■ 034 / 「末裔」



 ――2005年2月27日

 【     / Second /     /     /     】




 /1

 あたたかいものが欲しい。

 頬に当たる風が痛かった。
 今朝は冷蔵庫以下の気温だ。二月後半なのだから仕方ないとはいえ、路面は凍結しているほどの冬である今日は、「自転車を使うんじゃないよ」と祖母から言われていた。
 あたしが住んでいるところは、都会に言わせりゃ『山奥の田舎町』というものらしい。天気予報で言われるよりもずっとずっと寒い地方だ。
 だから朝は注意しないとタイヤをスリップさせてしまう。長年この山の町に住んでいる祖母は若い頃からその経験があったせいか、あたしが遠出をしようとするたび口酸っぱく言ってきた。
 ほんの少しの遠出でも、冷えた朝の日に自転車が使えない。いつもの場所――藤岡商店に行くにも一時間かけて歩かなければならなかった。

「あら、紫莉ちゃん。一人でお出かけ? 今日はおばあちゃんと一緒じゃないの?」
「おばあちゃんはお花の大会に行ってるの。明日までいないの、だから一人で行くの」

 お店によく来る通りすがりの女の人に笑顔で答える。けれど、「ああ、やっぱ自転車が無いのは面倒だな、くそう」と内心愚痴らずにはいられなかった。
 なんで子供は車の免許が取れないんだ。どこへ行くにも乗り物が必要なのに、こんな寒くて不便な子供が可哀想だと思わないのか、お役所というところは。
 優しいおばさんの「走っちゃダメよ、凍っているから」という声に「ハーイなの」と元気に手を振る。ほうっと呼吸をした。
 息が白い。くそう、寒い。思いながらも駆け足になった。

 小学校から帰って来ても大抵自宅には祖母が居る。
 でも今日は年に数回ある祖母の外出日であり、もぬけの殻になるお家は寒くて居たくなかった。
 友達の家に行くという案もあった。だが夕方まで寂しくなくても、それ以降が駄目だ。祖母の居ない自宅は日付が変わるほどの夜にならないと他の家族が帰ってこない。だったらいっそ一日中家族の居るところに行った方が落ち着けた。

 恥ずかしい話だけど、あたしはまだ小学生。
 自覚があるぐらい寂しがり屋で、それなりにしっかり者を装ってはいるが怖がりの子供であることには変わりない。
 まだ一人でお留守番が出来るほど大人になりきれていないので、たとえ迷惑でも我儘な娘になりきって家族の職場に顔を出したい。
 とはいえ、父は不思議な仕事をしている。
 どこそこの場所でサラリーマンをしているというのではない。呼ばれたところに顔を出して、その場で仕事を貰うという不定期な仕事だ。会社勤めではない父が今、何処に居るのか知らない。
 だけどあたしの兄はとあるお店を持っていた。兄達の母親の実家があったという小さな商店で、あんまり儲かってはいないだろう(そう、子供の目からでも判る)地元密着型日用雑貨店を営んでいる。
 近所の人しか来ない店だ。店内は明るくもないし、最近できたコンビニに勝るものなんて一つも無い。けど、兄は「せっかくのお店を潰す訳にはいかないから」と根気よく営業を続けていた。

 店主である兄は日中ならずっとそこに居る。なら自分もそこに居れば一人になることはない。
 別に行ったとしてもあたしが店番をすることは無い。テレビでも見ながら学校の宿題をしたいだけだが、それでも誰かが居ることが大事だった。

 あたしは早速商店に入るなり、店員を探さず奥の住居部分へと入って行こうとした。
 小さな商店の中は、日用雑貨と駄菓子と若干の食品が所狭しと並ぶ。でも入口には小さなテーブルとパイプ椅子がいくつか置いてあって、そこで学生服の男子達がお弁当を食べていた。
 あたしが現れてもぎょっともしない彼らは、学校を終えた高校生達だ。
 全寮制の男子校の制服に身を包んだ彼らがどうして商店なんかで食事をしているかと言うと、この店から数歩歩いた先に剣道場があり、そこで部活動をする男子達はとりあえず訓練前の腹ごしらえとしてここを使うことが多い。
 高校生だけでなく、剣道教室に通う小学生や中学生もこの店でご飯を食べていた。理由は簡単。この辺りで食事ができる店が平成の不景気のおかげで全て畳まれてしまったことと、この店で提供する手作り弁当が二百五十円という格安だからだ。

 兄は何度も「せっかくのお店を潰す訳にはいかない」という言葉を綴る。
 決して儲かっている商売ではない。まるでボランティアのように学生達に場所を貸し、食事を提供している。
 運動前の少年達がゲラゲラと笑いながら手作りのお弁当を頬張り、気まぐれで駄菓子を買ってはそれも口に放り込んでいく。
 下品な光景ではあるが、この光景はとても必要なもので否定してはいけないものだった。

 そんな光景が広がっているのだから、あたしはここに居る限り寂しくはならない。
 たとえ店員である家族があたしの相手をしてくれなくても、この店に居る限り誰かしらが居る。
 少年達が剣道教室のために去って行ったとしても、次にはお夕飯前にちょっとした買い物にとおばあちゃんやおばさん達がやって来た。
 大人達はあたしが居るとおしゃべりをしてくれるので余計に寂しくはない。今日も数人のおばあちゃんと「紫莉ちゃん、寒くないかい?」「平気なの」「風邪引いたらヤだよう」「あたしもなの」などと内容の無い会話をして時間を潰した。

 夜の七時になれば、冬の空は真っ黒。
 暖房が効いていない店内はひんやりと寒く、兄がひっそりと閉店準備(閉店時間は八時だ)を行なう。
 誰も座っていない椅子やテーブルを拭き、カラのお弁当箱がブチ込まれたゴミ袋を縛る。
 今日の売り上げを確認して、品物の管理簿をじいっと見て……などという、毎日夜になるとする仕事姿の兄を、こちらもじいっと見る。
 ゆっくりと、じっくりとした動きでノートにボールペンを走らせて、ふうっと息を吐く。
 その動きは遅い。あたしの兄はとてものんびりした性格で、焦らず確実に仕事を終える人だった。
 だから、全部の仕事を終えるとき……それは閉店時間ピッタリになる。
 余裕をもって仕事を始めた兄は、どんなに余裕があったとしても急ぐことなくのんびりと仕事を終える。店のシャッターを下ろしたところで、声を掛けた。

「お兄ちゃん。お腹、すいた」

 昨日の売れ残りだと言っていたパンで作ったらしい兄のサンドイッチしか食べていないあたしは、仕事終わりの兄にすかさず告げた。
 全ての仕事を終えた兄は、そんな訴えにも焦らず慌てずのんびりと、微笑む。

「……父さん達は……まだ帰ってこないだろうけど、でも、そろそろ……ご飯の準備……」
「うん。いっしょにするの」
「……紫莉は、お手伝いできる?」
「あたしがお手伝いしなきゃいけないことがあるの?」
「……ううん。オレがすぐ用意するけど……うん、作れるから……」

 静かな声で、囁くようにキッチンに入って行く。
 お店にずっと兄は仕事していた。学生達がガヤガヤと騒がしい食事をしているときも、おばさん達がワイワイとおしゃべりをしているときもずっと商店の中に居たけど、兄は決してお客さんの邪魔をすることはない。
 無口というか、物静かで自己主張をしない人だった。お客さんがいないときは品物の陳列をしているが、静かに本を読んで店番をしているだけ。
 あたしが遊びに来ても何をするということもなく、今日もずっとお会計席で本を読んでいた。
 決して冷たい人でもないし、あたしとそりが合わない訳でもない。
 マイペースなだけで、とても優しい人である彼は一言二言あたしに声を掛けただけでまた静かに作業を始めていた。

 パスタを鍋に湯で始め、ウインナーソーセージや野菜を切って、どちらもフライパンに入れて炒め始める。
 こちらから「何をお手伝いすればいいの?」と尋ねなければ、してもらいたいお手伝いが何かも判らないぐらい一人で料理をする。
 マイペースというか、自由すぎる兄と二人きりの時間は、嫌ではないが結構疲れるものだった。
 彼がトマトケチャップを焼き始めたところで、あたしはフォークとスプーンを用意する。
 会話は少ない。あまりおしゃべりが得意ではない兄らしく、最小限の指示だけで事は進む。

 という訳であたしが置いた皿の上にナポリタンスパゲッティがよそられていく。
 特別何かを交わすことなく。
 父やもう一人の兄はまだ仕事なのか帰ってこないが、九時以降の夕食はしたくないので晩ご飯の時間になった。
 テレビを見ながら、できたてほやほやのナポリタンをいただきます。
 お腹は空いていたし、兄の料理は絶品という訳ではないがお弁当として売り出せるぐらいには無難に美味い。
 ささっと作ってぱぱっと食べられるものが作れる兄。純粋に尊敬していた。

「お兄ちゃんの。おいしいの」

 暫くテレビに見入りながらも、言っておかなきゃいけないなと思ったのでCMの合間に口を開く。
 エプロン姿の兄は目をぱちくりする。その後に唇を上げて、音も無く微笑んだ。
 ありがとうとも言わず、良かったよとも言わず。
 あたしの僅かな感想に満足し、静かに穏やかな笑みを浮かべた。

 ――話は戻るけど、お父さん達は学校じゃ説明できない変な仕事をしている。
 お化けや悪い妖怪を退治するって言っていた。もう一人の兄も、お父さんのお手伝いをしている。
 二人ともあちこちを飛び回っていて忙しい。だから相手をしてくれるのはおばあちゃんと、物静かな方の兄だけだ。

「……紫莉。あんまり商店に一人で来ない方がいい」
「どうしてなの? おばあちゃんは『お兄ちゃん達と一緒に居なさい』って言ってたの」
「…………最近は、危ない。……春は、不審者が出やすいんだ。だから……」
「おばあちゃんが出かけて一人でお留守番する方がずっと危ないと思うの。遠くてもこっちに遊びに来た方が安全だと思うけど?」

 ちょっと語調強めに言い放ってやる。あまり言葉が巧くない兄はすぐに口を噤んだ。
 気が弱いこの人は、言いたいことはちゃんと言うけど言葉がなかなか続かない。あたしに「危ないから気を付けなさい」と言った後は、それ以上何も口を開かなくなった。
 「それでも」とか「だけどさ」なんて続かない。諦めが早い兄は、少しはもう一人の兄のようながめつさを覚えるべきだと妹であるあたしですら思えた。

 物静かな兄は、トレーにスープを二つ分置くと建物二階の居住スペースへ上がって行ってしまった。
 『あたしは一人でもご飯を食べられるから大丈夫』という考えかららしい。
 だから兄は食事を持って……『一人ではご飯を食べられない人』がいる二階の部屋へと向かう。
 スープを零さないように階段をゆっくりと上がって行く後ろ姿を見て、なんだか複雑な気分になった。

 ――こんな感じで、我が家はクールでドライだ。

 あたしのお母さんは交通事故で死んだ。兄二人のお母さんも随分昔に病死している(あたしの実母は後妻だ。病死の次は事故死だなんて、父も運の無い人だ)。祖母や次男が母親代わりをしてくれるけど、みんな個人の時間を大切にしているせいで和気藹々とはしない。
 決して仲は悪いという訳ではない。けど、お花畑で手を取り合う陽気で愉快な仲良しこよしの団欒さは無かった。

 和やかなテレビのバラエティ番組を眺める。
 『結婚したらしてみたい、こんな甘い生活』なんて特集が始まった。『いってらっしゃいのキス』とか、『ハートマークの入った愛妻弁当』とか、『結婚記念日のサプライズイベント』とかを面白おかしく紹介している。
 その中で、『本当に白馬に乗って王子様スタイルで迎えに来てくれる』という展開も流れた。
 出演タレント達は「それはやりすぎでしょう!」と笑っている。観客の声もドッと湧いていた。
 ……紹介された中であたしが一番感動していたシーンが、笑い物になっていた。少なからずショックを受ける。

「……いいじゃん、王子様……。してくれる人が居るだけ」

 ボソッと独り言を言っても、気にする相手はこの食卓には居ない。
 いつか自分にもそんな人が。なんて夢見るのは、まだ小学生なんだから良いだろう。
 現れる確率は現代日本ではとっても低いけど、だからこそ夢を見る。
 いつかカッコイイ大人の男性が、迎えに来てくれる。助けに来てくれる。守ってくれる。
 そんな夢を見るくらいには、あたしはあたたかいものに飢えていた。



 ――2005年10月17日

 【     /     / Third /     /     】




 /2

 物凄く気持ち悪い『紫色の眼』を見た僕は、吐き気を催してそのまま気絶。
 気付いたときには病院のベッドに寝かされ、看護師さんに世話されていた。

「……むーぐー。なんなのさ、一体」

 突然病院の廊下で倒れた僕は、プロの看病を速攻受けたおかげで九死に一生を得た。
 僕が横たわるベッドには、百センチほどしかない幼女が腰掛けて足をぶらぶらしている。「九死に一生は言い過ぎでしょ」と呆れ顔だった。

「だってさー、むぐ。ちっとも大袈裟な話じゃないんだよー? 僕は現に死にかけるぐらい苦しんでたんだから!」

 原因不明の嘔吐に看護師さん達は「暫くベッドで寝ていていい」って話してくれた。けどそろそろ起き上がらないと時間が危うい。
 龍の聖剣がベッドから下りたのを確認して、僕も身を起こした。口の中がカラカラで気持ち悪い。すぐに美味しいものを入れて元気になりたかった。

 僕とカスミちゃんとこなした『緋馬くんが逆恨みされて狙われた事件』は、夜のうちに片が付いた。
 病室に居た緋馬くんが怨霊に狙われていたところを藤春さんが無事撃退してくれたらしい。藤春さんいわく「俺はトドメを刺してねーぞ」だけど、怨霊が張った罠や異形の配下達は全部昇華されていた。
 例の怨霊の気配ももう無くなっている。だからこれは僕とカスミちゃん以外の協力者の力もあって退治し終えたんだ……って思いたい。
 無事、昨晩のうちに解決。ならばと改めて緋馬くんの病室にお見舞いに行って……このザマだ。

「わっ、もう十七時? さっきまで朝だったのに。僕ったら何時間ぐらい寝てたの」
「単純に計算して七時間。今日は何も予定が無くて良かったわね」
「むぐぅ、良くなーい」

 ――僕が見た、物凄く気持ち悪い『眼』。
 赤と青。ぐにゃぐにゃと交じり合って、蛇みたいというか瞳の中で蠢いている……紫色の……とっても気味が悪い光。
 いや、蛇なんて格好良すぎるもんじゃなかった。あれは蛭みたいというか、蛆虫のような……細長くてぐにぐにと動いて、うぞうぞとおごめく不愉快極まりないものだった。
 あの色をもう一度頭に浮かべてしまって鳥肌が立つ。思い出すだけで胸がムカムカした。

 だけどそれは初めて見る恐怖じゃない。
 あれは、一度目じゃない。二度目……? それでもない。
 だってあの眼は、悟司さんのもので……。その前には、多分あそこで……。
 ……そもそも今日のあの子は、誰だ?

「新座、もう起きて平気なのか!?」
「むぐ? し、志朗お兄ちゃん?」
「ひどい顔色だな、今夜は入院していくのか!?」
「し、しないよ!」

 とりあえず運ばれていた病室に、志朗お兄ちゃんがドタドタと入ってきた。
 てっきり藤春さんか圭吾さんが来るかと思いきや。わざわざお兄ちゃんが駆けつけてくれるなんて。もう吐き気なんて(怖いあれを思い出さない限り)無いけれど、顔色はまだ戻っていなかったらしい。
 外はまだ残暑でうっすらと暑い日が続く10月。それでも駐車場から走ってきてくれた志朗お兄ちゃんは、自分の汗も気にせず深刻な顔で僕を覗き込んできた。
 次々に僕を心配する言葉を投げ掛けてくるお兄ちゃんの様子を見ていると、それほど重症じゃない体は「心配しないで!」と言いたくて、みるみるうちに活力を取り戻そうとする。
 お兄ちゃんがもっと騒ぎを起こす前にここを出なきゃ。お世話をしてくれた看護師さん達に深々と挨拶をして、病室を出ることにした。

「あのね、志朗お兄ちゃんが来てくれるなんて思わなかったよ。ありがとう」
「藤春さんが教えてくれたんだ。わざわざ俺に電話をしてくれてな」
「むぐ? お兄ちゃん、今日は仕事だったんじゃないの? 来てくれたのは嬉しいけど良かったの?」
「今日と明日は休みだ。二連休を取っていた。明日、寺に戻ってこいって言われていたからな。『仕事』を与えるだなんだって言うから」

 お兄ちゃんが、お寺に呼び出された?
 能力者として魂狩りをしていないお兄ちゃんに『赤紙』が送りつけられることはない、筈だ。……今までの人生でも「お兄ちゃんが退魔の手伝いをしていた」っていう話は聞いたことはない。
 初めてのことで露骨に焦ってしまう。そんな顔をしてしまったせいか、志朗お兄ちゃんは僕の頭をぐりぐりと強く撫でながら「お化け退治に行く訳じゃねーぞ」と笑う。
 たまに雑用を手伝わされるだけだと、なんてことないように言ってみせた。……けど、「わざわざ呼びつけられて手伝いをさせられている」のだって僕には初耳だった。

「なんだ、新座。そんなに心配してくれるなんて、珍しいな」
「むぐー。いつも僕は志朗お兄ちゃんのことを大事にしている弟だよ」
「そうかそうか。嬉しいこと言いやがって」

 ぐりぐり、ぐりぐりと、撫でるというより頭を掻き乱すような動き。元からボサボサになっていた髪がさらに乱れていく。
 そうだ、身だしなみのことなんて一切考えてなかった。気持ち悪くなって倒れて、それっきり鏡も見ずに病室を出ている今……せめて最低限の身支度を整えなければ。
 男子トイレに入って鏡を覗き込んでみる。確かに心配されてもおかしくないぐらい悪い顔色がこちらを見ていた。
 通り過ぎる人達に比べると病的な色。緋馬くんのお見舞いに来てから倒れて七時間近く仮眠を取っていたにも関わらず、この青白さ。
 多分これ、お水を飲んでなかったりご飯を食べていないから元気が無いんだ。そう自覚すると、急にお腹が減った。
 きっと何か口にしたらすぐ元気になる。顔色だって元通りになるさ。そう、隣に居る彼女の肌ぐらいには健康的に……。

「って、トイレまで一緒に来るの!? 駄目だよ、ロリなんだから男子トイレに入っちゃ!」
「別にしてる真っ最中じゃないんだからいいでしょ」
「良くないよ! してたらここに居なかったんだよね!? そうだよね、信じていいよね!? ほ、ほらおじいちゃんが小をしに来たから出ていかなきゃ!」

 誰かと話をするかのように騒ぎながら一人でトイレを出たもんだから、入って来たおじいちゃんだけじゃなく数人にジロっと見られた。
 普通の人には僕が大きな独り言を叫び乍らトイレから飛び出してきたように見える。物凄く恥ずかしかった。
 近くに志朗お兄ちゃんが居たなら遠くに居る彼と話をしたテイで居られた。けど、気遣いのできる優しいお兄ちゃんはお腹を空かせた僕のためにか、病院の売店へ買い出しに行ってる真っ最中だった。
 なんで居ないのさ、こんなときに。……心遣いは嬉しいけど今はありがたくなかった。

「ねえ、龍の聖剣」
「なあに」
「君は、判らないことを教えてはくれない……んだよね?」
「ええ。以前話したでしょ。『私が直接手を下したら、貴方は消滅する』かもしれないって。……貴方に協力したいけど、貴方に手を貸してしまったら新座は蒸発するわ。新座だけでなく、私が居たところがね」

 時を巻き戻すこととかはしてあげられるけど、と淡々と恐ろしいことを言ってのける彼女。
 彼女に何か尋ねるたびに何度も断られた常套句でもある。初めて出会った空間(渦の巻いた変な異空間)で聞いた話だった。
 実際に蒸発させられたことは無いので彼女の言う消滅がどれほどのものか計り知れないが、何回も言ってくるってことはやっちゃいけないってのは本当……なんだろう、きっと。

「むぐ、じゃあさ。もう『僕が判っていること』を改めて確認してくれるのはオッケーかな?」
「確認?」
「状況を整理したいんだ。それだけだよ。相槌を打ってくれると話し甲斐があって頭の整頓が捗る」
「それぐらいなら。私に頼ってはいるけど、私が何かをする訳ではないから大丈夫よ」
「良かった。じゃあ……まずね。『僕は、紫の眼を見て気持ち悪くなったことがある』」
「…………」
「でも、あの子……朝に会った黒服の子は、悟司さんじゃなかった……よね。むぐ、実は倒れる瞬間のこと、あんまりよく覚えていないんだ……」

 僕が倒れる前に見たものは、黒服を着た青年。
 明るい色の髪に、腕に魂を纏わせた男だった。
 苦痛を押し殺したような顔で、渦の巻いた眼をしたあの子。……名前は知らない。でも昨日の魂を纏っていたってことは……僕らと同じ力を使うってことは、仏田の能力者だ。
 その点に関しては誰かに「昨日の『仕事』に駆り出された子は誰?」って訊けば判る。……僕が訊けばなんでも教えてくれる鶴瀬くんや、どんな資料でもまるっと暗記をしている依織くんに尋ねればすぐ判明するだろう。
 龍の聖剣に聞いてもらえている形で考えていくと、頭の中がスッキリしてきた。これは良い調子だ。病院の待合室で大量に置かれている足の低い椅子に、ふぅと腰掛ける。

「……新座。忘れたことをもう一度知りたい?」
「むぐ?」

 すると、目の前に彼女がてちてちやって来た。
 ニコリと笑いもせずに、僕を見つめてくる。いつもすっごく真面目な顔をする女の子だけど、今日は一段としっかり者の面立ちだった。

「そりゃ、知りたいけど。知らないことが多すぎるから……僕は『二回も』世界をループしてるんだし」
「……そうね、貴方には圧倒的に知識が足りないわ。だから、教えてあげてもいい」
「え」
「記憶が曖昧で不安ならハッキリ思い出させてあげる。貴方が望むなら」
「え、えっ。でも、君は教えてあげられないって……」
「そう。私が手を貸すと貴方は消滅するわ。……でも頑張れば、一部消滅ぐらいでなんとかなる」
「…………」
「かも?」
「かも、なんだ!」

 冗談のようなやり取り。でも龍の聖剣は、微笑みもしない。
 本物のお人形さんみたいにくりくりとした眼をこちらに向けてくる、だけ。
 彼女だって呼吸をしているから胸は静かに上下している。瞬きだってちゃんとする。でも冷静に僕を見つめるその表情は、出来過ぎた人形のようにも思える造形だった。
 『どうしてこんなに綺麗なものを生み出してしまったんだ』って思うぐらいには。

「そんな好条件、断る訳無いじゃん! よろしくお願いします、だよ」

 ……彼女は、すっと僕の左手を掴もうとする。僕はそれを受け入れる。
 小さなもみじみたいな両手が、僕の掌をぽんぽんと叩いた。
 教会で子供達がするお遊戯会の手遊びを思い出す。両手で何が作れるかな、ぽんぽんってやつ。それが一体何なんだ……と思っていると、

「『代償』として、貴方から左手を貰うわ」

 急に左手がガクンと下がった。
 それは彼女が僕の手を放したからだ。突然手遊びをやめたもんだから、僕の手はぶらんとぶら下がるだけになる。

「本来なら、『三度目のループ』を始めたときに貰っておくべきだった。でも、『この世界』を始めたばかりの貴方は、あまりに落ち込んでいたから……私には話せなかった」
「……むぐ。そりゃ、僕は目の前で悟司さんと輝さんが死ぬとこを見たんだよ。志朗お兄ちゃんのときですらショックだったんだ。三日ぐらい寝込むさ」
「だから、何にもしなかった。新座を有利にしてあげることもできたけど、その前に『貴方の精神がもたない』と判断したから何も言わなかったの。でも……こうやって新座にはハッパを掛けないと、先に進めなそうだったから」

 どういうことかよく判らない。けど……なんだか龍の聖剣が、僕を物凄く優しくしてくれているのは伝わってきた。
 彼女は大人っぽく冷淡に見える。でも、顔に見せないだけでとっても心配性な子だ。志朗お兄ちゃんや、燈雅お兄ちゃんと同じぐらいには。
 少しだけ、『前の世界』の夜を思い出す。
 僕が何も出来なくなった12月31日。彼女は何をしていた。
 そう、この龍の聖剣って名乗る少女は、ずっと僕の隣で……心配そうに僕を見ていたんだっけ。
 何もしてやれないからって、見ているだけの彼女。何もしないのは冷たいんじゃない。何もしてやれなくて、転がった僕のことをずっと、辛そうな顔で見ていた。
 ……意識が遠退く前に見せていた俯いた顔も、思い出してしまう。

「どうやら、鮮明に思い出してきたみたいね」
「む……ぐ?」

 思い出してきたのは、寸前に彼女が見せていた悲しそうな表情ばかり。
 だったけど、もちろんそれだけじゃなかった。

「……うん、思い出しちゃった。あんな怖いものだったから、いらない記憶だって忘れちゃったんだね。……僕は三回も『あの眼』を受けたことがあったのに、怖すぎて記憶の片隅に追いやってしまったんだ」

 ――『真祖の魔眼』。『邪神の魔眼』と言っていたもの。
 恐怖という恐怖が襲い掛かる幻術。怖いものがやってきて自分を塗り潰し、何もかもを壊していく世界に囚われるという……『精神汚染の魔眼』の記憶が、少しずつ蘇っていく。

「そうね。……死ぬ寸前の記憶は薄れやすいの。だって覚えていたら」
「死ぬ記憶なんて持っていたら正気を保てないよね、普通。……ああ、輝さんの話、思い出してきたよ」

 見つめ合ったら、逃れられない異能。
 今日受けたものは、それとまったく同じものだ。この胸のむかつきも同じだと実感してくる。……三度目なんて受けたくなったなぁ。受けていいもんじゃないよ、決して。

「『二度目の世界』では、悟司さんがその『邪神の魔眼』を持っていた。けど、『三度目の今回』ではあの子も持ってた訳で……」
「そうね」
「そうねって、むぐぅ? なんだよぉ、『邪神』とか名前に付くからすっごいレアなもんだと思ったら、あっちもこっちも持ってるものなのー?」
「……ねえ新座、貴方三回も魔眼を受けたって言ったわね。『一度目の世界』でも貴方は同じものを見たことがあるの?」

 おや、珍しい。僕の言葉を引き出すように彼女が先導している。
 いや、違うか。彼女と一緒に動き始めたのは、ループって現象を始めた二度目からだ。だから一度目の僕の人生について彼女は知らない……のかな。

「うーん、何て言っていいのかな……」

 そうだよと頷いてみるけど、違うとも言える。
 だって『一度目の世界』で受けたものは、曖昧な夢の中の出来事だったからだ。

「悟司さんから受けたものや、今朝見ちゃったあの子みたいに実際見た訳じゃないんだ。……僕がどっかから声を聞いたり、心を受け取ったり、映像を見ちゃったりする力があるのは知ってるだろ?」
「ええ」
「それだよ。……どっかから受信しちゃったんだ。僕自身が見たんじゃなくてさ、僕の力が見せてくれたんだ」

 ――肉の塊の中で生きていた、『赤い男』の眼を。

 そうだ。そのビジョンを見てしまって、気持ち悪くなって、志朗お兄ちゃんを置いて洗面台に駆け出した……それが一番最初の大晦日の出来事だった。
 実際僕の両目が見た訳じゃないから、アレが誰なのかとか何だったのか判らない。……けど鮮明に記憶は思い出されてくる。
 ああ、くっきりと思い出してきてまた気分が悪くなりそうだ。あやふやで忘れないようになるのは良いことだけど、気味の悪いものがずっと頭に残るのは考えものだな……。

「……『代償』を払ってくれたんだから、これぐらいは教えてもいいわよね」
「うん?」
「『邪神の魔眼』なんて大層なモノは、この世に一つしかないの。それは教えてあげる」
「あ、そうなんだ? ありがとう。……ねえ、その魔眼ってやつは大層なモノなんだ?」
「当たり前よ。神の末裔のみが引き継いだ魔眼なのよ。それを……輝は何て言ってたか覚えている?」

 輝さんが?

「えっと、結社……うちが『手に入れていた』んだって。『遠くの強い異端を狩ってきて入手した凄いお宝』だって。それを『悟司さんなら扱えると踏んだ』。あってるよね? ……むぐ? 凄いお宝……なのに、どうしてこんなに持ち主がいっぱいいるの?」
「私、この世に一つしかないって言ったじゃない」

 この世に一つしかない。
 でも僕が体験した中で、三人別人がいる。
 それってつまり……『世界によって、持っている人が変わってる』ってこと?

「……なんで? そんなに変わるの? これって、前に君が言ってた『どうでもいいこと』なの?」
「複数の意図が絡み合った結果、持ち主が移動するようになってしまってるのよ。……でも決まって、貴方の近くに現れる。新座の近くに、というよりは……」
「……『仏田の近く』で」

 うちが『手に入れていた』。『遠くの強い異端を狩ってきて入手した凄いお宝』。
 悟司さんが何故持っていたか、輝さんは『(なんか僕の知らない色んな理由があって)悟司さんが扱えると踏んだから』って言っていた。
 でもつい最近の悟司さんは魔眼を持っていなかった。それは以前、山奥の洋館にお化け退治をしに行ったときに確認済みだ。眼鏡の下には普通の黒眼で、彼はそれ以上の必殺技(以前の世界で、輝さんを殺したものと同じものだろう)を装備している。
 そして今朝、代わりにあの黒い子が持っていた……。

「新座、凄い顔をしてるわ」
「貴重な僕のシリアス顔だよ。カッコイイでしょ」
「コンビニでアイスをどっちにしようか選んでいる顔と変わらないわよ」
「むぐ」

 少し頭を落ち着けよう。……魔眼はあくまで『世界は貴方が関与していないところでも、自然に変動する』一例に過ぎない。
 その魔眼に三度も苦しめられてきたから、つい注目しちゃう。
 気になるんだ。その存在が。
 異端を狩ってきて入手した凄いお宝という言葉自体にも。
 異端を狩るのは、判る。だって悪い連中だもの。僕達が退治しないと多くの人に被害が出てしまうかもしれないし。
 でも、『入手した、お宝』? 僕ら、お宝が欲しくてお仕事をしている訳ではない筈なのに、貰っちゃってる……?
 これは誰かからプレゼントされた物なのか、それともボーナスみたいに付いてきたものなのか。

「むぐぅ、気になったら早く調べないとだよね。じゃないと、また時間切れになっちゃう。調べ方がヘタクソだって今度も悟司さんに怒られちゃうよ」
「なんだ、新座はまた悟司さんに怒られたのか?」

 売店のビニール袋を片手に、志朗お兄ちゃんが帰ってきた。
 透明な袋の中身は、ピーナッツクリームのパンケーキと苺ミルク。僕の好きな物を全部把握しているお兄ちゃんは、カロリー不足の僕が一番欲しているものを的確に選んでくれていた。

「むぐ! 『また』ってなんだよぉ?」
「一ヶ月前に、『仕事』に行ったって日があっただろ。カスミと圭吾さんと悟司さんとで」
「うん、あったね」
「なんでもそのとき、初っ端から悟司さんが本気を出さなきゃいけなかったらしいな。聞いているぞ。相当おかんむりだったって聞いたが?」
「……誰から?」
「鶴瀬から」

 鶴瀬くん。訊けば何でも教えてくれるし調べてくれる。……それは僕にだけじゃなく、志朗お兄ちゃん相手でもそうだった。
 その細やかな仕事っぷりと仕事の早さで働き者だと『本部』で使われているとはいえ、僕が怒られたって話までお兄ちゃんに言う必要は無かったんじゃ?

「あんまり悟司さん達に迷惑をかけるんじゃないぞ」
「迷惑かけようと思ってかけてるんじゃありませーん」

 お兄ちゃんは笑いながら袋を手渡してくる。頬っぺたを膨らませながら、その袋を受け取る。
 出したのは左手。特に意味は無い。ちょうど右手の方が小さな女の子が立って志朗お兄ちゃんの話を聞いていたから、(たとえ彼女が不可視の姿でも)邪魔にならないように逆の手で受けようと思っただけだった。
 五百ミリリットルの紙パックはわりと重い。
 出した左手はその重みに耐えきれず、袋をドスンと床に落としてしまう。

 ――力は一切入らなかった。

「何やってるんだ、新座」
「……あ……。ご、ごめん、志朗お兄ちゃん」

 袋越しでも判る。五百ミリの重さが傾いて、パンケーキをぐにゃりと押し潰していた。
 床に落ちた袋を拾おうと思って前屈みになり、ごく普通の動きで袋を持ち上げる。
 動かない。
 袋が、ではない。左手が、だった。

「…………」
「新座。無理にリハビリなんて、しなくていいんだぞ」
「……リハビリ……?」
「ああ。『なるべく日常生活で動かそうとするのはいい。未だにお前が毎月リハビリに通ってるのは知ってる。でも、無理して腕を動かさなくてもいいって医者にも言われてるんだろ』?」
「…………」
「『利き手の右が動くだけいいじゃないか』。……ほらっ」

 志朗お兄ちゃんはよく判らないことを言う。
 床に落ちた袋を拾ってくれた。
 そして、龍の聖剣が居るから敢えて使わなかった……『僕の右手』へ、わざわざ右手にしっかり持たせるように、袋の取っ手を握らせる。
 右手の指は曲がった。少し重い苺ミルクも平気で持ち上げられる。その間もずっと左手を動かそうとしていた。でも動かなかった。

 そういや……彼女に左手をぽんぽんとされたときから動けずにいた。
 左手はある。でもどうやら僕の左手は。
 ちゃんと付いてはいるけど……消滅してしまったらしい。

 ――世界は、僕の知らないところで『僕の左手は無いもの』として書き換えてしまった。

「……凄いね、龍の聖剣。消滅って言うから、跡形も無く消えて無くなっちゃうかと思ったけど」
「これも『消えて無くなった』と同じじゃないかしら?」
「うん。そうだね。……僕の左手、亡くなっちゃったんだ」
「でもそのおかげで新座は『過去のループ』の記憶を鮮明に引き出すことができるようになったわ。これだけの好条件、相応の代償だとは思わない?」

 平然と言う彼女。頷く僕。
 ああ、確かにそうだ。遊び惚けて時間切れで悔いた今、『三回目の世界』となったらこれぐらい根詰めてやっていかないとダメだって自覚はある。
 でも。……自由に動かなくなった左の指を、右手で摩る。
 壊死はしていない。肌色の五本の指がある。血は通っている筈なのになかなか動かない。
 これじゃあお茶椀を支えるのが精一杯。けどご飯がたくさん乗った丼ぶりを持つのは難しいかも。

 ……好きだったピアノを弾くのは、少し難しくなったかもしれない。
 オルガンは平気かもしれないけど、力のいるものは頑張らないと出来なくなったかも。
 いいや、遊んでいる暇なんて無い。それぐらい本気でやらなきゃまた時間切れで終わる。悟司さんに叱られて、よく判らないまま……目の前で人が死ぬ。そうなっちゃいけないからこれぐらいの代償は……。

 判っていたけど、物悲しいものがあった。



 ――1974年1月15日

 【 First /      /     /      /     】




 /3

 ――鬱蒼と茂る黒く、白い森。

 太陽の光が差さぬほど深い木々。先を陰蔽する霧。人間が先に進むことを拒む枝葉。地中に張り巡らされている根は体力だけでなく、魔力すら吸い取っていく。
 現地人ですら『迷いの森』と崇めて近寄らぬ異界だ。魔の森へ入った者は迷いに迷い、妖精に記憶を奪われいつの間にか森の外にいざなわれてしまうという。
 ここは異形の住む魔界だった。

 攻略部隊が森に入ったのは二日前。上空から見ればたった数キロしかない森は、直線で突っ切ることができたなら数分の散歩で抜けられるとされていた。
 それは飽くまで常識的に考えればの話。しかし訪れる者を弾き飛ばす異形の結界は、四十八時間が経過した今も目的の魔城を隠し続けている。
 だから今日も闇の中でキャンプが張られる。
 四十名ほどの部隊に疲労の色は無い。だが焦り始める者は一人二人ではない。
 なにせ、進めど進めど森が続いていた。歴戦の覇者達が集まり出動していても、広がっているのはただの森。討伐する異端を見つけることができず、武器すら握ることもできず、時間だけが経過していく。
 そうして二度目の夜、森に入って五度目の食事を行なう羽目になってしまった。

 厳重な結界を張ったテントを張り、部隊長達は今後の作戦作戦会議を行なっている。他の者は休めるときに休んでおけと、交代に睡眠を取るように命令が下った。
 退魔組織『教会』の第一線で活躍する全世界のエージェント達が、一つのテントの前で静かに話している。
 部隊は二日間、闇雲に森を彷徨っていた訳ではない。異形の者共が張り巡らされている魔の鎖を断ちきるためにはどうすればいいか思案による思案を繰り返していた。
 その会議の中に、今回の作戦で『教会』の協力者として参加した夜須庭 航の姿もあった。
 二十歳という若さでありながら結社仏田の代表として選ばれた魔術師・航は、森に張られた結界の詳細を話し始める。
 その言葉は聞き取れない。屈強な黒人の戦士もいれば、線の細い白人の魔術師もいる。黒い髪もいれば金色の髪もいて、青い目もいれば緑の目の人間もいた。世界各国、優秀なエージェントが集められた当作戦は、様々な人種の能力者が集合している。よって共通語は英語だ。
 話し声は聞こえる。だが何に白熱しているかは判らない。
 日本語しか話せない子供の俺は、後で下るだろう命令を待つしかなかった。

 休憩用のテントで、同じように待機を命じられた者達と共に保存食を腹に入れた。固いパンと、ただあたたかいだけのスープ。体力を回復するためだけの味の乏しいそれらを流し込んでいると、隣にどすんと座る女がいた。
 退魔組織『教会』に所属する戦士の女だ。自分よりずっと年上の彼女は、何かと自分の面倒を見たがる世話焼きな女だった。
 名前は、佳歩(かほ)という。
 この部隊では四名しかいない日本人の一人で、両手の拳を武器に戦う勇ましい女性だ。彼女が暇潰しに語ったことだが、下に弟が何人もいた長女だったらしい。だから年が若く、他の者達と馴染まず離れて座る自分(理由はある。自分は英語が喋れない。たとえ孤立を望んでなくても、自ら他三十人との交流を断ちきっているということだ)のことが放っておけないようだ。
 海外での異端討伐遠征に積極的な参加をしていた彼女は、他のエージェント達と打ち解けていた。明るく、さばさばとした性格の彼女は大勢に好かれている。それでも今は敢えて孤独の少年の傍に腰を下ろしていた。
 わざわざ隣に来て食事をしたのだから、何か話をしなくては不自然だ。

「……航様は、どんな話を?」

 遠くで大勢と、ゆったり話す彼のことを尋ねる。

「航が言ってること? ……『何処を探しても結界の穴はありませんでしたね。はぁ。さすが王様の住んでいるところは警備です。ふぇ。霞んでいる場所を探すのは無理でしょう。無いんですから』……って言ってる。なによあの人、もう息切れしているの? まだ会議をして五分も経ってないでしょう」

 あれは息切れではない。航はただ、話の途中で「はぁ」や「ふぅ」など溜息を入れる癖があるだけだ。
 何事でも考えながら喋り、エネルギーの大半を思考に費やしているのだと自称していた。だから呼吸が追いつかないんだと、頭に酸素を送るために息をいっぱい吸い込んでいるんだと自分で笑い話にしているぐらいだ。
 一見のんびりとした話しぶりで愛嬌があると受けとめられるが、今は『教会』のエージェント達の中で笑う者はいない。皆真剣に航の意見を聞いている。
 人によってはローテンポの話し方に苛々するかもしれない。何を話しているか聞き取れない外国語でも、航がゆったりと話をしていることだけは伝わってきた。

「……佳歩さんは、航様と長い付き合いではないのですか」
「ちっとも。ちゃんと話したのは今回の合同任務が初めてよ。見るからに工房の中で研究をしている魔術師っぽいじゃない、彼。あたしゃどう見ても外で異端と戦う専門の女だし、縁なんてどうやって作るの?」
「……そのわりには、昨日も親し気に話していたから」
「どんな人でも相手から嫌ってこない限り、あたしゃ拒まないの。その辺今回のチームのみんなはみんな大らかな人ばっかで助かるわぁ。全員、死地をくぐり抜けてきた経験があるからヒトが出来たオトナなんでしょ?」

 言いながら、彼女は頼んでもいないのに自分のパンをこちらの皿に乗せてきた。
 どうしてと見つめると、「あたしね、ダイエット中なの。だから食べ盛りの男の子にあげようと思って」と信じられない冗談を言いながらウインクをされた。
 まだ一戦もしていないとはいえ、これから異端討伐の戦いが待っている。体力回復の食事は決して怠ってはいけない。だというのに押し返そうとしても「アナタ、お腹すいたーって顔してるんだもん。そりゃあげよって思っちゃったの」と彼女は大口で笑った。

 確かに今回の『異端の王』討伐作戦の参加者の中では最年少の十五ではある。
 だが彼女の可愛がり方は、まるで十歳か五歳かの子供の愛で方だった。食糧を分けてくれることは感謝するが、からかわれていることにはあまり良い気分ではない。
 露骨に怪訝な顔をしたというのに、彼女は笑ったまま「食べな食べな」と囃し立てるだけだった。

「……お言葉に甘えて」
「うん、甘えなよ。最期の食事になるかもしれないんだから!」

 休息を命じられた者達は、リーダー達の会議を聞きながら黙々と保存食を胃に入れている。安らかな表情で食事を楽しむ者はいない。またある者は眠りに落ちないものの、目を閉じ、瞑想で身を休めていた。
 暗い夜の森。少ない灯りを中央に、『異端狩り』を目的にして集められた能力者達は言葉を交わす。
 襲い掛かる化け物は現れない。だがこの森には鳥の鳴き声すらない。動物や蛇、虫の影すら無い。
 ここは異常である、気を休めるところではないということが全員の心でもあった。

 会議が終わったのか、リーダー達も黙々と食事をし始めた。皆、沈痛な面立ちではある。
 それでもあまり深刻そうな顔をしない穏やかな笑みの航と、もう一人の日本人は、会議の中央から抜けて佳歩の元にやって来る。
 先ほどまで難しい話をしていたらしい航に、佳歩が「お疲れ様」と言葉を投げ掛けた。するとへらっと気の抜けた笑みを浮かべて目の前に座った。

「ねぇねぇ、航さぁ。さっき『結界に穴を作るしかない』って言ってたけど、実際そんなもの作れるもんなの? やれるならさっさとやってよ」

 やっとパンを口に入れることができた航に次々と鋭い声で飛び掛かる佳歩。もぐもぐと頬張りながらも、航は「可能だとも」とゆったりと頷いた。

「はぁ、異端の作り出した結界はね、人間を拒むために設置されているんだよ。それだけに特化しているから精密で破りにくいんだ。ふう、当然だよねぇ、住処に人間なんて来てほしくなんかないから張ってるんだし。危害を加えるような、人間が踏み込んだら地雷みたいに爆発するようなものではなく……ただ私達人間を追い払うための結界……。ふう、厄介極まりない」
「だから、どうすればその結界を発動させないようにできるの?」
「はあ。人間を追い払うための結界なんだから、人間以外なら通り抜けできるよ。……ふぅ、この森の中央に異端の住処である城がある。城を中心に結界を張られている。その境に、人間以外を通すんだ。そして、はぁ、その者に危害を加えたら」
「『危害を加えたら』?」
「結界内に――血が流れた……新鮮な血と、些細な感情の揺れ動き……察知してしまった異端は、動き始めるだろう。ふう、だからね、ほんの少し、少しだけでいいんだよ。奴らが焦ったり喜んだりする微かな変動。それが充分『穴』になる」

 矢継ぎ早に質問しているからというのもあったが、一さじのスープを滑り込ませながらも航は口を閉ざさない。
 思考し、研究するために生まれてきたような男はひどいおしゃべりだった。ぱくぱくと口を動かしながらも、頭に思い描いていた案の展開を止めはせず、楽しそうに知識を披露していく。

「で、何よ? 穴を作って、そしてどうしろと?」
「穴に目掛けてダイナマイトでも突っ込んで、はぁ、爆発させれば少しだけ砕くことができるよ。我々は扉を見つけることができなかった。ここには壁しかなかった。はぁ。だけど結界を張って見張ってる何者かの目がどこにあるか判れば、ううん、一撃食らわせることができれば、うん、中に入れる扉を発見できる。ふぅ。テコでも動かないような扉でも、そこが出入り口だと判ればきっと……」

 固いパンを齧りながら、深呼吸をしながら、それでいて話を展開させていく男。
 最初のうちはうんうんと頷いていた佳歩だったが、話の腰を折るような「はぁ」とか「ふぅ」などの呼吸に全容の把握を邪魔されていた。
 最終的に、は端的に「……面倒だから要点だけ言って」と深刻そうに頼むほどだった。

「ふぅ、だからねぇ、はぁ、この森で何らかを殺してみれば……血と感情の流出を察知した『結界の門番』が一瞬でも現れるんじゃないかなって。『うちの軒先で何やってるの!?』って。だろぉ、そしたらその門番をとっちめて、城の行き方を聞き出せば……ふぅ、もしくは門番さえいなくなれば結界が無くなるから城自体が現れる可能性がね。そうだな、違う森に妖精がいるなら捕まえて捻り潰してみよう。そうでなかったらアミダくじで誰か一人決めてその人に死んでもらっ……」
「……それでしたら、俺が」
「おや。はぁ、君が、やってくれるかい?」

 この森の異端を倒す。だが結界が張られていて異端の巣窟に入れない。
 結界を崩すためには血が必要だ。なら血を流せばエージェント達が中に入り込めるかもしれない。そんなアイディアがあるなら、すぐにでもするべきだ。

「この部隊で一番の役立たずと言ったら、子供の俺でしょう。なら、今すぐにでも自分が」
「…………だが、それはオレが反対した」

 しかし怒りの色さえ灯した声で、航の案を却下する男がいた。

 自分らの目の前に座ったのは、航だけではない。もう一人、日本人の男が先ほどの会議には参加していた。彼もまた、話し合いを終えてスープを啜る一人だった。
 『教会』のエージェントであり、異端を生み出す『異端の王』討伐という大きな作戦に参加する有能な能力者。リーダー達の会話に口を挟むことができるほど優秀な彼は、先ほどまで黙々とスープを飲んでいた。
 だというのに。男の一言に、佳歩は「でしょうね」と同調した。
 航すら「良いアイディアだと思うんだけどな」と渋い顔をしながらも口を噤んでいる。

 会話は、呆気なく終了した。
 男のたった一言によって無言が訪れる。航はパンを引き千切りながら、また思案する顔になっていった。却下されたのなら次の案を考えるしかない、と前向きに思考を巡らせている。思案にはカロリーが必要だからか、航はあっという間に食事を平らげ一人で次の作戦を考え始めていた。

 ここが無言で掻き込む食事の場になったのなら、自分も貪るだけ。佳歩から貰ったパンを喉の奥へ通し終える。
 すると、皿の上にまた新たなパンが増えた。
 今度は、先ほどの男のものだった。
 何故、と目を向ける。

「……うちで売ってるパンよりまずい。いらねえ」

 却下をした男は、航のように笑いもしない。佳歩のように冗談を言って勧めることもしない。
 ただ、「……いらないから捨てるだけだ。腹減ってないならオマエも捨てろ」とぶっきらぼうに言いながら、ゆっくりとスープを飲み干していた。

 ――彼のやり方は、非効率だ。
 航の案に異論を唱える者はいなかった。唯一反対したのが彼だった。
 何をそんなに拒絶しているか。尋ねると、「無駄に血を流してはならない」、それだけを彼は口にしていた。

 これは無駄な流血ではない。森の中をぐるぐるとループして彷徨い歩く方がよっぽど無駄ではないか。ならば人外の一匹か二匹の首を刎ねるか、この部隊に居る誰かを殺めればいい。それで進展するなら成果を得ることになる。何も起きなくても新たな手へ進める。
 だというのに、方法があるにも関わらず「殺すな」の一点はおかしかった。

 そもそも我々は何をしに遠い国へとやって来た?
 『異端の王』を討伐するためだ。人々を苦しめる悪鬼の元締めを退治するために送り込まれた精鋭部隊であるというのに、その程度のことを躊躇う必要がどこにある?
 四十人全てが選ばれた能力者だ。その血に流れるものは、異端達の好物に違いない。誰かの血を流すことで『異端の王』を止めることができると言ったら、誰もが進んで血を流しただろう。そのために集められた者達なのだから。
 これから強大な敵との対峙が待っている。全員が帰ることは難しい。
 その一人目がここであったとしても、きっと悔いは無い。
 先ほどの案なら、航が言った血を流す一人に自分が立候補してもいい。
 そうだろう? 信じて疑わず、「成功のためなら一歩踏み出さなければ」と彼に口出しをする。
 すると彼は相変わらずの冷めた目で俺を眺めた。熱意も無く俺の言葉を追いかけていた。

「……戦いが始まる前に無関係の奴を殺すなんて許さない。オマエはきっと、『魔王』が倒せたらそれでいいと思ってるんだろ」
「そうですが、それの何が悪いと?」
「……バカか。覚えておけ、ガキ。四十人が、全員が生き残って帰ってこそ任務成功なんだよ」

 そんなの不可能だ。純粋に心に生じた言葉を口にする。
 我々の相手は、異端の頭領だ。多くの人間達に『負の感情』を与え、傷付けてきた化け物達を従える魔王だというのに。だからこその精鋭四十人だというのに、何を綺麗事を。
 ――じゃあどうすればいいのか。何か案はあるのか、貴方には。
 ゆったりと大らかに話す航よりも、静かに淡々とした声でも着地点の無い彼の方がよっぽど苛々してしまう。
 反論をする気は無くても、暫く日本語で話ができなかったのもありその反動か口が止まらなかった。それほど、彼の考えには同調できなかった。

「……黙れ。思いつかなかったからって、ヒトを切り捨てるような戦法は選ぶなよ。……四十人もいるからいい? 違うだろ。やらないなら自分がする? やめろよ。オマエが死んだら悲しむ奴がいるだろ。それは他の連中でも……航が殺せばいいって言った妖精って奴にもいるんだよ。オレ達が倒すのは魔王。奴を倒すこと以外を考えるな」

 まさか人間以外にも及ぶ温情。思わず侮蔑の視線を向けてしまう。
 だが彼は涼しい顔で反論を受ける。隠しきれていない眩しい紫色。その瞳を煌めかせながら、声をぶつけてきた。



 ――1974年1月15日

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 /4

 ――結論から言えば、全員の生還など無理な話だった。

 一人の血で済むかもしれなかった結界解除は、長い時間を費やされることで解呪の魔術に成功。時間が掛かったが解かれた霧の結界の中に、異形達の住む城が現れた。
 膨大な魔力で構成された、幻の古城だ。息を吸えば魔力にありつけるような、神秘の霊地とも言えるその城こそ異端の巣窟だった。
 あとは結界が再度張り巡らされてしまう前に事を終える。森の中にそびえ立つ荘厳な古城に突入した者達は、異端の群れと対峙した。

 この世の化け物という化け物がその城には存在していた。縦横無尽に力を振るう獣もいれば、古代魔術を操る魔族達が竜を率いている姿も見た。鎧の兵士達が武器を構え、形の無い亡霊やただ人を呑みこむためだけに生まれた無知能のスライム達が行く手を阻んだ。
 何十という未知の化け物は、人を苦しめるためだけに悪しき神によって創られている。その者達の悪牙によって、人々は耐えがたい苦痛を味わってきた。

 佳歩は幼い頃に家族を失った。両親も、幼い弟達も全員化け物の餌となった。
 自分の力を磨いたキッカケは家族を殺めた化け物どもへの復讐だったが、次第に「自分のような子が生まれないように」を夢見て『教会』で戦い続けてきた。高等な意思を胸に、偉大な功績を上げ続ける彼女はこの作戦に望んで出向いていた。今も、襲い来る狼を拳で仕留めている。

 航は怨霊というものを恨んでいた。実の母の気を病ませた原因がそれだったという。
 家族から離れて仏田寺に入門した理由を深く語らない。だが今回の参戦を快諾していた。
 新たな知恵を得たい。多くの者を救うためには未開の知恵が必要だから。
 危険な作戦であるのにも関わらず、普段表に出ない彼が作戦参謀として参加する意思は、とても強いものだっただろう。

 大勢の能力者が異端を憎み、それぞれのため武器を振るう。魔術が迸る。
 この異端を消滅させなければ。そのために我々は武器を持ったのだと、全力で振るう。

 蠢く怪物どもがたじろいだ。二十、三十と化け物を斬り捨て、消滅させていく。古い城の中は怪物の体液で満たされていった。
 ある戦士の男が凶悪な爪を持つ鬼に斬りかかる。鬼は激しい交戦の末、力尽き、膝をついた途端青い光になって昇華された。ならば戦士は次の獲物に視線を切り替える……筈が、先ほどまで鬼を狩っていた戦士は、隣で共に戦っていた男を斬り始めた。
 ほんの数秒前まで共に戦っていた仲間を斬り捨てる戦士。
 一瞬のことだった。
 何を血迷った、と叫ぶ魔術師の女がいた。だがその女も百八十度ぐるりと態勢を変えると、仲間であるほどのエージェント達を発火させた。

 味方による突然の凶行に、航が「まさか……!?」と改めて異様の密度の濃さに気付く声を上げる。
 仲間を斬りつけた戦士の男も、味方を数人も燃やした女も、全身をガタガタと震えさせていた。まるで絶対の恐怖に襲われたような、今も尚その恐怖と立ち向かっているような青い顔。そして意味不明な言葉を吐き出しながら、次々と仲間を斬り、燃やしていく。
 それが初めての死者となった。多くの怪物を薙ぎ払い、消滅させていったエージェント達だったが、同士討ちという最悪の死を迎えていった。

 突然の裏切り。恐怖に震えるような悲鳴を上げながら、味方であることも忘れて無造作に力を振るっていく数人。
 異様な光景に踏みとどまって、異常の原因に気付いた。
 古めかしい西洋の豪華絢爛な城のような地獄の舞台。エントランスホールでは魔族が、竜が、無数の化け物達が大勢に牙を向き戦っている。
 その奥。上階に続く階段の上、ただ一つの影だけが、ホールを見下ろし微動だにせず立っていた。

 魔族というものは一見すると人間と区別がつかない。血液ではなく魔力によって体を構成し、正ではなく負の感情を餌にする――人間を苦しめるために存在する種族だとしても。
 遠くから見ればそこにはただの男が立っているようにしか見えなかった。
 中世の貴族を思わせる装い。燃える炎のような赤い髪。無感情な両眼。
 城の中央で、多くの怪異達に守られながらも氷のような瞳で見下ろしている姿は、まさしく『魔王』と呼ばれる者だとしても……一見、ただの人間の男にしか思えない。

 ……一人の戦士が駆けた。
 そこを無慈悲に見つめるあの男こそが我々が求めていたモノに違いないと、両脚に魔力をブーストし、高く高く跳び上がる。
 戦士の剣はさらに魔力によって何十倍にも肥大化し、巨大な暴力となって『それ』が立っていた上階自体を打ち滅ぼす。十メートルはある凶器を力の限り振り下ろしたおかげか、粉々に砕ける階段の下には多くの怪物の姿があった。
 だが、着地した戦士の体は途端に崩れる。
 彼が武器を振り下ろした瞬間には、彼の首は刈り取られていたからだ。

 青い昇華の光が舞うホールの中。先ほどの一撃を振るった戦士の首を片手に持った男が、立っている。
 生首を片手で掴んでいた男は、空虚な瞳で頭しかない彼と見つめ合う。だがその時間も数秒。すぐに生首から興味を無くした魔族の男は、指に力をこめて頭蓋を砕いた。
 飛び散る脳味噌。血潮。
 目玉。握り込む物体を失くした指を舐める男こそ、怪異達の頂点だった。

 ――あれが、魔王。

 異端の王は、ぐるりとエージェント達を見つめる。途端にエージェント達は痛ましい悲鳴を上げ、近くに居る者達に攻撃を仕掛けた。異端も味方も関係無い。逃げ惑うように、逃げ延びるために力を振るう人々。
 どうやら魔王の眼に見つめられた者は、例外なく魂を恐怖の色に染め上げられ、狂気に走るしかないようだった。
 今度はたじろぐのはエージェント達だ。魔王はゆっくりと歩いてくる。
 魔王がいかなる存在か。恐れられてはいた。無意味に突撃するほどこの部隊も馬鹿ではない。
 だが、数百年この地の者達に言い伝えられたものよりも、多くの研究者達の言葉よりも脅威が現存していた。
 鋼色の瞳に魅入られた瞬間に人が堕ちる眼。従来言い伝えられてきた両目を合わせて精神を奪う『魅了の魔眼』とは違う、『相手の視界に入っただけで相手の世界に引き摺り込まれる』超級の呪。
 自分から相手と目を合わせようとしなくても、相手に睨まれた瞬間に意識を奪われてしまう因果壊変の異能。
 『悪しき神』の眷属と言える『異端の王』には相応しい能力。人々を苦しめる異端達の頂点は、睨みつけるだけで心を犯し、絶望に叩き付けることができる。
 見つめられるだけで死ぬ。死んだ後は自在に操られるか、動きを止めた瞬間に首をもがれる。
 圧倒的な力。死が音を立てて近づいてくるような、驚異的な迫力。
 ――それほどの力、興奮せずにはいられない。
 絶望するのは容易いが、同時に胸が高まっていく。それは、新たな知恵を求める航も同じだった。
 あまりの力に、魔眼で精神を犯される前に膝をガタガタと震わせていたが……口元は歪んでいた。見たこともない化け物がそこにいる。体感したことのない異能が繰り広げられている。
 それは新しい智慧を欲した研究者にとって快感だったのだろう。恐怖しながらも惚けた顔で、殺し合う仲間を見つめていた。

 先ほどまで化け物達の屍を築き上げてきた人間達は、同じ人間達によって粛清されていった。
 死んだとしても昇華の光によって消えやしない人々は、無惨にも噎せ返るほどの血の海を作ってホールに散らばっている。魔王と呼ばれる――赤い髪をした大柄の男は、異端が消える青い光を纏いながら、血の海の上を悠々と歩行する。
 その姿を化け物達は止めない。むしろ怪物ですら男の歩みを恐れているように身を引き、道を譲っていた。自分より数メートルも小さい人間大の男だとしても、たとえ姿が人間だとしても、怪物達は彼に服従の色を見せていた。
 不思議だった。思わず魔眼の脅威すら忘れて、一部始終を見つめてしまうほど。
 何故、創造神は人間と同じ形で人間の天敵を創ったのだろうか。
 何故、あのような美しい造形を創ってしまったのか。
 もし背中に鳥や蝙蝠の羽が生えていたなら、奴を異形と心から認めることができただろう。現にそのような化け物はこの城でもいた。
 だがあの魔王は違う。
 大きな角が生えていたら、腕が三本であったら、城を押し潰すほどの巨体だったら。
 だけどあの男は……『ただの男』に見えてしまう。
 二メートルもない体。二本の腕と足。眠たそうに瞼を閉じることだってある。
 たとえ鮮血を身に纏っていても。
 おびただしい魔力をその身に宿していても。
 隣に立つ人間と変わりない姿が、無言で存在していた。

 ホールの中央に現れた城の主は、言葉を発さない。
 無表情は彫刻のごとく端整なもので、血が通っていないように白い。閉じかけていた瞼をゆっくりと見開いていく。
 途端、世界が凍り付いた。

 男が周囲を見る。
 ただそれだけで全てが仕掛けられた。
 奴の視線は、それ自体が猛毒だった。
 魔王の姿に目を向けてしまった者が膝を着く。ガタガタと全身を震わせ、奇妙な悲鳴を上げ始める。背中を向けて走り出す者すらいる。
 それは勇敢な佳歩や、膨大な数の異端を調べ上げてきた航も同じだった。
 佳歩はその場で尻もちをついて動けなくなってしまう。言葉すらろくに発することができず、口をぱくぱくとさせていた。
 航はその場で嘔吐してしまっている。直接毒を受け取ってしまったようで、全身を痙攣させていた。

 身動きが出来なくなってしまえば、どれほど優秀な能力者といえど太刀打ちはできない。
 劣勢だった多くの化け物達が、狂い始める人間を蹂躙し始める。
 竜の異形が何も出来ずに尻もちをつく佳歩に襲いかかった。鋭い爪で彼女の顔を抉り取ってしまおうとする。が、俺の刃がそれを弾いた。
 戦斧で竜の爪を弾き飛ばす。動きが止まった異形の隙を逃がさない。また彼女が次の化け物に襲われる前に吹き飛ばすしか他に無い。だが竜は一体だけでなく、自分一人では彼女を立ち上がらせることもできない。
 だが耀く赤い稲妻が、異形達を薙ぎ払った。
 総攻撃を受けようとしていた者達の眼前に、青白く光る大剣を構える男が割り込む。
 正気を失いかけて呆然としていた佳歩が、剣を構えて全員の前に立つ彼に叫んだ。

「……輝っ、あ、あなた……!?」

 やめろとも、助けてとも取れる声を背に、男――輝は駆け出した。
 一体の竜が大きく口を開け、炎を吐き出した。より多くの死体を飲み込むようにホールを焼く炎だったが、大剣の一線により掻き消えていく。
 彼の剣の炎が、竜のブレスを優っていた。怪異達は異常な剣に一瞬怯む。
 それでも進撃をやめはしない。無数の魔族達が彼一人目掛けて押し寄せてくる。
 だが大勢の前に立つ彼は、英雄のように異形達を斬り伏せていった。
 際限なく現れる化け物。だがそれを黙々と斬り捨てられ、青い光と化していく。
 悪しき神によって生み出された『この世にあってはならないモノ』である怪物達は、人間のように赤い屍となって残ることはない。命を消失した瞬間、正しい者しか存在できない世界は抵抗する異端を消失させる。『欺く神』の気まぐれのより生じた怪異を消すことで、世界を正常な形に戻していく。
 奴らさえ居なくなれば、世界は在るべき姿に戻る。
 奴らを討伐しなければ、ここに生きるべき人の命は歪んで消えてしまう。
 だから力を止めてならないのだと、師である照行様は言っていた。
 あの輝というエージェントも、その意思を胸に力を放出しているのだろう。彼が力を使うのをやめた途端――この部隊全員の命を消してしまう。
 それは、「全てが生き残って帰ってこそ成功」だと言っていた彼が違える訳が無い。

 怪物達を斬り終えたたった一人の戦士は、周囲の昇華の蒼光に包まれ息を吐く。
 決して彼が有利という話ではない。肩を息をしていた。血だって流している。だが剣の構えは崩さずにいた。
 それでも……次々と光が散るホールで、数体の魔族を従えた男へ剣を向ける。

 血臭が充満した城の中、主である赤髪の魔王は閉じていた瞼をうっすらと開ける。すうっと息を吸いこむ。
 禍々しい瞳が、また周囲を見た。
 魔王の眼が不自然な光を灯す。無色で何も映していなかった目は、紫色へと変化していく。
 それが世界を歪曲し、空間一帯にバラ撒かれる猛毒だ。

 鮮やかな色に染まる目が世界を犯していく。視界に入った人間達全てを地獄に叩き落とすように、改変していく。
 運の悪いエージェントの一人が、目が合ってしまったらしく睨まれた瞬間、己の武器であるナイフを自分の首に突き立てていた。
 ナイフを首に刺しては抜き、刺しては抜きを繰り返している。正気を失った彼は止める間も無く、自らの手で死んでいった。

 ――自分には他者の異能を制御できる異能が備わっていた。だからこそ冷静に周囲を把握することができた。
 照行様によって今回の作戦に推薦された理由もそれだ。まだ十五歳ではあるが、人一倍実戦慣れはしている。それに、多くの異能を無効化するほどの『対魔力体』は餌なり盾なり使い道がある。
 そういう使われ方をされるために今回の作戦に参加したのだが、一度も自分は囮や鉄砲玉として使われることはなかった。
 だから今、していることと言ったら……唯一知り合いになれた女の盾になることぐらいだった。
 そんな場違いに染まっている自分だからこそ、魔王と輝という男の凄まじさを客観的に思い知ることができた。

「……く」

 輝は揺らいではいるものの、剣を下ろしていない。
 寧ろ剣を構えているからこそ、『欺く神』の子とも言われる真祖の眼に打ち勝つことが出来たのかもしれない。
 その秘訣は、どうやら彼の操る大剣にあるようだった。

「……ルージィル」

 青白く光る大剣の名を呟き、輝はついに魔王へと距離を詰めた。
 疾走に三秒もかからなかった。全力で駆け抜けてくる戦士に対し、虚無の男は瞳を歪ませる。
 輝の世界が奈落へと変貌しようとした瞬間、刃を盾にするかのように前に突き出し、宙を斬った。

「ルージィル、討ち破れよ……!」

 魔眼が生み出した毒を、斬る。

 異能を無効化する異能。それは自分も保有している。生まれつき天から授かった異能を、他の能力者が所持していても何らおかしくない。
 剣を振るうことで強大な魔力の毒を、文字通り斬り殺してしまった。魔眼を受ける前に、魔眼の呪い自体を昇華させている。
 だから輝は狂わない。魔王の視界に入ろうが、魔王に睨まれようが、呪いを受ける前にその剣に触れた呪いは光にしてしまっているのだから。
 あの武器は、異能を祓う魔剣だったか。
 魔王が睨むだけでなく、彼を護衛する兵士達が同時に輝へと飛び掛かる。鎧の騎士達を斬り裂く剣は、彼らを貫くのではなく……消滅させているようにも見えた。
 そうしているうちに気付いた。
 あれは『命を消したから昇華された』のではなく、『消滅させる魔剣によって消滅させられている』からだった。

 魔王の表情が、変化する。
 眠りに落ちそうだった虚無の色から、目の前で不思議な魔剣を操る男に興味を持ったかのように。
 ほんの些細な変化だったが、魔王の焦点が輝に定まる。唇を少しだけ開く。何か音を発するのではない。呼吸をしただけだった。
 だが魔王が息を吸いこんだ刹那、右手に兵器が握られていた。
 髪の色と同じ燃え盛る炎をそのまま手にしているような、大型で諸刃の西洋剣。右手に掴んだ炎の剣を無造作に天へと持ち上げる。
 俺は叫ぶ。
 瞬間、轟音と共に炎の線が一つ、空間を割った。

 全てを灼く一筋の炎。
 たった一人の男から生み出された、世界に相応しくない異常なまでの暴力。

 城に亀裂が走る。
 剣を振り上げただけで炎の光線が地が裂き、何メートルも抉る。
 巨大な穴は焼け焦げ、プスプスと黒い煙を立てていた。
 厄介な武器を持つ輝を焼ききってしまおうとしたのだろう。炎の上がるクレーターは美しかったフロアを焼き、遺体一つ残さない。炎の中に消えていった人間に興味を失った魔王は、輝のものであろう灰をぼんやりと眺めた後、また眠そうに瞼を閉じようとした。

 一瞬だった。
 侵入者を焼き尽くした『異端の王』が、人間に興味を無くし……伝説通り城の奥深くへ眠りに就こうと、煌びやかな衣装を翻す。
 その場を去ろうと目を瞑った一瞬を、航は逃さなかった。

「は……はぁっ!」

 かつて仏田家当主が『百億の魂を持つ魔物すら縛り上げた』という伝説を持つ啓発の鎖を、魔王の右脚に絡ませる。
 その縛鎖は、いかなる者でも捕らえる頑強な戒め。一度は吐き出してしまった魔力を、全力で込めていく。
 魔術を唱えると同時、力任せに佳歩が鎖を引いた。片足を掛けられた魔王は、いとも容易く膝を着いた。
 魔王の表情は変わらない。彫刻のような冷淡な顔は崩さず、目を開けてゆく。床に膝をついて顔を上げたとき、高速詠唱で二つ目の神域の鎖を召喚し、左腕を獲る。
 王者の両眼が見開かれる。自分を拘束しようとする世界を歪めてしまおうと、瞳に紫色が灯る。
 その間、三秒。
 だけど二秒で輝の切っ先が魔王の右目を貫いていた。

「がっ」

 初めてあの男が、呻き声を上げる。
 不気味なものでも何でもなく、ごく普通の男の声だった。
 輝の剣は引き抜かれる。もう一つ、左眼を狙って振り下ろされる剣……だが、

「輝様っ! ……眼ではなく、首を!」
「っ!? 了解っ……!」

 俺の声に、瞬時に状況を把握した輝は一度腰を低くして、刃を拘束された男の首に刺し込んだ。
 首の骨を砕くような、ガツッという石の音が鈍く響く。大剣で首を粉砕されてもおかしくないほど勢い良く突撃したようだが、切断には至らなかった。
 それでも貫かれた右目と、バックリと割れた喉からは大量の血が噴き出していた。そう簡単な物理的負傷では力尽きず、この世界にある生き物らしく血を噴き出させるものの身じろぎもしなかった。
 右目を潰され大量の血を流し、首の半焼したというのに呻き声を上げても、痛がる様子すらない。おそらくその呻きも、苦痛を堪える声ではなく単なる摩擦音に過ぎなかった。
 だが人間であれば致命傷である箇所を二つも斬りつけられて無事ではない。明らかに動きは鈍くなる。
 今だと航は次々と詠唱を繰り出した。
 何かを掴もうと動かす右腕を鎖で拘束し、残った左脚も拘束し、胴体を雁字搦めに巻き、ぷらんと揺れる首ですら鎖を巻きつける。
 ビクンビクンと動く男。捕らわれた王を救おうと残った魔族達が一斉に飛び掛かって来たが……毒を撒かれなければ人間達は優勢を取り戻す。
 その後は、語るまでも無い。

 ――無力化した『異端の王』は厳重に封印された。
 これから先は航のような魔術師が、いかに王と呼ばれた存在を制御できるかに掛かっている。「一生をかけても研究してみせよう」と、溜息混じりでもなく一言で言いきるほど、航はやる気に満ちていた。

 従っていた化け物達は全て消滅させた。
 魔王が捕らわれた今、もうこの城には誰もいない。異形の影も、妖しい姿も、何一つ。森には何も無い。
 残ったのは何十人ものエージェントの遺体と、魔王の炎が焼いた崩れかけの古城。静かな城は魔族の根城として、膨大な魔力で満たされていた。すぐにエージェント達が結界を張り、拠点とし、怪我人の治癒魔術をかけるなど応急処置が行なわれた。

 俺もまた、焦げ付いた城のホールで、毛布の上に寝かせられる。
 後衛とはいえ佳歩を守るために前に出しゃばってしまった。そのときに負った軽傷だと思っていたものが、実は骨をいくつも折る重体だった。
 事前に飲んでいた航特製の魔薬によって、痛みを感じることなく動いていた。それが悪かったらしい。戦闘と後処理が終わった後にガタがついた体が、身動き一つできなくなっていた。

 仕方ないので目を瞑り、心の中でああでもない、こうでもないと反省をする。
 自分ならこうした、自分がもっと大人で力があればこうできたかもしれない、もしこの知恵を持っていたら、ああ時を越えてこの知恵を数日前の自分に渡せたら……などと夢物語を胸に、一人で瞑想する。
 すると、急に鼻を摘まれた。
 目を閉じて瞑想していた最中に鼻呼吸を奪われ、豚のような声を出してしまう。

「……おう、豚かオマエは。まあ豚でもなんでもいい。ありがとな」

 呼吸を確かめながら開いた目の先には、最低限の治療を終えて体中に包帯を巻いた輝が見下ろしていた。
 起き上がろうとしたが薬が切れかけている今、動こうとすれば激痛が走る。
 それを察した彼は制し、俺の真横に腰を下ろした。

「……オマエがオレの名前を叫んでくれたから、アイツが超必殺技をかましてくる前に逃げることができた。気付かなかったら消しズミになってたからな。感謝してる」

 横たわる俺の髪を、ぐしゃぐしゃと掻き乱してくる男の手。
 褒めているのか嫌な気分にさせているのか、判別に困る雑な撫で方だった。

「……それに、左眼じゃなくて喉を狙えって言ってくれたのも完璧だった。魔王は、魔術の詠唱がなくても口から魔力を吸い取っていたんだもんな……。供給源を断てば体力半減する。よく気付いてくれた」

 呼吸をするたびに魔力にありつけるような場所であることは、森の結界を打ち破った瞬間に判っていた。
 城を管理しているのも魔王自身だったのだろう。彼の陣地で戦闘をしていたのだから、状況を逆転させるほどのものが無ければ勝てる戦いではなかった。
 反省点は考えれば考えるほど、いくらでもある。
 どんなに優秀な能力者が集められたとはいえ、明らかに情報不足だった。『異端の王』討伐は、勇み足過ぎたと言える。
 連日の異端との攻防を繰り広げていた退魔組織の活躍により、怪異の巣窟がルーマニアという国にあると発覚したのはいい。だが、少々急ぎ過ぎた。国の政治も安定していないというのに、なんとか裏の同盟や異能結社と話を進めて今回の作戦の立案までこぎつけたのは良かったが、それから先の期間が短すぎたのが問題ではなかったか。
 ……そうやって、また反省をしてしまう。
 一人で問題と向き合ったとしても、何も解決できないと判っているのだが。

「オレは礼は言ったぞ。……なんだ、まだ何か不満か? ……一本松、オマエは良くやった。ガキのくせに状況を読んで大勢の為に動いてくれていたって聞いたぞ。それによく生き残ってくれた。それに関しても、ありがとなって言いたい……」
「輝様。二十名以上の犠牲が払われたことには、どうお思いか?」
「あ?」

 生存者は十五名。何百もの大群を相手にいて十五名が帰還できたのなら上出来と言えよう。
 だが思ってしまう。もう過ぎたことを悔いるのは男らしくないと言われようが、何度でも思ってしまう。
 もっと良い手段はあったのではないか、と。

 例えば森に入って一日目の時点で生贄を使い、結界を強制的に打ち破っていたら。疲労知らずの能力者達が最善の形で作戦を開始できただろう。
 例えば数人だけを囮にし、魔王の魔眼の効果を事前に知ることができたら。狂気に憑りつかれ、同士討ちという無惨な死を回避することができただろう。

 そうすればもっと多くの人を救えたのではないか。
 全員生き残ることを目指すと言っておきながら、最善を選ばなかったがゆえに犠牲者を増やした彼には、罪があるのではないか。

 ……そう思うのは、自分はのうのうと生き延び、愚痴を吐けるほど元気があるからだった。
 それに所詮、俺は子供だから。最前線ではない自分は武器を振るって連中を殺した訳ではない。それこそ綺麗事を述べて泣き喚くぐらいしか出来ない子供だから、一人……胸の奥で吠えているんだ。

「申し訳ございません。ですが、どうしてもお聞きしたかった」

 実際に声を荒げることない。だが俺は斬り捨てる勇気を持たず、結局救えずにいる『口だけの男』を罵りたかった。
 今回の作戦一番の尽力者であることも知っている。彼が魔王を制したということもこの目で見ていた。それを承知の上で、ならば更なる力の活用があったと文句が言いたかった。

「……どうお思いかって? ……悲しいよ」

 率直に正直に、嘘偽りなく駆け引きもなく輝は心のままを口にしていた。

「……悲しいに決まってるだろ。……全員家族がいた。未練があった。約束された未来だってあったのに、それを歪まされたのだから悔しくて……彼らともう話ができないことが、悲しい、もんだろ」
「それだけですか」

 それ以外の何がある。それ以上の何の感情がある。
 そう言うかのような輝の口ぶりに、内心腹が立った。
 ……俺は、その先を聞きたかった。悲しい結末になると判っていた筈だ。あのような総当たりの作戦だったのだから。
 始めのうちは統率が取れた軍隊のようだったかもしれないが、未知の力に翻弄されて壊滅させられるのは『伝説上の存在』と戦うのだから先を読むことだってできた。輝だけではないが早計な判断と、無意味な平和主義が被害を生んだとは思わないのか。その心を咎める発想も、無いのか。

 俺が指導者であれば、そんなことはさせない。
 百を生かそうとして殺してしまうこの人にはならない。一人を殺して百を生かすようにしてみせるのに。

 力も及ばない、ただ吠えることしかできない子供は……髪の毛を掻き乱されながらも好き勝手に愚痴るだけ。

「へえ。そこまで考えてるなんて……。一本松は大人になったら良い上司になるだろうな」
「いえ、それは」

 どこまで口にしていたか、自分でも判らない。
 いつの間にか勝手に口が動いていて、俺が把握していないままに文句を垂れ流してしまった。

「いうか、やっぱりオマエ……おしゃべりだよな。人見知りはするけど……。なに、愛想は無いが良い奴だっていうのは判った」
「申し訳、ございません」
「……オマエの下で働く奴はきっと幸せ者だ」

 輝は年上だ。地位も高ければ、能力者としての腕も格段に上。彼の操る魔剣に憑く使い魔(金髪碧眼の、精霊の男だった。魔王の魔眼すら打ち消す魔剣の化身と聞いて納得する美貌だった)の高位のものであることは明白で、実力も経歴の華やかさも何から何まで上。敬意を払うのは当然の対象だ。何度も「申し訳ございません」と下げられない頭を下げる。
 すると彼はククッと意地悪そうに笑った。髪をぐしゃぐしゃに乱していた手が、すっと額の方に移動し……優しく撫でてくる。

「……クールに見えて熱い。……そういうの、悪くない。オマエのような人間は好かれるんだ。……一本松ほど人の命を大事にしている奴がいるなら、きっと……今後の『教会』は、いや、仏田は安泰だ。照行おじさんの後釜はきっとオマエになるだろう。……早くオマエがガキを世話してる姿、見てみたいぜ」
「やめてください。俺には似合いません」
「いいや、オマエ、長男なんだろ? チビの世話も得意だろ? ……そのうちオレに子供が出来たらオマエに任せるのもいいかもな。ほら、うちのサーヴァントは子供を怖がらせるのが得意でな……前もルージィルに店番をさせて大失敗させたことがあってな……ああ、オレの家が商店なのは知ってるだろ、そこでな」
「知りません。…………あの、撫でるの……」
「……なんだ?」
「…………」
「……なんだよ?」
「……いえ、気持ち良いので、そのまま続けてください」

 上から優しい笑みが降ってくる。
 撫でる掌が、「ああ、もう少し休んでいろ」と俺の目を閉じさせた。

 俺は、人の命など大事にしていない。
 だって効率よく生かすためなら、効率よく殺せと言っているのだから。
 それに……何よりあの戦いの中で『一番抱えた自分の感情』を挙げるなら、恐怖や絶望感ではなく……ある戦士の首をもがれたときの、興奮だったのだから。
 言われて、「この人は、何も判っていない」と更に愚痴を吐きそうになった。




END

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