■ 024 / 「拒絶」



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /      /     】




 /1

 何年も一緒に暮らした家族がいても、同い年の仲の良い親戚がいても、俺は『俺の大切な人』が一番だった。
 彼さえ無事なら後はどうなっても良いと考えている。非情な人間と思われるかもしれないけれど、それは誰だって同じだ。
 この世界には、いや、この国だけでも一億の人間が暮らしている。その中で限られた千人ぐらいしか一生には会えない。
 千人の中で手と手を取り合えるのはほんの十人。本当に手と手を繋ぐことができるのは、一人しかいない。
 愛する人、ただ一人の人のために生きるなら。
 俺はその人を選んだ。

 ――自分に割り当てられた部屋は、綺麗すぎる場所だった。
 毎年仏田寺に来るたびに使ってもいい部屋が変更されるのはどういった理由なんだ。2005年の最終日に使えと命じられた洋室は、六畳の角部屋だった。
 ドアと窓がある洋室だが中は畳。その上に品の良いカーペットが敷かれ、一端の椅子とデスクが置かれている。この年末数日に俺が泊まるから用意されたんじゃないかというぐらいの新品に、目をぱちくりさせる。傷一つ無い真新しい勉強机に、ついつい荷物も置けなくなった。

 数日分のバッグとでかい紙袋をカーペットの上にどすっと投げ出してみる。
 足元を襲うふわっとした感触。ついついその場に寝転んでしまった。夜になったらこの上に布団を敷くが、このままでも充分眠れそうだ。……流石に日が沈んだら雪が降るぐらい気温が下がる。だから自殺行為なんてしないけど。
 今年から俺だけが一人部屋を使うことになったのは、おそらく『仕事』で独り立ちしたからか。
 今まであさかとみずほと一緒に十畳ほどの部屋を共同に使っていたが、あいつらは別の部屋を使えと女中に言われていた。別に一人になりたいという希望は無かったが、反論する必要も無いので一人で寝転がる。
 掃除はさっきしましたと言うような、度を越した清潔感。
 一人部屋の方が性に合っているが、実家帰省らしい騒がしさは無い。
 少し離れた位置らしいあさかとみずほの部屋に遊びに行くか。他の連中に挨拶をしに行くか。痕一つ無い端整なカーペットに頬ずりしながら考える。……自分には勿体ないぐらいの綺麗な部屋で一人微睡んでいうと、「兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃんーっ!」という騒がしい声と共に、木製のドアが乱暴に開かれた。
 それと同時に、廊下からありえない滑り込みをしてくる弟。
 超突貫、暴走スライディング。ごろごろと廊下からカーペットまでローリング突貫をしてくる馬鹿が一人。

「……何やってんだ、火刃里」
「兄ちゃんおかえりーっ! 何百年ぶりっ!? 帰ってきたならすぐおれのトコ来ればよかったのになんで来ないのさっ!?」

 二歳年下の弟・火刃里はローリングをしながら俺が寝そべる奥まで転がってきやがった。人型のくせにボーリングのように荷物を薙ぎ倒して。
 仏田寺で元気いっぱい修行をしている火刃里は、相変わらず耳が痛いぐらいの大音量で回転している。頭痛を引き起こしかねない絶叫と邪気の無い笑みは暴力とも言える。
 今年は魂を献上するために何回も寺を訪れていたのだから久々でも無いのだが、本当に数百年ぶりの感動的な再会のごとく抱きついてくるので、その場にあった座布団でカバーをした。

「兄ちゃんが来なくてもおれから挨拶に来るからいいんだけどっ! で、なんかオミヤゲはっ!? おれにオミヤゲないっ!?」
「寮から帰ってきただけの学生が土産なんか買ってくるか、阿呆」
「なんだとっ!? 帰りの駅で買ってくればいいのにその程度の気遣いもできない人なの兄ちゃんはっ!? 人間できてないね、おれだったら麗しい弟のためにヒヨコぐらい買ってくるよっ!」
「ヒヨコって生きてるやつか、それとも饅頭の方か?」
「どっちも食えるからオッケーっ!」

 どっちも食うのかよ。……まあ、意地悪してないで、土産に持ってきたものを出してやろう。
 めんどくさいが荷物の一番奥から、火刃里に重くもやわらかいブツを投げてやる。

「ぽふっ!? なにこれっ? むうっ、クマのぬいぐるみっ?」
「ゲーセンで取って来たぬいぐるみだ」
「土産を買ってこないくせに帰り道にゲーセン寄っちゃうんだっ!? 兄ちゃん、人間できていなさすぎだよっ! もう少し人を敬ったり気遣ったりする日本人の心を持つべきじゃないかなっ!?」
「うるせーよ、人間を敬うコマンドなんて搭載されてない弟に言われたくない」
「つーかクマのぬいぐるみなんて女の子みたーいっ! それにこいつ、妙にやる気無い顔だし……」
「最近出始めた新キャラだ。本来なら黄色い鳥と小さい白クマもセットじゃなきゃいけないんだが、生憎そっちはゲットできなかった」
「クマと黄色い鳥と白いので一セットなのっ? わぁー、変なのっ! 兄ちゃんだけに、変なのっ! ぷぷー、ウマいこと言ったっ! いけー、はっしーんっ! びゅばーっ!」

 いや、全然ウマいこと言えてないし。どこにも掛かってないし。
 しかもそいつカタパルト発進するキャラでもないから。どう見てもやる気の無さそうな顔でリラックスしてるクマだろ。
 ぬいぐるみをポンポンとバレーボールのように頭上に飛ばしながら遊ぶ火刃里。男にぬいぐるみはどうかと思ったが、抱えないと持ち運びができないぐらい大きい物体は遊び甲斐がありそうだった。一メートル近い巨体に抱きついて楽しんでいるところを見ると、二日ばかりはこのぬいぐるみで暇潰しができそうに思える。三が日は安泰だ。

「火刃里の部屋は、どこにある?」
「へっ? 夏休みに兄ちゃんが来たときから変わってないよっ」
「そんな人の部屋の位置なんて覚えてられるか。後で行くんだから教えておけ」
「えーっ、兄ちゃんって人間できてないどころか記憶機能も危うい生き物なのーっ? それ相当ヤバくないっ?」
「これでも高校では優等生だ」
「嘘だーっ。髪の毛がオレンジの時点で優等生な訳ないよっ! おれの部屋、マジで覚えてないっ? 本館の、二十メートルある長い一直線の廊下……位置、判るっ?」

 言われて、そんなのもあったなぁと思う。
 ここで生まれ育ってないんだから、ピンと来るもんといったらインパクトのある造りの場所しかなかった。

「そこから橋渡って三つ目のトコがおれと尋夢の部屋っ。思い出したっ? しっかりしてよ、兄ちゃんっ。部屋の位置忘れるぐらい長く帰ってこないからこうなるんだよっ」
「仕方なかろうめ、高校の秋から冬はイベントが集まっているんだ。天下の勇者がいなければ平和は保たれんよ」
「そういうもんなんだっ? おれ、高校って行ってないから判らないやっ!」

 ……そうだった。義務教育を終えた火刃里は、寺で修行に明け暮れる日々を送っている。この家の自営業を手伝うために毎日学んで戦っているそうだ。
 さて、火刃里にやるつもりだった大きな荷物が消えたことで、年末中にやらなければならない仕事の一つが終わった気がした。
 足を投げ出して携帯電話の充電器を探す。この個室にはテレビやラジオは無い。それでも電源タップぐらいはあるので、ここから外の情報を引き出して楽しむことはできる。
 火刃里の突貫を防いださっきの座布団を枕がわりに、ケータイを開いて夕方の時間を潰す。
 冬だから五時になればすぐ真っ暗になる。そうしたらあっという間に時が過ぎていく大晦日。
 こうしてのんびりしてはいられなくなる。その前に俺は、帰省中に返せなかったメールを見ようとした。

「ねえねえさっきねっ! みずぴー達が帰ってきたんだっ! みんなにお帰りなさいませって言われてると思うよっ!」
「あっそ。……藤春伯父さん達、暗くなる前に帰ってこられたんだ。火刃里、会ってきたのか?」
「違うよっ! 兄ちゃんの部屋に来る前に『お客様だ〜』って一本松様が言ってたのっ! ほらっ、あの人って今の結界屋じゃん?」
「知らねーよ」
「えーっ!? 兄ちゃんおっくれってるーっ! 一本松様が見てるから誰がやって来たとか誰が出ていったとかいっしょに居たおれは全部把握してんだーっ!」
「へえ」
「でもさぁ12月は忙しいからって最近修行してくれねーんだよっ! ねぇねぇ兄ちゃんから可愛い弟を修行してやってくださいって頼んでよぉーっ!」
「かったりぃ」

 ところで、結界屋というのは『寺の結界を張っている人」の総称でいいのか。
 山中にある仏田寺の敷地は広い。寺の本殿や住居である屋敷以外にも、火刃里が武術の修行をしている道場や魔術の工房や書庫、倉庫、来賓用の洋館などがある。
 広ければ広いほど見張りも早々立てられない。一応敷地の周囲にはそこそこ高い塀で囲まれているが、人間の侵入は難しくても足が無い霊体も入ってくることはあるらしいから山門以上の結界が必要……って認識で間違ってないかな。
 警備会社の人が監視カメラを覗いて気付くように、結果以内に入ってきたら結界を張っている人が不法侵入者に気付く。
 火刃里の師をしている一本松さんとやらがその職務を担っているのか。……多分、何人と交代でやっているとは思うが。人数の必要な仕事だし。

 手元の携帯電話を見る。時間は、火刃里が来て早十分を過ぎていた。
 結界が張られている厳密な位置は知らないが、石段は早くて登るに数分は掛かる。
 まさか藤春伯父さん一家がめんどくさがって石段下からわざわざ瞬間移動の魔術を使う訳が無いから、確実に石段を自分の足で登ってくる。
 となると、石段を登って挨拶をして、そろそろ使っていい部屋を言い渡される頃じゃないか。
 思っていると廊下に、ドドドドドとけたたましい音がした。「ウマちゃんウマちゃんウマちゃんーっ!」という、弟と似たような騒音がドアの先から聞こえてくる。

「ここだーっ! んにゃーっ! ウマちゃんみっけーっー! しかも火刃里いたー! ひっさしぶりぃーっ!!」
「みずぴーきたー! おかえりみずぴー! ぎゅーっ!」

 火刃里と同じように壊すんじゃないかってぐらい木製のドアを叩き開いて転がってくる。
 なんでそんなにお前ら……出会い頭のテンションが振りきっているんだ。

「火刃里ぃ! さあ土産だ受け取れぇー! 黒ゴマバナナにゃー!」
「受け取ったりーっ! びりびりぃーっ! うわ、なんで帰省土産がバナナなんだよ!? みずぴーのとこバナナ栽培してんのーっ!?」
「東京の人に聞きなよー! んにゃっ!? なにこのでっかいクマ!? 狩りできなさそうな顔してるけどクマだから死んだふりしなきゃにゃー!」
 
 駅構内で売っている都心土産と、ゲーセンで捕った癒し系マスコットを無造作にギャースカ言いながら騒ぎ始める。俺の部屋で。
 すると、ぽてぽてと違う足音が近付いてきた。弟のように騒いで突撃してくるのではない、落ち着いた物腰でぽっと部屋に顔を出す、赤色の髪。

「ねえ、いきなりビリビリって紙を引き千切る音がしたんだけど……。あ、もうお土産開けちゃったんだね?」
「よう、あさか」
「やあ、ウマちゃん。久しぶり。ウマちゃんの方が帰るの早かったんだね。いいな、この部屋。ふっかふかだ」
 
 突進して入ってきたみずほと正反対に双子の兄・あさかが、敷かれているカーペットを触り始める。
 ということは、二人に割り当てられた部屋は例年通りの普通の和室か。

「俺が帰ってくるのが早かったっていうか……。あさか達が遅かったんじゃないか?」
「そうかも。もうすぐ十五時だもんね。ウマちゃんは新幹線の指定席で来たんでしょ?」

 ああ、『本部』から郵送で届いたチケットが時間指定のものだった。
 本来だったら終業式の日のチケットが送られるところだったが、俺から「学校のお化け退治を続けておきたいんです。今後のために」と言い出したら31日まできっちり働くようにという号令のもと、本日の朝に帰省にコースが用意された。
 仕事熱心になったつもりは無い。ただ「一週間も早く寺篭りは嫌だな。電波通じてないところもあるし」と思ったので勤勉家を装っただけなんだが……効果は絶大すぎたようだ。良い判断だった。
 だってもっと早く寺に来てたら絶対大掃除を手伝わされていた。このバカでかい敷地をひたすら掃除なんて……考えたくもない。
 掃除をしなくて済んだとしたら、何だ。正月客の準備か? もしくはおせちの手伝いか? 変わらず31日までお化け退治をさせられるか? どっちにしろ仕事三昧になっただろ。

「……で、藤春伯父さんは?」
「お父さんなら狭山さんと喧嘩してたよ。いつものことだけど」

 喧嘩がいつものことというのも気の毒。あの人達の場合突っかかりがコミュニケーションみたいなところもあるんだが。
 毎年顔を合わせて真剣な話をするたびに喧嘩をしているように見えるような会議をするんだから、見ている側としても辛い。人を縛ることが職務であるような狭山と、正反対に時間に関しては結構ルーズな藤春伯父さんは予想通り相性が悪い。……だから、何かを報告するたびに一悶着が起きる。
 ただの「只今帰りました」の一言にすら文句を言う人と、文句を言われると判っていて斜に構えている人だから、余計にだ。
 俺が退魔業を始めるときも、寮に行くと決まったときも、入院をしたときもあの二人は言い争っていたっけ。そして今日も早速か……。

「ウマちゃん。高校のお友達、できた?」
「……あさか。前にメールで話したの忘れてるのか?」
「ううん。でも改めて訊いてなかったなあって思って」
「運良くサークルに誘ってもらえたからな。早く知り合いは作れた」
「そっか、良かった」
「……なんであさかがそんなに嬉しそうなんだよ」
「え? だって、ウマちゃんってお友達できなそうじゃん? 無理しないと交友関係とか持てなさそうだもん。安心したよ」
「それは普段の俺を知らないから言える台詞だな。実際の俺は相当フィーバーしているぞ。学校中の生徒が俺に抱いてーって迫って来る勢いだ」
「ウマちゃんが通ってる高校、男子校だったよね」
「……気持ち悪いことを考えさせるな、馬鹿」
「もうっ、自分で言っておきながら」

 くすくすと静かに笑うあさかの横で、あっちでは包装紙を雪のように散らかしている騒音二人。二人というと立派な人間様が居るようだが、あんなのネコと小グマで充分だ。
 子供は良質な紙を見ると破りたくなる衝動があると言うが、今は正にそれ。散らかして遊んでやがる。っていうかここ、俺の部屋なんだが。

「兄ちゃんっ! 早く食べようぜーっ! バナナくさいよーっ!」
「おやつにはまだ三十分早くないか?」
「なんで三時におやつ食べなきゃいけないんだよっ? おやつっていうのはあるときに食べないと無くなっちゃう儚いものだって知ってたっ!?」

 お前、どんなサバイバルな生活をしてるんだ。誰とそんなに争ってるんだ。火刃里並みにガキな頭をした人って寺に居たっけ? まさか福広さんとはそんなことしてないよな。
 と、おやつタイムと聞くやいなやあさかがポーチからウェットティッシュを取り出す。「良かったら使って」と俺やみずほに手渡してきた。
 ……なんでウェットティッシュなんか常備してるんだ、あさか。尋ねると困ったように笑いながら、「綺麗好きだからかな?」と人数分を差し出してきた。用意が良すぎるだろ。

「にゃあ、あんまり気にしない方がいいよ、ウマちゃん。あさかの場合、綺麗好きっていうより単に神経質っていうか潔癖症? 便所行ったらちゃんと手洗ってるよね? そんにゃら問題無いってば」
「……ていうか、俺はおやつはまだいいや」
「えっ、兄ちゃん食べないのっ!? 食べようよーっ! そんなんじゃ生きていけないよーっ!? 死にたいのっ!?」

 だから火刃里は一体どんなデッドオアアライブを繰り広げているんだ。

「お前らは先に食べていろ。一個は残しておけよ、火刃里。……先に伯父さんに、挨拶してくる」

 あと、散らかしたゴミは片付けておけよ。
 言いながら入口付近のあさかを洋室の奥に押し込む。あさかが「何も今、行かなくても」と不思議そうな顔をしたが、この際無視をした。

「お父さんなら『榛名の間』に居るんじゃないかな。きっとウマちゃんが行けば元気を取り戻すと思うよ」
「……元気にさせる自信は無いけど、行ってくるわ」
「いってらっしゃい、ウマちゃん」
「なんだよーっ!? 弟には挨拶しに来ないのに叔父さんにはしに行くのーっ!?」

 ああ、そうさ、何が悪い。
 ……バタンと木製の扉を閉じたというのに、火刃里の大声は聞こえてきた。

 廊下に出ると、一気にシンと体温が下がる。
 カーペットの敷かれた畳の部屋と、冷暖房も何も無い板の廊下。まだ太陽は出ていても12月31日。当然襲い掛かる冷気に、全身が震える。
 真新しい家具の匂いも無い冷気の香りは悪くはなかったが、きっと夜に歩きたくなくなる。
 部屋から部屋への移動が億劫。きっと炬燵がある部屋に入ったが最後、一生出られなくなる。あの個室に炬燵が無くて本当に良かった。残念ながら思ってしまった。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /2

 俺の部屋として割り当てられた棟から二つ離れた、独立した館まで時間にして、約三分。
 五分も掛からないからそれほど遠い場所ではない。けど、三分の間に履物を変えて日の下を歩かなければならない。多くの部屋が並ぶ中、『榛名の間』と呼ばれた場所を探すのにも一分は掛かるから……結局どこに行っても億劫で、夜になったら歩きたくもなくなるに違いない。

 さっきのは、洋館ではないとはいえ洋室がいくつかある別館。
 火刃里や福広さん、住み込みで働いている人達の居住スペースである本館とは離れている。
 ここ最近は頻繁に寺へ顔を出すようになったとはいえ、元は半年に一度しか来ることのなかった場所だ。弟が住んでいるからって部屋の位置までは把握できない。
 迷子になったら、誰でもいいから近くを歩いている人を探して訊くのが一番だ。そうでないと遭難したまま凍死しちまう。
 もし何か事故だか事件が起きたら真っ先にどこに行けばいいんだろ? ……まずは山門の方かな。塀を飛び越えたからって森に出たら危ないし。気温的な意味で。

 藤春伯父さんの影響で仏田寺に来ることを『実家に帰る』と言っているが、俺にとって本来の家は都心にあるマンションだ。
 こんなに広くて色んな人が住んでいる場所を、家とは思えない。良くて「ジッカ」という名のホテルという認識だ。ここが元々俺達が居るべき場所だなんだと言われたって、帰るべき場所ではないと思っている。
 現に、藤春伯父さんのいる部屋を目指して歩いている間にも、何人も知らない人と会釈を交わした。
 知っている人ならともかく、知らない人に頭を下げられた。……マンションだって同じ階の人なら十年以上過ごしているんだから顔ぐらい見たことある。けど今は、まったく知らない僧侶や女中に深々と頭を下げられてしまった。
 ……違和感しかない。「早く帰りたいな」と思える家なんて、藤春伯父さんには申し訳ないけど居心地が悪かった。

 ――あさかが言っていた通り、藤春伯父さんは榛名の間と言われる広間に居た。というか、集まっていた。
 落ち着いた色の和服の男性達の中に、一人だけ洋服の人がいる。現実世界と思えない時代錯誤の空間の中で、一人だけジーパンを穿いて上に光沢のあるジャケットを羽織っているんだからよく目立っていた。
 それに、気の抜けた金髪が余計に集団の中で浮いている存在だと知らしめている。遠目でも判る。その奇抜さが、この空間にとっては違和感の塊だとしても、俺を安心させてくれた。

「親父はどうしてる?」

 どんなに厳しい顔をしていても、俺を安心させてくれる伯父さんには違いない。

「……和光様は、自室に」
「生きているんだろうな?」
「…………」
「こら、不安にさせるような顔すんじゃねえ。自室に篭っているだけならいつものことだ。指扇、ちゃんと生存確認はしとけよ。いつ死んだっておかしくないジジイなんだから。……後で部屋に行かせてもらう。先に伝えておけ」
「……藤春様」
「アポ無しに行くと怒るのは知ってる。でも事が事だろ。兄貴がもう……表に出られない以上、ちゃんと話ができるのは親父と燈雅ぐらいなんだから行かせてもらうぞ」
「和光様のお機嫌は優れない今、お会いになるのは……」
「あのな、俺はその和光様の息子だぞ。なんで父親の顔を見るだけなのに機嫌を伺わなきゃいけないんだよ。誤るな、阿呆。そりゃあ、ヤバイかヤバくないかの目測ぐらいはできる。本当に危うかったら身を引くわ。……ん?」

 何人かと話し合っている伯父さんが、俺の方を向く。廊下から覗き込んでいた俺の存在に気付いてくれた。
 手を振ってみる。……あんまり茶化したらいけないような場面だって判っているけど。

「……指扇、とりあえず正月の挨拶まわりは松山さんに任せてくれ。他に用件は無いな?」
「それと」
「それと?」
「……いえ、藤春様にお伝いすることは以上です」
「そうか。……自分の立場ぐらいは判っている。『俺に話せる』ことならすぐに連絡をよこせ」
「…………」
「失礼するぞ」

 偉そうな地位っぽい僧侶さんと真剣な話をし終えた伯父さんは、怖い顔をしていたけど、俺に向き直るなり表情を変える。
 いつもの変わらぬ伯父さんの顔になっていた。

「……伯父さん。お話、無理に終わらせちゃったみたいだったけど良かったの?」
「いいんだよ。それより緋馬、久しぶりだな。学校、楽しくやってるか?」
「それ、前も訊いた」
「ほら、学校の都合って二時間経てば状況変わるじゃねえか」

 ぽん、と頭に手を乗せてくる伯父さん。ワックスで整えていた髪を、ぐしゃぐしゃと掻き乱す。
 他の誰かにやられたら「折角整えた頭を」って言いたくなるが、これは伯父さんの癖のようなものだから黙ってされておく。

「みずほには会ったか? お前らに土産を渡すって走って行ったんだが」
「うん、会ったよ。今、火刃里がそのお土産食べてるんじゃないかな」
「なに、お前は食べなくていいのか」
「残しておけって言ってあるから。……それに、伯父さんが帰ってきたならすぐに挨拶しに行こうって思ってたし」
「そんな面倒なこと、夜の宴会になったらどうせ会うんだから……先にあいつらと遊んでればいいのに」
「……伯父さんが帰ってきたら挨拶しようって最初から決めていたんだ。先にみずほに会っちゃっただけ」
「そうか。……何か俺に話すことでもあったか?」
「うん」
「何だ?」
「……おかえりなさいって、言わないと。ここ、伯父さんのお家だから。伯父さんにとっての家ってここでしょう?」

 伯父さんは一瞬黙る。
 でもすぐに笑ってくれた。

「ただいま」

 感慨深げにその一言を呟き、一度止まった頭の上の手を再度動かし出す。
 ぐしゃぐしゃと、皺がちょっと多い大きな掌が頭を撫でた。今朝方にシャンプーしておいて良かったと本気で思うぐらいに、何度も何度も伯父さんは頭を撫でてきた。

「緋馬。ちょっとだけ間違ってることがあんぞ」
「なに?」
「伯父さんのお家だけじゃなくて、ここはお前の家でもあるんだぞ」
「……。そうは、思えないよ」
「そりゃ、お前は実家って言ったらあのマンションを考えるかもしれないが、本当の家はここなんだ。ここに家族がいて、ここで生まれて、ここで名前を付けてもらったんだからな」
「……そうなんだ」
「そうだ、忘れんなよ。もちろんあのマンションが心地良い家だって思ってもらえるのは、家主である俺には嬉しい限りだが」
「伯父さんが嬉しいなら、俺はあそこが実家だと思った方がいいな」

 そんなこと言ったら伯父さんが苦い顔をする。判っていた。
 でも今日はなんだか、我儘な子供のように思いついた言葉をぽんぽん口に出してしまっている自分がいた。

「……どうしたんだ、緋馬。今日のお前、ちょっと甘ったるいぞ」
「甘ったるい?」
「そんなにゴロゴロ甘えてくる奴じゃなかっただろ? ……寮暮らしで少しだけ寂しくなってたのか?」
「……そうみたい」
 
 そういえばさっきから自分でも意外に思えるほど、ヤケに素直な言葉が出てきていた。こんなキャラじゃないと判っていながら、少し甘えた声を出してしまう。
 伯父さんに少しおかしいと思われながらも、なんとなく「このままでいいか」と考えてしまうぐらい、変に気の緩んだ俺がいた。

 話し込んでいた広間から離れて伯父さんが寝泊まりする部屋に向かう。
 廊下を歩く最中も、「怪我はしてないか?」や「まだ荷物を整理し終えてないんだ」なんて雑談が続いた。
 学校のことなんて電話でいつも話している。荷物なんてあって無いようなものだって知っている。でもどれも初めての話のように食らいついていた。……必死過ぎるだろって笑えてくるぐらい。

「学校は楽しいか?」
「それなりに」
「そうか。以前の学校だと同じこと訊いても『別に』としか言わなかったから……今の高校の方が合ってるってことだな」
「……そうだったっけ?」
「ああ。送ってくるメールもいつもより元気になってるって、あずまも言ってたぞ」

 言ってた。過去形になってしまった藤春伯父さんのパートナーの名前を聞く。
 瞬間的にナイーブになってしまいそうなキーワードをスルーして、なんとか話を続ける。

「俺、そんなメール送ってたっけ」
「前まで『うん』とか『了解』だけで終わってた。今は現状を報告してくれるしな。気遣いができるようになったってことだ」
「……そう伯父さんは評価してくれるけど、さっきも火刃里には『人間ができてない』って怒られたんだ」
「火刃里にか? 一体何したんだ?」
「『兄ちゃんは気遣いができないんだね』とか言われた」
「弟にそれを言われたか。俺から見ればちゃんとメールを返すようになったことだって進歩だと思うぞ」

 今思えば、返信を出さなかった自分はどんだけ面倒くさがりだったんだって思い知らされる。
 進歩か。成長したのか。というか、それは……。
 ネガティブな内容にならないように続けていた話だったが、それでも最終的には言葉が詰まってしまう。「それは……」「それは?」と何気なく続けてしまったが故に、伯父さんに先を急かされてしまった。慌てて次の言葉を探す。

「……伯父さん達とメールがしたいから、メールを返すようになったんだと思う」
「メールが、したいから?」
「……今までは毎日会ってたからする必要なんて無かったけど……転校して、寮暮らしになったら、一人じゃん……。だから、メールして、さ。伯父さんと話、したくなったんだよ」

 黙る。沈黙。無言。
 流れるように進んでいた会話が途切れ、ようやく絞り出すようになったらそんな甘ったれな一言。
 伯父さんは何も言わなくなってしまう。失敗か。……ヤベったなぁ、と隠れて溜息を吐いた。

「はあ、緋馬。お前……案外、寂しがり屋だったんだな?」

 ……そうみたいだ。
 前を歩く伯父さんの背中に、とすっと、顔を突っ伏す。伯父さんは声を上げることなく、急な行為を受け入れてくれた。

「緋馬。俺は……ちょっとお前のこと、過大評価していたみたいだ」
「……そうなの?」
「ああ。緋馬はもう大人で、いつも冷静で、大人達の助けなんてもういらない立派な人間だと思ってた」
「俺も、俺のこと、もうちょっと大人だと思ってた」
「それなのに、こんなに甘えてきて」
「……だめ……?」
「ダメじゃない。……やっぱり、一人は辛かったか?」

 顔は前にしかない。だから背中に突っ伏している俺には伯父さんの表情は見えない。
 けど声は、子供を気にするような親のものになる。
 正直、俺はこの声はあんまり好きじゃない。伯父さんの声は渋くてカッコイイからいつも好きなんだけど、それでも俺的好きランキングの中では下位にあたる声だった。

「辛いって訳じゃないけど……だってもう俺、十七だし。一人って言ったって他の連中も寮暮らしなんだから同じだし。……俺、何言ってんだって感じだけど……」

 けど、本当は、俺は。
 ……ちょっとだけ、ホントにちょっとだけだけど。……寂しかったかもしれない。
 甘えを通り越して弱音が過ぎる。ちょっとだけ自分を落胆した。自分で。

「……今の今まで緋馬はしっかりした奴だと思ってたよ。でも違ったんだな」
「…………」
「驚いてはいるが、決して落胆なんかじゃない。……すまんな、緋馬。俺、お前のことはあまり面倒かけない方が良いんじゃないかって思ってたよ」
「……なの?」
「ほら、お前……あーだこーだうるさいと嫌な顔をするじゃないか。だから、ベタベタ干渉するのは良くないかなって思ってた。それとこれとは違うよな、すまんかった」
「改めて思ったけど俺、凄く恥ずかしいこと告白してるよね。……もう、十七なのに」
「まだ二十歳にもなってないんだガキじゃねえか。親が恋しくなるのも無理もないだろ」
「……それじゃあ、ハタチになったら言っちゃダメなの?」
「……いいや。言いたいと思ったら言えよ。伯父さんは緋馬のこと、いつも間違った見方をしそうだからな。……いつだって訂正してくれていいんだぞ」

 背中に張り付いていたけど、構わず伯父さんが動き始める。仕方ないからその背中から外れると、ぐるりと伯父さんは俺の方に振り返って、改めて頭を撫でた。
 さっきのガシガシとは違って、短く、ヨシヨシと三秒ばかり。
 それでもさっきよりずっと心地良いものだった。

「緋馬は今日の宴会、出るのか?」
「……宴会?」
「宴会っていっても食って飲んで年を越すだけなんだが、皆が集まるお疲れ様会みたいなもんだ。話には聞いた事あるだろ?」
「去年、伯父さんが酒乱したって噂は聞いてるよ」
「この日に暴れないでいつ暴れるんだ」

 伯父さんがお酒で暴走するのはいつものことのような気もするけど。
 この人、完璧超人みたいに優しくて良い人なんだけど、お酒を一定量飲むと大変明るくて愉快な人になってしまって目を開けていられなくなる。それなりに父親好きであるみずほ達でさえも否定し始めるぐらいの酒乱もあるぐらいだ。人間、長所だけじゃやっていけないんだなっていう話をしたくなる。

「伯父さんも出るんだよね? ……俺も、出席していいのかな」
「当たり前だ。お前は自分が思っている以上にこの家には重要な存在なんだぞ。酒を飲む意気込みさえあれば何歳だって参加していいんだ」
「……って、酒を飲むの前提なんだ」
「そりゃあ、宴会だからなぁ? 腹いっぱいになったら寝ればいいし、気持ち悪くなったらすぐに言えばみんな助けてくれる。楽しい宴会だからな、今夜で落ち込んだ気分を払ってしまえ」

 ふと、伯父さんの荷物に目をやる。鞄の中に瓶が入っていた。ラベルは難しい漢字で読めないが、なんだか高そうなお酒だというのは察する。
 今夜飲むつもりで持ってきたんだ。……それほど度数は高くないっぽい。不味いやつをわざわざ持ってくるほど物好きではないから、きっとオススメの一本なんだ。
 俺がじっと荷物を見ていると「これはお前用にしよう」と酒瓶をすぐ見える位置に置き始める。衣服のすぐ傍に立て掛けて、忘れないようにしてくれた。伯父さんが忘れたとしても、俺はそれほど記憶力は弱くない。……こういった約束なら、死んでも覚えているくらいだ。

「……伯父さん。煙草、ちょっとでいいからくれない?」
「うん? 構わんが。持ってこなかったのか」
「学校で抜き打ち検査された時にヤバイことになっちゃったから買ってないんだ。来る途中で買ってくるのも忘れちゃったから……欲しいかも」
「俺の吸っているやつでいいなら」
「それでいいの。……俺、伯父さんの煙草しか知らないし」

 吸いかけの箱を一個、渡される。
 中身は、あと三本残っているだけ。箱の中に小型のライターが入れられていて、いつでも吸えるようにはなっていた。黒の色調と鳥が描かれた軽い箱は、寮に入る前に渡された物と同じ銘柄だ。
 適当に吸って捨てればいいと言いながら伯父さんは荷物を整える。……大切に使わせてもらうよと、俺は愛想良く箱をジャケットの奥にしまいこんだ。



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /      / Fifth 】




 /3

 伯父さんの部屋は個室だった。大昔、伯父さんが仏田寺に住んでいた頃に使っていた部屋らしい。物置のような部屋を当主の弟に使わせるのかと思ったが、そうじゃなくて、伯父さんが立派な部屋を物置のように使っているだけだった。
 そんなゴチャゴチャとした物ばかりの和室から離れて、中庭で煙草に火を付ける。

 伯父さんの家でよく味わった味だった。
 そりゃそうだ、伯父さんが買ってきているものは一つなんだから。俺は一ヶ月ぶりの味を堪能した。
 と言っても、煙草は味を楽しむものじゃない。子供としてはただただ余計に雰囲気を味わうだけ。煙草を吸ってどうだとか、特別美味しいと感じたことはなかった。
 自分が煙草を欲しいと思うのは、なんとなくの惰性だ。吸わなければどうにかなるって訳でもない。
 でも……伯父さんが吸っているなら吸ってみようかなと思った。伯父さんが必要だと言っているなら必要なんだと思っているだけ。
 そんな繋がりでも今は大切なものだと信じている。つまりは何にも拘っていない。彼あっての煙草だった。

 女々しいと思われるかもしれない。実際、客観的に今の自分を見ると気持ち悪い自信がある。
 一人に対して異常なまでの執念を燃やし、『冷静』と評されるだけの性格を演じておきながら、その人の前では猫のように甘える。
 なよなよしていて気持ち悪い。判ってはいるけど、判っちゃいるのに、そうすることがとても心地良いと感じている自分がいた。
 煙草の匂いを改めて嗅ぎながら思う。……これ、臭いのにそんなに良いものなのかって。
 他の銘柄に比べたら上品な味わいだと思う。けどそれは、単に美化しているのではないか。
 本当に良いものなのかどうやって判断したらいいかなんて知らない。自分の中ではある一点が強烈すぎて、正当な判断が下せずにいる。
 一点が、俺の中では大きすぎて、大切なことすぎて他にマトモな判断ができなくなる。それほど彼は俺の内側で占めていた。

 半分以上も味合わないで、足で揉み消した。
 なんだかアイスクリームを一口だけ食べて地面に落としているような気がする。それぐらいなことをしている気がする。見る人から見たら、何やってんだとツッコまれるぐらい。

「何やってんだ」

 実際にツッコんでくる奴がいるから、この寺は実に広い。

「なんでそんなもったいないこと、してんだ」
「……これをもったいないって思うの、寄居は?」
「だって、火を付けて一分も吸ってないじゃん? ウマは何がしたかったワケ?」
「……うるせーな。黄昏たかったんだよ」
「まだ夕方にするには早いよ」
「寄居、欲しいのか?」
「貰わなくても俺は俺で持ってるからいいよ。それにピースって俺には合わないんだよね。渋くて」
 
 同い年の奴がさらりと口にするそれを聞いて、やっぱり俺には合っていなかったんだなと確信が持てた。
 吸い始めて早二年。中学のときから口にはしていたけど抜け出せなかった渋みは、俺一人だけのものではなかったようだ。
 寝間着のようなジャージ姿の寄居は、吸いやすいという煙草を取り出して俺の隣に立った。……どうやら寄居の部屋の前に俺が立っていたらしい。久しぶりの挨拶も無しに会話が進む。そんな寄居とは久しぶりでもなんでもなかった。

「ウマ、ライターだけ貸してくれる?」
「ライターなんて無くても付けてやるよ」

 パチッと指を鳴らすと炎が出る。小柄な炎を目の前まで飛ばしてやった。寄居が小さく声を荒げる。

「ウマの能力、こえーんだよ。普通のライターを貸せ」

 箱の中に入っていた百円ライターを見せた途端奪われ、慣れた手つきで自分の煙草に火を点けていった。
 伯父さんが吸っているものよりも若干細めで、綺麗な色をした煙草だ。隣に来た時点で体臭が煙と同じものになっていることに気付く。……寄居の私室に行ったことはないが、きっとこの匂いと同じ空間なんだろう。
 煙を吸う寄居の横顔。俺より背も低いし、声も高い。だけど早熟に見える大人びた表情。ふうと息を大きく吐きながら白い空を見る顔は……少し疲れているように見えた。

「寄居。お前、体調が悪いのか?」
「ちょっと熱っぽいだけ。冬だからね、風邪引いてもおかしくないじゃん」

 そりゃそうだけどという俺の言葉に相槌を打つように、すぱー、と煙が空を舞う。
 目を閉じて堪能してやがる。煙草の味を知っている呑気な顔つきは、たとえ幼稚な姿でも格好良く見えた。

「一分も火を付けてないって言ったな、寄居」
「うん、言ったよ」
「っていうことはなんだ、一分も前から俺を見ていたってことか」
「恋する乙女みたいにウマを見つめていたんじゃないから安心してよ。寧ろ、恋する乙女だったのはウマだけどね」
「……てめえ、いつから見てたんだよ」
「火を点けるところから。そこで声掛けようかと思ったけど、あまりにウマが愛おしそうな顔してるから躊躇っちゃったんだよね。だって、蕩けそうな顔してるんだもん」
「なんじゃ、そりゃ」
「わかんね。でもそんな顔してたよ、ウマ」

 ゆっくりと煙を吸っていく姿を見ると、寄居ももしかしたら久しぶりに吸う身だったのかもしれない。
 周りが吸えない環境だったのか、この数日間どうしていたか判らないが眼を閉じて味わう姿はそんなことを連想させた。苦労して吸っていた俺とは全然違う。……俺はライターのために取り出した箱を、改めてジャケットのポケットに押し込んだ。大事に。

「乙女の顔ってやつ、ケータイ持ってるならカメラで撮ってあげようか?」
「……いいよ」
「なんだよその顔。情けない顔をしやがって。……どうしたん。ウマらしくないよ」
「寄居のクセに俺を気遣う気か?」
「ああ、俺は寄居だけどウマのことが心配で話し掛けちゃったぐらいなんだぜ。そんだけ今のウマは苦しそうな顔をしてるってことさ。このまま宴会に黙って行ったら罪悪感で良い酒も飲めねーよ。悩みがあるなら言えって」

 ……クソ。なんでお前、そんなにカッコイイ台詞が言えるんだよ。ムカつくな。
 けど、多分……言ったら、寄居も……変に思うんじゃないかな。真剣に返事をしてくれる真面目さはあったとしても。

「ウマ。お前、俺のマスターなんだからさ」
「……あん?」
「『俺の話を黙って聞け』、そう命令しちまえば俺はウマの話を無視できなくなっちゃうんだよ。……サーヴァントはマスターに絶対服従。その代わり力を貰う。そういうもんだろ、『契約』した仲って」

 突然ニヤッと笑った。面白い話でもないのに唇を歪ませて、寄居が煙草に口を付ける。
 ……別に寄居に言うことを聞かせたくて俺がマスターになる『契約』をした訳じゃない。お互い助け合うために、力を増大させるための手段として霊脈をリンクさせる儀式を行なっただけだ。
 じゃないと、寄居は俺に振り回されるだけの奴隷になるだろ。……奴隷が欲しくてマスターになったんじゃないんだから、気の乗らない話に付き合わせる傲慢野郎にはなりたくなかった。
 だから無言。黙り込む。喋らない。
 寄居はすぱすぱと煙を吸って、俺は沈黙する。
 夕陽。雲、煙。
 ……それらが長らく続いた。

 どんだけ黙ったか判らないぐらい時が経ち、寄居がどっか行きそうな素振りさえ見せ始めたとき、

「……俺……恋をしてるのかな」
「えええぇ!?」

 俺は訳の判らぬことを口にしていた。
 つーか変に思うだけじゃなく絶叫までするか、てめえ。

「……いや、まさか、えーと。ウマからまさかデッドボールが来るとは思わなくてね」
「恋する乙女とか言ったくせに」
「それはあくまで比喩表現。だって、ほら……ウマは色恋にべーべー物言うタイプじゃないだろ?」
「うん。確かにそうだ。自分でもそういう性格だとは思う」

 ……けど。

「そうなんじゃないかって、思ってしまって、なんか恥ずかしい。でもな……確信が持てないから、余計に悩んでしまっている」
「確信っつーのは……『本当にその人に恋してるか判らない』ってこと?」
「うん、それ。俺が思っている感情は、別物なんじゃないか」
「ははあ、これほどウマが高等な悩みを抱える青少年とは思わなかったよ。自分の持つ感情が恋か確かなものかも判らないとは」

 文学的だね、なんて意味の判らない感想を呟く寄居。
 けど正直、自分でもよく判らないままでいる。
 ……その人のことを考えると胸が苦しくなる。いっしょに居ると満たされた感覚になる。ありふれた言い方だけど、まさにその通りな感情に襲われている。
 間違いないのは、その人のことしか考えられなくなっていること。心の全てがあの人のことばかりで、それ以外に手がつかない。

「占拠というか洗脳されているってぐらいに、その人が自分の中でいっぱいいっぱいになっている。……これは、恋か?」
「ウマ。申し訳ないが……今のお前、相当面白いことを口走ってるぞ?」
「自覚があるから喋りたくなかったんだよ。……お世辞にも綺麗と言える人じゃない。煙草臭いし酒臭い。記憶力も悪いし、成功してるが不安定な仕事だし、口も悪ければ目つきも悪い。だけど、素直に俺はその人を追ってるんだ」
「あー……それは確かに恋か、信仰か、服従だな」

 ……信仰? 服従?
 美化している目でしか物事を見ていなかった俺に、抉るような表現が口走られる。
 どこからか取り出した携帯灰皿に灰を押し潰す寄居は……「俺の言葉ですまないけどさ」と前置きしてから、

「ウマは、その人を、どうしたいの?」

 と、問う。
 それは……以前、「好きな人をどうもしたくない」と言った寄居から出る、単純で好奇心に溢れた質問だった。
 咄嗟には答えられない。どうしたらいかよく判らない……と、いつかの寄居と同じような返事をしてしまう。
 恋しておきながらよく判らないと投げ出すか? というか、本当に自分が恋してるのか確信が無い中では、蟠りの方が強くて先の段階を考えることすらできなかった。

「じゃあ、恋とかそういうのはどうでもいいや。ウマはさ……その人にキスしたいと思ったことは? セックスしたいと思ったことはあんの?」
「…………う。……ん……」
「今のは、肯定の『うん』?」

 即答できなくて吐いてしまった単なる相槌だ。
 考えると熱くなってくるし、一緒に居たら良いなって思える。けど。それ以上の触れ合いは……うん……?
 ちくしょう、穴があったら入りたいのは俺だけか。

「愛を全て性行為で繋げてしまうのは間抜けかもしれないけど。現代日本の一般恋愛論だと愛を成してからキスをしたいと思うもんだ。だから逆説。キスしたいからそれは愛って思ったワケ。未熟な俺なりの論理学だから、あってるかあってないかはご自由に。それなりにあっている自信はあるけどな」
「……寄居。その人と……セックスをしたいっていうのは、ちょっと違うかもしれない」
「へえ」
「……ただ考えることは、一緒に居たいってことで。その人の言葉や、撫でてくれる手を独り占めしたいという我儘なんだ。これは単なる子供の独占欲か? それとも」
「なあ、ウマ。その人とお前って『他人』だよな?」

 …………。

「それがもし親に抱いている感情だったら、ウマの言う通り子供の独占欲だと思う。けど、親じゃなかったら、たとえ親という見方をしていても、それはその人に対する立派な愛だと思うんだ」

 その人と、俺は『他人』か? ……『家族』……か?
 ……あの人は、生まれたときから俺を抱いてくれていた。言葉を教えてくれて、家を与えてくれて、道理を、倫理を、今の価値観を教えてくれた。
 だけど彼は父ではない。実際に彼を「お父さん」と呼ぶことは許されなかったのだから。
 だから、俺と……伯父さんは。

 ――俺に父は、いない。
 訳があって実父から離された俺は、父の兄、伯父さんの元で暮らすことになった。とても深くて深い事情があったらしいが、十七歳になった今でも直視できていない。自分から説明を求めたことがないのが大きな原因なのかもしれない。
 父親代わりは伯父さんだったが、それでも父親ではなかった。それを物語るように、俺は伯父さんのことを「お父さん」と呼ばせてもらったことがない。呼んだことがあっても。

 確かあれは、小学校にあがったときぐらいだったか。
 それほど年の違わないあさかとみずほが「お父さん」「お父さん」と彼に懐いている姿を見ていた。
 これ以上ない愛おしさを込めて、絶対の信頼を約束されたその呼び方を、ごく普通にあの二人は使っている。
 その二人と一緒に生活していた俺も、何の躊躇もなく、同じぐらい愛おしさを込めて呼んでみた。

 すると非難された。
 誰でもない、愛おしさの対象に。
 「俺はお前のお父さんではないよ」、と。

 ……確かにそれは、紛れもない事実だ。
 でも、小さな子供が自分を守ってくれる男性は……お父さんだろ? それさえも完璧に否定された。……お父さんじゃなかったら、何だったっていうんだ?

 今なら伯父さんなりの優しさだと理解している。俺に間違ったことを覚えさせないために、真実を包み隠さず教えてくれたんだ。
 でも。……でも。
 あさかとみずほは、何の抵抗もなく彼を「お父さん」と呼んでいた。
 一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入っていっしょに寝て、一緒に声を掛けてくれていた人に……区別された。
 間違っていない、ちっとも間違いじゃないことだけど。

 心の奥ではあさかとみずほに妬み、伯父さんを恨んでいたのかもしれない。

 ――自室に戻って来てみると、誰も居なくなっていた。

 カーペットの上に散り散りになった包装紙は無い。ちゃんと片付けてある。傷一つ無い机の上に東京土産が一つだけ、あと小さなメモ書きが置かれていた。
 読んでみると、汚い字で『手伝いに行ってくる』と一言書かれていた。数人で書いたのか明るい色のペンで目立つように残されている。
 誰がやったか知らないが、放り出されたままの俺の荷物が部屋の隅に置かれている。荒らされてはいない。俺のために残されていた土産を手に取り、すぐに食らいつく。
 カスタードの味の中に黒ゴマの妙な感覚が、口内に広がった。
 土産は一瞬で消えた。誰かと駄弁りながら食べていたらすぐに消え去ることはなかっただろう。でもたった数秒で、感慨なく、あっという間に無くなってしまった。
 俺の中から悩みという悩みを濃厚な味で押し潰してはくれなかった。

 ごろんとカーペットの上に転がる。天井を見る。
 綺麗を尽くされた部屋は、やっぱり天井まで綺麗だった。木の空を見つめて、口の中で微かに味を確かめる。
 甘いのかしょっぱいのか、アンバランスな組み合わせが口の中で戦って、どっちつかずに終わった。「どっちつかず、ね」 俺は呟く。……ぐるぐると思案し続けた。



 ――2005年12月31日

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 /4

 天井を見ながら味を堪能していたら、真冬だというのに健やかに昼寝なんぞしてしまった。
 どれくらい寝てしまったのか。すっかり部屋が暗くなって何も見えなくなってしまった。電気を点けようとするが、今日知ったばかりのこの洋室のどこにスイッチがあるか確認していなかった。
 仕方なくポケットに入れていた携帯電話を開く。小さな明かり頼りに動いていれば、壁のどっかにあるスイッチに辿り着ける筈だ。けど、簡単に見付からない。
 ディスプレイに映し出される時間は、二十時過ぎだった。
 ……宴会は、もう始ってるよな。
 そういや宴会があるって聞いたけど、何時から開始なんだってことは訊き忘れた。
 多分、頃合いを見計らっての開始だと思うから何時と決められていないだろうけど。
 携帯の明かりだけを頼りに、動いてみる。判らん。暫しうろうろ壁に這ってみたが、スイッチらしきものは見えない。もしや、紐を引っ張ると付くやつだったか? 今度は空を見渡してみると、なんとなーくぶらさがっているものがあった。
 でも、今は夜だ。夜だからって何か活動したい訳じゃない。電気を点けたとしても、寝るだけならどうせまた消すことになる。
 ……別にいっか、このままで。

 12月31日の夜だけあって、床暖房なんてハイテクな設備も無い実家は凄まじく冷たい。どこまでもひんやりと静まり返っていた。
 この辺りの部屋は俺以外使っていないのか、それともみんな宴会に行ってしまったのかってぐらい誰も居ない。
 言っても人の気配はある。遠くでは何やらカチャカチャと動く音もするから、人っ子一人居ない異空間なんかじゃない。
 判ってはいるけど、なんだか、不気味な気がした。夜だから仕方ないが。

 俺にとってはそれほど時間が経っていない伯父さんの部屋に、戻ってみる。
 昼寝しすぎて、そろそろ日付も変わる頃になっていた。誰か起こしに来てくれればいいのに、他の人達よりも少し離れた部屋に設定されたためか、誰も優しい奴が居なかったのか。
 12月31日という一年のうちでは特別扱いされるこの日を、睡眠で潰してしまった。もったいないことをした気がする。と言っても起きてたってすることって言ったらメシを食べるか、年の近い連中と遊んでいることぐらいしかないんだけど。

 で、俺はメシを食べに行くでもなく。年の近い連中に元へ遊びに行くこともなく。誰も居ない、灯りも点けられていない部屋を訪れていた。
 藤春伯父さんの部屋として設定されたそこは、荷物が置きっぱなしのまま、暗い影を落としている。
 カートがある場所に、瓶が立て掛けてあるのみ。俺がこの部屋を去ったときとは、明るさぐらいしか変わっているところはなかった。
 酒瓶は、まだ回収してないのか。近寄って瓶を拾い上げてみる。

「……伯父さん、回収するの忘れてるのかな?」
「緋馬?」
「えっ?」

 一人、誰も居ない部屋で独り言を、というときにタイミング良く誰かがやって来た。
 この部屋の主、瓶の持ち主である、藤春伯父さんが廊下に立っている。俺が眠りに落ちる前と同じような光景になる。違うのは、部屋が明るくないのと伯父さんが比較的ラフな格好で寛いでいるぐらいだ。

「なんだ。先に緋馬が取りに来てくれたのか」

 瓶を目指してここに来たつもりはなかったけど、約束をしていたし一応そういうことになるか。特に反論せず、伯父さんに頷いておく。

「ちっとも宴会席に現れないから、もうチビどもと一緒に寝たのかと思ってた」
「さすがにこの時間じゃまだ火刃里達も起きてるよ。自分達の部屋で紅白でも見てるんじゃない?」
「緋馬も一緒に見てたんじゃないのか?」
「俺は、その……実を言うとさっきまで昼寝してた。十分前まで」

 昼寝? と笑われてしまう。正直、ちょっと寝過ぎだと自分でも思っている。実家まで戻って来るのがそんなに疲れていたのか、俺。

「さっきまで寝ていたなら夜通し飲めるな。お前が飲みに付き合ってくれるようになって嬉しいぞ」
「……本当?」
「ああ。みずほは酒には強そうだが、飲むとき自重しそうだからな。あさかの奴は……今、どうしてるかな。一杯で潰れるような体になってなきゃいいんだが」

 笑っている。携帯電話の明かりがやっとの空間で、二人、笑い合う。
 そこでいいかげん部屋の灯りを点けた。勉強をする寮部屋やマンションの自室に比べ性能の劣る旧型の電球だ。俺の知っている光よりずっと暗い。
 辺りは素足が辛いぐらいひんやりしていたが、伯父さんはもう何杯か飲んでいるようであったかそうだったし、俺は昼間から厚着をしているちっとも寒くない。逆に眩しくなくて静かでそこそこの気温の空間は、俺にとって凄く心地良いものだった。

「ねえ、伯父さん。ここで、飲むことできる?」
「ん? 飲むっつったって、『それ』しかねえじゃねえか」
「いいじゃん、一瓶あるんだから。俺は今日、これしか飲む気ないし。……伯父さんと一緒に飲みたいなって思ったの。二人きりで」
「せっかく緋馬が俺に付き合えるようになったんだから、お前の希望に従うか」

 言うと、どかっと豪快に伯父さんは荷物の横に座る。
 伯父さんは力任せに瓶の蓋を開けると、そのままの形で俺に手渡してきた。コップはないからこのまま口つけて飲むしかない。「コップを持ってくるか?」と提案されたが、それをするぐらいだったらコップのある宴会場でみんなと飲む。別に俺はこのままでも構わないと首を振った。
 間接キスにあれこれ言う人じゃないのは百も承知だ。細かいことにあーだこーだ言う暇もない。素直に好意を受け取る。
 下品だな、と思いつつもあんまり伯父さんに上品さを求めても仕方ないこと。言われた通り、瓶に直接口を付けた。
 瓶自体が重いため、ゆっくりと傾けてるのにも神経を使う。おそるおそる水が落ちてくるのを待つ。
 その割にはするっと喉の奥に液体が入ってきた。じわじわくるものを飲み干していく。
 今までコップに注がれた数滴だけの量を飲んだことはあったが、口に含んだ瞬間、妙な香りと味が全身を襲ってきた。
 ……暫し、無言になってしまう。昼間伯父さんは美味いと言っていたが、自分ではあまりそうと思えない。味を楽しむというより、これは……。

「どうだ、効くだろ?」
「……こういうものって、普通は水で割ると思う」

 水、もしくは大きな氷をグラスに転がして飲む。それが一般的な気がした。
 いくら俺がアルコールが平気だからって、ぐぐっと一気飲みして良いもんじゃない。銘柄も全然判らないけど、全身の勘がそう告げていた。
 煙草といいビールといい、どうして大人は素直に味の良いものを楽しまないのかな。

「美味くないなら吐いちゃってもいいんだぞ。無理して飲む酒ほど嫌なもんはない」
「……苦いし臭いけど、不味くはない……かな」
「そうか、そりゃ良かった。二人で味わえるな」

 今度は伯父さんに渡すと、あっという間に一杯分を頂かれた。
 ごくごくと何度も喉を鳴らしたあたり、伯父さんは相当この瓶が好きらしい。よくもまあ、単なる苦くて臭いだけの液体をがぶがぶ飲めるもんだ。しかも笑顔で。
 二人だけで胡坐をかいて、他にネタもツマミも無いのに……。
 ツマミが無いなら別の物で代用しなきゃいけない。好きな物を飲んで、好きなものの話をする。それができたら最高だと思った。

「……ねえ、伯父さんはさ」
「ん?」
「どうやって、おばさんと付き合ったの?」
「そんなことを聞いて楽しいのか?」
「うん」
「……お前、色のついた話はあまり得意じゃなかった気がするんだが。やっぱり新しい環境になって変わったんだな」
「そうでもないよ、俺は変わってないつもり」

 ……少しだけ、伯父さんと離れたら悲しいってことを思い知らされたぐらいだ。
 二人で酒瓶をまわしながら話を聞く。俺はどちらかといえば食事は黙ってするタイプだったが、今は何でもいいから伯父さんの話が聞きたくて話しかけた。
 その内容も、伯父さんにしかできないものを選ぶ。自分が寝ぼけていても、伯父さんが酒を口にしても、それなりに判断力は残っている状態で話せる易しい話を繰り出していく。

「初めて出会ったのは……『仕事』の関係で招待された席で、二度目は偶然入った店が同じだったんだ。顔馴染みだからって、相席することになって」

 伯父さんは二十年以上前のことを、アルコールが入って思考が止まりがちになっているというのにスラスラと話していく。
 深く思い出さなくてもすぐに思い返すことが出来るぐらい、彼にとっては強く新鮮なままの記憶なんだ。その強い想いが伝わってきた。

「趣味もあったし、話していて気分が良い人だなと思ったから、すぐにどこかに遊びに行くような仲になってな。意気投合したら、もう付き合い出して、案外……早かったな」
「出会ってすぐゴールイン?」
「人並みだとは思うぞ。……あの頃、俺を結婚させたくて色んな女を見せつけられていた。それが嫌で嫌で、知らないどっかの写真のお嬢さんよりも、知っていて話せる女にどんどん傾倒していった。良家のいかにも出来た人達より、怒鳴り合ったことさえある女の方が魅力的だったからな。……気が付いたら、ときわがいた」

 それから一悶着あった。伯父さんは続けたが、同時に「前にも話したことだから」と簡単に省略した。
 何度しても重い話に違いない。彼女のことを思い出すことがあっても、苦い記憶まではそうぽんぽんと思い出したくはないだろう。
 その気持ちは判った。俺に重い話を二度もするのは良くないという気遣いも知っている。でも、

「ときわさんが連れていかれた後に俺が来て、どうだった?」

 出てくる答えが判りきっているものを、つい尋ねてしまう。一種、意地悪心だ。
 きっと馬鹿と言われる。なんてことを言うんだと苦い顔をされる。……と思ったが、伯父さんは表情を崩さず、俺の頭をまたくしゃりと撫でた。
 散々撫でられ、昼寝もしてしまってワックスなんてもう全然付いてない乱暴な髪を、何度も撫でてくれた。

「大人になれなかった俺を大人にしてくれたのは、お前だった」

 そんな優しくて……俺以上に甘ったるい台詞を口にしながら。

「子供に悲しいものしか押し付けられないんだ、いつまでも俺は子供なんだ……そう後悔ばかりだった俺のもとにお前が来てくれたおかげで、俺は落ち着くことができたんだ」
「……ふぅん」
「あいつもお前には感謝していた。あさかとみずほは俺似だが、緋馬はあずまに似ているからな」
「俺は、おばさん似?」
「クールに嗜めてくれる現実的なところ、あいつにそっくりだろ。……実際に血は繋がっていないのに」

 お前は本当に俺達の息子だ。そう綺麗な台詞を決めてくれる。
 そんな言葉を並べたって、『許してくれなかったくせに』。
 ……俺は瓶に五回ほど口を付けた頃に、胡坐をかく伯父さんに近寄り、そのままその体にダイブする。

「うわっ」

 もちろん、酒瓶はひっくり返さないように見計らってだ。
 畳を汚さないことを前提にここで酒盛りをしているのだから、当然のこと。

「酔っ払いめ。なにをする?」
「……別に。おばさんは、こんなことしたのかな」
「しなかったと言えば嘘になる。……恥ずかしくなってきたからこの話は中断しようか」

 愉快げに笑う伯父さんへ、調子に乗って抱きしめる。調子に乗らせて抱きしめてもらう。
 俺は、おばさんのようにとは言えないかもしれないが、本物の子供のように甘えて抱きついてみせた。

「……今日の緋馬は、本当に幼いな」

 落胆の色は一切なく、純粋な感想を伯父さんは呟きながら俺をぽんぽんと頭を撫でてくれる。
 目を瞑って、それに受け答えた。

「久々に会うとね、気取ることさえもできなくなるんだよ」
「いつも気取っていたのか?」
「そりゃあ、子供だから。……大人ぶることしかできないからね」

 ……本当は、酒も煙草もそれほど好きではない。
 それなりに吸えるし飲めてしまうから、十分に着飾ることはできた。けど、手段のための趣味なんて、本当の意味で好きになることなんて出来なかった。
 「ありがとう、伯父さん」と元気づいたって囁く。「元気は取り戻せたか?」と撫でる彼に、明日から頑張れると言い切ることができた。

「そうか。明日はもう来年、今日はキリのいい日だから気分転換が成功して何よりだ」

 ……来年からまたいつもの『緋馬』を見せてくれ。
 重すぎない、でも案外難しい注文を、伯父さんは課せてくる。
 やると決めたらなんでも出来る奴だからな、緋馬は、期待してる……と。でも出来なくなったらすぐに諦めたっていいんだぞ、と。伯父さんってすぐ主義主張変える癖があるけど、どれも俺を気遣って前向きな言葉を吐いてくれているからだった。
 ありがとう。ありがたいよ。言いながら俺は伯父さんを抱きしめる。
 彼は抱き返してくれるが、それはいつもの通りだった。

 ――まだ俺が小さかった頃の話。
 伯父さんには双子の息子がいて、そいつらは俺より年下だった。
 何の疑問も無く伯父さんに纏わりつき、「お父さん」と呼び、手を取った。
 双子はそれぞれ手を取った。人間の二つしかない腕を、彼らは、当然のように取っていった。
 それに何らおかしなことなどない。ごく普通の光景だ。その図を非難することなど、別の家庭である俺には関係無いこと。
 彼を「お父さん」とは呼ばせてくれなかった。彼に「お父さんではない」と何度も否定された。とても大切な男性だと思って居て、ずっと一緒に居てほしいとも、見守っていてほしいとも、見守っていたい人とも思っていた彼。だがそれは父ではない。だからそれはもしや……。

「藤春さん」

 妙に切ない声が出そうになってしまった。
 切ないというか、実際口にしてしまえばきっと泣きそうな声に聞こえてしまう。そんな声を出してしまったら彼を無駄に心配にさせてしまうだけなのに。
 まだ日が出ていた頃に寄居と話した会話を思い出す。一体この人は、自分の何だ。格好つけて説明するつもりは無い。
 伯父さんが次に話すことを考え始める。その瞬間、俺は近付く。拒否の言葉なんて聞く前に、自分から顔を寄せる。
 顔の間近に顔があり、体重を掛けた。

 ――口付けというものは柔らかく甘いと聞いたが、全くそうには感じられなかった。

 味なんて元から期待してない。キス自体に何の味覚の期待もしていない。唇で唇の形を確かめるように、ゆっくりと顔を動かすだけ。
 目を開けると、伯父さんが目を開けているのに気付いた。お互いがありえない距離だった。

「……だめ……?」

 問いかける。
 けれど、答える隙も与えず、俺はもう一度同じことを繰り返していた。
 息が当たる。……その息は、正直あまり気持ち良いものじゃなかった。
 俺の息は殆ど全部ある液体の味に染められていて、伯父さんの息も全く同じものだったから、少しの違和感しか抱けなかった。
 つまらないと思った俺は、試しに唇を、唇で噛んでみた。吸いついてみるが、息を吐かれるだけで目立った反応はしてくれない。
 口を離すと、伯父さんはすぐに自分の甲で唇を拭いた。あまりに自然な行為だった。

「……緋馬」

 口に妙な感覚が残ったから、拭ったからのこと。
 その感覚は俺も判らなくはないが……余韻に浸ることなくすぐに拭われて、少なからずショックを受けてしまう。

「緋馬、お前」
「…………」
「なんで、こんなことをする?」
「なんでって。……したいからする、じゃ、いけないかな?」
「……本当にしたいと思うのか、こんなこと?」

 こんなことと言われて、やっぱりショックを受けている自分がいた。
 精一杯の好意のつもりだったが、それを一蹴りされるのは辛い。それが受け入れてほしい相手だったら、余計にだ。
 俺はもう一度、唇を重ねようと身を寄せた、が、ガッと腕を掴まれてしまう。

「緋馬。こういうのは、酔った勢いで、やるもんじゃない」
「俺、酔っぱらっているように見える?」
「…………」
「見えないでしょう? 俺、伯父さんと違って酔って暴れるタイプじゃないし。これ、ちゃんと、俺なりに考えていることだから」

 そう言いつつ、もう一度唇を重ねに向かった。顔をぐっと自分の方へと引きながら。
 少し伯父さんが苦しそうに呻く。それでも構わず顔を出させて、こっちは舌で唇を伯父さんの舐め上げてみた。
 それには飛び跳ねるように驚き、俺を見張る。ペロリと舐めたって良い味なんてしない。さっきから同じ味を二人で反芻し合っているだけだ。無意味なことだと言われるかもしれないが、俺は進めた。

「ちょっ、待て! 緋馬、お前は十七だ。けど俺は……!」
「年のことを言うの? そんなの関係無いと思うんだけど」
「いや、関係ある! お前は若いし元気だが、俺は」
「どういう意味?」
「この意味が判らないならこんなことするなっ!」
「……それは嫌だ」

 馬乗りになって顔を近づける。これでもっと唇が寄せやすくなった。
 上から何度も唇を舐めて、何度もビクビクさせようと模索した。
 やめんかという拒否の言葉が次々耳に届いてくる。そんな伯父さんの手を握り、指を絡ませた。

「やだ。やめない。やめたくない」

 実際は伯父さんの方が俺より体格は良いし、経験もあるから要領も良い。それに力は肉体的なものも、魔術的なものも全て伯父さんの方が上回っている。普通に押し倒して勝てる相手じゃないのは、重々承知していた。
 だからキスというよりは、猫がミルクを舐める小さな舌づかいのように。
 そう、なりきらなければ。少しの可愛らしさといじらしさを見せなければ、容赦なく蹴飛ばされてしまう。
 伯父さんは敵には容赦ない人間だから。少しでもか弱く甘えておかなければ痛いことになる。……それは読み切っていた。

「……あ、ぐ、ぅん……っ!」

 伯父さんの指先が小刻みに震えた。
 少しずつ痺れてくれているのが伝わってくる。

「……伯父さん? 大丈夫?」

 急に伯父さんが脱力するのを感じた。
 それでも腕も顔も離さず、正面から見つめる。こんなところで失神するとは思えないけど、伯父さんは疲れたように目を瞑って黙ってしまった。

「伯父さん、どうしたの?」
「……そんなやり方があるか」
「こんなんじゃダメ? なら、どうすれば良いのかな……?」
「……ば、か」

 怒られるときの鋭い声にびくりとしてしまったが、対抗するように見つめ続ける。
 ふっと伯父さんの右腕が動いた。打たれると思った手は、俺の頬へとゆっくりやってきて、優しく撫でてくれた。手が俺の頭に行き、そのまま頭を寄せられる。今度は伯父さんの導きで唇が寄せられ――なかった。
 唇を奪われる前に、顔を押し退けられる。
 俺が乗っかって、伯父さんの方が下にいるのに、主導権は伯父さんにあった。
 舌を絡ませ合うことなんてしない。口内の至るところを舐め、奪い合い、呼吸器官を不自由にされる音などしない。
 伯父さんは、冷淡に俺を引き離した。

「いいかげんにしろ、緋馬」

 低い声。叱られるときの声そのものだ。

「いいかげん、って何。俺は、俺なりに、真剣に伯父さんのことを考えてキスしたよ。……いいかげんっていうのは、伯父さんの方じゃない?」
「……馬鹿を言うな。お前に、俺を好きになる理由、あるか?」

 否定の言葉はある程度想像していた。
 でもその問い掛けにはどういう意味か判らず、一瞬対応できなくなってしまう。

「俺とお前は親子だ。血は直接繋がっていなくても、親子だ。なのにどうしてこんなことをする? 普通はしないだろ」
「……違わないよ。好きだから、キスしたんじゃないか」
「だから、どうして『その好き』になる? お前を育てた愛は、こんな形じゃないだろ。緋馬、お前は求め方を間違っている。それに……俺を好きになる理由が無い」
「……はあ? なにそれ。好きに理由なんて……無いもんだろ」
「ある。家族愛と恋愛を一緒くたにされては困る」
「……なら好きになった理由、いくらでもあるよ。伯父さんは優しくしてくれたじゃないか。何度も抱きしめてくれたし、慰めもしてくれた。今日だって撫でてくれた。……それだけ触れ合ったら、好きになるもんだろ……?」
「それは、親子だから」
「親子じゃなくて、伯父さんと俺は他人だろっ!? 俺が親だと思ったらそうじゃないって言った! だから俺はそう思わないようにしたのに、どうして親だって言うの!?」

 例の苦い液体が喉に絡んで声が出にくい。声の調節が普段通りできない。
 だから今の声は絶叫だった。思考力が低下した伯父さんにもきっちり届くような、叫びだった。

「全然呼ばせてくれなかったのに、どこが親子なんだよ。まるっきり他人じゃないか、俺と伯父さんは! 他人でこんなに触れ合ったんだから、他人以上に好きになるのは当然じゃん……!」
「……誤解するな。俺は、あさかやみずほと同じように……お前を育ててきた身として、子供としか見てない」
「……子供じゃ、無理? 赤ん坊の頃から見てるから、好きになるのは無理?」
「好きだよ、お前のことは」
「これから大人になるから好きになってというのも、無理?」
「そういう子供って意味じゃない。俺はお前の保護者なんだから」
「けど、さっきキスに応じてくれた」

 ピクリと伯父さんの動きが止まる。
 少し鋭い目が睨むでもなく、俺の絶叫する表情をじっと捉えた。

「それに言い訳は無いの?」
「……惰性だ」
「他には?」
「……無い」
「真面目に、真剣になって俺が訴えていても聞く耳持たない?」
「……間違っていることをした子を正すのは、当然のことだろ」

 伯父さんが立ち上がる。瓶も持たずに立ち上がり、ふらふら凭れず廊下に出て行こうとした。
 叫んで止めるが振り返らない。その様子がいつもの調子とは違っているのは、知っている。
 もう一押しすれば、振り向いてくれると確信して切なげに声を上げた。本当に怒っているならゲンコツを食らわせるのがいつもなんだ。それをしてこないってことは……。

「何年も一緒に暮らした家族だったとしても、伯父さんが、俺の大切な人が一番なんだよ。年の差とか、生まれた頃から面倒を見ているとか、そんなのどうでも良いと考えてる。愛する人、ただ一人を決めるなら……俺はっ」
「馬鹿も休み休み言えっ!」

 なのに、罵られた。

「……いや。馬鹿は、俺だな。緋馬。俺が馬鹿なことをした。それのせいでお前が調子に乗ったなら、とても罪なことをしてしまったな。すまない」
「……謝っている意味が判らないよ」
「俺は、『子供』のお前に誤解されるような行為をした。保護者失格だ。裁く場があるなら罰を与えてほしいぐらいの罪だ。……緋馬。『本当のお父さん』は嫌いか?」
「……いきなり何。判んないよ、そんなの。好きか嫌いかなんて。だって……父親だし」
「じゃあ、俺のことは?」
「好きに、決まってるだろ! 好きだからしてるんだよ! 大好きだからだよ! ……そんなに、嫌だった? そんなに、ダメなことだったの?」
「ああ。……緋馬、今日はさっさと寝ろ。頭を冷やせ。明日から意識を入れ替えて、新年を迎えてくれよ」

 頭を冷やせ。頭を冷やせって……。

「冷やせば、無くなるものだと思ってるの……?」

 今日はさっさと寝ろって。明日から意識を入れ替えろって。新年に備えろって……。
 明日になれば普通の『緋馬』が現れるとでも思っているのか、伯父さんは?
 そう簡単に……気持ちなんか変わるものか。簡単に変えられるものなら、こんな複雑な形なんて選ぶものか。もっと単純でラクな感情を選ぶに決まってる。年は近く、可愛くて、誰もがお似合いと言ってくれるような人を選んで家に貢献してる。
 けれど……出来ないからしたのに。今夜の俺を、完全否定されてしまった。
 決死の告白が最悪すぎた結果で終わってしまった。明日から意識を入れ替え、伯父さんに傾倒する自分を変えろと言われて、どうしたら。

 ……それができないから、悩んでるんじゃないか! ちくしょうっ!

 明日、どんな顔をして挨拶すればいい。伯父さんは明日になって変わった子供をまともに相手にできるのか。そんな器用な人じゃないって知っている。じゃあ、あの言葉にどんな意味が……。
 ああ、意味なんて無いか。だって伯父さんだもの。数秒で主張を変える気分屋だもの。明日になったって変わらない。いくら経ったって。
 それでも……なんだか怖い。この状態のまま、時が進んでいくのが怖い。
 伯父さんは今、何を考え、これから俺についてどう変化していくのか考えると、怖かった。

 ――明日が来なければいい。
 ――明日が、来ないでほしい……。

 そう本気で思ってしまうほど、怖かった。



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /      /     】




 /5

 腹が立っている。悲しい。ムカムカする。
 泣きたい。苦しい。そんな気持ちが俺の体を満たしている。

 今までだってこんな不調は度々あった。変な物を食ってしまって病院に行くかってぐらい腹を下したり、殴り合いの喧嘩をしても気が収まらなかったり、嫌な感情に襲われるなんてこと、いくらでもあった筈なのに。
 今日のこの感情は、人生史上最高のマイナスだった。
 まだ人生を語るのには早すぎるかもしれないけど。濃厚に苦悩ばかりを背負っている俺には、体験したことのないほど苦しかった。

 部屋に戻って早く寝よう。でも今の状態で布団に入ったら、全身に負の感情を抱えて夢の世界に旅立たなければならない。そんなことしたら新年初っ端から悪夢を見てしまう。
 気分転換がしたかった。でも山奥の寺には娯楽なんて何にも無くて、割り当てられた部屋にはテレビもビデオゲームも何一つ無い。
 話を聞いてくれそうな年の近い連中は、そろそろ眠りにつく頃。……何も発散できない。だからそのまま、せめてもの気分転換に涼しい廊下を歩いた。

 途中、携帯電話を見てみる。
 唯一外の世界へ繋がる手段で、この家での鬱憤を晴らそうとした。すると外の友人から、ちょっと早いニューイヤーメールが届いていた。……送るタイミングを間違えたのか。「あけましておめでとう」を言うには早すぎるんじゃないか。
 そんな馬鹿を数人見たぐらいで、外世界も俺の中も……何も変化することはなかった。

「そんな格好じゃ風邪を引くよ、緋馬くん」
「…………。新座さん?」
「うん。そうなんだよ」

 身を翻すと、声の主……新座さんが、すぐ側に居た。
 屋敷の中だというのに白いコートを着ている。寺に到着したばかりなんだろうか。それともまだ休むつもりは無いから脱がないのか。服装だけじゃなく、まだ休めていない顔をしているのが見えた。

「あのね、緋馬くん」

 廊下は壁も窓も無い。吹き抜けで風が襲い掛かってくる。障子を開けたらそこはもう外に繋がっているようなもの。靴は履かないけど、部屋から出たら外そのものだったんだ。
 数日前に降った雨のせいか、これから雪が降るのか判らないけど、足下から凍えるほど寒い道。
 この時期夕方にもなると太陽は早くに落ちてしまい辺りは真っ暗。寺中の電気は点いているところが限られている。元々は自然の山の中だ。明かりなんて物は殆ど無い。
 かつての暮らしから前進しない世界がここにはある。
 せめて床暖房ぐらい取り入れればいいのに。いや、廊下を外剥き出しにしないで壁を造ることが先決かな。

「はい?」
「何かあったらすぐに外へ逃げるんだよ」

 ――そりゃ何かあったら、逃げるしかないさ。

 いきなり何を言い出すんだ、この人。思わず不審者を見るような目で新座さんを見たが、そんな俺の目も構わないで新座さんは反対側の道を歩いて行った。
 彼は白いロングコートを着ている。ばさっと大きな白い後姿が遠くへ歩いていく。遠目でも目立っていた。
 どう見ても外出着で、冬の山の中でも暖かそうな格好だ。なるほど、廊下を歩くときは上着は必要なんだ。部屋の中でメシでも食えば気にしないけど、移動するときに上着はどうしても必要なんだ。真夜中にトイレに行きたくなったら野外に出なきゃいけないんだから、備えておいて損は無い。寧ろ備えておかないと気温差に死ねるかもしれないのか。
 去年も学んだ筈なのに忘れてしまっていた。
 年上の知恵は頂戴しておこうと一度自室に戻り、ジャケットを掴んだ。

「おにいちゃん〜。いっしょにおイモ食べようなんだよ〜」

 突然、背中に重力を感じた。
 べったり。唐突におんぶお化けが現れて背後から重力攻撃。
 畳の上に落ちてるジャケットを掴んで身を起こそうとした瞬間の重力は、膝に凶悪で莫大なダメージを与えた。
 そのままバランスを崩して前に倒れる。というか潰される。両足の指が前のめりに捩じられ、ボキボキと指の骨が折られていく。シャレじゃなく死を覚悟するほどの痛みに襲われた。

「きゃあ〜。ばたんきゅ〜」
「……尋夢あぁ! 兄ちゃんを殺す気かぁ!?」
「ザオラル〜。しかしMPがたりない〜。おお、おにいちゃんよ、こんなところで死んでしまうとはなさけない〜」

 兄を死の窮地に追い込んでいる自覚が無い弟が、本気で末恐ろしい。
 火刃里もそうだけどこいつらの挙動は「子供は純粋無垢で良いね」っていうレベルじゃないときがある。火刃里と尋夢は本気で笑顔のまま殺しにかかってくる悪魔だ。殺意が無いけど殺すという、どんな怨霊や異端よりも恐ろしい存在なときもある。
 滅されなくていいから早く浄化されろ。

「げんきがナイナイおにいちゃん〜。いしやきイモ〜。おイモ〜。なんだよ〜」
「……あ?」
「アルミホイルでぐるぐるしてね〜、炎の中にポイッとしたの〜。とってもおいしいおイモなんだよ〜」

 うつぶせに畳の上へ潰れた俺に乗っかったまま、尋夢は秋の味覚について歌いながら口にする。
 石焼き芋。秋の味覚だけど、冬に食べても美味い。集まって楽しむには良いメニューだなと、親戚中が集まる12月31日であることを思い出しながら考える。

「へえ……石焼き芋。焼いてるのか? 今?」
「そうなの〜。福広さんが落ち葉を集めてね〜」

 作務衣姿で掃き掃除をするのが日課な福広さんが、石焼き芋の準備……。やっている姿を見たことはなかったが、容易に想像できた。

「火刃里お兄ちゃんが燃やしてね〜」

 ついに火刃里も炎を自在に扱えるようになったか。
 以前まではロクに魔法が使えないと文句ばっかり言ってる弟だが、自由に火を点けられるようになったらしい。修行の成果は出ているのか。弟の成長に感心する。

「ぼくがおイモをポイしてね〜」

 言いながら尋夢は俺をズルズルと、ある場所に連れて行こうとした。
 女みたいに結論を言わず、過程を延々と語り続ける言葉をうんうんと耳にしながら、寒い廊下に出て行く。もちろんジャケットに袖を通しながらだ。

 尋夢に上着の裾を引かれながら、人が泊まる屋敷から離れた。
 暫く歩けば煌びやかな屋敷が見えてくる。あまりあっちに行ったことがないが、和の建築物ばかりの旧世界の中で浮いている洋館が境内の端っこに在るのは知っている。どうやらそちらの方に連れて行きたいらしい。
 だが洋館に辿り着く前に目的地に到着した。
 洋館と本家屋敷の真ん中あたりの、何も物が無い林の道に、火が見えた。
 火事? 違う。焚き火だ。近付くたびに香ばしいニオイもしてきた。
 いや、鼻が異常を告げる。……焦げ臭かった。

「どうやって火の中からおイモを取ったらいいか判らなくてね〜、おにいちゃんの知恵を借りたいの〜」
「……福広さんはどうしたよ?」
「お掃除終わったらいなくなっちゃったの〜。宴会でお酒いっぱい飲むんだって〜」
「……おおい!? 子供だけで火で遊ぶなって教わらなかったのかぁ!?」

 林の道の真ん中。真っ赤に輝く焚き火(というか炎の塊)の元へ猛ダッシュする。
 そこには、焦げ臭く炎上する高い火柱を見てキャッキャとはしゃいでいる悪ガキ・火刃里と、明らかな異常事態にどうしたらいいか判らなくて涙目になっているチビ・寛太と、
 もう一人。
 地面に腰掛けて……キャンプファイヤーを見て楽しむような子供が居た。

 ぎょっと目を見開いてしまう。
 その子供が、スカートを履いていたからだった。

「……え……?」

 尋夢よりも小さい。身長は140センチぐらい。
 男子の尋夢や寛太達とは違う、小柄さと丸さ。大きな目。
 女の子らしい明るい色の服装。スカート……。
 ――女の子だ。

 髪は短めだが、男子の短さとは全然違う。肩までのすっきりしたショートヘアで、少しボーイッシュにも見える。
 おそらくまだ中学生ではないだろう……幼い少女。
 焚き火の明かりで照らされた髪は、オレンジ色に見えた。俺の染めた髪と同じ色に見えてしまった。
 まさかのシルエットに度肝を抜かれてしまう。別に女の子という存在自体に驚いた訳じゃない。
 俺が今通っている高校は男子校だが、かつて行っていた学校では女子は大量に居た。そうでなくたって帰省するまでの間、何度も女性の姿なんて見ている。

 そういう問題じゃない。
 今日は12月31日の大晦日。ここは寺の人間ぐらいしか居ないこの土地。
 今は真っ暗になってるぐらい遅い時間。家族以外の人間だったら帰らなきゃいけないこの時間に……『いる訳の女の子』がここに居るんだから。

「……君は? 早く家に帰らなくていいの?」

 パチパチと火に照らされ、暗い夜の中で辛うじて見える女の子のことをとても幼いと思った。
 でもその目を見た途端、考えを改めた。小学生ぐらいかと思ったけど、もしかしたらずっと年上かもしれない。大人びた目にそう感じてしまった。
 それよりも、「早くお帰り」……そう言ってあげなきゃいけないと思って、彼女を立たせようとする。

「ここがあたしの家」
「え」
「そう言われたの。なのー」

 はしゃぐ火刃里と寛太の泣き声と大きくなっていく火の轟音の中。
 女の子は変な鳴き声と共に、有り得ないことを言った。




END

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