■ 035 / 「服従」



 ――1969年3月27日

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 /1

 ――僕は今、航先生の夢の中にいる。

 『契約』をしている者と魂が同調するケースが少なからずあるという報告を読んだことがあった。肉体が休止しているとき(つまりは寝ているとき)魂が刻んだその人の歴史を、思い出を、過去を自分も体験するかのような幻を見る(夢を見るのと同じ感覚になる)という話だった。
 この世界での僕は幽霊……というより透明人間だ。
 先生の過去の世界に紛れ込んで、誰にも見つからず干渉もできず、映画をリアルな感覚で眺めるだけ。先生に声を掛けることも、腕を引くこともかなわない。夜須庭 航という男が刻んだ魂の記憶を傍観するだけの時間が始まる。

 実を言うと、この瞬間をとても心待ちにしていた。
 『契約』したマスターとサーヴァントは魂で繋がり合い、肉を越えた接触の末に一つとなると言われている。僕が先生の過去と交じりあえたということは、ついに僕は先生と一体化できたということだ。先生とどこまでもいっしょにいたい僕としては待ちに待った瞬間だった。
 とはいえ、実のことを言うと『それ以外には興味は無い』。先生の夢を見ること自体が目標であり、夢の内容には興味が無かった。
 だって既に僕は感応力で先生のことを『知ってる』。彼がどんな人生を歩み、どんな研究をしてきたか全部『知ってる』。答えを全部見ていた僕は、先生の知らないものは無いと言える。
 だから先生の夢の中にいることだけで満足だった。悲しい記憶など、切ない思い出など、わざわざ自分の胸が苦しくなるようなことは……出来れば進んでやりたくなかった。

 それでも、僕の意思に反して夢は続く。
 航という人物にとって最も大切な日を、僕は体験させられることになってしまった。

 ――十七歳の彼は、勉強熱心な若者だ。
 体は逞しいとも言えず、特出して顔も良いとは言えない。ヒビの入った眼鏡を輪ゴムで補強して使っているような、典型的な苦学生を描いた男。遊びも知らない、ひたすら工房で魔道具をあさり、自室で書物を読み耽る毎日を送る少年だ。
 世間が数々のニュースを残していたとしても山奥の寺の中でひっそりと自分の知恵だけを高めている彼は、まさしく航先生だった。

 そんな十七歳の少年は、自分の部屋として宛がわれた和室四点五畳の研究部屋で実母の訃報を知った。
 母が収容されていた刑務所から手紙が届いたんだ。若い頃からマイペースで研究に没頭する癖があった彼は、手紙が届いていたことにも気付かず、何気なく部屋の掃除をしているときにそのことを知った。
 遺体と遺品引き取りの日時は既に過ぎていた。
 翌日、研究棟の班長を務めていた浅黄に頭を下げ、市内を走る路線バス(まだこの頃は車よりも路線バスを足にしていたらしい)で遠い刑務所を訪れた。
 かといって実母に会える訳でもなく。母のぬくもりを味わえることもなく。母を見ていたという警備員と軽い世間話を交わし、手ぶらで寺に戻ることになる。
 エンジン音が独特な路線バスに乗って、ぼんやりと自分の膝を見つめている航は……魂が抜けているという表現がピッタリだった。
 たとえ刑務所に入るような母親でも、自分を産んでくれたのには変わりない。研究に精を出してはいるが家族の情を失ってなかった彼は、ようやく母が亡くなったことを実感し、肩を落としていた。
 ……これが先生にとって大きな出来事だったんだろう。彼の転換期だったのかもしれない。だからこの夢を見ているのか。
 透明人間の僕は無言で涙を流す彼の肩に、首を預ける。決して僕を支えてはくれない彼は、着けっぱなしの眼鏡に大量の涙を溜めて、バスに揺られていた。

 二十年前に東京大空襲で家族を失った先生の母は、かつて疎開先として多くの子供や女を保護していた仏田寺に住んでいた。
 たとえ海外の国と戦争をしていても、うちのお寺は『千年の願い』を成就させるために我関せずを貫いていたらしいが、それでも国は乱れに乱れていた。
 観念した当時の住職が表の顔として孤児の受け皿になっていたらしい。
 その孤児の一人だった航の母は、能力者や血の契約とはまったく関係無く仏田の男と出会って子を成した。
 それが終戦を迎えてまだ七年目。しかし七年目、急速に国は復興し、多くの者が外に出て行く中……能力者でも優秀な研究者でもない一般人な女を受け入れる気は無かった父は、彼女を捨てた。
 男にとって「女を捨てた」という気も無かっただろう。後継者を産む母胎にはならないし、寺に貢献する価値も見いだせない女を囲うつもりになれなかっただけ。
 だけど女にとっては子を孕んだというのに「仏田に必要無いから」「もう他の者も外に戻ったから」という理由で追い出された。
 住む場所も家族を焼かれ、かろうじて逃げ込んだ心休まる場所からも追い出された女は……産まれた男子を抱えて生きる羽目になった。

 一人で子供を抱えて生きるのが、彼女には難しかった。
 始めのうちは優しくも逞しい母として息子を抱いていた。だが、航が大きくなるにつれて負担もまた増えていく。国全体が痩せ細っていたが、特にこの一家は運が無かったらしい。その後も良い男性に恵まれなかったか、金の回りにも見放され、ついに母親は気を病んでいった。
 ただでさえ人との付き合いが浅かった彼女は、次第に「いないものがいる」と言い出し、「見えないものが見える」と叫ぶようになった。
 彼女を相手にする者は減り、何が起きているかもわからず正気を失っていく母を止めることもできない少年は宥める手段すら知らず……ついに彼女は、『同じ軒下の隣人を殺傷する』事件を起こしてしまう。
 狂気の母は檻の中に入れられた。
 引き取り手の無い航は、自分で父親を探し出し、その父が居る寺が住み込みで働ける場所だと知って門を叩いた。
 魔術結社の一員になると名乗り出たのではない。ただ体に薄くでも刻印があったことからただの下男として働くのではなく、仏田一族として『契約』を結んではどうかと誘われた。
 「それで飯が食える」のならと快諾した航は、猛勉強をした。
 十六歳を過ぎてからの魔術のいろはだったが、一年で習得したとは思えないと誰からも絶賛されるほどの術者になっていた。

 どうしてそんなにやる気が出たかって、『怨霊』という存在を知った航は……母親が苦しんでいた「いないものがいる」が異端のせいだったのではないかと思い始めたからだ。
 もしかしたら母は化け物によって苦しめられていたのでは? 彼女は狂気に陥れられて、殺人を犯してしまったのでは……?
 その事実を母に納得できる形で告げてあげられれば、彼女の不運を打ち払うことができるのでは?
 そう思って異端や異能、魔術について学んでいた。

 全ては母親がキッカケで入門し、母親の為にと思って研究に没頭した。
 研究成果を上げたり、退魔で異端を祓えば得られる金で、今以上に母を救えるかもしれない。
 どうにかして自分が立て直すことができれば母を助けられる! そうすれば……一人で自分を守ってくれていた優しい母が、かつてのように頭を優しく撫でてくれるかも!
 航は全力を費やした。
 だが母の衰弱死によって全ての計画が崩れ去る。
 バスの中で音も無く流している涙は、彼の悔しさを全て物語っていた。

 仏田寺のある陵珊の山に一番近いバスを降りる頃には、涙は止まっていた。その代わり真っ赤な目で瞼は腫れ、体中の水分は放出されたせいか歩みは遅い。
 バス停から歩くも、石段はおろか石段まで辿り着く坂道ですら辿り着けないような足取りで、ふらふらと家路につこうとする。
 これではいけない。そう思ったのか、自分に檄を飛ばそうと頭を大きく振る。すると、ヒビが入っても使い続けた眼鏡がびょーんと吹っ飛んでいった。
 ネジも緩まって立ち上がるだけで鼻から外れてしまうような眼鏡だから当然だ。そして近眼な少年が、眼鏡をすぐに探し当てられず慌てるしかないのも、当然。
 すぐに僕が地面に落ちた眼鏡を拾ってあげたかったけど、透明人間は物を持つことすらできない。
 「ここです!」と声を掛けても過去の彼には届かない。疲れた体で困ったようにきょろきょろと眼鏡を探す若きし日の先生。
 そんな判りやすい『落とし物を探している少年』を見せつけていれば、通りかかった誰かが助けてくれるもの。
 けれどここは山奥に入ろうとしている田舎道。そう簡単に人なんて通りかかることもない。

「……何やってんだ、グズ。足元を見ろよ」

 だというのに、『彼』は現れた。

 航は言われた通りに足元を見る。だが慌てた拍子で眼鏡を蹴ってしまい、余計遠くに飛ばしてしまった。「ああっ……」と悲鳴を上げながら航が膝をつく。
 同い年ほどの少年は、「……しかたねーな」と小さくぼやくと飛ばされた不運な眼鏡を拾い上げ、航の掌の上に置いてくれた。
 この時代の少年なら普通の洋服姿。低くもなく高くもない背に、どこにでもいる黒髪黒眼の普通の少年。
 少しだけ怖い印象を抱かせるけど、涙目の航に声を掛けるぐらいには優しい人だった。
 「蹴ったからヒビ入っちまったじゃねーか」と、元からついているとは思わないということは、この彼は……ここで初めて航と出会った人ということになる。
 眼鏡を掛けた航は、泣き腫らした目で、「ふう、助かったよ、ありがとう!」と大ぶりのお辞儀をした。するとまた眼鏡が吹き飛んだ。少年は「……バッカ」と悪態つきながらも、フッと静かに笑いながらその人はまた航に眼鏡を握らせてくれる。

 航先生が、魂に刻んだ過去。
 些細なことではない……とても大事だと思っている、自分の過去。
 実母が死んだという悲しみがそれに該当すると思っていた。けど、それだけじゃない。
 夢の中にいる少年は、とても光り輝くほど鮮明な姿をしている。
 きっとそれが……先生にとってかけがえのない、大事すぎる思い出ということなんだろう。

 ――この「輝」と名乗った少年が、先生が誰よりも大事にしている人間だということを思い知らされてしまった。

 彼は、当時の当主・和光様の弟・照行様の知り合いだと話した。
 正確には輝の母が照行様の知り合いであり、「照行おじさん」と慕っているという。
 知り合いである照行おじさんが住んでいるという寺に一度行ってみたかった、世の中は春休みという期間に入っていて、母も慌ただしいから一人で田舎を旅していたんだと話した。態度はぶっきらぼう。淡々と喋り、口が悪く、次から次へと汚く先生を罵るような言葉を放つ彼は、あんまり好ましい人物とは言えなかった。

 だけど当の先生はそう思わない。誰にでも優しく応対しこの年から人格者だ。
 どんなに暴言を吐かれようが「僕は仏田寺に住み込みで働いているんだ」「一緒に行こう」と穏やかな笑顔で歩いている。
 性格は違う二人だったが、人見知りなどせずすぐに打ち解けていた。寺に続く長い石段を見てゲッソリする輝に笑顔で激励しつつ腕を引き、上に登る頃には何故か石段に慣れている筈の航の方が、輝に腕を引かれていた。
 寺の入口である山門に到着していた頃にはお互いの人柄を判りきったかのように、まるで初対面だとは思えぬ掛け合いを見ることができるぐらいだった。
 結社で研究をする魔術師としてではなく、寺に住み込みで働く使用人として自己紹介した航は、すぐさま照行様を呼ぶ。
 駆けつけた照行様は少年の来訪を快く迎え……ることはなかった。
 始めは怒り狂ったように声を上げ、だが航がいたことを知るとまるで取り繕うかのように「遠い所までよく来た」と無難に声を掛ける。焦っているようにも見えた。
 輝は輝で、深刻な顔つきで照行様を見つめていた。先ほどまで軽口で先生を苛めていた人ではなく、覚悟を決めたような顔をしている。

「輝。それほど、会いたかったのか?」
「……ええ。母を捨てた男を一目見ることがそんなに悪いことですか、照行おじさん」
「悪いことだから、お前達は引き離されたんだ。馬鹿者。儂にそんなことを言わせるな。会いたいからって直接やって来る奴がいるか。まったく驚かされる。……お前が『教会』の一員として戦っていると聞いたとき、お前も裏の世界から逃れられんのかと驚きすぎて涙が出たぐらいなんだぞ。また儂を泣かせる気か」
「……泣いてくれたんですか、おじさん。……『教会』が能力の使い方を教えてくれなかったら、俺は怨霊に食い殺されてましたよ。放置したツケってやつじゃないですか。魔術結社の事情も判りますが、秘密にしすぎて死にかけたなんて笑えませんね?」
「…………」
「身を守る分にも、家計の足しにするにも、退魔組織の狩人は良い身分です。……オレは『異端狩り』って仕事、わりと満足してますよ」
「お前……。本当のところ、儂をいびりに来たのが目的ではないのか?」
「……さあ? なに、二日経ったら帰ります。……二、三日も外泊したら母が心配しますし」
「おい。まさか橙子(とうこ)姉さんに何も言わず来たのか、馬鹿者め!」

 深い事情を察した航はすぐにその場を立ち去ろうとした。が、照行様に呼び留められてしまう。
 『本部』の一員が輝を指差し「こいつは儂の旧友の息子でな。暫くお前の部屋で匿ってやってはくれんか」と頭まで下げてきた。
 先生は追及までしなかった。照行様の客であるなら、客人として招待し客室を用意させればいい。
 そうではなく、「匿え」なんて。堂々と寺に入れられない理由があるのか。けれどそこまで秘密裏に事を進めろということでもなく、「何か問われたなら、儂の名を出すように」に留めた。
 先ほどの会話を聞く限り、あまり声を大きくはできないが入り込んだ事情があるのは察しが付く。
 それに退魔組織『教会』の一員……ということは、今で言うエージェントって立場をしているらしい。
 能力者であり、魔術結社としての仏田寺の姿も知っている。なら先生の部屋に入れてもさほど問題は無い……と踏んだようだ。

 この時代は2005年の今ほど厳戒な秘密主義をしていなかったみたいで、部外者を屋敷に入れてはならないという規約も無いらしい。
 そういった規則が整ったのは狭山様が『本部』として君臨なさってからだ。……先生がまだ成人にもなっていない今、狭山様もまだ十代の若者。大らかな時代があったんだ。

 たった四畳半の和室に少年二人で座る姿は、とても狭苦しかった。
 部屋の大半は一番近い研究に使われる書物で覆われている。客人の輝は文字通り足の踏み場の無い部屋にどうしていいか判らない顔をしている。
 座る場所は、敷きっぱなしの布団の上だけだった。なんとかしてスペースを明ける航だったが、それでも手を伸ばせば届く距離で話をするのには変わりなかった。

「はぁ。ねぇ、輝。僕、事情は聞いていいのかな?」
「……この仏田寺に父親がいる。母親もかつてここに住んでいたけど、追い出された。照行おじさんと母さんは仲が良かったからよく遊びに来てくれた。……で、まだ父親が死んでないっていうからオレは会いに来たんだ」
「はぁ」
「母さんは未だに父親のことを思い出して泣いてる。オレには悲しんでる素振りを見せないようにしてるけど……まだ生きてるなら文句ぐらい言いに来たっていいだろ?」

 名前も知らないしどんな人だか判らない。母さんから訊けなかったし、その母さんに怒られる前に帰る、と相変わらず淡々と語る。
 その境遇、航先生と同じだった。照行様という上の人間が会いに来てくれたということは先生には無かったけど、かつて寺の男と出会って、追い出されて母一人子一人で生きなければならなかった。
 まだ輝の母は健在で、元気に外の世界で暮らしている。心を病んでついには亡くなってしまった航のお母さんとは違った。それにまだ父親が生きていてこの寺に滞在しているというのも、航先生とは大違いだった。
 というのも、航は父が居ると聞いてやって来た仏田寺にやって来たが、出会って半年後に亡くなっている。
 魔術の実験の失敗。暴発による事故によって。
 異能を研究する結社としてその死はあまりに自然で、表沙汰にもならず「寝煙草の火事で死んだ」とお役所には届けてある。それに父親と言っても父親らしいことはせず、魔術のことなんて何もしらない不出来な弟子として扱っていたに過ぎなかった。
 母の死を共に分かち合う人なんていない。亡くなった事実を受け留めてまだ数時間としか経っていない航は、自分と似た境遇である輝という少年に親近感を抱いていく。
 自分は受け入れてくれる人を失ってしまった。でもまだ輝には受け入れてくれる母も父も生きている。同じ境遇だが彼には未来がある。
 羨ましいという想いと、彼を純粋に応援したいという好意が合い混ぜに、「会えるといいね、うん、絶対会えるよ」と輝の手を握っていた。

 だけど、輝の父親を探すことなどできなかった。
 まず名前も判らない。輝の母は悲しそうな顔をして固く口を閉ざし、ならば「父は生きている」と明言した照行様に訊けばと言っても、教えてくれなかったという。
 顔を似ている男を探せばいいかと言えばそうとも限らない。何せここに居る男達は薄くても血の繋がりのある者が大半だった。航は子供の頃から事あるごとに母から父の名前を聞いていたのですぐに出会えたが、似たような顔の男を探そうにも殆どの男が似ているし、そうでないとも言える。
 仏田寺には本家の人間、居候をしている魔術師や使用人含め百人近い人間が境内に逗留していた。まだ仏田寺に住み始めて一年しか経っていない航も百人を全て把握していない。そして、客人として招かれていない輝は堂々と人探しを境内でできなかった。
 やれることと言ったら、あくまで航の部屋を本拠地にこそこそと通り過ぎていく男達の顔を確認するしかない。そう航はおそるおそる提案する。……それで一度も会ったことない、写真の顔すら見たことがない実父が判るのかと言ったら別だが。

「輝ってさ、無計画で来たでしょ? はぁ、実は、考えるのってあんまり得意じゃなかったり?」

 輝という男はクールに見えるが実は猪突猛進タイプらしい。
 考えるより先に手が出る性格である彼は、「……うるせーよ……」と顔を赤くした。そんなことをしていればすぐに一晩が過ぎ、お母さんに怒られてしまうタイムリミットになってしまう。だけど、「父に会おう」と決心した彼は何も考えなくても動き始める行動力に長けていた。
 気恥ずかしくなった輝はスッと立ち上がり、廊下をスタスタと歩き出していく。どこへ行くという航の声に対し、

「……そもそもなんでこそこそ探らなきゃいけないんだよ? お前の部屋を使えと言われても、そこを中心にする必要なんて無いだろ。片っ端から声を掛けていけばいつかなんとかなる」
「そ、そんなぁ! それはやめときなよ、輝!」

 さっきの提案も、ここが一応門外不出の研究を行なっている結社であることも、客人として招かれていない自分の身も何の考慮もいれずに言いきってしまう。
 こんなにも考え無しの人がいるのか。別次元の存在であり透明人間の僕は無力だけど、もし今の仏田だったら自殺行為の行動に思わず焦ってしまう。ここが航先生の過去であるにも関わらず、堂々と廊下を歩き始める輝の髪を引っ掴んで止めようとしてしまった。
 もちろん髪の毛を掴むことなんてできない。すっと手が頭を通り抜けていく。
 そのとき、『知った』。
 彼の髪が――いや、『全身が、信じられない魔力を帯びている』ことを。

 その後、輝がどんなことをしでかしたかまでは全部『見る』ことは出来なかった。

 あくまで僕は先生の過去を見ている。だから先生の知らない世界までは体感することはできない。
 我が物顔で廊下を突き進む輝を止めようとする航だったが、仲間の研究者に声を掛けられて応対をしているうちに輝は姿を消していた。
 本業である研究者としての仕事をしなくてはならなくなった航は、「輝は大丈夫だろうか」という浮ついた心のまま、地下工房で研究に戻ることになった。
 その日の先生は……魔導生命体について研究していたらしい。大きなカプセルの中に入れられた生き物のデータを取っては、思案し、新たに調整をしては数値も元に議論するという……過去を覗き見ても僕にはちんぷんかんぷんな内容だった。
 三十年前の施設はとても拙い装置を使っていて、これでも当時としては最新鋭の機材を使っているようだったけど、手間が今よりも何十倍もかかるような研究風景だった。そうか、まだパソコンが無い時代なんだと……薄まっていく意識の中、レトロな光景に感動していた。

 どうして意識が薄まっていくって、ここで夢が終わるから……という訳じゃない。
 この記憶は、彼にとってどうでもいいものだった。忘れてもいいような過去だったから、「研究をしていた」ということしか記録していないのだろう。
 だけど、夜になって航が疲れ果てて自室に戻った先。自分の布団の上で……輝が普通に寝転がっているのを見た瞬間、視界が鮮明に晴れていく。
 まるで昨日の記憶のような鮮明さ。
 それだけ先生にとって大事な記憶なんだということを、思い知らされた。

 ――本家屋敷は夜の十時に消灯時間が訪れる。屋敷中の電気が消されるが、まだ半人前の自覚がある航先生は電気スタンドを頼りに書物を読んでいた。
 一刻も早く知識を得たい。躓いている謎を解き明かしたい。その一心で日付が変わるまでの二時間を費やそうとする。
 だけど今日は朝から刑務所に行ってきた。普段の何倍も歩いたし、泣き腫らして体力も削りきっている。
 なかなか身に入らず、机の前で何度も伸びをする。一足先に(部屋に一つしかない)布団を使っていた輝が気怠そうに「眠いなら寝ろよ」と声を掛けた。

「ううぅ。そうだね。輝は、お父さんを見つけられたの?」
「……見つからねえ。でも、弟っぽいのは発見できた」
「えっ、そ、それは凄いね? よく判ったね?」

 まさかの返答に、上ずった声でたまげる先生。
 よく無作為に運任せで探す気になったし、それで探せてしまうものだ。幸運の持ち主というか、行動力のおかげというべきか。航が「えっと、誰が弟だったのかな?」と尋ねたが、「……オレと出来が違い過ぎるから、教えてやらない」と突っぱねる。
 悪い顔をしていなかった。たとえ目的の父親に会えなかったとしても、弟との出会いは良かったんだ……と思える。
 輝は上機嫌だった。だから布団に寝転がりながらも満足げに笑っていた。全身疲れて勉強にも力が入らない先生だったけど、そんな薄く笑みを浮かべている輝を見ていたら気持ちも和やかなものになったらしい。ランプを消して、眼鏡を外し、狭い布団の中へごろんと横になった。
 四畳半の半分を占める男の布団。それを成人近い少年二人で使う。
 当然二人とも窮屈そうだ。でも、

「はぁ。弟くんはさ、元気だった?」
「……ああ、元気にここで暮らしているみたいだ」
「良かったね」
「……ああ、良かったよ」

 静かに語り合う彼らは、息苦しさも何も感じず軽やかで優しい時間を過ごしていた。
 あっさり「出来れば父親をぶん殴りたいが、無茶しないうちに明日には帰る」とさえ言ってしまうほど、輝の声は明るかった。

 母を置いて、父を求めて寺を訪れた輝は満足し、外に帰っていく。
 自分と境遇が似ていると思っていた航だった。しかしまったく違った様子で「明日には帰る」と言い出す輝。……先生は暗闇の中、表情を変えた。
 闇の中だから確かめることはできないけど、おそらく苦虫を噛み潰したような顔をしていると思う。

 前向きな理由で仏田寺を訪れ、晴れやかな気分で即日帰ると言う輝。
 身寄りをなくし、次々と両親に先立たれ、どこにも行けないから研究を励んで成果を出して生きていくしかない航。
 たった一日の出会いと会話だけなのに、こうも彼の幸運と自分の運の無さを思い知らされていた。負の塊のような自分が情けなくて、輝のことが妬ましくて、思わず先生は、

「なんでだろうね、悔しいな」

 呟いてしまった。
 既に、涙声だった。一度引っ込んだ筈の涙を、暗闇の中で流す。鼻を啜る。暫しの無言が続いた。

 この僕がすぐにでもまだ半人前の先生の元に駆け寄って、抱き締めたい。慰めてあげたい。でも過去の世界だから出来ない。
 同じように悔しいなと思っていると……輝が、彼を慰め始めた。
 ここに居るのは、輝だけ。すぐ傍に涙声の少年が居る。となったら、彼が慰めるのは自然な流れだった。

 輝も航の境遇だって聞いていた。
 石段を上がるときに、「僕達似ているね」と切なくも笑い合えたことで近くに感じるようになったのだから。
 さすがに航は自身の複雑な事情は話さなかった。だけど、いきなり泣き出してしまえば、そもそもバス停で涙目で立っていたことを思い出せば「……何があったんだ?」と尋ねるのも、自然。

「ごめん、輝、君に言っても、何になるんだっていうのに」

 航は話す。自分の母が殺人事件を犯した気狂いになったこと、その母が衰弱死したこと、何か母の名残を引き取ることすらできなかった……その話をつらつらと並べていく。
 どうして先生がそんなに話してしまったかって言ったら多分、「明日去って行く人だ」と判っていたからだった。
 どんなにここで自分の境遇を話しても、輝が何をしてくれる訳ではない。期待はしない。今はただこうやって自分の不幸自慢をして、ぼろぼろと涙を流してスッキリして明日を迎えればいい。輝はとても良い人だと思うけど、友人以上の関係にはなれそうにない彼に、全てを吐き出していく。
 それだけで航の気持ちは晴れた。いつも以上に文節を切って、文脈が前後するような独白。無言で聞いてくれる人がいるから、

「なんでこうも人生って巧くできないんだろうね。まだ僕は成果の一つも上げていない。何も出来ないまま一年が経った。父さんを見返してやることも、母さんに感心させることすら出来ずに。もう一度やり直せるならもっと良い人生を歩めるのに」

 そう、盛大に愚痴を吐いていく。
 穏やかな先生とは思えない後ろ向きな言葉。
 まだ半人前の、悩める少年の姿だった。

 ……僕が知っている今の先生は、苦しんでいる少年を救えるほどの言葉を持つ人だ。
 たくさんのことを知っていて、研究自体をとても楽しそうに毎日している明るい男性。
 その人は、一から学ぶ魔術についていくのが必死で、成果が出せないことに焦り、自分を見つめてくれる人も居ない中で泣いてしまうような子供だった。
 僕と出会うのはこれから二十年も先の話。二十年も経てば、人は変わる。
 「人生をやり直したい」と涙を流している彼は、人生を自分の手で断ってしまうような子供に救いの手を差し出してくれる人になった。
 そのことを知っているのは、ここでは僕だけ。輝は知らないし、今まさに苦しんでいる航も知ることはできない。
 僕は透明人間で、ただ彼が少しずつ変わっていく姿を何もできず眺めることぐらいしかできなかった。

「…………死ぬなよ」

 眺めている中。
 唐突に、輝が暗闇の中に……端的な言葉を吐き出した。

「……死ぬなよ。……オマエ、今にも死んじまいそうな声してる。そんな思い詰めたような声……やめろよ。自殺とか考えるじゃねーぞ」
「うん、自殺は一瞬考えたよ。死んじゃいたいぐらい辛いなぁって思ったのも事実だったから」
「……馬鹿。別に、今すぐ成果を出さなくったって死ぬ訳じゃあないだろ。焦らなくたっていいだろ。なにも、そう、勉強して良いもんを出すことだけが人生ってもんじゃないんだから」

 そうして、見当違いな言葉を繰り出す。

「……人生は長いぞ。オマエ、オレと同じだっていうなら今年で十六か。……ん、もう誕生日を迎えた? じゃあ十七か。……たった十七じゃねーか。……お前の親父の半分も生きてねーだろ。そこで人生やり直したいとか、早すぎるだろ」
「早すぎる?」
「……十年前のことを考えてみろ。七歳のとき、今のオマエと同じ考えだったか。……違うだろ。七歳のときから人生巧くいかねーななんて思ってないだろ?」
「そりゃ、そうだけど」
「……じゃあ十年後、二十七歳の自分も変わってる。十年前もそうだったんだから、十年後もそうだ。今と全然違う価値観になっている……」
「…………」
「……人は変わる。十年後も変わってる。変わってる十年後のために……今で終わりだとか、最期にしちまおうなんて考えるなよ。……未来で待っているオマエの意思を潰されて、可哀想だろ。十年先のオマエに会えないなんて、悲しいことだろ……」

 おそらく輝にとって航がしている勉強は、『良い大学に行く受験勉強』と同じような感覚だと思っている。
 成果を出さなければ寺に居る理由が無いと言って処罰されることだって知らない。
 航という少年には身寄りが無くて、ここに居る権利を無くせば寝るところだって失うことすら把握できていない。
 それは、何もかも知らない別世界にいる輝としては最大限の慰めにも見える。けど……僕らには届かぬ声だった。

 だというのに、ある一言が胸に引っかかった。

 ――未来で待っているオマエが、可哀想だろ。

 今このときを苦しんでいる彼ではなく、今後の彼のことを考える。僕には無かった考えだった。
 そしてそれは、このときの航も同じことを考えたらしい。
 航が自分の不幸を話し始めた理由が、どんなに深い話をしても輝に何が出来る訳でもなく、『所詮明日には帰っていく人』だったからだ。
 これから付き添うような人にわざわざ陰鬱な話をしない。今後のお互いの為に自重する心が働く。
 だけどこの日、航が全てを曝け出したのは、『曝け出したとしても支障の無い相手だったから』に過ぎない。
 そんな翌日には別れを告げているような相手が、十年先を語る。
 この瞬間はただの通り道に過ぎないと言うかのように。

「……未来の自分はそうは思ってもいないかもしれない。過去の自分はそう思っていなかったのだから……。これからのために今の自分が人生を決めつけちゃいけない。だから、なんだ、航……死ぬなよ……ってことを言いたかったんだが……」

 凛とした声で航を慰めていた輝だったが、後先考えず着地点を決めずに話を始めたせいか次第に口ごもっていく。
 暗闇の中でばりばりと頭を掻く音を聞いた。最終的に、

「つまりだな、オマエは……考え方が暗い。かつ泣き方が気持ち悪い」

 と暴言へと変貌した。
 思わず先生と同じタイミングで「酷い!?」と返したくなるぐらい、投げやりな落とし方だった。

「……オマエ、頭良さそうなツラしてるんだから、もっと良いことを考えればいいのに……なんで『成果を一つも上げてない』なんて言い方をするんだ? ……『渾身の成果をまだ眠らせてる』んだろ?」
「はあ。それは物は言いようってやつだよ、輝」
「またそう暗い声で言う。……ムリヤリ前向きに変えてみたっていいだろ。中身が変わってなくたって、気持ち良い方がいい。視点を変えることは研究ってやつにおいて大事なもんなんじゃないのか……?」
「そうとは言うけど」
「……グチグチ言うぐらいだったら今やってる研究全部なんて破り捨てろよ。……そうだ、今すぐ生まれ変われ。死んで一からやり直せ。うん、いっそ死んでみろ」
「い、今さっきまで『死ぬなよ』とか『最期にするなんて言うなよ』って言ってた人とは思えぬ移り変わりをするね、君は!?」
「……本気で受け取るなよ、バーカ。やっぱりオマエ、暗い考えしかできない奴だな……」
「えええええ」

 凄く今更だけど、この人……頭、あんまり宜しくないのかもしれない。
 真剣に悩んでいる人に対して真剣に答えてくれるから、良い人ではある。けど考え無しだったり、その場のノリで生きているような。
 少なくとも、航先生にはない感性を持って自由に生きているということは確かだった。
 だから航先生の記憶の中で、いつまでも眩く残っているんだろう。

 たった一日の中で、先生はこの人のことが大好きになっていた。



 ――1969年3月27日

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 /2

 力を操るのは至難の業だ。たとえ異能を生まれ持っていたとしても、それを自分のものに出来るかは血に定められていない。
 武術の師である僧が振るう刀を避けきれなかった。
 右肩を抉る刃。道場の床を赤い血で汚してしまう。

 師は、オレが「観念した」と言うまで戦いをやめない。そういう約束だった。
 一言オレが諦めを口にすれば終わる。だが……もう十六歳にもなって師から一本も取れない今が悔しくて、負けを簡単に認めたくなかった。
 先に武術を磨いた狭山様は既に成果を上げている。オレもそれに続かなければならない。いや、どんな人であれどオレが追い越さなければならない。
 オレは、頂点になるために産み落とされたのだから。
 多くの同志が見守る中、オレは血塗られた右腕で刀を構え……。

「光緑っ! 無理をするな!」
「……っ……」

 けれど、松山がオレを心配する声がする。
 幼馴染の声で興奮した頭が少しだけ鎮まった。……傷付けられたのは、利き腕だ。こんな腕じゃ師の刀を受け留めることすらできない。握った武器を弾き飛ばされ、その隙にオレは終わるだろう。
 利き手が無くなったことすら気付かず突撃して、何になる。

「参りました」

 たとえ認めたくなくても、今は認めなければならないことを自覚しなくては。

 師は刀を下ろす。すぐさまオレを治療すべく数人が駆け寄ってくる。
 血に濡れた着物を剥がれながら、松山の「良かった、そんなに傷は深くない……」という言葉を聞きながら、不完全な自分の悔しさに唇を噛みしめた。
 このままではないけない。早く精進しなくては。でないと父の重責に耐えられないではないか。
 開いている傷口に悪態をつく。……そうしていると、血の匂いが漂う道場を、誰かが外から覗いていることに気付いた。



 ――1969年3月28日

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 /3

 まだこの時代の仏田は大らかだった。徹底した規律で人を縛り始めたのは、狭山様が本領発揮するこの一年後。境内に部外者が立ち入っていることを咎めても厳格に処罰することもない。
 入門して一年目の航も閉鎖的な結社の事情を把握しきれていなかったのもある。
 ――それだとしても、輝を連れて工房に行くのは悪いことなんじゃないだろうか。
 現代を生きる僕からすると恐ろしいことをしていた。

 消灯時間が過ぎた二十二時以降の出歩きは控えるように言われてはいる。だが、禁じられている訳ではない。たとえ日付が変わった二十五時でも工房に訪れたって、お叱りは受けても命の危険は無かった。
 まだ年若く怖いものを知らない航は、部外者である輝に自分の行なっている研究を話していた。それどころか、職場である工房に彼を招待している。
 あくまで航が担当している部署は重要すぎるものではないということと、輝が何も判っていないから情報を盗まれる恐れもないと踏んでのこととはいえ……真夜中にランプを持って徘徊する二人は、『悪人』とラベルを貼られてもおかしくない怪しさだった。

 研究棟の八番、『青藍』と名付けられたその部屋には、いくつかの等身大カプセルが並んでいた。
 灯りを点けることは憚れたのか、ランプの光だけで中に進んでいく二人。航は「僕はここで、魔導生命体の調整をしていてね」と少し声を弾ませて日常を語る。黙々と輝は耳を傾けながら、専門用語ばかり並んでいく話に「……判らん」と両断していく。
 でも「それでいい」と航は言う。さっきも話をしたら気が晴れたから。話したいから話させてくれ。そう言って、輝には判らない話をずっと続けていた。

 航に必要なものは、受け皿だった。
 母親は檻の中に行ってしまった。父親は自分を息子として扱わなかった。たった一年目の不出来な少年はまだ評価される身ではなく、兄弟や同じ志の味方がいない彼は胸に秘めたる想いを放出できずにいた。
 でも今は「どうせ明日には居なくなる」後先考えない涼しい顔の輝がいてくれる。輝自身も「……そんな自分を思う存分使えばいい」と承諾する。
 航は自分のわだかまりを発散するために輝を利用していた。

 効果はあった。……明らかに先生の視界が良くなっていた。
 夢の中の世界は相変わらず鮮明で、夜だというのにどこかキラキラしている。それは、この時間がとても楽しかったということだろう。
 航は自由に研究の話をする。一年間没頭した魔術の勉強も話していく。時折、聞くだけだった輝が「……それはどういう意味だ?」と尋ねてくることもあった。それには喜々として解説をし始め、思う存分ストレスを発散していく。
 とても微笑ましい光景でもあり、数十年後に大成している先生を知っている僕としては誇らしい時間でもあった。
 思案しながらも好き勝手に言葉を繋いでいる航の姿は、今の先生と変わりない。
 真面目に席に着き、楽しそうに知識を詰め込む人。自分の研究を子供のような笑顔で語り、「だから魔術は凄いんだ」「異能は素晴らしいんだ」と教えてくれる人。
 色んなことを知っていて、色んなことを教えてくれて、時に諭してくれる。
 無知な輝に知識を披露する航は、間違いなく……僕のマスターである夜須庭 航だった。

「……オマエ、なんだか学校の先生みたいだ。どうせなら先生になっちまえよ」

 僕と同じことを思った輝は、判りやすく解説をするハイテンションの航にボソリと呟く。
 言われてこそばゆいのか頬を掻いてみせる航。「先生になれたらいいね」なんて冗談を言うなんて、はにかむ彼の未来を知っている身としては笑わずにはいられない。

 そこで気付いた。
 この夢は、僕のマスターの記憶。『契約』をして霊魂の絆を繋いだおかげで共有した魂の記録。
 自分の記憶は自分しか知らない。輝が弟に出会ったと言っていたとしても、航は輝でないから輝の過去を認識できないように。
 でも僕は航という人物と一体化する契約を行なったから、航という魂を自分のものとして認識できるようになったんだ。
 この魂がどのようなもので構成されているかを知ることができた。おそらく先生も、僕の魂を知っている最中に違いない。

 それで何が気付いたかというと、この記憶は「先生が、『先生』という存在を初めて認識した重要な『世界のイベント』」だったのだろう。
 航という人間が、後に「先生」と呼ばれるものになるキッカケになった日がこのときだった。だから強烈に残っていて……こんなにも鮮明に刻まれていたんだ。

「……で、先生。オマエの失敗作ってどれだよ?」
「ううう、やっぱり見せなきゃいけないの? じゃあ、先生の自信作はこちらになります」
「自信作ならもっと自信ありげに言えよハゲ……」
「えっ、今のどこに禿成分があったのかな!?」

 ――母の死を自覚した。自殺を一瞬でも考えた。でもそれを止めてくれる人がいた。話をいっぱい聞いてくれて、「先生」にしてくれた。
 未熟な少年は、どんな茶化し合いであっても尊く思えていた。
 照れ臭そうに、自信なさげに……でも自分が懸命に励んでいた成果を、見せつける。

 暗い工房の片隅。静かに魔力を脈動させた魔法陣の上にある、人間大の水槽。
 今はランプの灯りしかない室内で、微かに点る魔法陣の青い光がその全体像を浮き上がらせている。
 大きなカプセルの中に、ヒトが眠っていた。

「……これは……?」

 神の再臨を求め続けた仏田という結社では、生命を生み出す研究は積極的に行なわれている。この結社としてはメジャーな題材であるホムンクルスやゴーレムなどを創る『人形生成』は、仏田にとって『炎を操る』並にスタンダードな研究内容でもある。
 それこそ千年前から一番食い潰されたジャンルだ。新しい発見は難しいが、先駆者が多いからサポートが多く初心者が取り組むにはもってこいだと……使い魔研究をしていた兄・瑞貴が語っていたのを思い出した。

 若き日の先生が日々励んでいた研究とは、『ホムンクルス生成』だった。
 輝は透明な殻に包まれた魔導生命体を眺める。彼もホムンクルスやゴーレムの存在は知っていたが、実際まじまじと見る機会は無かったらしい。
 航へ「……これ、動くのか?」と尋ねたとき、瞼を閉じていた中身が、目を開けた。
 揺らめく羊水越しに見る目は、碧色。
 瞼を開いてみせたけど、その瞳には何も映さない。
 一目で「感情が無い」と、「中身が無い」と判ってしまう宝石のような眼。
 金色の髪は短く大雑把に切られている。短髪だし胸が平坦なことから男性かと思ったが、性器は付いていない。造形も整っていたことから女性体にも思えるが、それにしては肩幅が大きい。羊水内で浮いているものもあるが、もしかしたら二人の背よりも高く、それがどちらの性別にもとれる。
 美しいホムンクルスだった。

「はぁ、そうだね、動くよ。でもそれも実は昨日まで。そいつは明日にはいなくなる」
「……いなくなる? 昨日まで?」
「うん。凄いやつが創れたんだけど、ちょっとね。はぁ、本当に凄いやつだったんだよ、それ。和光様の精と、『堕天した神』の卵を掛け合わせることに成功してさ。ふぅ、ホムンクルスの造り方ぐらいは輝も知っているだろ? ほら、あれ、一ヶ月半近く霊草と人間の血液と胎液とで腐敗させて四十週間フラスコの中で煮込んでってやつ」
「……普通そんなの聞いたことねーからな? それと……和光様っていうのは……?」
「このお寺で一番偉い人のことだよ。僕もお会いする機会は無いんだけど、とても凄い男性なんだ。なんせ『堕天した神』の末裔だからね。仏田家当主は、赤い髪と紫の眼という、『神の血族』であれば持つという『六色の光』を授かって産まれてくる。和光様はその血を色濃く受け継いだ最後の一人だと言われているけど」
「…………」
「ふう、つまりね。神の末裔の男性と、神の卵を合体させたんだよ。それはそれは凄いものが創れる、筈だったさ」

 じっとカプセルを見ていた航の顔は、口元は楽しげに笑っているものの、疲れた色の長い溜息を吐く。
 凄い物を創れる目測ではあった。だが今までに何度も「成果が無い」と話をしている。そういうことだ。失敗に終わっているから彼はひどく落ち込んでいるんだった。
 精密に創られた人間が眠る羊水槽は、二人が前にしている隣にも同じようなカプセルがある。
 いくつもいくつも水槽が並んではいるが、二人の目の前にある物以外は全て空っぽ。人形が入っているのは二人がランプで照らしているただ一つだけだった。

「この一体を残してあとは全部お陀仏。はぁ。『お局様』が珍しく乗り気だったから出来た計画だったのに、他は全滅してしまった。ふう、これ以上無い『神の子』を生成できる絶好のチャンスだったのに」
「……神っていうもんは、卵生なのかよ?」
「カミっていう種族はね、形を定まっていないんだ。はぁ。そもそもカミと呼ばれる生き物は、この世界のものじゃない。ここではないもう一つ『上の次元』の生き物で、彼らは『下の世界』に堕りてくる。別世界の生き物だから僕らの世界の常識では計れない形状をしているんだ。で、ふう、下に堕りてくる『堕天する神』は、大抵『そのときの文明で最も発達した種族』に姿を合わせてくれる。この世界の生き物じゃないものが、この世界の生き物として姿を借りるのなら、一番広まって認知されている種族に合わせたくなる。判るよね?」
「……普通判らねーよ」
「えっと、ふう、卵と形が定まってないって話だったよね? 卵を産むカミもいれば、産まないカミもいる。カミという種族の特徴は、『寿命が殆ど無い』ことと『高次元の行使ができること』。その条件に当てはまっていれば、腕が三つだろうが、目が百個だろうが、鱗が生えていようが頭が炎であろうがカミなんだ。そして僕達と共に生きているお局様は、たまたま卵生で……」
「……『高次元の行使』?」
「ええっと、上の次元の力を使うことだよ。簡単に言っちゃえば、神様でもない限り出来ないような凄いことを可能とする力。ふぅ……例えば、『終焉の炎』」

 仰々しい単語を出した。航は身振り手振りで話を進める。

「はあ。この世界を一冊の本、小さいサイズの文庫本にしよう。で、神様はマッチを持っていて、マッチの火で文庫本を燃やすことができる。……世界を焼き焦がす炎。星々が燃え、大地と山が燃え、木々は根こそぎ燃え尽き、あらゆる命が焼死する焔。『小説の中で築かれていた文明』は、神の手によって……生命はおろか世界そのものが全て消滅、灰にさせられる。……本という『下の次元』は、上階にいる存在によって消される。これが『高次元の行使』」
「…………」
「例えば、はぁ、『時間跳躍』。神様は、文庫本を読む。世界と言うなの文庫本を。……五ページ目から読む。でも、ペラペラとページを捲れば百ページ目から読むことができる。もちろん、百ページ目から五十ページ目に戻ることもできる。つまり神様は、どの時間にだって自由に飛ぶことができる」
「それが……本という『下の次元』より上階にいる『高次元の存在』だからこそできること……だと?」
「そうだよ。カミは我々の住む世界より上の次元に住んでいる。何をしているかっていったら、僕らと同じだ。それぞれの考えで生きている。だけど、ふぅ……カミというものは気まぐれに『下の階』に降りてくるらしい。娯楽として」
「……娯楽って……」

 娯楽だよ、としか言えない。
 そう航は、目を見開く輝に即答で応じた。

「輝は、小説や漫画を書いたことがあるかい? その自作の世界に、同姓同名の自分をそのまま落としこんでみなよ」
「なんだ……ごっこ遊びか?」
「うん。ごっこ遊びはいくつになっても楽しいよ。きっとそれは神様にとってもね。……その人物は、登場人物の過去を細部に渡って知っている。他人の未来すら決める権利を持っている。その世界に居ながら、その人は作者自身だから、どんな展開でも作ることができる。飽きたら世界から跡形も無く消えることすら可能だ。このこと自体が楽しいかつまらないかは受け取る人次第。まあ、高次元の能力をそう簡単に使ったら世界のバランスが崩れる。だから出力を落として、まるで下の次元の生き物のように振る舞わなきゃ不自由を遊ぶ楽しみにはならない。……そんな娯楽を持った種族。それが自分で世界を作り、高次元から堕天してくる『カミ』という種族だ」

 空気をたっぷりと肺に送り込みながら、捲し立てるように話を続ける。そして「で、何の話だったっけ?」とようやく会話を立ち止まらせる。
 航の話に相槌を打ち、黙々と聞き入る輝が稼働しているカプセルに近寄った。
 僅かに発光した羊水槽の中を見つめる。
 すると、(便宜上)『彼』が近づく輝に視線を向けた。
 ただそれだけだが。

「はぁ。その子は、堕天した神が落とした二十七個の卵の一つ。孵化したのはその子も含めたった五つだけだった。……でも、はぁ、五つともみんな不出来でねぇ……」
「……孵化するって凄いことじゃないか? 三十個近くあって五つも産まれたなら大満足ってやつだったんじゃねーの」
「ははは。はぁ。もしそれが大層な事件だったら、僕のような下っ端中の下っ端に管理させると思うかい?」

 確かに。大々的に公表されてないだけかもしれないけど、先生が「神の子を創った」なんて偉業を僕は聞いたことはないし、もしされていたらもっと持て囃されている。
 つまりは全部歴史に残らないほどの失敗作だった。
 どんなに美しい造形をしていようが。神と神を組み合わせたとか仰々しいことを並べていても、魔術師半人前の先生が受け持てるほどのの……小さなものだったってこと。

「ふぅ。彼……P−27は、僕のサンプルとして一ヶ月付き合ってもらった。でもその羊水はね、タダじゃないんだ。毎日グツグツ煮るにも一日二頭分の馬の血液が必要なんだよ。出来れば人間の血を使いたいんだけど、さすがにそれを用意するのは難しい。人間二人分の血なんてお金がいくらあっても足りない」
「…………案外、酷いことしてんだな、オマエ」
「結構、輝ってナイーブなんだね。はぁ。そんな訳だから、一ヶ月間は僕の勉強の試料として使いまわしてきたけど、特別何か重大な発表ができるものも発見できなかったし……そろそろ懐事情も辛くなってきたから、今日にでも……」

 処分されるんだ。
 コストが掛かりすぎる。生かし続けるのは難しい。だから今日にでも処分される……。

 既に他四つの試料は削除されていた。それは隣のカラになっている水槽を見れば判る。おそらく魔力を送り続けている魔法陣の起動を止めてしまえば、電源スイッチを押すようにそのサンプルは削除されるだろう。
 航は水槽に記された魔法陣を指で摩った。すぐにでも削除できると言うかのようになぞろうとする。
 だけど、バッと輝が不確かな動きをする航の腕を掴んだ。

「……生かすのが難しいって、なんでだよ?」

 今すぐに削除をするつもりは航には無い。
 でも、輝には恐ろしかったのだろう。まさかを見越して、航を止めていた。

「ふぅ。さっきも言ったじゃないか、そのカプセルに入れてるのもタダじゃないんだって」
「じゃあ、出してやればいいだろ……」
「えーとね、それも難しいんだ。その子が『世界の創造物』に干渉すると、世界側に修正されて消滅しちゃうんだよ。ううん、その説明じゃ判らないよね。簡単に言うと、大変危険なその子に触れられた物は、全部蒸発しちゃう。無かったことにされちゃうんだ」
「…………。どうして」
「ううんと、あのね、カミは直接『世界』に手を加えることができるけど、されたら困るんだ。さっき文庫本をマッチで燃やす気分で世界を灰にできる力を持っているって言っただろ。はぁ、そんなこと気軽にされたら僕ら困るよね。……カミが手を下したらね、僕達は敵いっこないんだよ。強すぎるから」
「…………」
「強すぎて、何かをするたびに全部大変なことになっちゃう。はぁ。カミが手を下したら世界が消滅する。世界よりもカミの方が優先されちゃう。……僕がカミと握手をしたら、カミに触れられた瞬間粉々になっちゃうかもね。僕らよりも、カミの方が存在が強いから。僕は今ここに立っているけど、数センチも違わぬ同じ場所にカミが立とうとしたなら世界はカミを優先して僕を消すぐらいだから」
「……なんだよ、それ。……『おい退けよ』って航を押しやればいいだけじゃねーか。なのになんで、消すんだよ」
「ははは、今のはスケールを大きくして話したんだよ。ふぅ。……まあ、良識があって秩序を重んじるカミ様なら力を調節してくれる。現にお局様は人間の真似が巧いから、人間との接触もとても自然だ。握手をすることだってできる。握手をした人間の手が消えることもなく、握手という挨拶をこなしてみせてくれるよ。……でも、この子は半端者だから」

 半端者だから。人工的に人が創り出したカミだから。
 本来できる筈の調節が、できない。
 もし力を行使したら、それこそ一面簡単に灰にしてしまうほどに。

「……なんてモンを創り出しちまったんだよ、オマエら」

 部外者であれば当然抱いてしまう疑問を、輝は口にする。
 けど……仏田一族は、今を生きる僕も含めて、『完全な神』を創り出すことを定めとして生まれ落とされた。

「それを創るため、この家は成り立っているんだよ。はぁ」

 苦笑いをしながら航が、昔の記録を語る。……一度、P−27と呼ばれるホムンクルスを厳重な防護策の中で水槽の外に出してみたときのことを。幸い被害者は出なかったが、まず『地面が無くなった』そうだ。
 暴走を視野に入れて、出来るだけ生命力(カミであれ他の創造物と同じ生き物だ。活力はある)を吸い上げる魔法陣を敷き詰めたフロアに置いた。だがだがその魔法陣に置いた途端、彼は、床ごと消滅させてしまったという。
 実験動物を使って接触を、なんて問題じゃなかった。カミは自分の制御で姿を変え、世界の創造物と同じ形になることで膨大な力を調整している。それをしようともしない半端者は、世界に立つことすら出来なかった。
 文庫本という世界に、火を付けたままのマッチを近づけたら燃える。火の消えているマッチなら、表紙の上に置くことができる。……そんな調節さえもできない彼は、世界に立つことすら許してもらえなかったんだ。

「はあ、あのときは大慌てだったよ。P−27が浮遊する形態だったから地面に足を付けずに済んだんだ。もしそのままのそのそ歩かれたら工房中が穴ぼこだらけになっていただろうね」
「……『浮遊する形態だった』って何だよ?」
「あれ、さっき僕話したよね? 『カミは形が定まっていない』って。一番メジャーな種族の形を模すことが多いけど、卵生であったり手が何本もあることもあるって。……あの子は浮遊してどこの空間でも行き来することができるタイプだった。だから地面に触れることなく済んだってだけだよ」

 だけだよ、と言われても輝はしっくりしないという顔をしている。

「その日は無事浮いてくれたから地面が穴ぼこだらけにはならなかった。試しに空に浮かんでいるあの子にリンゴを投げてみたよ。何気なく奴の手に届いたリンゴは、はぁ、そのまま消滅した」

 もちろん挑戦したのはリンゴだけじゃない。プラスチックの板も、山に咲いていた植物も。モルモットも蒸発した。
 ……カミはメジャーな生き物である人間を真似ているから足が二本ある。だがあくまで真似ているだけで、その二本を交互に動かして歩くとは限らない。だから空を飛ぶし、どんなところでも現れる。
 これは、『物体をものともしない空間転移を行なう生き物』ということ。
 いくつか前に航が例として挙げた『小説のページ数を飛ぶ』という話もあった。人が不可能を可能とする異能とも違う、次元を越えた力を持つ『神業』としか言えない。
 ……その力は凄まじいが、何にも扱えない。これは外に出せない歪な生き物。神の子として表に出せなくても一歩も工房から出せない危険な存在。
 それなら何にも触れられないようにしておかないと。
 魔力を込めた水の中でただ泳がせて、様々な呪文で制御した牢の中に入れておかなければ、大変なことになる……。

「……まるで、炎をそのまま箱に入れているようだ」

 ボソリと輝が呟く言葉に同意する。
 あれは綺麗だ。火は火なりに使えるものでもある。だけど直接触れてしまったら火傷をしてしまうし、置いておこうにも必要な物まで燃やしてしまって持ち運びが大変。……人間はライターやコンロで炎を自由に使えるようになってはいるが、あれは燃え盛る炎自体を制御している訳じゃない。
 まだ人類には、こんな危険なものの実用化は……遠い。
 だからもう、水を掛けて消してしまおうという声も、おかしなものではなかった。

 カプセルの中で漂うホムンクルスは虚ろな目を開いてはいるが、何も見てはいない。
 一方通行の視線を暫く続ける輝だった……が、唐突に輝が水槽を蹴った。
 ゴツン、ゴウン。鈍い音がして、僅かに揺れる。
 繊細な魔道具であるカプセルを蹴るなんて発想、ここで働いていて尚且つどれだけ高価で重要な物か判る人間には背筋が凍る。僕だけでなく航先生も悲鳴を上げるほどの驚嘆していた。

「……こいつ、今驚いたぜ。目が変わった。……生きてるじゃねーか」

 言いながらもう一度カプセルを蹴る。
 それにはさすがに先生が全力で止めにかかったが。けれど蹴られた瞬間……中身が少し動いた気がした。
 蹴られたから揺らめいたのではなく、蹴られる寸前……中のモノが、身構えたように見えた。

「はぁ、そりゃ生きてるよ。最善な形のまま保管して研究を続けたかったからこうやって貴重な液体に浸して」
「……蹴られて『何しやがる』って思える頭があるってことだろ。驚くってことは心があるってことだろ……」
「そうだよ。ふぅ、ホムンクルスはゴーレムのような人形とは違う。『偽物の器』を用意して中に息吹を吹き込む仕組みじゃなくて、神の末裔の精と神の卵を疑似母胎の中で掛け合わせて他の生き物と同じように孵化させるんだから……」
「じゃあ魂があるってことじゃねーか」

 生きてはいるが、ホムンクルスは人ではない。人の形を模しているし、カミという種族は人の姿を真似るものではあるけど、決して人間ではない。

「……失敗して食えねーからって生ゴミに捨てる料理とは違うだろ。まだ生きてるんだから、処分とか言うなよ。じゃないと……殺人になる」

 それでも、人の形をして魂のあるモノなのだから殺してはならないと輝は言う。
 おそらく犬や猫でも同じことを言うのか、この人は。……馬の血と言ったときですらあそこまで拒否反応を見せたのだから、彼にとって種族の隔たりというものは無いようだ。
 その言葉を聞いた航はというと、さらに苦々しく笑うだけだった。「そうだね」とも「それは違うよ」とも言わず、薄く笑って輝の言葉を聞き流そうとする。

 だけど、ピタリと動きを止めた。
 ふう。はあ。ふう。次第に幾度も深呼吸をし始める。
 輝が蹴ったカプセルの前に寄った。中には無表情は変わらないが未だに輝を見つめているモノがいる。
 航は、カプセルをゴンっと叩いた。
 中のモノが少し動いた。表情は無のまま変わらない。だけど目玉が透明な壁を叩いた航の方へと動く。物音を生じさせたことでそちらに興味が湧いたからだった。

「はぁ。魂が、ある。あるんだよ、輝」
「……ああ。魂があるんだよ、こいつには」

 聞こえるように声に出す。ハッキリと復唱される。
 二人は顔を見合わす。同じ顔をしていた。同じことを思いついたという表情だった。

 ――丑三つ時も過ぎた頃。輝の右手は何重にも防護魔術というものを張り巡らせたものになっていた。
 一見普通の手だが、少し魔術をかじった人が見ればまるで手袋を五枚も六枚も重ねて着けているような膨れ具合に見えるだろう。
 防護魔術というのは体に見えない障壁を張り、人体に伝わる刺激を軽減させるもの。本来は全身に効果を及ぼさないと意味が無い。だけどこのときの輝は右手だけを何十倍も強化されていった。
 右手だけをという制限もあって、手袋五枚で十枚分の暖かさを手に入れたようなガッチガチの増強になっている。片手にだけ魔力の渦が巻いているのは、異様な光景でもあった。

 水槽の羊水が抜かれ、側面がパカリと割れる。カプセルと外を隔てる透明な壁は無くなっていった。
 緑色の目が動く。無表情のホムンクルスは入口が開いたことに興味を示し、空気の漏れる方向へ視線を向ける。
 カプセルの入口には輝が立っていた。
 先ほどの右手を、全身を羊水に濡らした彼へと差し出している。
 不可思議な行為に、何だろうと思ったらしいホムンクルスは……ゆらりと自分の右手を上げた。
 そうすれば自然と二つの右手が接触する。

 瞬間、バチンと蒼い光が舞った。
 二人の手の中に火花がバチバチと弾けるように散る。
 輝の手を昇華、消滅させてしまおうというかのような閃光。
 だけど症状を何とかして軽減させるようにした防護柵が働く。激痛に眉を顰める輝ではあったが、構わず自分の右手を突き出し、ホムンクルスの手を取った。

「……『契約』だ。オレに服従しろ……!」

 手を掴んで引く。強い力を見せつける。
 P−27と呼ばれた生き物は既に二度ほど住処に危害を加えられている。「この人間は強者である」と見せつけられていた状態で、強く腕を引かれていた。目の前の少年は強者であることを思い知らせる。
 実際に力を込めて腕を引くことで……上位者であるという説得力になってくれたのかは、無表情の中の心がどう動いたか測れない。
 けれど、蒼い光とは違う白い閃光が一面視界を覆う。
 眩きと同時に輝の右手に激痛が走ったようで、唇を噛んでいた。それでもぎゅうっと強く手を握っている。
 そうして右手の……掌には、刺青のような模様が浮かび上がっていた。
 先ほどまでは無かったもの。
 だが誓約の証として『縛令呪刻印』が、数秒の接触で刻みつけられていた。
 それは相手方も同じ。無表情のままぼんやりとホムンクルスは繋いでいた右手を見ている。もちろん輝と同じものが生じていた手を。

「ひ、輝! もっと命令するんだ! た、例えば、えっと、『他のものを破壊するな』とか!」
「……それだ。……早速だがサーヴァントに命じさせてもらうぞ。『みんなを出来るだけ傷付けるな』……!」

 出来るだけって、曖昧な。
 そんな多義的な命令だというのに、もう一度閃光が舞う。
 視えない鎖がガラガラとホムンクルスの魂を縛っていった。

「――ッ」

 ……魂を繋ぐ『契約』を行なった者は、主の魂に宿る力をそのまま共有し自分のものとして扱えるようになる。
 しかし同時に、自分の半身であるマスターの命令は絶対になる。どんなに拒んだとしても中央にある魂が誓約を受け入れた以上、決して違えることのできなくなるもの。原理上、いかなる方法を用いたとしてもこの命令は解除不可能となる。
 たとえ死んだとしても、死後の魂にすら縛りつける力を持った命令。
 魂の『契約』が与えるギアスは、主となった人間の膨大な量の生命力を消費させる。その消費の何倍もの効果を従者となった人物に付与させることができるのだが。何気ない『出来るだけ傷付けるな』という言葉でも、ホムンクルスは『傷付けるようなことがあれば魂を千切られるほどの枷』を受けるようになるんだ。
 命令は一生違えられることはない。……だから、輝がもう一度ホムンクルスの右手に触れ、左手や胴体、頬や頭に手を置いたとしても……命令である以上、ホムンクルスは輝を『傷付けることをしなくなった』。
 やったと航がガッツポーズをする。剥き出しの炎を制御ができるようになったことに歓喜の声を上げていた。

「輝、あと一つぐらい命令できるかな!?」
「……なんか……急に眠たくなってきた……。これが……魂が削られる副作用ってやつ……かよ……」
「ね、寝れば元通りになるよ! か、可能な限りP−27に命令して! 完全な支配下に置くんだ!」

 先生は叫びながらも、もう一度、もう一度と防護魔術を唱え始めていた。
 『契約』のための接触は成功している。だがすぐに安心は出来ない。もし効果が薄れて輝がまたホムンクルスに触れた瞬間……消滅したらたまったもんじゃない。
 絶対命令権によってホムンクルスがマスターを消滅させることはなくなったと思いたいが、相手は不完全でもカミだ。焦りながらも先生は未熟な魔術を唱えていた。

 他に何か。マスター以外の『みんな』を傷つけるようなこともしなくなった。ではあとは?
 航先生としては更なる安全策を提案したかっただろう。でも輝の体を守るための詠唱に必死で、言葉が追いついていない。なので輝が命令を一人で考えることになる。
 だから……あまり考えることが得意でない輝は、

「……『何があっても生きろ』。それと、『みんなを生かせ』。……オマエはどんな形であれ生まれたんだから、簡単に殺されるんじゃねー。……あと、殺すんじゃねーぞ……」

 敢えてわざわざ令呪を使って命令する必要も無いことを、言ってしまった。

「――!」

 まぎらわしくおぼろげな命令。そんなものでもホムンクルスの魂は縛られていく。
 そして縛っていく輝も、また物凄い量の力を使い……命令を言い終わる頃には、カプセルの前で崩れ落ちていた。

「あっ、輝!」

 ホムンクルスの足元に突っ伏すような形で寝息を立て始めてしまった。
 体力、精神力、ありとあらゆる生命力を使い果たしてギアスをかけた。航の言う通り、一晩経てば活力は蘇るものだ。疲れてしまったから寝るという単純な幕引きに……航はほっとして、その場にへたり込んでしまった。
 なんとかして契約を終えた輝に寄ろうとするが、安心しきって腰を抜かした航は身動きを取れずにいる。
 その代わり、ホムンクルスが倒れてしまったマスターの体を抱える。
 ……抱えられていた。
 ……触れることが、できていた。

「凄い。凄いよ、輝。出来ちゃったね」

 胸を撫で下ろして二人を眺める先生は、満面の笑みを浮かべていた。

 試料が、動いた。制御できた。……失敗で成果無しで終わる筈だった先生の研究がこの日、報われたと言っていい。
 その嬉しさと、なんだかんだとても危険な目に遭った輝が無事消滅せずに『契約』を終えたことに……先生は安堵していた。
 一度腰を抜かして動けなくなった彼だったが、気合の入った掛け声と共にすぐに動き出した。
 まずはこの報告書をまとめなくては。このホムンクルスをどう維持していくべきか、それを周囲に知らしめるために。

 その日は刑務所に行くため朝早くから動いていたというのに、太陽が昇り始める時間になっても興奮しきった航は動こうとした。
 動けるだけの力が今の彼にはあった。
 母との別離。突然の出会い。負の感情の自覚と爆発。そしてついに結果が実って花が咲いたという大事件の数々。
 ……この日が先生を創り出したということに間違いない怒涛の一日だった。



 ――1969年3月28日

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 /4

 『みんなを出来るだけ傷付けるな』。『何があっても生きろ』。『みんなを生かせ』。こんなあやふやなギアスがどこまで効果を及ぼすか不安だ。
 魂への絶対命令権。たとえ輪廻し世界を跨いだとしても適用されるという、呪いの契約。自滅に至る理不尽な命令だろうが、決して主の言葉を従者は逆らえなくなってしまうという妖術。ではあるが、輝の言葉は広義すぎた。
 僕が輝の右手のみを強化したときのように、せめて「仏田にいる研究員だけ」など区切ってくれれば絶大な効果を発揮したのに。
 そんな的確な命令を、部外者の輝が思いつく筈など無い。判っていても、『みんなを生かせ』って何だと思ってしまう。
 だって、そんな曖昧な命令を下されたら……もしかしたらこのホムンクルスは、魂の誓約により『世界中の人間を救おうとする聖人』と化すかもしれないのだから。

 ――時刻はもう既に朝の四時。早く起床する僧達が動き始めるちょっと前になっていた。
 『工房で夜通し居た理由』と、『P−27を廃棄処分しないことにした理由』を考え出してなんとか文章にしたものが完成した。
 原稿用紙にして五枚。雑な字ではあるが説得力のある項目が五つも用意できた。これをリーダーに読んでもらえればおそらくお叱りを受けることはない。

 企画は頓挫してしまったとはいえ、『金色の大太刀』から生まれた魔導生命体を実用稼働させる方法を『本部』は模索していた。
 早々に諦められてしまい、僕のような下っ端達のもとにおさがりのサンプルとしてやってきたとしても、野望は完全に消えた訳ではない。
 ホムンクルス達はもうP−27(二十七番目で、一番小さくひ弱な個体。世界への影響力が最も低かったことから、僕が扱っても安全だと与えられた)を残して全て廃棄されている。残った最後の処分が決まっていたところに、『契約』をすることで魂を現世の人間に縛りつけて世界に留まらせる……単純で効果のある、しかもドラマティックで良いアイディアじゃないか。
 外に出すこともできないとされていたP−27は、水槽を飛び出し、ごく普通に活動を始めている。
 今もなお、精神力を枯渇させて眠りに落ちてしまった主の隣で……静かに膝をついている現状。
 正直、興奮を隠しきれなかった。

「はぁ。生まれたばかりだというのに、お前は正座ができるんだね?」
「――」

 僕が問い掛けてもホムンクルスは答えない。じっと碧色の目は、寝息を立てるマスターを見つめたまま動かなかった。
 人間的ではない。しかし元は地に立つことすら出来なかった存在だ。魂を直接縛るギアスで自立を許可した結果、なんとか『世界に存在できる』形にまで落とし込むことができた。一見ただの人間と変わらないような、近いものにまで近づいてきている。
 これでほっと胸を撫で下ろせる……そう思ったが、異常事態は突如起きてしまった。
 僕には予想ができなかった方向に。
 何故そんなものがと思ってしまう角度で。

「輝。ねぇ、起きてくれないかな?」
「……ん……。母さん、春休み中ぐらい……早起きさせんなよ……」
「はぁ。違うよ。僕はお母さんじゃない。ここ、仏田寺だよ。輝、起きて。みんなが来ちゃうから」
「……うく……?」
「工房に居ることすら見られたら大変な目に遭うだろうけど。赤い髪、みんなに見られたら困るものだろ?」

 ガバッと勢い良く少年は飛び起きた。
 目をゴシゴシと擦る。起こした僕へ、そして隣で待機していたサーヴァントのホムンクルスへ「……おはよう」と律儀に挨拶をした。

 今から二時間前。ホムンクルスと無理矢理『契約』をした輝は力を使い果たし、工房の床で眠ってしまっていた。
 僕はランプの灯りを頼りに黙々と原稿用紙に筆を走らせていた。二時間ずっと。百二十分の間、原稿しか見てなかった。
 だから、気付かなかった。
 床に転がっていた少年が、『輝ではないもの』になっていることに。

「ふぅ。輝」
「…………」
「質問なんだが、君が『自分の弟だ』って思った人物は誰なんだい?」

 彼は半透明のカプセルを鏡に見立てて、自分の姿を確認している。
 その顔は、昨日の夕方にバス停で「藤岡 輝だ」と自己紹介した彼ではない。
 僕が二時間前まで輝だと思っていた少年は、特出するほど外見が際立っていた人物ではなかった。黒髪で黒眼。僕ぐらいの年の男の子ならそれぐらいはあるだろうとされる平均身長。目立った服装でもなく、特徴ある声でもない。
 だけど。P−27が見守る中、眠りこけていた輝だと思っていたものは……別人になっていた。

「…………。昨日の夕方、道場に居た奴だ」
「はぁ。その子の名前は聞かなかったの?」
「……聞いた。……ミツノリっていうらしい」
「どうしてその、光緑というお方が弟だと判ったの?」

 もう、わざわざ尋ねなくても、判った。
 だって今、目の前でばつが悪そうにしている少年は……輝だと思っていた人物は、『僕でも知っているとあるお方』と同じ顔をしている。
 黒髪黒眼の、敢えて挙げるほどのない平均的な顔だった彼ではなく……僕が過ごす寺に居る、高貴な方と同じ顔をしているとなったら。

「輝は、光緑様の関係者なの?」
「……なんだよ、ミツノリサマって。あいつ、サマ付けされるような奴なのか?」
「答えてほしいんだが、君は照行様とはどういうご関係なんだ?」
「……本当のことを言うと、照行おじさんのことはよく知らない。新年に遊びに来てはお年玉をくれたり、お中元を持ってくるような人だった。……でも、母さんのことを『姉さん』って呼ぶ。だからこれは予想なんだが、あの人はオレの叔父さんなんじゃないかと思っている」

 彼は、自分の姿を欺いていた。おそらくは変化(へんげ)の魔術か何かで。
 今の輝は、光緑様にそっくりな顔をしている。
 その光緑様の叔父上が、照行様だ。
 まさかだとは思う。顔が似ているなんて親戚ならありえること。
 でも何よりも、輝のことをこんなに怪しんでしまうのは……光緑様と顔はそっくりにも関わらず、絶対に違う、赤い髪と紫の眼のせいだった。

 僕は、知っている。
 初めて仏田寺の門を叩き、一族に仕えることを誓ったとき……頂点である男に血を分けてもらった。
 恐れ多くも面と向かって彼の顔を見られなかった。だって彼の姿は……普通ではなかった。
 今、同じものを自分は見ている。あのときの男――仏田家第六十一代目当主・仏田 和光は、今ここにいる少年とまったく同じものをもっていた。

「輝は、今の姿が本物の輝なんだよね?」
「……ああ」
「生まれつき髪が赤くて、目がその色だった」
「…………ああ」
「どうして姿を別人のものにして、隠してここに来たの?」
「……オマエな、それぐらい察せよ。……『教会』の奴らに姿を変える魔術を教えてもらうまで、クソどもに鬼だなんだって言われ続けてきたんだ」
「…………」
「……母さんはよくオレを捨てずに今まで育ててきたよ。オレが魔術で姿を変えられるようになるまで、色んなことを言われ続けたのに。……鬼子だとか言われても、捨てずにいてくれたんだから。……そんな人もいるのに、捨てた奴もいる」
「…………」
「……オレのことを捨てた親父が、許せなかった。……苦労してでもオレを育てくれている母さんがいるのに、親父は……赤ん坊のときにオレと母さんを家から追い出したって言うから……」

 ――妾の子が何だ。本妻じゃなかったから、邪魔だから捨てただと?
 ――面倒だって判っているのにオレなんて作りやがって。母さん一人に押しつけやがって。許せない。だからここに居るっていう親父を、殴りに来たかったんだ……。
 直情的な彼は語り始める。
 紫色の眼に、怒りの炎を宿らせながら。

「……だっていうのに、母さんは未だに『父さんのことを恨むな』とか言う。捨てられようが、まだ愛してるなんて言う。……なんでそんなに愛してくれている人を、追い出したんだよって……せめて会ってあげてくれよって言いたかった」
「輝」
「……ああ、判ってるよ、どうせ妾の子っていうどうしようもない理由以外に何も無いってことぐらいは……」

 透明なカプセルを見つめながらも苛立った輝は、燃え盛る炎のような赤い髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。忌々しげに。
 だけど、すうっと深呼吸をした後……ゆっくりと詠唱を始めた。
 彼の声が彼を隠していく。姿が変貌する。目を引く明るい色の髪は黒く、目も落ち着いた色へと。
 目の大きさや鼻の形もまったくの別人へと変わっていった。……今まで僕が輝だと思っていたものへと戻っていく。

「姿を隠していたのは、みんなに見つからないようにするためかい?」
「……ちげーよ。めんどくせーんだよ、この姿は。……ああ、思い出してきた、ふざけんな」
「何を?」
「……オレが変な頭だからって、殺されかけた。母さんは命かながら必死こいてガキのオレを抱いて逃げてくれた。……なんで殺そうとしたかって、町に不気味な子供がいるからって、それだけの理由でな。……オレが町に居るから変なコトが起きるんだって、バケモノがわんさか出るキッカケになるとかなんだ言って。……ああ、そうだろうな。だって、あんなに赤いんだぞ。普通じゃねーだろ。それになんだよ、この薄気味悪い眼の色。そうだよな、そう思われても仕方ねーよな、くそっ……」

 苦々しく舌打ちをする輝。その姿を見て、安心した。
 なんだ、君は……案外普通の感性の持ち主だったんだな。
 あんな願いを咄嗟に考え付いてしまうぐらいなんだから、度の過ぎた聖人かと思った。けれど人並みに苦悩を負っている。自分とはかけ離れているのは髪の色や目の色だけじゃないと判って、ほっとしてしまう。

「……でも、まあ、仕方ねーんだよな、変な色してるのは怖いもんだから。……オレを殺そうとした連中が抱いた恐怖も、理解できる」

 それでも、彼は大勢を受け入れようとしていた。

 和光様はこの国で君臨している。この寺で生まれ育ち、生涯を過ごすとしたら……特異な外見をしていても表立つことはない。
 だが怪異から離れた外界ではどうだ。人と違う姿をしていれば、それは『異端』として奇異の目で見られてしまう。
 それを悔しいと思っても、彼らを妬ましいと思うことは……無いらしい。不便なものであるから隠したい程度にしか考えていないのか。
 同じものを持つ和光様はこの世界で頂点として同志の皆に崇められていく。だが外で生きなければならなかった輝にとってその決断は、どれほどの月日を費やしたものだったのか……。

「でも僕は凄く、良いと思うな」
「……あ?」
「だって。赤い髪は超越的存在と証の一つなんだよ。えっと、神の御姿には特徴があってね、決まってある色なんだ。その中の一つが炎を模したような赤色で、あと、紫は天上の証なんだよ。極点の証拠なんだよ。最高って意味なんだ」
「…………」
「だから、輝は本当に凄いものを持って産まれてきているんだよ。僕はその髪をカッコイイと思う。目だって全然気味悪くなんかないし、凄く、菫色の目なんて綺麗だと」
「……嬉しくなんかねーよ。現にオレは迷惑してんだ」
「う」

 すっかり黒髪黒眼をした普通の少年に変身した輝は興味無さげに鼻で笑われる。ぼりぼりと顎を掻いた。
 こちらの剣幕とは裏腹に、そっぽを向かれてしまう。そうして隣に正座をして座るホムンクルスを眺めて、「……お前、正座ができるんだな?」と僕と同じような感想を漏らす。

「――はい」

 すると今まで口を呼吸器官としか使わなかったホムンクルスが、音声を発した。

「…………。喋ったな、航」
「は、はぁ。そうだね。今は『口がある生き物』の姿を模しているから、かな? この一帯に居る人間という生き物は日本語を喋るから日本語で対応するべきだと考えているんだよ、きっと」
「……ということは、もしここがアメリカで英語を話してる連中に囲まれていたら?」
「英語で話すだろうね。で、もしイギリスだったら英国英語で話すのかな。ふぅ、その擬態の能力を解き明かして流用させる手段は無いか探したいよ。はぁ、そういう研究が出来たらいいね。海外に行っても色んな言語を使って交流できるようになる。ほぉ、異能の世界とか関係無く全世界に売り出す発明をしてみたい」
「……交流なんて、挨拶ができりゃ話せなくてもなんとでもなるだろ?」
「ふぅ、輝、それはコミュニケーションに長けている人しか言えない台詞だよ」

 おもむろに輝は着ていた上着を脱ぎ、ホムンクルスの腰に巻くように命じた。そういえば衣服というものを与えないままだった。
 マスターである輝に命令を受けたホムンクルスは、穴も何も無い下半身に上着を巻いていく。マネキンと同じく性器の無いヒト型ではあったが、何も身につけていない状態ではなくなったことで、それだけで文明的な生き物に思えてくる。
 輝の命令に従い、輝から渡された衣服も消滅することなく自分の肌に触れさせていた。『契約』のギアスは無事発動しているようだ。この世で活動することができるようになったことを再確認し……。

「…………ありがとな」
「……。えっ? はぁ?」
「え、はぁ、じゃねーよバカ! ……慰めてくれたんだから礼を言っただけだバカ。……おい、変な顔すんじゃねーぞバカッ!」

 そっぽを向いていた。輝はずうっとそっぽを向いていた。
 不自然なくらい僕から顔を背けて、ずっとP−27の方を見て気に掛けるようなことをしていた。
 それは……ただただ恥ずかしがっているからだった?
 今はわざとこちらを向かずにいる。真っ赤な顔を隠すために。

「輝」
「……うるせえ」
「ふぅ。君って良い人だね。バス停で声を掛けてくれたときから知っていたけど」
「……黙れ」

 この輝という少年が、どうしようもなく素直で真面目な人間だと思い知らされる。
 ……妾の子として生まれた彼は後ろめたい出生だろうが「母の苦労を知らせたい」という理由でこの寺に飛び込んできた。自分を認めさせたい訳ではなく、「両親を再会させたい」なんて想いで。
 その誠実な心を、嫌おうとは思わない。
 真っ直ぐな心の持ち主だというのはP−27に対する言葉だけでも伝わってくる。『何があっても生きろ』。『みんなを生かせ』。そんな誰もが思いつくけど咄嗟に言えない輝かしい言葉、輝という少年じゃなければ言えないと思えた。
 なんだか僕もつい「ありがとう」と言ってしまいたくなってしまった。すると「なんでオマエが謝るんだ……」と文句を言われる。でも感謝の言葉を聞いた途端余計に顔を赤くする彼が可愛くて、焦った言い返しも可愛くて、余計に「ありがとう」と繰り返してしまった。
 これほど好意を抱ける人間に会ったことはない。
 だからこそ、最大限の好意を向けたいと思ってしまう。

「輝のお父さんだと思われるお方にお会いするのは、ちょっと難しいと思う」
「……そうなのかよ?」
「うん。でも、会える機会を作る方法を考えついたよ。P−27は失敗作として廃棄されようとしてたぐらいの残滓だったけど、それでも貴重な供試体なんだ。だって、和光様の因子によって創られた検体なんだから」
「……だな」
「P−27を輝が管理するように上へ申請をする。はぁ、マスターとして『契約』したのは輝なんだから、輝が率いてくれないと僕にはこの子を動かすこともできない。幸い輝はある退魔組織に所属しているんだろう? なら、はぁ、そこと仏田は縁は少なからずある。だから和光様の息子とも言えるP−27の調整協力者として今後も仏田に顔を出していれば、今後も君が寺に来られる名目が作れる。協力者とか嘘でもいいから僕の弟子とか知り合いとかそういうことにしておけば、ふぅ、同盟を結んだ結社同士自然に実験体の情報をやり取りするってことで君にP−27を預けられるし、もしかしたら和光様との会えて……」
「……こいつ、オレが預かるのか?」
「えっ、ダメかい? いや、預からなくても定期的に工房へ協力者として顔を出してくれるだけでも」
「別に預かっていいなら預かるが。……でも母さんになんて説明すりゃいいんだ。こいつ、結構図体でかいだろ……」

 言われてみれば、成人男性並みの体格ではある。
 それならマスターである輝が命じ、霊体化させて姿を不可視のものに変えてしまえばいい。元々カミは何か世界にあって当たり前のものに擬態している。僕達がこの子にとって一番接してきた生き物だったから、この子は人間の形を真似ているに過ぎない。
 実際のP−27は、『棒状の何か』だし。長い諸刃の剣身に見えるもので、この世界の人間としてみれば剣は生き物と思えない。脳も心臓もある生物にも関わらず、その姿は固く長い物。それよりかは人の形をしていてくれた方が、調べる面積も大きくなってくれるし意思疎通もできるため好都合だった。
 命じればなんだってなる、姿だって変えられると告げる。輝は呆気なく「……じゃあ我が家でも飼えそうだな」と納得した。

「……その和光って奴が、航が考えるにはオレの親父なのか?」
「おそらくは。ふぅ。君の本当の顔は光緑様に似ているし、照行様の実の兄上でもある。それに、和光様も赤い髪と紫色の眼をしたお方なんだ」

 輝くほどに鮮やかに、混じりけのない艶やかな赤。
 複雑そうな顔をしながら、黒く染まった自分の髪をぐしぐしと掻く彼。その手は……次第にP−27の頭へと伸びていく。

「……こいつの髪は金色だが?」
「えっと。ふぅ。母胎になった女神様が金髪碧眼なんだ。『金色の大太刀』様というもう千年近くこの山に住んでいるっていう女性なんだけど、まあ実際のところ何歳なのか判らないしお局様とか呼ばれてるし僕も一度しか見たことないから半分は信じていないんだけど、もう信じられないぐらい美女だから神様って言われても納得しちゃうような女性でそのお方が」
「……今、ごく普通に『千年近くこの山に住んでる女性』って言わなかったか?」
「言ったけど、それが何か? だってカミだよ?」
「……あっそう。……なあ。母親は違っても、こいつとオレは兄弟ってことになるんだな……」

 言われてみれば、確かに。
 輝とホムンクルスの外見はまったく似ていない。P−27は、千年間の月日を始祖様の魂に寄り添って生きているという聖女と瓜二つ。一方で輝は、和光様の息子と言われれば信じて疑えないほどの血の証を受け継いでしまっている。
 だから気付けなかったが、彼とこれはとても縁が深いものと言える。
 自覚してしまった輝は、何でもホムンクルスの金の髪をぐしぐしと撫でていた。

「……うちに持って帰るなら、名前、付けなきゃな」
「はぁ、良いアイディアだね。道具には名前を付けて大事にしておくと長持ちするって言うから」
「……航、そういう言い方はやめろ」

 頬や顎を撫で、反応を見る。P−27は無表情ではあるが、視線は主である輝に向けていた。興味を示している……ように見えた。
 輝がいくつか名前を羅列していく。犬猫に付けるような単純な名前から、人間的な名前を。「……あんまり日本人って名前はあわねーな」とぼやきながらも、肌を撫でる手は止めない。
 しかしそろそろ朝一番に動き出す研究者が工房にやって来る時間だった。言い訳を用意して正式な申請を出す気とはいえ、まだ何も話を出していない状態の輝が工房に居られたら困る。「そろそろ僕の部屋に戻ろう!」と、体力切れで痺れた体の輝を引っ張ることにした。
 無理矢理に立ち上がりながら、それでも無感情のままマスターにされるがままになっているホムンクルスを撫でる輝。彼が「……テキトーに、神様っぽい名前でも調べるか」と呟いたとき、二人揃って腹の虫が鳴った。
 体力生命力精神力とあらゆる活力が枯渇している輝と、一晩徹夜してしまった僕。どちらも空腹を訴えてもおかしくない。
 輝に肩を貸しながら、ぐうぐうと鳴っていくお互いの腹の虫を笑う。

「はぁ。お家に帰るまでの間に、僕の部屋で神様について調べていきなよ。本ならいくらでもあるから。それで名前を決めていくといい。君には長く世話をしてもらうことになるからちゃんと決めてやるんだよ」
「……ありがたい。航もメシ食ったら……その申請ってやつ、やってこいよ。……『契約』もして名前も決めておきながら『実はオレのモノになりませんでした』とかになったら……ブッ飛ばすからな……」
「そ、そこまで重圧かけないでほしいかな!」
「……バカ、冗談だ。……メシ食う前にちょっとは寝ろよ。オマエに頑張ってもらわないと、オレもコイツも今度どうしようもなくなるからな。……頼むぜ、相棒」

 相棒。協力者とか偽でもいいから弟子とかと言ったのに、敢えてその呼称。
 肩を組んでいた。すぐ傍に彼の顔があった。
 その状態で輝は、近くで呆然とする僕の髪をぐしゃりと撫でる。彼は接触というものに何の気兼ねも無いらしい。乱暴に手を振るうのも、頭ごなしにずかずかと中に入っていくのも、言ってしまえば契約の際に『みんな』と言っていたのも、彼は……どんなものにも分け隔てなく自分の中へと取り込もうとするからだろうか。
 しかし頭を撫でられるのなんて母さん以来だった。子供っぽいことをされるのなんて身内以外なんてない。

 そんなことされたら、本気を出さずにはいられなかった。



 ――2005年11月3日

 【    /     /     / Fourth /     】




 /5

 幾重にも魔術式が張り巡らされた地下牢。
 強めの薬を投与した体を宙づりにされている青年がいる。両腕は天上から鎖で繋いでいた。ちょうど床に腰を下ろせる高さで調節してある。下半身まで拘束をしていないのは、今日は下まで動きを制する必要が無いからだった。
 巨大な魔物は腕を繋がれ動けない男に這い寄っていく。性器に見立てた無数の腕を下半身に近付けていった。いくつかの触手が投げ出していた彼の両脚を掴み、左右に割って持ち上げる。高く持ち上げたことで腰が床から浮き、尻穴が晒された。
 粘性のある液体の感触が彼の肌を伝う。ぐちぐちという音に顔を背けて身を捩ったが、強い抵抗は無かった。彼にとってこの時間はいつものことだ。腕に繋がれた冷たい鎖の感触も、生暖かく赤黒い性器達のぬめりも、彼は逃れることはできないと悟りきっている。
 それでも嫌悪感は拭いきれないようで、肌を滑る触手を見て口からは呻きが漏れていた。

 触手は性器に見立てたと言ったが、形状だけでない。いくつもの節と突起を持つ無数の手は、卵の混じった白い液体を放つ。
 それがこの世界でメジャーな生き物がする行為だと、知っているからだ。
 この魔物は男女の区別をつけず、捕獲した人間に精液に似た液体を流し込む。触手から放出される液体は魚卵の大きさほどの柔く小さな卵を含んでいた。一定の時間、人体で栄養を摂取した卵は数時間で手のひら大の大きさにまで成長する。しかし人体に定着しない卵は、多少成長した後、完全に孵化される前に体外に排出されてしまう。
 絶妙にこの世の生き物である形と異世界の非常識が合さった、奇妙な存在だった。

 魔物は怨霊の魂の集合体。そこから放たれるものを見た目から卵と銘打っているが、決してそれは子種ではない。
 百億の魂に宿る魔力の搾り滓。怨念を拡散する負の結晶だ。
 いつかの時代に亡くなり、天にも昇れず溜まりに溜まった負の魂の成れの果て。それがたった僅かな物体として、魔物の体から切り離される。
 耐久力の落ちた古い体毛が抜けるように。しかし魔物の体から切り離されたといっても、それは魔物だったもの。ほんの数センチの塊ですら、恐ろしいほどの力を宿した魔石となる。
 捕まえた妖精を魔力をタンクとして使い捨ての道具に見立て、魔術を行使する能力者もいる。その話を知ったときから、僕は「魔物が放つ滓も魔道具として使えるのではないか」と画策していた。
 ようは、魔物が生んだ卵で一儲けをしようという案だ。

 そのアイディアは、呆気なく狭山様に採用された。
 餌の連中に放つただのゴミには利用価値があったのだから、却下される筈が無かった。
 判ってから魔物の餌の量を増やした。なるべく質の良い魔力を持った能力者を餌として使うようにした。だが、魔物は『同じ血脈』の餌でなければ一日もせずに飽きて食い殺してしまう。一日一人餌で使うようではいつか枯渇してしまう。魔物への魔力供給の任も、出産の任も、我が一族から排出しなければコストの方が掛かりすぎてしまう。
 その問題点を十年前に改善してくれたのが、今繋がられているあの子だ。
 彼の血が引いている膨大な魔力は申し分無い。魔物は彼の味をとても好んでいるらしく、三日も引っ切り無しに嬲っているときだってある。研究者一同、十年間丁寧に管理している成果もあるが、(殺されかけてしまったことは幾度もある)辛うじて今も彼の命は続いていた。

 魔物は三日間も彼の体を掴んで離さない。ずっと供給行為を繰り返していたこともあったが、餌だって人間だ。定期的に休ませてやらなければ寿命が早くなってしまう。
 まあ、彼が死んだときのため『双子の弟』というスペアがいるんだが、とても兄弟想いの彼は弟が魔物に食われることを拒み続けていた。研究者達が弟の名を持ち出すたびに、「オレがする」「これはオレの仕事だ」と言い放つ兄に心打たれる者も多い。
 しかし本当に自分の体がもたないとき、それこそ一ヶ月に一回、一日だけは弟と交代するが、それ以外は極力自分がこの『仕事』をすると宣言していた。
 とはいえ重労働。今は慧や玉淀といった新たなスペアを用意することができ、たまにだが適正のある餌を狩ってきては(たとえ一日で潰されてしまっても)使っている。
 今まで平気だったとはいえ、もう十年食い続けられた餌だ。
 彼の体と精神は、もう限界と言えた。

「……ぁ……は……は……あは……は……」

 ずるんと触手の先端が体内に入り込んだ後も、悲鳴を上げることなく乾いた笑いを浮かべている。
 触手が自身を入り込みやすく彼の両脚を左右に開いてしていた。そんなことをしなくても彼は自ら腰を動かしている。
 すっかり拡張した尻の穴に二本、三本と性器が入り込んでいく。触手がみっちりと、隙間など無いように中へと侵入していた。
 ぐちゅぐちゅと濡れた音。中は滑らかに動いている。凹凸のある側面は体内を的確に刺激していく。激痛が伴ってもいてもおかしくないのに、いや激痛は走っているのだろうが、彼は空虚の目で受け入れていた。
 内壁をいたぶられることが快感だと言わんばかりに、甘い声を上げて。

「は……あ……ぁは……はは……うぅ……ひっく……」

 だが目からは大粒の涙がぼろぼろと零れている。涸れることなく、それこそ十年前から変わらず。
 中を刺激され、反り立った彼自身が腹に射精を始めた。そうした快楽の絶頂期である彼の体に、触手も液体を放出させる。
 奥へと流し込められる液体を受け、彼の全身がびくんびくんと揺れた。首を振っているのは嫌がっているのか、快感を踊り狂って表現したいのかはもう判らない。
 大量に流し出された精液は彼の内部を圧迫していく。穴から触手が引き抜かれると、受け入れきれなかった液体がぼたぼたと床に広がった。
 続けて先ほど挿入していたものとは違う触手が穴に近づいていった。感じ続ける間もなく、中へと抽出をし始める違う触手。数分のピストンの後に、また何本かの射精が始まる。
 多くの性器に腹いっぱいに吐精されて、すっかり彼の腹は妊婦のように大きくなっていった。
 天上から繋がれた腕は全体重を抱え、両足は未だ触手達に持たれたまま閉じることを許されずにいる。
 頭がガクンと落ちた。全身から体液を垂れ流しながら、絶頂を堪能する。
 暫くは夢想していた。その間は穏やかな表情だったが、唐突に眉を顰め始める。

「ぁぐっ! うぅ、く……や、いや、だぁっ……動くなぁっ……動か、ないで……」

 全身が反り返り悶えた。開かれた両足を閉じようと膝を縮こせようとする。
 だが触手達が不格好に足を更に開かせた。さっきまで媚びるように乾いた笑みを浮かべながらも喘いでいたというのに、腹の中の卵がごろごろと蠢くと「やだ、やだ……もう、やだ……」と泣きじゃくり始める。
 体内で急激な成長が起こっている。出産のときが近くなってきている証拠だった。
 産みつけられたものが一回りも二回りも腹の中で大きくなっていく。中で暴れ狂っているようなものだ。そう簡単に想像できる感覚ではない。挿入されたときと逆の排出に今度は快感でも得られない限り、身を裂く苦痛で死んでしまうだろう。
 けどその点に関しては抜かりない。彼はこの魔物の餌にする『仕事』をさせる前(つまりはもう十年も昔の話だが)、一年も掛けてどんな痛みも快楽に変換できるように調整済みだ。
 十五ごときの少年をきっかりと、数人がかりで調教した結果の彼だ。今は泣いて顔を真っ赤にしているが、角度を変えれば排泄に喜んでいるようにも見えなくもない。
 そう思っていると、彼は呻き声を会えながらも穴を広げて卵を産み落としていった。卵がぼろりと床に転がる。その上に、舌を出して喘ぎながらいくつも産卵を繰り返していく。始めのうちは僕達に向けていやだ、とうさん、たすけて、うみたくないと悦んでいたが、次第にとろんとした官能的な甘い顔になっていった。
 一頻り産卵を終えると、魔物達も食事に満足したの大人しくなっていく。彼の両脚の拘束を解いた頃にこちらが魔術を掛け、巨体を制す。
 その後は彼を繋いだ鎖を外し、すぐさま魔物を封印している地下牢から餌を回収するんだ。もちろん収穫も忘れずに。

 据えた匂いを全身に纏った体に不備があれば、すぐに治療する。
 ベッドに寝かせ、全身をチェック。本日は血を流してはいない。骨が折られるなど日常茶飯事だが、今の魔物は彼を長持ちさせるつもりでもあるのか労わるように味わっている。おかげで彼は夢見心地だった。
 虚ろな目のまま天井を見つめる彼は、「う……」だの「あ……」だの短い呻きしか上げない。元気に何個も出産はしたものの、やはり体力は底をついている。
 それも仕方ない。『もう一ヶ月も彼はこんな生活をしている』。僕が『本部』との協議の結果オーケーを出したのだが、休み休みとはいえ『一ヶ月誰にも会わさず魔物の餌にさせているのは』心身ともに無理をしすぎた自覚はあった。

「航様。別室で取り行なっていた試料の採取ですが、先ほど一本松様がお持ちになって……」
「はぁ、うん、そっか。採取した精液はそっちに保管しておいてくれるかな。しかし、はぁ、ちょっと今日は回収の時間が早いね? 弟で遊ぶのはもう飽きたのかな?」

 ちょうどこっちもチェックが終わったとき、違う部屋で行なわれている『彼の弟の仕事』も終わったらしい。
 弟という言葉に、さっきまで返事もろくにできなかった体がビクッと震えた。目に光が若干戻り、ゆるゆるとベッドの傍らに立つ僕を見る。

「ふぅ。お疲れ様。今日も凄く良い顔だったよ」
「…………ぅ……」
「そう言われても判らないかな? はぁ。それなら録画してあるからブリジットも見てみるかい?」
「…………」
「私が勝手にやってる個人的な録画だからあんまり綺麗に写ってないかもしれないけど。うん、あんまり録画とか残しちゃいけないって言われそうだけど、ついね、はぁ」
「…………いい、です……」

 従順で大人しい声。強きを気取っていた彼は今となっては、弟と見分けができないほど弱々しい。
 彼は追い詰められれば追い詰めただけ成果を出すタイプらしく、今日も予想以上に良いデータが取れてしまった。おそらく収穫したものも新記録を樹立している。
 そんなこんなだから、また酷使してしまった。そうやって加減を見誤って殺してしまったら狭山様らに何と言い訳したら良いか。それはいけない、それはいけないと自重して、なんとか本日11月3日に彼を休ませることにした。
 何をどうしてこんなに彼を無理させてしまったかという理由は、別にある。……ただただ単純に、僕が、彼の喘いでいる声が、顔が、悶えている姿が好きだということに間違いはない。だからつい彼を苛めたくなってしまうんだ。しょうがないだろう。だって、『父子揃って同じ顔』なんだから。
 必死に呼吸を掴もうとしているブリジットの唇に自分の唇を重ねて、儚い体をしっかりと堪能してから本日のお勤めを終わらせた。

 今夜は早めに自室に戻ってきた。
 四十年近く前に自分の部屋として割り当てられた和室から変わることのない自分の部屋に来てまずしたことが、伏せていた写真を立てることだった。
 それが日課だ。朝、自室を出るときに写真を伏せる。帰ってきたら写真を立てる。そうすることでオンオフのスイッチを入れていた。
 子供の頃はあまり思い出というものを大事にしなかったが、大人になって色んな記憶が忘却の彼方に追い込まれるたびに切なさを抱くようになってしまった。大事な思い出を日々の忙しさのせいで失いたくはない。だから寝る前や趣味の読書(これも大体、魔導書なんだが)は優しい記憶を抱いて寝ようと考えるようになった。
 仏田寺に入門し、何年も研究者として過ごし、十年目でこのひと手間を入れようと決心。効果は、「ただいま」と言える心地良さを味わえる些細な幸せを得られるぐらい。まあ、上々だろう。

「あの、ごめんなさい、失礼します。先生、まだ起きていらっしゃいますか?」
「ん? ああ、慧か」

 静かな声で声を掛けてきた慧が、部屋の入口から顔を出した。
 慧も仏田の一員なので、研究者の部屋が宝の山だということは知っている。簡単に入ってはならないという鉄の掟は承知だ。だから僕が許可しない限り中に入ろうとはしなかった。

「どうしたんだい。珍しいね、君から私の部屋に来るなんて。今日はデートの約束をしてなかったと思うけど?」
「はい、あの、ごめんなさい。先生のお仕事、早く終わったって聞いて。良かったらお話できないかって思いまして。先生が大丈夫でしたら、すみません」
「はぁ。そうか。おいで」

 謝りっぱなしの慧だが、たった一言でパァッと顔を明るくして部屋に飛び込んできた。
 女の子みたいな大きい目をきらきらさせている。こちらが座る隣へ腰を下ろしてきた。ここは決して人を招くような部屋ではないので、寝床と机以外の畳には書類と本が置かれていた。必然的に一枚の座布団の隣は寝床だ。布団の上でもいいならと慧を座らせると、嬉しそうに身を寄せてきた。
 慧に必要なデートの約束はしていない。そんな飛び入りでも受け入れてもらえたことが嬉しいのか、にこにこと布団の上に正座している。
 手を伸ばせばすぐ触れられるほどの距離だ。ここはそこまで狭い部屋だというのを数年ぶりに実感する。
 何年も前から大山様には「立場が立場なんだから、新しく広い部屋に移ればいい」とは言われていた。だけど元来めんどくさがりで、引っ越しする時間があったら本を読んでいたいし、なにより思い出が多い自分の城を手放すのが惜しかった。
 それにしたって狭いんだなって慧が入室したことで思い知ってしまう。

 昔、この部屋に……定期的に泊まりにくる友人がいた。
 申請が通って正式に実験の協力者として、いや、『相棒』として仏田寺に招かれるようになった後も、洋館ではなく僕の部屋に泊まり込んでいた彼が居たときも、狭いなぁって毎回言っていた思い出がある。
 お互い成人しても狭い部屋で一晩を語り明かしたもんだ。幸い二人とも寝相は悪くなかったし、泊まりにくる彼は接触をものともしない人だから楽しく夜を過ごした。
 近くで眠る彼を意識するたびに興奮して眠れなかったのがあるんだが、彼は僕に一切そういった感情を抱いてくれなかったため、そういった行為に及ぶことはなかった。
 僕としては、結構切ない記憶でもある。棚に置かれた写真と瓶を見ながら想う。

「あ。その、写真って……ごめんなさい」
「ふぅ?」

 たまに慧が僕の部屋に遊びに来るときは、必ず写真立ては伏せていた。
 でも今夜は立てていたので、写真の中の人達と慧が目を合わせる。古い集合写真をじっと見つめていた。

「ああ、それは昔、先生にも『赤紙』が配られていた時代に異端退治に行ったときの写真だよ。その人達とは仲良しだったから、よくこうやって写真を撮ったんだ」

 こんな僕でも五十を過ぎて、すっかり仏田寺の中では高齢な古株になってしまった。
 一つの部署を預かる身にもなり、『本部』と呼ばれるようになった。『赤紙』を配る側になってしまったので、「配られていた時代」という自分の言葉にはついしんみりとしてしまう。
 慧はなんでも知っている子だからか、そんなの知ってますと言うような顔でしっとり写真を眺めている。まるで懐かしい人と会うような表情だった。

「えっとね、先生は真ん中の眼鏡だよ。この頃は真ん丸で大きな眼鏡をしているだろ。はぁ、オシャレな眼鏡なんてあのとき無かったから。時代だなぁ。そこの女性は、霞くんのお母さんでね。仏田に尽力してくださった方なんだ。もう亡くなってしまわれたんだけどね。ふぅ。で、その後ろにいる男の子が一本松くんだよ。君のお父さんもこんな可愛い頃があったんだよ、信じられるかい?」
「すみません、ごめんなさい。こちらの男性は……?」

 慧は、実の父である一本松くんに注目していると思いきや、そうではなく。とある平凡で目立たない顔で写真に映る青年の方を指差した。
 若い頃の僕の隣に立つ彼。どこにでもいるような地味な印象が纏わりつく男性を、わざわざ指差している。

「はぁ。彼がどうしたんだ、慧?」
「その。ごめんなさい、実は、今日……先生の」
「なんだい、声が小さいよ。もう一回言ってくれないかい?」
「……いえ。ごめんなさい、何でもないんです、すみません。……先生と凄く仲が良さそうです」

 引っ込み思案な慧らしく、僕の耳に届く前に言葉をやめてしまう。
 あまりに小さすぎる声だったので何が何だか判らないが、曖昧に笑うところを見るとあまり追及されても困る話でも思いついたのだろうか。
 何でもないと言うなら、その言葉通りにしてやるが。

「はぁ、仲良さそうに見える?」
「はい。ごめんなさい、違いましたか?」
「ううん。違わないけど、うう、違うかな? 彼にはとっても虐められた思い出しかないなぁ。結構酷い人でね、彼。すぐに先生を殴るし、酷い注文してくるし、横暴だし、何も言わずにすぐ海外に行っちゃうような気紛れな人だったし、僕の気持ちも知らないで……」

 彼のことを深く語ろうとしたとき、慧が突然抱きついてきた。
 あぐらをかいていたところに突進してくる慧。そのまま押し倒されていたら机に頭をぶつけていたかもしれない。……慧にはよくあることではあったが、間一髪寸前のところで殴打は回避し、受けとめてやることができた。
 胸の中に飛び込んでくる慧は、不安そうな顔をしている。さっきまでにこにこしていたと思ったら、この陰鬱そうな顔。情緒不安定なところはいつも通りと言える。もしかして薬をちゃんと飲んでいないのか。綺麗な黒髪を撫でてやりながら、「今日の薬は飲んだのかい?」と尋ねた。
 ちゃんと頷きながらも、不安そうな表情は止まらない。仕方ないので、部屋の棚に詰めていたとあるボトルに手を伸ばす。
 ストックしておいた紙カップを取り出し、液体を二センチほど注いだ。慧は苦々しい顔をしながらその、赤い液体を見つめる。
 慧にたびたび飲ませているのものだ。味はあんまり良いとは言えない。だから嫌そうな顔をしているんだろう。

「はぁ。はい。飲もうか、慧」
「……先生が飲みなさいって言うなら」
「先生はこれが大好きだよ。だから、いっしょに飲もうか」

 そう言って、慧に持たせようとしていた紙コップへ先に自分が口を付ける。
 旨み成分なんてもの知らない鉄の味しかしないそれは、慣れている自分でも眉を顰めてしまうほどだ。でも好きだ。彼のものだから。構わず口に含んで、慧を手招きする。
 その動きで僕がしたかったことが判ったのか、慧はさっきまでの嫌そうな顔から一変、晴れやかな笑顔になった。
 いつものように「先生っ」と甘えた声を出しながら僕の唇に吸いつく。
 深く口付けて、液体を慧へと飲ませてあげた。
 赤く粘つく液体を流し込む。慧は液体をというより僕の舌が欲しいのか必死に縋り寄ってくる。なかなか口移しも難しいものだったが、大好きで大切な血を無駄にしたくはなかった。だから一滴も零すことなんてできない。
 僕の口の中に入ったものを全部飲み込んだ慧は、ほんのりと褒めた頬を満足そうに歪ませる。口移しが終わった後も、まだ足りないかというかのように舌を伸ばしてきた。

「ごめんなさい、先生……もっと」
「はぁ。甘えんぼさんだね、慧は。そんなに欲しいなら直接瓶で飲むかい?」
「意地悪を言わないでください、先生。……僕、先生の夢を見て、先生が恋しくて、来ちゃったんです。だから……甘えさせてください」
「夢。先生の夢、ね。はぁ。もしや恥ずかしいことまで見られちゃったかな?」
「そんな……夢の中の先生、とっても素敵でした。真面目で、立派で、格好良くて……」
「もっと飲みたいんだったね。ふぅ、飲ませてあげるよ。いっぱい飲みなさい。体の芯まで届かせるためにも」

 またボトルの赤い液体を口に含む。それを求めて慧が僕へ唇を寄せる。
 乱暴に攫おうとするがゆっくりと、一滴も残らず彼の中へ流し込んだ。舌を経由した液体は全て慧の内部へと浸透していく。
 それでいい。赤く染まっていく顔も、暑そうに身悶えする体も、それでいい。可愛い色になっていく全身を撫でていく。血を含んで彼は少しずつ変貌していく。僕の好きな血の色へと。僕の好きなものへと。そうするためなら何度だって僕は口付けに応じた。



 ――1974年7月7日

 【 First /      /     /      /     】




 /6

 喫茶店で待ち合わせをすると、高確率で輝の方が早くに到着して席に着いていることが多い。
 彼が好む見た目は平々凡々。きっちりと清く正しく切り揃えた黒い髪と、真っ黒い目。流行のファッションも気にしない一般男性の鑑のような格好をしている。最近流行りジーンズを履いたりするところは、目立ちたくはないが彼自身の趣味を消しきってない良い塩梅だ。
 あまりに特異すぎる外見を持って産まれてきてしまった彼としては、コストを払ってまで手に入れたい理想の外見があれなのか。至って普通の格好は、とても決まっていた。

 駅前から少し離れた喫茶店は、開店したばかりのようだがシックな雰囲気が気分を良くさせる。残念ながら店内にはテレビがつけられていて、ちょうどバラエティー番組が流れているせいか下品な笑いが店内に鳴り響いていた。店内BGMがイメージを台無しにしているように思えたが、多少騒いでいてくれた方が混み合った話がしやすい。
 ともあれ、輝の座っていたテーブル席に腰掛ける。四人席だが、真向いではなく輝の隣にわざと座った。

「……航。狭いぞ」
「ふぅ。これから来る二人が座りやすい席を残してあげておくべきだろう? 輝、傷の具合はどうだい?」
「……そんなのとっくの昔に完治してる。オマエのトコの薬のおかげだ」
「清子様の霊薬は『教会』の持っている技術の比じゃないからねぇ。はぁ。効きすぎるだから常用だけは禁物だよ」

 半年前に大がかりな任務に出て、体に残る大怪我を負ってきたというのに。まだ半年しか経っていないというべきだが、輝は相変わらずクールな顔で平然と言ってのけた。
 目は僕の方ではなく、店内を台無しにしているブラウン管を向いている。何にそんなに気になっているのかと思って観てみると、最近ブームにもなっている超能力の特集だった。
 まあ、ハッキリ言ってしまうと手品だ。巷ではマジックがブームになっている。
 外国のタレントらしい人物がスプーンを曲げたり念力で時計の針を動かすパフォーマンスが大流行中だ。その奇抜さが世間を騒がせ、今となっては番組をまわせば自分も超能力が使えると名乗りを上げた者達が数人映し出されていた。
 その殆どが仕掛けのあるものなんだが、中には「あれ、本物のサイキッカーだよね」「……マジもんすぎるだろ、隠せよ……」と苦笑いするほどの実力の持ち主まで放送されている。
 目立ちたがり屋がいても構わないが、これが熱を帯びて魔女狩りのようなことにならないか。
 異能力者としては今のブームは心配でもあった。
 輝はそれが顕著に顔に出ている。彼は、人とは違うモノを持って生まれ、厳しい世間の風当たりの中で育ってきた。今となっては魔術で姿を変えて一般的な人間を模っているが、そのたびに彼は魔力を消費しているのだから……ただ外で息をするだけでも輝にとっては億劫な世の中だった。
 もし超能力が一般的に広まったら。世界の何人かは能力者であることが認知されたら。……どうであれ、多くの能力者が迫害されないことを祈る。
 僕はもっと公に異能が広まれば「そんな能力もあったのか!」と隠れた知識がバンバン出てくるということだし、大歓迎なんだが。そんな楽観的に受け入れられるのは、僕が魔術の研究でご飯を食べる仕事を望んで始めたからだろう。

「そうだ、輝。そろそろ前のメンテナンスから三ヶ月が経つ。来月あたりにでも仏田寺に来るといい。前に行なったP−27の検査、凄い数値ばかりだったからね。早く連れてこいって色んな人からうるさく言われているんだ」
「……あいよ。……変なことはしないよな?」
「しないよ。変なことって何だい」
「……マッドサイエンティスト的なこと」

 残念ながらあそこにはマッドサイエンティストしかいない。そんなの、五年もホムンクルスの研究に付き合っている彼なら熟知していると思うんだが。

「……あそこは山奥だけど、夏は暑いのか?」
「ううん、そんなに暑くない。都内に比べると五度は違うよ。はぁ、もしかして輝って暑いの苦手だったりする?」
「……いいや。先週までフィリピンに居たんだが、あそこは変な暑さだった。暫く涼しいところに居たい。『教会』も寒いところに派遣してくれりゃいいんだがな」

 フィリピンに居たなんて初耳だ。足の軽く、どこにでも異能事件があれば派遣される有能なフリーエージェントなのでよく海外に飛ばされるとは聞いたが、まさか帰国したばっかだったのか。
 って、半年前にルーマニアで壮絶な異端討伐作戦に参加して、その傷が癒えてないかって心配した矢先にフィリピンに行ってたというのもどうなんだ。

 輝はまだ二十代前半という若さにして、もう何十もの大規模作戦に参加した実力者ではある。
 『教会』のエースとして、日本だけでなく世界各国の異能事件を解決しに飛行機で闊歩している。実績を積めば積むほど更なる依頼が舞い込んでくる。次から次へと違う依頼を受けて、各地を走り回っている……そんな印象だった。
 なんでもいいから自分の力で人を救いたい。生まれ持った強い能力があるなら、その力で異端に苦しめられている人々を救う。そんな絵に描いたような信念を本気で抱いて、世界を渡り歩いているようだった。
 五年前から日本をあちこちまわってはいたらしいけど、今では一年の半分を任務だからと海外で過ごしているらしい。
 そんな彼が暇をしていると電話してくれたので、一緒に食事を誘った。誘えるときに誘わなければ彼はまたどこかに行ってしまうから。
 ……輝は優しい人で、実際会いに来てくれることは少なくとも、「暇をしている」とわざわざ電話を掛けてきてくれる。空いた時間で僕に電話を掛けてくれるから、どんなに遠くに居てもすぐ手が届くほど近くに感じる存在になっていた。

「はぁ。そうだ、最近電話でも聞いてなかったけどP−27の様子はどうだい?」

 もう輝に出会って五年。たまに長電話する日が研究の合間の楽しみだった。
 五年も経てば僕もそこそこの地位を手に入れ、力を入れてた研究の論文が二つほど大当たりをしてしまい、今では数人を教えてまわれるぐらいの立場になれた。忙しい日々になってきたので、親友との電話と、こういった機会は至福のひと時と言える。
 今は新しいものに励んでいるけど、五年前の大がかりな企画であるP−27に関する研究は終わることはない。ずっと彼の協力のもと、今も続いている。

「……ルージィルは至って健康だよ。なんなら顔色を見てやれ」

 言って輝がパッチンと指を鳴らす。
 瞬間、蒼い光が輝の傍を舞い始めた。美しい光は次第に人の形を構成し始め、五秒後にはとある人間の姿を創り出していた。
 金髪碧眼。
 造形の整ったフランス人形のような美しい顔立ち。
 男性物のダークスーツに身を包んだ細い体系。
 芯の強そうな女性とも、物腰柔らかそうな男性とも思える人物が無表情のまま、当然のようにテーブルの隣に立っていた。

「……ほら、顔色も良いだろ。コイツ、近頃機嫌が良いらしい」
「はぁ。輝。お客様がみんなテレビを観ていて良かったね。馬鹿かな、君は」

 言いながら、隣の席で紅茶を啜っていた輝の頭を叩く。ちょうど啜ろうとしたところなので鼻にお茶が入ったらしく、変なクシャミを連発した。
 出会って五年が経つが、クールで冷静そうな表情に似合わず短絡的で後先構わない性格は変わっていなかった。

「……いいじゃねーか。これも超能力だろ。そう言えばテレビだって出られるぞ。芸能人のサイン貰ってきてやろうか」
「輝、目立つのは嫌いなんじゃなかったっけ?」
「大嫌いだ」
「はぁ。台詞と行動を一致させようよ、君も良い大人なんだから」

 店員も客も僕達のテーブルになんか注目していないので、客の数が一人増えたことに気付かずにいる。
 それでも何気なくこちらに視線を向けてしまった店員の女性が、突如店の中に立っているスーツ姿の金髪の美青年を見て顔を赤らめた。同僚の女性に声を掛けて、「ねえねえあそこの人、見て!」「カッコイイ!」とヒソヒソ話をし始める。
 これでは、簡単に姿を消させることもできなくなってしまった。
 さて、その突如輝の隣に現れた美青年はというと、甘いマスクをしておきながら愛想なんてものは覚えさせていない。
 しかし何事も動くものには興味を示す動物的な習慣はあるため、無表情のまま黄色い声を上げる女性達に視線を向けて……人間らしく会釈をする。「人間とは自分に注目されたとき、そうするものだ」と学習したのだろう。長い睫毛の下の緑色と目が合った彼女達は、隠れて歓喜の声を上げていた。

「……とりあえず、ルージィルも座れ。何か注文しろ」

 輝は、目の前の席を指差す。
 ルージィルと呼ばれたそれは、じっと席を見た後……目玉だけを動かして輝を見つめ返した。

「――そこは、佳歩様と一本松様の席です」
「ああ? ……そうだな。じゃあ、二人が来るまで座っていろ。あいつらが来たら店員に他の椅子を出してもらうから。……そうだ、一本松の奴、小さいから子供用の高い椅子でも座らせてやるか……」
「ふぅ、輝、知らないんだね? 一本松くんは成長期だからね、どんどん背が伸びてるんだよ。多分今は輝より背が高くなってるんじゃないかな」
「……そう簡単に背なんて伸びねーだろ。実際でかくなってたら……腹立ってくるな。ほら、早くルージィル、座れ。……好きな物を注文しろ」

 メニューを渡されるP−27。名前は、輝によって『ルージィル』と名付けられた。輝が何気なく目を通した本に掲載されていた神話に登場する、炎の女神『ルージュイル』から取った名前だった。
 火の属性を持つ仏田家の因子から生まれた魔導生命体にその女神を付けるなんて、なかなか洒落がきいていると思う。
 他に炎の神といったら何があったか。……それこそ先日のルーマニアでの人外狩りでの『タイマストトバール』もそうだったか。でもタイマストという響きではない。何故かは判らないがタイマストという語感には、面白成分が含まれている……気がしてならない。気のせいかもしれないが。

「――失礼します」

 スーツを着込んだルージィルは、ごく普通の人間のようにフィルムのかかったメニューを受け取る。その手には手袋がされており、素肌を露出させているのは顔だけだ。
 輝によって結ばれたギアスの効果で、無機物には『接触による昇華』は発生しないらしく、破壊も消滅も生じない。
 ただし生物にはごく稀に「カミであること」を優先されてしまい、他者をショック状態に陥らせてしまう。具体的に言うと、『ルージィルの素肌に触れてしまった人間』は『稲妻が走ったかのような衝撃』を受ける。文字通り稲妻を受け、気を失い、焼き焦げる。ショック死も過言ではなかった(今のところ死者は出ていないが、被害者は続出している)。

「……航。ルージィルの奴、だいぶ人間ぽくなってきただろ」
「うん。凄いね。はぁ、メニューを読めるってことは、食べ物を大体把握できるようになったってことだろ。注文できるようになったって、食事の場に置いておけるって、つまりは日常生活を送れるってことじゃないか」
「……まあ、五年も世話してりゃそれぐらいできるようになるな」
「輝。P−27……ルージィルを、なるべく外に出すようにしているの?」
「……最初は危ないと思ったけど、素肌で接触さえしなけりゃ外に出したって問題無いしな。……コイツには色んなことをさせたいし、今は姿を消して控えさせておくより、実体化させて現界していることが多いぜ」

 剥き出しの炎を自在に扱えるようにはなった。箱に入れていなくても、マッチを擦らずにいれば火が発生しない。誰も焼き死ぬことはない。だが、何かの拍子でマッチを擦ってしまった瞬間、勢いを立てて炎は大きくなる。相手を火傷させる。街中でマッチそのものを歩かせることはまだ不可能だった。
 それでも、自立歩行できるだけ進歩と言うだろと輝は満足げだ。
 そんな危険で金の掛かるものは処分しろというお達しも無かったことにしてしまうぐらい、P−27は人間的な行動を行なえるようになったのだから。そこまで持ってきた輝にとって、可愛いペット……いや、子供のようなものになっているみたいだった。

「ふぅ。では何を注文するのかな、ルージィル?」
「――ストレートティーを」
「ほぉ。君は紅茶を好んでいるのかい? それは何故かな? 紅茶には何か思い入れがあるとか、味にこだわりがあるとか?」
「――いえ。マスターと同じものを選びました。あと、メニューの一番上に書かれていましたから」

 淡々と答える声は、静かな日本語だった。
 発音は完璧。造形は端整な白人のものをしているが、周囲に飛び交っている俗な日本語を真似ているためそのままの音で発声している。
 元の姿が剣のような形をした生き物であり、それが人間を真似ている。そういう生物であると判っているにも関わらず……ごく普通の言動は、五年経っても感動してしまう。

「……ルージィル。たまにはオレの真似以外のことをしてみろ」

 店員を呼ぼうとする前に、輝はルージィルの意見を却下する。
 その言い分だと、ルージィルは以前にも……いや、以前からずっと輝の真似をして同じものを頼んだり、単純な理由で行動を取ったりしていたのか。「それではつまらない」かというような顔で、輝はもう一度ルージィルにメニューを突き出す。
 一度決めた決定を却下されて、無表情ながらもルージィルの目の色が少し変わる。
 ほんの少しだけ揺らいだ。

 ルージィルはカプセルに入っていたときからそうだったが、興味を示したり感情が揺れ動く瞬間……目だけを少し揺れる。
 他は微動だにさせないのに、目玉をぐるりと動かして見つめてくる。正直、不気味だ。先程女性店員達にも同じような視線を向けていたときも怖がられるかもしれないと思ったが、会釈という人間的行動のおかげで恐怖を和らぐ結果になっていた。それをしない限り、きっと気味が悪いと思われただろう。
 突き返されたメニューをもう一度、手袋をした手で受け取り、熟読していく。
 今度は一番上に書かれた文字だけではなく、下までじっくりと読んでいく。さあ、魔導生命体の好き嫌いとはどんなものか。ドキドキして返答を待っていると、

「――ストレートティーを」

 また同じものを選んできた。

「はぁ。何故それにしたのかな?」

 間違いなくトーストやサラダ、デザートメニューまで熟読したにも関わらず、最終的に一番上に書いてあった紅茶を選んでいる。

「――マスターと同じものにしました」
「はぁ。それは、さっき輝が言った『オレの真似以外をしろ』という命令に背いていないかい?」

 輝もまったく同じ意見らしく、僕の言葉にうんうんと激しく頷いている。
 だがルージィルは表情を変えず、口元や指、胴体などは一切動かさず……真っ直ぐと緑色の目だけをこちらにぶつけてくる。

「――マスターと同じものが好きです。私は、マスターと同じものを味わいたい」

 感情がこもっていないような声。
 淡々とした、しかしそれでいて……穏やかな声だ。
 ……しかもなんだか一瞬、聞いたこっちの方が照れ臭くなりそうな実直な言葉を繰り出してくる。

「はぁ。それが、答えかい?」
「――私は味の違いをまだ把握できていません。どれが正解なのかここにある料理を全て知らない私は判別できません。ですがマスターは信頼できる人間です。そのマスターが選んだものなら、信頼できる味を堪能できるでしょう。今までマスターの選択に間違いはありません」
「ふ、ふむ、なるほど。はぁ。輝、信頼されているね」
「…………。ルージィル、八十点だ」
「――はい」
「合格ラインだが、百点にはまだ届かないぞ。……ちなみに、うち三十点の配点は付け足した理由が判りやすかった。……なんだよ、オマエ、航が居る前だと優等生ぶりやがって……」
「へぇ? 優等生ぶる? そうなの? 彼も取り繕うということをするのかい?」
「ああ……どうやらコイツ、航に対してはマジメにやらねーとヤバイってことを判ってやがる。オレに対しては結構返事も雑なんだぜ。前もオレと一対一のときに同じように言わせたことがあったんだが、そのときは……」
「ふぅ。そのときは?」
「……『あー、めんどくせーなコイツ』って感じの目で、オレの質問を無視しやがった……」

 愚痴る輝。その瞬間、ルージィルの目つきが変わった。

「――マスター」
「……なんだよ?」
「――――」

 相変わらず他は何一つ動かないが、目の色だけが明らかに違っている。
 とても機械的な様子。だけどあの一言、あの指摘。きっとあれは……動揺、だろうか。
 って、それって、「面倒だな」と思える心があるってことじゃないか。「ドクターに本当のことをバラされた」と慌てる心もあるってことじゃないか。
 更に言うなら「輝と同じものが良い」っていう嗜好も、「輝は信頼できる」という率直な好意も口にしている。
 作り物なのは外見ばかり。中身はまるっきり人間そのものだった。
 五年前はもっと無機質な印象だったのに、日々人と触れ合うことでここまで成長できたのか。まだ振る舞いは人形のようだが、先ほどの会釈と同じように経験を積ませていけば笑顔などの社交辞令も自然に出来るようになるのでは。
 剥き出しの炎だったとは思えない、少し扱いづらいライターぐらいには進化していた。

「ふぅ。五年でこれなら、あと五年したら笑うタイミングや怒る理屈も覚えてくるだろうね。喜怒哀楽が表現できるようになったなら良いなぁ」

 無表情ながら人間的な振る舞いを見せるルージィルと、それを茶化すように次々と本当のことをバラしていく輝のやり取りを微笑ましく眺めていると、チリンチリンという入店の鐘が鳴る。
 春の風を纏いながらも、気の強そうな短髪の女性と無骨そうな少年が店に入って来た。奥に居た僕達を見て、女性――佳歩が大きく手を振って近づいてくる。
 輝にとっては二人とも半年ぶりだったが、僕にとっては一日ぶりだった。
 一本松くんは仏田の生まれ。佳歩は……つい先日、仏田に入門して一族の一員になった。同じ屋根の下で過ごす家族になったんだ。

「久しぶり、輝。あんたまた海外遠征に飛ばされたんだって? たまにはお母さんのところに帰ってやりなさいよ! 帰れる実家があるんだから!
「……母さんには毎月仕送りしてるし、電話だってしてるよ。……ああ、佳歩、航から聞いたぞ。オマエ、仏田の人間になったんだって……?」
「ええ、ホントよ。今日だって朝から百人分のお洗濯をしてきたんだから! さすがお金持ちは違うわ、洗濯機が何台もあるし、全部脱水機能付きだし!」
「……いや、そんな話は聞きたくないんだけど。興味ねーし」
「じゃあ聞かないで。仏田の中のことなんて部外者のあんたに話せる訳ないでしょー? それともお姉さんの恋の相談に乗ってくれんの? あ、あたしゃコーヒーとハムトーストで。一本松くんは輝が奢ってくれるんだから何でも頼みなさいな」

 言って、荷物を置くなり佳歩はお手洗いに出かける。店員をすぐに呼んで、ルージィルの分も含めて注文。
 ちなみに一本松くんは咄嗟にカレーライスとミルクを頼んでいた。四人掛けの席は既に一つしか空いていないせいか、一本松くんは店員が来るまでずっと立ちっぱなし。だが、椅子が来てもなかなか座らなかった。
 先の席に金髪碧眼の青年がいるせいか、それとも佳歩が戻ってくるまで待っている気なのか。「座らないの?」と進めると、難しい顔をしたまま口を開く。

「ご用件は?」
「……は? 用件? オマエ、ここの店員だったのか?」
「いえ。俺がこの場に呼ばれた理由が判りません。『本部』から『赤紙』を渡されていませんから『仕事』ではないことは判りますが、この集まりは一体」
「……特に理由はねーよ。……ただ集まって話がしたかっただけだ。死地をくぐり抜けて来たメンツでな。……仲間だろ? また会いたがってもいいじゃねーか」
「仲間、ですか」
「……半年前に魔王を狩った後、入院したりそっちは寺に戻ったり忙しかっただろ。今日はその宴会みたいなもんだ。佳歩は夜遊びできない身分になったし、オマエは未成年だからこんな所で勘弁してくれ。……それに、航は航で毎日毎晩大変だったみたいだし……」
「ふぅ。まあね、一日二十時間工房に入っていても足りないぐらいだよ。はぁ。そうだ、異端の巣窟を壊滅させたおかげであの一帯の異端被害は激減したらしい。はぁ、輝達は凄いことをしたよねぇ」
「……オマエも参加者だろ、アホ。実際、魔王を捕らえたのは航だっただろが。それと、一本松……」

 一向に椅子へつかない一本松くんに、輝が「……座れ」と強く言い放つ。
 自分より六歳も年上の男に、しかも(任務内での関係とはいえ)上官に言われてしまっては生真面目な少年は大人しく座るしかない。渋々といった感じで彼は席に着く。
 喫茶店のメニューはあっという間にやって来た。特に温めるだけのカレーライスと注ぐだけのミルクは早く到着する。気難しい顔で待つしかなかった一本松くんは早々に口につけた。
 時刻はおやつ頃。昼食を取った後だというのに、食べ盛りの少年は黙々とスプーンを口へと運んでいった。

「……航。そういやあの後、どうなったんだ。封印したっていう魔王は……?」
「えーとね、僕が……。あ、うん、ふぅ。ごめん、ちょっと言えないかも」
「……研究の内容に引っかかるからか?」
「うん。ごめんよ。輝は協力者でも、仏田の一員ではないから。これでも僕、責任者の立場になれたんだ。ふぅ、大きなプロジェクトも立ち上がっていてね、魔王はそれに使う素体にするから……。今はこれぐらいしか喋れないかな?」
「……素体?」
「そんな難しい話じゃない、実験の材料に使うってことだよ。上級魔族は人間と比べものにならない尋常じゃない魔力を宿した血肉を有している。はぁ、何度も聞いていた話だけど、とんでもないんだよ、あれは。上級魔族は総じて凄いって話だったけど、その中でもあの城で異端を率いていた男はとびっきりの上玉だからね。ふぅ。きっと血の一滴だけで、この街全部が吹き飛ぶ火力の爆弾が作れるよ」
「……それは、言い過ぎだろ」
「言い過ぎじゃないさ。はぁ、輝はもう忘れたのかい? 剣を一振りさせただけで城を割っちゃったじゃないか」

 どんなに有能な能力者と言われた輝ですら木っ端微塵の灰になったかと思った、あの一撃。
 真っ赤な炎を纏わせた大剣をただ持ち上げただけで、一面が焼野原になってしまったあの爆発力。大本の魔力が込められた血肉は、金で価値を算出できないレベルの代物だった。

 元々、異端は世界に認められていないイレギュラーな存在だ。
 神は生き物を創った。いかなるものも幸せに生きるように計画的に創り出された。
 だが異端は正しき神ではない者に創られた、あってはならない存在。『欺く神』と呼ばれる悪しき存在によって、幸福を歩む筈の創造物を害するために生み出された害悪。悪神が生んだ悪夢が異端だ。
 負を好み、人々を不幸にするべく食事を繰り返す異端達。その姿はみな禍々しい。そんな異端と同じように、負の感情を得て成長する人型の異端が『魔族』という連中だ。
 彼らは通常の異端と違うのは、人間と瓜二つの姿をしているだけではなく、現界した肉体を所持していること。生命活動を維持できなくなったからといって世界から消滅しない。光になって昇華されることのない、普通の創造物と同じように死体になる。
 異端は神によって創られたものではないから死ねば消える。だが魔族は異端であるにも関わらず消えない。不思議な話だ。魔族は異端と同等とされながら、正なる神が創り出したからという説があるぐらいだ。
 幻ではなく実態を持った魔族の存在。彼らは必要な悪だった、という話がある。

「…………素体って……」
「はぇ? 輝、どうしたんだい」
「……その。……どんなことをされているのかなって」

 例えばの話……吸血鬼という異端がいる。人の血を吸い、血を吸われた人を吸血鬼にしてしまうという悪しき存在だ。
 一般的な吸血鬼は血を吸うことで配下を増やす。配下は配下を増やし、また配下を増やす。では大本の吸血鬼……一番始めの吸血鬼はどうやって生まれたかという話だ。吸血鬼は吸血鬼によって生まれたなら、その吸血鬼はどこから生じたか。
 その基盤となる真なる吸血鬼――俗に真祖や神祖というものだが――を、神がこの世界を創る際に自ら生み出したという。
 どうしてそんな悪の火種を生み出してしまったか。世界を成り立たせるために必要だった、というのもあるかもしれない。生じてしまった概念の渦『いなければおかしい』の結果が始まりの血を誕生させたのか。絶対悪を生まなければならない理由が高等な意思の中にはあったのかも……。

「魔王をどんな研究に使ってるか、訊きたいのかな。ふぅ。残念ながらそれも輝には言えないよ」
「…………。ルージィルのときのような……」
「はぁ?」
「……筒の中に閉じこめて、酷いことしてる、のか?」
「何を言っているんだい。酷いこと? してないよ。P−27だって他に影響を出さないように保護していただけだ。ちゃんと隔離しておかなければ研究している全員が焼き焦げるからね。はぁ。それは魔王の体もだ。奴の目は毒だからね。厳重に保管しておかないと寺に居る全員が発狂死する。僕らがしていることは魔族というシステムの解明だ。そのために魔族というサンプルは必要なんだ。実際にあの国の異端の被害者を減らし、これからの異能事件を減らす一歩になっている。それは間違いない。僕は半年間で減っているのを実感しているほどだよ」
「……そうか」

 申し訳ないが、白熱しすぎた。頭を下げる。
 ……だからそんな、『可哀想だ』みたいな顔をしないでほしい。

「はぁ。これから二十年でも三十年でもかけて取り組んでいく重大な研究のスタートを切れたんだ。ねえ、輝。後であの国周辺の異端事件の件数を調べてごらん。半年だけで確実な成果が出ている。凄いなぁ。僕達、凄いことをしたんだよ。ふぅ。この成果を、他の国にも広げていかないとだね」
「……そうだな」

 『欺く神』が異端を生む。正確には、『欺く神』が排出した創造物である魔族が、世界を蝕む異端を増やしていく、というべきか。
 神話の世界で繰り広げられる神々の陣取りゲームの話はいい。……神によって肉体を持って生み出された魔族は、悪い幻ではなく、人間と同じく血が通った肉だ。
 人間と同じように解剖し、中から神秘を探ることができる。どんなに神が人の幸福を願っていると言われようが、人の身を護れるのは人自身だ。人が悪しき存在を暴き、組み伏していかなければならない。
 そのために僕らは貴重な、異端を生み出す王――魔王と呼ばれる魔族の頂点を生きたまま捕獲した。
 普通の異端では傷が原因で幻として光になって消滅してしまう。だが数の少ない魔族を数体でも監視できれば、生態を暴ければ、どのように魔族が異端を生み出すのかを解明できれば、その逆も解明できれば……。
 つまりは、魔王というサンプルを手に入れることで我々の知識は何十歩も先に進めるようになったんだ。
 魔王だけではない。半年前の異端狩りで何十もの魔族を捕らえることができた。仏田という個人だけでなく、同盟関係を結んでいる他の魔術・異能結社や輝の所属する『教会』でもこの貴重な財産を分配し、更なる研究を進めている。

「輝には、今まで以上に魔王を狩ってもらわないとね」
「……魔王って、そんなにたくさんいるのかよ?」
「いるさ。はぁ。あくまで僕達が狩ったのは『吸血鬼の王』だよ。他にも『人狼の王』や『妖魔の女王』とかがいるんだ。多くの人を守るために……君は戦っているんだろ?」
「……ああ。力があるのに使わなきゃ勿体ないって思っただけだ」

 犠牲者は、多かった。幸い僕らは五体満足で帰ってきたが、激しい戦いで物言わぬまま帰国したエージェント達も数多い。
 しかしその礎があっての進歩だ。輝には直接口にすることはできなかったが、誰もが感謝しているし尊敬している。僕も研究の中央にいて、身に染みて生存者が成した功績の偉大さを味わっていた。

「……どんな人間だって、生きる権利はある。そもそも神様ってやつが幸せに生きるようにしてくれているのに、遊び感覚で幸せを殺されるのは許せない。……たとえそれが世を乱すクソ野郎だろうが、面倒な奴だろうが、理解できない連中でも、幸せに生きている人間は生きるべきだ。無遠慮な暴力で組み伏せられていい訳が無い。だから、戦うことができるオレ達が、『教会』で人を守って、魔王どもを倒して……」
「おかしい」

 まさか佳歩がお手洗いから帰ってくる前に……一本松くんはカレーを平らげてしまった。
 米粒一つ残さず、きっちりと綺麗に皿を片付けてしまっている。そして食事の最後にごちそうさまを言うかというタイミングで、ずいっと言葉を挟んできた。

「はぁ。一本松くん、『おかしい』って?」
「輝様。何故ですか」
「……あ? 何故って、何がだ?」
「『どんな人間だって生きる権利がある』。どうしてそのようなことを?」
「……何がおかしい? 一本松……オマエは、生きる権利の無い人間がいるとでも言うのか?」
「貴方が例えて言ったではないですか。『クソ野郎』、『面倒な奴』、『理解できない連中』と。そういった者達にも生きるべきと言うのですか」
「……人間である以上は。理不尽な死なんてあっちゃならん。それが化け物によるものなら尚更……化け物は倒されるべきで、人間は何があっても救わなきゃいけなくて……」
「輝様。貴方は、化け物すら救おうとしたではないですか」

 佳歩が手を拭きながら席に戻ろうとしていた。だが二人の会話にただならぬ空気を感じたのか、席に近寄ることなくじっとこちらを見つめている。
 テレビのバラエティー番組が佳境でなかったら店の客全員が注目してしまっていたかもしれない。番組は「超能力の真相が明らかに!?」というネタでかろうじて大盛り上がり。だから一斉に視線を奪われ、こちらに目を向ける者はいなかった。そう簡単に超能力の謎が明かされるものなら、その論文を僕に読ませてほしいもんだ。

「結界を打ち破ろうとした際に、妖精を使う案を却下した。それどころか先ほど、魔王や他の魔族さえ気遣う素振りを見せましたね。大勢の被害者を生んだ吸血鬼の王を、仲間さえも狂わせて殺させた王を」
「……それは……。負の感情を食べて成長する異端だって判っていようが、人型だったから、感情移入しちまった。だけだよ……」
「どんな姿をしていても、害悪は害悪です。処罰しなければ平和は取り戻せない。そしてそれは、クソ野郎達にも言えます。彼らも人々の平穏を乱す害悪なら、生きていては困るものです」

 どうしていきなり一本松くんが興奮して捲し立て始めたのか。心当たりがあった。
 一本松という少年は、一族の処刑人としての立場を狙っている。狙っているというか、ほぼ確定でその地位に落ち着こうとしているし、そうあるべきという教えのもとで生活を送らされていたのを僕は見ていた。
 仏田という世界の中。ある王が君臨し、その王を崇めながらも崇高な意思を継いでいく閉鎖的な国で、律する力は必要だ。一本松の父・浅黄も、師である照行も頂点である当主様のために大勢を制している。その世界に乱れが生じたなら、危害を加える『異端』が生まれたなら刈り取る。手段は……力で。
 そういったコミュニティで過ごしてきた処刑人の一本松少年にとって、「どんなものでも生かす」という考えは信じられないものだし、認めてはいけないものだったのだろう。
 しかもそれが本物の異端相手にまで手を伸ばしていたのなら、尚更。たとえ言葉のアヤでも、すぐに訂正しなければ許さない。そんな剣幕だった。

「前々から、輝様には思っていることがありました」

 ……でも、それ以外に……?

「貴方は、白々しい。貴方は、何も考えてないでしょう。貴方は、本当は救いたいとか、人間を救いたいとか、異端でも魔王でも救いたいとか、思ってないでしょう?」
「……は……何を……」
「だって貴方の言葉には一貫性が無いですから。先ほどまで魔王のことを憐れんでおきながら、魔王どもを倒すと言ってみせた。それは、一度や二度ではありませんでしたね」
「…………」
「『その場で一番、形の良いものであろうと取り繕っている』だけだからでしょう。『そうあるのが一番美しい、その場では正解だ、そうあれば皆から納得される』、そんな理想だけを並べていけば、そうなります」
「えっと、はぁ。その、一本松くん、あのね」
「今この瞬間だけ良ければいい、そんな魂胆が見えます。それも仕方ないですかね、『本当の姿』を一切見せないほど徹底した嘘つきですから」

 ……ああ、そうだった、なんで一本松くんが年若いのに半年前の危険な任務に連れ出されたって……『なんでも打ち破る力』を持っているからだった。
 そんな天性の異能の持ち主なんだから、変化の魔術ぐらい簡単に見破れてしまうものなんだろう。
 そして敏感な神経を持った彼は、嘘まで見破れてしまうものか。……いや、これに関して僕も前から薄々勘づいていたことだったが。敢えて口にする機会と理由が無かっただけで。

「……オマエ、何が言いたい?」
「『貴方の言葉は、聞くだけ無駄』。そう思えてしまうものが多すぎるんですよ」

 ――輝は、凄く良いことを言う。
 人を救うことは良い。万物を救える存在は素晴らしい。そのような、小さな子供でも正義だと判るような……綺麗事を。
 それだけならいい。でも彼は単純なんだ。「それが良いこと」という一点だけを受け取っている。
 これも良い、あれも良い、みんな良いなんて言い出し、悪いものに対しても良いと言う。だけど悪いものを良いと言ったら、その反転した良いものを否定が発生してしまう。後から言った『良し』のため、先に言っていた『良し』が説得力を失う。
 本当に先のことを考えていたなら、悪いものを良いと言えることを躊躇う。だけど躊躇わずみんな受けとめてしまうのは、何も考えていないから……が正解だろう。
 受け取ったものを、そのまま返して済ましているからそうなる。輝には、信念が無い。それはたとえ上から押しつけられたものだとしても『高等な意思』だと信じ、そのために力を磨き、訓えのために生きることを選ぼうとしていた一本松くんには不真面目に見えてしまったか。
 そしてそれを……無視できるほど、まだ一本松くんは大人ではなかった。
 僕みたいに「輝はそんな人間なんだね、はいはい」って思ってお茶を濁すことができず、素直な彼は本人に言ってしまった。
 まったく、だからどうしたいんだ、この子は。変に亀裂を生むようなことをして、適当に返事をしておけば大人しくタダ飯が食べられただろうに。

「その場にあった言葉を並べるだけなんて、自分の魂が無いのですか。そんなの、感情の無い異端と同じですね。輝様はそこのホムンクルスでも無ければ人の真似事しかしない魔王とも違うのですから、せめて……」
「ハイ、一本松、ストップ! あたしが居ないところでなにあんたら喧嘩してるの! カレー食べて元気出ちゃった!? じゃあ食後のデザートでも注文して食べてな! あたしの食事まで喧嘩色にしないでくれる!?」

 立ち止まっていたがついにしびれを切らして佳歩が突撃してくる。すっかり成長してすくすく伸びている少年の頭をぐしゃぐしゃと撫で、空いている席にドスンと座った。
 ちなみに、佳歩の注文したハムトーストは人狼だか妖精の女王だかの話題を挙げた頃に届いていた。湯気は漂っていないが適度な温度が残った状態、一番の食べ頃になっていた。

「佳歩さん。…………失礼しました」

 佳歩がばりばりと適度な固さのトーストに齧り付くと、一本松はいたたまれなくなったのか席を立つ。
 彼にデザートのメニューを渡そうとしたが、「自分もトイレに行ってきます」と睨みつけてくる。睨みつけたのは、もちろん輝の方だった。
 ……店内にトイレはあるにも関わらず、その足は外へ。
 暫く空の下で頭を冷やそうと考えているらしい。わりかし冷静な子供だった。
 ほっとするのも束の間、油に火を注ぐようなことをする人物がいる。

「……待てよ、一本松……!」

 輝から離れたくて席を立ったというのに、その輝が追いかけようとしていた。
 僕も佳歩も「それはやめろ」と輝を止めようとしたが、追いかけるべきと決めた輝は止まらない。僕の手を振り払ってでも一本松くんを追いかけていった。
 トーストを噛み千切れていない佳歩に「佳歩、ルージィルを頼んだよ!」とお願いして僕も外に出る。
 佳歩は何かと順応力の高い人だし、ルージィルは輝の五年間の教育によってちょっと無口なごく普通の青年ぐらいの演技はできる。
 帰って来たら二人が仲良くなっていることを祈りながら、少し遅れて喫茶店の外に出た。



 ――1974年7月7日

 【 First /      /     /      /     】




 /7

 駅前は栄えていても、一つ道を外れれば物静かな町になる。
 見失わないように輝と一本松くんを追いかけた。体力があまり無い僕の気遣ってなのか偶然なのか。案外早く二人の追いかけっこは決着がついた。

 路地の裏へと逃げる少年を追って、焦った輝が腕を掴む。
 それがあまりに力強かったものだから、頭を冷やしきれていない一本松くんはムキになって振り解いた。声も無く、ただただ近寄るなと言うかのように。
 駄々っ子と言えば可愛らしいが、殺意すら感じさせる視線なのだから笑っていられない。
 一本松のことは大人しくなるまで放っておくべきだ。なのにそう思わない輝は、振り解こうとする一本松の腕を掴んでそのまま建物の壁へとダンっと押しつけた。

 路地裏、誰も居ない、壁に押しつけ覆い被さる形で一本松くんを留める。
 さすがにここまで来ると一本松くんも何故追いかけっこなんて始めてしまったのか冷静さを取り戻し始め、為されるがままになった。
 壁に覆い被さった男性に「離してください」と言い放つ。目も見ずに。
 いくら物言いができるようになった年とはいえ、まだ一本松くんは十五か十六歳だ。半年前のルーマニアの人外狩りだって早すぎると言われた子供だっていうのに、大の大人が覆い被さったら怖いだろう。僕も近づき、輝に離れるように声を掛ける。

 すると、輝がボソッと何か詠唱をした。
 途端、輝の姿が変わる。……ごく普通の男性のものではない。
 ――炎のような、それこそ魔王と同じような真っ赤な髪。
 面立ちも先ほどまで話していたものではない。
 『対魔力体』である一本松なら一目で判るだろう……その顔は、四年前に当主に就任した光緑様とそっくりだってことも。光緑様が引き継がなかった和光様の赤い髪や紫の眼を持っていることも。
 仏田を担っていく『本部』の男として生きることを約束されている少年なら、その外見が何を物語っているか判ってしまう。

 一本松くんは、眼前で突如姿を現した男を視た。
 魔術を使って姿を欺いていたということは察していたが、面と向かって彼の姿は見るのはこれが初めての筈だ。判っていたこととはいえ、今までとかけ離れた異形の姿に声を失っている。

「……航は、昔……オレに初めて会ったとき、『良いと思う』って言ってくれた」

 腕の中に一本松くんをしまいながらも、ぽつぽつと輝は静かに口を開く。

「でもな……そんな優しい台詞を言ってくれるのなんて、一部なんだよ。……言ってくれるのは、オレを生んだ母さんぐらいだ。あとはオレの出生を知っている照行おじさん。……航みたいな奴もいたけど、他人でオレを認めてくれるのは、いなかったってことなんだよ」

 呼ばれると思ってなかった自分の名。
 ビックリしてしまい、声を掛けようと共に上げた僕の腕は止まってしまった。

「……じゃあ、どうすりゃいいって、そりゃあ……『姿を隠す』のが手っ取り早い。でもって……『思いっきり良い奴』になれば、大抵のことは良くなる。そう、『良い奴』ならどんなに不細工だろうがなんだろうが、認められるんだよ。気持ちの良いことを言って、気持ちの良いことを返して、気持ちの良いことしか言わない奴なら……すぐに心を開いてもらえるんだ。……見た目も普通、言っていることはとにかく良い奴、そんな人間を嫌う要素なんてどこにも無いだろ。ほら、そういうもんだろ……」
「だから、貴方は心のこもっていない言葉を吐くんですね」

 真っ直ぐと言い聞かせる輝に対し、真っ直ぐと返す一本松。
 押しつけられていても、毅然とした態度は一切変わらない。少年は、じいっと紫色の目を見つめ返している。

「さっき言った言葉ですが。輝様は、人の真似事しかしないホムンクルスや感情の無い異端の王と何も変わらない。それはそれでいい。だが俺が気に食わないのは、そんな『ろくな感情も持たない相手』に説教されることでした」
「……は……」
「人間を救う気の無い人間が救済を語らないでほしい。正義も何も無いのに、俺は、自分の感情に素直でない人が……」

 嫌い。
 とでも言うかと思った。

 でも続きは、一本松くんの口から出てこなかった。ばっと止まらず出てきた言葉のようだったが、途中で一本松くんは噤んでしまう。
 不自然な沈黙だった。何か一本松少年の心に思うものがあったのか。先が言えない理由でもあったのか。
 途中まで力強く放った言葉を殺し、彼は俯いてしまう。普段口数の少ない彼の人格をよく知らない僕は、彼が先を言わない理由を察することはできない。
 さて……輝は一本松くんを押しつけながらも、その顔は傷ついていた。
 言い訳をするために一本松くんを追い詰めた。だが力任せにしても解決することはない。それどころか、一本松くんは強い意思で輝のやり方を批難している。言葉を失って項垂れるのは……輝も、同じだった。

「……なんだ……じゃあ……素直に感情をぶつければいいのか……?」

 ぼそっと、呟くようにそう言った後に……堰を切る。

「ひ、輝」
「……じゃあ言ってやるよッ! オレは鬼なんかじゃねえ! なんだよ化け物って! 良い人間を気取ることの何が悪いんだよ! オレは神に近いって言ってくれたよな、航! じゃあ、オレが神様ってやつなら! そんな神様がしてくれるような、人の幸せを第一に考えるような、そんな神様みたいなこと! したっていいよなぁ!」
「輝っ!」
「……ああ、これがオレの全部だよ! 判ったか! 思い知ったか! ……自信を失っていて、自分を取り繕って……受け入れてくれた友人の言葉にならって大層な聖人らしく生きてみたらガキに説教されちまった! 腹が立つなぁ! ……どうだ、無様なオレの、本当の心ってやつだよ、魂ってやつだよ、素直な感情ってやつだよ! ……これで満足か、クソガキ!? こんな汚いもんを見られたら満足だっていうのか!?」

 壁に一本松くんの腕を押しつけて磔にしていただけでなく、顔を近づけて睨みつける。
 胸倉を掴んで、いかにも殴りかかりそうなほどの怒声。
 口は元から悪いが大声を上げることは好まなかった輝が、ひどく怒鳴り散らしていた。……居たたまれなくて、僕はその背中にしがみ付く。一本松くんの腕を捻り上げているのが心苦しかったし、ぜえぜえと息を荒くしている輝を見ていられなかったのもある。

「輝、落ち着くんだ、なぁ……!」

 ――初めて会ったときの彼は、なんて素晴らしい人間だろうと感激する人物だった。
 困っている人を助けてくれて、泣いている人を慰めてくれる人だったから。それが……どのような意図があったとしても、良く見られたいからという下心があったとしても、当時両親を亡くして成果が出ずに一瞬でも死を考えてしまっていた僕を救うには充分なことをしてくれた。
 たとえ心が篭っていなくても、その行為で救われているのだからいいじゃないか。
 ……そう思って、叫ぼうとしても、その間も輝はずっと暴言を口にしていて僕の入る隙は無かった。
 元々僕は言葉を口にするのは下手だ。考えることは好きだし得意だけど、うまく口から出力はできない。どんなに輝を慰める言葉を思いついたとしても、息切れをして巧く言葉を伝えられないでいる。
 今も輝に伝えたい言葉が半分以上も届かないまま、彼の背中に……輝が一本松くんのように冷静さを取り戻すまで、しゃがみついているしかなかった。

「輝様。お願いです。離してください」

 俯いていた一本松が、不自然な沈黙の末に、ようやく拒否の言葉を口にする。
 それを聞いた輝は、暫くして、息が切れたのか何も言わなくなる。
 しゃがみついていた僕を振り解いた。そして詠唱を始める。輝の顔がどんどん変わっていく。黒髪黒眼、どこにでもいるような男性の姿へと……戻るのではなく、前の姿を消していく。

「……ああ、変な時間を取らせた。すまん」
「いえ」
「…………もう一本松とは、会わない方が賢明だな。……会っても、また喧嘩しちまうから……」

 目も合わせず、言い放つ。
 聞いた一本松くんも、「……はい」と頷いた。
 続きの言葉を失った一本松くんは、さっきまで視線を外さず睨んでいた筈なのに……俯いたまま暗い顔をしている。ふと、握りしめた彼の拳が見えた。
 あれは何を意味するのか。何かを耐えているような、吐き出せずにいるような、そんな様子にも思えた……が、本性を引き出すことは今の僕にはできなかった。

「……オレは帰る。佳歩にもそう伝えておいてくれ」
「うん。判ったよ。その、輝」
「…………それと、もう……なるべく会わないようにしよう。航にも、もう」
「え?」
「……すまん。勝手なこと言ってる。でも、今の姿……見せておきながら、またオマエに会える自信が無い。オレには無い……」
「そ、そんな、輝」
「……一本松の言う通りだ。……救いたいから救うんじゃない。……救ってみせれば偉くされて気分が良いから、やったんだ。……自覚しちまったら、気持ち悪くなっちまった」
「輝……」
「……だから、もうやめる。……やめてやる。ああ、ルージィルの報告なら定期的にする。それこそオマエが呼びかけてくれればすぐに連れて行くから。……そうだ、言うの忘れてた。ルージィルの奴、音楽が好きみたいなんだ。やっぱ音楽ってのは偉大だよな。言葉がいらなくても……心が通い合えるってやつらしい。他のホムンクルスがいたらピアノの音とか聞かせてやればいいんじゃないか、胎教ってことでよ……」
「そ、それは凄い発見だね。じゃあ、ピアノを買っておくよ。弾きに来てくれないかな。……だから輝、そういう報告も、今後も僕は聞きたいんだが……」
「……すまん。……帰るな、オレ。ルージィルなら呼べば五秒でこっちに来るから、一緒に連れて帰る。佳歩にはよく言っておいてくれ。……それと、『教会』を辞める手筈ってやつ、してくる。……何にもする気が起きなくなっちまった」
「輝!」

 次々と口早に繰り出す不穏な詞。地の底にもぐったような陰湿な想いを感じる。
 息もできないような暗い圧迫を胸に受けた彼は……自暴自棄になっていた。そのまま突き進もうとさえしていた。

「そこまで……君が築き上げたものを壊さなくていいよ! だから君は短絡的な人間だって言われるんだ! 君がどんな心でしてきた正義だとしても、君の今までの生き方を全部崩す必要は無い! もっと冷静になりなよ!」

 それに……なるべく会わないようにするだなんて、言わないでほしい。
 君と和光様が会える機会を、まだ僕は用意できてない。――今の地位に昇り詰めるキッカケでもあり、始まりでもあったP−27の起動。そのお礼もろくに出来ていないというのに。
 だというのに、なのに、輝は僕の声を振りきって去って行ってしまった。

 ――後日。暫く時間を空けてから、彼に電話をしてみた。

 電話は繋がった。応対だってしてくれた。だけどどこか事務的な態度になっていた。
 『教会』の協力者として仕事に付き合ってくれないかと頼むと、「もうエージェントを辞めた」と言われてしまった。
 あれだけの実績の持ち主、『教会』の上層部も引きとめたかっただろう。
 なんせ魔王の一人を討ち取った力の持ち主だ。年もまだ二十代と若い。……だというのに退魔組織から抜けてしまったとなっては大損失と言えないか。

 それでも、輝は戻る気は無いという。
 それどころか、もう異端と戦うこともしたくないとまで言った。……戦わないという選択肢も間違いじゃない。でも、力があるからと言って戦っていた佳歩に同調していた仲間だった彼が消えたことを思い知って、僕は言葉を失ってしまった。
 説得は、届かない。
 彼は裏の世界を抜け出して、変化の魔術で姿を隠して生きる……それだけの生活を始めると言う。
 悪いことじゃない。決して悪いことじゃ。……けど、戻って来てほしくて何度も説得をした。しつこいと怒られるのも承知だった。

 それほど引きとめたかったのは……ただ、僕が「一緒にいてほしい」という我儘な心からだった。
 P−27開発の協力者という名目で寺に来て泊まってもらうのも。
 友人と呼ばれるのも、相棒と呼ばれるのも。全部が心地良かった。
 魔王退治という大任務は恐ろしかったけど、一緒に戦えることは誇らしかった。楽しくもあった。
 今の自分の地位を確立できたのは輝の無茶な言葉があってのこと。……自分が救われていたのは本当なんだ。

 だから、こんな突発的な話で別れたくはなかった。

『…………ルージィルを、オマエのところに返そうか?』

 電話で必死の説得。
 そうしてお互い疲れ果てた声になったとき。唐突に輝が、そんなことを言ってきた。
 信じられない言葉だった。

「輝」
『……定期的に寺には連れて行くが……教会のエージェントじゃなくなったんだから、オレは招かれなくなるだろ。それだとオマエの研究を……阻害することになる』
「ねえ、輝」
『……せっかく乗りに乗ってるんだから、オマエも変なところで躓きたくないだろ。だから……充分アイツも人間らしくなったから、オマエの元へ返し……』
「君は、自分がラクになりたいから名前まで付けて五年間可愛がってた彼も捨てるの?」

 無言になる。

 ……電話の先の息遣いが、苦しいものになっていく。
 どんな表情で受話器を持っていたか判らない。長い時間を説得に費やし、無言に費やした。
 寺に一つしかない黒電話を何時間も占領するのは気が引けた。けど、最寄りの電話ボックスまでは一時間も掛かる。テレホンカードも手持ちが少ない。だからどんな目で見られようが、無言電話をずっと受けていた。
 長い沈黙でも、電話を切ることなんてできない。
 嗚咽が聞こえても。格好の悪い声だけの通話でも。彼との繋がりを断つ気は無かった。

 聞こえてくるのは嗚咽。僕に判る言葉は無い。
 でも、何かを叫んでいるのは聞こえた。耳を澄ませて辛うじて聞き取れた言葉が、

『……すまない、すまない、ルージィル、オレは、オレは……!』

 自分の過ちに気付いてしまった彼の、謝罪の連続だけだった。

 ――喫茶店で見せていたルージィルと呼ばれた魔導生命体の表情は、無でありながら生きたものだった。
 五年前には視線を向ける、向けないの違いしかなかったのに、自分から発言をするほどには魂が成長している姿が見受けられた。
 そんな彼にも、輝は「会いたくない」って言うのだろうか。「自分の負と向き合いたくない」って思ってしまうのだろうか。
 そんなの、悲しい。僕が育てた訳じゃないけど……可哀想でならなかった。
 輝は僕の予想した以上に繊細な心の持ち主だ。……心配になる。先ほどの、ルージィルを捨てるような一言を言い放ってしまった輝。たとえ手元に置いたとしても、罪の意識に苛まれてしまうのではないか。そればかり考えてしまう。

「ああ、なんでこんなことに」

 ついそう思わずにはいられなかった。
 時間を戻してやり直せるものなら、このやり取りにならないように仕向けたい。何があっても絶対に。何度もそう悔いてしまうほどには、悲しかった。

 ――また数日後。「輝が遠い国に向かった」という話を、言伝で聞いた。

 どこに向かったって、あまり日本では馴染みの無い国名を言われた。北欧だかなんだか判らないが、任務でも何でもなく、長い旅行に行ったらしい。
 どうやらルージィルは一緒に連れて行ってくれたみたいだ。姿を不可視にすることもできるルージィルならどんな世界に連れて行っても平気だと思う。五年で人間らしくなれたのなら、十年、二十年もすれば人間と見間違うほどになるのではないかと期待している。
 それに……僕は、輝が海外に行ってしまったと聞いて、実は安心していた。だって彼は元からフットワークが軽く、色んな国に行ってしまう人だから。
 遠い国で何をするかは判らない。どっか遠くの国で出会った女性と良い仲になったりするんじゃないだろうか。唐突に手紙を送ってくれる粋な事をしてくれるんじゃないか。新しいことを見つけて、まるで今までのことなど物ともしないように楽しみ始めるんじゃないか。
 少しでも彼が立ち直ってくれればいい。そうして、また……前向きに会いに来てくれるぐらいに自分を取り戻してくれれば。

「僕はいつまでも待っているよ。……君が作ってくれた偉大な功績を、無碍になんかしたくないし」

 そう、輝の未来が幸せで溢れていることを願うしかなかった。




END

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