■ 036 / 「懇願」



 ――1974年6月15日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /1

「銀ちゃんはさ、もうこの家から出ようとは思わないの?」

 喋りながらの調理は完成時間に遅れる原因になるからやめろと何度も言っている。
なのに、佳歩はやめない。ゆっくりと自分のペースでジャガイモの皮を剥いている。幸い必要な量の人参を既に切り終えて、後は玉ねぎを切る手伝いをしてもらうだけなので夕飯の支度に間に合いそうだ。
 それでも焦るものは焦る。佳歩は話が好きな女だ。うるさいから出て行けと言っても、「一人で百人分の料理をするなんておかしい」と言って出て行きやしない。厨房に自ら入るなどという物好き、彼女ぐらいしかいなかった。
 大抵は追い返していた。だが追い返す時間すらも惜しくなって、仏田の新参者だというのに野菜を切る手伝いをさせている。こんな図々しい人間は初めてだった。人の名前を覚える気なんて無かったが、これほど面倒を掛けてくる女となってはすぐに覚えてしまう。なんだか癪だった。

「異端退治に行くことだってあります。仏田寺の一員であれば、『赤紙』が平等に配られますから」

 真っ当な返事をしたというのに、彼女は首を振る。
 そんな動きをいちいち入れているから、皮剥きが時間通り終わらなくなるんだ。また言い放ちたくもなったが、昨日も一昨日も叱ったことだ。諦めようと思い始めた。

「銀ちゃんは自分の意思で二十四時間厨房に居る」
「その通りです」
「にしたって、居すぎ。ご飯食べるときも厨房で、日誌をつけるのも厨房で。寝るとき以外ずっと厨房ってどうなのよ」

 その寝室だって一分もしない場所にある、と彼女は文句を付け足していく。

「どうなのよ、と言われても。厨房に立つ人間なのだから、何のおかしい話ではないでしょうに」

 呆れたように言ってやる。
 それでも彼女は納得しない。
 何でもいいから文句を言いたくて口を開いているのだろう。こちらが泣いたり謝れば対応も変わるだろうが、舌を噛んだってそんなことをしたくない。この話は、当分終える気配は無い。

「たまには息抜きだって必要だって思わない? その程度のこと誰かに教えてもらえなかったの?」
「何ですか、その、憐れむような目は。人を可哀想だと言いたいですか。仕事以外やることないのが可哀想だと言いたいだけですか。結構です。自分はやるべきことに徹し現状に満足しています。休息など自分に必要が無いからしていないだけで、必要に感じたならすぐにしています。貴方に指摘されるまでもなく自分のやるべきことを見定められますよ」
「貴方って結構おしゃべりだよね」
「喋らせているのは佳歩さん、貴方のせいです」

 ここまで反論されたら普通は「そう言うなら、仕方ないわね」と降参してくれるもの。
 観念したという言葉を待つ。だが、佳歩は折れる女ではなかった。

「あたしは貴方をかわいそうだと思っている。だから放ってあげられなくて、救ってあげようとしているのよ」

 堂々と他者を卑下し、自分を持ち上げて、こうもありありと善を口にしてみせる人間がいるのか。
 さすがにこれには呆れを通り越して、年上の女ながらなんて哀れな脳味噌なんだと呆気に取られてしまった。思わず人参を切る力が強く入りすぎて、まな板を切断しかけてしまうぐらいに。

「うん。銀ちゃんは、かわいそう」
「ああ、貴方という人は……!」
「仕事だけ押しつけられた人生なんて、使命だけで追いかけて何が楽しいの。そんな生き方しか知らない銀ちゃんを助けてあげたいと思うのは、外から来た女としては当然でしょう?」

 数日間何度も注意してきただけに、話しながらもジャガイモの皮を剥く手は止まらない。仏田に入門し働き始めた頃に比べると、手を止めて話に集中することはだいぶ少なくなった。
 なら今度は数日間「無駄話をするな」と教え込まなければならないのか。自分より年上の女に。
 うんざりしている間にも、彼女は次々と身勝手なことを口走っていく。

「退屈な毎日を送っていたらあっという間に年を取っちゃうわ。銀ちゃんもそうなんだけど、一本松もそう。兄弟揃って老けている、いや、大人びているのは、この環境が一番悪いと思うのよ。これからのお寺を担っていくのは貴方達なんだから心の余裕というものを今から学んでおかないと」
「貴方は、何様のつもりなのです」
「年上として人生のより良い歩み方を教えてあげるのは当然でしょう」
「それだけですか。いいかげん自分の立場を自覚なさい。貴方は仏田に来て何日目ですか。この家に来たのだから一族の方針に従うと誓ったのではないですか」
「あたしが誓ったのは一族の在り方。二十四時間休まず働くことが美徳と考えている貴方に賛同するつもりはない」

 人参に込めるべき力を彼女に向けてしまおうか。思わずそう考えてしまうぐらい苛立たしかった。
 そこでハッとする。……カレーに入れる筈の人参がいつの間にか、みじん切りになっていた。佳歩の話に必死になって言い返していたから、料理に合わない切り方をしてしまったんだ。
 悲鳴のように「ああっ、このっ」と悪態をつく。そのみじん切りは予定外のサラダに突っ込むことにした。さすがにカレーにみじん切りの人参は皆が怪しむ。失態を知られたくはなかった。
 その失態を呼び寄せたのは、忌々しい話を続ける女のせいだ。
 こちらが怒声を上げているというのにまだ気安い会話をやめようとはしない。説教が足りないならと彼女を見ると……佳歩は話しながらもジャガイモの皮剥きを終え、乱切りまで済ませて水につける次の作業に移っている。
 ……仕事は確実にこなしている。気を取り直してカレー用の人参を切る。こんな苛立った作業をあと何日続けなければならないんだ、と思いながら。

「銀ちゃんは、無理をしているよね」

 ジャガイモを水に浸す彼女が、相変わらず口を開いていた。
 完全無視をしてやろうかというぐらい、発展性の無い話を延々と。

「銀ちゃんだけでなく一本松だって。大人びてるなんて言い直してみたけど、みんなやっぱり根詰めて無理しているようにしか見えない。そんなんじゃ何年ももたないよ。今は若くて元気だけどきっとくたばっちゃう」
「佳歩さんは人生経験が豊富のようですね。見た目よりずっと老けていらっしゃるということですか。だから積極的に若者へ説教をしているのですね」
「ん? どういう意味かな、クソガキ? ……なに、あたしは小さいときに両親を異端に殺された後、教会の孤児院で育ったの。あたしと同じ境遇の子達もいたし、子供だけじゃなくそういう大人も見てきた。追い詰められる人達って平気だ大丈夫だって口走りながら必死なの。成果を出して何とか自分の立ち位置を確立しようって思っちゃうみたい。子供も、大人も、関係無く。みんな中身も外身も駄目になっていく」
「…………」
「肉体的にも精神的にも疲れて倒れていくのよ。そりゃそうじゃない。どんなに境遇が辛くったってみんな平等、ただの人間だもの。頑張れば頑張れるほど報われる超人なんて一握りだし」
「失礼ですが、僕は生まれつき肉体的にも精神的にも優れております。境遇も辛いとは思ったことはありません。自分に出来ることがあるから包丁を握っているだけですが、そこに同情される余地は無いと思いますよ」

 真摯に語り掛けてくる佳歩の心遣いはありがたい。そう思うべきだとは判っている。
 だが憮然と返してしまう。「自分に出来ることがあるからただ励むのみ」。それがこれ以上無い自身の偽りない心だからだ。
 早く佳歩に話を終わらせるために、堂々と言い放つ。

「……ねえ、銀ちゃん。あたしは本当にどうでもいい人にはこんなこと言わないの。可哀想と思った人じゃないと、こんなにちょっかいなんて出さないよ」

 ――だから一体何を!
 抗弁しようとした瞬間、視線を感じて振り向いた。
 彼女が自分を見ている。仕事を終えて、次の作業を命じられるまでの間……無駄なく休憩を取っていただけだった。
 だというのに無作法な彼女に似合わず、顔は赤い。熱が出て不調だという訳ではないその赤みに、思わず不意をつかれた。
 ……視線を逸らす。まな板の上の人参へと。ただでさえ遅くなった作業があるんだ、些細なことで遅れるミスなんてあってはならない。
 頭を振るって仕事に集中しようとした。

「……佳歩さん。そんな、可哀想可哀想って何度も言わないでください。僕を馬鹿にしているんですか」

 弟を気遣う姉とはこんなものなのか。女のいない一族だからこれほど戸惑ってしまうのかと、ありとあらゆる感情を人参へぶつけていく。
 ああ、雑念が過ぎた。今度何かを言ってきたら「うるさい」と両断することにしよう。
 そう考えていると一段落終えた佳歩が「あのさあ!」と一際大きな声を放った。
 言い返して黙らせようとしていた頭が止まる。「うるさい」と黙らせるつもりだった気も失せてしまうほど、彼女の声は必死だった。

「銀ちゃん、ずっとお山の中に篭っていたから判らないのかな? …………『外に出てみないか』って誘っているんだよ? 『女の人』がだよ? ……何度も『可愛い可愛い』って言ってるのが、『貴方に気があるんです』って意味なの、判らない!?」
「…………え?」

 憐れむようなことを何度も言い放っていた人が、何を。
 考えて、……もう一度先ほどの言葉を巻き戻す。

 ――あたしは貴方を可愛いと思っている。だから放ってあげられなくて、救ってあげようとしているのよ。
 ――あたしは本当にどうでもいい人にはこんなこと言わないの。可愛いなと思った人じゃないと、こんなにちょっかいなんて出さないよ。

 そこまで言われて、言わせてしまって、本当に不意をつかれてしまった。
 どうやらかわいそうだと連呼して馬鹿にしていたのは、かわいいで……心ここにあらずに聞き流していた自分の耳の誤りだったらしい。
 ずっと見ていなかった彼女の顔は、すっかり人参と同じぐらいの色になっている。
 同時に、自分の頬も同じぐらい染まり上がっていくのを感じてしまった。



 ――1978年8月18日

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 /2

 電話先から聞こえる輝の声が明るくて、悪寒が走った。

 親友である輝が幸せであれば喜ばしい。にも関わらず輝が『報告したい』と言った言葉を遮ろうとするほど、鳥肌が立ってしまった。
 止める言葉も聞かずに輝は話し始めてしまう。嫌な予感に慌てる航をわざと苦しめたい訳ではない。何の後ろめたさも無いからこそ先に話してしまおうという単純な考えだった。
 まさか「結婚した。子供も生まれた」という話を、本気で拒絶されるとは思ってなかったのだろう。

「……………………そう、か」

 呆気なく告白してしまう輝に対し、言われた航はというと……その場で崩れて、吐き気を抑えるのに必死だった。
 実際に吐かなかったのは、おそらくこのときの感情を航自身が理解できていなかったからだ。『理解に苦しむことがあれば、まず解明を求める』。研究者気質の航は、理解不明な悪寒を解き明かすために意識を保った。

『バーカ。なに、そんなぶったまげてるんだよ……』
「う、ううん、だって、いきなりだったから。はぁ、置いといた大事な書類がバラバラになっちゃったよ、ははは」
『……オマエ、偉くなったんだから良い部屋に替えてもらえよ。出世したんだろ、狭いとこに仕事の資料ばかり置いて……』
「うん、そうだね、偉くなれたんだからそれぐらい……それぐらい……」

 当時の電話は受話器が線で繋がれているものだ。その場に航が崩れ落ちたことは音で判る。突然の結婚と出産報告にたまげてしまったんだろうと、輝は能天気に話を続けた。

 ――彼はちょっとしたきっかけで、教会のエージェントを辞めた。
 優秀な能力者である彼は大勢に止められたらしいが、優秀だった時代に稼いだ金であちこち海外を飛び回る日々を送っていた。
 その旅の中で一人の女性と出会い、子供を成したという。
 もう既に元気な『双子の男の子』が生まれているとも言った。半年に一度に連絡があればいい中、ここ一年ほど連絡が取れなかったのはそれだという。
 あまり母体の調子が芳しくないのですぐに日本に戻れはしない。けど、そのうち子供を連れて航に見せに行きたいと……まず第一に友であるお前に見せたいと……話す。

 その声は、無邪気だった。
 彼の母には既に連絡済み、その次が航。航には真っ先に自分を選んでくれたことの嬉しさがあった。
 でもそれ以上の感情がある。
 喜びではない、負の感情だった。

 航だって既に子供がいる。
 異能の結社に居る以上、自分の研究を引き継ぐ後継者は欲しい。結社で働く同じような考えの女と子を成した。シンリンと名付けた赤子を真っ先に輝に紹介したこともあった。
 同じことを輝もしているだけじゃないか。
 だけど……感動以上に、喪失感の方が大きくて愕然とする。
 「おめでとう」という言葉を絞り出し、「体調が悪いから」と早々と電話を切り、この感情の整理に務める。
 家族が増えたんだと話す輝。電話の先で聞こえる赤子の泣き声。それをあやす女性の声。幸せそうな声。幸せそのものだというかのようなさざめき……。

 抱いてしまった感情の正体は、呆気なく判明した。
 単純にも、『嫉妬』という二文字で片付けられるものだった。

 航も子供を後継者作りとして成した。
 同じ研究員の女と子供を作りはしたが、その女とは会話もろくにしたことはない。今は寺のどこで働いているのかも知らないぐらいだ(子供は、子育ての経験のある乳母に任せている。研究員は研究することが使命であり、それは女も変わらない)。
 これはあくまで今後の為の手段だった。同じことをしたと言っても、輝とは決定的に違う。

 一方輝は、家族を増やした。おそらく愛情表現の結果……子供をもうけたんだ。
 ……幸せを、とある女と、生まれたばかりの赤ん坊と享受し合っている彼。
 『幸せを得ている輝』、『輝に幸せを与えた名も知らぬ女』と『子供』……全員に嫉妬してしまっている。

「はぁ……なんて、醜い……」

 初めて輝に出会ったときから、何度も彼に抱いてきた情感がある。
 自分達の境遇は似ている。同い年だし、限りなく近い人生を送っている。そして思い知った。
 輝はどんなに自分と似た世界に生きていたとしても、自分と同じ生き方にはならないと。
 父を求めて仏田寺を訪れて笑顔で帰り、優秀な座についても簡単に投げ捨て、愛情をもって女との間に子供と共に生きようとしている。
 自分もそうすれば良かっただけじゃないかと考えたって、そんな簡単には到達できやしない。
 簡単に到達した輝の存在を思うたび……嫉妬で燃え狂ってしまいそうになったことに、気付いてしまった。

「はぁ……はぁ、醜い。醜い、醜すぎるだろう、僕……!」

 心の奥底から湧き上がる憎悪。自覚したくなかった心の醜態。あまりの醜さに顔を覆う。
 すっかり一流の研究者となっても、貴重な資料を預けられるほどの立場になったとしても、誇れるほどの立派な城を構えられたとしても……そんなんじゃ、いつまで経っても胸を張れない。
 何の為に自分は仏田寺に来たんだっけ?
 ……今は亡き両親に、認めてもらうためじゃなかったっけ?
 でもさ、人の幸福を羨んで泣きはらすような男が、到底認められる訳なんてないだろう……?

 ――その日、航は久々に休暇を取った。
 研究者たるもの研究することが使命という彼にとって、数年ぶりの何もしない日々を過ごしていた。

 元々、心配性で思い詰める性格だ。その思考ありきの性分が研究者としての彼を大成させたのだが……何もかも手がつかなくなってしまうほど、あらゆる思案に暮れていた。
 悩みの種は尽きず、食事も一切取らないほどに苦心し、思いを巡らせる。元より知恵を絞るのが仕事、考え込んだ結果、『最後にある声のひと押し』で彼にある結論が出た。

 ……部屋に飾っていた写真立てに、手を伸ばす。
 写真立ては執務中には伏せているものだが、自室に居る間はずっと立ててある。どんな時間も、写真の中の人々は航に笑顔を向けていた。

 共に戦を乗り越えてきた仲間達の写真。微笑む同僚の女。ぎこちなく立つ少年。
 ぶっきらぼうな偽りの姿のまま、それでも優しげに微笑む輝。隣で笑う、航。
 その在り方が、航にとって最も尊いものだった。
 憎むとか恨むとか、そんなことはしたくなかった。輝に対し闇を抱えていたことは、認めなければならない。かといって彼と距離を離すことはできない。
 現に、距離を離そうとした彼を繋ぎ止めようとしたのは自分だった。……輝の隣に立つ自分が大事だったからだ。
 亡き両親に認めてもらうと同じぐらい、最初に自室で慰めてくれた輝に……「凄いな」「よくやったな」って実力を褒めてもらうことが、一番だったんだ。
 つまりどういうことと問い掛ける。
 航は、泣いて悩み疲れ果てた顔で、ハッキリと口にする。

「僕は、輝を恨まない。輝は今も大事な人で……愛する人なんだ。僕の憧れで、素敵な、掛け替えのない人。彼を嫌うことなんて絶対できない。……僕に無いものを持って羨ましいと思う気持ちは、変わらない。妬ましいと思うこともあるさ。でも憎いなんて思わない。僕はこれからも、いや、これまで以上に彼を……愛していきたい」

 腫れぼったい瞼を擦り、そこらにあった書類で鼻をかむ。
 苦笑いして航は……そっと写真に口づけた。

「はぁ、まったく、一日中彼のことを考えるのも悪くなかった! 彼の価値を見極められたのだから有意義な休暇だったと言える。今まで以上に彼を愛する切欠になれたよ。こんなに素晴らしい休日があっただろうか? 彼と向き合える機会が出来て何よりだ。うん、僕はいつかこの感情に気付かなきゃいけなかったんだ。はぁ、早く会いたいね。帰国してくれないかな。ちゃんと『おめでとう』って言ってあげないと……輝に喜んでもらえないもの。ねえ……彼のことをどう想っているか、どう負の感情を抱いていたか、それ以上に愛していたかなんて……言われなきゃ判らなかったことだよ。ふぅ、ありがとう。気付かせてくれたのは、君のおかげだよ」

 振り返り、清々しい笑顔を私に見せた。
 もう曇りの無い微笑み。『光も失った目』。この上なく美しい面差しだった。



 ――1976年4月14日

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 /3

 外は夜。山に夜が訪れると辺り一面何も見渡すことができないほど暗くする。
 その暗闇の中で見る桜は良いもんだと二年目の佳歩が言っていた。今年は桜を早くに見られそうだと笑っていた女が、今日死ぬことを運命づけられている。

 処刑台へと向かう途中の一本松は、弟の銀之助に腕を掴まれていた。

 それどころか銀之助は兄に抱きついている。全身で彼を体を引き止めようとしていた。
 暫くは黙り込んで立ち止まっていた一本松だが、ついには「離せ」と一言吐きつける。でも銀之助は離れない。死刑囚の待つ地下へと向かおうとしている兄に、懇願するため……一本松の背中に顔を埋めて、抱き締めていた。
 実際には力を込めてはいなかった。いつも包丁を握る腕なら兄の顔が歪むほどの力ぐらいあるだろう。けど、軽く振り解けるぐらいの力しか込めなかった。
 だって銀之助も判っていた。上の判断によって『佳歩が処刑される』ことになったことぐらい。もう上層部の考えは覆らないことも。……ここで実兄を止めたところで彼女はいずれ死ぬ。
 それでも止めなければならないと思って、必死に縋っていた。

 なんてことはない、彼女は成果を出せなかった。佳歩の処刑は満場一致だ。
 教会での長い戦士生活から、航の推薦もあって異能結社である仏田に引き抜きされて早二年。高い戦闘力から異端討伐を命じられることも多かった。最期の任務となったあの出撃も佳歩を中心に編成されたものだった。
 なのに佳歩は一人だけ帰ってきた。リーダーにも関わらず仲間を皆殺しにされたまま、魂も回収せず、一人だけおめおめと生還。優秀な人材を八名も失わせた彼女の罪は重く、手土産一つも持たずに帰ってきてしまったことで――『聯合』は決まった。

 不要な命は神に返すという規則。血肉は一族の為に捧げることができれば無能だとしても価値があるという、ありていに言えば死刑。
 たとえ過去に優秀な戦歴を立てていても、女として後継者を産んだとしても(佳歩は狭山との間に一子をもうけた。霞という名で育てられた赤子は、ようやく一歳になろうとしている。今は乳母の胸の中だ)、罪を背負ってしまえば死刑囚。慕われていても故意ではなくても、どんなに止めようとしている者がいたとしても彼女の死は覆らない。
 そんなこと、生まれて二十年仏田で暮らす銀之助は熟知していた。

「離せ、銀之助」

 今度は名前と共に言い放つ。振り解けば簡単に離れてしまいそうな手が、ふるふると震えていた。

「俺に止めさせるなら、銀之助が代わるか」

 震えながらもぎゅっと掴んでいた手が、跳び上がる。
 言い放つ一本松の声だって震えていた。銀之助のように涙は流さなくても、瞼を閉じて堪えるぐらいには強い感情に突き動かされているようだった。

 佳歩は、孕み部屋(女子を成すよう、後継者を作るための部屋のこと。女と一族の男を集めて交尾をするためにだけに用意されている一室)で狭山の子を身籠った後も、銀之助を大事にしていた。妊娠が発覚するまで銀之助が佳歩を孕み部屋に誘うことだってあった。
 二人の間には子は成せなかったが、妊娠の発覚、出産、後継者に選ばれた赤子が霞と名付けられて母になることが許された日も、銀之助は彼女と共に喜びを分かち合っていた。二人は夫婦でなくても姉弟のように、またそれ以上の仲として寄り添って生きていた。だからこそ命からがら生還してきた佳歩を銀之助は喜んでいたというのに。
 そんな銀之助だからこそ……一本松は、「いっそ愛する者の手で終わらせるのも、手の一つ」と思ったのだろう。

「銀之助が息の根を止めるか。代わってくれるか。……交代してくれるのか。俺を止めているのだから、そういうことなのか」

 一本松もまた、佳歩に惹かれる一人だった筈。共に生きた時間は長い。凄惨な異端討伐に赴いた思い出は数知れない。信頼も尊敬もしていただろうが、だからといって両親の下す命令に背くことはなかった。
 元より自分らは、仏田の血のもと使命に準じて生きる手足。与えられた職務を全うしてこその授けられた命。何度も佳歩自身に「それでいいのか?」と問い掛けられたが、そのたびにこの仏田で生まれてきたのだから「それでいいんだ」と前を向いてきた。
 今更その意思を曲げてはならない。
 だから、処刑するのは変わらない。
 まるで助けを乞うような声を出してしまっても、八つ当たりのようなことを銀之助に言ってしまっても、一本松が佳歩を殺す未来は変わらなかった。

 ――背中で泣きじゃくる弟の涙を感じながらも、地下に向かう。

 聯合を行なう地下には、処刑人となる一本松と、銀之助と、死刑囚しかいなかった。
 彼女の子の父である狭山の姿は無い。彼女の罪を決定した元老達の姿も無い。ただ処刑を待つ女が縛られて、石畳の上に粗末に敷かれた藁の上に座るだけ。
 本来なら誰も見届ける人も居ない。そこに銀之助が居るとなったら、彼は間違いなく佳歩の『特別』を名乗れるようになるだろう。
 夫になれなかったがそれでも彼女を好いていた彼にとって、特別な地位を得られる機会ではないか。
 一本松にしては良いアイディアだった。

 さて、聯合される素体というものは、縄を体に通されるだけでそれ以上の物は与えられない。
 目隠しはされない――その命を終える瞬間まで経験を積ませるためだ。
 猿轡もされない――最期まで生者の声を受け留めてやることで無念を晴らさせ、少しでも怨霊化させないようにするためだ。
 これから死ぬ人間は、限界まで恐怖と水火を与えられる。叫び声も上げる権利も奪われない。最後の最後まで、糧として相応しい魂になるように仕立て上げる。魂の練度を上げるために、苦痛は良しとすらされているほどだった。

「兄上、兄上」

 縋る弟の声。訪れた処刑人に目を向ける女。自分を殺す相手は予想していたが、まさかその後ろに泣き腫らした銀之助がいるとは思わず、佳歩は息を飲んでいる。
 しかし声は掛けなかった。彼女も辛い責務を二人に強いている自覚があったからだ。
 殺さないでくれと懇願する銀之助に普段の饒舌さはどこにもない。許しを乞うべき相手は兄ではないと知っていても、どんなに支離滅裂になろうが、収束しない話だろうが、構わず有りっ丈の感情をぶつけた。

「失った命は多い。だけど彼女は、女です。生きている女です。これから生み出していくことだってできます。ここで無に帰しては……」
「それを決めるのは、俺達じゃない」
「……兄上……兄上、死んでほしくないんです……嫌……嫌なんだ……」

 ついには銀之助は抜け殻のように虚ろな声と化した。理屈に合わない駄々をこねていく。
 一本松は見下しもしない。佳歩は喜びもしなかった。ついには本物の沈黙が訪れ、呆気なく処刑は始まった。

 振り下ろされた刀は、正確に佳歩の命を終わらせた。

 何の楽しみも無い、殺すだけの作業。
 冷酷さも温情を見せる優しい一手でもない、単純な業務。
 上層部の命令だから処刑しただけという、一本松の任務はようやく終了した。
 銀之助と違って一本松は時間にルーズだ。時間通り終わらせなくても、いつか役目が終えられるならそれでいいと考えている。
 だから一晩中銀之助の懇願を聞いていたし、時折涙を流す佳歩の顔もずっと眺めていた。

 佳歩は、冷たい物体へと姿を変えていく。
 処刑を終えた一本松が物言わぬ骸に手を翳し、魂を抜き取った。青い光が舞い、一本松の身体へと収納されていく。
 魂が兄の身体へ消えていく光景を銀之助は呆然と見やる。本来なら遺体を片付ける役目の処刑人が現れるのだが、予定時間が大幅に遅れていたので一本松が帰していた。……だから佳歩の死骸に触れるのは、銀之助のみ。死相のような顔の銀之助は、死体と同じように何も言わずに、処理を始める。
 何も命じられなくても自主的に上層部の命を果たそうとする弟を見て、兄はその場を後にした。

 ――その日が一本松にとって初めての処刑だった訳ではない。両親から命じられて初めて処刑台に立ったのは、もう一年ほど前からだ。

 幼い頃から異端を狩っている。人を害するために存在する化け物を狩り、無念の魂をすくい上げ、いずれ世界中の生者を救済するこそ仏田一族の使命だと理解していた。
 大きな組織が動くとなったら罰を与える者が生まれることも、師である照行が聯合をすることも、父・浅黄が楽しんで刑を行なっていることも、厳格な母・清子がその政策を良かれと推し進めていることも……いずれ自分も処刑人になるということも、理解はしていた。
 銀之助が厨房での責務を天命だと受け入れているように、一本松も受容し淡々と使命を果たしていくつもりだった。

 弟の大切な人。同僚達にとってもかけがえのない同志。
 たった二年か三年でも共に生きた仲。
 自分にとっても、ルーマニアの異端狩りのときから姉のような存在。
 彼女に死んでほしくないと思っているのは、銀之助だけじゃなく一本松だってそうだった。

 だが、実際はどうだ。

「……ふざけるな……」

 長い時間を地下で過ごしたせいか、もうすぐ寺の夜が明けようとしている。
 血が漂う地下から飛び出した一本松は、今朝は雨のせいか太陽の見えない空に向かって……叫び、笑った。

「ふざけるな、ああふざけるな、結局は……自分一人で楽しんでいるだけじゃないか!」



 ――1976年4月14日

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 /4

 殺せ。殺せ。殺せ。
 黙れ。……声を拒絶していたら、膝から崩れ落ちてしまった。

 頭を抱え、荒い息を吐く。頭の中に鳴る声に耐えきれなくなると、こうなる。もういつものこととも言えた。
 他者にみすぼらしい姿など見せたくはないが、今日ばかりは耐えられなかった。畳に押しつけた頭を抱えて、呻き声を床に零しながら頭痛に耐える。通りかかった女中に声を掛けられたが、「元より頭痛持ちなんだ」と払うと逃げ出した。
 泣き出すほどの激痛を抱えながらも、夜に味わった心地良さに唇は歪ませている。どっちつかずに苦しむ自分は、声が聞こえる頭をわざと壁にぶつけながらも走っていた。

 元々声を荒げる気性ではない銀之助が、悲鳴を上げていた。
 縛られて座らされた佳歩が、「もうそんな声など聞きたくない」と、次第に震えて死を乞うような目を向けてきた。
 悲しかった。切なかった。
 救ってやりたいと考えた。やめてやろうと考えた。殺さないで済む方法は無いかと何度も考えた。
 でもそれ以上に体の奥は悦びに満ちていた。
 声は何度も聞こえていた。「殺せ」。殺せという声。殺せという声。殺せという声。殺せ、殺せ、殺せ、殺せという声に、一際強い声で「苦しめて殺せ」と体内に鳴り響いていった。
 人を苦しめることに愉悦を得る性分ではある。
 幼い頃に父が人を虐げて悦んでいる姿を見てから、その私刑に自分も加えてもらっているときから……これこそ自分に相応しい任務は無いと思うことだってあった。
 人を虐げて悦になる。誰かを殺めて興奮する。自分の一振りで他者の感情が大きく変わる。それが有意義だ。自分の行動一つで他者を牛耳れることが、快感だった。
 今日も感じてしまった。
 佳歩を失ったことは悲しい。銀之助を心の底から悲しませたことも悲しい。けれどそれ以上に、自分が他者にこれほどの影響を与えることができるのだと……己の存在意義を自認できる処刑が、楽しくて堪らなかった。

 目を、覆う。
 この幸福感が、負の感情を得て生きようとする悪しき異端や執念に溺れた怨霊達と同じものだと、自覚があったからだ。
 出来るだけ感情を抑え込もうと努力をするつもりではいた。それでも「殺せ」の声は耳の奥から鳴り響く。欲求は、止まらない。
 一度は恥じた悪しき感情。聯合される者の叫びを聞くたび、こいつらの命は自分が握っているんだという傲慢さ。
 自覚して後悔し、殺し終えて満足し、後悔し、また悲鳴を聞いて満足し、己の浅はかさに後悔し、満足し……繰り返し、一年。
 銀之助を処刑台まで導けば、本気で悲しむ弟の声を聞けば大きな後悔で拭えるのではないか……そう思っていたが、大誤算に笑っていた。
 殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。
 声は、止まらなくなっていた。

「黙れ!」

 延々と自分に語り掛ける声に叫び声を上げる。だが、止まない。
 世界の声を聞くようになるという当主が、このように不可視の声を聞くというのは知識にはあった。当主の子息・柳翠もその一人だった筈だ。じゃあ何か、自分は畏れ多くも当主と同じものを受けているっていうのか。
 殺せ。殺せ。……これが幻聴でないというのなら、死を歓喜だと感じてもよいのだと惑わす悪魔の声が、一族が追い求めた血の結果だというのか。
 声のせいだと言ってしまいたい。生まれつき自分には悪しき闇の衝動を抱えているだなんて考えたくはなかった。殺せ。殺せ。殺せ。それでいい。否定をしても否定をしても、任務として人を殺めるたびに幸福は訪れる。拒絶しても湧き上がる愉悦は止まらない。
 弟の涙を利用して、戦友だった女の死を使ってでも邪な感情を払い除けようとした。
 それも、駄目だった。
 嫌だ殺さないでと泣き叫ぶ弟の声は体の奥を刺激して、諦めた顔で死を迎える女の姿を何よりも美しく感じた。
 人には地獄と言われる光景だって昂揚を感じずにはいられない。全身を満たしていく幸福感を否認しきれない。愛する者を失う哀しさよりも、彼らの嘆き悲しむ姿が愛おしくて堪らない――。

 また頭を抱える。航から譲り受けていた薬を掻き集めて飲み込む。
 それでも声は死を誘ってくる。死を見たいと、死を見せろと、死を得よと何度も何度も語り掛けてきた。
 ああ、もう黙れ。もういいだろう。もう充分気持ち良かっただろう。俺は気持ち良かった。銀之助の悲鳴も佳歩の涙も興奮した。充分に二人の心を殺した。そうだろう。殺し尽くしたじゃないか。
 なのになんで今日はこんなに声が聞こえる?
 まだ足りないっていうのか? あれだけ心地良いものを味わっておきながらまだ声は……俺は、満たされないっていうのか?
 これほど唾液が口内を満たしているっていうのに? 体が熱を帯び、幸福を感じるほどだっていうのに?
 もう快楽を認めているっていうのに!?

 ――コツン、と頭を叩かれたような感覚で目を覚ました。

 禍々しく自分の精神を蝕む声を切り裂いて、微かな痛みが身を襲う。
 山に張った結界が反応した証だ。母譲りの術で遠方に視覚を移す。一人、訪れる客人がいる。
 石段へと足を掛ける男。少しずつ山門へと近づいてくる訪問者の名は……藤岡 輝という。

「………………」

 航の協力者として神の模型を預かっている輝は、たびたび仏田寺を訪れることがあった。
 確かに今日か明日に来るという話を聞いていた。一ヶ月も前に航から聞いていた話だった。……佳歩の処刑など考えられないほど昔だ。
 以前喧嘩別れになった相手でもある。かっと熱くなった輝は教会のエージェントを辞めて世界各国を渡り歩いていた。……不真面目な男で、あまり会いたくない相手だ。
 それでもこの時間に山門は開いていない。(何故こんな早朝かといえば、ホムンクルスを見る航が取れる暇がこの時間しかないからだ。航に暇など無い。暇があったらそれだけ研究に精を出す) 結界の管理人として、要は門番として挨拶に向わなければ。
 
 ――世界の化け物を狩っていた彼がオレを見たら、彼はオレを殺すのだろうか。

 自分は何かと人の死が身近だった。
 葬儀の手伝いをして、見ず知らずの死体を見たときは心が躍った。異端のせいで無惨な体にされた者達を発見したときは、胸が高鳴った。父親の命令で聯合にかけることになった研究者を処刑するたびに、吐精してしまった。
 ……本能として人の害を悦ぶ、異端とまったく変わらぬ身になっていた。
 暗黒の心など抱いてはいけない、悦楽を認めてはならない、異端の心など否定しなくてはならないと判っていても。両親と師は「これがお前の仕事だ」と死を強いてくる。
 これほど恵まれた命があるのか、恵まれた環境で俺は幸福な天命を受容していっていいのだろうか……。
 理性が、殺せという声を拭おうとしていた。
 己の鬼畜さを善と肯定していいのか。それでいいという声を否定しなくてはいけないのでは。殺せばいいという声を否定しなくては。汝が成したいようにすればいいという身勝手な誘惑を否定しなければ。この声に耳を閉ざさなければ……。
 それも、もう終わっている。

「どうぞお立ち寄りください。夜須庭なら朝食を取っている時間なのでもう暫くお時間が掛かると思いますが……」
「一本松」

 雨が降り出しそうなほど曇天の中、まだ夜が明けていないかというぐらいの暗い空の下に輝は居た。
 門番として最低限声を掛け、航のいる屋敷に連れていく。それでさっさと去ってしまおう。もう何度も仏田寺を訪れている人物だ、俺の案内なんていらないぐらい熟知している。
 だから話すことなんて無い。
 だというのに彼は……俺を見て、目を見開いてくる。

「……何があった?」
「何があった、というのは」
「……泣いていたのか。オマエ」

 名前を呼び、駆け寄るようにして近寄ってくる男。
 怒鳴りつけられてから二年。ろくに顔など合わせてなかった。たった二年で人相が変わることはない。それは彼も、俺もだ。
 だが彼は俺の顔を見て驚く。……涙など流してはいない。むしろ笑っていたぐらいだ。腫れ上がってもいないというのに……泣いていないのだから、当然首を振る。

「夜須庭のいる屋敷までご案内します。ご存知でしょうが、ついて来てください」
「……一本松」
「ご案内するまでが俺の役目です。ついて来てください」
「一本松。何があったんだよ?」

 肩を掴まれる。全力で振り払った。
 そのまま足を進める。門から住居へ。速足で、逃げるように。
 山門から林の道を駆け抜けて、早く終えて逃げたいという一心で。
 けれど彼はもう一度肩を掴んで「何があったんだよ」としつこく尋ねてくる。
 何があったか。話さなければならないこと。何があったのか。……思い返して、ああ、あったと頷く。

「佳歩さんが、亡くなりました」

 輝に話しておかなければならない、大事な話があった。

「……いつ?」
「今朝です」
「……あいつ、病気なんかじゃなかっただろ? 車だって弾き飛ばすような怪力女だぞ。なんで……」
「処刑されました」
「……あ?」
「佳歩さんは、罪人になりました。八名もの命を失って一人で帰ってきた、恥知らずです。だから処刑されました」
「……何故、どうして」
「それ以上の理由はありません。佳歩さんは、いらないと判断されたからです」
「……ホントに言ってるのか。オマエは佳歩が死んだところ、見たのか?」
「俺が殺しました」

 溜息のような呟きに、輝は大きく反応する。
 掴むだけでなく、自分の顔へ向き直させるように両手で肩を揺さぶってきた。真正面から話さなくても声は聞こえるというのに、少々面を食らってしまうほどの形相だ。

「……オマエが、やったのか?」
「はい、俺がやりました。命令でしたから」
「……命令でやったのか」
「はい、命令でしたから。絶対ですから。やらなければ父に叱られましたから。そうなったら滅入ります」
「……親父に叱られて落ち込むタマなのかよ、オマエは。だからオマエ……そんなに傷ついているのか」

 同情する目。憐れむ口ぶり。
 でもそれには首を傾げてしまう。……傷ついてるなんて、どこが。苦悩の末に頭を抱えることはあっても、それは愉悦と絶望を履き違えていることに悶えていたからだ。
 頭痛の痛みはあっても、苦しみはもう無い。

「いいえ、傷ついてなんていません。とても有意義でした」
「…………なに?」
「楽しい時間でした。そろそろ認めるべきか考えていたんですが、やはり楽しいと思える時間だと実感しました。とても良くしてくれた彼女を殺したら、凄く気持ちが良かったんです。しなきゃいけなかったからしました。したくなかったけどしました。でも気持ち良かったです。……傷ついてなどいません。どうすればいいか悩んではいましたが、この気持ちを受け入れていこうと思います」
「……オマエが殺してしまって悲しい、切ない、苦しいと言うのなら、『辛かったな、よく頑張ったな』って慰めてやった」
「…………」
「それとは違うと。オマエは快感を得たと言うんだな」
「はい」
「人を殺すことを、気持ち良いと」
「はい」
「……一本松。それは、抱いてはいけない感情だ。人を殺したんだぞ。その人の未来をオマエは奪ったんだぞ。命を奪う行為に……そんな感情を抱いてはいけない」
「それは、何故?」

 口が止まる。
 何故、何故って……?
 咄嗟に吐き出す言葉ではなく、年下の俺に言い聞かせる……魂の篭った一言を繰り出したいのか、彼は思案する。
 突き動かされるほどの言葉を、彼が生み出せるのか興味はあった。必死に声を抑える。殺せ。なんで快楽を抱いてはいけないんだ。殺せ。何故この声を否定するのか。殺せ。これほど体の奥から響いている声を拒絶しなければならないのか。殺せ。殺せ。黙れ彼の声が聞こえないだろう。心の中から叫んでいるものがあったんだ。この心はありのままの俺の感情だったんだ。
 それの何がいけないんだ。

「オマエが快楽に溺れて無限の殺人鬼になるところをオレは見たくない」

 ……だけれども、なんとも安っぽいものに終わった。
 彼から離れる。後ろに下がる。失望した。拍子抜けだ。期待外れだった。どんな正論を、綺麗な詞を並べてまた俺に説教するかと思いきや。

「なんだ、それは……。貴方の勝手か。貴方の見たくないという、他人の勝手で、俺の心を踏みにじるのか」
「……オマエのことを想って言っているんだ」
「そう言う、自分の為の言葉でしょう。優しさや慈しみでも何でもなく……ただの自己愛だ。貴方はまだ変わらず、どうしてそう……! 正しい言葉を吐こうとするのは立派です。ただ身勝手な正しさを偉そうに振りかざして……」
「……オレはただ、オマエにこれ以上苦しんでほしくないだけだ! だからいけないんだって言ってるんだ! 説得してるんだ!」
「苦しんでません、苦しんでいないんです……苦しんでいるのは、認められなかったからです、でも今は、どんな声も認めて……!」
「…………『声』? 一本松、オマエ、まさかルリの声を……!?」

 目を丸くして、輝は再び手を伸ばしてくる。
 武器を虚空から取り出す。こんなところで殺生はしない。本気で触れてほしくなくて威嚇するために……先ほど血を吸った凶器を向けた。
 彼はグッと押し黙る。「……一本松、落ち着け」 彼も武器を向けるかのように重厚な声で対する。
 殺せ。殺せという後押しが聞こえる。今ここでこの腹立たしい男を捌いたら清々するでしょうと声がする。

「黙れ!」

 ああその通り、その通りだろう、でもそんな短絡的な死など気持ち良くない。味わうなら苦しませてと言ったのはお前だ。なのにさっさと刃を刺し込めなんてらしくない。するなら、もっと。そう、今は出来ない。自制しろ。そうだ、してはならない、我慢を……。

「失礼します」

 武器を掻き消し、足早に離れる。
 頭がぐちゃぐちゃに掻きまわされている。屋敷に連れて行く簡単なことすらできない。
 事実を告げて、それだけで航に任せばよかった筈なのに……自分が手に掛けたことすら告白して。それで何も満足できず、さよならと消える。

 ――しかし、あの、悲しそうな顔が離れない。

 自分のことでもないのに「見たくない」と言いながら気を病むような表情を見せた彼が、苛立たしい以上に……何か違うものを抱いてしまって、頭を振るった。
 こんなときに限って彼女の声は黙りこくっていた。



 ――2005年5月23日

 【     / Second /     /     /     】




 /5

 世話になった友人のコネのおかげで、警察から離職した後も雑誌の仕事をやらせてもらっている。
 最初は情報提供者という立場だった。そのうち社内に居させてもらえるようになり、雑用の雑用、使いっぱしりのようなことを始めた。
 始めはただの茶汲みだった。パソコンに向かう友人に茶を出すだけのOLみたいなことをしてるとき、友人のセンスがどうしても気に食わなくて口を出した。そしたら通りすがりの寛容な編集長に「志朗の案を採用する」と言われた。その友人はめでたく第一子を身籠り寿退社、あれよあれよと俺へ椅子がまわってきた。
 ちゃんと話せばもっと良い内容なんだが、退職から二ヶ月後には某週刊誌をいじらせてもらったということ。ライターが持ってきたもんを視覚的にどう魅せるかを考える、そんな仕事をしていた。
 不景気な世の中で俺のような奴を拾って使ってくれているから、それなりに儲かっているブランドなんだろう。名前を聞いたことがあるようなないような、電車の中釣り広告であることもあればないこともあるような知名度の週刊誌を作っていた。
 内容は、実に下らない。
 自分で作っているものではあるが、床屋に雑誌が複数置いてあったらもっと有名で面白い方を読んでいる。女性誌じゃないだけまだ読む気にもなるが、作品に品位なんてものは無い。
 それが良い。
 俺の仕事への熱意はその程度のもの。今やっていることは嫌いではないが、どうでもいいと思っているぐらいには興味が無い。
 それでも今の自堕落な目的意識が好きになってしまった理由は、『自分とは全く関係無い世界』だったから。

 つい昨日まで担当していた記事の話。
 内容は、政治家の過去の汚職について。現役の政治家が「二十年も前に賭けゴルフをやった」と記したもの。
 二十年前のニュースなんて情報を発信する意味なんてあるのかと思われそうだが、これが案外効くらしい。奴を退職に追い込もうと武器にしてくれる政治家が居る。そいつが買って、うちの商品の名前をぽろっと言ってくれたら安泰。言ってくれなくてもヒントをこぼして、ネットであれじゃないかこれじゃないかと噂がまわってくれれば恩の字だ。
 昨日俺が触っていた仕事は、二十年前の馬鹿な男の話。俺には全く関係無い、時間の経ちすぎた遠い昔の話。
 記事の中には、お化けの話など一切無い。
 そう、それが良い。
 お化けも無ければ、妖怪や恐ろしい殺人鬼、奇怪な現象や、それを追うエクソシストやエクスキューターの話なんてどこにも無い。
 「自分の世界に関係無い男がちょっとした遊びにハマっていた」、そのことを調べて人に見せれば金になる、そして人々に求められる、この程度で世界は回る。
 神や魂や正義や使命などといった高等な言葉はどこにもない。
 下賤で下劣で下品でどうしようもない、自分の関係無い話題。それで俺は飯を食って生きていける。
 だからこの業界を愛していた。
 あの世界を恨んでいたからこそ。
 このどうでもいい世の中が。

 ――あそこは、どこを向いても神々しかった。

 人ならざる者を狩ったとか、ナニを狩りに行くとか。独自の言語が行き交っていて、自分はそれを一つも理解できず、黙って聞いていることしか出来ない。
 でも立ち去ることも許されない。俺には無関係な話でも、聞いていても無駄なことでも、俺には能力という能力が無かったとしても、俺の周りをそれらが付き纏う。
 退魔師の生まれにも関わらず継承者の証である刻印も授からなかった俺には無関係で、でもあの血を持って生まれたんだから無関係ではなく、だけど俺には何にも出来ないんだから無関係で、俺は一族の当主・光緑の次男・仏田 志朗なんだから無関係な筈がなく……。

「久々に、クリームパンが食べたい」

 一仕事終え、次の修羅場まで数日あるのんびりしたある日。
 ここ数日仕事場の人間が友人が二人ほど席を離れることになってしまい(一人は突然の腹痛、一人は寿退社だった)、残されたライターが「次、俺一人でどうしろというんですか!? 手伝ってくださいよ志朗さん! 取材とか! 取材とか! 新人に一人に任せないでくださいよ!」とか泣きついてきた。
 彼は『中学生の現状』を記事にしたいらしく、現代の中高生を徹底分析するため中学校に取材することになった。多くの学校に複数アポを取り、複数許可が下りた。おかげで多くの学校へ行くことになった。
 しかしなんと彼は車の免許を持っていないという。だというのに複数の学校に行かなきゃいけない。よって地方出身で十八歳のときに車の免許を取った俺が彼の足になった。
 今日の仕事は運転。取材が終われば記事の色をあれこれ口出しすることが出来るが、まだそれは早い。本物のライターではない俺が学校に入り込んでも意味が無い。俺は単なる足として、車内でのびのび過ごすだけの仕事をする。
 待つのも仕事のうちだった。運転してないときも給料は出ていた。
 こんなにのんびりした時間を過ごせるなんて、今までの人生には無かった。
 もちろん一年前に比べると年収は格段に落ちる。けどこれまで堅実に蓄えてきたおかげで、贅沢さえしなければあと数年空腹に喘ぐ心配は無い。
 何かをしているようでしてない時間が、ただただ過ぎていった。

 ライターが取材に行っている間、ずっと学校の駐車場で待っているのは暇だった。なのでコンビニで買った弁当を食べながら他社の雑誌を読んで時間を潰す。
 それが三校ぐらい続けた。
 流石に四校目からは飽きてきて、「弁当ばっか食べてるから駄目なんだ、クリームパンにしよう。どこの雑誌もロケットが打ち上げに失敗とかどっかで人質事件が起きたとか書きやがって。どうでもいい。占いブックでも買ってみよう」と方向転換してみる。どこのコンビニにもあるけど一度も読んだことのなかった「少女向け占いブック」を開きながら、クリームパンに齧り付いた。

 瞬間。ぞわりと毛が逆立つ。
 パンは決して不味くはない。毒物のような刺激や、針が入っていたような衝撃は無い。だが強烈な違和感を抱いた。
 生クリーム!?
 齧り付いた側面を見る。
 白い。黄色くない。俺の求めているクリームパンとは、程遠かった。
 何の変哲も無い、生クリームが中に入ったパンだった。味は決して悪くない。変な味ではない。
 けど予想していた味と違いすぎて脳がパニックを起こし、特別おかしいことのないパンを異物だと思った体は思わず投げ捨ててしまうほどに驚いてしまった。
 一口齧っただけの袋に入ったパンは、窓ガラスに当たって助手席に落ちた。
 それだけ。クリームが飛び散った被害は無い。運良く袋の中で回転したパンが一切の被害を出さずに着席してくれた。
 何やってるんだ、俺。

 一連の動作があまりに馬鹿馬鹿しすぎて、思わず周りをきょろきょろ見てしまう。
 ここは中学校の駐車場。放課後の時間帯だが、見知らぬ車に反応する人間は幸い居なかった。部活動に所属してない生徒達が帰って行く。まだ化粧もしたことないような女子生徒がキャッキャと、やっと色つき始めたぐらいの男子生徒がぎゃーぎゃーと散って行くのが見えた。
 誰も俺なんか見ていない世界に、全くもって無関係な領域に一安心。一切何も接してこない世の中に安堵の息を零しながら、現代の中高生を眺めることにした。
 そんな中、とある男子生徒の集団が目に入った。
 同時にライターが助手席のドアを開けた。取材から帰ってきたらしい。「終わりましたよ!」の元気な声と共にシートに着席……して、クリームパンが大惨事になったのは言うまでもない。
 彼の絶叫はおいといて。次はどこの学校に行くのか相談する最中も、俺はある集団を見ていた。
 相談が片手間な俺に気付いたライターが尋ねてくる。

「何を見てるんですか?」
「あれ」

 隠すこともないので、彼らを指差した。
 六人ぐらいの男子生徒の集まり。六人とも笑っている。五人は手ぶらで、一人はバッグを六つ持っていた。ライターの顔が輝く。

「まさか、いじめの現場ですか!?」

 興奮で鼻の穴を広げる。
 だが暫く彼ら六人を見ていたライターは自己完結し、首を振った。

「違いますね。あれ、単なる遊びでした」

 何を根拠に言うのかと尋ねる前に、六人が次の行動を起こしていた。
 一斉にジャンケンをしていた。遠くの車内から見ているだけなので、「ジャンケンをしているような彼ら」を見たに過ぎない。その後に騒ぎ、彼らは場所を移した。

「ジャンケンに負けた奴が全員の鞄を持つ。それですね。みんな笑ってますもん。志朗さんも昔、やったことあるでしょ?」

 ――それに校門前で堂々といじめなんて起きる訳ないし。嫌なら嫌って言うでしょ。

 なーんだ、と言ってライターは次に向かう学校の話に戻った。
 そう言われたら俺も「そうか」としか言えない。まだ仕事の真っ最中なんだ、パンも占いブックもこの学校のことも終わりにして、次の職務を遂行しなければならない。
 今までが休憩時間で、車を走らせるのが今の仕事。だから。
 ライターの説明が終わり、次の学校まで車を走らせる。到着し、彼は学校の中に消え、また俺一人が駐車場に残された。
 残されたパンを意を決して食べるか、読みかけの占いブックを読むか。そうしていればいいのに、俺はまたコンビニに行って思考する。

「いじめられたことない奴には判んねーのかな」

 あの新人ライターの男は良い奴だ。彼の文章は、そこそこ面白い。赤ペンで弄り甲斐があるし、指摘したことは全部良く直すという今後の活躍に期待できる優秀の字書きだ。
 けど面白い文章と、魂の乗った……心まで物事を理解した文章が書けるかは別。
 彼は大変恵まれた人生を送ってきたようだ。「笑い合ってる男子生徒達」を「仲良し六人組」と信じて疑わないような人生を。
 そんな真っ直ぐに育ってきた奴が書いた『現代の中高生事情』はどんな記事になるのだろう?

 ――校門前で陰湿ないじめなんかするかよ。いじめられてる奴なんて笑うしかねーだろ。五人の、あの『馬鹿にしたような笑い方』ぐらい見分けろよ。ジャンケンしたって誰も鞄を交換しなかっただろ。アイツは、自ら進んで荷物番をやるしかないんだよ……多分。

 見覚えのある笑い方。俺も得意だ。だから見極めることが出来た。
 一握りの人間しか持たない能力なんだろうか。……そんなものより別のものが欲しかった。

 ――俺の分が無い。俺は呼ばれない。俺にはしてくれない。俺のためじゃない。俺は必要無い。
 違う、そうじゃない。
 正しくは『新座の分があって、新座が呼ばれて、新座だからして、新座のためであって、新座は必要だった』だけのこと。

 外に出た大人達が「物珍しいから」とお土産を買ってきて、新座にあげる。俺の分は無い。
 新座や悟司さん達は大山さんに「重要な話がある」と言って呼ばれる。色々と検査をするらしいし、今後の重要な話があるらしい。だが俺は呼ばれない。「志朗は部屋で大人しく待ってなさい」と仲間外れにされる。
 女中が転んだ新座の怪我の手当てをする。俺が転んでも何もしなかった女が、新座をあやして丁寧に治療をする。
 小学校からの下校の最中。俺達が馬鹿をして交通事故になりそうだったとき。近くに居た僧の男は、新座の腕を引っ張った。新座を助けるためであって、新座と手を繋いでいた俺はついでに助かったようなもの。
 極めつけは陰口。あの年になっても何も能力が開花しない? どうして? 努力が足りないんじゃ? 努力さえもしないの? 力も無いのにそれすらしないなんて。本当に無能。当主の子が聞いて呆れる。実は当主次男というのは嘘なんじゃ? じゃああの子は誰の子だ? なんであんな子を生かしている? …………。
 それをずっと二十年続けられてきた。成人してから外に出たから何もされないし聞かなくなったが、無くなった訳じゃない。寺に戻れば続く。
 だから三十年間、永遠と続いている。
 何にも無いなら、何の価値も無いなら、さっさと捨ててくれれば良かったのに。仏田の名から追い出せば良かったのに。何の能力も無い一般人の家庭に出されるとか。名前を変えて、下級な家の子として生まれ変わらせてくれれば良かったのに。
 研究の手が加わっていない純潔な血は残さなければならないだとか、たとえ能力が無くても当主直系の血が流れているだとか、大切な神の血を外の手に渡す訳にはいかないだとか、子供には到底理解できない理由で縛りつけていた。それに何度嘆いたことか。
 当主直系の子という立場のせいか、殴られたり蹴られたり暴力的な拘束は無かった。それは飽くまで別の人が受けたもので、俺の被害は間接的なものばかり。体を傷付けるものではない分、心に刺さって癒えないものばかりだった。

 ――あんなものを子供に吐き出して何をさせたかったんだ、あいつらは?

 今でも判らない。当時はもっと判らなかった。判らず、その言葉を聞き続けなければならず、ずっと愛想笑いで立っていた。
 いじめられているからって泣いて終わるものではなかった。泣いて「やめて」と言ったこともあった。
 でもやまなかった。だから笑ってすませておくことを学んだ。
 今は何を言われたって我慢できる。その経験があるせいか、「暴言を吐いてくる連中なんて馬鹿にしてふんぞり返ればいいんだ」って判った大人になったから、何をされたって我慢できる。
 我慢できると言っても、理解した訳じゃない。
 例えば、「いくら身体を洗ってもお前は卑しく汚い血だ」と言われ、同時に「当主の血を引く美しい血統なんだから外に血を残すな」と言われたとか。
 理解できる訳が無い。
 子供の頃、小学校で人を傷付けることをしてはいけない」「人が嫌がることを言ってはいけない」と教わった。
 なのに寺に居る大人達はしてきた。大人が「傷付けてはいけない」と言っているのに、なんで大人が傷付けてくるんだろう。大人が「暴言を言ってはいけない」と厳しく言うのに、なんで大人は言っていいんだろう。
 さっさと諦めてしまえば良かったのに、子供の俺は納得ができず、何百回も何千回も頭を抱えた。

 ――堂々としてるから大丈夫? 堂々として思考を止めて今があるんだよ。嫌なら嫌と言う? 言ったってどうにもならないなら諦めるしかないんだよ。

 どうしようもなく生きて、少しでも優しい人に頼って心を癒すしかなかった。
 それが逃げ道だったんだ。
 一人で逃げ道を作った。耐えられるだけの精神を作ったり、自分の地位を確立させたり。
 その中の一つが『誰もが可愛がる彼の、優秀な兄』になることだった。
 それは十年、二十年続いた。
 だが、三十年目には到達しなかった。
 誰もがなれるという訳でもない『市民を守る善良な組織』に入っておきながら、今は車の中で「少女向け占いブック」を読みふける仕事をしているぐらいなんだから。

 ぼんやり夢想していると、急に車の窓をコンコンと叩かれた。
 過去の嫌な記憶を思い出していたらぼうっとしていた。まさかここは駐禁だったか? いやコンビニの駐車場だから問題無いよな? はっとして車外を見ると、そこには優しい人が笑って立っていた。

「圭吾さんっ?」

 子供の頃、頼りに頼りきっていた兄貴分のような人が立っている。
 窓を開けるだけで会話は出来るというのに、驚いて車から飛び出してしまった。
 まさかこんな所で会うとは思わなかったから、久々に会う年上の幼馴染相手に心が弾んだ。

「圭吾さん。どうして」
「俺は仕事でここに。志朗くんは?」
「俺も仕事中です。正確にはその休憩中ですが」
「なら偶然か。まさかこんな所で会うとは」

 思わなかったよ、とラフな格好だがちゃんと仕事着のスーツを着込んだ圭吾さんは言う。
 車外に出てみると、三台向こうの車に見覚えがあった。派手ではないが大きい車。圭吾さんが『退魔の仕事のとき、誰かを運搬する際に使う車』だった。
 それがあるだけで判る。彼は相変わらず実家の手伝いをしているんだ、と。
 特別そのことに何かを感じたりはしない。圭吾さんは相変わらず圭吾さんだな、家族の為に使命をまっとうしているんだ。その程度にしか考えない。
 でも圭吾さん自身は違う。俺が彼の様子を見て状況を確かめると同じように俺のことを見て、何かを考えて口を開く。

「志朗くんは……今、何をしているんだ?」

 子供の頃から聞いていた……相変わらず優しい、心配性な声だった。
 ――俺は、自由気ままに生きてます。
 素直に答える。嘘偽りない、自由すぎる生き方を告白した。

 海が近い地方の12月、車外は寒かった。
 こんな所で立ち話も難だと言いたかったが、コンビニの中で話し合いはしたくなかったし、俺の車はクリームパンで汚れているし、退魔の仕事真っ最中の圭吾さんの車に入るのも気が引けた。だから寒空の中、身の上話をする。
 彼は「どこかに行こう」と誘ってきたが、軽く断った。
 それよりも先に訊かれた「何をしている?」を俺は話した。口から流暢に出ていった。
 自分がどうしているかを話す。

 4月の新しい時期に周囲に満足された職から離れたこと。
 自分に関係無い人間達の過去を笑って金を作り始めたこと。
 まだ数ヶ月も経っていないのに足場が固まり始めたということ。
 実家には帰らない方向で、退魔とか魂の回収とか高等なものとは無関係な生活をしているということ。
 それが楽しくて仕方ないということ。
 振りきってしまえばあんな連中怖くないって理解してしまって、声高々に笑えるようになったんです。ざまあみろ。そこまで露骨な口調ではなかったが、そのような台詞を圭吾さんに投げた。
 実家で頑張っている彼に対して。

「そうか」

 俺はまるで、見せつけるかのように彼に対して、恨み節を。

「志朗くんが楽しんでいるなら良かった」

 ――だというのに圭吾さんは、本当に昔と変わらず優しく笑って、俺の話を聞き終えた。

 ぞくりとする。
 高揚していた気持ちが収まる一言を言われてしまった。
 ただ「現状ですか? 今は雑誌を作ってます」の一言で良かった筈なのに。
 なんで「周囲に満足された職を離れ」なんて先に言ったんだろう。
 なんで「自分の関係無い人間達の過去を笑って」なんて付けくわえたんだろう。
 なんで「ざまあみろ」ってわざわざ言ったんだろう。親達の命令に従っている圭吾さんに向かって……。

 ――全ては、嫌な想いが巡っていたから。

 昔、自分がよくしていた表情をとある中学生と重ね、それに気付いてくれぬ大人の顔に腹を立て、自分の今までの境遇を憎み、今を満足している圭吾さんをなじりたかった……そうなんだろう。
 自分が過去に囚われているが故の暴走だった。
 自覚して、穴に潜りたくなる。
 激しく身の上話をし、急激に体温が下がっていくのを感じる。ほんの三分の出来事でもとんだダメージを負ってしまった。
 それが顔に出たせいだろうか。圭吾さんに食事に誘われた。三分前に断られたのに。
 もう一度「仕事中です」と断ったが、今度は「コーヒーでも飲む時間も無いのか?」と粘られた。
 三度目は断れなかった。
 ライターが取材を終える時間までまだ大分長い。軽食を取っていれば終わりそうだ、時間潰しと考えようと車を走らせた。コンビニから数分、ビジネスホテルに併設されたレストランに入店した。
 圭吾さんは気にしてないような笑みを浮かべても、やはり俺のきつい物言いに何かを感じたんだろう。気遣うように俺へメニューを渡してきた。

「で、志朗くんが作っている雑誌って何?」

 彼は表情を変えないように努めていた。場所が変わっても俺の身の上話の延長をして、俺の気を落ちつけようとしている。
 その気遣いに申し訳無く思う。大人げないことをした自覚があったので、今度は圭吾さんを少しでも楽しませるような話題をしようと考えた。
 とりあえずは言われた通り、持っていた数週間前に発売された雑誌をテーブルの上に置く。表紙を見た圭吾さんは「知ってはいるけど買ったことないな……」とよくある反応をした。俺の周囲じゃよくある反応だからもう何も言わない。
 ぱらぱらとページを捲って中身を確かめ始める。煌びやかな新作バッグのカラー写真や三十代女性のための美容コーナーを飛ばし、数ページだけのレシピ特集に若干唸りつつ、お菓子の広告に一言感想をもらし……とある芸能記事で手を止めた。
 それは見事、俺が手をつけたページ。まさかの場所で手を止めていた。

「判るものなんですかね」

 美容やレシピや有名なチョコレートの広告が俺らしくなかったから消去法で判ったのかもしれないけど、それでも的中されたことに驚いてしまった。

「だって志朗くんっぽいから。君が好きそうな構図だと思ったよ」

 それを聞いて、思わずとぼけたような声が出てしまう。
 俺が好きそうって……ただのスキャンダル記事だぞ。一見特徴の無い見出しと文の羅列だけじゃないか。個性なんて出していないつもりだったが、判る人には判るのか?
 感心していると「当たったのはまぐれだけど」と照れながら注釈を入れてくる。それでも興味深かった。

「自分じゃちっとも判りませんね。俺っぽいって何ですか?」
「例えば、ここの形。これもだな」
「……言われても判りませんね」
「自分で作ったのに?」
「適当にやったら採用されたもんで」
「それは凄い! 適当でやったものが認められたなんて凄いことじゃないか! 良くやったね」

 我がことのように喜ぶ圭吾さん。「なんでこの人、学校の先生じゃないんだろう」と思うぐらいの反応を見せてくる。
 学校の先生というキーワードに関連して、「お母さん」という言葉も頭に浮かんだ。そういや、新座が圭吾さんのことを「お母さん」って呼ぶこともあったっけ。本当の母親というものがこんな反応かはともかく、『世間の母親像』っていうのは圭吾さんみたいな人のことを指すよなと過ぎった。

「良くも何も、人出が足りない会社なんで。そんなに過大評価しないでください。俺はあくまで雑用なんで」
「過大評価かい? 評価といえば……志朗くん。学生のときの通知表は覚えているか」

 コーヒーがお互いの席に届くまで「どこがどう俺らしいのか」を解説してもらおうとした。
 だが、圭吾さんは唐突にそんなことを言い出す。

「自慢ですけど、俺はほぼオール五でしたよ」
「そこで『自慢じゃないですけど』って言わないのが志朗くんだね。君は自信家だ。そして優等生だった。いつも隣に居た霞が馬鹿だったから、余計に志朗くんが非凡だったのが際立ってたよ」

 確かに。霞は決して頭が悪いタイプではなかったが「先生や親の言う通りにするのが気に食わない」という理由で成績を下げる生徒だった。もしくは点数は悪くなくても授業態度で減点される問題児だ。
 さすがに中学以降はアイツも大人しくなったと聞いていたが……。

「志朗くんは、国語も数学も理科も社会も成績は良かった」
「そうでしたね」
「英語も体育も他の科目だって良かった。何でもできる。何でも一人でやるし、出来なくても真似が巧い。学年は違えど志朗くんは光っていた。よく覚えているよ」
「照れます」
「はは、その顔のどこが照れているんだい」
「なら照れません。……『やれて当然』、そのつもりで当時は生きてましたよ。それぐらい巧くやっておかないと誰にも見てもらえませんでしたから」
「……それで頑張っていたのかい」
「そりゃあ、まあ。だって、家じゃ問題児だったでしょう、俺は」
「……問題児じゃない、と思うけど……」
「問題児でしたよ。気にくわないクソガキって色んな人から思われていた筈です。直接叩かれることはなくても、無数の悪意を受け取ったことがあります
「…………」
「当時、子供ながらやれることといったら『これ以上問題にならないようにすること』でした。だからあの頃の俺は必死に点数を稼いでたんですよ。その結果のオール五です」
「凄いな、志朗くんは」

 何がです、と話を繋げるために相槌の返答をする。
 圭吾さんは遠い昔を思い出す、やわらかい目をしていた。彼の思い出は良いものしかないのか、そう思ってしまうぐらいの羨ましい表情だった。

「問題にならないように努力して、ちゃんと優等生になれるところが凄い」
「……努力すればできるもんですよ。必死になれば何だって。あとは、元々頭が良かったんでしょう。俺は天才だったんですよ」
「志朗くんの凄いところは、さらっとそれが言えるのもある。新座くんもよく言うけどさ」

 ――新座。
 弟のことを引き出されて、何かが喉の奥に突っかかった物を感じた。
 そんなのはともかく。『天才』と威張るのは単なる強がりと言えばそれまでだ。でもそれを「当然のように」こなすのにも意味があると信じ、あるべき優秀を保ってきた。
 褒美が周囲からの好印象なら安いものだから。懸命に。必死で。

「でも志朗くんは、美術が一番得意だったよな。美術が好きだったんだろ?」
「……あ?」

 美術? 一番? 得意? ……好き?
 圭吾さんが褒め倒すことはよくあれど、その言葉が来るとは思わなかった俺は「なんのことです?」と素直に問いを返した。
 確かに俺は学生時代、不得意科目は無かった。美術だっていつも最高評価だった。数学も英語も全部最高評価だったから、美術だけに限った話ではないんだが……。

「志朗くんはいつも満点のテストを持って帰ってくる。それは凄いと思ってたけど、その中でも一番凄かったのは……点数なんてあって無いような美術ですら満点を取ってくることだった。俺はそこに感動してたよ。そこまで優秀になれるんだって」
「…………」
「でも、やっぱり芸術って優秀になろうとして評価されるものじゃない。修行すれば腕は磨かれるかもしれないけど、生まれながらのセンスあっての評価だと思う。それが今」
「今」
「見開きページを見て思う。志朗くんは、『この道』が好きだったんだね。だって今、これを作っていることを選んだんだから」

 ――だから、志朗くんが『今の道』に進むのは納得なんだよ。

 圭吾さんは言葉を繋ぐ。
 だが俺は心の中で反論する。
 俺は、美術を得意だったなんて思ったことは一度もない。たまたま美術の教師と相性が良くって点数を貰えていただけだ。
 そもそも……記事の構成をあれこれ口出しする仕事になったのだって単なる偶然だ。運が良くてあのデスクに座らせてもらっているだけ。こんなものでも金が貰えるからやっているだけだ。
 自分を生かすとか、得意とか考えたことなかった。
 好きなんて、更に考えたことなかった。

「圭吾さん。これは芸術ジャンルとは全く違いますし。それに芸術って、好きや得意でやれるもんじゃないですよ」
「そ、そうなのか?」
「必要なのは『どのように求められているか、求められているものを形に出来るか』であって、個性を出しても儲けるのはまた別の職です」
「そっちになる気は?」
「俺はクリエイターを名乗れるほど、良いものなんて創作したことないですよ。デザイナーだって微妙だ、資格もロクに持ってないし……」
「これから持つ気は?」

 ……無い、と、すぐには返答できなかった。
 持ってもいいだろうし、持っていたらきっと違うことが出来るだろうし、それに費やす時間はまだある。「前向きに考えるのも良い」と思う自分がいるのに気付いた。
 自分にあっているものを、今やっと自覚している。
 なんだか頭をガツンと殴られた後のような、衝撃後の放心が続いていた。ああ、どうしたんだ一体……?

 ――この年になって反抗心で、実家と無関係のことをし始めた。

 無価値なりに役に立つ人間になって見返してやろうと、とある組織に入った。
 異能なんて無くても人を守り、人を制し、人を束ね、人を支配することが出来る地位を手に入れた。そうやって初めて褒めてくれる奴もいた。
 そこからの脱却。
 寧ろ、転落。
 お前らの一部がこんな自堕落な生活をしてるんだよ。神と等しい当主の息子が、ロクに役も立っていない。どう思う? 笑えるだろ? 身を張って、今まで叫び続けてきた。
 でもそれから時が経った。
 新座が家出をして、「自分は仏田に縛られない」と主張して。
 俺も「仏田に縛られたくない」と追いかけて……。
 苦しい過去があった。憎い連中がいた。そいつらに文句を言われないように優等生をやってきた。ぎゃふんと言わせるために優秀な生活を捨てた。文句を言われても無視できる精神になった。反逆を体現できた。
 で、その次は。
 その次は、どうするんだ……?

「圭吾さん」
「ああ」
「俺は、新座の真似して家を出たんですよ」

 ――そろそろ、自分自身の人生について考えてみるべきなのかもしれない……?

「そうだと聞いていたけど、志朗くんは、自分で『真似して』って認めているんだな」
「ええ。俺、新座のことが可愛いです。大好きなんです。目に入れても痛くないぐらい、大切なものなんです」
「そうだね。そうだったね」
「昔は違います。利用していたんです。新座のこと。弟ですから。嫌いでした」
「…………。志朗くん、言っている意味が」
「新座は饅頭が貰えるけど俺は貰えなかったんです。新座は八十点で褒められるけど俺は百点でも『そんなの当然』だったんです。新座は『さすが当主様の子』だけど俺は『なんで当主様の子なのに』だったんです。俺は変な力を操ったり癇癪を起したりしない……よっぽど人間らしいのに、みんな、新座の方が大事だったんです。俺には刻印も異能の才も一切無かったから」

 先程まで長話をしても頷いていた圭吾さんが、ついに相槌を止めた。

「それでも新座より誇れるものが一つだけあったんです。実の兄弟であるということ、一歳年上だという事実。それだけで俺は新座の前で威張れたし、新座も俺を上の人間として頼ってきた。嫌いだけど利用していたんです」

 圭吾さんは黙ってコーヒーを飲む。
 その沈黙にアフレコするなら、「うん。知ってる」かもしれなかった。「そうだったのかい」とも思える顔色でもあったが。

「ある日、新座を違う角度から見ることができまして。『自分を立てる駒』としてじゃなくて、『俺を慕う可愛い年下』として見たんです。途端に愛おしくなりまして。それから俺、変わったんですよ。そのつもりです」

 その後も何度も考えさせられることはあった。
 新座が俺をどう思っているかを教えられたり、それでも慕ってくる新座をどう受け止めたらいいか考えたり。繰り返し十年、愛おしさを実感することがあった。

「大事な駒がいなくなるのが怖くて、新座を拘束しようとしたときもありました。でもそれじゃいけないって思い直して。新座は俺の為の駒じゃない。弟は俺が守るべきものなんだって判って。ちゃんと新座自身を愛すようになったんです。新座を身近に愛していけるような生活を確保するために生きてきて、優秀に生きていたら、春」

 ――新座が、家出をして。

「新座が外に出たんだから、俺は中にいたって意味が無い。俺も追いかける形で飛び出した。それが今です。俺の原動力って新座が可愛いから。これに尽きると思うんです。『圭吾さん、どう思います』?」
「…………『それでいいのか』?」

 相槌を打たなくなった圭吾さんが数分ぶりに開いた言葉は、予想以上に身が凝縮するものだった。

「俺は、志朗くんが……仏田家の為に警察で頑張るんじゃなくて、得意な分野で生きていくために転職したんだと思いたかったよ。でも、新座くんを愛しているからくっ付いて出て行って、一族に反逆するために今があるとしたら」

 その言葉が吐かれるたびに、頭が、胸が、ありとあらゆるところが痛む。

「志朗くん自身の人生はどこにあるんだ?」

 圭吾さんは気遣いながらも的確な言葉を選んで、抉る。

「じゃあ、みんなの人生もどこにあるんです?」

 酷い顔を見た。
 いつでも俺を心配してくれる優しい幼馴染の圭吾さんは、目を背けたくなるほどの酷い顔をしていた。
 それでも彼は俺の問いに律儀に答えようと思案する。考えれば出る答えなのか判らないものを、じっと探していた。だけど数分経っても答えなんて出てこない。圭吾さんが何かを言い出すことはなかった。
 別に思考停止したつもりは無いだろう。言い訳を考えている訳でもないだろう。それでも俺の問いを繋ぐ言葉を探して、出てこなくて、代わりのものさえも見付からなくて。
 必死に頭を抱えたけど、何も見当たらず時間が過ぎていった。

「俺は。……志朗くん、俺は……」
「はい」
「俺は……今の生き方、悪くないと思っている。あくまで、俺は……」
「はい」

 圭吾さんは、そうだろう。
 彼は『能力が無いこと』で有名だ。
 優秀な刻印を持って生まれてきたが、幼少期に能力という能力を殆ど失ってしまったらしい。そういうケースもあるんだ、俺のように生まれたときから無い人間とは別の意味で苦しんできた。
 それでも圭吾さんは仏田一族に尽くす生活を選んでいる。
 強い能力が無くてもできるような……それこそ『誰かの足』になる雑用。それと、悩める俺のような奴の相談相手になってくれたり……。
 そんな形で彼は仏田家に尽くしている。圭吾さんは俺を優秀だ、天才だ、凄い奴だと褒めてくれるが、本当は圭吾さんこそ相応しいんじゃないかと思っている。

「俺の人生はあの家にある。それで満足している。支えることに喜びを感じるから。俺はそれでいいんだ。今が充分楽しいから」
「そうですか」
「でも、みんながみんな、そう考えているとは限らない」
「でしょうね。考えは人それぞれですから」
「……俺は、自分の人生に苦悩している奴を知っている」

 それは、誰のことだろう。
 ハッキリ言って、あの家には該当する奴が多すぎて誰の事だか全然絞り出すことができなかった。

「俺は良くても、考えてしまったんだよ。同じ顔である弟の君に言われて、きっと彼も同じようにそれを言うんだなと思うと……ああ……」

 …………俺と、同じ顔?
 それって……。

「…………。圭吾さん、クリームパンって好きですか」
「え、好きだけど」

 ――いつまで経っても出ないものに時間を費やすよりは別の会話をした方が有意義だ。
 頭を抱える圭吾さんを見かねて、違う話題を持ち出す。

「俺はあんまり甘い物って好きじゃないんですよ。でも無性に食べたくなって。買ったんですけど、そのクリームパンの中身がホイップクリームで、俺はカスタードクリームが食べたかったのに、クリームパンっていったら黄色い方だろ……」
「ああ、なるほど!」
「なるほどって、何が」
「だから今日一日、志朗くんの機嫌が悪かったのか! 納得したよ! ……今からちゃんとしたクリームパンを食べよう! それで元気出そう! な!」

 んな訳あるか! その程度で立ち直るなんて子供か!
 ……いや、あれも不機嫌の要因ではあるかもしれないが。もっと違う腹立たしいことを説明するべきか。そんなことしたって相手を悲しませて更に苦痛の表情を浮かばせるだけだからしないけど。
 圭吾さんって時々頭の中がお花畑じゃないかって思うときがあるけど、冗談で言うんじゃなくホントに……。

 子供相手にするならいいけど、本気でその手段で慰めようと圭吾さんはメニューをまた見始めてしまった。カスタードクリームが入った物が注文できないか探しているらしい。
 「結構です」と何度も言ったが圭吾さんはメニューを見るのをやめない。そして最終的には「なんで生クリームばっかりなんだ!」とレストランのメニューに静かに切れていた。ブチ切れではなく、本当に静かに切れていた。
 確かにレストランにあるデザートはパフェ、サンデー、ケーキ。どれも白いクリームばかりだった。「せめてホットケーキがあれば!」なんて熱く言い始めている。
 俺を慰めてくれるとはいえ、そんな必死さはいらない。ありがたいけどいらなかった。
 「いいんです、いらないんですってば」と何度も圭吾さんに言っていると、彼の携帯電話が震え出した。電話の着信らしく、彼は頭を下げて席を立つ。
 俺もそろそろ仕事に戻ろうか、中学校に戻るべきかな……と考えていると、すぐさま圭吾さんは戻ってきた。
 電話を耳に押し付けながら、椅子に掛けていた上着を着始める。その顔と声からしてどうやら急用が入ったらしい。潮時か、と俺は応対する圭吾さんを置いて勘定に向かった。
 会計を済ませて店を出ると、まだ圭吾さんは焦った声で電話をしていた。
 『仕事』を出ている連中に何かあったのか。不安になるような声色だった。
 圭吾さんが電話を持ちながらこちらを向く。とっとと退散した方がいいと思い、簡潔に挨拶をするか……と思っていると。

「志朗くん! 錯乱した相手にはどうしたらいい!?」

 俺の得意分野を尋ねてきた。

 真っ先に出た言葉は「何があったんです」ではなかった。その前に「どういう状況ですか」と自然に出た。自分でも対応に慣れているのがよく判った。
 圭吾さんはある情景を話し出す。「こうらしい」「そうなっているみたいだ」と曖昧だったが、流石は仲裁役をやらせたら右に立つ者はいない彼。判りやすい緊急事態に俺は的確な指示を飛ばすことができた。
 俺が言ったことを電話口(どうやらときわらしい。名前を呼ぶのが聞こえた)に伝え、その足でレストランの上……ホテルのとある部屋へ向かっていく。電話の向こうは上の階のようだった。腕時計を見て安心した俺は圭吾さんについて行く。
 そしてとある部屋の前でノックすると、飛び出すように携帯電話を持ったときわが出てきた。
 必死な形相だ。そして隣に俺が居ることに気付き、目を見張る。

「何故、志朗さんがここへ?」
「そんなことより、大丈夫かよ?」
「え、ええ! ……だいぶ様態は落ち着きました。ソーリーです。お騒がせしまして。……ブリッドさん、プロがいらっしゃいましたよ! 安心なさってください!」

 いや、俺はプロじゃねーし。二十年間暴走しがちな弟の世話をしてきただけだ。
 しかし室内の混乱は収まったのか。未だ冷や汗をかいているときわだったが、落ち着きましたの言葉に嘘は無いらしい。
 部屋の奥から騒ぎは聞こえなかった。許可を取ってときわを押しのけ、ホテルの一室に入っていく。

 まず目についたのは、砕けた花瓶だった。
 壁に激突し粉々になったのか。濡れた痕と散乱した花々が事態の深刻さを物語っている。花瓶を投げつけるとはまた豪快な。
 次に目についたのは、床に散らばるフォークとナイフだった。
 それと微かに飛び散る、血痕。いくつかの荷物や部屋の備品が、本来あるべき場所ではない所へ散らばっている。
 誰かが暴れて投げまくったのか。それで傷を負った人がいるのか。
 新座は泣き喚くことはあっても粗暴行為に及ぶことは無かった。だから悲惨な状況を目の当たりにしたことはない。あまりの緊急事態につい尻込みしそうになってしまった。
 部屋の奥を見ると、二人の影が見えた。
 一人の男が、一人の男を頭から抱きかかえている。
 ある男がある男を抱きしめていた。何度も背中を撫でてやっている。俺がやれと言ったことは全てやり終えたらしく、今は最後に出した指示――『優しい言葉を掛けてやれ』に従っているようだった。

「……大丈夫、大丈夫だから……誰も、怖い人なんかいないよ……」

 泣き崩れている男を抱きしめながら、慰めている青年が優しい声でずっと励まし続けている。
 錯乱していた男はなんとか落ち着いてはいるとは言ってたが、肩で息をしていた。涙はまだ止まらない。必死に落涙を止めようとしているが全然おいついてない。ひゅうひゅうという必死な呼吸音が引っ切り無しにする。
 極めつけは両耳を抑え、投げ掛ける「大丈夫」の声も塞ごうとしているじゃないか。

 これのどこが落ち着いているだよ、ときわ……。
 暴走しかけの男性にもめげずに、看病し続ける青年は暖かい言葉を繰り返していた。

 ――まるで、昔の俺達のようだった。
 悪い過去を、「あのとき気付いた夢ではなく」……この目で見ているかのようだ。

「……ッ……」

 助太刀してやろうと思っていたが、あまりにもの姿に足が止まり、言葉を失ってしまう。
 『昔の俺達』という表現は相応しいだろうか。 
 いや、全然違う。彼らと自分らの徹底的な違いは、慰めている側が「しめしめ」なんていう顔をしていないこと。青年は心の底から怯える男を助けてやりたくて、見えない敵と戦う男を救いたくて……声を掛けている。

 ――なら、『今の俺達のよう』……だよな? それなら同じだよな。

「……くそっ……」
「志朗くん、平気か?」

 つい胸を抑えていた。汚さを自覚して、葬り去りたい過去を呼び起こしてしまって、苦しくて左胸を抑えていた。
 ……そう、同じだぞ? 今の俺は、心の底から愛する新座を救いたいって思っているよ……?
 裏なんて無いぞ? 救いたいと思って新座を抱きしめるんだぞ? 違わないぞ、絶対に違わないんだ……。
 でも『昔はそうでなかったから』、罪悪感で、『もしかしたら』なんて、考えてしまう……。
 違うのに。本気で救いたいのに。
 彼のように。俺だって、本気で……。

「……ここにはアクセンくんを傷付ける人なんていない……こんなに遠くに来たんだから。……君を苛める人はいない……もう……怖くないから……大丈夫なんだよ……」

 慰めている青年も涙を流していた。
 同じ苦しみを分かち合おうとしているかのように。

 どうして抱かれる彼が暴走してしまったのか知らない。彼らの関係がどんなものかは判らない。
 顔も似てないし髪の毛の色のそれぞれ違う(慰めている青年は明るい色をしているが、嗚咽を上げる方の男は……燃えるような赤髪だ。じいさんと同じ色じゃないか)から赤の他人だろう。
 赤の他人でもこんなに必死になれる彼を、見事と思う。
 『兄弟だから』という理由で関係を始めた俺の、馬鹿馬鹿しい思考。

 ――部屋の外に出て、電話着信があることに気付く。
 携帯を確認すると、「どこに行ってるんですか!」とあのライターの泣き声が綴られたメールがあった。
 中学校からホテルまで距離は無い。だから徒歩二十分ぐらいなんだし歩いて来いと返信する。高校時代まで徒歩二時間を毎朝歩いていた俺にとっては徒歩二十分は大した距離ではないが、彼はどうだろう? まあ、どうせ取材先の席で茶菓子を食べてたに違いない。少しでも動いて痩せてこいという想いで迎えを断った。
 メールを打ち終えた後、何をするという訳でもない。
 別にすぐにライターを迎えに行っても構わなかった。でもなんとなく、何もしたくない気分になってしまった。今日は数時間の運転だけでロクに仕事をしていないというのに、どっと疲れてしまった。
 疲れたときは甘い物に限る? だから俺はそんなに甘い物が得意じゃないんだって。よく圭吾さんや新座は言うけど頷くことはできない。

「……新座」

 新座がよく言っていた言葉を、音声ごと脳内に思い起こす。
 あの声を、あの顔を思い出しながら、「やっぱり甘い物を食べるのも悪くないな」と思って後部座席に放っておかれたパンを見た。
 これを食うつもりはないけど。男の尻に敷かれた物だし。
 食いかけの食べられないそれを近くのゴミ箱に捨てながら、俺はいつの間にかプッシュボタンをいじくっていた。

『お兄ちゃん?』

 そうして、新座の声を聞いていた。
 彼が居ないと自分が成り立たないという自己認識。どうしようもなく惨めで怖くなっていたからだ。

「……今の俺は、無性にどうしようもなく新座が足りない」
『むぐ? どうしたの? また嫌なことがあった?』

 その通り。よく判っている。
 というか、何かあるたびに新座に電話しているからそういう反応をされてしまうのも仕方ない話。

「新座」
『なあに』
「新座」
『うん』
「新座。新座」
『はい』

 うん。なに。はい。ああ。ええ。むぐ。はいはい。
 新座と呼ぶたびに律儀に声を返してくれる。足りないものがじわりじわりと補給され満ち足りていくのを感じた。

「新座」
『お兄ちゃん、甘えん坊だね』
「俺は新座以外には甘えない」
『どうかな? お兄ちゃん、圭吾さんにはよく甘えてたじゃん』
「でも圭吾さんに名前を連呼したら、きっとあの人は本気で心配してきて大変なことになる」
『違いないね。甘えさせてくださいって事前に言っておけば大丈夫だろうけど。でもカスミちゃんに甘えるのはダメだよ。僕怒るからね。むーぐー。あ、ちょっと待ってて。一度離すよ』

 新座の口が受話器から遠くなるのを感じた。

「嫌だ」

 何かをしていたのか。ただ態勢を変えたのか。事情はそれぞれある。
 新座は耳を放したから俺の一言など聞こえていないだろう。だけど俺は言った。

「離さないでくれ。どこにも行かないでくれ」

 甘過ぎて頭が痛くなるぐらいの依存心を。
 昔は下心しか無かった。形だけの兄の姿を演じてきた。でも今は違う。何も証明なんてできないけど、俺の中に生じた心からの言葉を吐き出していた。

『ならお兄ちゃんが離さなきゃいいんだよ』

 すぐに新座の声音は戻ってきた。
 俺の一言など聞こえないと思ったが、受話器を耳から離したのは本当に一瞬のことだったらしく、叫んでいた弱音も全部聞かれていたらしい。別に恥ずかしいとは思わない。だって更に甘えた事を言いたい。そう思い続けるぐらいだったから。

「お前が嫌に思っても、俺は離すつもりはないぞ。俺は兄だし、お前が必要だし、新座が好きだから」
『知ってる』
「たとえ、お前がどんなに嫌と思ってもな」
『うん』
「本当に、俺は、お前が嫌になるときがきても、俺は」
『お兄ちゃん。よくそれ言うよね』
「だって、それは」
『僕はお兄ちゃんが思っている以上にお兄ちゃんのことが好きだよ』

 やれやれと言うかのような声色で、新座は俺を諭すかのように、ポツリ。

『お兄ちゃんは僕のことが死ぬほど好きでしょ』

 それを圭吾さんが聞いたら「君達らしい自信家の発言だな」って言いそうなことを、放つ。

『そんなに強く想ってくれる人のことを愛さないなんて僕はしないよ』
「……本当か」
『お兄ちゃんは僕が死ぬとき、僕を庇って代わりに死んでくれる。そんなことする人を愛さない訳がない』

 まるで俺が死ぬときを実際に見てきたかのような言い方だった。
 確かに、それぐらいのことは俺だったらするけれども。たとえ能力が無くても強くなくてもそれぐらいのことは。

『僕は、お兄ちゃんがいつも言っている「好き」が単なる口癖じゃないって知ってるんだ。僕のことを想って言う言葉だって知ってるんだよ。命を投げ出すほど僕のことが好きだって知っている。本気で愛を語るお兄ちゃんが好き。不安がることなんてない、僕はお兄ちゃんを愛しているんだよ。……どう、満足?』
「最後の付け足しが無ければ完璧だった」
『ごめんね』

 暫く、同じことを言うだけの会話を続けた。
 俺は、誰かに認めてもらわなければ不安で死んでしまうほど弱く、馬鹿だ。たとえ相手が大嫌いな相手でも、認めてもらわなければ……必死で、優秀の席に縋りつくほどだった。
 だから新座に俺の存在を認めてもらうことが、何よりの喜びだった。
 喜び。この気持ちに嘘は無い。
 どこに人生がある。……新座のもとに人生がある。そう言いきってしまうのが一番の答えだったんだろう。

「ありがとう。こんな甘ったれのお兄ちゃんでも愛してくれ」
『うん』
「まだ威張れることも何もできない俺だけど、なんか、俺だからできそうなこと……見付かったみたいだから」
『何があったのか訊いた方がいい? 訊かない方がいい?」

 同じような会話をずっと続けていると、電話の先から新座を呼ぶ女の声がした。

『シスターが呼んでる。じゃあ夕ご飯、いってきまーす!』

 またね。新座は元気に通話を切る。
 呆気ない。物足りなさをひどく感じる。もっと別れを惜しんでもいいのに。……気味が悪いぐらい依存している自覚がある。嫌われたって仕方ないほどの拘束だ。
 ――ああ、俺は本当に新座がいないとダメなんだ。じゃないとボロボロになってしまうから。相手を一番に想いたいのに、まずは自分の形成を考えてしまう駄目な奴。だから俺は……と再確認しながら同僚の到着を、

「……あの……」

 待っていると、後ろから声を掛けられた。
 振り返ると新座が、居、

「っ!?」

 ……る、訳が無い。
 何故なら新座はさっきまで電話の先に居たから。
 声を掛けてきたのは新座だと思ってしまったが、全然違う。似てると思ったが違う人物だった。
 目に入った髪色は、染めているのかとても明るい。その時点で黒髪のまま一度も髪を色をいじったことがない新座ではない。
 先程は控えめに声を掛けていたが俺と向かい合うとニコリと笑う。その笑顔がちょっとだけ新座に似てると思った。新座に似てるということは、俺にも似てるということだが……つまりは?
 似ているということは俺達の親戚か?
 少しだけ東洋人離れした顔をしているけど、こいつも仏田の一員ということか?
 誰かと思えば……先程ホテルの部屋に居た、圭吾さんとときわの知り合いの男が立っていた。

「……あの、先程は……助言、ありがとうございます」
「あ、いや、ありがとうって言われることをしてないぞ」
「そ、そんな……それでも……助かりました」

 一度も見たことのない男だったが、俺は仏田の生業に関わっていないから遠縁と知り合ってなくてもおかしくない。ただでさえときわ達と知り合いなんだ、血の遠いだけの一族って可能性は大いにある。
 ――じゃあ、何がそんなに似ているんだろうか。
 ――やはり、黒々としていない眼か? 新座も、真っ黒の眼ではないから……?

「その、ど、どうしてもお礼を言いたくて……お会いするのは初めてだったのに、何も言えずにお帰りになられたから……。お、お仕事の最中に失礼しました!」
「ああ、気にしなくていい。今は仕事中じゃないから。弟と電話してただけだし」
「あ、新座さんと……ですか?」
「知ってるのか」
「と、ときわさんが、よく話してました。ピアノがとてもお上手だと聞いています……思い出のピアノだって……あ、オレもピアノ、よく弾くんですよ。父さんが教えてくれたので……」
「へえ」
「あ、お初にお目に掛かります。自己紹介がまだでしたね……オレ、藤岡 明佳(ふじおか・あすか)っていいます」
「どうも。志朗だ」

 藤岡。その名字に聞き覚えがあった。
 あれ、もしや、新座がピアノを定期的に教わっていた……時折洋館にやって来る仏田外部の協力者って、そんな名前じゃなかっただろうか。
 俺は洋館なんて近寄らないし、ピアノも全然興味無かったからうろ覚えだったが、そんな名前だったような気がする。
 それにしてもこんな俺にも緊張するものなのか、青年は言葉を詰まらせながら挨拶をしてきた。何度も躓きながら喋るのであまり口は巧い方ではないようだ。けど、決して悪い気はしない。
 何故なら笑顔が役得だから。
 初対面故の緊張さえ無くなれば、新座みたいに人懐っこい奴なんだろうなと容易に思える笑みだった。

 さてお礼を言いに来たという明佳だが、本当にお礼を言ったら用件が終わってしまったらしく、特別会話を用意していた訳でもない彼は何を話したらいいか判らず慌て始めた。
 でも「ありがとうございます! さようなら!」とはしたくはないらしい。物腰は丁寧だが要領が良くない明佳を静かに笑いつつ、「あの連れはどうした?」と一番訊きやすいものを尋ねてやることにした。

「えっと……今はもう大丈夫です。これから一緒に夕食はできるぐらいには穏やかになりました」
「彼は、今回の事件の被害者なのか?」
「事件?」
「圭吾さん達と『仕事』に来てたんだろ? ……救助した人じゃないのか」
「いえ、その……彼はオレの友人です。一緒に旅行に来た友人なんです。時々、発作が起きるんですけど、普段は大人しくて……」
「は? お前、仏田の一員じゃないのか」
「ち、違います。……『教会』に所属はしてますけど、オレ、父さんや兄さんの手伝いをしているぐらいで……いつもは商店の店番ぐらいしかしてません……」
「……はあ。なんだ。圭吾さん達と一緒に『赤紙』をくらったんじゃなかったのか。てっきりお化け退治に来てたのかと」
「あ、そうです。それ、ときわさんのお仕事です。でも海に出た大量の異端退治は昨日のうちに終わりました。早々に終わったのでときわさんと『海で遊びましょう!』って誘われまして……圭吾さんが協力してくれて。あ、このことはそちらの偉い人には内緒で! お願いします! ときわさん、とっても楽しんでいたので! 怒らないであげてください……」

 海で遊びましょう。
 あんなものやこんなものを食べましょう。
 夕食の後はこうして遊びましょう。
 きっとそうした方が気分も明るくなります……明日には帰るんだから今を楽しまないと!
 ――ときわという少年が、とっても聡いことは知っている。なんせあの狭山の申し子だ。
 しかし、これは思いっきり俺の幻聴なんだが、ときわのそんな声がした。

「あー。なんというか、その」

 ときわは良い性格をしている。圭吾さんもまったく付き合いが良い。『仕事はしなくていいから仕事用に貰った金で遊んでこい』だなんて、真実を『本部』が知ったらどうなることか。
 ……あんな世界でも楽しんで生きている連中が居る……。それを思い知らされる一幕だった。

「楽しく海で遊んでたのはいい。けどよ」
「……は、はい?」
「何の発作だか知らないし、連れがどれだけ落ち着いたかも知らない。でも、普通だったら問題を起こした奴は後ろめたく思ってる。無理に何かをさせようとか、どんなに頑張ったって出来ないもんだ。またぶり返すかもしれない、今日は大人しく薬でも飲ませて寝かせてやるのもいいんじゃないか」

 俺は普段、そうしているぞ。そう付け加えると、明佳は深刻そうな顔をした。衝撃を受けて落ち込んだように。
 こいつ、表情がころころ変わる奴だな。感情豊かでいいな……そういうところも新座に似ている。
 感服していると、いきなりキッと俺のことを睨んできた。思いがけない表情に驚いてしまう。

「こんな機会、無かったんです! アクセンくんはずっと、外に出るのも怖がって、光だって……人の目だって慣れてきたところなんです! ほんの数時間前まで少しずつでも……笑ってくれるようになったんです! たまにですけど、やっと……やっとオレに笑ってくれるようになって! 笑顔を、見せてくれるようになったんです……せっかく色んな物がある場所に来たんだから、少しでも楽しんだ方がいいじゃないですか……!?」
「……あのさ。俺はお前もアクセンって奴のことも全然知らないからそんなにヒートアップされても困るんだが」
「す、すいませんっ!」



 ――1004年12月1日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /6

 私には、救えない。

 また一人、命が旅立つ。苦しみ続けた肉体は極限まで痩せこけ、見るも無残な姿へと変貌していく。
 年相応に美しかった少女の肌は土色。痒みに耐えられず肌を掻いた爪は赤黒く濁っていた。
 少女だけではない。数分前に亡くなった少年も男も、老婆も赤ん坊ですら苦痛を顔に貼りつけ逝く。
 腹が痛いと苦しむ声も、熱くて気持ち悪いと呻く声も、助けてくれと唸る声も、皆聞き逃さなかった。
 ここは苦痛という苦痛が満ちた世界。戦場だ。大の大人ですら泣き喚く。もう悲鳴を上げずに死を待つ者もいた。
 そして私は、最後まで縋ってくる少女の手を離せずにいる。

「どうして娘を救って下さらなかったのですか」

 旅立つ娘の母親が、私の背に言葉の凶器を突き立てていた。
 看取る母親も生気が無い。病に冒されていないが死を間近に感じていた彼女も、娘達と同じ匂いがした。

「お医者様なら救ってくれるのではなかったのですか。皆を助けてくれるのではなかったのですか。どうして治してくれなかったのですか。どうして死なせてしまったのですか」

 娘を、息子を、女を、男を、大勢を、人間を、助けてくれなかったのですか。
 どうして。

 口がきける者達は惨状を綴る。悲鳴を上げる体力を失った者達は、恨みの目を向けて死ぬ。
 死を間近にした患者達の手を握ってきた。声を上げられなくなった者達の嘆きを受けとめ、無念を引き受けてきた。
 全て、私の自己満足。
 何も出来ない、誰も救えない私が、どんな叱責にも受けるから、どうか救えなかったことを許してほしいと始めた……彼らの悲痛な『声』を聴くために始めた、自己満足。
 彼女の母だけでなく、多くの者達の『声』を聞いてきた。
 私の敏感な耳で、全ての悲鳴を受けとめていく。

 ――私は、人を救う手段を持つ者だ。
 だというのに、どうして救ってくれないのですか。
 ――私は、傷を癒す異能力者だ。
 どうして皆を癒してはくれなかったのですか。
 ――私は、貴方達を守るためにこの地に派遣された。
 どうして死なせてしまったのですか。
 ――私は、私は……確かに大勢を救った。
 どうしてみんなを救ってくれなかったのですか。
 ――私は、貴方達を助けるために来たんだ。
 どうして誰も助けられないのですか。
 ――私は、病の根絶を。
 どうして貴方は何も出来ずにいるのですか。
 ――私は。
 どうして貴方は……。

 貴方を待っていたのに。
 救ってくれる貴方を心待ちにしていたのに。
 助けてほしいと何度も叫んでいたのに。
 どうしてみんな殺してしまったのですか。

 ――――――私は、生かせない。

 貧しい村から、生者の音がしなくなる。
 どの家屋も嵐が来れば吹き飛んでしまうほど脆い。住まう村人達も、枯れ木の枝のように細い手足を投げ出して倒れている。
 呼吸はしていた。心臓も動いていた。だが生きてはいない。身動きのできない患者達は、治る見込みがないまま横たわっている。
 この村だけが特別貧しくて地獄なのではなかった。この一帯は全て闇気に包まれていて、何も対策を取れずに大勢が蝕まれ一斉に死んでいった。
 だから白羽の矢が立った。薬の知識もあり、他者に生命力を分け与える秘術を受け継ぎ、誰よりも傷を癒してきた私ならと。大勢が私に期待し、私も大勢の為に東の国へと下った。
 けれど、それが何だった? 何が出来たと言える?
 何人かの苦しみを止めることはできても、何百人、何千人もの涙を止めることはできない。未知の症状、原因不明の病態、何度治療を終えてもまた苦しみ出す村人達は消えることはない。どんなに財を全て投げ出しても、救い切れない。私が手を差し伸べる前に、病魔は人々を攫っていく。
 どんなにこの身が削れようとも、穢れようとも、捧げようとも……私には、救えない。

 ――とてもとても遠い記憶。死に溢れた世界の出来事だった。

 昔から航先生に「慧は、社会科全般が得意じゃないね」と成績を笑われてしまうぐらい、僕は……歴史が得意じゃない。
 だから今見ている夢はどこだ? 江戸時代? 戦国時代? それよりずっと前……平安時代? とにかく、『ここ』が西暦二千年の平成でないことだけは理解できる。
 教科書やドキュメンタリー番組で見た一般庶民の貧しい暮らしが、僕の目の前で繰り広げられていた。
 これはタイムスリップしたんじゃない。この感覚は、夢だ。
 以前、契約者である航先生の過去を通して『視た』ことがある。あれと同じ感覚だ。
 役者でもないのに舞台に上がり込んだような疎外感を抱きながら……僕は、ある男の独白を目にしていた。
 なんで僕はこの世界を視ているんだ? 僕……剣菱 慧に関わりのある人物がいるとでも? 航先生のように契約した人がこの世界にいると?
 そんなまさか。数百年、もしかしたら千年違うかもしれない時代の出来事だ。僕の関係者がいる訳がない。

 いるとしたら、『僕のご先祖様』。
 千年前のご先祖様の記憶を体験してしまっている。

 理解はできないけど、納得はできる。
 だってあの顔、どことなく燈雅様……いや、若い頃の光緑様……いやいや、まだ皺が少なかった頃の和光様……つまりは、歴代当主様達によく似ている。
 白くて厚い装束を身に纏い、ボロ切れを巻く村人達と比べるまでもなく高貴な人物だと判る雰囲気。汚れてはいるけど凛々しく洗練された立ち振る舞い。大昔の学べる人は貴族や官僚ぐらいだ。つまり医者ってだけで彼がどれほどの人物かは把握できる。
 その上流階級を思わせる姿が、歴史に残っている開祖を連想させた。

 千年前の平安時代。煌びやかな絵巻物の世界とは程遠い、都から遠いのかみすぼらしい山中の村々。
 貴族の華やかな暮らしとは比べ物にならないほど侘しく、食べる物や体力や気力を失って疫病でやせ細っていく人々。
 医師(くすし)の男は、病に苦しむ人々を救おうと手を差し伸ばしていた。
 しかしこの時代では不可能な問題に突き当たり、どれほど手を尽くしても救えず、大いに嘆いている。
 その悲嘆は男自身や村人だけじゃない。男の配下らしい役人達が、彼に「一旦身を引こう」「京に帰るべきだ」「ここに居ても自分達が病に冒される」と宣う。
 皆、男と共に疫病の流行る村を守るために尽力していた。だが、諦め始めていた。
 もう誰も救えない。誰も止められず、全てが死に絶え、闇が拡大していくしかないのだと諦念していた。
 冷静な判断が出来る知識人達は「毒に犯された地獄を打破できない」と賢明な判断を下す。戦術的撤退だ。僕には決してその判断が悪とは思えない。
 けれど……男は、配下達の声を聞き入れようとはしなかった。
 大勢の声を耳にし、手を取り、死を受け入れられなかった男は聞く耳をもたない。

「私は、救わなければならない」

 ……馬鹿な人だ、という声が、僕には聞こえた。
 本当に馬鹿にしたものではない。口走った人すらあまり辛くて涙してしまうような、愛に溢れた罵倒。
 優秀な者達は涙を呑みながら諦め、生きるために村を離れる。
 でも男はそれでも諦めず、屍のような村人達の治療を続けた。

『おぬしは大層働いた。見事だ。大勢を救えたのだから。誰もが見捨てたこの地において神として崇められておるぞ』

 ある嗄れた声が、一人戦う医師を讃えた。
 現に彼は何人もの村人を救っている。彼の一族が伝えてきた医道や薬学、生命力を促す秘術は評価されていた。
 たとえその倍、死なせていても。

『だからもう、諦めても良いのではないか。救える者は救った。救えぬ者は救えない。おぬしが悪いのではない、死んだ者はそのような運命だったというだけ。『仕方ない』んじゃ。だから』

 だけど、男は首を振る。
 嫌だ、諦めたくない、諦めてはならない、仕方ないで片付けてはいけないと首を振るう。
 知恵が足りない。足りなかったから死なせてしまったんだ。
 救える手段があった筈だ。私に知識が無かったから死なせてしまったんだ。だって、手に届いた人達は救えた。私が診た者達は生きている。感謝して、笑って、生きていてくれる。手が届かなかったから、私の力が足りなかったから、救えなかったんだ。

 …………馬鹿だ、本当に馬鹿だ。
 たった数分、この人の歩みを覗いただけなのに確信してしまった。
 この……少し頭の良かった男は、本気で自分が全員を、何千何万もの人間を救うと、救わなきゃ気が済まないと思っていたのだから。
 心の底から全人類の手を取り、生きてもらおうと考えていたなんてそんな聖人のような人がいたなんて。
 愛ある罵倒で彼を慰める人が後を絶たない。
 こんなの聖人というより……狂人だ。
 私財を叩き、寝る間も惜しみ、自分の体を顧みず他人を癒そうとする異常者。そう思うしかなかった。

 どうして私の子供は救ってくれなかったのですか。
 永遠に繰り返す問答。
 男が全て受け入れようとする声も、またループする。
 反響する悲憤。愛ある嘲罵。謝罪。悪口雑言。何故という苦悩。

 ――救えず苦しむ男の名は、川越(かわごえ)という。
 たった一人の人間のくせに全知全能を求めた、傲慢な心の持ち主だった。




END

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