■ 023 / 「根源」

元は頂いたショートストーリーを、長編連載用に改変させていただいた小説です。パロディ小説、2.5次創作でございます。 参考元:華(ぷぇっとした雨音)



 ――2005年4月1日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /1

「今日は4月1日だ。折角なので嘘を吐きたいところだが、皆に隠されている本当の話をしよう。我々は皆、カプセルの中で育った。俺もカプセルの中で父親達を見ていた。古臭い寺の住人が何を言うかと思われるかもしれないが、本当の話なんだ」

 ――何故寺がそのようなことになったのか。大きな原因は、狭山という男にある。
 狭山が寺の未来を作る為に行ったことを語る前に、狭山のことについて話さなければならない。

 照行の次男・狭山の出生は少々、複雑だ。
 狭山は昭和27年12月に生まれた。
 翌年昭和28年の4月、弟である松山が産まれた。
 これだけで狭山が複雑なのは判っていただけるか。簡単な話、松山は照行第一子である大山と同じ母を持ち、狭山はそうではない。真ん中一人だけ母の違う、三人は異母兄弟だった。

 こういった複雑な生まれは魔術結社の仏田ではよくあることだった。
 実を言うとその父・照行も彼の弟・浅黄との差は三ヶ月もない。
 女子を求め、女子が誕生しないのならせめて能力の高い男子を産ませる風潮のあった仏田では、同じ年に複数の女と交わり、異母兄弟が発生するケースは不自然なものではなかった。
 仏田という家では表向き「仏田は女を求めている。女を産むことを諦めない。しかし、三人まで子供を産ませて女子が産まれなかったらそれ以後は諦める」という顔をしている。
 現代に三兄弟が多いのはそのせいだと説明している。だが真実には違う。
 正確には「女を求めて続け、産まれるまで孕ませまくり、それでも諦める場合は『三人まで間引きせず』後継者として生き残らせる」だ。

 仏田の血を受け継ぐ神子を求め続け、子を作り続けた結果、産まれてしまった子供達の中から三人までが選ばれ、名を与えられ、仏田以外の世でも生きてもいいことを約束される。
 ヤっては育て、産んでは消して。その繰り返し。正統な後継者になる三人を作るまでには、屋敷の中で死闘が繰り広げられているものだった。
 五人いようが十人いようが百人いようが、後継者として一族の息子に選ばれるのは三人までなのだから。

 一族に群がる外の女達は、後継者を選ぶ権利のある男に媚を売る。照行も正妻を持っていたが、本当は自分の子が何人居るのか知らないだろう。
 それは照行に限った話ではない。『選ばれた三人』以外は外の酸素を吸うことなく、産まれて間もなく処刑される。優秀さを求めて処刑し続けていたら削っていく者達の顔も名前も、数さえも忘れてしまうものだ。
 ちなみに、処刑されるまでの段取りはこうだ。
 母胎から取り上げられ、まずは『刻印』を体に所有しているか、いかなる特性があるか調べられる。数日から数週間、人によっては数ヶ月『後継者に相応しいか』厳選される期間が設けられる。
 相応しければ正式な仏田一族の生まれに認められ、そうでなければ名を与えられる前に処刑される。
 人間の子は簡単に摘むことが出来ても、増やすのには時間がかかる。そう簡単にぽんぽん子供は作れない。
 だから一族の男達は多くの母胎、大勢の女を使い、良い子が産まれるまで儀式は続けていった。

 大勢の女と言っても無作為に孕ませているのではない。
 当主に認められ仏田一族と『契約』を行なった優秀な女達と交わる。複数を相手にすることもあれば、単純に男女の相性の問題で、大山と松山の母が同じ人物であるように好き好んだ女だけを孕ませるケースもある。

 さて、話を戻そう。
 照行は一人の女を大事にする男だったが、それでも当時の『産めるだけ産ませろ』という獣のような風習には逆らえなかった。
 多くの女達を相手にし、産ませ、処刑した。ただただ後継者にするに相応しい子が産まれなかったから生かされなかった話だが、その数は骸の山が出来るほどだったと言う。
 正妻が産んだ子供の一人を長男として迎え、三男としても迎えた。
 だが一人だけ、才能の多彩さを買われ、正妻以外の女が産んだ子供を選んだ。
 それが後に「狭山」と名付けられ選ばれた男児だった。
 狭山には選ばれるだけの秀でた特性があった。高く買われ、照行の次男として生き延び、相応しい教育を受けることになった。
 今まで通りの男達と同じ、仏田の男に相応しい訓えを叩き込まれる少年時代を送る。兄の大山、弟の松山と同じく、狭山は厳しく育てられた。

 三人の扱いは同等だった。
 たとえ狭山が正妻の子でなくても、照行の正妻は良識ある女だったから、狭山一人が差別されることはなかった。周囲が狭山を差別することはなかった。だが、狭山自身が壁を作っていた。

 ――たとえ父親は同じでも、隣に立つ兄や弟は顔が違うじゃないか。
 ――正妻に同じように愛を注がれていても、実際の息子に対する目とは愛の強さが違うじゃないか。

 違いは、とても些細なものだった。見る人が見たら狭山の気にする違いなど一切感じさせぬぐらい、僅かな違いしかなかった。
 それでも狭山は生まれつきの神経質のせいで差異を感じていた。

 ――自分は他の兄弟達とは違う存在。
 ――愛する女から産まれたから生き延びたのではない。自分は優秀だから生き延びたんだ。
 ――ならば、生き延びた者として相応しく生き続けなければならない。

 その神経質さは年を重ねていくごとに激化していった。
 「自分だけ違う」ことをコンプレックスに持ち、「違うからこそ自分は伸びなければ」と前向きに捉えていく。
 「自分は正妻の子ではない。努力しなければ正当な子でいられない」。それが口癖でもあった。
 前向きに鍛錬をし、一族の為を第一に行動する狭山を否定する者は誰もいなかった。奇抜なことをしても全ては上を目指す為にしていることだから、多少過激な発言をしても「良い兆候だ」と済まされた。
 しかし、その前向きな直向きさは成長するたびに過激になっていく一方だった。

 その大きな理由は、狭山の実母にあった。
 狭山の実母は、あまり尊敬できた人間ではなかった。
 当主に選ばれし能力者ではあったが、研究の為に体を捧げた訳でもなく、信心あって仏田に入信したのでもない。
 『契約』することで得られる一族が千年間集めた魔術知識と、産んだ子が後継者に選ばれれば手にすることができる大金が目当てに仏田に近付いた者だった。
 貪欲に知恵を求めてはいたが全てを捧げるまででもなく、栄誉よりも支払われる多額の謝礼だけを求めて入門した女だった。

 彼女は一族になった以上、最低限の規則には従っていた。魂狩りを命じられれば現地に赴いた。
 だが、命じられなければ何もしないような人間だった。
 子供の一生を捧げたことで、自分が一生遊べるだけの金が手に入った。
 自分が産んだ男児が照行が選ぶ三人の後継者になった時点で、彼女は仏田に入信した理由を果たした。
 命令でなければ決して動かない、女らしい遊びに金を注ぎ込む日々を送る実母。いつでもどこでも遊び呆けてきた怠惰な女。狭山の実母は、絵に描いたような狡賢い女だった。

 実母は狭山に対し母らしいことをしなかった。
 「照行様の正妻が面倒を見るのは当然だ。狭山は照行様の子なのだから」「その方が栄誉あること。狭山の為にも良い」。女は綺麗な言葉を並べて、教育を放棄した。
 それなのに「自分が狭山の母であること」を公言する。母親であることをアピールし、謝礼金を受け取り続ける。
 愛情こもったことなど一度もしたことがないのに、口だけの愛の賛美をして、金を渡される対象で居続ける。見るからに嫌な女だった。

 そんな実母を見て狭山は育った。
 事ある事に狭山の前に姿を現して母親面をし、いざ母親らしさを求められると照行の正妻の仕事だと言って逃げる。その逃げる姿の手には、大量の札束を握り締めていく。
 狭山は「我らの神を信仰しべき」という熱狂的な教育を受けながら、神を信仰しない消極的で遊びまわっている女を見てきた。
 風習に呑まれつつも一人の女を愛そうとしている純粋な父。誰に対しても優しく誠実に教育を受けさせる正妻。そんな両親に見守られ清く正しく凛々しく成長していく兄と弟。理想的な世界に見える。
 でも狭山にはその理想に一つ追加される。神を崇めず、金を求めて遊び回る実母という瘤が。
 途端に素晴らしい光景が打ち砕かれる。たった一つの負が、この上ない理想郷を醜く塗り潰してしまっている。折角出来あがっていた理想郷が台無しにされている。許せなかっただろう。
 そのズレに、元から繊細だった狭山の心は荒んでいった。

 だが狭山少年は、実母を憎んでいる素振りなど一切見せなかった。
 どんな女であろうと母は母、狭山は清く教育された通り、模範的な親子像を周囲に見せつけていた。狭山が実母を強く憎んでいたことを周囲が知るのは、少年が青年になってからだった。

 狭山が凶行に走ったのは、第六十二代当主光緑が誕生し、兄・大山を中心とする親類達が『本部』になった年のこと。
 まだ『本部』になって日の浅い狭山は、「無能はいらん」という端的すぎるスローガンを出し、『一定期間研究や狩りで収穫を出さない者には罰を与える』という法律を作った。
 あまりに単純明快な法だったが、厳密に練られた法令は反対意見を上げる隙も与えず採用されてしまう。
 そもそも魔術の研究所である寺は研究が第一、成果を出さない者がいてはいけないというのは当然すぎて誰も言わなかったことだった。
 結果が全ての世界で結果を出さなければ処罰されるという判りやすい法は、皆に受け入れられた。そこまでは誰も何も思わなかった。
 法が施行されてから数ヶ月後、一向に成果を上げなかった者を発見した狭山は本当に処罰を行なった。

 対象に選ばれたのは、狭山の実母だった。
 実の息子が一族を率いる『本部』の一員になり、活躍するようになった。金は黙ってでも入って来る生活をしていた彼女は、相変わらず遊んで暮らしていた。
 魂を狩ってくる命令には従っていたが、それ以上は一切何もしなかった。研究は何一つせず、与えられたものしかやらない、成果の一切無い数ヶ月だった。
 狭山は処刑の対象者を捕らえると、地下に造られた拷問部屋に押し込んだ。
 その処刑の仕方と言ったら、供給の餌にもならない、肉を食い体の一部となるような同化の儀式でもない。ただただ痛めつけるだけの罰だった。

「知恵を一族に授けることが出来ぬ愚か者の脳などいらん」

 無能を晒すために、咎めるために、無駄を排除していくために。
 簀巻にした体を頭から石の床に落とす罰を与えた。

「一族に奉公しなかったような頭など潰してしまえ。死んで魂だけの存在となり、そこで一族に成すがいい」

 縛った体を高所から持ち上げ、落とす。
 石の床に、何も包んでいない頭を落とす。頭から落とす。やわらかい頭を固い石の床へ。トマトのように赤く染まった頭を持ち上げ、落とす。
 トマトがぐちゃぐちゃになるまで何度も、跡形も無くなるまで何度も何度も続ける罰だった。
 処刑は成功。怠惰な女は一族の糧となり、漸く奉公したようなものになった。

「母上は素晴らしい。その身で皆の向学心を湧き上がらせてくれた。息子として誇りに思う最期を見せてくれた。今までの悪行は忘れよう。ありがとう、最後に『母上』と呼べる存在であってくれて、本当にありがとう」

 三日後。狭山は自分の施行させた法を改正、良心的な期間を設けた善作を発表した。
 改正案に誰も文句を言わなかった。条件が優しくなった以外は『無能は排除する』という研究者として当たり前のことは変わっていない。正しい改変内容に、またも誰も反対意見は出なかった。

 ――狭山という男が「鬼」と称されるようになったのは、この事件があったからだ。それまではただ取っつきにくそうな、誠実で、生真面目すぎるだけの男だったというのに。

 誰にも咎められることなく正当な手段で憎んでいた母を手にかけた話が噂で広まり、彼の通り名は「鬼」となった。
 自分勝手な復讐劇が一族の研究精神に火を付けたのだから、彼にとっては一石二鳥。思い描く理想郷が今度こそ手にすることができて満足そうだった。

 しかし賤しい実母が居なくなっても、狭山の神経質が治る訳ではなかった。
 個人的な復讐劇ではあったが、「ただ自分が救済されたくて実母を処刑したのではない」と狭山は言う。「一族にとって毒になりうる存在を消すためにはどうしたらいいか」考えた結果の行為だとも言う。
 幼い頃から中途半端に甘いところのある一族の仕組みを見てきた狭山は、復讐劇を終えた後、誠心誠意を持って新たな前進策に取りかかった。

 狭山は『仏田の三兄弟』の真実を、精通が来た頃には教わっていた。
 一族の為に優秀な神を、優秀な能力者を産ませるんだと教わった狭山少年は、青年となり自らその仕組みに従おうとした。
 だがそのまま実行には移さない。それまでの交わりと言ったら、ただ女と繋がるのと他に、長年の研究成果である霊薬を服用させたり、まじないをしたり、母胎自体をいじくったりと様々な実験が行われていた。
 しかしそれでは今までと同じ中途半端に進んでいくのみ。なんとか変えようと狭山は考えた。

 ――過去に何人も優秀な能力者を産み出してきた、まじないの数々を無為にするのはいかがなものか。今まで仏田が編み出した『強力な能力者を産み出すために母胎にかける儀式』を、もっと効率的に、確実に出来ないか。

 狭山は文献を漁る。
 数百年もし続けてきた研究をまとめ上げ、大きな計画を指示した。

 ――ここは千年前から続く広大な敷地内の旧時代。文明開化の音が鳴らなかった古びた人間達が怪しげな儀式をする寺。一つの目的に向かってひたすらに研究をし続ける研究者達の研究所。
 ――これは素晴らしい財産だ。この財産を更に発展させるには……。
 ――今まで持てた知恵を全て持ち、一つにまとめ、結集させる。研究の先に子を作るのではない。子を作るための研究をし始めなければ。そうだ、『能力者の子供を造るためだけの機関を作るんだ』。

 成功を確実なものとしようと狭山は動き出す。
 まず『境内のとある場所』に大規模な研究施設を整えた。
 通称は『機関』。『機関』に働く研究員達は勿論同じ血を引く一族、日々学び続ける僧達だ。
 我々が集めた知恵で我々を創り出していく。専門的に子を造る研究を重ねるんだ。たとえここが「古臭い」やら「流行遅れ」と言われたとしても最新鋭の技術を使って、手段を選ばず、確実な成果を出していけばいい。そこは、古き良き寺院には似つかわしくない施設に違いない。
 まだ光緑様が当主になる前から、狭山の動きは当時の『本部』に認められ、早く早くに計画は始動、ついに形と成した。

 ――第一作として、透明な筒の中、狭山の長男となる男児・悟司は産まれた。

 従来のまじないや投薬実験だけで産んだ能力者とは段違いの魔力を所有していた子供だった。
 能力者を産むためだけの場所で産み出された命だから成功作でなければならない。しかも悟司となる男児は、今後の異能開花も見込める成功例として、当時寺ではとても持て囃された。

 ――第二作・圭吾となる男児は、悟司以上に傑作だった。
 神がかった腕を持つ錬金術師・清子が産んだあの光緑に続く有能さと当時は言われた。

 もちろん狭山が指揮を取る『機関』は成功ばかりの収めていた訳ではない。
 第三作目となる志朗は、特別能力の開花する気配の無い失敗作だった。専門的に研究をしている『機関』でも失敗することがあるのだと落胆されたが、先の第一作、第二作が素晴らしかっただけに『機関』は金をつぎ込むに相応しいものだと認知されていった。
 今後は志朗のような例は出さない。志朗のような子が産まれてしまった場合は、従来通り間引きをしよう。だが記念すべき『機関』『初の』『失敗作』である志朗は後継者に選ばれ、光緑の次男として生き延びることとなった。たとえ失敗作でも『機関』が作った子供なのだからデータを取るために選ばれたのだった。

 『機関』の活動は大きくなっていったが、狭山の三男である霞となる男児は大きな力は無かった。だが霞は狭山の三人目の後継者に選ばれている。この理由は何か。
 霞はごく自然のまぐあいで、何の仕掛けも無く産まれた子だ。刻印も無く、魔術の才能は中の下と言われた。それでも生かす意味はあった。
 というのも……まだ『機関』は動き出したばかりで不安要素が沢山あるものだった。
 いくら気を遣ってでも、人工的に産み出された悟司や圭吾、志朗には予想できない欠陥があるかもしれない。従来の研究から人工生命体・ホムンクルスは心身に異常を来してしまうケースが多かったため、『予備として』狭山は三つ目の息子を純粋な培養で造ったのだった。

 余談だが、光緑様の長男・燈雅は『機関』の生まれではない。
 当主・光緑のこだわりがあり、純粋培養の交わりで産まれた子供だ。刻印無しという失敗作に見えるが、生まれて間もなく『機関』で初の『強化手術』を行った。
 『機関』は生まれる前から能力者であるよう弄るのが目的だったが、生まれた後からでも能力者になるよう弄れないかの研究も行なっていた。燈雅が後継者に選ばれた理由は刻印が無くても開花できる見込みがあったからであって、更に手術を行なえば大きく羽ばたけると考えられた。結果は、まあ大体は成功していると言える。

 その後も、大半の一族はその機関で生を受けることとなる。光緑の三男・新座も『機関』で生まれ、その上、燈雅と同じように強化を繰り返された。
 狭山の兄・大山も、弟・松山も、選んだ三人の後継者は全員『機関』の生まれだ。従来の産めよ増やせよのやり方よりもずっと確実に強大な力の持ち主が造れる研究所を利用しない理由が無かった。

 一時期は、ずらり並んだ一〜二メートルほどのカプセルに、赤子達があちこちに入っていた。
 最盛期は二十人ぐらいを面倒見ているときもあった。そこまで子供が並べられていても日の光を浴びるのは一族一人につき三人まで。『機関』には常に完璧を求める研究員達が詰め込み、女を産めないのであれば少しでも近付けるようにと改良を重ねていた。
 この企画は悟司が産まれたときから始まったのだから、もう三十年も前から始まっていることだ。2000年を迎えた今も改良に改良を積み、良き子を求め続けている。

 ちなみに最も優秀な成功作とされているのが、依織と月彦だ。
 依織は先天的に超能力を見に付けさせることに成功した。月彦に至っては、………………。
 後天的な研究での成功例を挙げるなら、新座と慧の名が出るだろう。
 新座は生まれた後の手術が良かったのか段違いの感応力を有している。元から強い魔力を持って生まれてはいたが、更なるパワーアップに成功している。旧型の中では最も優秀な部類に入る。
 慧に関しては、『機関』で生まれたのではない。一本松の息子達は一人の女が産んだ三つ子であり、母胎から取り出された後、新座と同じようにカプセルの中で更なる強化を受けただけだ。それだというのに良い成果が三人中二人は出ている。慧の能力が判明したのは彼が十歳頃の話。これは別項目で話そう。
 自由奔放に生きた藤春、柳翠の子以外は殆ど『機関』に造られ、育てられた男児達だ。
 物心つくころには研究所から出され、境内ではしゃぎ回っていたから、一部の者……それこそ今後、機関を利用し子を成していく者しか知られていない。
 『機関』には仏田寺で研究されたものが全て集結し、実践される。最重要機密の宝庫だ。
 一人の男の神経質さがこんな大計画を実行させ、成功へと導いた。
 狭山が曖昧で不安定、中途半端を嫌っていたからこそ、徹底して調べ上げ、管理される世界が完成した。
 これも狭山の理想郷の一つ。その理想のおかげで一族は大きく発展していく。
 誰も文句を言わなかった。



 ――2005年4月1日

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 /2

「……満足の出来ではないのか?」
「はわっ」

 二メートルほどの大きさをしたカプセルの群れを二人で見つめていると、狭山が話し掛けてきた。
 ぶつぶつ話していたら背後に狭山が立っていることすら気付かなかった。それぐらい思考に夢中になっていたらしい。俺の話を聞いていた鶴瀬が急に声を掛けられて、大袈裟に驚く。

「は、はわ。狭山様……どうしてここへ」
「ふん、ここは俺の家だ。俺が居て何が悪い」
「あ、はい、はわ、そうでしたね、申し訳御座いません……」

 まったくもってその通りのことを不機嫌そうに言う狭山。鶴瀬も聞き方が悪い。
 鶴瀬は『機関』の生まれでもなければ、元々一族の出でもない。当主の正妻の親戚なだけで部外者だ。当主の血を飲んでその身を書き換え、契約したとはいえ元は部外者。そして曖昧で優柔不断そうな態度。狭山の嫌う要素を全て兼ね備えていた。

「満足するべきなのか判らなくなってきたところだよ、親父」

 俺はわざわざ足を運び、話し掛けてきてくれた父の狭山に対し口を開く。
 こんなところで鶴瀬を糾弾する時間を作られては困る。少しでも話題を変えようと思ってのことだった。

「この男児は、産まれて既に一ヶ月。重圧実験と二度の第六派投薬手術の結果、感応力師の兆候は大いにあり。ただし、刻印は無い……」
「刻印が無いのか。なら駄目だな」

 着物の上に雰囲気だけでも白衣を羽織った狭山は、フンッと笑った。
 この男児の父親である俺が不満をこぼすよりも早く、祖父となる狭山の方が死刑宣告を下した。

「……悟司。今年でお前はいくつだ? いいかげん父親になれ」
「そう言って貴方は今、俺の息子になりえた子を死刑だと言った訳だが」
「使えぬ者を選んでも意味が無い。悟司、お前には第一作としての期待がかかっている。当時の研究者達の大いな期待がな。『機関』生まれが『機関』を使って子を作るんだ、最高の父親になってもらわなければ困る」
「……すまないな、親父。俺は、どうやら中途半端な子供しか産めないようだ」

 そう言って、俺はカプセルに繋がるとあるパネルのボタンを押した。
 複雑なタッチの末の、最後のボタンだった。一部始終を聞いていた鶴瀬が「はわっ」といつもの悲鳴を上げた。
 数秒後、カプセルが暗くなっていく。それはもう栄養素が与えられなくなったという証でもあった。
 昔のように石臼でごりごり潰す必要は無い。ボタン一つで赤子を消せる。良い時代になったもんだ。

「悟司……これで何人目だ?」
「完璧を追い求めていたらこれで七年目だよ。おっと、何人目という質問に答えられてなかったな」

 資料を見なければ判らないぐらいだ、と俺は答える。それを聞いて祖父になる筈だった狭山は溜息を吐いた。

「いいかげん孫の顔を見せろ」

 そんな台詞を言う狭山は非常に父親らしい。
 だが暗くなっていくカプセルを見向きもしなくなった姿は、単なる研究者の顔に過ぎなかった。

「ふう、あのな、親父。今更になって親父達の苦労が判ったよ」
「なんだと?」
「例えば、芽衣。芽衣には刻印が無い。俺は前々から『どうして男衾や依織のような刻印のある男児を選ばないで芽衣は生き延びたんだ?』とずっと思っていた。全員刻印持ちの未来ある赤子にすればいいのに、どうして刻印無しがいるのか、子供の頃から疑問だったんだ。こういうことだったんだな。……刻印が無くても、多少見込みがある子供なら生かして鍛錬させれば良い。一種の諦めだったのか」
「ああ、芽衣の件は大山兄貴の諦めだ。芽衣が選ばれた理由は、先に選ばれた男衾が非常に優秀だったからだ。次がどうしようもない奴でも扱えていける自信があったんだろう、兄貴は」

 その後、依織のような奇才をヒットさせたのだから大山は運が良い……と、狭山は兄を褒める。
 一族は家の為に後継者を作らなければならない。選ばれし三人の子には良い教育を受けさせ、一族を担わってもらわなければならない。これは予想以上に大変な仕事だ。
 今は失敗したらいくらでもリセットボタンを押せる。だが、名前を与えて育て始めてしまえばもう後戻りは出来ない。
 芽衣を諦めとして生き延びさせ、依織のような優秀な子を選ぶことができても、芽衣を無かったことにして新たに二人目を選び直すことは出来ないのだ。
 馬鹿げていると思われるが、『生命をオモチャにしてはいけない』のだから。
 今は単なる実験の素体、人の命にも満たない存在。だからボタンで無に帰せるんだ。

「苦労かけるな、親父……もう暫く孫の顔を見るのは待ってくれ。そのうち良い子を見せてやるから」
「待っていよう。完璧な後継者を作れよ」

 ――折角、お前は完璧に近付けて造ってやったんだから。
 狭山はそう、言葉を繋げていく。

「悟司は新設したこの研究所の試作品。第一号なんだ。お前が他の物達の見本になる。だから悟司、時間を掛けて最高傑作を作れ。……だが早めにな」

 矛盾したことを平気で言いながら去って行く父を、笑わずにはいられなかった。

「鶴瀬。大体のことは理解できたか?」
「はい。ご指導ありがとうございます、悟司様」
「鶴瀬は外から来たんだし一から覚えなきゃいけないものが多いのは知っている。『機関』は複雑だからな、実際に目で見ておいた方が良いと思って案内しただけだ。処刑の瞬間も見られるだなんて運が良いな」
「はい」

 俺達は『機関』と呼ばれる研究施設の廊下を歩く。
 そこは山奥の寺の中とは思えない洋風建築。歩くたびにカツカツと廊下に音が反響する。床が石で、履いているのが靴ではなく下駄だったから変な甲高い音が響いていた。

 ……俺が鶴瀬を連れてきたのは、判りやすさの追及もあるが、ちょっとした父親自慢、俺の出生自慢もあったかもしれない。
 狭山と同じように、自分も他とは違う特別な意識を抱えている。それを他者に公言したくてつい調子に乗ってしまった。自分が知り得ている話をとにかく話しまくってしまった。余計なことまで言ってしまったかもしれない。少し反省しよう。

「現在、一族の皆様の中で最年少は……尋夢様ですね。となると、十三年もここは新たな命を産み出してはいないのですか?」
「いいや、そうとも言えない」

 ――三十年以上前。自分が産まれたときに併設されたここは、元から豪華絢爛な施設だった。
 ここで俺は産まれ、改良された。結果、幼い頃から高い能力が発揮できた。
 この世界に生きる者としては大変生きやすく、心地良い生を送っている。親には感謝している。
 だがその親の後を継ぐのは、何事にも大変な作業だった。「子育てはつらいもんだ」という定例句をどこかで聞いていたが、子作りもここまで計算が必要なものだと思わなかった。
 鶴瀬に説明する間、見せていたデータを手にしながら、時折見て考える。

「もう少し、薬の量を弱くしてみたら、今度こそ俺の長男は生まれてくれるかな」
「……どうなんでしょう、判りかねます」
「最近アイディアが浮かばないから良い結果が出ないんだ。いっそのこと、薬の代わりに醤油やマヨネーズでも入れて赤子を煮てみたら成功するのかな。ほら、圭吾はカカオを混ぜたから傑作になったという話だし」
「……はわ……」
「そんな目をするな。4月1日だし嘘の一つや二つ混じることもあるさ」

 思いながら、俺達は地下から外へ上がった。こんな場所でも寺の中だから山の上、爽快な自然に囲まれた屋敷だ。
 周囲は古き良き日本に建築。そんな場所に似つかわしくない建物。洋館。
 来賓者向けのゲストルームとして使っているのは、照行が気まぐれを言い出した数年前からだ。ゲストルームだというのに周囲の者達が近付きたがらない事実は、外の者である鶴瀬にもよく判ったことだろう。



 ――2005年12月7日

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 /3

 目が乾いた。しばしばする。さっきまで瞼を閉じていたのにちっとも目が潤ってくれない。泣きっぱなしだったせいで、目が重たくて堪らない。

 号泣して疲れて眠ってしまった後、泣いて寝たら気分が少しだけ晴れた。
 完全に持ち直してはくれない。少しは良くなったけど、それでも意識がハッキリしてきたら、泣いていた理由を思い出してしまってまた悲しくなった。
 そうしてまた涙を流す。疲れて眠る。無限ループの中、俺は過ごす。

 離れ離れは嫌だった。志朗兄さんと新座に会えなくなるのは嫌だった。
 泣き過ぎて、頭がぐらぐらしている。嫌だ嫌だと引っ切り無しの負の感情に、消耗した体力が追い付かない。現実を拒否し続け、前が見えなくなってくる。
 涙で視界が見えないだけじゃなく、思考も停滞していく。この先のことを全て覆ってしまって、真っ白で、何にも考えたくなかった。
 だって考え始めたら胸が苦しくなるじゃないか。苦しいことは嫌だ。
 でも自分ではこの状況を何とかすることは出来ない。考え、涙が再びじわりと浮かぶ。眠る前のあの時間に戻ってしまう。繰り返してしまう……。

 再び世界が元通りになろうとして、一人で同じことを繰り返そうとして、涙を流すだけの時間に戻ろうとしたとき。障子が開き、志朗兄さんが入って来る。
 俺が座る布団まですぐに来て、抱きしめてくれた。

 ――たったそれだけの思い出だ。けど何十年も経った今でも色褪せず、俺の中から消えない記憶がそれだった。

 志朗兄さんのことが好きだった。一緒に遊んでくれる兄代わりの彼のことが、大好きだった。
 俺には圭吾と悟司という実の兄がいた。二人は悪い人ではないが趣味が合わなかった。二人とも大人しい性格で、好き好んで泥を被らない子供だった。
 一つ年上の志朗兄さんは、俺と同じ、身体を動かすのが好きな人だった。野球のチームは同じだったし、川に飛び込んで遊んだり、寺に帰ってきてもキャッチボールに付き合ってくれて、プロレスで技を掛け合える、唯一の人だった。
 『無能で見る目の無い』俺を構ってくれるのは、同じく『無能で見捨てられている』志朗兄さんだけ。だから俺は、彼のことが、大好きだった。
 同時に、志朗兄さんを中に連れて行こうとするインドア派の新座のことが、大嫌いだった。
 新座も志朗兄さんのことが好きで、一緒に居たいからと部屋に連れて行こうとした。自分が外に出ることが苦手だから、好きなものである志朗兄さんを中に押し留めようとする。だから俺は新座が、大嫌いだった。

 だって、新座には大勢がついているじゃないか。
 悟司アニキも圭吾アニキも、新座と一緒に遊んでいた。
 兄は二人とも、新座に絵本を読んであげたり一緒に絵を描いたりして付き合っていた。
 親から『新座様』の世話を命じられていたから、『新座様』に付きっきりだった。
 兄二人だけじゃない。大人達だって、『新座様』が「遊ぼう」と言い出せば、皆付き合った。
 俺は何の価値も無い只の子供だったから、何かあっても「外で遊んでいろ」だった。言われるまでもなく、好きだから外で遊んだ。同じように只の子供だから「外にでも行け」と言われていた志朗兄さんと共に、一緒に泥だらけになって遊んでいた。

 新座は、そんな俺の唯一の構ってくれた人を奪う存在だった。
 他に世話をしてくれる人が居るのに、誰でも傍に居てくれるのに、俺と遊んでくれるのは志朗兄さんだけなのに、新座は自分の傍に置いておきたいからと連れて行こうとする。中で誰もが見てくれているのに。
 いつまで経っても新座のことが大嫌いだった。

 ――それも俺の中に色濃く残る思い出だ。大好きだった志朗兄さんの記憶と共にある、強烈に刻み込まれた強烈な記憶だった。

 新座は何にも出来ないくせに、何でもさせてもらえた。
 志朗兄さんは何にもさせてもらえないのに、何だって出来た。
 人の話を聞くこと。絵を描くこと。楽しげに絵本を読み聞かせすること。そんな他愛の無い遊び以外にも、学校の勉強も出来たし、野球団でもエースだった。
 志朗兄さんは俺とたった一歳しか年が違わないのに、かけっこも鉄棒も縄跳びも格闘技も、何をやっても勝てなかった。
 悔しいとは思わなかった。全力でぶつかって笑って遊んでくれる。全力じゃなかったらダメだと怒って、全てを受けとめてくれる。何でも出来る年上の志朗兄さんに、尊敬の眼差しを向けていた。

 その眼差しは今も健在だが、志朗兄さんに初めて勝ったのは、十一歳のときのこと。
 俺が十一歳のとき、ときわが産まれた。
 『本部』に反抗していた藤春様が、『本部』が許可しない女と子を成した。激昂した『本部』は藤春様から第一子・ときわを奪い、言うことを聞かせるように力を振るった。
 俺の親父・狭山は、産まれたばかりのときわを藤春様から隠すため、一時的に寺から出ることになる。ときわを寺に幽閉しておくのではなく、藤春様が把握出来ないぐらい遠くに連れて行くことになった。
 その計画の全権を任されたのが親父で、ときわのボディガード役に悟司、教育役に圭吾、遊び相手に俺が選ばれた。
 他にも数人の僧侶と親父の妻(悟司アニキの母親の豊春さんという。親父の正妻だ)がつき、毎年毎年、学校が変わるような生活が始まった。
 一年以上同じ地に居ることがない、あっちこっち渡り歩く日々を送る。
 十一年間、生まれ育った北関東の寺を出て関西へ。普段のテリトリーから出て退魔業をしながら、ときわを渡さないためにあちこちを動き回る、不安定な少年時代を送らされる羽目になった。

 ――正直、この辺りはよく記憶していない。何処に行っても「どうせまた消えてしまう」学生時代。あまりに空虚な日々。思い出に残るものが無かったからだ。

 この頃から俺も修行をするようになった。アニキ達は小学生のときから魔術や武術の鍛錬を行なっていたらしいが、俺が本格的に修行を始めたのはこの頃だった。
 新しい学校に行っても長く在籍していられなかった。サークルに入れないから好きなスポーツもロクに出来ない。でも身体を動かしていたいから、親に命じられるがまま稽古に打ち込む。打ち込むしかなかった。
 かつて悟司アニキと圭吾アニキが『新座様』を面倒しながら鍛錬を行なっていたように、俺もときわを構いながら修行を行なう。
 でも俺は、アニキ達のように器用にあれもこれも出来る万能タイプじゃない。魔術の才能はからっきし。基礎だけは叩き込まれたものの、一向に使えたもんじゃない。
 それに武術を習いながらではときわと遊んでやる余裕が無かった。
 結局俺はときわのことをさほど構わず、見かねた圭吾アニキがときわと遊んでやっていた。だからときわも俺には懐かず、圭吾アニキから離れないようになっていった。

 一緒に遊んでくれる人は居なかった。
 一年どころか数ヶ月で移動する生活だった俺に、人懐っこい子供ですら優しい人に逃げていく俺に、そう簡単に友人などできてくれなかった。
 だから無我夢中に武術の鍛錬に身を投じた。仮初の学生生活が終わったら、すかさず夜が更けていくまで鍛錬をする。
 ときわを連れ逃げる僧侶達と共に、夜の中、修行を続ける日々。
 楽しかったと思ったことはない。綺麗な言葉になるが、そうすることが自分の居場所作りだった。
 そんな暮らしでしか出来なかった。何も満たされずに時を過ごした。そうしているしかなかった。俺にはそれだけだった。

 いくらときわを連れて逃げ回っているとはいえ、仏田寺に戻ってくることがあった。
 久々に大好きな志朗兄さんと大嫌いな新座と再会。また前のように共に笑い合う。久しぶりに会った志朗兄さんと、以前と同じように遊び、対決し、
 俺が呆気無く勝利した。

 ――このときのことはあまりに虚無すぎて覚えている。何にも感情を抱けなかったことが、逆に強烈に心に根付いてしまった。

 志朗兄さんは、以前の俺と同じ、只の子供だった。特別な修行なんてしてない人だった。
 『魔術と応用して長距離を跳ぶ』とか、『死線を見計らい相手の急所を狙う』とか、そもそも学校の授業で習うこと以外の格闘技をやったことがない人だった。

 俺も馬鹿だった。何も考えず『いつも通り』にやってしまうなんて。
 志朗兄さんは一般人なんだから、一般人と同じ方法で勝負すれば良かったのに。
 それなのに俺は、普段の鍛錬と同じことをしてしまい、それまで全然勝てなかった志朗兄さん相手に、あっさり勝ってしまった。
 呆気無く、感動も何も無く。何かをするたびに「良くやったな」「巧くいったな」と言ってくれた声も何も無い、終わり。

「霞も、『あちら側』に行っちゃったか」

 ――その台詞は俺の中での捏造だ。そんなこと、志朗兄さんは言ってない。
 でも異能を使われあっさりと負けてしまって、ぽかんと驚いた表情から、『只の子供を強いられていた志朗兄さんの顔』になったとき、「そう言いたいんだ」と判ってしまった――。

 次からは異能を使わなきゃいい話? 使わないでごく普通の俺でやればいい話?
 だけど、一度勝ってしまった俺はもう勝負を持ち掛けることは許されない。
 以後「全力を出し切って遊ぶ」ことなど出来ないんだから。
 もう、志朗兄さんと同じ領域に居られなくなった。
 俺が勝手に閉め出してしまっただけで、志朗兄さん自身はさほど気にしてはいないかもしれない。
 でも俺は、『全力を出せる相手だった志朗兄さんが』好きだった。無能な俺の、唯一の相手になってくれる志朗兄さんが、大好きだった。
 全力が、彼の住処と別次元になってしまってからは、もう。好きは思い出の中だけの対象になり、現実の志朗兄さんに自分の努力を向けることが出来なくなった。
 俺と志朗兄さんとの関係は終わる。
 勝手に俺が終わらせた、それだけの話。

 ……一方、新座は相変わらずヤな奴で俺が嫌がることばかりを続ける。
 志朗兄さんとの関係は変わってしまったのに、新座とは幼い頃から、色褪せず生き生きとした大切な思い出の中から変わらず、不変の関係が続いている。
 早く終わってほしい関係がいつまでも続いて、悲しいことに最愛の絆は失われてしまった。
 変わってしまった大好きな記憶と、変わらぬ絆の話。
 俺という男を構成する情報の数々が、それ――。

「あぅ……あ……あ……っう」

 ――そう、『それ』。『走馬灯』を、見ていた。

 死ぬ間際に見る、甘い思い出達。少しでも死の苦痛から逃れるために脳が見せる、一番輝いていた日々。俺を作る知恵の数々。
 俺が走馬灯を見ている間、周囲の男達も、俺の中の記憶を覗き見ていた。
 『相手の過去を覗く異能』とやらが世の中にはあるらしく、何のプレイなのか俺の恥ずかしい少年時代が赤裸々に明かされていた。何もされていないときだったら顔を真っ赤にしてバカヤロウと怒鳴れたけど、今は、何も反抗出来ない。
 だって俺は走馬灯を見ているんだ。身体が最終手段を出すぐらい、今まさに、死にかけているんだ……。

「ひ、あ……ああ……んあ……」
「……大した知恵も無いな。大抵の人間からは一つぐらい有益な情報を引き出せるというのに、お前ときたら。まあ、元から霞の中身など興味など無かったがな」

 悟司アニキがわざとらしく溜息を吐き、情報を引き出し終えたのを見計らって術を停止する。
 その後、血が通わぬ物体を動かぬ俺へと埋め込んでいった。

「ぎ、あああっ……!?」

 冷たい棒状のそれには、情けなのか、大量の潤滑液を掛けてもらっていた。だが尻の穴は元々、異物を受け入れる組織じゃないんだ。押し込んだって簡単に入ってはいかない。
 それでも悟司アニキは、無理矢理物体を中に捻じ込むように入れてくる。
 既に排泄行為を何度も強いられた後だ。数人の目の前で、入れられては吐き出しを何度も繰り返された後。糞尿を人前で垂れ流して数時間、最初の頃に比べればすんなり異物を受け入れる身体になっていた。それでも詰め込まれていくことで生じる嫌悪感は消滅することはない。
 すっかり形を変えたそこに、暴力が注がれていく。身体の中を破裂させる気なのか、中を物体で埋め尽くしていった。

「こんな魂、何の価値も無いよな。貰い受けるならもっと頭の良い魂が捧げられるべきだと思うよ。それでも、無いよりは良い。お前だって無駄に三十年生きてきたのではないだろ? その命、有効に使わせてもらうよ」
「ひ、ぃっ! ぅぐ……っう、ぐ、んう……!」

 両足の先に縄を括りつけられ、足を開くように引っ張られていた。それぞれの足の縄を持つ男達が二人。中央に悟司アニキがぐいぐいと異物を押し入れる。
 縄を断ち切る元気も、身を捩る気力も、長時間に渡る暴力の後ではすっかり消え去ってしまった。
 度重なる暴力を大人しく受け入れていた訳じゃない。反抗はそれなりにした。出来る限りの抵抗だってやってみた。
 けど、大した魔術も習っていなかった俺には細工のされた魔法の縄を断ち切ることは出来なかったし、大勢相手に俺一人が敵う筈が無かった。

「さっき梓丸に聞いたんだが、昨日までお前、処女だったんだって?」

 男相手に処女だったなんて、よく口に出来る。でも今は鼻で笑い軽口を言うことも儘ならない。息苦しさを前にしては何も言い返すことが出来ず、異物を悲鳴と共に受け入れるしかなかった。
 身体の中を切り裂いていく物が、中から俺を押し潰していく。
 最初に入れられた物よりも、それはずっと大きい。激痛ばかりが産まれていく。涙が流れる。意識が遠くなる。あまりの痛みに息も出来ない。呼吸が続かない。……走馬灯が見える。
 思い出の中の優しい志朗兄さんと、なんだかんだずっと傍に居た新座の顔が、くらくらの頭に生じた。
 少しでも楽しい記憶を思い出して、今の苦痛を和らげようと、脳が必死になっていた。

 ――そんな中。比較的、最近の思い出が見えた。

 ある男の笑顔だった。
 明るい。騒がしい。忙しない。落ち着きが無い。うーうーうるさい。考え無し。頭の悪いことしか言えない。甘えん坊な言動。前向き。積極的。お節介。世話焼き。暖かい。柔らかい。眩しい。誰かが守ってやらなかったら明日にでも死んでしまいそうなほど愉快な、奴の顔が……。

 こんなにも甘い記憶に身を投じなければいけないほど、俺の苦痛は限界に達しているのか。
 敬愛する志朗兄さんが「霞」と呼び掛けるように、ムカつく新座が「カスミちゃん」と呼んでくるように、意味も無く「カスミンカスミン」とアイツが俺のことを連呼して……。

「全く、我が家の人間にしては珍しい。この家では、お前ぐらいの年になって一度も女の役をやったことない奴の方が少ないだろ」
「っぐんっ!? ぐ、ぅんっ、んあああ!」
「それだけ霞は我が家から離れていたということか。それはそれは。親父も気に入らんことだろう」

 中のある場所に到達したとき、心臓がばくんと激しく波打つのを感じた。
 限界を感じる。全身が震える。両手両足を拘束されているから動き回ることなんて出来ないが、震えが止まらなくなる。
 暴れ回りたい。狂ってしまいたい。この熱を何とか解放したい。
 寧ろ縄で結ばれているから乱れなくて済んでいる状態。自分の身体なのに自分の制御下に無いような感覚。意識と身体が分離しているように思える今……。

「親父はこの家の中央だからな。当主ではないとはいえ、現当主が眠り続ける今、仏田を指揮っているのは間違いなく親父だ。最も心臓部に近い人物だというのに、その中心人物の息子が例外なんて。許されると思うか? ……親父は我慢できなかっただろうよ」
「ぁ……たす…………け、……ぇ」

 まだ身体の中に入りきれていない棒を入れるだけではなく、今度は揺すり、小刻みに動かし始めた。
 違う衝撃が全身を駆け廻り始める。大半は激痛だった。激痛ばかりが襲いかかってきた。
 でも微かに違うものもあった。激痛以外のものが唐突に訪れる。未知の感情に、戸惑いを隠しきれなかった。

「だから、霞にはこれから『中央』になってもらおう」
「ひ、ゃ……ぁ! ッ……ん……あ」

 散々、中を掻き乱していく動き。動かなかった口はそのうち変な声が漏れていくことになった。
 甘い記憶が過半数を埋めていく。全身を貫く痛みも、過半数が甘い『別のもの』へ色を変えていく。
 二つが同時に身体を満たしたとき、信じられないことを口走るように変貌していった。
 自分の声が耳を塞いでしまいたくなるぐらいになった頃。悟司アニキは異物を完全に俺の中に入れてしまった。
 奥まで埋め込まれ、言葉という言葉を出すことが出来なくなって、痛みから逃れることを考えるのに必死になって、一体何がどうなってしまったか判らなくなった。
 ――だから『中央』って何なのか、ちっとも理解出来なかった。

「もっと大きいのを持ってこい。拡張してやらんと耐えきれんだろ」

 理解は出来なかった。でも何かをブツブツ言っているのだけは判った。
 薄く開けた瞼の先で、アニキが笑いながら俺を虐げているのが見える。この行為が『罪を犯した者へ与えられる処刑』なんだとアニキは言ったが、本当にその為の行為なのか納得できなかった。
 処刑というなら首を刃物で斬り落とすとか、毒物を飲ませるとかして、さっさと命を狩り取ってしまえばいいのに。苦痛を与え続け、でも命を落とす程のことはしない。
 殴る蹴る、鞭を打つ蝋燭で炙るの暴力から、複数の男に犯され、恥辱の行為を強制され、性器に針を刺されたり棒で貫かれたりされた後に、今の行為に辿り着いた。
 どれも致命傷を与えるものではない。でも走馬灯が見えるぐらい、死に近いが死に至れない儀式が続いていた。

「たった一日で、『コレ』が入るかな」
「ぃ!? ……いゃ……だ……」
「霞は努力家だから出来るだろ。大丈夫、玉淀も最初は失神したが、今となっては」

 今度は、先程までの物よりも数センチも太い物。それで殴り殺された方がまだラクだったかもしれない。
 一目で無理だというのが判るのに、几帳面にちゃんと薬を塗って、穴に押し当てる。
 また数人がかりで身体を引き裂き始めた。
 入るのも一苦労だった新しい異物を、笑い声と共に挿入していく。直腸が無理だと悲鳴を上げても、何度も抜いては刺しを繰り返し、無抵抗になるまで事を進める。
 どれだけの時間、繰り返したか。失神しても起こされ、死にかけても労わられ、どれほどの時間を費やして陵辱されたのか。検討もつかなかった。
 今度は入れた後に機械の力で散々中を掻き混ぜられ、ついには電気を送られた。気を失っている場合ではない、ただ「この行為に慣れろ」と言わんばかりに、巨大な暴力ばかりが襲い掛かってきた。
 一度は快楽が生じた身体だった。新たな平気にまた激痛だけの時間になった。暫く痛みのせいで、思い出に逃げ続ける時間を過ごした。少しでも優しい思い出や、ここではない景色を頭に描いて、苦痛を消そうとした。
 それでも人の身体だから慣れは生じるもので、回数を重ねるごとに少しずつ激痛は治まっていく。

「……し、ろ…………ぁ、た、ぁ……ま……」
「そんなに志朗君や玉淀達に会いたいなら、ここに連れて来てやろうか? この姿を見せてもらいたいのか。ふふ、このことに関してはお前より玉淀の方が先輩だからな、もしかしたら見かねて指導してくれるかもしれんぞ」

 ククッと、悟司アニキの嫌な笑い声が聞こえる。
 笑みと共に暴力を重ね、ついには異物を受け入れるような身体へと作り変えられていく。
 たった数時間で、少しの異物感だけで男性器を受け入れるようになってしまったときには、羞恥心や絶望感よりも恐怖が大きくなっていた。
 失神するほど尻の穴を犯され続けた後には、半勃ちの物を嬲られる時間が待っていた。
 指で、または機械で、何度も弄ばれる。後ろの拡張と共に、前でも激痛を与えられる時間の到来だ。
 解放されることを望んでも、そんなものは何時間経っても訪れることはなかった。何時間どころか、何日経ってもやって来ることは無かった。
 相手が逃がしてくれないのだから、自分から逃げるしかなかった。
 ずっと思い出の人達の名を叫びながら、喘ぐ。朦朧とした意識の中で、そんな選択肢を選んでしまっている自分がいた。



 ――2005年12月14日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /4

「そろそろか」

 数日間、処刑は続いた。
 中心となっていた人物は悟司アニキだったが、アニキが居ない時間でも複数人が交代で処刑を続けた。
 睡眠時間や食事を与えられていた。けど大半は身体を改造される時間にまわされた。寝るときも食べるときも拘束を外されることなく、死なない程度に休息と栄養が与えられ続ける。
 光を最後に見たのはいつだったか思い出せないぐらいに、激痛と闇は続いた。

「霞。お前、ついにしゃぶれるようになったんだって?」

 ずっと嫌がってしなかったことを、苦痛を選ぶようになってしてしまうぐらいに俺は疲れていた。あんなモン、口に入れられたら噛み千切ってやると思っていたのに、「しゃぶるぐらいで事が済むならそっちの方が良い」と考え始めてから、男達の思うが儘になってしまった。
 「敗北」と言われようが構わない。誇りなんて何度も薬を入れられたときからどっかに置いてきてしまった。今の声が悟司アニキのものだとは判っても、もう周囲が誰か認識できないほど、俺の頭は限界に近付いていた。
 悟司アニキは俺に会うなり、大量の水を飲ませた。
 何かの薬を飲ませたかったのか、もしくはまた排泄行為を強いるつもりなのか。そうぼんやり考えていたがアニキは、

「これから脱水症状になっては困るからな」

 と普段通りの厭らしい笑みを浮かべるだけで、何も教えようとはしなかった。
 きっとロクなもんじゃないというのは判る。聞いたって何も解決出来ないのも知っている。だから「何をする気なんだ」と言うこともしない。
 処刑と言われこの牢に入れられてから、既に何日が経過したか。俺は人間らしい言語を喋ることが出来なくなっていた。
 いくら抵抗の言葉を口にしたって誰も聞かないんだ。あったって使えない。言語なんて捨てたって問題無い世界だった。

「立て」

 目隠しをされ、繋がれていた縄を外される。完全に拘束を外されはしなかったが、壁に押し付けられている姿勢ではなくなった。
 引き摺るように牢の外から出される。だが数日間甚振られた身体は、歩く機能を失っていた。アニキは再び「立て」と言ったが、応えられない身体だった。
 「仕方ない」とアニキは言うと、数人の男達に命じ、俺の身体を持ち上げ搬送し始めた。「どこに連れて行くんだ」も口が動かなくて尋ねられない。完全に視力を失った真っ暗闇の中、俺の身体は男達の腕に引き摺られ、時には乱暴に扱われ、判ることといえばただただ『下っていく』感覚しか伝わってこなかった。
 そうして、ある石の上に下ろされる。かと言って目隠しが取られることはなかった。拘束は両手を前に縄でまとめられているだけ、どこかに繋がれているということもなく、その場に放置された。
 今居る場所が何処かは判らなかったが、とにかく寒かった。冬の牢も充分寒かったが、ここは更に寒い場所だった。音の響き方からして野外ではなかったから別の牢なのかもしれない。そもそも寺にいくつ牢があるかも知らない。もしかしたら隣の牢に連れて来られただけかもしれない。呆然とそんなことを考えていると、

『では、霞』

 悟司アニキの声がした。
 直接俺に対して掛けられた声ではないのは、音の響き方から判った。凍った空間にこだまする音が、まるでマイクで遠くから話し掛けているように聞こえた。

『修行の成果を見せろよ』

 言われても何が何だか判らず、何も起こす気力も無い。
 でも暫く放置され、本当に何も起こらないことに不安を感じた俺は、とりあえず上半身だけを起こした。
 しかし、既に疲れきっていた身だ。――すぐ近くまで這い寄って来る『魔物』の存在など、気付ける筈が無かった。

「ぁ、あ、あああ、ああああああっ!?」

 突如、身体が『呑み込まれる』。
 一斉に手に襲い掛かられるでも取り囲まれるのでもなく、巨大な口の中に身体を放り込まれたように、覆われる。
 石畳の冷たい空間から一転、熱い口内の中に投げ入れられた。
 口内の中で転がされ、全身を、無数の舌に舐め回されていた。生温い感覚が身体中を舐め回していく。その結果、軽く結ばれた程度の目隠しはあっという間に外れ、その世界を知覚することが出来た。

 数日過ごした闇の方が天国と思えるほど、そこは異界だった。
 舌だと思った者は黒い手だった。触手という言葉がしっくりくる物体だったが、一つが子供の大きさほどあり、至るところに無数の眼があった。
 一つの手に、俺が見える限り五十個も目玉が埋め込まれている。
 でもここは口内だった。口内に蠢く生温く柔らかなそれらは、巨大の舌と言うのが相応しかった。大量の舌が口の中に生えているなんて普通じゃないけど、そうとしか言えなかった。
 舌の一つが全身を舐め、もう一つが足を絡め取ってくる。渾身の力で振り払ってみるが、何日も人間の力で甚振られ続けた身体で出せる力など無かった。たとえ本気を出せたとしても、このような魔物の相手を出来たかどうかは判らない。
 ここは口内。舌だから唾液に塗れている。
 だからいくら足で暴れようが粘膜に覆われた巨大な触手らに立ち向かうことなど出来ない。
 いくらやろうが力が分散され、何をしても全く無駄。絡みつく腕は全身を引き千切るつもりなのかあちこちに吸いついてくる。絶叫も、粘膜に塗れていく顔全体のせいで小さくか弱いものへと形を変えていった。

 数々の触手が二つの足を奪う。また別の一つが、性器に絡みついてきた。
 あまりの恐ろしさに委縮して興奮などできなかった。だが、単なる食事から愛撫のような動きになり始めると、思わず声を上げるほどの官能的な行為へと変貌していった。
 始めのうちは一つの舌が絡まるだけだった。そのうち二つ目と挟むような形で、明らかに淫らな行いを目的とした動きになってくる。
 先端から根元の二つの部分まで、丹念に揉まれていく。吸い付かれているのは性器だけではない、全身が呑み込まれて陵辱する手は大量にあった。上半身も、足の先までも、快楽を生み出すような動きに襲い掛かられていく。
 あまりに強すぎる刺激の数々に、何度も叫び声を上げた。それも最初の数分だけ。それからは呼吸をするのも精一杯になっていった。
 そうして、ぶよぶよした肉は、数日間に渡って拡張された入口に到達し、何の合図も無く中に侵入する。

 腕や足を捕らえている舌と同じものだと思っていた。目を凝らして見てみると、中に入り込んでくるその肉だけは、別物だった。
 『肉の塊』としか言えない。魔物のどんな組織なのか、そこが魔物の性器なのかハッキリと断言はできない。けど他の器官と違う色を発していた。その物が何なのか確認を取ることなど、既に身体の中へと忍び始めている今となってはどうすることも出来なかった。
 一ヶ月前の自分がこの魔物に襲われたとしたら、この時点でショック死していた。
 だが、既にこの身は刺激されれば快楽を生めるものだ。壁面を擦り、奥を刺激して全身に甘味な汗を噴き出させて喘ぐ身体になった今、更なる肉の攻撃が無ければ死ぬことも、失神して夢を見ることも出来ない。
 頭から全身を捕らえられた今、物理的にもこの世界から逃げ出す手段など無い。
 殺されるまで、食べられるしかなかった。

 寒かった牢から生きている『魔物』の中は、気味悪さも勿論あった。
 けど、「気持ち良い」と感じさせる熱もある。
 血が通った肉に貫かれる。嫌だとは思う。でも、無機質に体内で暴れ回るだけの機械よりは、ずっと気持ち良かった。
 そう。正体不明の名状しがたい魔物だったとしても。数日間に及ぶ心無い暴力と無機質な機械よりは……ずっと気持ち良くて、「欲しい」と叫べるものだった。

「ぁ……んあっ……いっ……い……ああっ、はああぁ……!」

 ぬめぬめと潤っている肉は適度な熱さだった。
 何度出たり入ったりの動きを繰り返しても、柔らかいおかげで苦痛が最小限になる。寧ろ熱のこもった大きいそれを押し込められて、全身が蕩けてしまいそうなほど、良かった。
 気味悪さは勿論ある。でも連日の処刑のせいで『苦痛からの逃れ方』は心得ていた。

 ――志朗兄さん。新座。玉淀。

 俺の人生を構成する彼らの甘い記憶を思い浮かべていれば、苦痛など。

 ――本気で楽しくぶつかった志朗兄さん。楽しんだつもりはないけど本気でぶつかり合った新座。どうにかしてやりたい、無力なりに守ってやりたいと……本気で想い続けた、玉淀。

 考えれば考えるほど、苦痛は和らぐ。
 感覚が過敏になっていくと同時に、全てに鈍感になっていく。
 中に押し上げる適度な固さの肉が、血の通うそれが、甘い記憶と混ざり合い、最高の快楽を生んでいく。

「ぎ、ぃっ!?」

 何度達したか判らなくなっていたとき。身体の奥が爆発した。
 物凄い衝撃だった。奥まで侵入した肉が、体内に何かを吐き出したからだった。
 魔物も射精をするのか。中央に熱い液体を出され、それでまた刺激され、自分も射精をする。
 扱かれ続けていた自分のものからも精液が押し出され、肉が入り込んでいた尻の中からも魔物の精液が……泥が、逆流して出て来る。
 中にしまっておくことが出来ない泥が、外へとぼとぼと流れてきた。
 でも過半数は身を貫き、中で残り、『着床する』。

「あ、は……? ……は…………は、は……」

 躰に染み渡るものたち。
 性器と尻の穴だけではない。涙も涎も鼻水も全身の汗も、穴という穴から体液が噴き出していた。



 ――2005年9月6日

 【     / Second /     /      /     】




 /5

 全身を覆う不快感に目を覚ました。
 この部屋は清潔と言えば清潔。でも不潔な行為の後に訪れることから、この部屋自体が不浄に思えてしまう。ここの天井を見ながら気分良く目覚めることなんてできた試しがない。
 全身の倦怠感が嫌で寝返りをうつ。ベッドの脚がギシリと冷たい音を立てた。畳が敷かれた和室に無粋に設置されたパイプベッドは、疲れた体を癒してくれるものではなかった。
 あまりの怠さに、薄布の白い患者衣の中へ手を突っ込んでみた。変な感覚に襲われたまま自分の体を撫でてみる。投与された薬がまだ効いているのか、単に寝ぼけているのか、体はうっすらぼんやり熱くなったままだ。抑えきれない程ではなかったけど、ムズ痒さが気分を悪くしていく。気ままに自分を撫でていた。
 それも数秒で終わる。この空間にもう一人、自分以外の誰かが室内に居るのに気付き、シーツの中での自慰を中断した。

 誰かが部屋に居ることに気付けたのは、遠くのパイプベッドに眠っていた彼が身を起こしたからだ。
 僕が横になっていたベッドからそのベッドは見えない。だから音がして、牢屋に至るこの空間に初めて人が居ることに気付けた。彼がむくりと起きてくれなかったら、僕は悟司さんが迎えに来るまで自慰に耽っていたかもしれない。
 はて、『誰か』って一体誰だ。ここのベッドで眠っているということは、僕と同じ立場の子なのか。
 『魔物』に食べられて疲れ果てた僕と同じか。彼も食べられた後なのか。これから食べられにいくのか。いや、僕が今さっきまで食べられていたんだから『後』ってことはないか。これからなんだろう、きっと。

 僕は乱れた作務衣を整え、シーツの中で寝返りをうっているだけのように見せた。相手が僕の痴態で身を起こしたのかは知らないけど、少しでも知らんぷりはしたかった。オナニーを公然と主張する趣味は無かったからだ。
 そして同類の彼はよたよたと僕のベッドに近付いてきて、隣に座った。地下に一番近い寝室であるここは、普通の病室とは違い、畳の部屋にベッドを備え付けただけの和室だ。椅子なんてある訳がないので、彼は文字通りパイプベッドの隣に腰を下ろす。そしてシーツに顎だけ乗っけるようにして、僕の顔をまじまじ見てきた。
 ……金髪の男の子だ。根本が黒い。金色に染めてから結構な日にちが経っているみたいだ。
 肌の色は健康的に焼けていて、体格は僕に比べずっと良い(小柄な僕と比べてはいけないけど)。体つきの割に、表情は幼く感じる。なんだか賢そうな顔じゃなかった。

「……ごめん、どうしたの」

 年下の子に言い聞かせるように、声を掛けてみる。すると彼は、「うー」と鳴いた。
 うー。特定の意味を持つ言語とは思えないから、おそらく感嘆詞。鳴き声か。当主三男の新座様の「むぐー」や、当主側近の鶴瀬さんの「はわー」と似たようなものかな。

「……ごめん。意味が判らない。どうしたの……ううん、どうしたいの?」
「えへ。……おはなし、しよー?」

 シーツに顎を乗せながら、愛らしく首を傾げる。
 頭の弱そうな顔と、知性が高くなさそうな喋り。やや大柄な男の子がベッドに寄ってくるから、まさか僕に『供給』を強請ってくるんじゃないかと思った。
 だってここはそういう部屋(地下への通路と言うべきか)だし。いつもならここで何人もの男達と魔力供給を行うもんだし。
 けどこの子は性的な接触なんて考えてない子供っぽい話し方で、僕の顔を覗いてくるだけだった。

「そうだ、まずはお話するために名前を聞こうか! キミ、だれ?」
「……僕は、慧。君は……えっと。ごめん、名前、知らないから教えてくれるかな」
「おれはね、おれはね。玉淀っていうんだー。うー」

 その名を聞いて、「ああ、この子が」と納得してしまった。
 『僕以外がここのベッドを使って眠っていたこと』の納得だ。

 ――玉淀。松山さんの長男。年は確かまだ成人してない筈。熊のように大きい松山さんに似て、少し大柄な体格。でも体の成長が心よりも先に訪れてしまったのか、初対面の僕に対してふにゃふにゃの警戒心の無い子供以下の笑顔を向けている。
 第一印象は、笑顔がとてもやわらかい子。でも笑みを強調させているのは、『その下にある首元の傷の多さ』が原因かもしれない。

 彼は僕と同じく、薄着の白い作務衣を着せられている。この患者衣はとりあえずお腹や局部を隠すぐらいの効果しかなく、首元がばっくり開き、肌が隠せないようになっていた。彼の剥き出しの首筋には、引っかいたような傷痕と、特に酷い部分をカバーする赤く滲んだガーゼ。べたべたと貼られたテープが痒くて爪で引っ掻いたのか、ガーゼの周辺を真っ赤にしていた。
 笑顔の下に、傷痕。首という脆い部分を赤く染めた上で、無邪気さ。幼い喋りと、体格の良い体。他人と接触を取ろうとする積極さに、拷問部屋を繋ぐこの空間。アンバランスで危うい子。
 ……なんか、狡い。そこまで色んなものを見せつけられると、冷たく拒むことなんてできやしないじゃないか。

「……そっか、玉淀くんか。ごめん。で、どうしたのかな」
「うーっとね。どうしたのじゃなくて……おはなしがしたいんだよ」
「お、お話?」
「うー。オハナシ。うー」

 見知らぬ人とフリートークだなんて、僕の一番苦手な分野を求められた。
 人見知りの激しいシャイな僕にはこれこそ拷問に近い。この部屋は痛いことを前後でするもんだけど、まさかこんな精神的拷問をされるとは思わなかった。

「えっと、僕、さっき地下で『お仕事』してきたばかりだから、疲れていてお話は……ごめんね……」
「おれ、一週間は地下にいなきゃいけないんだよー」
「……うん」
「だからさ、ここでしゃべりためておかないと! 地下っておはなしデキるヒトっていないじゃん? だから!」

 だから話そう! と、玉淀くんはニコニコと笑って迫って来る。
 これから『魔物』に食われるというのに、どうして笑っていられるのか。『笑っていられなくきゃ自分が保てないから』? ……なるほど、そうなのかもしれない。

「……そっか、お話か……ごめんね」
「だめ?」
「ごめん、そうじゃない。……僕で良ければしようか。でも僕、お話は苦手だから、楽しくなかったらごめんね」
「ううん! ありがとう! うーっ!」

 ――寺の地下牢より、もっと奥の地下。そこに『魔物』と呼ばれるモノがいる。

 僕達はそれが生きてることを知っているから『魔物』と呼んでいるけど、『知恵』という人もいる。仏田が生み出したモノと、集めているものの塊だ。
 『知恵』の塊は生き物で、生き物だから生きていくためには『餌』が必要だ。『魔物』の主食は、魔力や生命力。それらを得るためにお腹を空かせた『魔物』には、僕達のような魔力食いの魔術師と同じように『供給』をしなければいけなかった。
 『本部』は何よりも『魔物』を大切にしている。だから餌を定期的に与えなければならない。『魔物』に『供給』をさせる者を数ヶ月に一回呼び出しては捧げていた。『魔物の餌』として、交代制で体を差し出している者の一人が僕で、もう一人が彼のようだった。
 『魔物』との相性が良く適性が高かった僕と彼はこんな役目を負っている。狭山様から「知恵を司る当主の代役なんて名誉なことだ」と言われ続けて暫く経つが、あんまり嬉しいものではなかった。
 だって、いくら褒められたって、生贄は辛かった。全身に不快感を残すだけの作業を好きにはなれなかった。
 何とも言えない名状しがたき化け物に体を捧げ、満足してもらうまで翻弄されるだけの作業。そんなもの、好きになれるもんか。一族が長年の研究で作り出した大いなるものだって知ってるけど、実際それと向かい合っている身にはそんな高等なものとは思えない。

 黒く、赤く、恐ろしい化け物。本当ならこんな汚らわしい『仕事』なんてやりたくない。地下に漂う、脳を焼くようなニオイなんて嗅ぎたくない。黒の臓物が揺れるあの空間なんて、行きたくない。紫色の名状しがたきあの体に呑まれたくなんてないし、触手に翻弄されるのは嫌だし、意識が吹っ飛んでも許してくれない陵辱に慣れることなんて、できない。
 心を無にできればラクだけど、それさえも許されない。『魔物』が望んでいるのは虐げることじゃなくて、『供給』なんだから。

「玉淀くんは……これからすること、嫌じゃない?」

 『供給』はただただ性的絶頂に昇りつめてスイッチを入れただけではいけない。感情の揺れ動きが良い味になる。だからあいつはより旨い餌を求めるために、餌の感情を動かそうとする。手っとり早く苦痛という感情を味合わせるために骨を折ってたり皮をめくったりするのはそれだ。……痛い行為をしてくるような奴を好き好むなんて、無理だ。
 『本部』はこの一族を繁栄させるためなら数人を生贄にすることぐらい、どうでもいいことだとしている。
 あんだけ「我こそは一族」と名乗る男連中がいるのに、『魔物の餌』になれる適性を持った人が僕達だけっていうのも腹が立つ。それほど望んでいない僕が選ばれているというのも腹が立つ。一族繁栄の負担が僕にかかる現実に腹が立つ。本来の仕事をしない当主達にも腹立って、良しと代役を押しつける上の連中にも腹が立つ……。
 それでも甘んじて『魔物の餌』をやり続けることができるのは……先生が、とても褒めてくれるからだ。

「うー? イヤだよ。ホントは来たくなかった。でも気付いたら実家に戻ってきてたしさ」
「……気付いたら?」
「体ボロボロで寝てたよ。いおりんにめっちゃ怒られた。よく判らないや、知ってる?」
「……ごめん。君の事情を知らない僕は、もっと判らない……」
「だよねー! でもさ、ちょっと我慢すればいいだけだよ、仕方ないことだし、やるしかないよね。それに……お金がいっぱい入るから、それで欲しいもの買うんだっ。ケータイとパソコンをそろそろ買い換えたかったし、旅行にも行きたいからお金がー」

 玉淀くんはお金の為なら我慢できるらしい。適性が高い子が金さえあれば言う通りにできるんだから、さぞかし『本部』に重宝されてるだろう。
 確かに数時間我慢すれば玉淀くんが求めているように、普通の退魔業より高い報酬を得られる。素晴らしい任務を遂行させているということで、一部の人達には尊敬の眼差しで見られる。
 その一部の中に、僕の愛する人がいるから、僕は我慢できた。

「……玉淀くんは、我慢、できるんだ。凄いね……」

 僕の愛する先生は古い人間だから、古い人間達が作ったルールが大好きだった。
 僕はそのルールのことが大嫌いだったけど、かと言ってそのルールが好きな先生を嫌いになることはなかった。
 どんなに嫌なものでも、否定したいことでも、先生のことを愛している。だから先生の好む世界を少しだけ許容することにした。
 『魔物』に僕が嬲られることを、先生は喜ぶ。名誉あることで、なんて君は素晴らしいだと拍手をしてくれる。進んで『魔物の餌』になることを先生は望んでいるから、僕は『仕事』を受ける。本心では嫌だけど、僕が地下に行くたびに先生は褒め称えてくれるから、今まで耐えてきた。
 愛があるから乗り越えられる。クサい言葉でも、まさしくそれだった。

 玉淀くんのお金は、それほどの決意とともに成される我慢なのか。
 考えていると、早速玉淀くんは「お金を貰ったら好きな子にプレゼントを買ってあげる」「その子を旅行に連れていく」と、次々に楽しい計画を語り始めた。
 好きな子の為に頑張っているのか。……なんだ、僕と同じじゃないか。僕達同類は、そんな信念まで同類だったようだ。
 愛する人が喜んでくれるからあの拷問を受ける。好きな子を喜ばせるためにこれから身を捧げる。玉淀くんは地下から大怪我をして帰還しても、そんなこと気にせず生きていけるだけの熱意がある。羨ましかったし、僕もそうしなきゃと思った。ああ、玉淀くんには親近感が湧くばかりだ。
 そのとき、ふっとあることを思い出した。
 先生は、僕が一族を支える知識の中央で『仕事』をしていることをとても喜んだ。「痛くて痛くて、あんなこと嫌なんです」と僕が泣いたとき、

「でも生きて帰ってきたんだから、慧は強い子だ」

 と微笑み、頭を撫でてくれた。

「罪を犯した異端をあそこに座らせたことがあった。どいつもこいつも生きて戻らなかった。途中で食い殺されたり、発狂して自分から食われていく連中ばかりだった。けれど慧は生きている。耐え忍ぶ崇高な精神を持っている。君は素晴らしい才能を持っているんだ」

 なんて、優しい目で励ましてくれた。
 頭を撫でて激励してくれることは嬉しかった。本当は、もっと違う言葉を待っていた自分がいた。もっと違う……僕を見てくれた言葉があればって、何度も考えている自分がいた。
 『そんな痛い目に遭っている君を救ってやろう』。それぐらいのカッコイイ台詞が、聞きたかったんだけど。
 でも、研究熱心で夢を追いかけ続ける先生の姿が好きだ。だから、この心は彼の言葉に従うことにしようって……。

「うー。……悟司さん、おっそいなー」

 三十分ぐらいおしゃべりをしていると、玉淀くんがボヤき始める。
 彼は悟司さんのことがあんまり好きじゃないのか、自分でその名を出しておきながら苦い顔をしていた。

「おれ、地下に行くために呼ばれたのにー。うー。もう二時間も待たされてるよー。仕事するのしないの、どっちなんだろ。別に……しなくていいならしなくてもいいんだけどさ。その場合は他のお仕事もらわないとー!」
「……ここで待機してろって言われたの?」
「うん。なんか急用ができたから、体力温存のために寝てろって言われた。……うー」

 急用? 悟司さんも多忙な人だから色んなことに追い回されてるのは知っている。
 悟司さんは『魔物』がいる最奥まで同伴してくれる人で、『機関』のメインメンバーと言える人だ。けど……二時間待ちは、確かに長かった。
 そんなに時間が掛かる作業があるんだったら、集合時間を遅めに設定するぐらいの脳はある筈だ。でも今日は悟司さんが対処しきれないぐらいの急用に追われているのか。僕もちょっと不安がっていると、肝心の玉淀くんが「まあいいやー!」と別の話題を持ち出してきた。
 話下手な僕が玉淀くんを楽しめることはできない。でもそれ以上の親近感のおかげで、彼も僕も嫌な気分にならず時間を過ごす。
 嫌な空間からの帰り道としては丁度良かった。
 だけど、これから嫌な空間に旅立つ玉淀くんはそれで良いのか。寸前まで笑顔を保って地下に行ったら、汚い『魔物』に散々甚振られてしまうんじゃなかろうか。
 まるで弟を気遣うかのように、彼の笑顔の行方を心配してしまった。



 ――2005年9月6日

 【     / Second /     /      /     】




 /6

 新座くんは『予定を大幅に変更させる力』を持っている。仕事中の僧侶を捕まえて我が物顔で動かすという、困った能力をだ。
 彼は一族の中で特別な役職にいる訳ではない。団体の指揮をする必要性も、人を動かす権利も本来なら無い。だが彼は生まれつきの『王子』だ。頂点の星に生まれ、頂点としての素質を十分に持って生まれた。だからぱっと現れては人間を動かしていく。
 それでも、部外者だ。指揮をするべき立場ではないのに持って生まれた王子様としての素質で、身勝手に人を操作する。俺の親父も「これほど厄介な奴はいない」と頭を抱えるほどの問題児だった。

 本日、彼は(家出中の身であるにも関わらず)いきなり仏田寺に押しかけてきて、仕事中の僧侶達を捕まえ「悟司と話をさせろ」と命じたらしい。僧が「悟司なら外せない仕事をしている」と説明すると、「その仕事が終わるまで待たせてもらう」と堂々と返してきたという。
 新座くんは家を出ている部外者だ。それでも高貴な生まれの問題で、僧侶達が力強く新座くんを帰すことなど不可能。新座くんが『上司であり、我々が敬う神の一人である当主の息子』という肩書きを外さない限り、無碍に扱うことなど許されなかった。
 仕方なく僧侶達は仕事中の俺へ連絡を入れた。なら応接室で待って頂こうとしたら、「身内相手に応接室を使うのはおかしい。幼馴染なんだから悟司の部屋で話す。悟司の部屋で待ってる。だから部屋の場所を教えろ」と言い始めた。サラッととんでもないことを言い出して、僧侶達は慌てて泣き出しそうになったそうだ。
 ……なんだ、新座くんは俺の自室に入るのが目的なのか? 俺の部屋にある何を狙っているんだ? 昨年度の黒い金に関する調査書か? 芽衣に任せていた新型霊薬開発の資料か? そしてハッとする。
 幼馴染をそう疑ってかかってしまうほど、俺は上に立つ人間になってしまったらしいと。

 ただ新座くんは、『仰々しい話にしたくないから、息抜きができる場所として』俺の自室を選んだのかもしれない。
 仕事ばかりの俺が心休まる場所といったら自室だと思っての選択か。もしかしたら裏があるのかもしれないけど、『幼馴染として小さい頃からの彼を知っている俺なら』真っ先にそう考えた筈だ。
 先に仕事人間としての意見を出してしまい、彼の善意を台無しにするところだった。しかしまったく、余計なお世話ではある。

「むぐー。案外、悟司さんの部屋って綺麗なんだね? 物があんまり無いや!」
「雑に使っていると、どこに何をやったか判らなくなるからな」

 そして今、新座くんは俺がいつも座っている(と言っても深夜に数分だけ。この部屋は寝るために使っている)座布団に遠慮無く座り、高く積まれた本の上の埃(それほど積もってはいないが神経質には気に障ったらしい)をぱんぱん払っている。
 仕方なく俺は座布団の無い畳に座った。あぐらをかいて誰か人と話をするなんて、久々だった。

「悟司さん。偉くなってすっかり狭山さんに似てきたね。おじさんぽくなっちゃったよ」
「用件は何かな。新座くん。可能なら早めに終わらせてほしい。予定が詰まっているのでね」
「ねえ悟司さん。その眼鏡、度はあってる?」
「あってる。話は何だ」
「前々から眼鏡をいくつぐらい持ってるのかなーと思ったけど、そこに並んでいるだけで五つはあるね。どれも使える眼鏡なんだよね? 今つけてるのって新しいやつっぽいけど、それも全部度があってるんだよね?」
「新座くん」
「むぐ。声が怖いよ。……やっぱり狭山さんに似てきたぁ」

 肩を竦める動きをするが、その顔に反省は無い。
 話の準備運動のつもりなのか、単にリラックスしたくて馬鹿な話題を上げているのか。寺生まれにしては似合いすぎている洋服姿の彼を睨みながら、先を急かした。

「悟司さん。今から僕の話す話は、きっと悟司さんの気に障る話だ。気になって夜眠れなくなるかもしれない。それでも聞いてくれる?」
「ここで『聞かない』を選んだら、気に障って夜も眠れなくなるな。話してくれ」
「むぐっ、迷いが一切無い!? もうちょいラグが発生してもいいんだようー! 会話文を全スキップしてるみたいで悲しいよぅ!」

 判りずらい例えをされても「何度も言ってるが時間が惜しいんだ」と言い聞かせ、先を急かす。
 わざわざぷっくりと頬を膨らませる仕草をした後に、新座くんは言葉を選び始めた。年下の幼馴染ということでいつまでも子供扱いをしていたが、言葉を選んでいる姿を見ると、この子でもちゃんと成長はするんだなと何気なく思ってしまう。

「むぐ……僕は今、その、えっとね……ああ、『教会』独自の仕事をしているんだ! うんっ!」

 新座くんは我が一族とは別の、彼が所属している退魔組織の名を上げた。
 どことなく何かを誤魔化しながらその名を上げたようにも思えたが、ここで追求しても話が長くなることなのでスルーを決める。

「そこでの任務だから詳しいことが言えないんだ! そうなの! だから僕は言葉を選んで喋るから許してね!」
「判った。そんなに必死に弁解しなくていい」
「むぐ」
「で、その『教会』のエージェントである新座くんが、俺に何の話だ」
「……仏田って、どっかに恨み、持たれてる?」

 なんだそんなことを聞きたいのか。
 それともこれはまだ話のウォーミングアップか? 素直に、

「持たれていない訳がない」

 と答えた。

「そ、そうなんだ……やっぱり」
「そりゃそうだ。なにせ、我が家は千年続いた企業だぞ。三十年続けば老舗と言われる。老舗には何かと噂が付きもの。十年に一度恨み事を売りつけたとして、総勢百人に恨まれているさ」
「むぐ、そ、そうだよね……」
「そもそも『教会』だって今は協力関係だが、かつてはそうではなかった。今ではこちらから資金援助をするほど仲良くしてやっているが」
「そうなんだ?」
「日本全国に支部を置く『教会』に舞い込んでくる退魔依頼数は尋常じゃない。一方、仏田を指定して直接依頼をしてくるのは一部の人間だけ。『教会』からの依頼を譲ってもらえば、様々な地で悩む幅広い年齢の魂を入手できる。満遍なくどんな層の依頼も受け付けるのが、あの善良なボランティア団体の長所だからな。あくまでボランティア団体で金を貰わないところが『教会』の短所だから、そこを我々が補ってやって……」

 と、そのようなことが聞きたかったのではなかったか。適当なところで口を閉ざす。
 新座くんは質問の仕方を変えようと「フム」と考え込む仕草を取っていた。彼にとっても時間は無限ではない。『仕事』と言うぐらいなのだから、解決しなければならない問題で思い悩んでいるんだろう。
 でも、途中で「……ぷっ」とあらぬ方向を見て笑い始めたりするんだから、彼の真剣さはこの世に実在するのか定かではない。

「じゃあさ……特定の団体や能力者から恨みを買われていたりとか、心当たりはない?」

 思いっきり悩み抜いた後、新座くんは、先程とさほど変わらない質問を繰り返した。
 同じような返答をしようとしたが、新座くんがそこまでして聞きたい問題とは何かと考えたとき、度々出てくる『恨み』という言葉に意識が向かう。

「何度も言うが、ありすぎて言えない」
「……むぐ……」
「だが敢えて一団体、名を挙げようか」
「むぐっ!? なに!? どこ!?」
「…………」

 俺は仏田寺に恨みを持つ百の中で、一の名を挙げようとした。けどあまりの新座くんの反応に「本当に言っていいのか」戸惑ってしまう。
 キラキラと目を輝かせて、捜し求めたネタを掴もうとしているその姿。他にも九十九の候補があるというのに俺が挙げたというだけでそのただ一つに飛びついてしまいそうな、勇み足っぷり。これで彼の求めていた答えでなかったら、俺が新座くんに恨まれてしまうんじゃないか。

「……やっぱり言わない」
「ええーっ!? なんでー!? 悟司さんのいじわる! 僕、真剣に情報収集してんだよー!?」

 その真剣さが危うすぎて、俺はブレーキを踏んでいた。
 このままアクセルを選んだら、新座くんはそれを踏み続けてしまうんじゃないかというぐらい迫力があった。崖が迫っていても踏み続けるおそれがある男に、確証の無い情報は与えることなんてしたくない。

「仏田は商売をしている。適当な金が回れば、必ず商売敵ができる。競争はどの世も生じるんだから、恨みや妬みが発生しない企業なんて存在しない」
「そうだけど……」
「企業は人間が経営しているんだ、感情を持った人間が動かしてる。どこにだって後ろめたいものを抱いている。仏田寺のように独自の血族だけで退魔業をしている者達は世界中、どこにだっている。彼らが得る筈だった金を、先に我らが奪ったこともある。大金を賭けた戦いをしたこともあったさ。他者を武力を持って鎮圧したこともあった。今年に入って何回も。去年だって何百回も。その前だって」
「むぐぅー……」
「今だって新座くんは多くの人に恨みを買われている」

 彼の肩がびくんと跳ねる。
 判りやすい仰天の仕方だった。自分がそんなことを言われるとは思わなかったのか。当然だ。
 そもそも彼は愛されて生まれ育った王子なんだから。家出なんてしなければ、永久にその地位でいられたというのに。

「新座くんはアポ無しで寺に乗り込んで、俺がするべき仕事を圧迫している。おかげで俺の仕事に関わっている人達は、予定通り事が進まなくて苛立っている。仕事ができない原因が新座くんだと判ったら、皆で君を恨むさ」
「そ、それは大袈裟な……」
「大袈裟じゃない。人の感情なんて、一瞬の些細な事情で揺れ動くもんだ。大金や人命が懸かっているから恨みを買うとは限らない。……何気なく君が座布団に座った。俺は座布団に座れなかった。これだけで俺は君を恨むことができる」
「えっ!?」
「恨まないさ。地べたで座るぐらい下っ端生まれの俺は慣れている。……話がズレたな。とにかく、仏田を恨んでいる者が少人数と思うな。世界中に居るかもしれないということを判ってくれ」
「……むぐ」

 不満そうな顔をする。「僕はそうとは思わない」と言いたそうな表情。
 昔よく見たことのある、懐かしい……甘っちょろい顔だった。

「新座くんは、自分が思っている以上に自分達が愛されていると思っているようだな。……人は君が思っている以上に、君を嫌っているよ。君は、楽観的すぎる」

 全ての人間が自分を愛してくれる、そんなことすら思っていそうな彼に、少しだけきついことを言いつける。
 それでも比較的優しくて甘い言い方だ。彼が上司及び神の子である以前に、少年時代を共に過ごした親友だから、ついきつく言えずに甘くなってしまった。

「たった一つ、もしくは二つ三つの団体が嫌っている世界じゃない。百も二千も三万も嫌っている者達がいる。それが我らなんだと自覚してくれ」
「……むぐ……」
「もし我々が危険視している者のことが更に訊きたいと言うなら、具体的なものを挙げてくれないか」
「具体的なもの?」
「『仏田への恨み』なんて括りでは、全人類を疑わなければならないだろう? 例えば『特定の事件に関わった者達で恨みを持ちそうな者は誰だ』とか、『ある特殊能力を所有している団体内で怪しい人物がいるか』とかなら、俺も何人かに絞れる。協力してやることができる」

 新座くんが何の依頼を受けているのか知らない。だが、なんとなく『教会』からの依頼ではないことは察した。
 『教会』ならばエージェントにもう少し情報を寄越して、それを元に情報収集を呼びかける。調べ出す前提から立てていないということは、甘ったるい新座くんが単独で調べていることだ。自分が知りたい情報が一族の内面をつつくものだから、その反撃を食らわないようにするため『教会』という盾を使っている。丸判りだった。
 だが新座くんは『仏田に楯突くようなことは』考えていないように見える。『仏田への恨み』を詮索する流れなら、『恨みを抱く何者かをどうにかしたい』と思っているのでは? ならそれは仏田一族への敵対ではなく、『彼が独自に一族を守りたい』という心から生じている動きだろう。
 その心意気を打ちのめす趣味は無いし、必要も無い。
 新座くんが怪しい動きをしているなら牽制するが、善意で動いているようであれば手助けをしてやるだけ。
 そこは仲の良かった幼馴染の年上なんだから、当然だ。

「ごめん。悟司さん、勉強になったよ。ちゃんと話をまとめてからまた来るね」
「今度は来る前に一言連絡をしてくれ。そうすればちゃんと甘味を用意して話の場を設けてやるから」
「むぐっ、ありがとっ!」

 新座くんがやっぱり成長しない子供のままの笑みを浮かべたとき、「失礼します」と落ち着いた声が聞こえた。
 俺の自室の外から聞こえる男声は、現当主側近となった青年・鶴瀬のものだった。

「あ、鶴瀬くん!? 入っていいよー!」

 俺の部屋だから俺に向けて掛けた言葉だというのに、新座くんが先に了承してしまう。これだから生まれつき頂点に生まれた人間は。
 そしてそんな新座くんの声に、素直に襖を開けてしまう鶴瀬もどうしたものか。

「お茶をお持ちしました」
「ナイスタイミング! わあっ、ちゃんと羊羹も用意してるー! 鶴瀬くんは良い仕事するよねー!」
「……あのな、新座くん。すまないが俺は仕事があるんでね。一緒に茶を飲むのは後日にしてくれるか」
「あ、はい。ごめんなさい。じゃあ鶴瀬くん、僕と一緒にお茶しようよ。ほら、ここに座って!」

 ――だから俺は「ここは俺の部屋だから出て行け」と言いたかったんだが。
 今度は力強く、遠慮無く、「応接間に行け」と言い放つ。渋々ながらも新座くんは俺の自室を出た。
 鶴瀬に「先に手を洗って待っているからねー!」と言いながら便所に向かう彼。まさに天真爛漫、悪く言えば阿呆。これで俺の予想が外れて本当に『正式な教会からの依頼』だったらどうしよう……エージェント業なんて勤まる訳がない……と他人事ながら心配してしまった。
 さて。陽気に廊下を駆けていく新座くんを見て、後を追おうとする振りをしながら、俺から逃げようとする鶴瀬に声を掛ける。

「鶴瀬。何をしに来た?」

 お盆の上には湯呑みと羊羹が人数分。振り返っても揺らして落とすなんてことをしない、俺以上に根っからの下っ端生まれで従者属性の鶴瀬は、和やかに微笑んで首を傾げた。
 ああ、微笑んでいる。鶴瀬が笑っている。その笑みは人を安心させる力を持っている。緊張した客人が来たときに鶴瀬を先に向かわせるのは、俺も親父達『本部』もよくやる戦法だった。それだけ鶴瀬は清潔感があって逞しい、好感の持てる男だからだ。
 正確には、裏に何を抱えていても『好感の持てる男に見えるから』だが。

「新座くんがお家に戻って来たと聞いたので、お茶を出そうかなと思いました。お話の邪魔になってしまいましたか?」
「…………いや」
「はわ。もしそうだとしたらすみません」

 これ以上、俺が変に追及しても「茶汲みですよ」以外は答えない。もしかしたら新座くんが俺に気兼ねさせないため俺の自室に行くと言い出したのと同じように、鶴瀬も和やかに会話を楽しませるため茶を用意しただけかもしれない。そんな優しさを俺は疑ってかかっているという、馬鹿らしい気苦労なのかもしれなかった。
 でも新座くんも鶴瀬も、どちらも狸の可能性もある。善意の面を着けて何か違うものを見ている可能性だってあった。……そうやたら勘ぐってしまうのは既に職業病だなと思い、深く考えることを止めた。

「宜しければ悟司様。教えて頂きたいのですが」
「なんだ」
「悟司様が敢えて言おうとした『仏田に恨みを持っているであろう一団体』とは、何処のことなのでしょうか」

 少なくともその話をした時間には、湯呑みを持って部屋の前に待機していたということか。
 しかし露骨に明かす辺り、鶴瀬は『部屋の前で待機していたこと』を重く受けとめていない。真っ正面から言いづらいことを訊いてくるのも、『何かしようとしていた本心とは無関係』だからか。
 こいつなら間違った情報に振り回されることもなければ、そのような状況にも陥らない。性格的に一つに縛られて動けなくなるようにも思えない。俺が一番気になっているものを明かして損にはならなそうだ。

「リリルラケシスの連中だ」

 鶴瀬であればきっと過去の資料をあさってでも、俺が不快感を表わす理由を突きとめてくれる筈だ。



 ――2005年12月6日

 【 First /      /     /      /     】




 /7

 仏田寺に戻ってきても進展は無い。誰に訊いてもカスミちゃんの居場所を教えてくれる人はいなかった。
 先日の胸騒ぎと依織くんの暴言。住んでいたアパートに三日通っても帰ってこない家主。これだけ揃っていれば「カスミちゃんがいなくなった」ことを誰かが信用してくれると思ったのに、百人近くいる家族の誰も何も話してはくれなかった。
 お寺の中央に住んでいる悟司さんですら「知らない」と言っていた。実の兄弟なら知っているかなと思っていたけど、悟司さんとカスミちゃんの生活スタイルは違い過ぎて『赤紙』が来ない限り接点は無いらしい。
 そう言われると僕もカスミちゃんとは退魔業を通じてしか接点は無いし、志朗お兄ちゃんや鶴瀬くんのように頻繁に連絡を取り合う仲じゃない。いつも仕事で一緒でも、私生活まで一緒だった訳じゃない。圭吾さんのように心配性で優しく逐一連絡を入れてくることもなかったから、『赤紙』の絡んでいないカスミちゃんが何処にいるのか判らなかった。

 悟司さんの部屋を出て、鶴瀬くんとお茶を楽しんで既に三十分。鶴瀬くんに別れを告げて山門までやって来た。
 門を潜ればすぐに長い石段だ。登りきるには数十分かかったけど、下るだけなら数分で済む。でも足がもつれて転がり落ちたら一大事なのでゆっくり時間を掛けて下っていくしかない。子供の頃はここから駆け降りて学校に毎朝行ったものだが、今はその自信は消失していた。
 月日が変われば何でも変わるものなんだなぁ。なんてうっすら考える。
 ここから外に出たらまた戻ってくるのに時間が掛かる。本当にカスミちゃんはお寺に居ないのか。お寺に居る誰かがカスミちゃんの行方を知らないのか。ついつい何度も考えてしまい、僕は寺院の方角に振り返る。
 そこには黒い着物のお婆さんが立っていた。

「清子、様」

 ――仏田一族唯一の『本物の女子』。現存する一族の中で、最も神に近いとされている老女。
 二百年前ほどの当主の三男の子の三男坊が産んだ女子、そして僕の実祖父・和光おじいちゃんの弟・浅黄様のお嫁さん。「おばあちゃん」と親しく話せる相手ではないのは、生まれてから彼女に睨まれる経験の多さから学んでいる。
 立っていたのは彼女だけではない。彼女の後ろには二人の女中が控えていた。皆、顔を伏せているのはいつもと変わらない。女中というものはお仕事をしていないときはこうやって置き物みたいに佇んでいないといけないもんだって、狭山さんの訓えを聞いたことがある。今は掃き掃除もお料理もしていない、清子様に仕えて立っているだけだから揃って無表情で顔を伏せていた。
 僕よりずっと小さな老女は、端整な着物姿のままお寺の境界線まで近づいていた。
 彼女がどれぐらいの頻度で外に出かけるのかは知らない。でも、あまりお家から出ない人だってことは判る。もう年だからというだけでなく、一日中、魔術工房で貼りつく生活をもう六十年は続けていると聞いていたから。
 だから、お空の下で彼女と面と向き合うのは……もしかしたら初めてかもしれなかった。普通なら何てことない光景でも、結構衝撃的な出来事に思わず言葉を失ってしまう。
 別に僕が何をするという訳でもなく、彼女の顔を見つめていると……するすると近寄ってきた清子様は、パァンと僕の頬を叩いた。
 あっという間のことだった。僕が振り返ってから数秒も経っていない攻撃に、先ほど以上に言葉を発せなくなってしまう。
 痛いといえば痛いけど、痛めつけることが目的ではなく……僕を叱りつけるために敢えて打ったかのよう。
 それでも、やっぱり訊いてしまう。どうしても口から出てくる言葉は「どうして?」だった。

「いつまでも遊び惚けるだなんて自由奔放に育ちましたね。邑妃(ゆうひ)は出来損ないしか産まなかったということですか」

 邑妃。母の名前。
 カアッと胸の中が熱くもなり、サアッと背筋が凍る。両方の感覚に襲われ、やっぱり僕は何も出来ずに清子様の鋭い視線を受け留めた。
 僕の問いに答えることはなかったけど、端的に何が言いたいのかは伝わってきた。
 清子様はそのまま怒声を吐き散らすことだって出来た。僕を何度も引っ叩き、「仏田寺の為に働きなさい」って言葉を何度も変えて怒鳴ることも出来た筈だ。
 何を怒鳴るって、おじいちゃんの言いつけ通りに当主にならなかったこと、家出をしたこと、それでも中途半端に『仕事』に参加していること、何人もの人達に迷惑をかけていること。いくらでも僕を批難する言葉は、僕自身からも生まれてくる。
 けれどそれを彼女がしないで、たった一発の平手打ちで終わっているのは……僕が当主の息子で、彼女よりも立場が上だからか。
 数秒経てば痛みも引くような軽いビンタは、彼女にとっての必死の抵抗だったのか。

 一撃と、一言。それを終えた清子様は、睨みつけた後に僕へ背を向けた。彼女が居るべき工房へつかつかと戻って行く。
 一人の女中が彼女を無言で音も無く追いかけ、違う女中が僕に頭を下げるなりハンカチを差し出してきた。そうしている最中にも痛みは無くなっていたし、涙も出てなければ涎も垂れ流していない。僕はそれを断った。すると女中達は全員清子様の後を追っていく。……誰も僕を気にしない。やるべき仕事を終えた彼女らは、僕に関わりたくないと言うかのように去って行った。
 時間にして一分も無かった。叱られるとなったら狭山さんのように何十分も正座をさせられて激しい言葉を浴びせられるものだと思っていた。
 だけど僕の立場があったせいか、彼女らは『僕ではなくお母さんを蔑む』ことで僕を叱責した。
 ガミガミ言われた方が良かったかとは言わない。クドクドと絞られるのは何歳になっても嫌だ。
 けど、ほんの数秒の説教は一瞬で僕の心を砕きかけた。

 胸が痛くて、ついその場でよろめいて抑え込んでしまう。
 いつもの感応力ではなくて、ただただ僕が打たれ弱くて体に響いてしまっただけだ。
 僕は自覚があるほど、甘やかされて育ってきたからこういう場面に凄く弱い。恥ずかしく情けない話だけど、あっという間にぐらついてしまった。
 ――けど、けど。
 そう、何度も心の中で反論する。
 清子様が、彼女を始めとした何人かが願っている通りにしていたら……?
 それは、和光おじいちゃんの言いつけ通りにお父さんの後を継いで、家出をせずに仏田寺の当主となって、全てをこの家に捧げて、皆を導いていくのが僕だってことで……。
 ――そんなことしたら。
 そう何度も、僕は何度も心の中で反論を続けた。

 ……山門から離れの屋敷は、とても遠い。だけど何分かかっても僕はとある小屋を目指した。次期当主が私室として使っている館にだ。
 たった一人のお部屋としては大きすぎるかもしれないけど、次期当主を守る城にしては小さすぎる気もする。燈雅お兄ちゃんが寝泊まりしている場所へ足が動いていた。
 今年はとても寒い。12月に入ってから何度も霜がおりて、突き進むたびにただの土がザクザクと音を立ててより強烈な寒さを演出してくれる。離れの屋敷は冬だと極寒なんじゃないか、と今更知りながら庭に顔を出した。
 縁側はガラス張りでちゃんと鍵が掛かっている。夏なら全部開放されているけど、もう数日は開けられていないようだった。
 夏場、縁側に腰掛けて庭を眺めている燈雅お兄ちゃんの姿を思い出しながら小屋に入ると、早速巨大な壁が行く手を遮った。

「新座様。燈雅様にどのようなご用件ですか」
「むぐ……。悟司さんもそうだけど、まずそれを尋ねるように教わっているの? 男衾くん」

 燈雅お兄ちゃんの部屋に行く前にきっちり固めの黒スーツ姿なボディガードに止められて、少しだけ安心した。
 僕はお兄ちゃんの弟だけど、一応は部外者ということになっている。だから本来ならばお家をうろうろしちゃいけない立場っていうのは、実はこれでも判っている。判っているけど咎める相手がいなかったからそのままでいただけだ。
 さっきの清子様みたいなケースが生まれて初めてで、清子様以外にそうしてこない人が居たら問題かなと思っていただけに、お兄ちゃん付きの使用人である男衾くんが割って入ってきて内心ほっとしていた。

「燈雅お兄ちゃんにご挨拶をしに来たんだよ。帰省ついでにね。会わせてくれるかな?」
「燈雅様はお休みになられています」

 端的に、男衾くんは「出て行け」と僕を突き放した。
 時間はまだ夕方。いくらなんでも寝るには早すぎる時間。「起きてるでしょ、少しぐらい話をさせても」と言っても体格の良い強固な守護者を打ち負かすことは出来なかった。
 男衾くんが止めに入ってほっとしたのは一瞬。完全に余所者扱いされると堪えるなと気付いて、明らかに不快感を顔にしてしまった。
 それでも男衾くんは言葉を変えない。僕が不機嫌そうな顔をしても「通す訳には参りません。お帰りください」と一点張りだ。
 いつまでも引き下がらない訳にはいかなかった。ちゃんと仕事をしている男衾くんを批難したくなかったし、もしかしたら燈雅お兄ちゃんは体調不良で薬を飲んでやっと寝込んだところかもしれない。

 変わらなきゃいけないのか。彼が自分を拒絶するように。自分も拒否に耐える心にならなきゃいけないのか。

 心臓が萎む感覚がする。それほど胸が苦しい。
 ……「お大事にって、伝えて」。そう男衾くんに言う。精一杯だった。
 家族にフラれっぱなしの一日中、そろそろ泣きそうになっていたから。やっぱり情けない話だけど、僕は甘ったるいから。
 燈雅お兄ちゃんの様態を想って出て行くことぐらいしか、家族にしてやれるものはなかった。



 ――2005年11月26日

 【     /     /Third/     /     】




 /8

 ブリッドさんが作ってくれたクッキーは、とてもユニークな味がする。
 大雑把に言ってしまうと、オリジナリティに富んだアグレッシブな料理。不味くはない。僕がリクエストしたクッキー自体はとても良かった。手作りらしい歯ごたえも情緒あって好きだ。添え物に味噌と味海苔を使うのも決して悪くない。
 悪くないから、困った。
 意外なチョイスのくせにどれも無難に終わっているところが素晴らしかった。
 紅茶はクッキーフレーバー。悪くない。歯ごたえのあるクッキー。悪くない。味噌と味海苔。悪くない。
 でも、クッキーを食べるのにクッキーの香りの紅茶はどうかな、そもそもクッキーを海苔で挟むというアイディアは……思った以上に悪くないから、本当にどうしたもんかな。

「…………。あの、ときわさん……?」
「料理が下手の人は、何故おいしくなれないのか解りますか? あれもこれもと欲張って、己の力量も知らず高いレベルに手を出して自爆するからですよ。美味しい物を出せない人っていうのは、基礎が出来ないだけなんです。美味しい物を提供しようとするハートはとてもグッドだと思いますがね」

 僕があまりに言葉を選んだせいか、ブリッドさんは次第に顔を上げてくれなくなった。元からサングラスをしっかり鼻の上に乗っけて視線をかわそうとしない人だったけど。
 ……い、いや、違うんだ、決して彼を悪く言いたい訳じゃないんだ。いっそ大失敗レベルで不味すぎて歴史に残るもんなら大笑いできたものの、なんで悪くない組み合わせで完成させちゃうかな、この人は!?

「なんですか、ブリッドさん。言いたいことがあるならおっしゃってください。今日はブリッドさんが主役なんですから!」
「…………え? そ、そうだったんですか……?」
「今そうだと僕が決めました。はい、どうぞ何でも話してください、はいっ!」
「……あの、すみません……そ、その、クッキー、す、捨ててくださっても……」
「捨てるなんてもったいない! 食べるに決まってるじゃないですか! ブリッドさんが、僕の為にと、作ってくれたもんですよ!?」
「で、でも……まずいなら、まずいってハッキリ……」
「まずくないですっ! 無難でノーマルです! 一つ一つの味は合格点です! 致命的に組み合わせがバッドですが!」

 圭吾さんが用意してくださった粉も味噌も茶葉も全て最高級。ブリッドさんが「……何かしたい、と思って……」とおずおずと提案してくれた、その感謝に応えるだけの品は用意した。
 だって、ブリッドさんが『僕の為に何かしたい』と言ってくれたのだから! どんな形であれ喜ばないと!
 あまりの嬉しさに即、圭吾さんに「何でもいいから買い出しをしてきてください!」と電話してジャンルを問わない材料を取り揃えてもらったぐらいなんだから! 全力で喜ばないと!
 ……まあ、用意してもらった物の中に調味料やご飯のお供があるのは圭吾さんの洒落だと思うとして。それを全部使おうとするブリッドさんは、なんだろう、もしかして隠れたジーニアスってやつなのか。

「……もう、無理をしないでください……」
「日本男児には無理を選択しなければならないときもあるんですよ!」
「……や、やっぱり無理……なんじゃないですか……食べないでください……もう、二度と作りませんから……」
「なんでそうネガティブなんですか、貴方は!」

 つい数ヶ月前までは話し掛けても無反応だったブリッドさんが、今ではごく普通に頷いてくれる。ほんの少しでも、僕に柔らかく微笑んでくれるときだってある。
 彼が恥ずかしがり屋なのは半年間一緒にいたんだから判っている。その彼が、不器用ながら近づいてきてくれているというなら、全力で僕が出来ることをしなければならない。
 それに、今はどんなものでも全力になりたい時期だった。
 先日、悲しいことがあった。まだその出来事から一週間も経っていない。……母の葬式があった週ぐらい、茶会は休もうと思っていた。それが普通だと、良識ある人間なら自粛すべきだと頭では判っていた。
 でも、自分で思っていたより僕は甘えん坊で……誰かと語らっている方が塞ぎ込まなくて済むことに気付いた。
 ずっと気落ちした僕を支えようとしていた圭吾さんも「ときわがラクにならないと駄目だ」「好きなことをやれよ」と後押ししてくれたから、周囲に何を言われようが土日ぐらい好きにさせてもらっている。

 で、事情を茶会に来たアクセンさんとブリッドさんに話したら、ブリッドさんの方から『僕と料理がしたい』と言い出してくれた。
 するすると話題を上げていくアクセンさんの合間を縫って、ブリッドさんが彼なりに考えてくれた提案だった。
 そう、ブリッドさんが、考えてくれた。懸命に。何でもいいですよと言えば「それでは困ります……」と困惑顔になって、ブリッドさんが考えてくれたものならとお願いしても「オレは、何もできません……」とオロオロし始める。じゃあこれだ、あれだと意見を出し合って、ああでもないこうでもないと少しずつ反論。彼と出来るようになった生きた会話が、嬉しくてたまらなかった。
 滞りなくおしゃべりができるアクセンさんとは違う。躓きながらも必死に言葉を選んでくれるブリッドさんは、僕が料理好きだと知って、以前から紅茶の講座をしていたのも響いて、静かな提案してくれた。……気遣ってくれた。生きた時間で、僕達の今までは無駄なんかじゃなかったってことを思い知らされる。

「…………アクセンさん? どうしました?」

 そんな僕の事情はともかく、食堂の席に黙ったまま着いているアクセンさんは無表情にブリッドさんのクッキーを口に入れていた。
 明らかにその動作は、食べている僕の顔と、作ったブリッドさんの表情を伺っている。普段なら買ってきたケーキの感想を何かしら言いながら微笑んで食しているのに。
 ブリッドさんの作ったクッキーはお気に召さなかったのか。確かに、絶品と言うには程遠いけど。
 いつも「絶対美味しい!」と銘打たれた名店のお菓子しか買ってこない茶会のメニューではない味に困惑するのは仕方ない話だが。
 それにしたって、いつまでも不格好な表情だった。

「私は言葉が不自由でね」
「知ってます」
「だからこのクッキーが何と言っていいものか、私には判らん」
「…………あっ、あの、アクセン様、無理は……なさらず……」
「あっ、アクセンさん! 無理してでも感想を言ってください! せっかくブリッドさんが僕の為に作ってくれたんですよ!? 言わないなんて失礼すぎますよ、僕が許しませんよ! ハイ、セイッ!」
「い、言わなくていいですから……! あ、アクセン様、むしろ、言わないでくださいッ……!」

 ついにはブリッドさんが何かを呟こうとするアクセンさんの口を押えこむ。誰かに触れられるのも嫌がりそうな人だったのに。
 いや、いつぞや頼み込めば「ハイ、あーん」もやってくれた人だったっけ。……結構ブリッドさんって、感情が高まるとアクティブな人なのかもしれない。

 ――そうしていつも以上にぎゃーぎゃーと騒々しい茶会が終わる。
 ブリッドさんは「……今夜は、仕事があるので……」といつもの一言を残し、食堂を去って行く。
 最後まで僕らに謝罪をして、僕が「後片付けもしなくていい」と言ってもきっちり終えてから彼は頭を下げて出て行った。仕事の数は減らしたと言っていても、それでも僕より何倍もこなしている。けど一族の仕事である以上「今すぐ休んでください!」と僕の一存で決められないので、彼を複雑な面持ちで見送ることしかできなかった。
 だけど、数ヶ月間で変わったと言えば。僕が「また今度」と言うと、「……はい」と頷いてくれるようになったことか。
 次の機会を楽しみにしてくれると考えただけで嬉しい。アクセンさんも同意見らしく、去った直後に「次の茶会は何をしようか」と次回の話をし始めてしまうぐらいだ。

「アクセンさん。そんなにブリッドさんのクッキーはダメでしたか」

 笑顔で次の茶会を話してくれるのは嬉しいが、それでもさっきの不器用な応対は気になってしまう。
 アクセンさんは何を言われたか判らないかのように首を傾げた。

「ときわ殿。あのクッキーは、駄目だったのか?」

 質問を質問で返された。……わりとアクセンさんによくあることだ。

「僕の感想はいいんですよ。貴方はどうだったんです」

 一つ一つの味は悪くなかった。でもそれは良くなかったとも言う。仕方ない、手作りなんてまったくしたことない男の人のお菓子だし。ちゃんとしたキッチンで作ったのではなく、洋館の食堂に備え付けられた小さなオーブンレンジと素人の説明だけで作ったんだから。
 美味しいと思う人は美味しいだろう。でも物足りないという人だっているだろう。人それぞれの感想があったっておかしくない一品だ。僕としては六十点。厳しいかもしれないが、アイディアもグッドだしこれからアレンジを重ねていけば……。

「判らない」
「は?」

 ――――瞬間、寒気がした。
 12月も近い。甘い香りが篭る食堂を換気するため窓を一時的に開けていた。身内の不幸で心も体も弱って風邪気味だった。色んな理由がある。
 でもその寒気は、明らかに……アクセンさんの表情を目撃してしまったことが原因だった。
 無表情。
 微笑んだり慌てたりもしない、怒ってもいなければ不満げな顔でもなく、悲しんでもいない。
 虚無が、その場に佇んでいた。その表情に相応しい言葉を、そのまま吐き出していく。

「私には判らない。あのクッキーは、どんな物だったのかね?」
「…………アクセンさんだって、食べていたでしょう」
「あれは、美味しい物なのか?」

 ……前々から彼は、どんなときでもよく問い掛けてくる。
 他国語を日常会話にしているこの場、どうしても言葉が不自由になってしまうことがある。そうでなくても好奇心旺盛で、「あれは何だ?」とか「それはこうなのか?」とか「これは、こういうものだろう?」と質問してくることはいつものことと言えた。
 そうやってもう半年間、彼と過ごしてきた。大きな体で僕より年上、でも何でも尋ねてくる子供みたいな人。おしゃべり好きな僕は何だって答えたかったし、傲慢で威張りんぼだから教えてあげることは気持ち良かった。だから、

「…………ストロベリー味、美味しかったですね。笑っちゃうぐらい良い味でした」

 今まで変な感覚があっても、ここまで違和感に襲い掛かられることはなかった。

「ああ、ストロベリー。苺。ああ、美味しかった。そうだな。良いものだった」

 アクセンさんは『僕の言う通り』笑顔で美味しいと、良いものだと答える。
 ……紅茶にも焼き菓子にも調味料にも使われていない物体に対して。
 そこで初めてクッキーに対して表情を見せた。それまで紅茶を飲んでいる最中も虚無のまま鎮座していた彼に感情が灯る。
 それまで灯ることがなかった顔。ボタンを押したからその反応、みたいに。
 ――もしかしたら彼は、灯ることができない人なんじゃないか。
 半年目にして、ようやく気が付いた。



 ――2005年11月30日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /9

 真実を告げられて絶望する。
 既に答えは十二年前から出ていたって。自分が成していたことは全て意味を持たなかったことだって。

 すっかり冬になった屋敷は氷漬けになっているのではないかというぐらい静かに沈み始めた。廊下ですら石の床を蹴るように冷たく足音が反響するぐらいだ。数人の歩みが耳に高く鳴り響く。うるさいなと思っている間にも、狭山達はオレの私室の襖を開けてきた。
 そこに当主・光緑の姿は無い。父の出番は暫く無い。今もなお、時空の狭間に置かれた棺桶の中で眠り続けているに違いない。現実には数日間、彼にとってはたった一晩。世界から隔離された部屋で眠るしかない当主は、既に飾りでしかなかった。
 父が仏田家の当主になったのは十七歳のとき。既にオレはその年齢を十も越している。それでもオレが当主へとなれないのは理由があった。いくつもの理由が。
 その理由の一つが上手く動かせない体でもある。父が一年の大半を眠りの中で生きている体であるように、オレもこの世界で生きるには不都合な造りをしていた。
 人の手を借りなければ何も出来ない不出来な体。
 人と同じように呼吸ができない出来損ない。
 それでも生かされていた。部屋に入ってくる数人達に。

「狭山様。いかがなさいますか」
「十二分に体力は回復しているようだな。予定に狂いは無い。……燈雅様、気分はいかがでしょうか」

 この空間での上位者である狭山が、オレが横たわる寝床に近づいてくる。もう既に目覚めてはいたけど、今まさに覚醒したふりをする。
 気分はどうだと問い掛けられても、良い返事など返す気が起きない。既に力は抜けきったまま。身動きの取れずにぼうっとしていると、数人の僧達がわざわざオレを起き上がらせてくれた。
 鎖で拘束されている訳でもないのに身動きができない。幼い頃に入れられた牢屋の感覚を思い出すが、全ての原因は自分自身。……魔力不足。
 まだこの世の仕組みがよく判っていなかった頃はどうしてこんなに辛い目に遭わなきゃいけないのかと悩んだものだが、今は諦めの念が強い。
 負担がかかるだけの今を改善しなければ前へ進めない。だから人に救ってもらわなければ。
 「他者を救うための存在になれ」と言われているのにも関わらず、支えが無いと呼吸すらろくにできない。一人の男がオレの首筋に手をやる。体温を測っているらしい。あまりの不自由さに溜息を吐きながら、起き上がらせてくれた僧達に礼を言った。

「笑う元気があるようだな」
 
 狭山は一言、周囲に居た僧達に何かを告げる。
 その声に従って男達はオレの着物を剥いだ。両足を左右から引っ張って腕で固定させる。
 両足を開かされ、秘部が露にされた形になった。自分の顔が歪んだ感覚が判った。羞恥心を無くしたつもりでも露骨な仕打ちは心苦しい。
 また一人の男が剥き出しになったオレの性器に触れてきた。挟み、摘み上げる。そして割目に沿って指を辿らせた。

「流石にこれは恥ずかしいですか?」
「っ……」

 性感を高め、感情を昂ぶらせて『供給』のスイッチを入りやすくさせる。これは必要なことなんだ、と子供の頃から学んできた。なのに大真面目に教えてきた狭山の一言がまるで辱めるようなもので、憎くなる。
 いやらしい笑みを浮かべることはない。この場を指揮する狭山も、周囲の男達も、真剣にオレを犯そうとしていた。
 体にドロッとした薬を振りかけられ、いくつもの掌が肌の上で踊った。
 また違う一人が、平然に何かを取り出す。
 何の変哲の無い性具だった。男性器を模した物だ。卑猥な形をしたそれを手の上で弄び、容赦なく曝け出した秘処に突っ込む。さっきの薬を注入されたとはいえ、すぐに根本まで押し込められるものではない。だというのにグイグイと無理矢理中を抉り、遠慮無くスイッチを押した。

「こう寒いと萎えてしまってな。道具に頼らせてもらおう。……梓丸、もう少し部屋の温度は上げられないか」
「……いえいえ狭山様ー。このお部屋は適温ですよー。一番燈雅様にとって居心地の良い空間になっておりますー。廊下までは暖められないのでお外から来た皆様にはお辛いでしょうがー」

 今の今まで気付いてなかったが、近くに梓丸が居ることに声で勘づいてしまって体の奥が熱くなる。
 無理矢理に内部を押し広げられたこともあって低い悲鳴を上げてしまった。ついつい足もバタつかせてしまう。そんなことをしても男達は足を閉じさせてくれないというのに。
 突っ込まれたそれは気遣いも無く激しく震動した。見つめている目は冷ややかなもの。皆、事務的に事をこなしていた。
 充分に咥え込んで揺さぶられた後、すぐ上にある性器を指で弄ばれる。
 先端を指の腹で擦られているのがひどく気持ち良い。触られて、自分のモノが固くなっていることを自覚した。
 最初は痛みが強くても、低い震動音に体を任せていると微かに濡れた声が大きくなっていく。
 気持ち良くなっていることを確かめた男が、より良くしてやろうと突っ込んだモノを掻き回してきた。
 痛めつけることは彼らの目的ではない。多少厳しすぎるぐらいの仕打ちも、どうせオレは感じ取ってしまうんだから。オレをもっと感じさせるために激しく動かす。全てを知っている彼らは、構わず中を掻き回した。
 感じれば感じるほどいい、効果が出るものだ。
 だから首を振って悶えた。苦痛ばかりが表に出ないようにと、先端の割目を再度激しく指で擦られる。指が沈む限り埋め込み、そのたび体が震えた。喘ぎと悲鳴が空間を満たす。呻き声とともに何とも言い難い匂いが充満し始めていた。

「こういったことは一本松の方が得意なんだがな。あいつは加減を知らない男だからやり過ぎてしまう、快楽を間違えて覚えてしまっているからな、大事な体を壊してしまうかもしれん。……我慢してください」

 狭山は『供給』を行なうオレ達には寄らず、大きく足を開かされたまま機械に喘がされている姿を見守っていた。
 同じように少し離れた場所に居た男が、自分のモノを扱いていた。

「準備はできたか? 犯してやれ」

 オレの方を、顎で示す。

「宜しいのでしょうか」
「いつもの餌は食えて、燈雅様は嫌と言うか? いいからやれ」

 命じられた男は、渋々というよりも、本当に良いのかと何度も確認しながらオレへと近付いた。中で蠢いているモノを引き抜かれ、手淫で硬く張り詰めさせたモノをあてがってくる。
 熱く息を吐いてしまう。無意識に、まるで欲しいと強請っているかのように、つい腰を動かしてしまった。
 突き刺される。腰を揺すり始める。喘ぎ声が止まらなくなる。狭い部屋に声が響く。震えも止まらなくなる。ずっとずっと気持ち良いままになる。
 動かされるままに声を吐いた。無我夢中で吠えた。腰を揺さぶり続けていると、僧が顔を顰めた。

「中に出せ。その方が燈雅様の為になる」

 僧が少し顔を顰めると、遠慮なくオレの中に精を吐き出した。
 熱を感じる。引き抜かれるとぽっかり空いた空洞が切なさでいっぱいになっていく。……虜になっている証だった。

「お前らもやれ。皆、溜まっていただろう?」
「……いいのでしょうか?」
「好きなだけ犯せ。『これから燈雅様の処遇』を考えればこれでいい。お前らも光緑様の御言葉は聞いていた筈だ、後は好きにしろ」

 薄く言うと、狭山はちらりと一瞥する。
 せいぜい楽しめ。そう言うかのような目をした狭山は、部屋から出て行った。

 その後も大勢の手で繰り返し犯された。
 何度も突き上げられる。その悲鳴すら嗄れてきても男達は陵辱を、いや、ありがたい『供給』を止めなかった。
 四つん這いにさせて口に咥えさせ、後ろから犯す。仰向けにされ、両手で扱かされ、何度も違う男に攻められる。取り囲むように自慰をしている男達の放った精液が、体を汚した。
 全ては「オレの為に」と言いながら。
 多くの声に囲まれ何度も強制的に絶頂を迎えさせられた。強要されながらも、体を押し付けられる。引き抜かれて、また切ない気分に襲われる。何人分もの精が、絶えずヒクつく場所から零れる。溢れ出る感覚だけは不思議と麻痺しなかった。
 吠えすぎて、すっかり声は嗄れた。口の中は精液の味しかしない。
 もはや全身の感覚が無くなってきた頃、体を丁寧に清められた。その頃には声も出ない。痛みも感じない。涙すら出なかった。
 どうせ明日には自分だって忘れている。一時の恥など、苦痛など、巡り巡る感情など消えていく。いっそ全部感じられなくなる心になればいいのに。何度もそう思いながら、ゆっくりと意識が薄れていく。構わなかった。

 けど、意識が途切れる寸前。……何故か、『彼』の顔が頭に浮かんだ。
 この心は、いつまで経っても変わらない。
 いつものことだった。

 ……そうして目を覚ます。
 深夜に行なわれた『供給』から目覚めれば朝の筈だったが、本来ならこの時間にしない筈の物音のせいで今日は少し早くに目覚めてしまった。
 離れの屋敷、普段通りの私室だ。適温に暖められた部屋はもう誰も居ない。ここはもうオレが眠るだけの空間になっている。
 その筈なのに、敷かれた布団のすぐ脇に、圭吾があぐらをかいて座っていた。
 一瞬狭山かと思ったが、面影は似ているが別人だった。彼の息子がいるなんて思わず、歪む視界を擦って何度も確認した。

「圭吾……? どうして?」

 ……情事の最後につい考えてしまった彼が、畳の上に敷物もせず座ってこちらを見ている。
 体を起こそうとして、ベトつかないシーツに……ちゃんと梓丸の手で清められていると安心した。体は涼しかったが、まだ体の奥は今晩の熱さにやられている。変な気を起こさないか心配だったが、隣に座る圭吾と向き合おうとした。

「『どうして』って、ここにいる理由を訊いているのか?」
「……うん。よく、梓が部屋に入れてくれたな」
「男衾くんが入れてくれたんだよ」
「男衾が?」

 意外だ。男衾は圭吾を(何故か)嫌っているので彼がここに来るのを良しとしないのに。何の気遣いで招き入れたんだか。
 ……後で、オレが休んでいるときは誰も入れないように改めて口にしておいた方がいいかもしれない。どんなに信頼における相手でも、散々なことをした後の寝顔は見せたくないものだった。
 現に、体の芯が熱いままだ。表面だけは綺麗にされても、中に残るものを感じてしまうぐらい不安定な状況だ。その感覚のまま人と対話するのは難しい。
 ――圭吾に見られたくないなぁとうっすら考えていたのに、あっさりと見られて、傷付いているオレがいた。
 疲れ果てて朝まで眠りに落ちる夜だったとしても、誰か部外者が居たとしたら耳の良いオレは目覚めてしまう。気分爽快には遠い。だが、幸い憂鬱ではなかった。
 シーツの中での暖かさが良かったのか。それとも微かに開いた襖から入る風が気持ち良かったのか。……なんとか話せる気分だった。

「その……燈雅。俺は」

 沈黙を破ってやろうかと考えていると、圭吾の方から喋り出した。

「いつも通り『仕事』が終わって、みんなを車で運んで、魂を『本部』に献上して……。せっかく寺に戻って来たんだから、燈雅に会いたくなって、それで」
「ここに来たと?」
「寝ていたなら追い帰されるって思っていたさ。けど、男衾くんが入っていいと言ってくれたんだ」
「……男衾の奴、あとでお仕置きしないとだな」
「か、彼を苛めないでやってくれよ!?」
「うん、ちょっとデコピンの餌食になってもらうだけだ」
「……それぐらいなら……。けど、男衾くんなりの気遣いがあったんだと思うんだ。燈雅を救いたいっていう、彼なりの……」
「何の話だ?」
「……きっと彼は……俺の親父がしていたことを、手伝えって言いたかったんだろ……」

 ぶっと噴き出して笑ってしまう。圭吾は困惑したままだが、笑わずにいられない。声を上げて笑った。
 オレが喉を涸らして叫んでいる姿も、見ていたっていうのか。
 そういえば梓があの場に居たことすら気付かなかったぐらいだ。そこまで弱っていたのだから、部屋の外に居た圭吾の存在すら気付かなくったって仕方ない。笑わずにはいられない。正直、笑ってなきゃ正気が保てなくなるぐらい、ショックでもあった。

「ははははっ、その様子だと、男衾に何にも説明されないで案内されたのか?」
「……お前に何が必要かぐらい、昔から見当が付いていた。でも実際見たのは……」

 昔からというのは、どれくらい昔からだ。
 お互いの年齢を考えるともうどんなことを知っていてもおかしくない。圭吾だって大事な跡継ぎの一人だ、交わりを強制されていることだって考えられる。
 分家の子だからって言っていられない。彼は狭山の息子だ。きちんとした知識だって頭に叩き込まれている筈だ。だから人が『供給』している姿を見ることぐらい、見られることぐらい……。

「……俺は、燈雅に会いにきただけだった」
「うん」
「燈雅と話がしたくて、だから、会いたかっただけなんだ。お前と会うのは、いつものことだから、いつものように話がしたいと思って、ここに。……燈雅は……」
「なんだ」
「あんな事をされて、……いいのか」

 圭吾の口が、重く開いていく。
 ひどく抽象的で、話の流れが見えなくなりそうな程の曖昧な言葉だ。でも何を聞きたがっているのか目に見えて判ってしまう。
 だから、素直に応じる。

「輪姦されて感じるのかって話?」
「っ。そ、そうじゃなくて!」
「どんな犯され方でも感じるようにされちゃったよ。誰でもいいし、どこでもいいんだ。そういう風に訓練したからな、昔から」

 笑って言ってみたが、圭吾が笑う訳がない。気難そうな顔をしているだけだ。ああ、そんな顔をされて当然だと思う。

「圭吾にはどう見てた?」
「どう、って」
「自分で言ってみたけど、人から見てオレはあんまり感じている風に見えないのかなって。そうでなきゃ、そんな質問されないだろ」

 必死になって言い返そうとしている。暗い部屋にも判るほど彼は赤面して焦っていた。
 その表情が、つい懐かしいものに思えてしまう。

「燈雅は……あんな事をされて、許せるのか?」
「……許せる?」
「その、好きでもない連中に、あんなことされて。……好きでもない、んだろ。なのに、あんな痛々しいことさせられて、嫌じゃないのか」
「ふふっ、嫌に決まってるだろ」

 思ったことをそのまま返した。
 ただそれだけなのに、自然と出てしまった声は案外低くて相手を予想以上に驚かせてしまう。優しいことに、息を呑んでくれた。

「ああ、嫌がっているようには見えなかったか? 感じているようにしか見えないから、確認したのか? なるほど。そんなに、はしたなかったかな。変なこと言ってたか。全然覚えてないんだが」
「そ、そういう意味じゃなくって!」
「言ってなかったのか?」
「…………俺が来たのは、『終わった後』だから、知らない」
「なんだ、見ていなかったのか」
「そんなの、見る趣味だってないっ!」

 声を荒げ、否定する。どうやらオレは火を付けてしまったらしい。
 少しだけからかうつもりだった。けど圭吾自身を責めるようなことは言っていないのに怒るだなんて。全く、面白い男だと思う。

「圭吾にはそんな趣味が無くても、オレにとってはしないと困るものだしな。一時期よりは慣れ始めた……大丈夫だと思っていたんだが。最近、また嫌になってきた」
「それは……普通だろ」
「どの辺が?」
「……あんなこと、したくないのは、普通だ」
「世の中には、あんな風にされなきゃ感じないって人もいるぞ」
「いるだろうが、普通は違う。……あの行為は、もっと……」
「すまんすまん。こういうのを嫌がる人間がいるのは判っているつもりだよ。……嫌ならなんで早く帰らなかったんだ? 朝までここで待とうとするなんて……」

 言葉を選ぶ為に、圭吾は会話を閉じる。彼はロマンチストだから、現実にあんなものを見てしまって混乱しているんだ。
 ふらふらと考えているのは、まだ表面を覆った薬のせいか。収まっていたと思っていても、体の奥ではまだ火照っていた。その熱さも圭吾が居るおかげで黙っていられる気がした。
 圭吾が居る前だというのに、体が落ち着かない。身を捩っても変な声を出してしまいそうになって困る。
 仕方なく深呼吸を繰り返してみる。彼の顔を見れば、彼はまだ言葉が続かず難しい表情をしたまま固まっていた。複雑な表情が時間を埋めていく。
 顔は見ない、手に目をやる。逞しい大人の腕を見て、「ああ、そういえば子供の頃、ここに刻印があった」と改めて思い出して、一度上がりかけた気分が下降を辿った。
 目に見えて気分を害すのだけは避けたい。必死に口角を上げようとする。目を閉じて微笑んでいるような顔を作った。
 しかしそれも無理だと思い、彼に背を向けた。
 すると腕を掴まれる。オレが彼から離れようとしたとき、ほぼ同時に、ガッと腕を掴んで引き寄せられた。

「……好きな奴を、放っておけなかったんだよ……」

 その一言は腹にパンチを食らったときのような、意識がふっ飛びそうな力を持っていた。

「…………えっ?」

 引き寄せられた先。胸の中で、しっかりとした声が耳に届いた。
 大声じゃないが耳の奥まで鳴り響く言葉だ。
 眩暈がした。吐き気さえもする。ぐらぐらと視界が歪んだ。
 急に引き寄せられて平衡感覚を失ったからか。あんまり好きじゃない言葉だったから体に拒否反応が出たのか。
 判らないけど、気分の悪くなる話だった。理解できないことがあると胸が焼けつくのと同じ感覚だ。

「ガキの頃から、燈雅のことが好きだったんだよ」

 でも、夢――『好きだ』って言ってくれる幻想――に見た感覚と、同じでもあった。

「けど、今まで言う機会が無かった。お前の周りには誰かがいたし、忙しそうだったし、なかなか言えなかった」
「…………」
「もっと早く言いたかった。でもチャンスが無かったんだ。……だから、あんな風にされてるなんて、許せなかった。俺が、お前の為にできることなんて、微々たるものだけど、それでも」

 圭吾の声が耳から脳に届くたびに、眩暈がひどくなる。
 まるで声が光のように眩しくて目が眩む。ずっとそれを浴びていると溶けて消えてしまいそうだ。ぐずぐずになって動けなくなってしまうかもしれない。それぐらいの力があり、耳を塞ぎたくなるぐらい恐ろしい言葉だった。

「…………圭吾。お前は、おかしい」

 ――ああ、どうして何故、また、彼に……『好きだ』なんて言われなきゃいけないんだ。

 封印していたんだからそのまま消えて無くなってしまえば良いのに、なんでまた復活してるんだ、その言葉が。

「圭吾……そう言えば何か儲かると思ったか? オレに言ったって駄賃なんて出ないぞ」
「どうしてお前からくすね取らなきゃならないんだよ」

 だって、つい裏があると考えてしまう。言わなければいけない状況に置かれていて、無理矢理言わされているのであればいいのに。
 また真っ直ぐな目で言われたら、心が、揺らいでしまう。
 引いていた腕は胸に収められてしまい、ついには腕いっぱいに抱きしめられてしまう。その結果、目の前が真っ暗になった。まさか今日訪れると思わなかった事態に戸惑ってしまう。緊張して困惑が止まらない。
 彼に何を言われるか判らなくて、どう反応すればいいのか判らなくて、いつまで経っても心が落ち着かなかった。

「やめろよ」
「何が」
「冗談、やめてくれ。圭吾には、子供の頃から良くしてもらっているよ。でも、それだけだろ? 子供のときから一緒に話したりしてくれた、それだけだ。今は『本部』のために寺に戻って来たら会うぐらいじゃないか。それなのに」
「『本部』のためだけだったら、毎度わざわざ離れまで行って燈雅に会いに行かなかった」

 …………。

「『仕事』が第一とはいえ、終わった後は必ず燈雅の元に行ってただろ。行くようにしてた。梓丸に嫌な顔をされたこともある、あれをスルーするの大変なんだぞ。……それぐらい俺は、ずっとお前に片想いをしてた」
「圭吾は面白いことを言う」

 声に出して笑ってやる。
 抱きしめられているついでに胸に顔を押し付けて、今の酷い顔を見せないように懸命に笑った。
 限界は近くても、笑う努力を怠らなかった。

「今日だってお前に会おうとしていたんだぞ……。なあ、燈雅。神社に連れて行ったときのこと、覚えているか?」
「…………そんなこと、あったかな」
「俺はよく覚えている。お前を連れて、誰にも言わず神社に行ったんだ。忘れちまったか」
「……すまん。覚えていない」
「無理もないよ、俺だって『それ以外のことは全然覚えてないんだ』。燈雅を神社に無理矢理引っ張って連れて行ったぐらいしか覚えていない」

 おそらくその後にこっぴどく兄や父に怒られたから印象が強いんだと、圭吾は苦く笑う。
 ……ああ、オレは、よく覚えてる。
 寺に引き戻される帰り道で……離れた列で歩いていたけど、喚いて説教を素直に聞かない圭吾の声を、今でも忘れていない。

「お前が寂しそうにしていたから、何かしてやりたくて。つまりは、あの頃から、ずっと前から燈雅のことが好きで……」
「ふ。はは、ははは」
「そんなにおかしいか?」
「今更、そう言われてもどう反応していいか判らないぞ。そんな、優しくしてくれたって……ちょっと苦しさが、半減するだけじゃないか」
「それ、いいことじゃないか。優しくしたら燈雅の苦しさが半減するなら、いくらでも俺は優しくするぞ。あんな痛いこと、そう簡単に忘れられないかもしれないが……俺は少しでも、その苦しさを消してやりたいと思う」

 抱き締められる腕の力を強くされ、胸が苦しくなる。圧迫感のせいだけじゃない、さっきからずっと奥が苦しい。
 心が更に弱くなる。考えられないぐらい弱くなっていく。もう平気だと思えたのに、また弱くなっていく。圭吾の声を聞く度に、次々と弱くなっていくのを実感した。
 怖い。怖くなる。急に怖くなってしまう。どこまでオレが弱くなってしまっていくのか、考えてしまうと途端に恐怖が襲う。
 だけど嬉しくもある。嬉しい。幸せだ。感情が巡る。様々な想いが浮かんで、消えることはない。こんな嬉しい言葉が聞けるなんて夢みたいだ。夢に見たものと同じで幸せだ。
 だから全てを、受け入れそうになってしまう。
 それでもいいかとぐらぐら揺れてしまうオレがいる。
 いけないのに、もっと抱きしめてほしいと彼に近寄る自分がいた。

 ――ガキの頃は、圭吾が先に好きになってくれたのかもしれない。

 でもあの一件。父が遠出をして、圭吾を誘惑した数日間。今度は自分が圭吾に好意を持つようになった。
 あの数日の果てに圭吾はオレのことなんてどうでも良くなる。代わりにオレがバトンを引き継いだようなもんで、何年も何年も自分の中にそれを暖めてきた。

 だから、圭吾が『ずっと好きだった』と言ってくれるのはおかしい気がした。てっきり好意をオレが全て受け取ったつもりでいたから、今の彼もそれを持って今までいたなんて信じられない。
 そういやあのとき。消滅させたのは好意ではなく、記憶だった。
 あくまで消したのはあの数日間だけで、それまでの圭吾の感情ではなかった。……それが失敗だった。

 ――なら今から、全て消した方がいいのかもしれない。ふわふわした水の中の意識で、想う。

 うすやかな胸に触れた、彼の指先。感触を追いながら、静かに眼を閉じる。
 熱に浮かされたようにたゆたう思孝。もう何度繰り返したような解らない堂々巡りの回廊へと、落ちていく。
 何年も前のあの日のように、圭吾は優しく触れてくる。
 与えられるやわらかな刺激、軟く熱を孕んだ舌先、そのままゆるりと包み込んで、愛撫を始め出す。その様に呼吸をかすかに乱しながらも、「まるで子供のようだ」と言いかけて、飲み込む。
 あの日をなぞるような、そっくりなぞるような気がして、あの日に戻って来たような錯覚がした。
 熱に浮かされた思考の片隅が、急速に冷めてゆく。
 自分の行なってきたことが、これから確実に行なうことが、全くの無意味なことだと突き付けられているような、そんな錯覚がよぎった。
 以前は彼が向けてくれた想いは、彼の日常を壊してしまう危険性があった。だから消した。あれから月日が大分経って、また同じようなことが起きて、素直に喜んでいていいものなのか。
 間違っているというなら、消すべきか? 彼の記憶ごと、間違った想いも。

「……圭吾。この腕、見てくれるか?」
「え? ……っ!?」

 彼に、幻覚の術で隠蔽していた自分の右腕――紫色の斑の刻印を見せる。
 突如現れた爛れた火傷痕のようなゴツゴツの腕。さっきまで無かったものに驚き、流石の圭吾も声を漏らした。ぎょっとしている。

「どうだ、気持ち悪いだろ。さっき抱きしめたとき、こんなモンがお前の傍にあったんだ。ゾッとしないか?」

 術を発して、腕を普通の肌色に戻す。幼い頃は使えなかったが、成人した頃から常用手段になったカモフラージュの術だった。
 先天的に痣のような物が体の表面に出る仏田の刻印とは違い、いかにも毒がありそうな青い肌の上に赤い紋様、結果紫色に染まりきったもの。
 無能だった赤子のオレは『機関』で強化手術を受けたことで膨大な力を手に入れた代わりに、半身がそれに包まれるという羽目になった。昔はそのままにしていたものだが今は普通の肌色に見せている。それを突然生やしたのだから、驚くには無理もない……。

「い、いきなりだから何だと思ったが。……そんな術、使わなくていいぞ」
「へえ、使わなくていいのか?」
「ああ、術をかけておくのだって大変なんだろ? 寝るときぐらいリラックスしろよ。それに俺はその程度じゃ腰を抜かさない」
「…………。ふふっ。うん。そうだったな」

 優しく笑う彼に、オレも微笑む。
 変わらない。彼は、ちっとも変わらない。
 なんて愛おしい。圭吾は何気なく言ったつもりのようだが、オレの胸にじんわりとある心が染み渡っていった。
 言われた通り幻惑の術は解除する。半身を紫に覆われたそのままのオレになって、その手を彼の顔へと手を当てる。

「圭吾。ほら、気味が悪くないか?」
「いきなり現れたら驚く。でも、それだけだ」

 そのまま身を崩した。散々暖めてもらうことにした。
 うんざりするほど。嫌になるほど。

「……燈雅?」

 うっかり思考の海に沈み過ぎていたのか、眼前の彼が訝かしげに自分の名を呼んだ。
 慌てて思考を切り替え、「何でもない」と応える。それからからかうように、
 触れられるのが気持ち良くてぼうっとしちゃっただけだよと笑ってみせた。
 途端、頬に色濃い紅を燈らせた彼。少し気分を良くして、それから再び眼を閉じたもう、余計なことなど考えず、この行為に専念しなくては。
 もしかしたら本当に今度こそこれが最後かもしれないのだから。
 それでもふとした拍子。例えば彼の言葉や仕草、愛撫の手、表情に対して、深い愛情と共に、憎しみによく似たものよぎらせてしまう。

 ――「好き」だなんて言って、そんなにオレを苦しめて楽しいか。

 考えて、馬鹿げていると自分を罵った。そんなの俺の自分勝手な言い訳だ。
 オレが身勝手に好きなままでいて、からかって、言葉を引き出せた。オレが加害者。圭吾は悪くない。憎しみを抱くなんて我儘過ぎる。ああ、もう嫌だ。自分でもどうしたらいいか、解らなくなった。
 数十年ぶりに親愛なる人に体を預けぼんやりと畳を見ているだけでも、思考はいつまで経っても落ち着かない。水の中どころか深海、いや、泥水の中で漂うことも出来ずもがいて流されているかのよう。苦しすぎてこのまま呼吸を止めてラクになりたいとさえ思えた。

 ――多分おそらくきっと、オレは自覚しなかっただけで、今まで何百回も『旅立ちたい』と考えていただろう。
 ここではない遠くの世界へ。

 結局、このときは終始集中できぬままに終わってしまった。



 ――2005年12月6日

 【 First /      /     /      /     】




 /10

「やあ、新座。お仕事を終えてきたのか」
「燈雅様!?」

 離れの屋敷から出ようとブーツを履いたとき、燈雅お兄ちゃんの声で引き留められた。
 僕が振り返るよりも先に男衾くんが声を張る方が早かった。部屋を出てきた主人に何か言おうとする男衾くんに向かって、お兄ちゃんは軽いデコピンをする。それは僕が清子様から受けた平手打ちよりもずっと痛そうな一撃だった(それでも男衾くんは悲鳴一つ上げないが)。
 彼はひどく薄着で、冬なのにそんな格好をしているのは多分後は寝床に入るだけだったからだと思う。ただの着流しに一枚羽織っているだけの格好は、夏なら普通に見えるけど12月とは思えない姿だ。ここから出ないと決めている人じゃなきゃそんな格好はできない。お兄ちゃんらしいといえばそうだが、それでも寒そうなのですぐに玄関から部屋に追い返した。
 お兄ちゃんの部屋には既に寝具が敷かれていて、思いっきり剥がしたままの掛け布団が放置されていた。お兄ちゃんは耳が良いから、僕と男衾くんの話し声が聞こえて目が覚めてしまったんだ。きっと男衾くんがしてくれることだけど、僕のせいで起こしちゃったならとずいずい布団へ押し込んだ。

「あ、あのな、新座。せっかく起きたんだから話ぐらいさせてくれても……」
「むぐっ! 夕方からお休みしちゃうぐらい風邪っぴきだったってことだろー? ならすぐ寝なきゃ駄目だよー!」
「『少しぐらい話をさせても』って言って男衾を苛めてたくせに何を今更」
「むーぐーそんなの知りませーん。男衾くん、僕そんなこと言ってないよねー?」
「言いました」
「わっ!? この従者、何があっても主人以外の言うことしか聞かないタイプだ!? いい部下を持ったね、お兄ちゃん!」

 朗らかに笑う兄と淡々と後ろに控える従者の様子は、数ヶ月前、いや数年前と変わらない。
 弟の前ではゆったりと微笑み、次から次へと優しい言葉を投げ掛けてくれる兄。その彼を守るべく静かに佇む使用人は、愛想が著しく欠如しているものの余計なことは一切しない。
 いつも通り。今まで通り。僕にとっては居心地の良い世界がまだ残っていてくれたことに、とても安心した。

 時が経てばどんなことだって変わっていくものだ。
 自分が良しとしているものだとしても、悪いものだとしても、関係無く変わっていくし元に戻ることなんて無い。今まで見せなかった一面を見せられて驚くことは今後も当然訪れるもの。
 けど、近しい者との距離はそう簡単に変わるものではない。そう思いたい。と、兄の前で甘えた心は変わることをやめていた。



 ――2005年11月26日

 【     /     /Third/     /     】




 /11

 茶会は終わった。ティーカップも洗い終えて、ゴミ出しも全て終えた。すっかり綺麗になった何も無い食堂を後にして、アクセンさんの部屋にお邪魔する。
 理由は説明していない。「行っていいですか」の一言も無く、ただ僕はアクセンさんの部屋に入った。そして、唐突に彼へ質問をする。

「アクセンさん。どうして貴方は、勉強をなさっているんですか」

 彼の部屋は本にまみれている。語学留学のため日本にやって来たという学生の彼らしく、至る所にあらゆる辞書が置かれていた。
 日本語の辞書ですら何冊も置かれている。用途別に何冊も、何冊も。茶会のとき以外のタイミングで彼に出会ったことはないが、暇さえあれば図書館に行って色んな本を読んでいるらしい。祖国で仕入れられた厳選された本ではなく、何気なく図書館に置かれた本を読むのが良いと彼は繰り返し言っていた。そういや映画を見るときもなるべく吹き替えではなく字幕で見るようにしているって言ってたっけ。
 ありとあらゆる手段で勉学に励もうとしている彼に対して、嫌な感情など抱くことはなかった。
 多少彼との交流に躓くことがあっても、それは異国の地の人と語り合っているのだから当然な話。それでいちいち苛々してたら異文化コミュニケーションなど出来やしない。だから、何か違和感があったとしても気にしないようにしていた。
 彼は問いかけに対し口角を上げ、答えを述べる。

「私は全ての言語を扱うことはできない」
「……はい」
「世界中の皆を理解できないでいる。言葉があれば判り合える。判り合えなかったら悲しいことだろう。相手を理解できなければ、交流を望めないものだ。言葉が無ければ心に触れ合えない、何も判らない、笑い合うことすらできない。私には手段が必要だ」

 すらすらと綴られた返答は、素晴らしい言葉の羅列だった。全人類を理解したいという彼らしい真っ直ぐとした目と深い声でそう語られては、「なるほど」と納得してしまう。
 たとえ内容が支離滅裂なものであっても、迫力が彼にはあった。
 だけど、やっぱり違和感が生じている。彼の発せられる言葉には……何かが引っかかる。

「……アクセンさんは今、言葉が無ければ心に触れ合えない、何も判らない、笑い合うことすらできない……って言いましたね」
「ああ」
「ねえ、アクセンさん。ブリッドさんの作ったクッキーの感想をお聞かせください」

 突然会話の流れをぶった切った。敢えてそうした。切られたことでアクセンさんは不思議そうな顔をする。その表情の変化には納得だ。なんらおかしな話じゃない。
 けれど、

「苺味は良いものだな、美味しかったぞ」

 そう笑顔で……『僕が言った通り、笑顔で答える』時点で、やっぱりこの人はおかしかった。

「あのですね、アクセンさん。ブリッドさんの作ったクッキーに、苺は入っていません」
「…………ん? だが、ときわ殿は確か、そうだと」
「はい。言いました。『苺が良い』って。でも、そう『言っただけ』です。いわゆる嘘や冗談ってやつですよ」
「……ときわ殿」
「それぐらい、判るでしょう? あのクッキーには苺じゃなくて他に主張してくる物があったじゃないですか。明らかに、露骨にイレギュラーが。……味噌と海苔っていう、クッキーにまず組み合わせない代物が!」
「…………」
「苺が何なのかは貴方だって知っている筈だ。以前、苺を自分で買ってきたことがあるんですから。しかも白い苺という例外を敢えて選んだ。ということは、ノーマルの苺というものが何たるかも貴方は熟知している筈で」
「…………ときわ殿。何故君は、悲しんでいる?」
「は?」
「その顔は、悲しんでいる顔だろう」

 何をいきなり。思いながらガラス窓に自分の顔を覗き込んでみた。
 自分でも自覚は無かった。だけど思った以上に僕は悲痛な声を上げていたらしい。それを物語るように……悲鳴のような訴えに相応しい表情が、薄暗いガラスにくっきりと映し出されていた。
 アクセンさんはすぐに僕に近寄ってくる。「平気かね?」と手を頭の上に翳そうとする。まるで「いいこいいこ」と撫でるかのように。
 そんなことされたら子供扱いされているみたいだ。……人を気遣うそのような行為もまた、今となっては違和感の塊だった。
 だって……この顔を見て、悲しんだと思って、頭を撫でてくるだなんて……。そして「その顔は、悲しんでいる顔だ」なんて……。
 それ以外に言うことは無かったのか。

「……アクセンさんは悲しかったとき、誰かに頭を撫でられて慰められていましたか」
「ああ、こうされたことがある。だって、『頭を撫でると悲しくなくなるものなのだろう』?」

 彼に「大丈夫です」と告げると、僕の頭を撫でていた手を引っ込めた。
 ……はあ、と溜息が吐いてしまう。
 Aというボタンを押されたからAという反応をする、その光景。「頭を撫でると悲しくなくなるもの、なのだろう?」って?
 違う。頭を撫でるというコマンドによって傷が言える訳じゃない。撫でられたときの暖かみや、時間の経過によって傷が癒えるものなんだから。
 事務的。いや、これはロボット的と言うべきだ。
 ここまで露骨にされなきゃ気付かなかった僕も僕だが、最後の一言が決定打だった。

「…………貴方は、言葉だけでなく、心が不自由なんですね」

 ――『心が無い』とまではいかない。
 だけど言われたことしか返せず、感情を自分から発することができない人なんだと、やっと理解できた。

 クッキーの味に対して無表情だったのは、表現できる適切な言葉が思いつかなかったのでも、あまりの不味さに表情が作れなかったのでもなく……『味噌と海苔のクッキー』なんて味わったことがなかったから、どんな反応が『正解』なのか判らなかったのか。
 さっき僕がブリッドさんのクッキーを「苺味」「笑顔になる」と評したから、その通り述べられるようになった。決してアクセンさんはあの味を苺のものだと認識している訳じゃない……と思う。
 今までの彼の会話は全てこの式でなぞられるのかは判らない。でも、僕と茶会で話が合っていた理由は……『僕の話通りの返答しかなかったから』なんじゃないか。
 僕がイエスと言えば彼もイエスと言う。ノーと断ればノー。……そんなの笑顔でされたら、気分を害すタイミングなんて全て潰れていく。だって『僕の思う通りに話が進むんだから』。
 ああ……だから、話がしてくれるようになったブリッドさんとは生きた話ができたけど、アクセンさんとは滞りなく進む『だけ』の会話になってしまったのか。

「心が不自由。ふむ、私はそうらしい」
「……自覚は、あるんですか」
「ときわ殿が言うそれは、いけないことなのだろう? 君が困った顔をしている。私がいけないことをしたからだな。ふむ、他の人にも似た顔をされたことがある。彼らは『困った』と言った。まさに今と同じだな」

 また「なのだろう」と、誰に聞いて覚えてしまったのか、いつもの言葉を呟く。
 意識すればそこしか聞こえなくなるぐらいの口癖だ。何の変哲の無い穏やかな表情で話される一言。
 そこに『自分の心』は見当たらない。唇は歪み楽しそうにしているように見えたが、とても重苦しい響きだった。

「君の言う通り、私は理解できないことが多くてね。その中でも人の心というものが判らん。そもそも何故君は、不可思議な味を『不味い』と言わなかった? あれは、人々にとって好まれる味だったのかね? いつも君が茶会に出している『絶品』と謳われている物と比べれれば、明らかに……」
「そうです、一般的な人気からかけ離れた物でしたね! ですけど、あれはブリッドさんが作ってくれた物。ですから当然、心がこもっているものをざっくりと切り捨てる訳にはいかないじゃないですか!」
「…………。難しいな、その言葉は。まだ私の中へ入ってこない。だから、私は努力して覚えようとしているのだよ。……相手を理解できずにいるのは苦しいものだからな」

 ハッとする。顔を上げて、アクセンさんの表情を真正面から覗く。
 今の一言は、アクセンさん自身の言葉だと思えた。『心が無い』と思い、『不自由』とか散々言ってしまったが……彼が零した沈痛な一言は、苦しみ抜いて吐き出した言葉に聞こえた。
 ……僕は、何をズケズケと彼の内部を暴こうとしている?
 「これは暗部だ、恥じなければならないことだ、難しい、いけないことだ、だから努力している」と言っている人に対して、どうして『当然』と切り捨てて批難している?
 一瞬、自分の為に作ってくれたものを蔑ろにされたと怒りを覚えた。笑みを浮かべて「あれを不味いと言わなかったのは何故?」と言われたとなったら、ブリッドさんの心を理解しなかった不届き者として断罪しなきゃいけないって思考が働く。けど、目の前で展開される笑みがあくまで顔面に貼り付けた仮面に過ぎなくて、今確かに「苦しい」と口にした彼を寸断するのは見当違いに思えてきた。
 苦しい? アクセンさんは、理解できないことを苦しがっている? ……そういった経験が、あったのか?

「私は以前まで、目も見えない、口も利けない状況だった」
「は……?」
「耳だけは生きていたんだが、周囲が何を言っているか全く判らなかった状況でもあった」
「……あ、その、もしかして、もしかしなくても、アクセンさんは昔……ヘレン=ケラーみたいな症状だったんですか……?」
「自分が何をされているのか、何を言われているのか、何を想われているのか理解できなかった。理解したくても無理だった。苦しさだけがあった。でも、私の耳は生きていたからな。ならせめて放たれる言葉だけでも理解できれば。何が自分に向けられているか理解できれば。苦しさは緩和される。そのつもりで私は今まで」

 そのつもりで、ずっと学んできたんだと。言いながら、彼は周囲の辞書を指差していた。その表情は、柔らかい。微笑んでいる。そうすることで、僕に理解されることを深く求めているようだ。
 彼は会話中によく表情を変える。きっとそれは、彼が長年の経験の中で学んだことなんじゃないか。
 微笑んでいた方が喜んでもらえるって。ああ、そういえば……そう、僕達が初対面のときから言っていたじゃないか!

「……だから、ときわ殿。思ったことを率直に言ってもらえないと、困る。教えてもらえないと、どういうものなのか判らないままになってしまう。冗談は言わないでほしいんだ」

 人当たり良く穏やかな眼差し。笑って語りながらも、悲痛な叫びを上げているように見えた。
 僕は今、悲鳴をこの目にしている。深く息を吐いて、ゆっくりと体の強張りを解く。友人を異常な人だと思ってしまったことを恥じ、貴い人だと深く受け留める。

「…………アクセンさん。お茶会の二次会をしませんか。僕はしたいです」
「二次会? まだ君は話し足りないことがあったのかね?」
「違います」
「違うのか。ふむ、二次会。時間はある。可能だ。すぐに用意しよう」

 彼は僕が首を振っている最中にも、自室に用意していたティーセットへと手を伸ばし始めていた。僕がしたいという言葉に難なく乗ってくれるのは優しい。
 けど、それは優しいとは言わないのかもしれない。押した鍵盤通りの音を鳴らす楽器が動いているようなものだから。
 本当そうなのか、そうじゃないかは、まず彼の心に聞いてみなければ判らないこと。

「今度は、貴方のことを話してもらいますよ」

 この人の話を聞こう。僕の話ではなく、彼の心を探る話を。
 半年間で少しずつ歩み出した人もいた。時間をかければ少しずつ近付くことができたっていう実績があるんだ。
 心はいずれ変化する。なら今度は、今まで理解し合えていたと思い込んでいた彼と向き合ってみるのもいいのではないか。……向き合ってみたい。心からそう思えて、僕は力強く言い放った。




END

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