
 内面にべたべたと入り込んでこないタイプだったからこそ、近くに居ても構わないと思って友人にしたんだ。同い年だからとか、共通の趣味があったからだとかじゃない。適度にクールで人間的だから寄居は良い。
 だから個室に招いても良いと思ったんだ。

「ウマは忘れているかもしれないけどさ」
「…………」
「ウマは忘れているかもしれないけどさ」
「……無視しているんじゃない。聞いているから、早く言えよ」
「ウマは忘れているかもしれないけどさ、『契約』って覚えている?」
「あ?」

 口に出されて、脳内に検索をかける。

「さすがに知識はあるね? 初心者魔術師でも使い魔については基礎中の基礎だっていうし」

 ――契約。『縛令呪識契約』。
 霊的な主従関係を結び、お互いの力を高め合う儀式。自らの異能力機能を用いて能力者本人に架せられる限界突破の呪い。二人以上の器を接触させ、魂を拘束させるギアスのこと……。

「……うん、覚えているよ」

 サーヴァントはマスターへの強い服従を誓約すると同時に、マスターからの命令を精神的、肉体的に絶対的拘束する。反する行動や思考を取れなくなるほどのペナルティが発生するが、単純に力を欲する者には都合が良い。
 主は従者に魂を通じて力を送るだけで、従者の行動を全て支援できるというものだ。
 主には絶対服従にならなければならないが、主の言ったことは『物理的に不可能な現象で無い限り』主の魔力を借りて全て再現させるほどの……強度な魔術だ。

「今日だって、使い魔のことだったら言葉だけなら教本に出てきた。俺が教えてもらいたかった範囲とは違ったから深く訊かなかったけど……」

 絶対服従なんて恐ろしいもの、そう簡単に引き受けられない。だからある程度以上の信頼関係が無ければこの契約という行為は行なわれない。
 多くの能力者が従者に意思の無い下等種族を選ぶのもそれが理由で、人間同士の契約は親愛が無ければ成立すらできない。
 ……そういうものだと、頭の中に入っている。
 いつかの時間に寄居と契約したことも記憶していた。寄居となら契約していいと俺も思えるぐらいの付き合いだったし、寄居もあまり上下関係や付き合いを気にしないタイプだから俺との契約に肯定的だった。
 どれも、決して忘れてはいない。

「だからさ。ウマが……マスターであるウマが、下僕の俺様に『おばさんを殺した異端を探して倒せ』って命じたら」
「……あ?」
「俺は、全力でその異端を探すし倒すんだよ。自分の意思とか能力とか全部ウマの魔力で補いつつ、全力で」
「…………。そう、だな」
「でもウマは全然しないんだぜ? できるのに」
「……そんなことできるんだって今まで忘れていた」

 どうにかするのに寄居を使う。
 そんなの、頭から綺麗さっぱり抜けていた。

「しないの?」

 目の前の奴はいつも通り、淡々とした普通の顔。そのまま俺の分の食器を自分が食べた食器に重ね始めた。
 笑みも無い、怒りも無ければ心配して俺の顔を覗き込んでくることもない。
 ごく普通の疑問を、そして可能だという事実を俺にぶつけるだけ。意識の拘束とも言える魔術ギアスの存在には、蚊が止まったほどにも気にしていないようだった。

「…………。しない、かな……」
「へぇ? どうしてですかウマさん?」
「……お前。そんなことでギアスを使われたら、嫌だろ。怖いだろ。寄居は、『俺のおばさんが交通事故で死んだ』って納得してるんだろ? なら、俺の『死んでない』っていう我儘に付き合わされるの、無理矢理付き合わされるの……嫌だろ、怖いだろ」
「そう?」
「そう、って……。嫌じゃねーのかよ」

 それとも、もし嫌でもマスターの命令なら絶対だって服従できるほどマスターに信頼を置いているとか?
 いやまさか。俺達は友人ではあるが、残念ながらそこまで熱い仲ではない。
 酷いことはお互いしない、お互い得になることだけ利用しよう……そう約束し合って、寮で誓約を交わしたんだ。
 ……たとえ時間を飛んできた『この世界』でも、そういうことになっている。

「ウマって優しい男の子だね。……生ぬるいっていうか、どこまでも一般人寄りだ」
「そりゃあ、去年まで一般人な生活だったから」

 去年どころか……夏まで退魔業なんて関係無い生活だったし。
 伯父さんの実家が退魔の一門だからガキの頃に異能云々の知識だけは植えつけられていたが。
 お化け退治をしたのは、今年の9月からだから……体感はおいておき、まだ半年だって経っていないんだ。
 基礎しか学んでいないのによく駆り出された。賄えるからと判断されたとはいえ、このままじゃいけないと思えるぐらいには俺は未熟すぎた。……だから中級者になろうと踏み出したんだ。

「普通の賢いマスターだったらさ、手段を択ばずサーヴァントを手足のように使うと思うよ。サーヴァントもそんなマスターのために仕えているんだしさ」
「……だから、俺は寄居を奴隷として扱うために契約したんじゃない。都合の良いシステムがあるなら使ってみるかって程度で……。なんだよ、寄居は奴隷になりたいのかよ?」

 上の意思で、下を縛る。無理矢理従わせる。霊的な拘束で、他人の意思を無視して操作する。
 確かに出来る。縛令呪識契約という仕組みなら可能だ。
 でもそれは、『どう考えてもやっちゃいけないもん』だろう――?

「ウマって不思議。『やっちゃいけないもん』って断言しちゃうんだ」
「……どこが不思議なんだよ」
「俺様ちゃんがウマくんの立場なら使ったよ。大好きな人を殺されて、その死が隠されたとなったら、問答無用で使う」
「使うのかよ。お前ってそんな奴だったのかよ」
「そういう奴だよ。例えばさぁ……俺がもし大切な人を失っていたとしてぇ? そう、サーヴァントのウマに全力の魔力をまわして『あさかを殺した原因を探して連れてこい』って命令する。犯人を連れてくるまで許してやんないだろうねぇ」
「………………」
「今やっても意味無いからやらないけどさ。それに殺したの、俺だし。……ぷぷっ。探偵役が犯人、みたいな? 『お前が犯人です』、みたいな?」
「寄居、面白くない」
「そう?」
「……あと、俺には無理。寄居が『犯人殺しをやりたい』って言うなら魔力を渡すけど。それが寄居の意思なら渡しても……俺は、しない」
「本当に優しいんだね、ウマは。って、まずは『犯人殺し』じゃなくて『犯人探し』の方が先じゃない?」

 いいや。
 俺が言った通り……『犯人殺し』でいい。探す必要は無い。
 だってもう俺は判っている。判っていて、彼らが住んでいる場所に俺は滞在しているんだ。

 それに……殺しを命じるってことは、寄居に処刑人を殺させるってことになる。
 俺の意思で、俺の魔力で、寄居を使って……彼らを殺すことになる。
 ああ、確かに犯人は怖い。憎い。許すとか許さないとか考えるたびに頭が混乱してショートする。憎いから殺すとか、憎いけど許すとか、考えられないんだ。
 だってまだ俺は、福広さんの告白自体を全部信用していいのか判らないのだから……殺されたという結末を体験したとしても。

 ああ、また結論が出ない思考論争が始まってしまう。「もうこの話、やめようぜ」と対話を打ち切ろうとする。
 やめようと言われたら寄居は続けるなんてしない。「あいよ」と軽い返事でトレイを手に立ち上がった。

「でもさ、ウマ。せっかく持っている便利なもんを使わないのは宝の持ち腐れって言うんだ」
「……さっきからなんなんだよ。宝を使ってほしいのか、寄居は?」
「俺は関係無いよ。『俺は』じゃなくて『ウマが』考えなよ。……せっかく学べる環境なのに何もしなかったのは宝の持ち腐れ、だから合宿旅行としてやって来た。そうだと思ったんだけど、違った?」
「……違わない」
「使わなかったら俺は寝ているだけだからいいんだけどね。ギアスの結晶刻印ってオシャレでカッコイイから」

 ぱっと片手でトレイを持って、例の……契約の証がある左手をふらふらと振る。
 意識をした別れの挨拶。だが寄居は強調はしても、強制は最後までしなかった。

 部屋を出て行った寄居につられて、腰掛けたままの俺も左手を眺める。
 知識がある人間でなければ気付かないほどのうっすらとした魔術刻印。それを見入る。

 仏田の刻印ではない、後付けされた俺と寄居の絆。
 絆なんて大層な言葉は使いたくないが、あいつと魂で繋がっていることを表わすものだ。
 言わばここから伸びた赤い糸……いいや、ドス黒い鎖が寄居の魂をがんじがらめに縛りつけ、いつでもキュッと締め殺せるようになっている。
 魂というか、心臓や脳味噌の直通通路みたいなもんだ。

 そんなもんで縛るなんて、非人道的なことはしたくない。
 寄居が感情に打ち震えたなら使うと言ったが、そうでもなければ……触れてはいけない領域だ。
 『誰だってそうだろう』?

 ――甘い考えだ。その鎖を操作して大勢を殺した連中を……俺は、見た筈だ。

「……うっ」

 堪らず、胸を抱えた。
 思い出した途端襲い来る恐怖。またあの恐ろしい記憶と戦う夜が来てしまったか。
 うんざりだよ! いいかげんにしろ! 心の中で怒鳴る。だからと言って簡単に落ち着いてくれる体ではなかった。

 福広さんだって、命令で俺を殺した。『赤紙』を示してきたじゃないか。
 『ウマを殺せって命じているからなのでしたぁ』……って、笑いながら簡潔な行動方針を見せつけてきたよな。
 上からの命令。逆らえない。だから福広さんは俺を殺して、男衾って奴はおばさんを殺して、だから……だから……!

「…………あれ? 俺は、もう?」

 ――――12月中旬はもう過ぎた。俺が二度も殺された大晦日まで、もういくつ寝ると……。
 さて『今の』俺には、殺せという命令は下されているのか?

 時間に余裕のある俺が行き着く考えは、当然そこだった。



 ――2005年12月17日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /4

 僕の母の名前は邑妃(ゆうひ)という。彼女が仏田家に来た経緯を少し話そう。

 南関東を中心に活動していた五百年を誇る退魔組織一族の生まれで、現当主・鶴瀬 伯姫(はくき)の妹。
 伯姫という女性は鶴瀬くんのお母さん。現在のトップは女性だが、その前のトップは血の繋がりの無い男性だった。
 鶴瀬くんのお家は血統で後継者を決めるのではなく、訓えの中で一族相伝の刻印を継承していく家系らしい。
 外部からの新参者でも優秀であれば血の濃さに関係無く成り上がれる。無論、元当主の子供や分家は親である当主自ら教育が行き届いているから優先度は高くなるが、実力主義で名前にも拘らないという一門だった。
 珍しいとは言わない。だが僕のお家からするとその考えは斬新だった。
 仏田家は代々当主の長男が次代の頂点になる。血を継いだ長男には後継者の証が体に表われ、血を継いだ者達なら刻印の使い方を生まれつき知っている。千年間そう在り続けていたから、今更外の血を混ぜることはしなかった。
 なるべく自分達の血だけで生き続けようとしていた家だ。けど、仏田には女が産まれない。
 だから外から来た女性も仏田に生まれ変わらせるという『血の契約』が誕生した。流れる血を全て仏田へと書き換える魔術儀式を編み出してしまい、人工的に仏田の女を作る仕組みを……千年前には生んでいた。

 数年前、仏田内で変革が起きた。
 仏田家は当主が実権を握って指揮をしてきたが、和光おじいちゃんは政権を放棄。光緑お父さんは病気のため寝たきり生活が長く、当主として振る舞うのは難しくなった。
 だから表の仕事(お寺の住職)は松山さんが、退魔の一族としての裏家業は狭山さんや大山さん、『本部』と呼ばれる幹部達が分担して導いていくことになる。
 特に狭山さんは働き者だった。当主の一首独裁体制を立て直し、いくつかの管轄を作って組織化して機械的に仏田家を運用できる形にしていった。
 最近調べて知ったことだが、狭山さん主導になってからいくつかの子会社を持つようになったらしい。元々この辺りでは旧家で名主だったけど、戦後に様々な事業で成功して大きく勢力を伸ばしたとか。
 僕のお家はお寺の退魔のお仕事で成り立っていると思ったけど、魔術研究や開発の派生で魔道具販売をしていたり、異能関連だけじゃなく、研究職から離れた一族の一部がいくつかお店を経営し始めた。不動産にも強い分家もいれば、中には地元選出の議員もいて……。
 手を広げるだけじゃなく、広げたからにはバックアップの態勢も万全にしたそうだ。もちろん見返りがあるから支援をするという方針で。

 ……話を鶴瀬 邑妃という女性に戻そう。
 自分達の血で繁栄していきたいが、男だけでは子供は生まれない仏田家は女性能力者を取り込んで仏田家として生まれ変わらせてきた。
 歴代当主は遠くなった分家筋で、生まれた女子を本家へ嫁入りさせることが多い(清子おばあちゃんはまさにこの例だ。照行さんの奥さんの時雨おばあちゃんも、確か狭山さんの正妻である豊春さんもそうだったか)。
 しかし狭山さんは、敢えて光緑お父さんにはそれをさせなかった。
 光緑お父さんのお見合い相手として連れてきたのは、仏田家の血を引く分家の娘ではなく……無関係の能力者の女性。
 全国に支部を持ち始めた退魔ネットワークを有した一族の生まれに着目した。
 縁談はあっさり決まった。狭山さんが用意した席に光緑お父さんと邑妃お母さんを座らせて、婚姻させただけだった。

 仏田は歴史こそあれど、内に籠もる研究者の一族。
 山に籠もり、自分達の繁栄ばかりを考える者達。旧世代まではそれで良かった。だが昭和以後の近代、人が動き始め、日本は盛り始め、内に籠もるだけではならなくなった。
 他方に足を運ぶ退魔業である邑妃お母さんの一族は、外からの力を多く取り込むことで強くなる情報に長けた集団。狭山さんが主導する仏田家は、そのコネクションが欲しかった。
 だから邑妃お母さんを買った。
 実際に……邑妃お母さんの生家に援助を送っている。
 そのおかげか鶴瀬くんのお母さんが率いる退魔組織『教会』は更に勢力を伸ばし、今や全国に支部を置く日本有数の退魔組織として成長した。
 光緑お父さんと邑妃お母さんは、これ以上ない『政略結婚』という単語がピッタリな関係だった。

 二人とも婚約を承諾し問題など何一つ無かったという。次の年には燈雅お兄ちゃんが産まれ、志朗お兄ちゃんが産まれ、僕が産まれた。
 ぽんぽんぽんと軽快に三兄弟が生まれていったんだ。

 で、仏田家に入る以上……邑妃お母さんも血を書き換える『契約』を行なっている。
 血を書き換える魔術というのは結構危ないもので、体が合わない人はその手術で拒否反応を起こして死んでしまうらしい。成功率は高いが、失敗して亡くなってしまう人がいるぐらいの儀式だ。
 そんな危険な手術を乗り越え、仏田家当主の妻という地位を獲得した邑妃お母さんは……今、普通の仏田一族として働いている。
 魔術師として、異能の研究員として、仏田家に仕える女性らしく女中さんとして。
 『当主の妻』という職業は無い。光緑お父さんの仕事は、仏田の血の者がやればいいとされているから。
 だから邑妃お母さんは、『光緑お父さんを支える仕事』をしている。具体的に言うと……食事を運んだり、必要な物を届けたり、お父さんが希望したものをこなしたり。
 当主に近い雑用係。そんな言葉が一番合った。

 あくまで邑妃という女性は仏田家に仕える雑用係。
 書類上では仏田 光緑という男性の妻ではあるが、この仏田家では『一家を支える台所』には成りえない。
 台所は銀之助さん他、厨房を預かる人達がいる。お財布の管理もちゃんとした部署が設けられている。子供の世話だって乳母や教育係がいた。
 一般的に『お母さんとしての仕事』とされているものは、仏田 邑妃にはする必要は無かった。

 彼女はしなかった。する必要など無かったから。
 僕が邑妃お母さんをお母さんと呼んでいても、ただ事実だからそう呼称しているだけで……お母さんは圭吾さんだと(たとえ冗談でも)言っていたのも、大きくそこが理由している。

 どうして僕は今、邑妃お母さんのことを語っているのか。
 全部圭吾さんのせいだ。
 圭吾さんは、した。しようとした。……親孝行を。
 自分を世話した人でもない女性に対し、愛情を抱き、一度も自分を抱いたこともない祖母に対し「親孝行をしていきたい」と笑っていた。
 受けていたものなどないのに、実の母子だからという理由だけで、圭吾さんは見返りを求めず自分から好意を相手へ与えようとしていた。
 かつてお世話になった人だから恩返しをする、ではない。
 実のお母さんだから会いたかった、実のお祖母さんだから良くしていこうと誓った……と。無償の家族の愛を、平然と語ってみせた。
 僕も自覚したからには今から御恩を見せるべきなのか? そのためには邑妃お母さんはどんな人なのか見直す必要がある。……そう思って、べらべらと語り続けた。

「肝心なことを聞いてなかったわ。新座は、邑妃という女性を、好きなの?」

 僕の語りを隣でずっと聞く聖剣が、ようやく小さなパンをたいらげた。
 大人しく座布団の上に乗っかって数分後。彼女には必要無い食事を終える。
 僕はその前に広げられた夕食(先ほど元気なお手伝いさんの火刃里くんがトレイに乗せて持ってきてくれた)を食べながら語っていた。
 客室で独りぼっちの食事。客人なら仕方ないけど、みんなが住んでいる実家ではちょっぴり寂しい。火刃里くんを引きとめておしゃべりをするのも良かったけど、石段を登る最中から巡っていたものを元気な男の子に吐き出す訳にもいかず。誰にも姿を悟られない少女に聞いてもらうのが一番だった。

「好きだよ。綺麗で優しい人だから。家出をする前、しっかりと僕に仕事を教えてくれた。間違えたことをしたら叱ってくれた。良い上司だった」
「上司なのね。あくまで」
「本当に優しい人なんだよ。声を掛けると、ちゃんと返してくれるんだ。『これってどういうことなんですか』って尋ねると、『こういうことなのよ』って判りやすく教えてくれる。僕が判らない顔をしていると、わざわざ時間を作って丁寧に説明してくれる。良い上司だった」
「上司なのね。あくまで」

 繰り返す、事実。
 そうだ、上司だったんだ。
 子供の頃だって、そんな関係だった。僕から声を掛けに行ったら、笑顔で答えてくれた。子供の言うことに一つ一つ反応してくれて、優しく目線を合わせて話して……僕の話が終わったら、「じゃあお母さんは行くから」とバイバイする。
 僕と話すという作業を終えたら、彼女は去って行くもの……だった。そういうものだった。

 嫌いなんかじゃない。だって無視したり、邪険に扱われたことなんて一度も無いから。
 でもそれは、人として嫌いじゃないだけで。
 もしかしたら僕は、お母さんとしては、あの人のことを……。

「むぐ。こんなこと考える12月は、初めてだ」
「そうね」
「お母さんのことを考える12月なんて今まであったかな」
「新座と12月を迎えるのは四度目だけど、貴方から長々と母親の話をされるのは初めてよ」

 記憶の読み取りも、四度目になった今ではありがたい。
 声で事実を確認できるのは理解度が段違いだ。魂から情報を引き出すたびに左胸が痛くなるから。
 ……そうだ、初めてだ。四度も12月を繰り返しても、まだ考えていなかったことってたくさんある。改めてそのことを実感した。

「むぐー、母の日っていつだったっけ? どうせならいきなり何かしてもいい日にやるべきだよね。いきなりプレゼントを贈ったら、怪しまれるし?」
「母の日は5月よ」
「5月か。半年後か。まずは、来年にならなきゃだね」
「…………新座様。あ、えっと、ごめんなさい、新座さん、失礼します……ごめんください」

 廊下の前に誰かが立つ。
 微かにこちらへやって来る足音を感じ取ってはいた。障子の先、そっと細やかかに僕の名前を呼びかけてくる声の主は、慧くんだ。
 入っていいよと声を返すと、もう一度「失礼します……」と頭を下げながら障子を開いてくる。
 長い黒髪の、可愛い顔の男の子がゆっくりと下げた頭を上げると……突然キョトンとした顔をした。

「むぐ? 慧くん、どうかした?」
「い、いえ、ごめんなさい。お一人でしたか。新座さんが話すお声が聞こえたので、どなたかご一緒なのかと」
「あー……独り言だよ。『母の日っていつだっけ? そうだ5月だった』って思い出していたの」

 そうですか、と言いながら慧くんは入室してくる。
 龍の聖剣が座る座布団は当然のごとく見向きもしないで近寄り、僕が食べ終えた食器を片付け始めた。
 夕飯を届けに来たのは火刃里くんだったけど、回収は慧くんか。それもそうか、お子様の火刃里くんならもう寝る準備をする頃だし。

「慧くんは、お母さんにプレゼントを贈ったことある?」
「……えっ?」
「お誕生日でも、母の日でも、クリスマスでもいつでもいいんだけど。お母さんに何かあげたことはあるのかな」

 突然話し掛けられた慧くんは、怪訝な顔をしながらも丁寧に食器を片していく。

「ごめんなさい、ありません。……僕の母は、僕達兄弟を生んで一年ぐらいで仏田寺を離れましたから。すみません」
「退職なされたの?」
「いえ、すみません、違います。あの……仏田家って、分家で生まれた遠縁の女性を迎えるか、血の契約を行なって仏田一門になった女性を迎えるか、でしょう? ……でも僕らの母は、どちらでもないです。仏田一族ではないので……」
「そうなの? それって珍しいよね?」
「……そうですね、彼女ぐらいです。でも当時の当主様や清子様も全員認めています。僕ら……テストケースなんですよ」
「テスト?」

 慧くんが食器をトレイに載せて、立ち上がる。
 長く話をするつもりはない。内気で穏やかな口調とは裏腹に、はっきりとした拒絶を感じさせる仕事に徹した動きを見せつけていた。

「仏田一族は同族婚を、近親相姦を繰り返してきましたが、『そうでなくても一族の能力は発現するのか』を試したかったそうです。……その成功例が、僕らです」
「……成功例って?」
「それまで近親婚が当然でしたから、千年経過して血の薄れた今でも外部の血を入れて刻印が生じるのか試す必要があったのでしょう。……僕ら三人とも生き残れるぐらい、大成功でした」

 テストの結果、慧くんのお母さんは仏田一族の男である一本松さんとの間に、慧くんら三つ子を産む。……三つ子は三人とも、立派に仏田家で活躍している能力者だ。

「僕の母以外で、仏田家でない女性が後継者を生むケースはありません。……いえ、言い切るのは間違いですね。すみません。例外はいます」
「例えば?」
「……藤春様の、先日亡くなられた奥様は……」

 ああ、そうだった。藤春さんの奥さんのあずまさんは、仏田家に全く関係無い女性だった。
 だからときわくんを産んだとき、仏田寺では物凄く問題になったっけ。まだ婚姻関係でもなかったというのもあるけど、いつの間にか外で子供を作っていて、しかも産んだ後に報告してきたのだから。
 そうだ、僕が小さかった頃の話なのによく覚えている。あの問題で、大泣きする事件がいくつも生じたから。
 ……って、そんな話を思い出すために慧くんに声を掛けたつもりはない。

「慧くんは、お母さんに一度も会ったことないの?」
「す、すみません、記憶に無いです。今でも度々外部の協力者として仏田寺に来ることがあるそうですが、機会が無いので……」
「お母さんに会いたいとは思わない? 生きているうちに」

 口ごもっている。どう答えるべきかと思案している顔だ。
 悲しそうではない、辛そうでもない。でも愉快な訳でもない。困ってはいるが……あまり親しくもない僕が客観的に見て「どうでもいい」という感情が一番強そうな気がした。

「今更……僕が何かをしたとして、相手はどうでしょうか。僕と母の間には何もありませんでした。二十五年間、何の縁がありません。あるのは血の繋がりがあるということだけ。……それだけですよ? 僕も意義を見出せませんし、関わりが無かった相手も困惑するでしょう?」

 何も縁が無かったのに手を伸ばそうとするなんて、それはとても難しいこと。……慧くんは言葉を変えていくつもそう綴る。
 圭吾さんは例外中の例外だったか。僕も圭吾さんが例外だなんて思ったけど、完全に慧くんと同意見というのも憚られた。



 ――2005年12月17日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /5

 慧くんが言うには、本日仏田寺には僕以外にゲストとして緋馬くんが招かれているらしい。
 鍛錬がしたくて自ら修行をしたいと言い出したそうだ。高校を休み三日間のトレーニングを終えて、明日寮へ帰るという。そしてその修行に付き合っているのが、僕のお母さんだと教えてくれた。

「それぐらいですね……仏田寺で特に変わったことといえば。ごめんなさい、大したことを知らなくて」
「ううん。慧くん、ありがとう。みんなが何事も過ごしているなら一番だよ」

 今までの緋馬くんは、あくまで炎使いだった。「火を出せるだけの男の子だった」というだけで、「炎の異能遣い」を名乗るには早い子だった。
 能力者ってものは一般的に、一つの特性に特化した体質で産まれてくる。
 火、水、風、地の四大属性のうちどのような特性と相性が良いかは人それぞれ。稀に基本四大属性以外の元素に愛された能力者も生まれるが、大抵は基本四つのうちの一つを身に備える。
 仏田一族は火だ。僕らの身体器官には火を操る機能が付いていて、自然に能力使役を覚えていく。人間、生まれついて呼吸の仕方を知っているように。
 ただし、うまく使えるか使えないかは知識に依る。呼吸自体は誰もができても、上手な気息の扱い方は体操家やスポーツ選手が本気になって覚えるもの。火は扱えても、努力しなければ完璧にはなれない。
 だから緋馬くんは修行を始めた。更なる高みを目指す為に? いいや、もっと単純に……生き延びる為に。

 モチベーションの高い生徒に悪い顔なんてしない。やる気に満ちて寺にやって来た才能ある少年を、皆が笑顔で迎えているようだった。
 屋敷を歩くたびに緋馬くんの評判が聞こえてくるほどだ。
 「たった三日でも、あの子は良く頑張った」「学業も大切とは言うが、このまま帰らせるのはあまりに惜しい」「熱意があるなら将来有望だ」などなど……借りた魔導書を返しにきた僕の耳にも届いてくるぐらい、緋馬くんの闘志は皆に好印象みたいだった。

 不思議だ。思わず首を傾げてしまうぐらい、変だと思えてしまう。
 だって緋馬くんの評判を聞くなんて初めてだ。
 今年、高校二年生になるまで退魔という退魔に参加しなかった……ほぼ一般人だった緋馬くん。夏が来る前に初めての『赤紙』が届き、夏の間に修行して、秋になったら単身お化け退治に駆り出されたという彼。
 キャリアが無くても何とかなるから選ばれた、そんな素人に毛が生えた程度の彼がこんなにも受けが良いだなんて。
 僕が知らなかっただけで、初心者な緋馬くんは日頃から頑張っていた子だったのか?
 それとも……『今回の世界』の緋馬くんは、『他の世界』の緋馬くんとは違う道を辿っているのか?
 ついつい勘繰ってしまう。

「ねえ聖剣。大きく人生や価値観が変化する原因は何だと思う?」
「大抵は、日常が原因ね」

 日々の積み重ねで意思は変異するもの。龍の聖剣なりに言わせると、「魂が経験を積んでいき、成長する」。
 僕にとっては『四度目の世界』となる今回の緋馬くんは、『今までの世界』には無かった日々があったのではないか?
 些細でどうでもいい変化の連続が、大きく著しい変化になってしまったのではないか?
 そう語るが……『前の世界』と違うことって、何だろう?

 ぼんやり考えながらも、魔導書を返すため書庫へ向かう。
 倉庫は我が家の敷地内にいくつもある。無数の本が至る所に保管されていた。その中でも先日借りた魔導書は、一族が居住する本家屋敷に一番遠い倉庫にあったやつだ。

「……あれぇ?」

 倉庫内の灯りはついている。覗き込んでみると、中で一人の女性が本を戻している最中だった。
 うっすらと照らすライトの下に、黒い着物の優美な女性。倉庫一面に引き詰められた本棚の前に彼女は立っていた。

「お母さん」

 ……切り揃えられた黒髪や楚々とした佇まいは燈雅お兄ちゃんを思わせて、気丈な目元はいつだって心強い志朗お兄ちゃんを連想させる人。そして凛とした雰囲気は、甥の鶴瀬くんを思い出させる。
 邑妃という中年女性だった。

「ただいま帰りました、お母さん」
「おかえりなさい」

 台車も使わず重い本を三つも四つも手にしながら、慣れた動作で魔導書を押し込めていく。
 僕という来訪者があろうとも取り乱しもせず声も荒げず、微笑みもせず、会釈をするのみだった。

「そちらの本は……えっと、緋馬くんのお勉強に使った魔導書かな?」
「そうです。魔術の基礎理論、基礎儀礼、基礎訓練についてです」
「むぐ。ホントだ。僕が小学校のときに初めて読んだ本だ。………………」

 会話は、終わった。

 彼女――邑妃は、手にしていた本を全て棚へ戻す。ここでの仕事を終えた。だから去って行こうとする。僕と会話をする義務はどこにもない。ごく自然な流れだった。
 元より、こういう人だ。
 話し掛けられたから話す。話を終えたから終える。事務的で端的で完璧。何事も明白に清々しくこなす彼女はきっと緋馬くんの教育も完全に遂行してみせたのだろう。
 その立ち振る舞いは好ましい。寂しいという気持ちは、置いておくものとして。

 僕も返す予定だった魔導書を本棚に戻す。
 そして何気ない気持ちで、実母が戻したばかりの『魔術の基礎訓練について』という教科書を広げた。
 ……用いた属性をどのようにすれば強弱をつけられるか、広域化できるか、省エネ化できるかなどなどが、当時小学生だった僕でも判る言葉で記されている。
 うん、懐かしい。小学三年ぐらいの頃、悟司さんが「そろそろ新座くんも学ぶべきだ」と教えてくれたんだっけ。確かそれには圭吾さんも一緒だった。
 二人はまだ中学生。頭が良くて大人に混じって修行していた悟司さんと圭吾さんは、下校するなり僕に魔術の何たるか、異能のあれこれを教えてくれた。
 志朗お兄ちゃんがその場にいなくてちょっとつまらなかったけど、出来なかったことが出来るようになるのは何だって楽しいもの。
 悟司さんの教え方は子供ながら感心する巧さだったし、圭吾さんは何をしても褒めてくれる人だった。
 とても良い時間だった語り合えるぐらい、大切な思い出だ。

 今日の緋馬くんは、僕のように楽しくこの本を読んだのだろうか?
 彼女と一緒に勉強。一体どのような時間を過ごして、成長したのだろうか?
 僕の横を淡々と通り過ぎていく女性を見ながら、思いやる。

 ――唐突に、お腹が鳴った。

 ぐう、ぐううう、ぎゅるるるるるう……という呻き声が冷淡な倉庫に響く。

 咄嗟にお腹を抑えた。ぎゅうっと力を込めて腹の虫を殺そうとする。
 お母さんにも聞こえたらしく、これにはさすがの母も苦笑い。歩みを少し落として思わず僕を見てしまうぐらいの、微妙な表情を浮かべていた。

「まだお夕食を取っていないのですか? おそらく使いの者が部屋に夕飯を届けに行っていることでしょう。早く戻って食べてあげなさい」
「えっと、あのね僕、さっき晩ご飯を食べたんだけど……またお腹減っちゃって」
「あらまぁ。そんなに燃費が悪いの」
「……そうなっちゃったみたい」

 静かで会話の無い倉庫だったから、音が普段より大きく聞こえてしまっただけだ。
 『ループの代償』のせいで書き換わった体。世界にとっては普通と見なされているけど、『以前の僕』とは違うものになっている器。なかなか慣れない自分の不都合さに煩わしさを感じながら、何度もお腹を抑え込む。

 魂の上書きを行なうことで左手の機能が低下したように、今回の『ループ』で燃費が悪くなるという代償を負ってしまった。
 記憶を引き継いで時間を跳躍なんて得しかないと思いきや、こんな凄まじい支障に苛まれるなんて。お腹が減りすぎると次は痛くなっちゃうんだ。早く満腹感を得ないと。代償の厄介さを実感し、赤面しながら母に離れようと……。
 したとき、唐突に思い至ってしまった。
 『なんでこんなに苦しまなきゃいけないんだろう』って。

「まるで燈雅のよう。あの子も昔から燃費が悪かったけど、貴方もそうだったのですね」
「……うん」

 ……なんでって、『代償を払ったから』だ。
 では何故、代償を払った。
 時間跳躍をしたからだ。
 じゃあどうして時間跳躍を行なった。
 しなければ、死んでしまうからだ。
 それなら死んでしまうのは、なんで?
 悪い人――仏田一族の中にいる、悪い人が僕やお兄ちゃんたちを殺すから。
 その悪い人って?
 目の前で危険なことをした人達に何度も会ったでしょう? 瑞貴くん。悟司さん。……そして前回は、一本松さん。
 若い瑞貴くんも、僕と同年代の悟司さんも、『本部』の一人と名高い一本松さんも、年齢問わずみんな……仏田に過ごす人達が、危機を持ってくる。
 どうしてみんな、同じ行動を取ったんだ?
 ……どうしてもみんな、同じ行動を取らなければならなかったから?

「待って」

 女神を崇めている仏田家だが、実際は男尊女卑の系譜。女性は跡継ぎを残すための道具だ。
 女は家に仕え、夫に仕え、子に仕える。その風習が当然のように続けられてきた中で嫁いできた邑妃という女性は、どのような心情で仏田家にいたのか。

「……邑妃さん。お尋ねしたいことがあります」

 僕には判らない。男の子供で跡継ぎに数えられている僕と、嫁いできた彼女では立場が違い過ぎる。
 悲しい、可哀想だと思うのもおこがましい。想像なんてできないし、実感だって無理だし、そう簡単に理解できるかどうかも判らない。
 でも、判らないなら……訊いて教えてもらえばいい。
 一人の女性相手なら繊細な心に足を突っ込んでいくなんて無理だ。お母さんに甘えるという形も難しい。

「なんでしょう?」

 だけど、僕には出来る。
 彼女が仕えるべき仏田の男による言葉ならば。
 心も思い遣らず、言葉を選ばなければ、彼女から言葉を引き出すことなど他愛もないこと。

「ただいま僕は、仏田一族の命を狙っている人物を探っています。心当たりはございませんか」
「……まあ」
「捜査対象は……仏田一族です。仏田一族の中で、仏田一族を殺そうとしている人達とは何者か。一族の死を望んでいる者はいないか。ご存知ではありませんか。隠し事は無しです。遠慮せずに話してください」
「そんな、畏れ多い」
「……いえ、話しなさい。無いなら無いと言ってくれるだけで良いです」
「そんなこと……」

 ……何を難しいことをおっしゃる?
 そのような人、知っている訳がございません。
 なんて野蛮なことを言うのですか、失礼な子ですね。
 知っていたら『本部』に報告致しますよ。
 ごめんなさい、知らないです。
 家族を殺める家族がおりますか。
 いませんよ。

 …………という言葉を期待していた。
 こんな返事で世迷言を晴らしてもらえるという展開を待ち望んでいた。
 けど、僕は続ける。

「……邑妃さん。僕は誰? 仏田 新座です。後継者の地位で言えば第二位の新座様ですよ」
「…………」
「その僕に隠し事などする必要はありません。知らずに済むようなことだって無い筈です。僕は仏田家の全てを知る権利がある。仏田一族を死に追いやる元凶を、知っているなら話しなさい」

 捲し立てる僕に「知らない」と頭を振ったりとぼけたりするよりも早く、彼女は誠実に応対しようと姿勢を正した。

「かしこまりました」

 それはまるで、何かを知っていて的確な言葉を繰り出そうとしているような。
 明確に僕の命令を遂行するための下準備のような行為に見えた。



 ――2005年12月27日

 【     /      / Third /      /     】




 /6

「あのねあのね〜、昨日はいっぱい紫莉ちゃんとかけっこしたからね〜、本日はインドアひきこもりコースなんだよ〜」
「……はあ、なの」

 初めて訪れた仏田寺という世界は、予想の数倍も地味な場所だった。
 山を登った先にどんなお城が待ち構えていると思いきや、途中まではカーブだらけの山道をぐるぐると回り、気付くと『どこかのトンネル』を抜け、あっという間に境内へ。車横づけでお泊まりする洋館(古いホテルみたいで、神秘的だったけどなんだか怖い建物)に到着。
 敷地内に歴史あるっぽい造りの建物もあったけど、あたしが二週間住む場所は普通の洋室がある館。想像した豪華絢爛さはなく(天涯付きのベッドがある個室はお姫様気分にはなるが)、それでいて館で過ごさなきゃいけないという閉鎖感に眩暈がした。
 ゴージャスなお城じゃなくても使用人さんが食事も衣服も何もかも用意してくれる、至れり尽くせりな生活。
 やることは特に無し。燈雅さんと一緒に食事をしたり広いお庭を散歩したが、特別あたしがしなければならないことはなかった。
 時々やって来る偉そうなおじさん達と退屈な話をするぐらいで、それ以外は部屋で篭ってゴロゴロするだけ。
 遊ぶものも無いと嫌だと思っていた冬休みの宿題しかやることがないので、あっという間に終わってしまった。終わったら次は何をすればいいのかってぐらい暇。
 だからこそ、火刃里くんと尋夢くんの登場はありがたかった。

「『今日は』じゃないよっ! 今日もインドアひきこもりコースっ! だよっ! 昨日だってお屋敷の中でかけっこしてたじゃんっ!」

 昨日は柄でもなく、かくれんぼと鬼ごっこと氷鬼で一日遊んだ。外ではなく、洋館の中で。
 お山のてっぺんだけあって外は寒い。だから洋館の中で駆け回って遊ぶ。部屋がたくさんあるけど使っている人は殆どいない洋館は尋夢くん達の遊び場らしい(本当は遊んじゃいけないそうだけど)。

「そっかそっか〜。今日はお部屋にずっといるコースだよ〜。バタバタしないんだよ〜、プンプンな梓丸さんがかけっこ禁止条例が施行してきたからね〜。こわこわ〜〜」
「……具体的には何をするの?」
「おえかき〜〜」

 数日間一人で暮らしたあたしの部屋に、ばばーんと大きめなスケッチブックを持ってきた尋夢くん。
 ベリベリと三人分紙をはがして色ペンを持たされる。冬休みの宿題をしてから一度も使っていないテーブル(食事は燈雅さんの部屋で取るので)で、お絵かき大会が始まった。
 昨日は思いっきり遊んでしまったが、二人が始める遊びはまるで幼稚園児だ。……見た目はどう見ても、あたしと同じ年かちょっと上なのに。

「尋夢くん達って、いつもこんなことして遊んでるの……?」
「してないよっ!」
「してないよ〜」
「してないの。…………してないなら、なんでこんなのするの?」
「えーっ!? だってユカリンどんなコトして遊んでたか知らないしっ! なら誰でも楽しい遊びするよねっ! かくれんぼとか鬼ごっことかっ! 体動かすの楽しいじゃんっ!」
「でもでも〜、お家の中でかけっこはダメダメプンプンって怒られたの〜。じゃあサッカーと野球しよ〜って言ったらもっとプンプンされたの〜」
「……だから、お絵かき?」
「そうだよっ!」
「だよ〜〜〜」

 かくれんぼよりはずっと高年齢な遊びだが。まあ確かに、たとえ廊下でもボール遊びはするもんじゃない。
 窓の外を見ると昼間だというのに暗かった。天気の悪い日が続く12月に青空はまず無いが、ここ数日は雨が降ったりやんだりを繰り返している。気分転換に外に出るのも難しい。
 どうしても遊びが低年齢向けになってしまうのは仕方ない話か。

「じゃあ描くよっ! 罰ゲームは腹筋五十回っ! よーいドンっ!」
「わあ〜〜ドン〜〜〜」
「罰ゲー……ムって何がどうして罰ゲームなの」
「三人の中で一番得点が低かった人は罰ゲームだよっ! 審査員は……後日おって連絡しますっ!」
「て、点数制なの……?」
「ねえねえおにいちゃん〜審査員はね〜〜燈雅様にやってもらおうよ〜〜〜。紫莉ちゃんに遊んでほしいって言ったの燈雅様だもん〜」
「おおっ! それいいっ! 燈雅様に千点満点でつけてもらおっ! ゴーっ!」
「え、ちょ、千点満点って配分高すぎだし……何を描けばいいの?」
「ぼくね〜、緋馬おにいちゃんを描くよ〜〜」
「じゃあおれも兄ちゃん描くっ! ユカリンも描きなよっ!」
「描きなよも何も…………あたしにお兄ちゃんはいないの」
「じゃあ今すぐ作っちゃえっ!」

 無茶言うな。兄弟なんて作っちゃえで作れるもんじゃない。
 本当ならあたしにも『十年前に死んだお兄ちゃん達がいた』らしいけど、当時赤ちゃんだったから顔なんて知らない。ずっとあたしと二人暮らしだったおばあちゃんが懐かしんで話してくれたから知っているけど、かと言って『ハイこれがあたしの死んだ兄です』って気軽に描けるもんか。
 無論、火刃里くん達の言うお兄さんなんて一度も会ったことないから描ける訳が無いし。
 って火刃里くんが手にしているのはオレンジ色のペンで、ウニみたいなギザギザを描き始めている。明らかに人間ではないものを描いていた。
 一方で尋夢くんは火刃里くんの持っていたオレンジ色のペンを、手首チョップで奪い取り、同じように星マークを描き始める。やはりこちらも人間ではない。

「おい尋夢ーっ! オレンジ返せよーっ! 緋馬兄ちゃんを描けないだろーっ!」
「だって緋馬おにいちゃんを描くんだもん〜、オレンジは絶対必要なんだよ〜〜」
「ころしてでもうばいとるっ!」
「なにをするきさまら〜〜〜あ〜れ〜ティウンティウン〜」

 ……なんで人体を描くのにオレンジ色が必要なんだろう?
 と思ったけど、次第にウニと星の正体が『お兄ちゃんの髪型』であることに気付いて、ほうと納得する。
 正直判るもんか。

「あのねっ、おれたちの兄ちゃんねっ! パンクロッカーなのっ! 髪の毛オレンジだしズボンから鎖ジャラジャラだし手袋も指んトコ空いてるんだよっ! ナウいでしょっ!」
「……お兄さん、ミュージシャンさんなの?」
「かもねっ! 歌ってるトコ見たコトないけどっ! ユカリンの髪みたいに染めてるからきっと一目でおれ達のにいちゃんだって判るよっ!」
「火刃里おにいちゃん〜。紫莉ちゃんは染めてないんだよ〜。ねぇ〜?」
「マジでっ!? すっげーっ! めっちゃキレーッ!」
「プンプン梓丸さんが言ってたの〜。赤い髪だからお姫様なんだって〜。んん〜? お姫様だから赤い髪だっけ〜? わかんない〜」
「ねぇねぇなんで髪が黒じゃないのっ!?」

 二人でポカスカパンチを繰り出しオレンジ色のペンを奪い合いながらも、笑顔であたしに問い掛けてくる。
 なんで黒じゃないの、って言われても。
 「生まれつき赤かった」って言うしかないじゃない。
 黒く毛染めしても元が明るい色すぎて、染まりきらずに茶髪かそれこそオレンジどまり。生まれてこの方、十年間日本に住んでいるがこの髪で苦労をしている。まだここが鎖国をしていない様々な人種入り乱れる国だったら寛容になれたかもしれないが……海外なんてあたしみたいな貧乏人は行ったことないし……。

「……おばあちゃんが言ってたことなのだけど。あたしのお父さんも……赤い髪だったの。会ったことないけどおじいちゃんもそうらしいの。だからそういうものなの」
「珍しいよね良いなぁカッコイイーっ! おれも髪の毛七色だったら超強いよね最強っぽいよねっ!」
「右眉がピンクで〜、左眉が水色で〜、鼻毛がエメラルドグリーンで〜、火刃里おにいちゃんカラフルでいいな〜〜色ペンいっぱいあっても足りないよ〜」
「あれっ? じゃあさっ、ユカリンのおばあちゃんも真っ赤っかなのっ!?」
「ううん、おばあちゃんは普通の黒なの。おじいちゃんのお家が赤いらしいの。……あたしの目が紫色なのもおじいちゃん譲りらしい……けど……」

 そのおじいちゃんの家が、この仏田家の筈なんだが。
 ……燈雅さんがこの家を継ぐ人だと聞いている。だけど彼は綺麗な黒髪と黒眼だ。見渡しても赤い髪の人なんていない。

「赤い人っ? 赤い人なんているっ? 尋夢知ってるっ!?」

 尋夢くん達のお兄さんのように髪を明るい色に染めている人はいるらしいけど、話に聞いていた……あたしのルーツになる人達にはまだ一度もお目にかかっていない。
 というか赤い髪の人なんて、そうそう……。

「アクセンさん〜〜」

 途端、心臓が爆発した。

 ………………そんな訳が無い。

 たとえ握っていたペンを落として左胸を抱えるぐらいの痛みに襲われても、内臓が突如が破裂して生きているなんてことはありえない。
 あくまで物の例えだ。……尋夢くんの言葉を聞いて、心臓が飛び上がって機能停止するぐらいの衝撃を受けただけだった。

「ユカリンちゃんっ? ペン落ちちゃったよっ? 大丈夫っ? お水飲むっ!?」

 あたしが凄い形相で蹲っていたのを見た火刃里くんが、元気いっぱいの声のトーンを精一杯落として心配してくる。

「あ……あれ……なんなの……?」

 ここはホテルみたいなワンルーム。部屋を出なくたってバスルームもついている。
 ぱっと椅子から駆け出してお水を汲んでくる俊敏な火刃里くんに感心……この人凄いなぁって感動……しているうちに、胸の痛みは鎮まった。

 痛み? いや、違う。
 あれは……怖くて緊張して身が縮まる瞬間と同じ。唐突な恐怖に襲われて息を呑んでしまっただけだ。
 理由も判らず。

「……今、尋夢くん……何の魔法を唱えたの……?」
「ふぇ〜?」

 突然あたしを恐怖に陥れた魔法を使ったのではないか。そう思いたくなるほど突発的な脅威。
 でも、何が何だか怖れを感じた自分ですら判らない。
 さっき何が起きた? 尋夢くんは、人名らしきものを口にした。知らない人の名前をただ言っただけ。その名前は、心臓が竦み上がるほど警戒しなければならないものか。
 ……そもそも、どんな人物かも知らない筈なのに?

「紫莉ちゃん〜汗だらだら〜。暖房きっつい〜?」
「……大丈夫なの……」
「ほんとほんと〜? ムリはダメダメだよ〜。紫莉ちゃんはもしやアクセンさん恐怖症なの〜?」

 また『その名前』を口にする。
 ……今度は大丈夫だ。言われるという覚悟があったからかもしれないけど、胸の奥がずくずくと疼くだけで済む。
 でも、どうして疼く?
 これはまうで、訪れるかもしれない嫌なものに耐えるとき……勝手に体が軋み出す幻痛のよう。
 注射をされる寸前に突然患部が痛み出すような、痛々しい映像を見ていると何もされていないのに痒みが生じるような、そんな……よく判らない感覚だ。

 知らない人の名前? あたしはさっきそう思った。
 でも呼吸を繰り返していくたびに、じわりじわりと無いと思っていた記憶が蘇っていく。
 記憶が、塗り潰されていった。
 あたしは……何かを忘れていたんじゃないの? それを今……思い出した? ううん、なんだか違う気がする。
 その名前を聞いたとき、まるで鍵の掛かった箱がパカリと開いたような。
 客観的に内容を読み取れたような。
 そしてその内容に恐怖してしまって、体が拒否反応を起こしたような……。
 ともかく、『過去を引き出す』とは違う感覚が生じた。

「…………尋夢くん。その、アクセンさんって……」
「うんうん〜?」
「吸血鬼よね。赤い髪の。その……ある男性……の血を吸ってるとこ、あたし、見たことがあって……」
「そうなの〜?」
「…………え?」
「真っ赤な髪なのはあってるけどアクセンさんって吸血鬼なんだ〜。知らなかった〜そうなんだね〜トマトちゅうちゅうしちゃうんだ〜〜」
「……え……」
「この洋館にずっと住んでるんだけどね〜。ちゅうちゅうしてるの見たことないな〜〜〜」
「…………」

 一度も会ったことないのに、知っている名前。
 いつかどこかで会って知った経験があるのに、今の今まで引き摺り出すことができなかった記憶。

「へぇっ!? 吸血鬼なんて住んでるのっ!? ここにっ!? すっげぇーっ! どこにいるの退治しに行こうぜっ! 経験値ゲットだーっ!」
「おにいちゃんケンカしちゃだめだよ〜。吸血鬼でもちゅうちゅうしないかもしれないよ〜〜?」
「……き、きっとここに住んでるって人とは別人なの。だって、あたしが知ってるのは。…………」

 元あったあたしと、今までのあたしがぶつかり合っての――瞬間的拒絶。
 何なんだろう、これは。何があったんだろう、これは。
 自分の中が変わってような感覚。想起するたびに疼く左胸。
 会ったことのない赤い髪の人。見た気がする……赤い髪の人が、男性の血を吸っている光景。
 どこで?
 二階のお兄ちゃんの部屋で。
 誰を?
 お兄ちゃんを。
 …………お兄ちゃんって、誰?

「ユカリンちょー苦しそうっ。おやつ食べるっ? そうだ尋夢っ、おやつ食べようっ! どっかでお菓子貰ってこようぜっ!」
「わ〜い。じゃあ食堂行こう〜。洋館の食堂はね〜いつもお茶会してる人達がいた場所なんだよ〜〜」
「ええっ、そんな奴らいるのっ? 昨日もその前も全然見なかったけどっ?」
「ん〜と〜……最近トキリンさんもアクセンさんもお体わるいわるいだからお茶会しないんだって〜。でもおやつなら今も戸棚にある筈だよ〜。紫莉ちゃん待っててね美味しいの取ってくる〜〜」

 まるで知っているような、会ったことあるような、ずっと一緒にいたような体感。
 背中がぞわぞわして、気分を変えようと……優しい火刃里くんが用意してくれた水を啜った。水分が体を満たしていく。
 でもまた『器』の中身が書き換わるような意識が生じて、余計に苦しくなった。



 ――2005年12月17日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /7

 知りたい、知るべきだ。そう思って勇気を出して、彼女と向き合った。
 なのに僕は強く後悔する。涙を流すべきではないと判っていても、こんな時間が訪れなきゃ良かったと酷く悔いてしまう。

「――――以上が、地の底に眠る古の邪炎を喚び覚ます裁きの詠唱、始源の炎を蘇らせる信祈仰祷です」

 文献を交えての解説は終了した。
 千年前から編み出された大魔術。千年の中で三回執行された、神を創り出すという儀式。
 邑妃さんは、簡潔に全容を語り終えてくれた。

「必要な材料は、四十六億の魂。それと器が二つ」
「…………」

 静かに説明は続く。
 ……材料。仏田一族が死にもの狂いで収集し続けている悲しき被害者の、悪しき加害者達の、この世に留まるありとあらゆる魂。
 魂だけでは難しい。最も大切な材料は、魂を捧げる杯となる者だ。二回の失敗から三回目は女性が使われ成功した。よって四度目を迎えるときも女子でなければならないとされている。仏田が女子を追い求めている理由はここからだ。
 儀式の執行者となる当主も必要な材料の一つだ。当主の器に宿る始祖・橘 川越の魂が入っていることが前提。女神の維持には数多の知恵が必要とされているため、歴代当主の魂を全て所有した状態だと尚良しのこと。
 一人の知恵では達成できなかったから多くの知恵を一つの器に入れればいい。そう結論づけた始祖様の考えからなっている。
 材料は以上。四十六億の魂と、女神となる女子と、始祖の魂を引き継いだ儀式執行者。
 だがそれだけでは満足しない。これらはあくまで必要最低限なだけで、儀式をより確実なものに仕上げるためには成功率を高める工夫を加えなければならない。
 仏田の中央達はそう考え、ありとあらゆる準備をしてきた。

 それが――恐怖という味付け。

「女神『蟲毒色の魔鏡』は、恐怖の感情を好むとされています。死に怯える恐怖。未知なるモノへの恐れ。錯乱。混濁。狼狽。畏怖。混乱。脅威。混沌。負の感情。怖い、苦しい、恐ろしい、嫌だという騒めきを何よりも好んでいたと――『女神に最も近い女神』が証言しております」
「……なんだ、それ。人の恐怖や苦しみが好物だなんて。苦痛を好き好んで襲い掛かってくる異端と……同じじゃん」

 そう、同じ。同じなんだ。
 神を創造すると皆が口を揃え、崇高な願いだからと合唱し、一族の定めだからと疑うことすら許されなかった事実。
 恐怖を好む異端と女神は、同じであるということ。
 求めていた女神は、悪しき存在であるということ。
 それに他ならない。

「もし好物が血液なら。大量の血を注ぎ足せば叶います。もし好物がただの死なら。死体の山を積み上げれば叶います。ですが仏田が求める女神は違う。『死にたくない』と懸命に願う恐怖。『どうして死ぬ』と激動する恐怖。これが女神が最も好む味です」

 美味しいご馳走を用意しておけば、彼女の生きやすい舞台を用意しておけば……恐怖の権化が降臨してくれるに違いない。
 『現に三回目はそれで成功した』。だから確実に儀式を成功させるには、錯乱した死の空間を創り出さなければならないとされた。
 それは……三回目に成功してしまったときから、四回目に完全な形で臨もうとした百年前から確定していたこと。

「先ほどの述べた詠唱と共に、舞台作りの『餌』には全て命を落としていただきます。とはいえ、死ぬ訳にはいきません。死の恐怖を女神が蘇る瞬間まで維持しておかなければなりませんから。そこで必要なのが、『確実な形で餌に仕立て上げること』。利用したのが縛令呪という精神束縛……血の誓約です」

 ……仏田の一員は、ほぼ全員ギアスを掛けられている。
 一門の規律を守るための主従契約魔術儀式制度を利用し、主である者の命令は絶対と通りの良い言葉で心身を縛り……どんな命令でも洗脳して遂行させるようにした。
 命令一つで殺し、命を留め、恐怖させ、悪しき神に捧げる生贄に仕立て上げられるように。
 マスターの命令は従者となった者は絶対聞かなきゃいけないって言うけど、それは……それはマスターとの信頼関係があって結ばれるものだ。
 命を差し出してもいいぐらい魂を一体化させて、その代わりに魔力を頂戴したり助け合ったりしようというシステム。
 決して、命を好きに扱っていいというものじゃない!

「こうして縛令呪で大勢の恐怖を作り上げることにしました。贄となった一族達は儀式後、命を落とします。貴方の言う『一族の死を望む者』がいるとしたら、儀式執行を行なう当主と本部一同はそれに値するでしょう」
「……邑妃さん。その儀式のこと、どれだけの人が知っているの。どれだけの人に、黙っているの?」
「明確に存じ上げているのは光緑様、狭山様、大山様、一本松様、銀之助様、松山様、航様。次期当主である燈雅と、次期本部幹部候補である悟司様。私が知っている限りでは以上です。……おそらく増えることも無いでしょう。儀式執行に差し支えがあるかもしれませんから」

 百人もいるのに? ここには百人近くが身を粉にして働いているのに!?
 たった……十人かそこらしか真実を知らないと!?
 他の九十人には黙っておいて、生贄になるのは嫌かもしれないのに儀式を執行しようと!?
 それに、その一員の中には……僕の知っている大勢の名前が無い。
 最近仏田に入門した鶴瀬くんはもちろん、ここで産まれ、ここで育ったカスミちゃんや圭吾さんの名前も無い。僕よりずっと前に産まれた藤春叔父さんや、子供の頃からお世話になったたくさんの人達の名前だって……。

「儀式決行は今月の終わり、12月31日です。女神が没した命日とのことですが、三度目がこの日に成功しております。月の巡りが良い日なのでしょうね。千年という月日のせいか始祖様の魂も非常に薄弱になっているそうで、なんとしてでも今年のこの日に儀式を執行させるようです」
「……だから、12月31日に……? ねえ。それを、止める人はいないの。みんな……なんでやろうとしてるの」
「ええ」
「和光おじいちゃんは!?」

 さっき彼女が並べた名前の中に、元当主だった和光おじいちゃんの名前が無かった。その弟である照行おじいちゃんや浅黄おじいちゃん、清子様達の名前も。
 百年前から恐ろしい儀式を遂行させると決まっていたなら、前の当主達である彼らが知らない訳が……。

「今月12月15日。浅黄様はお亡くなりになっております」
「…………」
「翌日12月16日に、和光様、照行様、清子様がお亡くなりになっております」
「……どうして」
「浅黄様は病気でお亡くなりになりました。和光様達は『聯合』されました」
「……『聯合』って……それ、処刑って意味でしょう。どうして……」
「恐怖の舞台を創るためには縛令呪による一斉号令が必要です。ですが和光様らは、狭山様らの命ずる血の誓約の支配下にはおられません。つまり生贄にはなれません」
「それは、和光おじいちゃん達は不必要だったから……殺したってこと?」

 はい。
 彼女はハッキリと頷いた。

「同じように、『本部』の幹部達の命令では殺せない一族が数人おります。『血の誓約』の手術を受けてない者です。誓約とは仏田の血を飲んで体内の血液を書き換えるという……死徒を生む吸血鬼がじみた儀式なのですが、その際に体内にインプラントを植え込んで更に精神拘束力を強めておりました。死が関連した術式は、たとえ強度な魔術公式でも破られにくいですからね」
「……普通なら洗脳で『死ね』なんて言っても、生存力の方が勝って打ち破られる。それでも、『死ね』を遂行させてしまうまでの拘束力があるのは……」
「誓約の際にインプラントの外科手術を行なっているからです。……近頃だと、正一くんが頑張っておりましたね。非常に苦痛を伴うため半年近く専用の鍛錬が必要なのですが、よく耐え、契約を完了させました」
「…………」
「ここ五十年、外部から来た者以外……仏田家の血を持って産まれる者達は、ほぼ全員この手術を受けております。ですが、『当主の子は生身でなければならない』とされた。変な異物を入れて当主の血を穢したくなかったからだそうです。……既に光緑様で異物を加え、失敗なされていたからですね」

 約五十年前。当主の証である赤い髪や紫の眼を持って産まれるとされていた光緑お父さんは、どちらも顕現しなかった。
 その原因は、おそらく胎児の時点で調整を行なったからではないかとされている……と彼女は話す。

「光緑様の子を産む私は生身で燈雅や志朗、貴方を生まなければならなかった。だから貴方達は『機関』が欲しがった拘束力を持っていない。同じように『機関』の手が加わっていない藤春様の子らもギアスの対象外です。……おそらく対象外には12月31日、ギアスとは別の形で、贄として捧げられることになるでしょう」

 教えてと言ったことは教えてくれる。声を掛けたら対応してくれる。
 これまで通りのお母さんの姿を、今も邑妃さんは淡々と続けてくれていた。
 ずっとずっと、淡々と。

「…………邑妃さんは、止めようとは思わないのですか。貴方も、血の誓約を受けて仏田一族となった一人でしょう。こんな重要な秘密を知っている一人でもある。なのに、何故そのままでいるんですか。何故、そのまま……」

 あまりに静かに語るもんだから。
 ……どうして今までの世界でも、12月31日まで何事も無くいるのか、理解を越えていた。

「それも、仏田家の後継ぎとして配下に向けたご命令? 言わなければ叱られてしまうご命令でよろしいかしら?」
「…………はい」

 話を聞いているだけの僕だって声も体も震わせているというのに。冷淡に事実を述べていく彼女の心が、ちっとも判らない。
 ……判らないから、判りたいから、頷く。
 すると、彼女は笑った。
 ハッと、僕が見たこともないぐらい冷酷に。お母さんとしての顔ではなく、全然知らない人間の顔になって……僕の命令に従った。

「私には愛する人がおりました」
「……え?」
「愛する人がいました。幼馴染でした。仏田家の当主様との婚約の話が来るずっとずっと前から愛している人。恋する私にとっても甘くて心から愛してくれて、今でもお声を掛けると仏田寺にまで駆けつけてくれるぐらい優しいお人」
「…………」
「元より愛し合えないとお互い判っていました。今でも愛していると言ってくれる素敵な人です。ですが姉が、『あの退魔組織』を自分で勝ち取って我が物顔でやっていた姉が、これから困窮した人々を救う為には力をつける必要があるって、そのためにはどうしてもお金が欲しいと泣きついてきて……」

 咄嗟に、耳を塞ぎたくなった!
 でも、自分から判りたいと思って勇気を出して下した命令だ。僕から耳を閉ざすことなんてできなかった。

「私は……一度も会ったこともない、話したこともない、話そうにも眠って動かない人形のような男の妻にならなきゃいけなかった。……続けて三人あっさり産めたのは幸運でしたね。脅されていたお産の苦痛も無かったですし。能力者としては不作だったので清子様には何度も『作り直せ』『無かったことにしろ』と言われましたが……実際産んでみると可愛いものですね。そのまま不作のもので放置しました」

 ……やめてほしい。
 可愛いと言ったとき笑ってくれたとしても、その奥底に潜んでいる感情がじわじわと僕の中に染み渡ってきて……喋るのをやめてほしいと本気で思ってしまう。
 両手で耳は塞いではいない。でも、目の前に目をぎゅうっと瞑ってしまった。心情的には聞かないようにしているのと同じだった。

「あまりにか弱すぎて強化手術続きだった燈雅や、何にも才能を持たせてあげられなかった志朗には可哀想なことをしました。才に溢れた新座、貴方にも多くの苦痛を強いました。丈夫で健康に生んであげられなかったのは母として申し訳無いです」
「……そんな、お母さんは悪くな……い」
「あら新座、ありがとう。気遣ってくれて嬉しいわ。『正直なことを申し上げますと、今月中に仏田の方々がみんな死んでくれると精々します』」
「ッ……!」

 心を読んでしまって胸に槍が突き刺さったときよりも、苦しい。
 確かな言葉で、直接胸を串刺しにされた。
 こんなに直球な痛みは初めてだった。

 彼女は真っ直ぐ言う。だってみんな生贄として恐怖の中で神に捧げられるのでしょう? って……。
 『私は苦しめられました、だから仏田家を憎んでいるのです』とは言わなかった。
 言わなくたって判った。
 嫁ぐ前からの激情。三十年前から続く彼女の心。たった数分の告白で語りきれるものなんかじゃない。
 だけど、実感してしまう。
 『死を望む者達はいる』。
 僕ら家族の中で、僕ら家族の死を待ち望む人達がいる。何人も。……ここにも!

「それでは新座様。お話のご命令が以上なら自室に帰ります。よろしいでしょうか?」
「…………ええ、ありがとうございます、邑妃さん……」
「新座、お腹が空いたなら早めに厨房に行ってさしあげなさい。おかわりだって簡単に用意できるものじゃないのだから」
「……ありがとう、お母さん」

 失礼致します。
 丁寧な動きで黒い着物の彼女は頭を下げ、倉庫を出て行く。
 最初に思った通り。楚々とした佇まいは燈雅お兄ちゃんを思わせて、気丈な物言いは志朗お兄ちゃんを連想させる。そしてあの凛々しさは、鶴瀬くんを思い出させた。
 そんな彼らを死んでもいいと思っているなんて。

 ……涙が、滲み出てくる。
 大切に想っていた人達が、騙していた。悪意を抱いていた人が、平然と生きていた。その事実をどう受け止めればいい?

 知るべきだったのだろうか。
 知らずに死んでしまった方が、僕にとっては幸福だった。何も知らないまま死を迎えた方が。……心からそう思ってしまった。



 ――2005年12月17日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /8

「緋馬おにいちゃん〜! 夜のおさんぽなの〜〜〜?」
「あッ!?」

 廊下で聞き耳を立てていたら、背後から間延びしたガキの大声。
 そんな独特な喋り方をする幼稚な声なんて尋夢しかいない。慌てて振り返ると予想通りの尋夢が、風呂に入った後の寝間着姿でニコニコと突っ立っていた。

「おにいちゃんのお部屋、あっちだよ〜〜? あ、そっか〜緋馬おにいちゃん勉強熱心だね〜」
「……あ、ああ?」
「おねむの前に読む魔法のご本を借りに来たんでしょ〜? えっちぃ本が無いから仕方なくなんだね〜〜」

 ふわふわした声で話す尋夢に何て返すべきか考えていると、倉庫から邑妃さんが現れ……静かに廊下を歩いて行く。
 バッタリ会った俺に会釈をしてくれた。「緋馬様、明日はお帰りでしょう? 夜更かしは程々にして早めにお休みください」と微笑みを浮かべながら。
 三日間の魔術の師は、最後の瞬間まで優しい先生として俺を気遣ってくれた。

 ――『今月中に仏田の方々がみんな死んでくれると精々します』。
 そんな言葉を言うような人とは思えない。あくまで偶然再会した彼女は、三日間だけの生徒に先生としての姿を見せつけて去っていった。

「……むぐ? あれ、緋馬くん? なんでこんな所に?」
「……ぅ……」
「あ〜〜新座さんだ〜〜〜」

 倉庫から、彼女と話をしていた息子の新座さんが顔を出す。
 『本部』が発行する資料なら必ず倉庫に納められている筈だ……だから倉庫に来れば『赤紙』の一部が手に入るのではないか……そこから福広さんに俺抹殺の指令が下ってないか確かめられないか……。
 安易な考えで訪れてみたら、さっきの二人の会話。
 一族を殺しうる可能性を示唆する新座さんと、応じる邑妃さんの会話。
 驚かそうともせず、淡々と言葉を並べる邑妃さんの話に頭をぐるぐると混ぜこぜにされて……身動きが取れなくなってしまった。

 邑妃さんが出てきた後、まるで偶然倉庫の前を通りましたというテイで挨拶をした。
 年上の彼女なら俺が慌てて演技をしたことに気付いているかもしれない。でも気付いていたら対応が変わったか? 気付いていてもあのまま去って行ったのでは? ……判らない。
 ここ三日一緒に過ごしただけの彼女のことなんて判らない。……そもそも親しくしてくれた福広さんのことだって判らないし! 自分の親代わりの人のことだって理解できてないんだから、どうしようにも!

 ……駄目だ。何を興奮している。最近の俺は嫌に感情が昂りやすい。
 その上、理論が破綻する。考えがまとまらず意識があちこち散漫になってしまう。『新しい世界』に来てからクールを装うことすらできなくなってきた。まともな考えが出来ないのはいけない。このままではせっかく時間を跳躍できたというのに何も変えられず……。

「緋馬くん、大丈夫? なんで息切れしてるのかな?」
「ぁ……。な、何でもないです! そのっ、何でもないんですっ……」
「むぐっ? 落ち着いてよ。走ってきたのかな、そうじゃないよね。なんでそんなに慌てているんだい。……もっと緋馬くんって『前は』落ち着いた子だっただろ?」

 前は。……それは、いつの話だ?
 以前新座さんと一緒になったとき? さほど仲が良かった訳じゃない俺達は数えるぐらいしか接触してなかっただろ? ……その中での『前』って、いつだよ?
 過去を巡る。記憶を探る。『この器の俺』から昔を思い起こして、『違う世界の俺』から新座さんの思い出を呼び起こして……インストールする。
 記憶を上書きするたびに魂が悲鳴を上げて、左胸が痛むというのに。
 またやってしまった。

「……あ、がっ……」
「ひっ、緋馬くん!? むぐっ、体調が悪いんだね!? そういうことは早く言わなきゃ駄目だよ! お医者さんのとこ……そうだ、シンリンくんのとこ行こう! お薬を貰おう!」
「おにいちゃん〜? 汗ふきふきしよ〜〜?」
「……尋夢、平気だ。すみません新座さん、大丈夫です。……ちょっと気が動転して、その、本当に問題無くて……」
「…………胸が痛いの?」

 よろける俺に新座さんは手を貸そうとする。冬だというのに汗を流して呻いていれば、大人だったらその対応は当然だ。
 彼の言う通り薬を貰った方が良いかも。が、『新座さんとは特別変わった過去は無い』と器の記憶を読み終えた頃には、痛みは無くなっていた。寧ろさっきのは何だと問われるほど、何事も無く体が動く。
 どうやら『別世界の魂』を読み込むたびに、器に無い機能を使おうとすると心臓が悲鳴を上げるらしい。
 二度に渡る跳躍でようやく気付けたが、これはもっと早くに知っておくべきだった。
 時間跳躍のやり方は書物にあってもそのリスクなんて誰も教えてくれなかったから、無理も無い。

「その、新座さん。この辺りの倉庫で……『赤紙』の写しとかって保管されてます?」
「『赤紙』の写し?」
「ここ数日間、どんな『仕事』が誰に割り当てられているか……調べられませんか」
「むぐー……どこに保管してるかなんて聞いたことがないな。ここはあくまで魔導書が保管してあるだけだし。さっきお母さ……邑妃さんが来ていたのも君とのお勉強に使った魔導書を返却しに来たんだよ。重要書類の類は『本部』持ちじゃないかな」
「……ですよね。見せてもらえないもんですか」
「無理だね」

 望みを託して来てみるが、それもそうかの返答。
 『本部』に直接問い合わせる? ……馬鹿か、もし『俺を殺せ』っていう指令があって、その指令を出しているところに向かって見せてもらえるもんか。
 こっそり覗き見る機会が運良く思いつかない限り、不可能としか言えない。

「緋馬くん、調子が悪いなら……薬は貰わなくても早く寝た方が良いんじゃない?」
「……はい。じゃあ、えっと……何か適当に魔導書を借りて、部屋に戻ります」
「勉強熱心だなぁ。君って本当にそんな子だったかい」
「…………」
「何をお探しかな? 僕が取ってきてあげるよ。そこで座って待ってて。倉庫の中は寒いから体調が悪くなくても悪くなっちゃうでしょ。何の本が欲しいの?」

 お節介焼きというか、変に人を気遣いたがる人だからか、新座さんはさほどこの倉庫に詳しい訳でもないのに俺へ「安静にしていろ」と言ってくる。
 もう体は大丈夫だ。でも気に掛けてくれるのはありがたい。……それとも俺に自覚が無いだけで、誰もが心配してしまうような青い顔でもしているのか。

 ……さっきの、邑妃さんの話。半分しか聞こえなかったけど、儀式のことは、間違いなく真実。
 俺は知っている。死の恐怖で味付けされた舞台を。……現に俺はその味付けの一つに仕立て上げられた。
 ギアスによって縛られなかった俺は、直接痛めつけられることで死を味合わされた。
 あの痛みを思い出してしまったら、胸の痛みどころじゃない。この体には傷一つ無いけど……あのとき、儀式の中心人物達に傷付けられた痛みが蘇る。
 幻痛のせいで、不安で不安で押し潰れそうになって……もう『赤紙』とかどうでもよくなって……ただ廊下で二人の会話を聞いているしかなくって……それで……。

「……うう」
「おにいちゃん〜?」

 ……そうだよ。考えるのは一つ。三日前から、それこそこの時間が始まった12月1日から何度も考えていること。
 …………俺は一体何をするべきなんだ?
 先にあることを知っているからって、だからって、どうすればいいんだ?

「……時間跳躍」
「むぐっ?」
「……時間を遡る方法が書かれた書物が、この倉庫にはある筈です。俺、以前見ましたから。依織さんから教わりましたから。もう一回読みたいので……。ちょっと崩れかけの本棚の二段目です。高い所にあるんですけど、確かタイトル……『越境』ってやつです」
「…………」
「それ、お願いできますか」

 新座さんは「越境、だね?」と複雑そうな表情で呟きながらも倉庫に戻って行く。
 俺も倉庫を覗き込んで、新座さんが見当外れな方を探していないか見た。雑な案内だったにも関わらず、彼は俺の言った通り……本が重すぎて崩れかけた古い本棚を見つけ出し、脚立を使って例の書物を探していた。
 俺より背が高い人なので苦労せずに取り出せそうだ。

「緋馬おにいちゃん、過去に戻りたいの〜?」

 くいくいっ。尋夢が俺のズボンを引っ張ってくる。
 深刻そうな顔をしている俺を気遣ってそう声を掛けたのか。
 ぐいぐいぐいっ。思いっきりズボンを下げようとしてくるので軽くゲンコツをしておく。……気遣いなんて嘘だ。俺の苦痛とか一切無視した尋夢らしい、前後の繋がらぬ自由な行動にすぎなかった。

「ああ、うん……戻れるなら戻りたいよ」
「時をさかのぼるナントカだね〜。そういうご本あったよね〜〜」
「……ナントカの部分ぐらい覚えておけよ」

 その書物を手にしてこれからどうするなんて、決めていない。
 でもあの呪文は俺を救ってくれたものだ。
 目を通して少しでも安心感を得たい。今後の活用など考えず、ただそれだけの理由で手元に置きたかった。

「じゃあさ、じゃあさ〜。本を読むだけじゃなくてさ〜。邑妃さんにしてもらったみたいに〜先生に教わった方がいいよ〜〜」
「……先生?」
「ぼくひとりでお勉強してもちんぷんかんぷん〜。でもカンちゃんやみんなでお勉強すれば楽しいからいっぱい覚えられるの〜。緋馬おにいちゃんだってそうでしょ〜〜?」
「そうだな……でも時間跳躍の先生なんてこの寺にいるのかよ」

 そりゃあこうやって資料を倉庫に残している以上、先人がいるということだが。
 しかし邑妃さんにワンツーマンで鍛錬をしてもらったように、炎の出し方から消し方まで教えてもらえるようなジャンルでは……。
 尋夢は、ニッコリと笑顔で俺のズボンに抱きついてくる。

「いるよ〜。おとうさんだよ〜〜」
「…………あ?」
「…………ええっ?」

 ちょうど新座さんが目的の物を持って倉庫から出てきた。本当にちょうど良く俺達の会話を聞いてしまい、二人揃って妙な声を出す。
 何故だか新座さんも『時間跳躍』という分野には大きな興味があったらしい。だからさっき複雑そうな顔をして、尋夢の話にも……こうも素っ頓狂な声を出しているのだろう。

「ぼくらの柳翠おとうさん〜。新座さんが持ってるソレだって、おとうさんが書いたんだよ〜〜」



 ――1003年9月13日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /9

 嵐で倒壊した大門に近寄る人間達はいない。
 二十年も前から国内の疲弊につれて治安は悪化の一途を辿り、羅生門周辺は夜ともなれば誰も近付かぬ荒れ果てた地区となっていた。既に捨て置かれた都城壁は腐り落ち、かつて棲んでいた連中もお零れを貰っていた乞食達もどこかに行ってしまった。
 完全に捨てられた廃墟には自分のような古い妖怪と、冒険心がまだ捨てられない下級霊の子ら、そして物好きな人間しか訪れない。

「元気だな、オマエ達。オレに会えたから嬉しい? うん、良い返事だ」

 月が落ちてくるのではないかというほど丸く、明るすぎる夜。
 今宵は名月、供え物や月餅を贈り合い、詩歌や管絃を楽しみつつ酒を酌むべきだ。雅味な催しなど昔は興味が無かったが、奴が来たとなればしてやらんこともない。
 それに子達は今夜が宴だと既にはしゃぎ回っている。器も形成できない下級霊が一端にふざけて駆け回っていた。そこらの野良犬よりもずっと活動的な魑魅魍魎だなんて退魔師共に見つかったら昇華されてしまうというのに。
 構わず月夜を駆け回り笑う。
 全ては門へやって来る男を迎い入れるため。
 小さく幼稚な異端達は、客人を持て成すために飛び跳ねていた。

「ホラ、美味いモンを持ってきてやったぞ。食え食え。……オーイ、羽目を外しすぎるなよ。今夜は駆け出し陰陽師達だってはしゃいでいるからな。昇華されたくなかったらそんなに興奮しないで、ホラ、オレの肩に乗っていいぞ」

 まともな浮浪者なら妖怪が闊歩する南門など訪れない。血迷った者ですら本能的に人ならざる者が威張った足取りで歩くような場所には来ないだろう。
 そんな中、何も気にせず笑顔を振りまきながら現れる男が……奴だ。
 霊達にニコリと歯を見せ、肩に乗せ、頬づりまでする。空を飛ぶことができない獣相手には膝をつき、顎を撫でる。
 膝をついてしゃがみ込んでいると、人間の子供ほどの体躯の妖怪が何人も奴の背中に飛び乗った。
 驚きながらも破顔一笑。「重い、重いぞ。随分重くなったよ、成長したな」と悪態をつきながら、角や牙の生えた子供達を背負って回る。
 奴は何の変哲の無い人間だ。少し背が高いかもしれないが、奴より高い人間はいる。特別体格が良いと言えないし、端整という訳でもない。
 特注の美声も無ければ、大した魔力を有してもいない。貴族の親のもとで生まれたから常人よりは恵まれてはいるが、階級としてはさほど高くなく、奴より恵まれた血はいくらでもいた。
 だが他の人間と決定的に違うものがあった。

「トラちゃん。これ、土産のお酒」
「ありがとう。って、なんだこの数は。今日から三日三晩飲み明かす気か?」
「喜んでもらいたくって持ってきた酒なんだ! ……オーイ、みんな出てこい! 今日はオレの奢りだぞー! 何も取らんから出てこいー!」

 やたらと開放的で軽薄。人並み外れた馴れ馴れしさがあった。

 ……際立った特徴が無い。だからこそ、彼には魅力があった。
 特注の美声が無くても言葉を磨けば充分に光る。大した魔力でなくても他者の力を借りればいいだけ。多少の奔走で奴はありとあらゆる負を打ち負かす。
 身を砕く努力を武器に彼は勝ち続けた。負け無しだった。そこで得た自信がより奴を光らせ、『挫折を知らぬ大物』へと変えていた。

「あと、これこれ。氷も持ってきたぞ」
「……氷……」
「角を落とした氷なんだ。知ってるかい、角ばっていない氷で冷やす酒は甘くて美味しいんだ。薄まりにくいから味が変わらないし……」
「酒なんぞ口に入れば皆同じだろ。……にしても、よく氷なんぞ用意できたな」
「ふふ、聞いて驚け。『オマエさん頑張ってるから何か欲しいモノがあったら言ってみろ。毎度ありがとうって言ってるし一度ぐらいならどんな無茶ぶりも聞いてやらんこともない』って言うからさ、『一生の一度のお願いです』って良い氷を今日くださいって言ったらこの時間に持って行けるように準備してくれたんだ。お御門様にはもう足を向けて眠れないな」
「…………川越。貴様、天皇相手になんてことをしている。いくら儂でも『相手を考えろ』と説教するぞ」
「本人から『お使いをしてやってもいい』って言ってくれたんだよ。遠慮する必要なんて無いだろ?」

 下僕べの者共がどこからか持ってきた乾いた落ち葉で座敷を作る。そこに並んで座り、人間の頂点に用意させた酒を注ぎ合う。
 奴が座った途端、奴に気がある連中が群がってきた。獣、子供、女、多くの者達が久々の来訪者に喜び、言葉を交わした。
 いつしかここは化け物達の宴になっていた。
 酒が飲める者は奴が用意した極上の逸品に舌を付け始める。妖精達も「アリガトウ!」と喜び飛び回り、出された餅に群がる。するとここぞとばかりに川越は彼らに人形を見せ、異能で手足を自在に操り劇を始めた。子供達が「オーッ」と声を上げる。
 女達は「そんな遊びだけじゃなくてぇ」と川越を誘惑しようと甘い声で歌い始めた。遊戯の途中でも己の愉悦を優先してしまうのは我らだから仕方ないこと。

「ゴメンよ。今日のオレ、今夜中に屋敷に帰らないと怒られる。明日は朝から遠出でね、あんまり酔っ払えないんだ」

 だが頑なに川越は拒んだ。
 はしゃごうとしていた女どもが「エーッ!」と残念がる声を上げる。
 淫靡な彼女達は「それでも」「遊ぼう」と堕落を浴びさせるが、奴は笑顔で回避し続けた。
 人間相手だというのに敵意を向けることなく。
 皆、親愛の眼差しを向けていた。

「……川越。何か報告することがあったようだが」
「トラちゃんが酔う前に話をしておくべきだな」
「その前に乾杯をするか」
「うん。カンパイ」

 奴と一番話しやすい人型を象り、人間同士がするように盃を交わす。

「美味い! さすが上の人は上の酒を知っているね」
「うむ。娯楽を楽しめるだけ祭事が巧くいっているということだろう」
「うんうん。……京はだいぶ落ち着いた。病が流行って荒れに荒れた時代も一区切りついた。猫の手も借りたいって言われてたのが嘘みたいに……オレ一人がいなくなっても平気なぐらいに穏やかになった。トラちゃん達もそうなんだろ?」
「酒の飲み方を工夫ぐらいには平穏だ」

 本来の姿である獣の状態でも酒は飲める。だが足を組み、月を見て、杯を飲み干す……この風情を味わうのが、妖怪達の中で最先端の流行とも言えた。
 より人間達らしく化けるのは、ここ百年の流行りだ。いかに人間のように化かしてみるかを競い合う大会だって定期的に開かれているほどだった。もう自分は若造と言えない年だったが、若い者達に雑じって真似てみるのも楽しい。
 楽しむようになったのは、ここ数年。
 なんせ、十年前までは人と人でないものは相いれなかった。
 我らは人外。この大門を住処とする連中は雑食だが、化け物と言われる連中の大半は人間を食らう者達だ。酒や餅では腹が満たせず、苦痛で味付けされた人間の生きた肉を求める異端が圧倒的に多い。
 雑食な我ら妖怪と一辺倒な連中を一緒にされたくはないが、人間にとっては人間以外全て化け物と括られる。人間を真似て楽しもうとしている魂ある我らも、一時期は駆逐対象だった。

「そうなったのは……まったく、誰のおかげだったかな」
「ふふ。もっと素直にオレを褒めてくれてもいいんだが?」
「うむ、素直にありがとうと言っておくか」
「ふふふ。美味い酒だ」

 その現実を『一時的にだが』救ったのが、この川越という男である。
 救ったというと仰々しいが、人間である彼は理解無き人間達に解いてまわった。

 ――稀人と異端は違う。共存ができる人外とできぬ悪鬼がいる、どちらも人外だと処刑するなど理性のある人間のすることではない。正しい知恵を身に付けろ……と。

 この橘 川越という男がやたらと囃し立てられる理由はそこにあった。
 川越の上手いところは、「命ある者は全て兄弟であり共存すべきもの」という度の過ぎた聖人持論ではなかったところである。
 「私より先に生まれた師の知恵は、私よりも遥かに大きい。師よりも早く生まれた妖怪の知恵の大きさは言うまでもなく」……つまりは、「人外を生かしてやるから持ちうる知恵を人間に分け与えろ」という交換条件を突き出してきたのだ。

「トラちゃん達と仲良くなれたのは大仕事だった。休戦から五年。長くトラちゃん達とは付き合えたね」
「我らにとってはたった五年なんだがな」
「五年経ったから、オレは次の仕事を始めようと思う」
「ほう?」

 だから、『一時的に』と言える。
 人間達と永久の誓いを交わしてないのだから、提案した川越が死ねば今の停戦状態は呆気なく消滅する。
 人間の川越は百年も生きない。それは皆、判っている。周囲の者達があの男に懐いている理由も、その前提があるからだ。
 奴の作った共存はあと数年で消える。だから奴が元気に生きているこの時間に最大限愛嬌を振り撒き、楽しみ、いずれ無くなる宴の日々に供えている。
 長寿ゆえの薄情と人間は蔑むかもしれない。しかし蔑ろにしているつもりもない。
 たった数年でもこうやって人間と妖怪が酒を交わし合う現状を作り出すことに成功した奴は、評価できる存在だった。

「オレは明日から東国に行く。ここよりずっと寂れた場所で、地獄のような場所があるらしい。一時期の南門なんて目じゃないぐらい死体が溢れている国があるって聞いた。そこを救いに行く。だからここに遊びに来るのはきっと今日が最期」
「――――。唐突過ぎやしないか」
「今生の別れが十五夜なんて詩的だな」
「何をした貴様。百人斬りが大将にバレて左遷されたか。女遊びは大概にしておけとあれほど言っただろう」
「女遊びって……オレはただ迫られたら受けているだけ。どちらかと言えば被害者だよ」
「断らずに笑顔で全員相手をする奴のどこが被害者だ。宮中の娘を全員食ったと街をうろつく亡霊達が噂しておるぞ。ついに罰を受ける日が来たか」
「人聞きの悪い言い方はやめてくれ。第一オレは歌の才は弟子にも負けるぐらいの不男だぞ。ろくなもんを詠めないって評判だ。……それに最初に遠方の仕事の話を切り出したのは確かに頭領だが、自分から行きたいと言ったんだ」
「何をしに行く。陰陽師としても医師(くすし)としても、声聞師としたって貴様は求められていると思っていたのだが。悔しいが貴様は仕事が出来ない訳ではない。手放すのは御上も惜しいと言うだろう」
「オヤ。トラちゃんもオレがいなくなるのは惜しいか? 会えなくなるのは寂しいか?」

 当然だ。……来年から宴が無いと言われたら。
 はしゃいでいる者達は止まらぬが、儂と川越の会話を聞いた者達が切なそうに顔を落とす。人と笑い合う酒宴は終わりか、そうかそうかと静かに頷く者達。……自分もその一人だ。

「川越がいなくなるということは……我らの平穏も終焉を迎えるということ。人間がまた我らを狩るかもしれん。我らも対策を練る必要がある。覚悟せねばならんな」
「何を言ってる。オレがいなくなったって来年も、来月も、それこそ明日でもヒトを招いてドンチャン騒ぎしたっていいんだぞ」
「出来んよ。貴様のような物好き、早々いない。……今はこうして人の身をしているが、儂が異形であることを忘れておるのか?」
「虎が喋るだけじゃないか」
「喋る虎は、恐ろしかろう。貴様のような異能の無い人間共にはな」
「ただ虎が喋るだけじゃないか。槍で突けば血が出る。薬を塗れば治る。オレにとっては人も虎も同じ生き物に変わりない」
「……馬鹿にしておるのか」
「変わりないものは変わりない。傷を治したら感謝の言葉とお金をくれたのだっていっしょだ。……なあ、オレがいなきゃ何にも出来ないのか? 偉大な妖怪様方が? そんな訳が無い。オレがいなくたっていくらでも楽しめるだろう? 良いなって思えた人間に『仲良くなろう』と手を差し伸べれば、誰だって笑顔で『はい喜んで』って言ってくれるさ」
「……そう言える人間が、貴様以外に何人いる」
「結構いるさ。トラちゃん達が知らないだけでたくさんいる。オレは特別な存在でも千年に一度の逸材でもない」
「そうかな」
「別に人間全てを愛せとは言わない。オレだって苦手なモノはある。でもとりあえず……隣に居た人の手を取るぐらいはできる。隣に居た、縁があった、その程度の一人か二人を助けてやる……それぐらいでいいんだよ」

 そう言う彼は、それ以上の願いで……遠くの国へ旅立とうとしていると、後で知る。
 一人か二人を助けてやればいいと言いながら、当の本人は遠国で苦しむ十人も百人も救うためにここを去ろうとしていた。
 現に動こうとしている奴だから言葉の重みが違うが、『だから我らも出来る』という説得力には繋がらなかった。

 奴は酒を煽り、唐突に……くいくいっと、右手の指を細かく動かした。
 子供達の前で踊っていた奴の人形達(紙で作った人型。式神というのもおこがましいほど品疎な、川越の子供騙しの遊び道具)を整列させ、一斉に頭(に見立てたモノ)を下げさせる。
 手を繋いで、礼。遊戯が終わった合図だ。楽しかったものが終わる。奴が去っていくことを、例外無く大勢に知らしめようとしていた。
 別れを聞いた一部だけが寂しい顔をしていただけだったのが、堂々と終焉を告げる。この場に居る全員に終わりを知らしめることに迷いが無い。
 別離を悟り、つまらない顔をする子供がいた。行かないでと止める女もいる。悲しそうな声で鳴く獣だっていた。愛情を抱いていた者達が、当然のように彼を止めようとする。

「ダメだよ。別れは別れだ。曖昧に終わらせるなんてオレの柄じゃないから、しっかりと全員にさよならをしておきたかったんだ。そんなに悲しい顔をしないでくれ、みんな。オマエらの寿命は長い。オレじゃない新しい友を作って、楽しくやってくれ」

 そんな風に別れを告げる姿。
 励ましながらも別れを告げて、笑う男。
 悲しむ者達の前で、その悲しみを吹き飛ばすほど清々しく笑みを浮かべる青年。

 ……初めて会った数年前、奴を「優しい人間」と思った。
 現に彼は無闇やたらに血を流すことを嫌い、人々の病を治してまわり、笑顔の無い子供達には人形劇で心を取り戻させ……遠くの名も知らぬ国を救おうと立ち上がろうとしている。
 だが今は……奴を昔と同じように「優しい人間」などとは思わない。

「じゃあオレはそろそろ帰るよ。オマエら、酒乱して暴れて人を襲うんじゃないぞ。陰陽寮の連中が警戒してるからな。変な喧嘩は売るなよ」
「川越。前々から尋ねたかったことがある」

 ちっともふらついていない腰を上げる奴に、返事も待たずに言葉を投げ掛ける。

「医師として貴様はこの都城でようやった。市街でも貴様の活躍は聞いておる」
「それは……まだ現役の師や理解ある弟子達のおかげだよ。今世の治療家達は皆が皆優秀、オレはその一人に過ぎない。典薬寮でオレより良い成績を収めていた医生はいるぞ」
「何故貴様は、救う?」

 人を、とは言わない。我ら妖怪とも、言わない。

 だが前々から疑問だった。
 初めて会ったとき、彼は「救うための知恵がもっと欲しい」と言った。我欲の為に我らを利用し一時停戦に持ち込むほどだ。その欲望にまみれた姿が人間臭くて楽しかったから今の関係があると言っていい。
 そうでなくても彼は元より人を救える者だった。疾病・瘡傷の治療にあたれるほどの知恵を持っている者だ、人並み外れていた筈なのに人外の知恵までも手に入れようと思った理由は何だ。
 それほどに突き動かされているものは何だ。

「トラちゃんがもし死にかけたとして。救ってもらえたら、まず何をする?」
「……礼、だな。そして助けてもらったことの対価を払うか」
「そうだ、感謝の見返りをする。まずはお礼を言うよな、『ありがとう』って言う。それがオレにとっては一番の報酬だ。――大勢が元気に生きていたらたくさん『ありがとう』が貰える。それを受けることがとても気持ち良い。オレは『ありがとう』をいっぱい貰いたい。感謝されたい。認めてもらいたい。原初は、おそらくそうだった」

 じゃあ、今は?

「いや、今も……まったくその気持ちは変わらないよ。『でもここでは聞き飽きた。もっとたくさん聞きたいから遠くに行くだけ』」
「…………」
「ではな。達者で」

 三日三晩飲み明かせるほどの極上の酒を用意しておきながら、持ってきた本人はろくに飲まずに大門を去って行く。
 別れを惜しみ手を振る者達。妖怪相手にすらこの様子なのだから、きっと別れを告げられた人間達も同じだっただろう。
 ここ……京にいれば安泰なのに遠くに行くなんて。ここで今まで以上の活躍をすればいいのに。多くの声が惜しんだのではないか。
 だというのに、奴は笑顔で去って行く。
 奴が優しい人間だから?
 多くの人を救うことを定めとした聖人だから?

 いいや。なんてことはない。
 奴は異質。誰よりも我欲にまみれた冷酷な男だ。
 何故なら……ここではもう『自分の求めたモノ』が充分に得られないと判断し、新たに貪るために旅立つのだから。
 別れを惜しむ者達の心を一切顧みず、最後まで笑顔で居続けた。何の躊躇も挟まず、揺れる心も一切見せず。
 そんな男のどこが優しい人間か。

「…………トラちゃん? どうした? オレについて来る気?」
「……貴様がいなくなったらまた五年前と同じ日々になるだけだ。退屈な日々に戻ることになる」
「そうならないようにオレはさっき激励したつもりなんだが」
「退屈な日々が戻るよりは、貴様の様子を見ていた方が楽しい。五年間貴様が往診して回る姿は、なかなか興味深かった。たった五年で観察を終わらせるのは惜しい」

 夜道。廃墟から居住区の市街に一人戻ろうとする男。
 いくら月が明るくとも闇夜の中を歩けば異端に教われるというのは周知。市街までの間、一人で歩む奴の姿はやはり異質と言える。

「なんだ、そんなにオレってトラちゃんに好かれていたのか?」
「知らんかったのか」
「同僚達と向かうとはいえ、知らない土地に行くのは心細かったんだ。天下の大妖怪・懐虎(かねとら)様がお付きとして来て下さるなら心強い。これからも色んなことをちょうだいよ。百万力だ」
「……貴様が猫の手も借りたいと言ったのだ。儂は、飽くまで力を貸すだけ。妖の力をどう取り込むか、百万力になるかは川越次第と言える。だが今一度言っておくぞ。人外の力を得すぎた貴様はいずれ人ではなくなって……」
「ああ、うん、良い夜だ。良い酒を貰っておいて成功だったなぁ」
「聞かんか空け者が!」

 文字通りの異端の横を、自分も歩く。
 大勢に愛されたその表情は清々しいもの。多くの信頼を得たもの。年頃の女なら黄色い声で鳴くだろう。子供も心を許すかもしれない。人ならざるモノですら誘惑させるほどの魅力の持ち主だ。
 だがしかし、儂には相変わらず貼り付かせたような笑みとしか思えなかった。

 温和で風雅な立ち振る舞いが人を安心させると知識としてある。奴は職業柄、笑みを浮かべることで相手を安心させると学んでいた。
 前向きで親切な言葉を並べることだって相手の心を落ち着けるため。
 手厚い看護をするのだって、思いやりのある声で笑いかけるのだって、全部あれは奴の策略。
 どうすれば自分が求めるモノを得られるか知っているから。
 快い人間に徹していればいいと判っているから。
 計算づくしで振る舞っているに過ぎない。

 それはもう、月見の席で大層な言葉を綴っているときに判りきっていた。
 あの時代に必要とされていた歌が苦手だったのも、「心を込めて歌を詠む」ことが出来ない彼には当然のこと。
 接触した相手には好印象でも、それ以外にはからっきしだった評価も当然のこと。
 ……それでも。
 虚ろな笑みだとしても、人を救える力があって本人も満足しているものなら……文句など無かった。

 ――――しかし地獄を訪れ、奴は演技すら忘れるほど疲弊していった。

 今まで奴は笑顔を貼り付かせていられる余裕があった。それだけだった。
 辿り着いた先は最悪。貧しい村からもう生者の音がしない。どの家屋も嵐が来れば吹き飛んでしまうほど脆く、住まう村人達も、枯れ木の枝のように細い手足を投げ出して倒れている。
 呼吸はしていた。心臓も動いていた。だが生きてはいない。身動きのできない患者達は、治る見込みがないまま横たわっている。
 この村だけが特別貧しくて地獄なのではなかった。この一帯は全て闇気に包まれていて、何も対策を取れずに大勢が蝕まれ一斉に死んでいった。
 何人かの苦しみを止めることはできても、何百人、何千人もの涙を止めることはできない。未知の症状、原因不明の病態、何度治療を終えてもまた苦しみ出す村人達は消えることはない。
 どんなに奴が財を全て投げ出しても、救い切れない。奴が手を差し伸べる前に、病魔は人々を攫っていく。
 奴の配下達も皆、奴と共に疫病の流行る村を守るために尽力していた。だが、諦め始めていた。

 もう誰も救えない。誰も止められず、全てが死に絶え、闇が拡大していくしかないのだと諦念していた。
 冷静な判断が出来る知識人達は「毒に犯された地獄を打破できない」と賢明な判断を下す。戦術的撤退だ。儂には決してその判断が悪とは思えない。
 けれど……川越は、配下達の声を聞き入れようとはしなかった。
 大勢の声を耳にし、手を取り、死を受け入れられなかった男は聞く耳をもたない。

『私は、救わなければならない』

 言い放つ川越。
 そんな大層なことを部下に言ってはいるが、親しい……それこそ儂のような奴にだったら、こう言うだろう。

『……オレは、この人達を救って……元気になった彼らに、ありがとうって言ってもらいたい……!』

 そう言うだろう。
 たとえ笑顔が演技でも、言葉がどれだけ着飾っていても、その一心で地獄へやって来たほどなんだから。
 だが、ついにその心も折れる。
 死した村人が大量に埋まる土山。それを見つめる彼の表情から、全てが消え去っていく。
 言うに及ばない。求めるものを得てきた奴によって、生まれて初めての挫折を味わっているのだから。

 ――――その日から、彼が本性を曝け出していったのだ。




END

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