■ 015 / 「交流」



 ――2005年7月3日

 【    /    / Third /    /    】




 /1

「オススメの映画はありませんか」

 茶会の話題はオールジャンルだ。
 語らない話題など無い、話したいことをとにかく話しまくるという無作為無造作なティーパーティー。それがアクセンさんと僕の決めたお茶会だ。

「ん。先月言っていた話の続きか」
「この前は映画ではなく舞台の話をしたでしょう。今日は、ムービーオンリーのトークをしたいんです」

 洋館の食堂で土日のどちらかに茶会は開催される。いつにやると厳密に決まっておらず、適当に僕達の予定が空いていた日に開くという、とってもルーズなものだ。
 ルーズと言っても僕とアクセンさんは変なところで拘る癖がある。お互い時間通りに物事が進まないと苛々する性格だし、無駄と無意味は嫌いというところも同じだった。だからスタンスは『話したいことがあったら話す。話さないなんてことはあってはならない』。お互いがお互いを楽しませるという目的を持って、楽しめない話題なんて出さないという絶対の自信でトークし合う、そんな場だった。
 それはルーズなのかハードなのか。僕としては何でも話していい、お題も無い、話すことが無いと思ったらお開きになるというルールはとってもルーズだと思うんだけど。
 このことを僕と年の近い学人(まなと)さんに話したところ、「『あってはならない』って。どうしてバチバチと身を削るようなコトを楽しめるかネ?」と不審がられてしまった。同時に、「全力で異種格闘スポーツをし合ってるみたいだヨ」とも。何でもいいから話せ、話さなかったら許さないという態度は、まるで戦い合ってるように見えると言われた。
 殺伐とするつもりなんて僕達には無い。単に自分が楽しいと思えるからやっているだけで、相手を楽しませる自信があるから自分も楽しいんであって、楽しめない時間などわざわざ取る意味なんて無い。
 損はさせないと想い合っている心はとても高等だし、大変エレガントなティータイムなのではないかと思うんだけど。

「勝手なイメージですけど、アクセンさんはいっぱい映画見てそうです」
「そんなことはない。一ヶ月に三回ぐらいだ」
「ふむ、映画マニアの語るには三作しか見ないのは微妙なラインですね。昼間テレビをつければ映画なんていくらでもやってますから十作ぐらい見ているもんだと思ってました」
「ん? テレビで放映されているものもカウントしていいのか? 劇場に行く回数だけだと思ったんだが」
「……オウ、『一ヶ月に三回映画館に行く』でしたか。それだと十日に一回のペースですから……むう、良い線はいってますね。マニアになれそうです。惜しい」
「頻繁に行ってる人がマニアなのであって、マニアになりたいから映画を見に行く人はいないのではないか」
「で。どのようなものを見るんですか?」
「出来るだけ日本語で吹き替えられている洋画を見るようにしている。勉強になるからな」

 うむ、なるほど。
 意外でもあり、ある意味語学留学をしにきたアクセンさんらしい予想通りの返答でもあった。

「字幕でもいいんだが、つい耳が意味を拾ってしまうから日本語まで追いつかないんだ。それよりは日本人の声で喋っているのを理解して追っかけるほうが良い」

 映画を楽しむことは楽しんでるけど、言語を学ぼうとしている学生には苦行のようだ。追いつけるだけのスキルがあるからやっていられるんだろうけど。

「最近だと何を見ました?」
「つい最近だと……『いま、会いにゆきます』を」

 うわ、タイトルからして絶対好きそう。
 他にも『ヴァン・ヘルシング』、『ヴィレッジ』とか言われたが、僕はどっちも見てなかった。というより、見ないようにしてたやつだ。見ちゃうと職業的に文句言っちゃいそうな作品だったから敢えて見ない選択肢にしたものだった。

「良ければ今度上映会をしませんか。そうだな、『ハウル』が見たいです。まだ見ていないのですがきっと面白い筈。ジブリだし」
「私はよく内容は知らないが評判なら。この食堂でするのか?」
「ビデオデッキなら持ち込めますし良いでしょう。ここでお茶を飲みながら鑑賞会、きっと楽しいですよ。……ブリッドさんが一緒に居るときにしましょう」

 ちなみに、茶会の常連メンバーであるブリッドさんは本日欠席である。
 彼は本当にお忙しい方で、「今度の日曜日に」と誘っても「その日は……」と断られることが多い。まだ『仕事』の数を減らさないのかと怒っても、「減ってますから……」と言い訳をして休もうとしてくれない。……それでも、空いてる限り付き合ってくれるのだから少しずつ前進してるけど。

「ブリッドはどんな映画が好きかな。そうだ、新作でも過去の名作でもときわ殿が選ぶお薦めの作品を教えてほしい。もっと学びたい」

 そんな感じで話が進むこと、数時間。曇天から晴れに変わっていけるほど時間が進む中、僕達は思いつく限り話をする。
 挙げた作品は名前だけで終わらせるのでなく、何故それを挙げたか、どこが良かったか、どれが悪かったのか、勝手に評論家気取りになって話しまくっていた。
 こういった神経質な話が飛び交っているから学人さんが「格闘技のようだ」と言ったんだ。僕達は楽しいが、傍から見ると堅苦しいものに違いない。
 でもアクセンさんは真剣に聞いてくれるし、相槌を打つだけじゃなく、適度なところで質問もしてくれる。だからテンポが良く話が進んだ。僕にはとても心地良かった。

「アクセンさんが今まで見た映画の中で一番好きな作品って何ですか?」
「……先に訊いてしまうが、ときわ殿は?」
「『ドラえもん』の、のび太とおばあちゃんの話です」
「……一位にアニメを選ぶのか?」
「あっ、子供向けアニメだからって馬鹿にした顔しましたね!? 今、多くの日本人は『あーあー判る判るーアレ良いよねー!』って言うところですよ!」
「ん、すまない」
「それどころか名前を聞いただけで思い出して泣く人もいるぐらいなんですから! 見てないなら見た方がいい! あれは大人が見ても良いものです! 『結婚前夜』と併せてどうぞ!」
「それほど推されたら見なければならないな。熱が入っているようだが、何か思い入れでもあるのか?」
「話すと長くなります」

 そのお決まりの言葉を言うのは、もはや茶会のお約束事だった。
 紅茶を飲みながら話し出したら長い話をお互いしまくってるんだ。「長い話」と言っておきながら十分で終わるようじゃ全然長くないってことぐらい、ここ数ヶ月の経験上判ってた。

「僕は、とあるご兄弟と一緒に暮らしていたんです。僕を育ててくれた親御さんの、実の息子さん達……三兄弟と一緒に育てられたんです」
「いつも聞いてはいるが、君の家庭は複雑だ」

 一度話しただけじゃ理解されないことで定評があります。

「一緒に育てられたと言っても、三人とも全員僕と十歳離れてますから兄弟らしく付き合ったことはありません。……長男の悟司さん、次男の圭吾さん、三男の霞さんという方々でした」
「ん。圭吾という人は、ときわ殿の話でよく名前が挙がる」
「圭吾さんとは特に仲良しです。一番可愛がってくれた人で、優しいお兄さんでした。僕と一番遊んでくれたのが圭吾さんです。そんな人だから、僕の機嫌を取り繕ってくれるのはいつも彼でした。ある日、小さな僕をあやすのに……子供向けのアニメを使ったんですよ」
「ん」
「『子供を遊ばせるために、適当に何か一本ビデオを借りて時間を潰そう』。圭吾さんにはきっとその程度の思惑しかなかったんだと思います。そこで借りてきたのが、おばあちゃんのアレ! ……全員ボロ泣きでしたよ。みんなで見ちゃってボロボロ泣いたんですよ!」
「ん」

 それだけ良い作品だったんだな、とアクセンさんは頷く。
 …………。あ、しまった。
 この凄さがアクセンさんには半分も伝わっていない。仕方ない話かもしれないけど、この話は失敗だ。

 一番この話で重要なのは、『あの動いてないと落ち着かない霞さんが』画面に釘付けになって、『あの居るだけで場が濃くなる悟司さんが』ボロ泣きしたってことなんだから。
 まあ、もう何年も前の話だ。彼らが今のような性格になる前のこと。僕を取り囲んであの三人が並んで居間でテレビの前に座っていた時代があったんだってことを一番笑ってほしかった。
 アクセンさんは悟司さんと霞さんはおろか、圭吾さんですら一度二度しか会ったことがなかったか。
 むう、このエピソードの面白さが全然伝わってない。失敗だった。ごめんなさいと正直に口から零れる。

「ときわ殿が伝えたい楽しさは把握できた。君は家族のことをよく見ているということも判った。何より、君の真っ直ぐ気持ちを伝える目は綺麗だな。見ているだけで気持ちが正されるというものだ」

 ……そりゃどうも。
 真っ直ぐと目を見て、相変わらず用意されたかのような丁寧な直接的好意を口にするアクセンさん。直球の好意に思わず顔を背けてしまう。
 こんな風に真正面から御世辞を口に出来る人になりたいと純粋に尊敬してしまうが、同時に気恥ずかしさに耐えきれなくなる自分を自覚する。
 これは自分で言うのも、言われるのも堪える。自分は素直な性格だと思うが、それを誇れるほど出来てはいない。……実直な姿勢に憧れた。誠実に生きるっていいことだなって思い知らされるぐらいには。
 いや、そんなことはともかく、アクセンさんは面白かったと言うけれど……やはり面白さの半分も判ってもらえていない。そこは残念で仕方なかった。今度は何を話すか話題を探す。

「私の好きな映画だったな。いくつも思いつくんだが……『グランドホテル』は興味深かった」
「うん? なんか聞いたことのある名前ですね」
「アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した作品だから有名だろう。確か、第五回の受賞作品だ」
「……それ、すっごく古い作品ですね。この前の『ロード・オブ・ザ・リング』が確か」
「第七十六回だったかな」
「アカデミー賞がいつ始まったか覚えてませんけど、単純計算的に七十年前の映画ですか」
「一つの場所を舞台に大勢の人間達が話を進めていく。舞台は動かないが、登場人物は全員違う経歴、事情、個性を持っていて、話はころころ変わる。そういった作品の元祖と言われている作品だ」
「ああ、タイトルがジャンル名になったぐらい……」
「ストーリーもそれぞれが生き、辛い道に向かってしまうんだが愛を見付けて、突き進んで行く。どんな人にもドラマを抱えて生きている。生きることを教えてくれるもの……と、人は言うだろう」

 ふむ、熱い語りだ。僕は手近なノートにタイトルを書く。忘れないようにするための自分用のメモだった。
 一日二人で話していると情報量が多くて些細なことは抜け落ちてしまう、だからこうしておかないと。がりがりとペンを走らせた。

「トッキリーン、なにガリガリしてんのぉ?」
「…………」

 ノートに影が出来る。誰かがノートを覗き込んだからだった。
 同時に不愉快な声がして、僕はペンを上向きに発射させてしまった。

「うわぁ! あっぶなぁい。俺の知覚判定が火を噴かなかったら眼球ドスゥだったねぇ。んんぅ? なになにぃ? 『グランドホテル』? ホテル行きたいのトキリン? 三時間ドリンクサービス付きのとこ行こうかぁ?」
「……福広さん、何をしにこちらへ?」
「トキリンをぉ、構いに来たに決まってるじゃんん」
「僕は現在お茶を楽しくしているところなんですよ。楽しくお茶とお話が出来ない福広さんはとっても邪魔です。ノートを暗くしないでください。とっても邪魔です。邪魔です」
「えぇ〜、三回も邪魔って言った〜。お茶ぐらい俺だって口開けられるんだから飲めるよぉ。俺ってハイセンスなオトコとして知れ渡ってるのよぉ、おしゃべり得意よぉ。まだまだ俺のコト知らないなんてトキリン遅れてるぅ」
「ときわ殿。今日はこの辺で閉幕にしようか?」
「はい、もう十五時です、そうしましょうアクセンさん。僕もそろそろ外の空気を吸いにウォーキングをしたくなってしまいました。ここから出ましょう」
「あぁ、アウトドア派の俺に合わせるなんて憎い演出するねぇ、トキリン!」
「アン? 福広さんは日本人でしたっけ? 言葉が不自由なのはどうしてです? ご病気になられたせいですか? ならば治すためには入院した方がいいですよ。さぁ病院へ行きましょう」
「うっわぁ、ナース服のトキリンってば思いのほか似合うぅー!」
「って勝手に妄想画面で着せるなぁー!!」

 乱入してきた福広さんを怒鳴るその横で、アクセンさんがティーカップを片付け始めていた。

「アクセンさんは何もしなくていい! 僕が片付けます!」
「しかし、君は彼と話をした方がいいのではないか? せっかくときわ殿に会いに来たようだが……」
「お気遣いノーセンキュウです。僕は彼を総スルーするために食器を片付ける作業に専念します! だからアクセンさんは何もしないで結構! スルーにお付き合いください!」
「君達の楽しそうな姿はずっと見ていたいな。こういうのを『心が和む』と言うのだろう?」
「なんてこったい! 僕のデストロイオーラにちっとも気付かないたぁやりますね!」
「ねぇねぇトキリン、なにブツブツ言っちゃってるのさぁ。ハッキリ言っちゃいなよぉ、俺が好きだってぇ!」
「デストロイ!」

 破壊を口にしながら殴打。閉幕しようと何度もアクセンさんに謝り倒す。アクセンさんは手伝えないことを苦い顔をしていたが、僕のお願いということで承諾してくれた。
 「また今度」とアクセンさんが去って行く。食堂を出て行く姿を見送ろうとする……と、食堂の入り口に、誰かが立っているのに気付いた。
 怪訝そうな目でこっちを見ていたのは、芽衣さんだった。福広さんの親友の彼じゃないか。福広さんを連れ帰りに来たんだろうか。ならさっさと連れて行ってよ!

「すまない、失礼」
「…………」

 アクセンさんが芽衣さんの横を通って食堂を出て行く。でも芽衣さんはそれに目もくれず、僕の方を睨んでいた。
 ……睨んでいた? いや、そんなマイナスな視線ではなく……でも、何だ。

「トキリーン、俺の為にお茶淹れてよぉ。俺ぇ、トキリンの淹れてくれたお茶が飲みたいなぁ」
「飲んだところでお茶の味なんて判るんですか、貴方のような人に」
「コーラとペプシの違いぐらいは判るよぉ?」
「んなっ! そんなモンといっしょにしないでください! 紅茶好きだと知っているのにそう侮辱しますか!?」
「今のは侮辱にあたるのぉ?」
「あたります! なんなんですか、貴方はわざと僕を怒らせたいんですか!? そのためにいっつも来るんですか!?」
「うんにゃ。俺はただただトキリンの気を引きたいだけよぉ」

 福広さんは、さっきまでアクセンさんの座っていた席に座った。

「そうだぁ! あったかいトキリンの椅子座らせてよぉ。誰か座ってるトコの方がお尻あったかいだろうからぁ。ヌクモリティプレリーズぅ」
「変な英語使わないでくださいっ」

 福広さんは椅子に乗っかって、不安定な座り方をする。
 ちょっと椅子の足を蹴飛ばしたらズルッとコケて怪我しそうな態勢だ。……そんな不真面目に座るような人にティーカップなんて用意できるかっ。

「おおーいぃ、そんなトコ立ってないで芽衣もおいでよぉー」
「…………ああ」

 福広さんに呼ばれ芽衣さんが返事をする。その返事は浮かないものだった。
 芽衣さんは声を掛けられても怪訝そうな顔をやめない。その状態のまま、食堂に入ってきた。

「なんですか、芽衣さん。そんな仏頂面で」
「…………坊ちゃん」
「どうしました」
「俺、初めて洋館の食堂にお邪魔したんだけど。……ここはお前さんの部屋かい。随分寛いでるじゃねーか。驚いたぜ」
「別に僕の部屋ではありません。そんな訳がありません。ただこのスペースをレンタルさせてもらっているだけです」
「……お前さんだって知らないワケがねーだろ。お前さんみたいな大事な大事な王子様が、外からやって来た奴を留めておくような穴場に居るって知られたら……狭山の耳に渡ったら、ひでー目に遭うだろ。それを判っておきながらここまで我が物顔で使うって、何なん?」

 それが怪訝そうな顔の理由か?
 そんなものでこんなにも怯えてしまうのか。僕は溜息を吐く。

「僕は、狭山おとうさんのことを尊敬しています。仏田寺の繁栄も応援しています。……ですが、仏田を尊敬し応援しても、その他を見下し貶めるような言動は一切許しません」

 精一杯の睨みつけで、染まりきった芽衣さんに返してやった。
 芽衣さんはずっと変な顔をしていた。我が家に染まりきってしまった人はこれだから嫌だった。



 ――2005年7月3日

 【 First /      /     /      /     】




 /2

「なんなんだ、アイツ」

 洋館から出たのは二十三時を過ぎてから。トキリンは飽きずにギャーギャーキャンキャン騒いでくれた。楽しそうなトキリンを見ると安心するからついつい構い過ぎちゃった。

「トキリンはねぇ、可哀想な子なんだよぉ」

 いつの間にか日付が変わって空は真っ暗。今日は一日綺麗な青空だったのに、洋館にヒッキーしまくりのトキリンは、本当に可哀想な子だった。

「可哀想って……。福広、あんなんのドコがイイんだ?」
「えぇ〜、もしかしてハッチー、俺に気があるからこんなにツッコんできてくれてるのぉ? ツッコんでくれんのぉ?」
「突っ込まれて痛ぇもうやんない言ってた口はどこいったかな。またツッコんでほしいなら言えよ」
「ごめぇん。興味本位で幼馴染と供給すんじゃないって学んだんだった。黒歴史解放ぉ。ごめぇん」

 自分達の布団がある屋敷に戻るには、洋館から広い敷地内を十分は歩かなきゃいけなかった。
 いくらこの時期でも夜は寒い。薄着じゃないのに寒い。何かイヤなモンが後ろを通り過ぎてんのかってぐらい寒かった。

「トキリンはねぇ、重圧に負けないように頑張っている王子様なのぉ。いっぱいストレスがあるんだよぉ。そのためには好きなことをやってないといけないと思うんだよねぇ」
「……それでいいのか?」
「いいでしょぉ。俺達下っ端は、上の王子様達を支える役目よぉ。芽衣だってそれだから従者キャラしてるんでしょぉ?」
「でもよ…………いくら本家の大事な坊やとはいえ、キモチ悪くないか?」

 芽衣が俺に近寄ってくる。
 キスするんじゃないか、ドキッとところまで顔を近付けて、マジな声で言っちゃってる。

「一人で茶会とか、気味が悪すぎるだろ」



 ――2005年12月1日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /3

「はわぁ……えっと、ここであってるよな? うんうん、大丈夫大丈夫」

 新座くんが住んでいる教会を訪れるのは、この日が初めてだ。
 住所を教えてもらってもう半年以上経つ。お互い簡単な連絡のやり取りぐらいは行なっていた。それでも実際に会うのは久々だ。
 お互いの仕事を終えた時間、やっと暇な時間を作って、俺は念願の教会に向かう。
 新座くんが居候しているという教会は、彼の故郷から遠く離れた場所にあった。煌びやかな洋風建築、海が近くて潮の匂い。山奥にある純和風な彼の実家とは大違い。きっとここは彼にとって未知の世界だ。

 彼の実家はとても古い。千年の歴史を誇る退魔一族に比べれば、俺の家なんて五百年ほど後輩にあたる。俺の一族は西洋文化も取り入れていっているが、彼の家は「外の血など入れるな」と如実な拒絶反応を見せている。だからきっと、新座くんは家でするまでこのような施設に入ることすら許されなかっただろう。
 従兄弟にやっと作ってもらったこの縁を大事にしようと、誘ってくれた新座くんの好きなケーキを手に教会を訪れる。
 そして裏庭で倒れている新座くんを発見。
 驚きのあまり箱を落とし、中身をグシャグシャにしてしまった。



 ――????年??月??日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /4

 涙が枯れてしまった子供がいた。

 少年は、この世に生を受けてから平均以上の幸福を味わっていた。
 兄弟がいて、世話をしてくれる人がいて、友人がいて、食事に困ることも寝泊まりに苦しむこともなく、皆から愛され大切にされてすくすくと育った。
 特別、体に欠陥も無く、大きな事故に遭うこともなく、勉学に励み、遊び、時折入る出会いや別れで心を成長させぬくぬくと育っていった。
 少年は幸せだった。

 その時代、世間は波乱で満ちていた。時代が移り変わる大変な時期だった。
 周囲の者は、一般的な幸福も手にすることが出来ずに涙に溺れることもあった。その中で少年は、充分……生を謳歌していた筈だった。
 そんな少年にも欠点があった。でも重大過ぎるある一点を除いては、とても平和な少年だった。母が死んでしまったこと、そして、たまにしか会わない父がいること以外は、幸せな少年だった。

 実の父が打ったり蹴ったりしなければ、本当に平和な少年だった。彼の周りに意地悪する人なんて一人もいなかったから。
 実の父が言葉で傷つけたり心を犯そうとしなければ、本当に平和な少年だった。周囲は庇ってくれる人ばかりだったから。
 実の父が周囲から遠ざけ、少年だけを攻撃することをやめれば、本当に平和な少年だった。皆、少年を守ろうと努力してくれたから。
 実の父が少年を手放さず、毎日を奪わなければ、本当に本当に平和な少年でいられた。どんなに周囲が努力しても、届かなかったから。

 厳しい冬でも暖かい。食事はすぐにありつける。心優しい弟や面倒を見てくれる女や友人もいる。
 容姿も良く、人柄も良い。人を護ろうとしたし、人からも護られるほどに信頼があった。社会が不安だ不安だとざわめきあっている中、何も恐れることのない。それほどの経済力と信用が、少年の家にはあった。
 彼の家を頼ってくる人間がたくさんいた。金がそれだけあった。金が無かったとしても、少年は愛されたであろう。
 それほど恵まれて、この上ない平和を持っていたのに……神様は、あまりに優遇されすぎた少年に、一つだけ欠点を与えたのだろうか。
 父の力に耐えなければならないという課題を。

 父は、美しかった少年の顔を打った。
 その後、父は周囲に批難され、少年の顔を打つことはなくなった。
 その代わり、顔以外、腹や背に力を加えることになった。
 それにも周囲は訴えてやめるように言う。けれど父は聞かない。「それは躾だ」と言い、躾ではないと反論されれば、「少年自身が作った傷だ」と言い張った。誰も見てないから自分が作ったという証明は無いだろうと言い張った。そもそも、そんなことを言って怒らせて楽しいか……と次から次へと父は子へ力を伸ばした。
 暫くして少年の傷が治りかけてきたら、今度は様々なことを言われた。体に証明が残らないだけ、少年は美しさを保っていられた。
 他人には視えない鋭いナイフで、父は何度も少年を抉った。
 大量の血が噴いた。何十回も何百回も刺された少年は、体の至るところから血を流して倒れた。
 でも、実際のナイフで傷付けられた訳ではないから、本物の血は出ない。父が使ったのは言葉のナイフで、少年が傷付けられたのは心の体だから。

 一日に百は刺した。刺しやすそうな腹を重点的に、傷付けるなと言われた顔も削りにくそうにも努力して何度も刺し、綺麗な二つの眼球目掛けて錐のようなもので数分に渡ってぐりぐりと捩り込み、関節に刃を突き刺して、音を立てながら部品を外していく。
 あるときは背中に何本ナイフが刺さるか試してみたり、上下二十本ある指をどれだけ刻めるかやってみたり、綺麗に外側を捲って中身を取り出したり。

 ……全て、言葉の上での話だ。実際にはそんな猟奇殺人は行われていない。
 行われていたら、少年は一体何回死ななきゃいけない。けど、実際に少年は何回そのナイフで殺されただろう。
 十や百では足りないぐらい。少年は何度も何度も父に殺されていた。

 日を空けず、毎晩毎晩父と二人きりの夜を過ごした。
 毎晩、部屋は真っ赤だった。少年から出た血で、真っ赤に染まっていた。
 少年が傷付くたびに血は飛び出すから、傷付く心がある限り切れることがない。
 延々と吹き出す血。永遠と流れ出す赤。
 不憫だと周囲は思ったけど、父と子という最大の壁を崩しにかかってくる人物は、誰も居なかった。

 ――少年は幸福だった。
 綺麗な服をいつも着ていられて、母から受け継いだ美しい顔を持って生まれたこと。この上ない幸せだった。
 食べるものに困らず、何かを食べたいと思えばすぐに出てくる生活。この上ない幸せだった。
 秀才で、嫌味を一切言おうとしない、心から愛せる弟達がいること。この上ない幸せだった。
 金もあって権力もある、そんな少年を色眼鏡つけずに愛してくれる者達がいること。この上ない幸せだった。

 毎晩毎晩、実父に嬲られても、この上ない幸せをいくつもいくつも受けている少年には、それぐらいの欠点が必要だった。
 今夜もまた父は、指の先から全身に言葉のナイフを突き立て、一体何本でハリネズミに変身できるか試すという。
 平和に暮らしていたのだから、それぐらいのこと耐えなければならなかった。



 ――2005年12月1日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /5

 新座くんは案外早く目を覚ました。教会内の宿舎、彼の自室に運んでから十分もしなかった。

「…………。新座くん?」
「……むぐ……」
「ずっと泣いていたよ」

 目を開けてくれたが、天井を見るだけでなかなか口を開かない。
 目を覆う涙が、現実を蘇らせてくれずにいるのか。俺はただただ彼が自然に回復していくのを待っているしかなかった。

「……む、ぐぅ。眠っているときって、瞼って閉じてるよね」
「え? あ、ああ、そりゃもちろん」
「だよね。閉じてるから寝られるんだもん、世の中には目を閉じなくても眠る人はいるらしいけど。……閉じてるのに、涙は出るもんなんだね」

 ベッドから体を起こし、辛そうに身を捩る。口にした声も一つ一つが億劫そうだった。

「蓋をしているのに溢れてくるなんて。眼をしまっておかなきゃダメじゃないか、僕の瞼。……涙はあまり人には見せたくないもんなんだから」
「泣いてるとこ、見ちゃってごめん。……瞼はあくまで眼球を覆っているものに過ぎないから、密閉している訳でもないし隙間はできるよ」
「だよねー……。僕、涙を止める方法がお金で売っていたら、貯金してでもいつか買っちゃうよ」
「でも、涙は無理矢理止めちゃいけない気がするな。流すことに意味があるんだし。自然に止まるのを待っていた方がいい」
「おはよう、鶴瀬くん。お久しぶり」
「え? は、はわっ、おはよう」
「せっかく来てくれたのに、うん、ごめん」
 
 新座くんはタイミングを見計らうことなく、俺に挨拶を挟んだ。
 自室にある時計を見て、いつもの動作で窓を見ている。次に、新座くんは自分の服装を見て……『倒れてからそれほど時間が経っていないこと』を察したようだった。
 両手で自分の額をぐりぐりマッサージして、モヤがかかった頭を振るっている。いくらそうしても、気持ち悪さは払拭できないみたいだった。

「鶴瀬くん、ここまで来るのに大変だったでしょ? この教会、大きな道から外れてる場所にあるから」
「時間はかかったけど……。新座くん、体調は大丈夫なのかい」
「大丈夫じゃない」

 心配して掛けた言葉は、重い事実でバッサリと暖かみを奪っていく。
 でも新座くんは笑っている。苦笑いだけど、俺を気遣っておどけて笑ってくれた。

「だからと言って病人ぶってたら一年が終わっちゃうんだ。いっつも大丈夫じゃないから、どっかで自分を見限らないと何にも出来ない。……怠いから、暫く起き上がらないでいい?」
「いいよ。……それが志朗さんが言ってた君の病気か」
「志朗お兄ちゃんから聞いたんだ?」
「『鶴瀬も知っておけ』って教えてもらった。昔っから新座くんは体が強くないって思っていたけど。ほら……お寺に篭ってばっかだったから」
「うんうん、篭ってばっかだった。外に行ったってカスミちゃんみたいに騒げないんだもん。つまんないからお家で何かしてるしかなかったの」

 新座くんが一番仲の良い幼馴染の名前を口にして、無理矢理笑っていた笑顔が最上級のものへと変化した。
 なんだかんだ言って霞様の存在は新座くんには大きいんだと思い知らされれる。瞼は重たそうだけど笑ったから良い方向になっていた。良かった。

「おかげで僕、体力の無い大人になっちゃったよ。走るのもイヤ、階段登るのもイヤ、寧ろ動くのだって嫌い。それでいてお菓子大好きなんだからサイテーだよね。絶対僕、娘ができたら嫌われる父親になるよ。きっと『お父さんと同じ洗濯機で下着を洗わないでー』って言われちゃうダメお父さんだね。『ねえ、君もそう思うでしょ?』」
「あははは……。動くのが嫌なんだ?」
「動くっていうか、外が。外が、嫌。……色んな人がいるんだもん。お家に篭っていたって『いくらでも勝手に入って来る』けどね。でも僕のお家はお山のてっぺんだったから、勝手に入って来るのも少なかった。今は、こうして低い場所に居て。たくさん人が集まる場所に寝泊まりさせてもらって。その中でも悩みのある人がよく来る場所にいて……。昔よりはずっと『声』を聞くようになって……まあ、迷惑かけてるね、うん」

 勝手に淹れさせてもらったお茶を汲み、新座くんに渡す。
 初めて来た新座くんの部屋だったが、昔から好きだったお茶のティーパックは変わっておらず、ポットを発見次第直ぐに淹れることが出来た。

「……新座くん、なんでわざわざ教会なんて場所に住み始めたんだ」
「あれ、鶴瀬くんにはまだ言ってなかったっけ? その方が鍛えられるかなと思ったからだよ。ピーマンが嫌いなら、ピーマンを美味しく頂ける方法をピーマンを食べながら探していければいいと思ったんだ」
「荒治療だな。一番効果があるかもしれないけど」
「……っていうのは、後付け。偶然にも家出したときフラフラしてたら『うちに泊まっていく?』って言ってくれたのが、ここの教会のシスターさんだっただけだよ」
「それにしたって、レベルの高い場所じゃないかい。人嫌いなのに、教会なんて人の集まる所に住むなんて」
「でもシスターさんはみんな美人さんだし、ちっちゃい子のお世話するのは面白いし。ピアノを弾くのは昔から好きだったら音楽やらせてもらって楽しいし。……なんだかんでで鶴瀬くんが手回ししてくれたおかげで、お父さんと仲違いしたままってのは免れたし。今じゃ実家に帰っても何人かに睨まれる程度で済むし。ラッキーな人生を歩めてると思うよ。持つべきものは愛してくれる大勢の友達だね」
「いや、実際になんとかしてくれたのは志朗さんで、俺は新座くんの後釜にさせてもらったというか。叔母様の秘書なんてことよくやらしてもらったというか」
「鶴瀬くんが秘書に抜擢されたのは、僕がいなくなったからじゃなくて、お父さんが鶴瀬くんの力を認めてくれたからなれたんだよ。『お父さんのお手伝いをするお母さんのお手伝い』って、結構名誉ある仕事らしいよー? きっとあれこれ動いてくれたからお父さんの好感度上がったんだね!」

 新座くんの日常話の筈が、いつの間にか俺を褒める方向になってしまっている。
 このままだと俺の気分が良いだけだ。お茶を汲みながらもいつ「そんなことよりも」と言うか、タイミングを見計らう。

「僕は今、ラッキーすぎる生活を送ってるよ。いつか外に出られたらいいなと思っていて、出たら出たで良い人達に囲まれて生活できて。こうやって親友に守られて、お父さんともそんなに気まずくならずに済んで。ちょっとだけ我慢すれば幸福な生活………………」

 そろそろ違う話をしようかなと思っていると。
 急に新座くんは話を止めた。あっちこっち話を展開させるのが好きな新座くんには急ハンドルはよくあることだったけど、あまりに唐突過ぎるので驚く。
 俯いて、どうしてしまったんだ。顔を覗いてみると、新座くんの瞼から大粒の雨が降り出し始めていた。

「ま、また泣いてどうしたんだ!? 今度は何があって……!」

 ごしごしと腕で顔を拭っている。でもその程度では涙は止まらず、新座くんはずっとごしごしごしごし顔を拭い続けた。顔が真っ赤になるまで。
 子供のような泣き方だ。昔から新座くんはこうしてよく泣いていたけど、あの頃は『泣き虫な子供』だからなんとも思わなかった。年上でも泣き虫な性格なんだから仕方ないと、でも大きくなってもこれは……異常だと思ってしまう。
 間違いなく、異常事態だった。

「はわわわ!? ど、どうすればいい? 薬とか持ってる!?」
「涙が出るのは、癖っていうかそういう体質っていうか……ごめん、ごめん。…………それよりも。すぐに、『僕の言う条件の物件を探して』」



 ――????年??月??日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /6

「こんなの……許せないよ……!」

 少年に向かって、少女が叫んだ。
 少女は、少年の親友。少年の幸福の一つだった。いつも自分を励ましてくれる優しい少女。少女の周辺も、少年を励ましてくれる優しい大人達がいっぱいの中、少女は特別な一つだった。
 酷いことをされている少年をいつもいつも気遣って、少女は枯れ始めている少年の涙痕をゆっくり撫でる。少女らしい、ふっくらとしたあたたかい手だった。
 優しい掌に少年はいつもほっとする。少女の香りの良い手に、噴き出していった血は戻って来る。目に視えない少年の傷はみるみるうちに回復して、時間が過ぎていく。
 そして暮れる夕陽。少しずつ訪れる夜。昼は終わる。
 今日もまた、父親と二人きりの夜が始まる。少年を待つ少年の父は……今晩は何本ナイフを磨いているのだろう。

「ダメだよ、そんなこと、許しちゃダメなの! 私は、助けたいの……!」

 少女は叫ぶ。毎日傷を癒し、毎夜死ぬ少年を見ているだけなんて……優しい彼の女友達にはできなかった。
 彼女以外にもみんな、少年が可哀想だと言っていた。でもどうにもできなかった。
 少年を傷付けるのは父。一度手は上げたが、それ以降は視えないところばかりを傷付ける。父は、他に誰も居ない少年と二人きりの場所で犯行し続ける。
 少年はたった一人に何度も何度も殺された。
 七日前は内臓すべてを引き抜かれた。
 六日前は首を切られてサッカーがわりにされた。
 五日前は一晩かけて体中にナイフで卑猥な言葉を刻みこまれた。
 四日前は珍しくナイフを使わず、穴という穴に軟い棒を詰められた。
 三日前は硬い棒だった。
 二日前は出したものを飲まされた。
 一日前は、
 昨日は、
 ――。

「大丈夫、もう大丈夫だから。ずうっと私達二人の秘密基地にいましょう」

 そこは、子供同士が作った家。
 空き家に誰にも許可を取らずに入っただけの秘密基地だ。それでも、少年が毎日真っ赤に染める部屋よりはずっと安全な家だった。

「ずうっとここに居るといいよ。みんなには内緒。でも、そのうちちゃんと説明するから」

 周囲の人間達は少年に優しかった。いつだって気遣ってくれた良い大人だった。でも、少年の父をなんとかできる力は無かった。心苦しいとは思っていても、少年を救えるほどのことは出来ない存在だった。
 少女も特別大きな力がある訳ではない。ただ、救ってあげたいという心が他の誰よりも大きかっただけ。その程度では何も変わらないと冷静な大人では言ってしまえるほど、保障の無い力だった。
 でも、それでも、少年の、何千回も殺された体を毎日毎日回復し続けるだけの力を持った偉大な少女だった。
 今日もまた、少女は少年を癒す。か弱い二人だけの基地の中、けれど邪魔者の入って来ない頑丈な基地の中。少女は少年を抱きしめてあげて、一段と深い傷を癒し続けた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 魔法の言葉をかけ続けながら、少年の全てを癒す。少年にとって、この瞬間がこの上ない幸福だった。
 ふと少年はこの心優しい少女に対し、お礼をしなければならないと考えた。
 いつも色んな人に助けられてばかりだ。この少女を始めとした多くの人達に気を遣われ、様々なものを貰った。傷付いた体を癒されただけでなく、汚れていたら様々な人が綺麗にしてくれたし、励ましの声や支えてくれる勇気を貰っていた。
 皆に何かをしなければならない。皆の為に何かをしたい。少年は、誰かの為にと考える。周囲で見守る皆のために何かを……そして、周囲の中で、一番光り輝く彼女に何かを。

 少年は、恵まれていた。あの父を持ってしまったというのは、神から与えられたたった一つの欠点。
 なんでもできた。金も権力も優しさも才覚も武勇も魔力も人を惑わす魅力でさえ、彼は恵まれていたから自由に扱えた。
 少年は少女に抱かれながら口を開く。……なんでも出来る自分に、何をしてほしいと。
 少女は一瞬キョトンとして、すぐにいつも通りに笑って、言った。

「なんでもしてくれるの?」

 もちろんと少年が頷く。

「じゃあ、君が欲しいな」

 そんなんでいいのか。
 ……予想以上に簡単で、嬉しくて、幸福な返事に、少年は傷を全て癒しきった。
 少年は、少女を抱きしめる。
 少女が、少年を抱きしめたかのように。
 大昔に実の母が抱きしめたあのときのように。
 かつて実の母が、実の父を抱きしめたように。
 実の父も、実の母を愛して抱きしめたかのように。この上ないしあわせだった。

 そして夜は訪れる。少女は少年に抱きしめられながら、少年は少女に抱きしめられながら、毎晩夜は訪れる。
 昼の間は邪魔者はいなかった。それは昼だからだ。昼だから、邪魔者は訪れなかった。
 夜になれば、実の父は少年を甚振る。何千回も何万回も繰り返されたこと。
 夜はずっと父の番。夜は恵まれすぎた少年が罰を受ける番。少女が言った「大丈夫」に何の力があっただろうか。
 冷静に考えれば判る筈だ。何の意味も無いってことぐらい。
 でも、少女は正義感に溢れて、光輝いていて、嘘偽りない優しく力強い存在で、少年を護ろうとした。護れる筈も無いのに。
 少女に何の力も無かった。少年どころか、身近な仔犬や小さな虫さえ護れる力も無かっただろう。
 父の前では子犬も蹴飛ばされ、虫は踏み潰される。少女が父を止めることなどできない。一つの命を助けることも出来ない彼女に、一人の人間を救える力などある訳が無かった。
 それに彼女には、自分の命すら護れる力も無かった。

 父は、少年の心を甚振るのを毎晩の糧にしていた。心を傷付けることを生きる目標にしているぐらいに。
 そして目の前には、少女がいる。
 少年の前に立ち向かう、無力な少女がいる。
 父は少女を甚振る。少年の前で――――――。



 ――2005年12月1日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /7

「眠れええええええええぇぇぇ!!!」

 新座くんは窓ガラスという障壁を全て無視して幻視の剣を飛ばし、『少年の父だったモノ』に直撃させた。
 間一髪、少年少女達に魔の手が襲い掛かる前に刃で動きを止める。新座くんの手の中で生まれた大量の剣が次々に飛んでいった。次々に飛んで、次々に父に刺さっていく。
 父は剣の嵐の直撃を受け、絶叫する。この世すべての悪に匹敵するぐらい邪悪な声で絶叫だった。
 そのおどろおどろしい声を弾きながら、新座くんの影は跳ねた。再度剣を創り出し、父へ向け投げ放つ。
 しかし父は、新座くんの位置を絶叫しながらも彼の居場所を把握していた。ついには襲い来る五本の魔剣を軽く腕を振って風圧で弾き出した。
 でも父がふいと目を上げれば……そこには、剣を投げつけてきた新座くんとは違う影が、刀を構え落ちてくる。父は急降下する俺の姿を捉えることが出来ず、両断された。
 こちらは新座くんのように大声を出すことはしない。ほんの少し息を呑みながら、渾身の一撃をくらわせた。

「鶴瀬くんっ!!」
「……一撃でやれるとは思ってない」

 まだ動きがあることを確かめて、刀を父に刺し込んだまま、その場を瞬時に離れた。
 右肩から腰にかけて俺の刀を突き刺された父は、体内に残る余分な一本のせいで、動作が大幅に鈍く変わっていた。

「でも、二撃も三撃も遊ぶつもりはない。次は貫く。――――■■■■」

 ほんの数歩ほど飛躍しただけの位置から、俺は弓を構えるような態勢を取る。
 呪文を唱え、矢を召喚する。瞬間、一条の光を発し、解放する。
 時間など掛けなかった。瞬時に父の体に衝撃が走る。矢は中央を狙い、見事的中した。光の先に居た父は、体をびくんと跳ねさせ、体液をばらまき散らしていく。

 俺の攻撃は、一撃一撃が重い。ヒットすれば一瞬で片がつくほどの強力さだが、その重さ故にスピードに欠けるものだった。
 俺達が『新座くんが夢に見た間取り』を探し当てている間に、少年少女が異端に食われなくて良かった。間に合って本当に良かった。
 ここまで車を走らせてなんとか辿り着き、着いたら今にも異端が少女を殺そうとしていたのを見たときは、心臓に悪かった。

 新座くんは咄嗟にダメージは乏しくても武器を連発した。少女を襲う父を助けるためには、何回も魔剣を飛ばした。その間に俺は準備を整えていた。自分のバトルフィールドさえ把握すれば何とかする自信があったから。
 父は……異端は、ついに倒れる。
 俺が起こした小さな爆発の中央部へ新座くんが降り立つ。俺も小爆発の中、倒れる父を見た。
 ……顔が無かった。
 最初の新座くんの連撃によって剥ぎ取られたのではない。俺の一刀両断や爆発によってのものでもない。元から、このような顔だった。

「むぐ。どう見ても異端だね」
「はわ。そうだね、紛れもなく化物だ」

 『父は夜しか暴れない』。異端は、殆どが夜に活動する。理由は多分、「昼間は堂々すぎて捕まる」という人間の記憶が残っているからだ。
 それに、『少年のことを無視せず気遣っているのに、どうしようもできない周囲の大人達』。これは罰すべき父は人ではなく、対処できない存在だから何も出来ないように見えたんだ。
 もしかしたらこんな会話があったかもしれない。

『ねえ、貴方をこんなに傷付けた人は一体誰なの!?』
『お父さんだよ』
『何言ってるの、貴方のお父さんは○○に死んだでしょ!』
『でも、お父さんが毎晩こんなことをするんだよ』
『…………』

 『本部』宛に、「父を模った怨霊が少年を甚振ってるからなんとかしてほしい」という依頼が来ていたかもな……。『本部』でなくても、違う機関に届け出がされていたかもしれない。……被害が出てからの解決になるところだったが、本当に少年や少女を殺す前に、父であったものを仕留めることが出来たが……あと遅ければ、きっと少女は……。
 ……新座くんが中央部に近付いていく。顔の無い異端の、刀で分断され矢を撃たれた体に手を寄せた。

「僕の中にお入り。天国や地獄よりも有意義な場所に連れていってあげる」

 指で鋭く喉を抑えて、喉を突き破らんぐらいに指を捻じ込んで『刻印』を開き、邪悪なそれを受ける。
 『本部』が毎日のように取って来い奪って来いと言っている魂を、命を。

「……むぐー、早口で詠唱しちゃったから喉がカラカラだよぉ。鶴瀬くん、その子達……大丈夫?」
「うん。結界を張ったと同時に気絶してくれたようだ。ずっと倒れていてくれたから、特別怪我は無いよ」
「いいや、そんなことはないよ」
「……ああ、そうだね。新座くんが『視ていた通り』、男の子の方は……ボロボロみたいだ。体はもちろん、この分だと精神にも……」
「すぐに心霊治療をしてくれる病院に連れて行こう。僕がいつも通わせてもらっている所なら、車で三十分もしないよ」
「判った、すぐに運ぼう。……教会に戻ったら新座くんが視えたことを詳しいところまで教えてもらおうかな」
「車で移動しながら説明するよ。あと、走ってる最中にまたケーキがグシャグシャになっちゃっただろうから……買い直そうか」



 ――2005年12月1日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /8

『そうか、先に新座くんが解決してくれたか』

 電話先で大山さんの低い声が、僕に優しく返してくれる。
 第一声で「良かった、被害者は無事で済んだか」と言ってくれる大山さんは、優しい男だった。世の中には被害者の安否より報酬(うちで言うと魂のことだ)を気にしちゃう人が多いから、大山さんの言葉に任務後の満足感が湧き上がった。

「はい。男の子は様子を見て、教会で記憶操作をして明日には退院させるってお医者さんは言ってました。傷を負っていましたから」
『傷を? 実害を与えていたのか、依頼段階では何も被害は出ていないが様子がおかしいという話だったんだが』
「おそらく、ノロノロ依頼を出していた間に父親の霊が実体化するほど力をつけちゃって息子さんを襲っちゃった、のでは?」
『……依頼が来たのは昨晩だったが、一刻を争うものだったか。緊急性を判断できなかったのは、こちらの失態だな。こちらで的確な判断が出来ず、新座くんに全てを任せる形になってしまって……すまない。報酬は、いつもより多めに振り込んでおくよ』
「あっ、僕はいいから、鶴瀬くんの方にいっぱいお小遣いあげてね!」

 僕は大山さんも大きな声でお願いする。休日出勤の鶴瀬くんへのせめてものお礼だ。
 僕の部屋で寛いでいたところの鶴瀬くんは、いきなり自分の話になっちゃって慌てている。相変わらず急な対処に弱い子だなぁ。

「そんな……俺は、その、いいよ!」
「折角久々にお寺から出た休日で『お仕事』しちゃったんだよ! 特別手当てを出すべきだよ、ねぇ大山さん!?」
『ははっ。そうだな、その通りだと思うぞ。ちゃんとその点はきっちりしておくから安心してくれと鶴瀬くんに言ってくれないか』
「鶴瀬くーん、大山さんがキッチリするって言ってるよ。電話代わるー?」
「はわぁ……後で帰ったらちゃんとご挨拶するから今はいいですぅ……」
「だそうです、大山さん。今の声、聞こえました?」
『ああ。という訳で、今すぐ後処理をさせる者達を病院に送る。君達はそれ以上干渉しなくて結構だ。本当にありがとう』

 おっ、なんだか電話先の大山さんが黒電話の受話器片手に頭を下げた気がした。
 『本部』の偉い人なのに、優しくて思いやりある言葉をいくつも言ってくれる大山さんは本当に良い人だなぁ。電話先でやっているだろう姿を想像して、ついつい笑ってしまう。

「どういたしまして。依頼の判別とか大変だろうけど、大山さん頑張って!」
『こちらこそ激励感謝する。……新座くん達が居てくれて良かった。彼らを護ってくれてありがとう。彼らは恵まれている、君のような人が居たんだから』
「……むぐ。照れるというか、なんか痒くなってきたからこの辺で電話切ろうと思います。それじゃあ、失礼しまー……」
『あ、なんだ、依織。新座くんと電話……。って、おいっ、わあああぁ!?』

 突如。渋くも優しい大山さんボイスが絶叫で掻き消される。

「……大山さん?」
『オッス、オラ、依織』

 大人の声は、変声期特有のガラガラな少年声へと変貌し、空気も全て破却された。

「…………。えっと、ああ、大山さんの息子さんの依織くん……だったよね、確か」
『ウッス、その依織でっす。気になったコトがあったんで、親父から受話器を奪い取りました』
「え、えっと……。大山さん、さっき悲鳴上げてたけど大丈夫?」
『軽やかに眠っております』

 起こしてあげてよ!? 重役さんなんだから! ……で、受話器を奪ってまで一体どうしたんだ?

『今回、そちらさんが事件に気付いたのは、新座様の特殊能力である千里眼ぽい何かで、怨霊に虐められている少年少女達を偶然目撃してしまったから、ですね』
「……う、うん。僕の能力はランダムで、いつどこで何を見るか判らないものだけど、誰かしらのビジョンを覗き見することが出来るんだ。今日見たビジョンは家屋の形や窓から見える銭湯の煙突のおかげでね、たまたま調べられる場所だったから特定できて……」
「でで、俺ってば依頼書を元に基礎情報を調べる役目をやらせてもらっているんですよ。仕事がしやすくなるように』
「あ……ハイ、いつもお疲れ様です」
『よいよい、畏まるな。で、被害者や加害者の家族構成とか周辺関係とか調べるんですよ。俺、速読と速記と記憶力だけが取り柄なんで。魔術とか習ったからアレな腕ぐらいは使えるんですけど、結局アレなんですよね。俺って一度見たもんは覚えちまうし、読み忘れることないし、そんなスーパーな俺がいつも資料を作ってんスよ。疑うなら俺の脳味噌に文句をどうぞ』

 そっか、アレでアレなんだ、ドレくらいなんだろ……。そんなに若いのにお仕事してるのは凄いね。
 って、だからどうしたんだ?

『今日収容された少年Aに兄弟なんていませんよ』



 ――2005年12月1日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /9

「新座くん、電話終わった? なんか……事件解決なのに腑に落ちない顔になってるけど。怒られたのか?」
「…………。これから先は、僕達は干渉するなって言われた」

 そりゃ、正式な依頼を受けた訳じゃないから、そう言われても仕方なかった。
 偶然僕が事件を発見しちゃって、調べるのが得意な鶴瀬くんが居てくれたからなんとかしちゃったんだから……ちゃんとした手続きもしないまま事が終わっちゃったらそれでお金を貰っている『本部』が大変なんだって、なんとなく判る。
 どんなにシコリが残っていても、あの男の子と優しい女の子なら大丈夫だと思えば乗りきれる筈、だけど。……。

「むぐ、後処理までちゃんとするのが我が家だもんね。心配はしてない、けど……」
「ほ、ほら! またお茶を淹れたから飲んでくれないかな。気分落ち着けてから、話そう」

 鶴瀬くんがまた僕のお茶を(勝手に)淹れてくれていた。
 うん、お茶、おいしい。秘書に採用された理由の一つになってるんじゃないかってぐらい、鶴瀬くんのお茶はおいしい。

「むぐ……ごめんね、鶴瀬くん。せっかく来てもらったのに、一に中バタバタさせちゃって。僕、いつも人を巻き込んで……騒ぎにしちゃうから……」
「いいって。俺で良ければ頼ってくれていいんだよ。俺達は従兄弟ってだけじゃなく、友達なんだし。……だ、だよね?」
「なんでそこで疑問にしちゃうかな……。僕達は友達! 親友! だよ! むぐっ!」
「……新座くんはいつも大変だけど、そんな中で幸せな生き方を見つけたんだろ? わざわざ苦しい方に向かって、欠点を克服しようとしている。神様が与えた欠点なんて仕方ないって済ませばラクでいられるのに、目を向けて最高を目指している。……それ、俺は応援しているんだよ」
「……むう、むぐううう〜、ありがとぉー……」
「は、はわっ、また泣くのはヤメてくれよー! ほ、ホラ! 俺の胸でお泣き!」
「ありがとぉー……。ぐすっ、ずぴ」
「はわあっ!? スーツに鼻水は付けないでくれよぉ!?」



 ――????年??月??日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /10
 
 ――その進み続けていた努力は、決して無駄なんかじゃないんだから――。

 関節が痛い。首筋が悲鳴を上げて、やっとその体勢が無理なものだと私は気付いた。
 机の前で本を枕にして眠っていたようだ。これではちっとも休めていない。休んでいた方が良いと言われ、私は自室に籠もるしかなかった。
 多くの人に、今の私は気遣われている。けれど、元々大人しくしている性格でない私は、彼らの声に反抗して悪巧みばかりを考えていた。
 休んでいるのは好きじゃない私が、この部屋で何が出来る?
 倒れそうなほど大量に持ち込んで、勉強するふりして悪ふざけ。お山を作って、怒られて、初心に戻って、眠らず本を読む。
 本を読むにも机の前で、声を聴かずに休まず悪ふざけ。そうしてそれを私は実行に移す。
 時折、部屋にやって来た人達に「全然休んでないじゃないですか」と笑われた。困った顔をしてそう言われることが、私の思い通りだった。私は、皆を困らせたくて体を無理していたのだから。

 それでも、ついには悲鳴は大きなものになってきて、負担に私は倒れる。
 無理な体勢で本を読み続けてきたことが、そんなに悪かっただろうか? 別に逆立ちをして読書している訳ではないのに。
 倒れたところを発見されて、私は床についた。普通に出来たことが今の私には出来なくなっている。その現実が、なんだかひどく辛いものに思えて、私は悲しくなった。
 先日までの私は、ちっとも悲しくはなかった。寧ろ、しあわせの頂上にいた。
 やっと登り付いた山の絶頂に、私はいた。長い道のりだった。ずっと上り詰めたいと思っていたお山にゴールして、私はしあわせを感じていた。
 素晴らしい景色だった。私の思い描いた、夢にまで見た景色が頂上では広がっており、上るまでの胸躍る時間に勝る、最上級のものがそこにはあった。
 けれど、元々山育ちじゃなかったから私は家に帰らなければならず、後ろ髪引かれる想いで、山を下りるしかなかったのだ。
 それは当たり前のこと。登って、上って、辿り着いて……最期には下る。登山には当然のこと。いくら山の景色が綺麗だから、大好きだからと頂上に居続けることはできない。

 人は、本当にその景色が好きだったら永住するものだろうか? 私はそうしても良かったと思っている。
 けれど、そんな馬鹿なことをするなと多くの人達が非難した。単に早く帰ってこいと言う人達もいたし、頂上は危ないから帰ってこいと心配をしてくれる人達もいた。もちろん、お前は頂上にいるべき人間じゃないよ、と言う少々冷たい人達だっていた。口を揃えて、山から下りてこいと皆が言う。
 何より、あの人が山を下りろと言った。
 しあわせをくれたあの人が。
 長い時間かけて、一生懸命上った山。登りついたらみんなが帰ってこいと大合唱……。

 ――ねえ、私はしあわせなんだよ。ずっと見たかった景色があるんだもの、ずうっとしあわせに浸っていたいと思うのは当然だと思わないの、みんな?

 解ってくれる人もいた。けれど、『そういう人に限って』早く帰ってこいの声は大きくなった。
 みんなが頂上の永住を反対する。そんな大勢の声があったせいで、私は山を下りた。『しあわせ』の山から、一歩ずつ、下っていくしかなかった。
 登るのって大変なのに、下るのはひどいぐらい簡単だった。坂道で加速がついたのか、駆け足になる。とっとっと。あっという間に転がっていく。足を踏み外したらきっと数秒で落ちていくんだろうな。だって、登るのにあんなに苦労した山だもの。落ちるのは、とても容易い話。

 その登山があったのは、もう何日も前の話。あまりに周りの「出ていけ」「帰ってこい」コールが酷くって落ち込んだこともあるけれど、今では登り切きったという充足感はある。
 それだけで意義があったものだと思い留めた。あの記憶は素晴らしいものじゃないか。下りきってから賞賛する人だっているぐらいだ。

 記憶は美しいものになる。賞賛されれば余計にだ。
 あの険しい山道も、やっと辿り着いた頂上も、そこで広がる景色も、何もかもが美しい。間違いなく美しい。また山を登りたいなと考えることは、沢山あった。今だってある。
 けれど、一度目の登山で体力を使い果たした私には無理な話だった。
 もう一度、あの険しい山に挑むには、体も心も今以上に悲鳴を上げる。
 ただでさえ『今』だって悲鳴を聞いているんだ。無理を言うな、と私は私に訴えた。山を登り抜いた私は、記憶だけじゃない素晴らしいものを手に入れたのだから。さあ、満足しよう。

 ――痛い。
 ――痛い痛い。
 ――痛い痛い痛い。

 素晴らしい想い出を手に入れた私のもとへ、苦痛までプレゼントされた。
 山登りが急な運動過ぎたのだろうか? 体中に痛みが走る。吐き気がする、何も動きたくない……。
 今日も自室に籠もって、私は体力の回復を待った。帰って来いと言った皆も、自室で休んでろと言ってきかなかった。
 頂上に登り付いた私に待っていたのは、しあわせの苦痛。
 関節が痛い。所々が痛い。おなかもいたいしあそこがいたい。
 痛いけど、やっぱり私はしあわせだった。しあわせを得るためには痛みが必要なのかと、私は彼より長く生きていたが初めて知った。

 ――ああ、それもしかたないこと。あのけしきをみた私にはこれぐらいよそうしていたことでしょう。しょうじょから母になったんだから。

 しあわせの後に痛みが生じ、痛みを感じきった後に私はしあわせを……『抱く』。
 抱いて…………ああ、やっぱりこの苦痛は素晴らしいものだと……感じた。感じ続けた。そうしなきゃ。
 登山した後の『頑張ったで賞』。手にしたとき、とても嬉しかった。やっぱりあの登山は無意義じゃないんだなぁと思えて、嬉しくて堪らなかった。運動会でも出場することが大切なんだと思っていたけどそれはそれで、やっぱりご褒美が貰えることが嬉しかった。そこだけは私は子どもだったのだ。

 ――おとなだからあんなことしたんだけれど。なかみはやっぱりこどものままで。彼をおいもとめたけっかで。

 素晴らしい時間を過ごせることも良かったけど、甘い飴玉を貰えることも良かった。
 ああ、どっちもしあわせ。私は手にしたご褒美を抱く。
 抱いて、愛でて、大切にする。大切に大切に撫でて、愛して、抱いて、……景色を思い出す。
 この抱いたしあわせと、あの景色を見たしあわせ。どっちが良いとかは私には決められない。景色の先に貰ったしあわせだから、二つは同様?
 いや、手元にあるのは一つきり。どっちもいっしょだとは言えない。手近にあるのは、この腕の中にあるものだけ。それだけを手にしてしまったこの結果は、何だろう?
 それが勝っていたとは、私は言えない。この彼が劣っているとも考えたくない。私には、どっちも必要で、どちらも素晴らしいものには変わりなかったのに。
 今は無い景色。手に入れられなかったもう一つのしあわせ。二つあったのに一つのみ。一つは、無駄なものだったのか。無意味なものになってしまったのか。
 いや、いやいや、無意義など、考えるな。一つだけでは飽き足らない欲張りな私、けれど私は一つでもいいじゃないかと訴える。
 景色とご褒美で二つじゃなくて、記憶とご褒美で二つにしよう。そうすればどっちも二つ。両手にしあわせを持って、ほら幸せ。

 ――でもやっぱり、あの景色には到底及ばないのですよ。欲張りな私をあの景色は迎えてくれた、美しい記憶でなく美しい現実。その素晴らしさにこの子は勝てるのでしょうか……?

 黒い想いに潰されそうになって、私は嫌になった。
 私のことが。

 関節が痛い。机で本を読むにも、私は悲鳴を上げるようになった。決して悪ふざけなんてしていないのに。
 手に本を持って、読み始め、それでまだ数時間、けれど悲鳴に勝てなくなった。私は苦笑いした。
 ふと隣に目やれば、倒れそうなぐらい積み上げられた本がある。
 ああ、なんて懐かしい。それは私が大昔に悪巧みでやったことと同じだ。そんなに積み上げるのはやめろと言われたものだが、彼はもういない。それぐらい時間が経った。
 ちなみに本のお山は私が作ったものじゃない。かつて同じことをしているのは……一生懸命な、ひとりの少女だった。

 ……危ないな、崩れて痛い目に遭ったらどうする。

 その言葉を思い出すが、私には口に出せない。
 アンバランスに詰み重なれたその本達を、少女はまだまだ積み上げている。一冊、一冊と、慎重に、慎重に。
 彼女が最高を作り出したとき、それはどれほど素晴らしい景色になるだろう。努力して絶頂に上り詰めようとしている懸命な彼女に、私は口を挟むことは出来なかった。

 ……崩れて痛い目に遭ったら、只でさえ痛いのが倍増する、それは嫌だろう?

 彼は、私を気遣ってそう言ったんだった。ちょっと苦痛に倒れかけた私に向かっての、優しい言葉。
 帰れコールのひとりだった彼は、本当に心配そうな顔でそう言ってくれたのをよく覚えている。本が崩れて、もし積んだ本人に襲いかかってきたら痛いだろうと。
 でも、そのときの私は、自分で努力して襲いかかった痛みなら乗り越えられるからと答えた気がする。
 その答えを、私は、黒い想いを抱いたときに思い出した。
 自分で言った言葉を、自分が襲いかかられたときにハッと思い出した。
 ならば最初から判っていればいいのにと思うけれど、そこまで人間は器用じゃないらしい。それに、どう見ても私は器用な人間じゃないし。
 だから、私は少女を止めはしない。彼女なら、私と同じ考えであるだろう。解っているだろう?
 私は、一番最善の道を通った訳じゃないのはよく解る。
 けれど、間違った道ではないのもよく知っている。
 私の子。彼女の父。彼の血。それが、どんなに素晴らしい『しあわせ』のご褒美か。

 彼女の身長ほどになったところで、本の山はばさばさと翼が生えたかのように崩れ去った。
 直撃を受け、彼女は悲鳴を上げる。けれど、その声もその表情も、しょんぼりと落ち込んだ様子ではない。その倒れた山も楽しむかのように、少女は笑っている。

 ――ああ、やっぱり。そんなヘコたれないところが私の孫なだけはある。

 私が起きたのに気付いてこちらを見る彼女に、私は笑うしかなかった。つられて、笑う。こんなよくあることを、私は改めてしあわせに思う。
 その進み続けることの努力は、決して無駄になんてならないから。

 この現実を絶対に歪めはしない。



 ――2005年4月16日

 【 First / Second / Third / Fourth /     】




 /11

 今日のメールチェック。返すべきメールを送信し終えて、携帯電話の画面をメニューに戻す。
 4月。その日付とともに部屋の大荷物を見るのは、二度目だった。

 2005年3月の終わりに新座くんは失踪した。
 一週間後には志朗さんの手によって発見されたけど、新座くんが実家の寺へ戻って来ることはなかった。
 桜が咲き始めた時期に志朗さんはわざわざ寺に戻ってきて、正式に新座くんが家出したことを告げた。電話での連絡でなく、志朗さんが自ら赴いて『本部』の人達に訴えている姿が、彼の真面目さと優しさを思い知らしていた。
 そんな優しさに気付くのはごく一部。志朗さんはその場で糾弾されていた。
 「新座様の居場所も知っているくせに何故そのままにした!?」「早く連れ戻してこい!」などという声達がいくつも彼に襲いかかる。でも志朗さんは平気な顔で、非難されることに慣れてしまった顔で……その声をかわし続けていた。

「鶴瀬。お前が、『最後に新座を見た』奴なんだって?」

 ひとまず圧力から解放された志朗さんは、俺の私室にばばっと入って来てそんなことを尋ねた。
 4月の夜、初めて本家に『俺の部屋』を用意してもらって、まだ荷物があちこちに散乱している、そんな引っ越し初日のことだ。しかもその時は着替えの最中で、ナイスタイミングなんだかバッドタイミングなんだか、恥ずかしい姿で居るときに志朗さんは現れた。

「新座はどんな顔をしてた?」

 俺がパンツ一丁でもフンドシ一丁でも顔色一つ変えず、はわはわ言っていても構わず、志朗さんは新座くんの話をする。
 寝巻に着替える時間だけは待ってもらって、俺は彼を改めて部屋に招いた。

「そのですね、新座くんの様子は、えっと。あのときは家出するなんて思いもしなかったので……でも違和感はありました。思い詰めていた顔をしていたかもしれません。やたら笑っていましたから」
「笑ってた? それっていつも通りじゃないのか」
「はい。確かに新座くんはいつだって笑っている人ですね。でもあの日は……無理して笑っているなって俺でも判ったんです。滅多に寺に来ることなかった俺が、ですよ。……それが新座くんを見た最後だったなんて」
「……お前と別れるまで、新座はどうだったんだ」
「雑談をしただけですよ。でも、なんだろう、どうでもいいことにやたら笑っていたんですよね。今思えば……『怪しいなんて思われないように』演技していたのかもしれません。家出すると決めたからには演技を貫き通そうとしていたんでしょう。……そんなにここに居るのが嫌だったのか。相談してくれれば良かったのに」
「鶴瀬は新座以上に嘘がつけないから、相談したらそのまま上の連中に告げ口するだろ」
「み、密告なんてしませんっ。そんなに俺、頼りないですか?」
「そうじゃない。報告しなくても、お前が慌てる姿を見たら周囲の連中が勘付くだろ。ああ、お前はぼーっとしてるけどそんなヘマはしない奴だって判ってるよ。……お前が相手じゃなくても、周りを騙すために演技に徹していたんだな。俺も新座も鶴瀬が告げ口しそうだからとか頼りないとか思っていないから、安心しろ」
「はい……。俺、仕事が慣れてきたらそのうち、新座くんに帰ってくるよう説得しようと思います。その、実家に帰ってこられないのって、悲しいことですし。俺が当主様と新座くんの橋渡しになれるように……」
「頑張れよ。鶴瀬なら出来るさ。出来ない訳がない」

 その後も俺に対して丁寧にフォローしてくれる志朗さんを、改めて「噂通りのお兄さんなんだな」と感心した。
 頼りになる人だと思ってた。素っ気ない態度に見えて面倒見が良いことも評判になっていることは知っている。彼は弟の新座くんを第一に考え、今もこうやって新座くんのことを知りに出回っている。新座くん至上主義だとみんなが言ってるけど、彼は『みんなに優しいお兄さん』だ。
 これで神の運に見放されていなかったら、最高だったのに。
 そこまで考えて、俺は首を振った。余分なことを考え過ぎたからだ。

 ――志朗さんには、直系に相応しいだけの力量が無い。
 当主の次男だというのに、継承権で力の源にもなる刻印を持って生まれなかった。現国王の実の息子だというのに、王様になる権利は無いのがこの人だ。
 だから彼は、一族の抗争には相手にもされない。でも彼は誰からも信頼される優しい平民。……特別な血も引いてない単なる平民の俺から見れば、とても輝かしい存在だった。

「鶴瀬。新座は、笑って、最後に……お前に何の話をしたんだ」
「…………今ここに俺が居る理由をくれました」

 露骨に苦しい顔をしてしまったせいか、志朗さんは「話したくなければ話すな」と言ってくれる。優しすぎるなと思いながら、俺はゆっくりと思い出していく。

「志朗さん。今日、俺が仏田寺に引っ越してきた理由はご存知ですか」
「…………。そういやまだ言ってなかったな。『社長秘書就任、おめでとう』。4月から新生活を始めますと聞いたときはギャグかと思った。お前はお巡りさんで頑張ってると聞いていたから」
「あはは、お巡りさんですか。あれもまた天職だったと思います。俺が警察組織で活躍できたのは、邑妃様……志朗さん達のお母様が応援してくれたからです。感謝しています」
「鶴瀬は子供達を守るヒーローになったって、新座がよく話していた」
「ヒーローだなんて……。あの頃は『これで安泰だな』って能天気に思ってたぐらいですよ。あのコネ入社からもう数年経ちました。あのときは毎日テンパってたなぁ、あんなにあっさり就職が決まるとも思ってなかったんで。俺は運は悪い方ではなかったですからね。でも、また4月に新社会人を始めることになるなんて……二週間前の俺は考えてもいませんでしたよ」

 着替えの後、即行淹れたお茶を飲み、話をしていた。
 溜息をつきながら昔のことを考えながら。そう古い話ではなかったけど、ぽつぽつと想起していく。

「すみません、余計なことまで話し始めるとこでしたね。……新座くんはあの日、こう言ったんです。『鶴瀬くんは出来る子だから、僕がいなくなったら僕の後釜、絶対鶴瀬くんになるよね』。……はわ、これって今思えば、『自分は今の立場からいなくなる』って言ってるようなものですよね。おかしいとは思ったんです、けど、その、新座くんが『出来る子』って凄く褒めてくれたんで、舞い上がっちゃってたんですよ。俺、褒めるとすぐ機嫌が良くなるんです。お恥ずかしい」
「その後、新座は家出した。そして、当主様の右腕の空きが出来たから、お前が入ることになった……と」
「はい。幸い、俺は当主様には気に入られている方だと思います。奥様である邑妃様と何度もご一緒する機会がありましたから。それに3月にも力添えのために本殿にお邪魔していたところでした、そのときにも『何かあったら力を貸してほしい』と言われていたんです。……が、まさか言われて二週間後にこんなことになるとは」
「なんだ、当主様に二週間前から『お前が欲しい』って言われてたんじゃないか。既に予兆はあったんだな。優秀だな、お前は」
「……は、はわぁ……」
「ぼけっと笑うんじゃない」
「はわっ!? ぼ、ぼけてませんっ!」

 ムキになって言い返すが、彼はクスッと静かに笑うだけだった。
 そうして志朗さんは部屋の襖を開ける。話が長くなり始めてきたので、彼は気を落ちつけるためか煙草を吸い始めた。いつの間にか彼の手には携帯灰皿があった。抜かりが無い。

「鶴瀬。お前は、一族にとって部外者だ」

 その話の切り出しは、唐突だった。
 暫く煙草を吸い、呼吸を整えた志朗さんが、冷たい事実をそのまま述べる。

「……はい、そうです」
「たとえ当主の甥っこであろうが、母方の血じゃ当主とは無関係。お前は仏田一族の血を引くことはなかった。どんなに当主に可愛いがられていようが、『ここ』は同じ血で固められた王国。……その国王に仕える大臣に、何も偉くない部外者を起用すると思うか?」
「……普通は思いません」
「新座はお前が優秀だと言った。確かに鶴瀬は真面目だし、警察での成績も良かったろう。能力者として異能を操ることも俺は知ってる。……けど、この一族に求められている『血の濃さ』なんてものは、お前は一切持ってない」
「その通りです。ですが、俺は一族の一員になるよう『契約』をするつもりです。もう『手術』の日程も決まっています」
「当然の流れだ。……でも、わざわざ手術して契約させてまで、無能なお前を取り入れる理由があると思うか?」
「……俺には、判りません。新座くんが『後釜を継げる』と言っていたのは、正直お世辞だと判っているつもりです」
「無能なお前を取り込む理由、あるんだよ」
「…………。えっ。はわ、そう、ですか?」

 決意表明の最中、どう反応していいか判らないことを言われ、俺は固まる。
 どういうことでしょうと目で訴えると、彼はまた暫く黙って言葉を選んでいた。
 志朗さんは、とても優しく頼りがいがあって、気遣いが巧い男性だ。その評判は何回も聞いていた。けど、他にも志朗さんには別の評判がある。
 それは……『新座くんのこと』に関しては、レベルの違う優しさを見せるというものだった。

「鶴瀬。お前は、新座と仲が良かった」
「はい」
「それが理由だ」

 …………。

「『本部』は、新座が外に出ることを快く思ってない。反対している。反対どころか、強制的に戻そうとしているぐらいだ」
「新座くんは、直系の王子様です。そんな彼が家出してしまったんです。皆さんが慌てるのは当然です。彼が外界に出ることで、もし勝手に子供を作って、血をバラまかれたら、この一族の努力の成果が流出してしまう。血が何よりの宝なんですから、もしもがあっては困るでしょう」
「お前、『本部』と同じこと言えるんだな」
「は、はわ」
「無能なりに優秀だな、契約して正式に一族の一員になれば最高級の扱いをされるだろう。絶対に当主の右腕に相応しい男になる。……でも、所詮お前は部外者なんだよ。どんなに有能な影武者になっても、血が第一のこの国では王子様の代わりにはなれない。そんな優秀なお前が力を得る。お前が力を得てなんでも出来るようになる。そんなお前が……仲良しだった新座を説得し、『本家』に引き戻すことが出来れば、正統な血は戻って来るし優秀な駒も手に入れられる。最高のシナリオになるだろうな」

 …………。

「どこの誰かは知らない、どっかの分家の中途半端に血を引いた能力者が新座を強制連行することも、悪くないだろう。でもそれよりは、優秀な無能を真の優秀に改造して従者に仕立て上げて、わだかまり無く新座が帰ってくれば……みんながみんな、得になるんだ」
「そうですね」
「お前はどうせ、時が経てば優等生になるんだろう? 中途半端を『本部』に入れなくて済むし、優秀な鶴瀬を引き抜くこともできる。新座もあっけらかんと実家に帰ってこられるようになれば、誰も損しないな。……そういうことだ、鶴瀬。せいぜい『本部』の気に入られる優等生になれ」

 志朗さんは嫌味を言っているつもりはないらしい。ちっともそんなことをする気はないようだ。
 俺も、志朗さんの言葉に反発しようとは思わなかった。彼の言う通り、俺は優秀になるつもりでここにいるんだから、今更気が変わることはなかった。

「言われなくても、俺は優等生になりますよ」

 野心が抑えきれず、ついそう彼の前で言ってしまった。

 ――俺は、出来る限り上に昇りつめたい。それは常々思っていることだ。

 数年前、警察組織にコネ入社させてもらって、それでも本気の実力で頑張って、若いなりに成果は伸ばしていた。数十年、順調に行けば偉い地位にいけただろう。
 でも今、俺は仏田一族に引き抜いてもらった。非常に感謝している。それは今までよりラクして儲けるとか、財布の問題じゃない。
 日本で退魔の一族として大きな地位に居座り、人知れず脅威から人々を守る能力者の一団。その中にいることを名誉に思っているからだ。同じ人々を守るヒーローでも、昔から表側より裏社会の方が惹かれていた。それは大いにある。
 内部のゴタゴタに巻き込まれるぐらい、覚悟していた。だいたい警察組織だってそんなものは昔から小説や映画のネタにされている。古い一族である仏田家でもその抗争があることは、母に言われていた。それに母も叔母も、かつてはそのゴタゴタの中心人物だったじゃないか。
 息子の俺がその舞台に上がるのは、必然的だったかもしれない。

 向上心は常に持っているつもりだった。
 そんな野心家の俺に、『従兄弟の新座の家出』なんていう、至極個人的なことで転機が訪れた。俺は今の状況をラッキーだと思っている。新座くんには感謝しなければならない。
 さっきは「能天気に就職した」なんて言ってたけど、そんなの俺の性格からして嘘に決まっている。
 前の職場だって、俺は上を目指して、偉くなるためにオオゴトな職場を選んだんだ。コネという最大の武器を行使して手に入れた職業だった。
 そして今は、三年間の優秀さと従兄弟というコネを使って、退魔の一族のトップの右腕という地位を手に入れることができた。
 部外者の俺が、だ。
 これはもしかしたら、更に上を目指せるかもしれない。
 この二週間、のうのうと暮らして来たつもりはなかった。周囲に好印象を与え、数分事に呑気な顔を見せ、油断にさせうつつも信頼を得た。これからを過ごしやすくするためにひたすら頑張ってきたんだ。

 ――上を目指す理由は、特に無い。ただ、下にいる理由は無い。それだけだ――。

 そして手に入れた、一族との契約への道。俺は堅実に、『本部』の顔を見て成長していくつもりだ。
 たとえ『本部』が俺の予想をしないシナリオを描こうとも。

「志朗さん。ご心配してくれてありがとうございます」
「いや、俺は新座の心配しかしていない」
「それでも俺には新生活に不安がっているところを応援してくれたことが、明日も頑張ろうっていう気になれましたよ。俺は新座くんとずっと仲良くしていくつもりです。これからも彼と仲良くするためにも、俺が新座くんが住みやすい場所を作ってあげますよ」
「それはありがたい」
「はい」
「鶴瀬」
「はい」
「お前がどこまで嘘を言っているのか知らないが……。いや、お前は本当のことしか言ってないよな。すまん」
「はい?」
「とにかく、お前がどこまで本気か知らないけど。……新座を傷付ける奴らにお前が仲間入りしたら、俺は迷わずお前を潰しにかかる」

 …………。新座くんが大事、これは嘘じゃない。本当。
 少しでも優秀と思われるように頑張ること、これも嘘じゃない。本当。
 新座くんを優しく連れ戻そうというのも、ちっとも嘘じゃない。本当。
 どれも本当で本気なのに。志朗さんはいきなり話を飛躍させて、俺に何を言っているのだろうか。

「…………。はわ、恐ろしいことを聞いてしまいました……俺、やっぱり信頼されてないんですね」
「すまん。お前が出世することは応援してやるし、俺も従兄弟として協力してやるが。もしお前が新座を『単なる土台』としか考えてなかったら……判るな? 俺は王にはなれなくても、お前を引きずり落とすぐらいの権力はあるんだ」

 そんなことを志朗さんは俺の顔も見ずに言う。開いた襖の先、外を煙草を吹かしながら見ていた。
 ぞくり背筋が凍る。ちょっとだけ怖かった。それぐらいで俺は怯む人間ではなかったが、注意されたことを素直に感謝し、彼を見る目を変えることにした。

「御忠告ありがたいです」

 ――彼への媚びの売り方は、もう少し穏やかなものにしよう。
 新生活一日目で知ることができて本当に良かった。失敗はしない。そんなものしない。
 ただ、自分の甘さにだけは注意しないと。それだけが気がかりだ。



 ――2005年11月20日

 【 First / Second / Third / Fourth /     】




 /12

「あうあうあー。酒がきれたー。うあー、手術に酒全部持っていかれるとはよー。酒飲まなくたって失敗するときはするんだから、飲ませてくれたっていいじゃねーかよー。……んで、依織。今日うがうが言って改造人間にされたあの男は誰だい?」
「鶴瀬正一。生年月日は昭和52年1977年7月28日木曜日。血液型はO型。邑妃様の甥っこ。肉が好きだってよ」
「へー、俺は名前さえ聞ければ良かったんだけどさー、そんな情報いらねー。肉好きねー。よしよし物知りな依織ちゃんを撫でてやろう。よしよしよし」
「やめてそんな優しく撫でられたら恋が芽生えちゃう! 俺達兄弟なのに禁断ラブスタート! KINDAN☆LOVE! カミングスーン!」
「ええ? 頭が撫でると恋が芽生えるのかよ? 不思議な体質だねぇ、お前も改造されてこいやぁ、よしよしよしー!」
「やめてぇー妊娠しちゃうぅー! いやぁ、オデコはイヤー! らめぇ出さないでー! ちなみに鶴瀬の好物は肉スープぅー!」
「肉スープ? 豚汁とか? けんちん汁とか? ……まっ、男子は基本的に肉食だけどな。肉嫌いな奴ぁそういないだろ。俺もぼんじりの唐揚げとか超好き。酒のつまみとしては最高ね」
「芽衣兄ちゃんは酒をかければなんでも最高って言ってねーか?」
「おうよ、酒のリゾットなんてあったら俺天国だね。米に酒入れるだけだけど! つーか酒はなんでも合うよ、アルコールの香りがたまんないね、あの香りだけでなんだってイケちゃうよ」
「…………芽衣、依織。休憩は終わりだ。患者のところに戻らんか」

 辛気臭い声を聞いて、俺達ハートフル兄弟は振り返る。
 振り返っても声の主の顔がチェンジすることはない。予想通り、眼鏡が似合う悟司様が忠告しに突っ立ってるだけだった。
 眼鏡が似合うと言っても悟司様は眼鏡しかアイデンティティが無いぐらい醤油顔だけど。悟司様はいつまでも俺達ソウルフル兄弟がギャースカ喚きながら作業をしているのにうんざりして忠告してくれたらしい。なんと心優しきドS!
 でで、弟の依織は悟司様に声を掛けられて数分後、ビーカーの水溶液をぐるんぐるん勢い良く回し、事を終えた。
 薬の調合は時間が掛かったが確実に終わらせたようだった。俺もすり潰した粉薬を決められた紙袋に決められた量だけ包んで、一週間分ほどラッピングしてやったら、ようやく悟司様のお言葉通り患者の部屋まで戻ることができた。

「あー? 依織、アンプルの数ちょっと多くね?」
「いいんだよ。患者に出すのはコッチ。コッチのアンプルは、タマにプレゼントすんだ」
「んあ? ……玉淀ちゃんってまだクスリ飲んでたんだっけ?」
「あーよ。クスリ飲まなきゃ異端化してギャーして死んじまうっていうのに、『にがいのヤー! あまいのつくってー!』って言ってきやがるからこのザマだよ! だから俺ってばメロン味を作ってやった! カカカ、食後のたびに舌が緑になるがいい! 何を食べても『あ、あの人、こんな時期にカキ氷食べたのかな?』って思われるがいいー!」
「玉淀ちゃんは昔から不安定だったからなぁ。反転とか異端堕ちがありうるかもって検査のたびに言われてたからなぁ」
「そんだけ才能があって優秀ってことさ! 流石俺の親友。流石俺!」
「普段はぽややーんってしてるけど、感情起伏超激しくってよく鬱中の鬱になってたねぇー。……あんだけ嫌っていたのにクスリをちゃんと飲んでくれるようになっただけ進歩かぁ? ……で、メロン味なら飲むん?」
「前回はナタデココ味を作ってやったぜ!」
「依織、お前天才だなっ! そんなの作れるんだ!」
「嘘だ!」
「なでなでなで」
「らめぇー! 孕んじゃうぅー! スイカ味ぃー!」
「ワオ、スイカ味でも作れればスゲー方だよ。さっすが依織。俺の弟。弟の才能の良さに改めて嫉妬。なでなでなで」
「よくやったねご褒美あげる状態!? らめぇーっ!」
「…………はわ、すみません……少し静かにしてもらえますか……」

 キープアウトブラザーズボイス。
 患者の部屋でいつも通りのスタンダード兄弟プレイをしていたせいか、患者の鶴瀬が寝たまま苦笑いで苦情を訴えてきた。

「すまねー、武士の情けだ」
「……はぁ……?」

 ここは和室にベッド。ミスマッチでミステリアスな部屋だ。一族の敷地内にベッドが置いてあるのはごく稀。ここはそのレアルームの一つである。
 何故にこの部屋がベッドであるか。その理由は、ベッドの方が掃除がラクで、拘束がしやすいからだった。
 現に今の患者はベルトで四肢を拘束され、錯乱しても自分の身体を毟ったり誰かを襲ったりはしない。ついさっきまでそうしかけたけど、現在は興奮が治まったのか落ち着いた声で俺達ヒートフル兄弟に話し掛けられるぐらいになっていた。
 まだ二日目じゃ洗ってないシーツに鮮血が飛び散ってる。ベルトが強い子で良かった。
 血に宿命が定められているこの世界、血を全て我が家のものにする手術には……大事故がつきものだった。でもこの契約によってどんな部外者だって我が家のパーツとなる。

「さて。名前は言えるかい、鶴瀬くん?」
「……先に答えを言っちゃってますよ……。はい、名前は、鶴瀬正一です……」
「誕生日は?」
「……7月28日。昭和、52年です」
「バカッ、芽衣様の誕生日を答えるんだよ!」
「はわっ!? そうでしたか!? すみません存じ上げません!」
「嘘だ、お前の誕生日を言うのであってる。……依織、生年月日に間違いないな?」
「うん。バッチリだぜ兄ちゃん。さあ何時何分何秒に生まれたか答えられたら褒美を取らせよう!」
「ぞ、存じ上げません……」
「俺が知ってるのに知らないたぁ何事だ!?」
「はわぁっ!? 知らなくてすみませんそしてなんで知っているんですか!?」
「あったりめーよ! 記録されたことは全部頭に入ってる。それが俺、依織サマよ!」
「…………はぁ……」
「んじゃ、これから本題いくぜ! いおりんクーイズ! てめー、体調はどうなんだ? シャッキリ答えろよ、喉掻き毟ったりしたかったり目ん玉くり抜きたかったりしねーか?」
「……今のところは。先程よりは落ち着きました。なんともないです」
「フムフム。術後、まだ四十八時間しか経ってねーんだ。無理もない。……つーことはアレか、俺達も酒絶ちして四十八時間か……いや、依織はまだ未成年だからいいとして。とにかく、まだ体が熱いだろうが鎮静剤だってまだ拒否反応出るの怖くて使えないんだ。根性で落ち着けろよ」
「……はい」

 俺達ナイスガイ兄弟に次から次へと話されて混乱していた。無理もない。俺達相手だもの。いや、そうじゃなかったな。
 『一族との契約』。絶対服従の契約。血を書き換える手術。……当主様の血を飲み、契りを果たし、無事我が一族として生まれ変わったこの男は四十八時間、苦悶の時間を過ごした。それから目覚めて数分しか経ってないんだ。無理もない。
 一族とは関係無かった人間の血を、我が一族のものにしたんだ。
 血が全ての情報を持っているこの世界で、流れる血を一から作り直すような手術。仏田に仲間入りするために、元からの体を残しておきながら一族になるという大手術。体に流れるものが変わって拒否反応を起こし、全身ビクビクさせて面白いダンスを踊ったまま死んじまう奴もいるぐらいの大儀式だった。
 この寺に住んでいる僧や女中など『元 部外者』達は、みんなこの手術に成功した奴だ。お仲間入りする前にお陀仏になっちまった奴もいた。そう言った方々は丁重に葬らせて頂いた。
 まあ、結構大イベントだったんだ。それなのに意識を取り戻して会話が出来るぐらい回復してるんだ、大した奴だ。少し優しくしてやった方がいいかもな。

「さっきテメーが昏倒してたときにチェックさせてもらったんだけどさ。手首のところに痣が浮かび上がってた。仏田の刻印ぽいのが出来てたから、テメーは大したもんだよ。一族の仲間入りどころか、いきなり殿堂入りじゃねーか。テメー、運が良すぎるだろ」
「……えっと、それは……?」
「当主様の血を飲んで契約すれば、一族の仲間には入れる。その後、手術をちゃーんとして改造すれば正式な一員にはなれる。……正統な一族である証の刻印が体に生じるのはまずない。刻印ができたっつーのはな、王様になれる権利ができたってコトなんだぜ?」
「……はわ……それは……凄いことですね。ラッキーだ……」
「へへ、四十八時間悶絶した甲斐があったなぁ?」
「ええ……苦しみ耐えた甲斐がありました……。仲間になるだけだったらすぐ終わったところを、本当の仲間になるために……苦しみに耐えた甲斐があったものです」
「あー、スゴイスゴイ。じゃあ次のチェックいこうか……」
「兄ちゃん。待って」

 おや、チャーミングな依織がストップをかける。
 あらまあ、そのお顔はシリアスに彩られている。さっきまで「らめぇ」だなんてふざけて泣いていた顔とは全く違うものだった。良い作画の顔だ。

「鶴瀬。訊きたいことがある」
「……検査ですか。なんでしょう?」
「いや、単に叩きのめすだけ」

 依織は改まり過ぎな声を出して、患者を威嚇しているようだった。
 突拍子も無い発言は弟の専売特許なので、俺は口を挟まないことにする。

「テメーは一族の仲間入りを果たした。めでてーな。それは同時に、一族以外のものから飛び出したことを表わす」
「……ああ、前の職場を辞めたという話ですか? 確かに俺は3月に……」
「ちげーよ。俗世から飛び出してうちにやって来たってことさ。……『ここ』はさ、山の中で色んな研究してることぐらい知ってるだろ。『神様を作る』なんていう研究をさ。全知全能を作るっていう研究。外で暴れてる連中を金で倒してやっているけど、そんなのついでだ。『本部』は、みんな研究の為に動いてる。研究の成果が血で、血のために研究をしている。それぐらい入って来たテメーは知ってる筈だ」
「はい、勿論です。まだ判らないことだらけですが、そこは勉強してきたつもりです」
「これから神様の研究と、金儲けの幽霊退治と、子作りに一生を費やすんぜ。ホントに判って我が家に入ったの?」
「はは、覚悟が出来てるかと訊かれているんですかね。それでしたらとっくの昔に出来てます。覚悟が無きゃ裏社会なんて足を踏み入れませんよ……」
「じゃあなんで外に恋人を作っておくかな」

 バッ、と。
 拘束されていない首が、依織の方を勢い良く向く。……さっきまで「はわわ〜」の笑っていた顔は無い。あ、面白い顔。面白い反応。身動き出来ない人のプライベートレイプってゾクゾクするね。
 知的強姦者め。弟のクセにステキ。

「外に想い人なんて作っておくなよ。昔からいるならさっさと別れろ。でもってこれから先、作んな。……こんなことガキの俺から言われるなんて、覚悟できてねーみたいなもんだろ」
「……俺の周辺調査、されてしまいましたか」
「『本部』の連中はしてねーよ。気が向いたらする連中ばっかだけどな。俺が携帯電話を勝手に見ただけだ。メール履歴と電話帳しか見てねーよ。文章からしてアッチッチってのは判ったぐらいさ。……そうだ、四日前もメールしてたな、テメー。この寺に入ってからも連絡取り合ってるなんて、大したアッチッチだよな? 羨ましいことだぜ。だから俺から『別れよう』ってメールしておいたから。ちゃんとアドレス削除しておいてやったぜ。……どーした?」
「…………そ、そうですか……お心遣いありがとうございます」

 おやおや、強がっていた顔がボロリと変わる。
 「そんなことされたくなかった」と言わんばかりの顔が露骨に現れる。
 こうなることは予想出来なかったのかね。前の職を何してたか俺は知らないが、仕事で私生活を拘束されるまではされていなかったらしい。
 ところがどっこい、『ここ』はそんなこと、カンタンにする。
 全は一の為に、一は全の為に全てを捧げなければならない。公私の私なんてものはないと言っていいのに。……『ここ』で生まれ育った俺達はそう言いのける。
 それにしてもこの男、偉いなぁ。依織がそんな横暴なことをしても怒り狂うなんてしないか。大したもんだな。まあ、もし怒り狂って暴れでもしたら、覚悟なんてしたつもりで出来てなかったってコトで笑ってやるけど。
 でも、勝手に『自分の築いた関係』を打ち切られたことには、ショックは隠し切れていないようだ。あれれ、もしや従順にしてれば少しでも自分の思う通りになると思ったか? そこまで調子に乗ってはいないだろうが、似たようなもんは感じていたか。

「大依織様からのアドバイスー! 仏田家訓そのいち、その恋人が女だったらさっさと結婚して子供を三人産ませてしまえ。そのに、男だったら契約して配下にしちまえ。そうすりゃいくらでも恋人作っていいだろうから。これ、覚えておけよ」
「……はい」
「なんだい。折角ご指南してあげたんだからもっと尊敬の目で見つめてくれても構わないんだぜ? キャ、依織様ステキ、撫でてって言ってくれても構わないんだぜ? 別に言わなくてもいいんだけど。まあこの話はこの辺でいいや。……でもさ、もう一度言うけれど」

 優しいことに、依織はもう一度アドバイスを要点まとめて言ってやった。
 コイツ、なにがあった。

「上の連中は絶対。血には逆らうな、従え。外の連中は全員敵。……そう洗脳され尽くせば、外に縁なんて作りたくなくなるよな? それ覚悟で来たんだろ? じゃあ倣っとけ。もう未練なんか作るんじゃねーぞ」
「……はい」

 ホント、弟に何があった。
 ああ、そっか、判ったぞ。単に依織の奴……『本部』になりうるであろうこの男にコネを作りたいだけか。自分が上へ上へ成り上がるための恩を売っておきたいだけか。計算してたのか、憎いね。流石ここは下剋上ワールド。
 でも恩というより仇を作ってないか? 警戒されてないか? この天才は実にバカだねぇ。
 そこが可愛いから愛い奴だ。

 ……その後は、ちゃんとした患者体調チェックで時間を潰してしまった。
 手術したばかりの体の拘束はまだ解かれることはない。彼は完全に『我が家のもの』になれるまで、俺達の色気無い手で体を洗われることになる。それも立派な修行だ、我慢してもらおう。
 暫くは食事しても栄養がちっとも摂れないだろうから、そのうち力ある僧達に『供給』してもらうことになるのかな? お仕事の上では経験豊富のエリートちゃんぽいけど、輪姦のご経験はあるのかな。あっても無くてもどっちでも良いことだけど。ほんのちょっとの間、拘束されたベッドの上でアンアン言わされるだけの話だし。
 検診が終わってチェックした書類を手に、研究室の工房へ兄弟は揃って歩く。

「それにしても今日の依織、超カッコ良かったよ。我が弟ながら感激した。あんな悟司様もビックリな良い台詞も言えるもんだね。乾杯しようかー?」
「それ、兄ちゃんがただ酒飲む口実作りたいだけだろー。俺はただの台詞の焼き回ししかしてねーよ」
「焼き回しとな?」
「……タマがな」

 ん、またシリアス顔になりやがった。もしやこの顔、コイツの最近のブームか何かなのか?

「タマがこの家、出て行くんだと。行きたいじゃなく、行くんだと」
「…………へえ。いつかそう言うんじゃないかって思ってたけど、やっぱりそうか。あの能天気坊やが。俺だったら絶対にオススメしないけどな」
「俺もだよ。この大親友の大依織様の言うことを聞けって何度も言ったよ。……けど、イヤなんだとさ。『ここ』に居るのがイヤなんだとさ」
「なんでそんなにイヤがってるのかね?」
「ほら、タマって我を通そうとするところあるだろ。あの性格が、上には疎まれてるんだよ。おかげでアイツが喋るたびにアレ駄目だぁコレ駄目だぁ言ってくるジジイ達多いんだよな。そのたびにビービー泣くくせに、悪態やめない。とにかくタマは東京に出てー、髪染めてー、オサレしてー、絵でも描いてー、恋人作ってズッコンバッコンして暮らすんだとさ」
「あっははは! なんだそりゃ、種付けする気満々じゃねーか! ……こりゃ今の新座様みたいに『血をバラ撒くな』ってメッチャ言われるぞー。可哀想に、『本部』の連中の悪口……玉淀ちゃんのあの弱い頭じゃ耐えられないだろうな」
「……ただでさえクスリに頼って脆い精神保ってるっつーのに、そんな状況になったらブッ倒れるに決まってんだろ。だからさっきの鶴瀬に言ったようなこと、言ったんだよ。大人しく従っておけって。……まあ、失敗どころか戦意湧き上がらせちゃったみたいだけど」
「ふっふふふ、罪作りなことをしたなぁ依織ぃ。お前が立派に玉淀ちゃんの死亡フラグを立てたんじゃねーかぁ? けどさ……でも玉淀ちゃんは……無理してでも夢を追いかけるんだろうね」
「……うん」
「ボロボロになってでも外に出て、髪染めて、オサレして、絵でも描いて、恋人作るのかな。それで『幸せだ』と言うんだ。既に見える未来だな。いいねえ、夢に向かって突っ走るなんて、好青年じゃないか」
「……俺は反対し続けるけどな。夢だかなんだか知らねーよ。命が一番大事じゃねーか、あのバカ」

 依織は、不機嫌そうに口をへの字にして、患者のチェック表を持ってさっさと歩いて行く。
 親友の身を案じる健気な弟に、全俺は涙しそうだった。あ、でも酒飲んでいないから目から何も水は出てくれなかった。こりゃ早く飲まないと。
 今、ベッドの上で看病されてる患者くん……鶴瀬だったっけ……その人は、どれくらい意識改革するのかな。どうだか。

「依織。……賭けてみるか?」
「何を?」
「玉淀ちゃんに外で恋人ができるかどうか」
「賭ける対象間違ってね? タマならそのうち絶対作るだろ。アイツ、外面は良いし。何よりいい奴だし。フリーにしておく方が難しいって」
「おやま、すっごい高評価だなぁ。他人を見る目は厳しいのに。……じゃあ、さっきの患者さんが外で恋人を作ってくるかどうかにしよう」
「は? どうしてそういうのになんの」
「だってあの顔さ……生ぬるいカンジするだろう? きっとありゃ、情愛にアレコレ悩む顔だって。忠告されても、近々何か問題連れてやってくると思うぜ。そうに違いない。俺はやれますキリッていう奴ほど一人で悩みを作って一人で終えるんだよ。賭けでもして遊んでないと看病の楽しみないぞー」
「兄ちゃん、俺に勝ちたい?」
「いや、遊びたいだけ」
「じゃあエンドレスジェンガでもやってろ」
「あ、いいね、やりたいかも。積み上げて壊す系、大得意よ。まあそれってお前もだし我が家全員そうだろう――――?」




END

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