■ 014 / 「葬儀」

カードワース・シナリオ名『ゴブリンの歌。』 / 制作者:ながやとか様
元はカードワースのリプレイ小説です。著作権はカードワース本体はGroupASK様、シナリオはその作者さんにあります。あくまで参考に、元にしたというものなので、シナリオ原文のままのところなどもあります。作者様方の著作権を侵害するような意図はありません。




 ――2005年11月19日

 【     /     / Third /     /     】




 /1

 この店に来たのは、数年ぶりの筈だ。
 郊外の昔からある洋食店が、暫く見ないうちに改装され違う名前になっていた。元からお洒落な店で、何回か伯父さんに連れて来てもらったことがあった場所だった。
 レンガ造りで可愛らしく、子供にも大人からも愛される幅広い味。けど経営者か会社の方針が変わったのか、生まれ変わった洋食店は今時のファミレスに変わっていた。内装はそのままだったけど、看板もメニューもどこにでもあるチェーン店そのもの。些細な変化に、ショックを受けている自分がいた。
 特別思い出がある訳じゃない。元々はただのメシ屋だ、強烈な味があった訳でもない。ただ覚えているのは、『伯父さん達と一緒に仏田寺に行くときは、この店に立ち寄ったな』ということだけ。そんな細やかな記憶の場所に過ぎなかった。
 遠い記憶と言っても俺はまだ高校生。昔の味を思い出してしんみりするほどの年じゃなかった。でも、俺より年上の彼らはどうだろう。

「あれー、いおりん、どこ行っちゃったの?」
「便所に行ってるぞ。…………緋馬、メニュー見ないのか?」
「そのうち決めるんで。霞さんと玉淀さん、先にじっくり見ていいですよ」

 玉淀さんがばっと開いたメニューの中に、お子様ランチがあった。赤、黄色、緑というカラフルな盛り付けは、子供の心を鷲掴みにするほど主張が強い。ああ、そういえば自分も小さかった頃はレストランに入るたびにお子様ランチが気になっていたっけ。
 でも子供の頃からシャイだった俺は、何故か和風御前だかをよく頼んでいた。「ふふん、和食なんて大人っぽい物を食べるんですよ、俺は!」なんて、優越感に浸ろうと頑張っていた。バカか? うん、バカだ。小二病ってヤツだよ。
 そして和食を食べた後に「やっぱお子様ランチの方が良かった……」と思うんだ。味噌汁なんて特別好きでもないのに、寧ろあずまおばさんが毎日のように作ってくれているものを、どうしてわざわざ外食で食べようとしたんだ。理由なんてカッコつけたいだけだけどさ。必死な小学生なんてそんなものだよ。
 単に藤春伯父さんの前でカッコつけたかった。今だったら「俺って甘い物好きなんですよ、えへ」アピールをして、「へえ、意外だな。お前の意外な一面を知ってしまったよ」作戦でもするんだけど。
 今日は、伯父さんがいないのでしない。
 今日は、キャラ作りは最低限で留めておく。
 今日は、そう、冷静沈着でいくと決めたのだ。

「うー、お子様ランチおいしそー!」

 それに俺は……玉淀さんのように、純粋に笑顔を見せて言えるようなキャラでもないから。
 キラキラとした目でお子様ランチを見ている玉淀さん(確か今年で二十歳だった気がする。時々忘れそうになるが。ちなみに俺より身長は十センチ以上高い)を見て……霞さん(ここに居る四人の中では最年長。さっきファミレスに入る前に煙草を吸っていた。今は未成年と同席しているからか、みんなで禁煙席に座っている。大人だ)は笑った。

「タマ、ガキの自覚があっても頼むんじゃねーぞ」
「頼まないよー。でも、ハンバーグとライスとゼリーとホットケーキもついて523円だよ? いいなぁーっ」
「折角いくらでも食べていいって言われてるんだ。他の見たきゃ単品でハンバーグとライスとデザートにしとけよ、いくら使ったって俺達の金じゃねーんだし」

 そう言いながら霞さんは、「どうしよー?」と悩んでいる玉淀さんから、もう一つのメニューへと視線を戻した。
 開いているページには豪快なステーキが大々的に掲載されている。普段なら『頑張った自分へのご褒美』でもない限り、手を出さなそうな値段のページだった。
 夜、二十四時近いのにそんなガッツリとカロリーが摂れるもんか。俺はそんなの食べられない。
 ――そもそも本来の俺は、ここに居ない筈なのに……試験が近いんだから寮で勉強してる筈なのに……。新しいことを学びたくて、敢えてここに居るに過ぎないのに。

「おーい、呼び鈴押すぞー……。あ、依織、帰ってきた」
「お、お、お、お」
「おっ?」
「おおおおハズカシながら帰ってきましたッ!!」
「元軍人ごっこ? おトイレ混んでたの? いおりん、もう注文するけど何頼むか決めておいたよね? 鳴らすよぉー」

 ぴんぽーん。……っと、俺がメニューを見る前に店員を呼ばれてしまった。食にこだわりは無いし、他の注文を取ってる間にテキトーに決めるとしよう。

「あ、そうだ、ウマくん決めてなかったね、ごめんね。えっと……おれは≪スパイシーピラフ&カレーチキン≫にする……デザートは後で決めるからいいや、はい」
「……二人とも、実に普通の食事をしますか」
「あれ、ウマくんもふつーにごはんをしていいんだよ? だっておれ達、ごはんをしに来たんだよね? 『いくらでも食べていい』て言われてるんだよ。好きなもの食べなきゃもったいないよー。だよね、カスミン?」
「決めた。俺、≪ハミ出るビーフステーキサービスセット≫と≪ビーフ焼肉≫にするわ、ドリンクバー付きで。やっぱ肉は焼いてなんぼだよな。……で、何の話だ?」

 ニコニコと屈託のない笑顔を見せてくる玉淀さんは、本当に俺より年上なのかって疑いたくなるぐらい幼く見える。
 弟の火刃里や尋夢とセットにしたっていいってぐらい能天気な笑みが、少しだけ羨ましくなった。『仕事』前にのびのび笑っていられるほど、この人は能力に余裕があるってことなのか。
 ううん、そんな話は聞いたことない。霞さんは年齢的にベテランだろうけど、玉淀さんはまだまだヒヨッコの筈。なのに、はあ、あれかな、天然って最強なのかな。
 ――俺なんて、毎日に戸惑いながら生きているというのに。ちゃんと今の俺は違和感無くこの世界に溶け込んでいられるのか、不安だっていうのに。

「…………なら、≪チーズINハンバーグ≫。あと≪ポークときのこのサラダ≫、≪カマンベールチーズフライ≫、≪焼き立てりんごパイ≫で」
「あ! それいい! ウマくん、そのりんごパイ、ちょっとだけちょうだい!」
「ケチケチしねーでタマももう一個頼めよ、バカ。……依織は?」
「九ページ目全部」
「え?」

 霞さんが訊き返す。
 俺達と、伝票を取る店員のお姉さんも、依織さんの方を振り返って訊き直している。

「九ページ目全部」

 そして、お姉さんに「正気ですか」という目で見られた。

「――ご注文を繰り返させて頂きます。≪ハミ出るビーフステーキサービスセット≫、≪ビーフ焼肉≫、ドリンクバーが二つ、≪スパイシーピラフ&カレーチキン≫、≪チーズINハンバーグ≫、≪ポークときのこのサラダ≫……≪カマンベールチーズフライ≫、≪焼き立てりんごパイ≫……それと」

 三人分を繰り返し、……一息ついて。

「≪濃厚ミートドリア≫、≪シーフードドリア≫、≪カニとほうれん草のマカロニグラタン≫、≪たっぷりチーズとチキンのミックスピザ≫、≪マヨコーンピザ≫、≪キングバーガー≫、≪野菜たっぷり冷やし麺≫、≪特性辛口チゲ≫、≪海老と枝豆のご飯≫、≪まぐろ小柱丼≫、≪ご飯≫、≪かぼちゃの冷たいスープ≫、≪コーンポタージュスープ≫……で、宜しいでしょうか」

 店内が、ザワッとした気がした。店員のお姉さんも注文を言っているうちに楽しくなっちゃったみたいで、声がどんどん大きくなっていったから余計に。
 って、なに得意げな顔してるの、依織って人は。そしてどうして大爆笑してるの、他の二人。
 幸いなのかなんなのか、時刻は深夜二十四時に近付いてる店内に客は少なく、周囲のテーブルをいくつも使って置いていいと俺達の食事が大量に運ばれてきた。
 周りのテーブル四つ分が、俺達の食事だ。なかなかシュールでお目にかかれない光景に、霞さんと玉淀さんは笑いが止まらなくなっていた。
 注文してドヤ顔をしている依織さんを中心に写メを撮り始めてるぐらいに。俺も自分のカメラを持って来ていたなら、容赦なく激写していたかもしれない。
 依織さんはテーブル中央の席に着き、声高らかに経緯を説明する。

「ホントは『メニューにあるモン全部持ってこーい!』って言おうと思ったんだけどよ、さっき晩メシ食べてきたからヤメた。九ページだけにしといた!」

 夕食を食べてなかったらやっていたのかよ。
 依織さんが大食漢なんて話は聞いたことがない。全部食べる保障も無い。『金が有り余っているから』ネタで言ったんだ。
 それで満足している顔だった。それぞれ几帳面に一口ずつ食していた。そして、

「飽きた」

 五分後には言い始める。二人の爆笑が再来するだけだった。
 こんな光景見たことない。今までだって『仕事』をこなしてきたけど、こんな愉快な事前準備を経験したことなんて……。
 あ、飽きたくせにちゃんと全部食べるんだ、すげえ。



 ――2005年11月18日

 【     /     / Third /     /     】




 /2

 異端とは、人を害す存在である。
 人を害す存在は、処罰されるものである。
 能力者界では当然の理であった。

 若者向けの話題の定番ともなった「自殺支援サイト」というものがある。
 その名の通り、自殺を支援してやるインターネットサイトのことだ。もう死んでしまっても構わないと思っている人間達が集まれる環境というのは、死んでもいい人間を集めたいと思っている者達には大変ありがたいものだ。
 中途半端に死を求めた人間が妙な思惑に巻き込まれ、望まぬ死を遂げてしまうというストーリーは、世に出ている作品としてもはやお約束の展開だった。何百件もケースが挙げられてしまうぐらい、簡単に死を求めてしまう人間、死を求める人間を求める人間は多い。自殺支援サイトは、生き死にと魂を取り扱う仕事をしている身には見逃すことなど出来ない存在だった。
 その世界に精通した(ちょっとばかしインターネットに詳しいぐらいのレベルだが)『ある異端』は、死んでもいいと思っている人間を集めて「死ぬなら自分の飯に」と考えた。人を食らう異端であれば当然考えられる脳だった。
 異端は、人を殺さなければ食事は出来ない。でも人を殺せば罰せられてしまう。罰せられないように食事をするのはこの世界では一苦労だった。となれば、簡単に命を投げ出す人間を探せる環境は、異端にとって天国と思って間違いなかった。
 しかし、異端というものは「恐怖や苦痛による死」を好物としているものだ。望んで死を選んだ人間なんて旨くないもの。人間的な例えをするなら、生焼けの肉を食べているようなもの。それでも食事にありつけるなら良いと考える異端でなければ実行はされなかった。

 ――少し心の弱い異端の話をしよう。
 その日、インターネットを通じて「一緒にあの世に飛び立ってくれる人間」同士が集まった。集合場所は街中だが、夜になれば人通りの少ない駐車場だった。若者(と言っても上の代もいた)達が五人集まり、無言で『自分らを支援してくれる者』を待っていた。
 集合時間から二分ほど遅れて、彼らの支援者……ワゴン車はやって来た。
 若者達はワゴンでやって来た支援者に、まるで映画のワンシーンのように合い言葉を言い放ち、お互いの身分を明かした。間違いがあってここに来ているのではない、きちんと間違いを犯すためにここに居るのだと全員が頷く。
 支援者が「本当に良いんだね?」と形だけの確認を行う。曖昧な返事をする女も居たが、彼女は周囲の気迫に負け、全員が頷くことになった。
 彼らは悲しげな足取りでワゴン車に乗り込む。車に乗る前に、「これが最後の空気だ」と感慨深げに深呼吸する男がいた。あまりの爽やかさに、偶然そこを通りかかった者は「これから仲間同士で旅行に行くんだろう」と綺麗に勘違いしてくれる。……『旅立つ』ということだけは間違いではなかった。
 車に乗り込み、若者達は支援者から最後の説明を受けた。支援者は慣れた口調で話をする。
 これからある山奥に車を置いていくこと。自分は今後も君らのような人を支援するために自転車でそこを去るということ。支援者が去った後に薬を飲んで眠れということ。眠っている間に旅立てるということ。もし生き残っても今までの人、これからの人のためにサイトに掲載されていた規約は守るということ。
 契約書なんてものはこれから死ぬ人間には意味の無いものだったから、口約束で済まされた。他にもしつこいぐらい説明があったが省略する。
 車が目的の山に到着したとき、情けなのか、支援者は「本当に良いの?」と確認した。「これから先は戻れない」と人間らしく訴えてくる。
 なんて優しい人なんだ、この人の支援があれば、と思わせる作戦か。ワゴン車に居る全員が悲しく笑う。そして誰も退場を名乗り出る者はいなかった。
 何事も無く支援は、作戦は決行される。
 支援者が最期の言葉を言い、最大限の細工を施したワゴン車の外に出る。中に居る全員が目張りなど支援者に言われた通りのことをする。支援者が自転車に乗ってその場を走り去った。車内の窓から支援者が見えなくなるのを確認して、皆が薬を飲み始めた。

 ――そうして数分後、支援者は戻ってきた。
 支援者……異端は、充分に眠りに落ちた人間達を未調理のままだが頂くために戻って来た。
 その異端は簡単に命を好きなだけ食らうために自殺の支援をやっていた。少しばかり現代に適応した異端なら簡単に出来る作戦だった。
 自分に有利に働くように細工をしつくされた車は、異端がチチンプイプイと呪文を唱えると簡単に開けられた。
 人が死ぬようなガスも、異端である支援者には無害だった。人間達は息苦しげにもがく程度の苦痛しか味付けがされていないが、異端は一晩かけてゆっくりと倒れている四人を食べる。
 ……異端は、声を上げた。
 四人。一、二、三、四。車内に居るのは、四人だった。
 異端が不格好な声を上げているときには、異端の後頭部には、銃口が当てられていた。

「ったく、ありきたり過ぎてツマンネェなぁ」

 異端は目を見開いて固まった。動けず、手を上げるだけだった。
 薬にやられて倒れている筈の五人目が、ピンピンして自分の頭を狙っているのだから焦るのは当然だ。
 人型だった異端は、手を上げて降参をアピールするしかない。
 ついに処罰する者が現れたのか。異端は焦った。なんとしても一発で仕留められてしまう今の状況を打開しようと思考を回転させる。だが五人目の男は、不思議な言葉を繰り出してきた。

「なぁ、アンタ。なんで人を苦しめないの?」

 背後の男はそんなことを言う。後頭部に押し付けた銃口を放しながら。
 相手は罰を与えに来た聖職者とばかり思っていた異端は、また目を見開いてその行為を驚いた。

「異端は人の苦痛がご馳走だっていうのに、なんで何もしないんだ? 『とりあえず食事にありつければいい』ってか? それとも、なぁに、『申し訳無さがある』とか? 人間の情があるのかい、異端さんよぉ?」

 男は、完全に攻撃の対象から異端を外していた。
 武器を向けていない、男と異端は互いにイーブンな形になる。それなのに男はちっとも状況を危機と思わず、ニヤニヤと口元を歪め、笑い続けるだけだった。
 その言い方は、まるで『人を傷つけてもらいたそう』だ。
 異端は少しでも男の手から逃れようと、「その通りだ」と嘘を吐く。「自分は人間に混じって生活をしている。いつの間にか人は愛情を抱く対象になっていた。でも食事をしなければならない。悲しい想いと戦いながらこんなことをしている。良心が苦しいよ」……異端は思いつく限りの『お約束』を講じた。少しでも良い方向に事を持っていくための嘘だった。

「へえ。アンタは『いい』異端なんだ」

 またもニヤニヤしながら男が言う。
 その笑みは裏があるのが異端にも判った。だがそれを非難することは、今の異端には許されなかった。

「アンタは『いい』異端だから、我慢してるんだ? ……料理したら美味しく食べられるのに」

 甘い香りのする男は、当然の摂理を口にする。

「人間だって生肉を食べることはある。でも『それでも食べられる』ってだけでさ、大半の人間は焼いた肉の方が好きさ」

 それは異端も同じことを思っていた。その通りのことを男は言い出す。

「こんなにも上手く肉を手に入れておきながら、アンタは肉を焼かず、さほど旨くない状態で食べる。理由は『申し訳無いから』。……モッタイナイねぇ。オレなら目の前にご馳走になりうる一品があったら残さず調理してから頂くね。だってその方が良いもの。幸せに食事にありつけるもの!」

 異端も出来るならそうしたかった。
 今さっき言ったのは男から助かるために吐いた嘘だ。改めて男に言われれば言われるほど、『ホントはそうしたい』と思うようになった。

「美味しく頂ける肉がごろごろと落ちてるのに、なんと我慢強い異端様だこと。……なあ、今、オレはアンタに危害を加えないよ。加える気が無いんだよ」

 男はそう言って、異端から離れていった。
 そして車から数メートル先の木に寄り掛かる。寄り掛かって腕組みをして、不敵に笑い、異端に嗾けた。

「アンタは拘束されていない。何だって出来る。眠る人間を美味しく調理し食すことだって、生肉のまま貪ることだって。さあ、オレがここまで言ってあげているのにアンタは何もしないのかな? オレがここで見ていたら何も出来ないって言うのかな? そんなにアンタは繊細な異端様なのかなぁ?」

 ニヤニヤ、クスクス。男は笑って言う。
 だからあんな切ない理由など、男から逃れるために吐いた嘘なんだ。
 本当は異端だって食べたくて食べたくて美味しく食べたくて食べたくて食べたくて食べたくて人間を美味しく食べたくて食べたくて食べたくて食べたくて食べたくて食べたくて食べたくて食べたくて仕方なかったんだ。でも後に残ると困るから食べなかっただけなんだ。ただそれだけのことなんだ。
 気付くと異端は、本能のままに動いていた。

「死にたかった奴らを殺してあげるなんて、素晴らしい支援者だよ、アンタは。優しいアンタの手に掛けられて、みんな幸せだ。みんなに幸せを分けてやるアンタも……幸せになるべきなんじゃないかな?」

 異端は眠る人間達を更に動けなくさせた。そして一人ずつ目覚めさせ、恐ろしい凶器を見せつけ、恐怖という味付けを施した。
 そのまま食した。
 細々としていた作業を全て忘れて、異端は異端らしく凶暴な食事を行なう。今まで我慢していたのが馬鹿らしく思えるぐらい最高の食事だった。
 一人目を最も美味い形で食事をし終え、二人目を更なる恐怖で味付けし、食す。二人が食された状態で目覚めた三人目は、もっともっと恐怖で美味な味付けになっていた。数が増すごとに味は良くなっていった。
 こんなに美味しい食事があったのか。異端は感動していた。知っていた筈なのに無視してきた美味さに、異端は途轍もない幸福感を感じていた。
 最後の四人目は夢中で食べた。三人を無惨な形で殺され、自分も同じ目に遭わされる……涙を流して「死にたくない」と訴える自殺者は、苦痛を好む異端にとって最高の料理だった。最高の料理を見逃す訳もなく、頭から爪先まで丁寧に食された。
 幸福感が絶頂を迎え、異端が喜びに舞う。
 こんなに幸せな時間なんて知らなかった、教えてくれてありがとう、そう言おうと異端がくるりと男に振り返る。
 瞬間、異端の眉間に弾丸が突き刺さった。
 異端は幸せから絶望の落差を味わいながら、絶命した。



 ――2005年11月19日

 【     /     / Third /     /     】




 /3

 ブリジットはボンネットに腰掛け、『支援者』達が来るのを鼻歌まじりに待っていた。楽しげな歌が、薔薇が散ったような真っ赤な森に響き渡っていた。
 ワタシは獣なので車の上なんて不安定な場所は好まない。大人しく車の傍で現界し待機していた。
 『本部』へ電話をしてから数分後、山奥にとある車がやって来る。車からは寺の者達が数人現れた。
 端整な着物姿のまま寺の匂いを纏わせて現れた彼らは、異端と四つの餌を見て、言葉を詰まらせた。ブリジットの座る車の周りで、食事にされた人間が四つ散乱し、蜂の巣になった人型が一つ転がっていたからだ。

「ははっ、お仕事お疲れさーん。オレが一人で凶悪な異端を退治しておいてあげましたよーっ!」

 ブリジットの軽快な口調に、皆が眉を顰めた。
 車のライトで照らされているその場は、花が咲き、真っ赤に染まっている。その中でブリジットは白い服を着て座っている。楽しげに鼻歌も唄っている。普通の思考の持ち主なら異様な光景と思っても無理は無かった。
 複雑な顔をする者達の中、ブリジットと同じような顔の男が車を下りる。処理をしに来た連中の中では最も位の高い、男衾が前に出た。

「あんれ、今夜のここの担当って男衾様? アンタ、次期当主のボディガードなのにこんなこともしてるの? そんないっぱい仕事してたらハゲるぜ、ひ、はははっ!」
「魂の回収は完了したか」

 無骨な声がブリジットの笑い声を止める。

「もっちろん。あはは、忘れてませんよー。こんな酷い現場を作り上げちゃう異端の野郎と、すぐに浄化しないと怨霊になりそうな可哀想な四つの魂。五つぜーんぶ、オレの中に入ってる」
「そうか」
「すいませんねー、アンタらの担当地区の魂奪っちゃって。一応伝えておいた方がいいかなーって思ったんで連絡したんだよ。この魂はオレが当主様に献上するけど。ははっ。アンタらここの後片付け宜しくね。アンタらが回収する筈だった魂なんだから!」
「我々の予定によると、回収する魂は一つだけだった」

 男衾は、蜂の巣になっている異端の前に立つ。
 見下ろし、暫し『唖然とした顔』を眺めた後、真っ白に笑う男へと向き直った。

「ははははっ。ああ、予定では一つだった。でも他にも四つがうろついていたら回収するさ。しない訳ないよな? こんな誰も居ない山奥で異端に殺された可哀想な人間なんて……怨霊にしかなんねーからな! これから誰かを襲う前に、当主様のあたたかーい腕で、我が家の糧になってもらった方がきっと幸せさぁ」
「幸せか」
「そう、幸せだよ! 死にたいって思った連中でも幸せに逝くべきだし、死にたくない連中も幸せになるべきだ。あと、オレは……化け物だって幸せになるべきだと思うね。どうせオレ達に狩られる運命でも、幸せになってから殺られるべきさ」

 少しばかりその手伝いをしたけど、予定以上のプラスアルファありだ。
 ブリジットが得意げに寺の連中に話していく。みんながみんな幸せになるべきだと、銃をくるくる回しながら高尚な演説をしていた。聖人のような主張だったが、そこに居た者達は皆、彼を称賛することはない。
 男衾はブリジットを睨みつける。元から目つきは良くない男だったが、より悪くなったのか、鋭い視線をぶつけてきた。

「なんだよ? そんなに自分の手柄にならなかったのが腹立たしい? 色男が台無し、いや、最高の表情を浮かべちゃってどうしたの」

 ブリジットはそんな男衾を見てニヤニヤ笑う。

「笑うな。異端め。虫唾が走る」

 剣を構えると同じぐらいの気迫で、男衾はブリジットのニヤケ顔を制しようとする。だがその程度ではブリジットは挫けない。
 普段は大人しいのに今夜ばかりは暴言を吐く男衾に「感情を曝け出すって大事なことよ?」と満足して、白い服を汚さないようにその場を去った。
 ワタシは処理する現場を見ている趣味は無いし、興味も無い。ブリジットが去ると決めたならワタシもついて行こう。鼻歌どころか堂々と歌を唄いながら去って行く後ろ姿を追った。

『――ブリジットを異端と言うか、処刑人よ』

 異端とは人に害を与える狩るべき悪しき存在。恐怖を食らう怪物。だが人を食らうことを目的にした者達のこと全てを差す。
 彼らが人を食らえば悲しい魂が増える。だから能力を持つ者達は異端を処罰すべき。それが能力者界のルールになっていた。
 異端は異能を使って人を害す者。能力を使って人を害す者は、異端とされた。
 ……今さっき、男衾はブリジットのことを異端と称した。全てを見ていたワタシには、彼の読みは間違いないと思う。
 だがワタシが何か行動を起こすことはない。異端と罵るだけ罵った男衾を聞き流す。そして罵られたブリジットをフォローすることもしなかった。

 山を下ったブリジットは、いつものように二十四時間営業のファーストフード店で餌を買うと、夜の公園へ向かった。
 歩いている最中にハンバーガーを口にし、ワタシは彼が気紛れで投げ渡すレタスやピクルスを口に運んで時間を潰す。

『……テンションが高いな、兄さん』
「あー?」

 流石に街中の夜道で歌を唄いはしないが、目が冴えてしまっているブリジットを見て、ワタシは言った。

「あー、なんだろうね。やっぱりいっぱいいるからかな? ははっ、オレの中で踊ってるみてーだ」

 ブリジットが刻印のある腕を見た。
 彼が意識するとポウッっと腕が青く光る。光を収納した刻印が、魂が存在していることを訴えていた。

「ブリュッケ。もう何匹目だっけ?」
『……ワタシが知っている限り、その腕には五十体は居る。魂の溜め過ぎだ。そろそろ当主に捧げに行くべきじゃない?』
「五十! ははは、確かに溜め過ぎだ! オレの中に五十人も魂がある。そいつらがオレの中でパーティーしてるんだから、会場となってるオレのテンションが下がらない訳だ。あーあー、うるさくって楽しいねぇ」

 クスクス笑い、ブリジットは腕を見ていた。一頻り笑うと、うっとりと、満足げな柔らかい笑みを浮かべるようになる。

「ブリュッケはこの感覚、判る?」
『どの感覚?』
「自分の中で何十もの連中が暴れている感覚さ」
『……判ります。兄さんとワタシは繋がっているから。ワタシもさっきからゾクゾクが止まらないよ。感覚が忙しすぎていいかげんにしてほしいぐらい。そろそろ当主に捧げるべきだよ、ワタシの安息の為にもね』
「あー? なんだ、ブリュッケは嫌かい。この感覚が」

 逆に尋ねるがそっちは好きなのか?
 ワタシは毛づくろいを怠くしながら問いかける。

「ああ、好きだね。オレの中でギャースカ騒いでいるのが、心地良い」
『……兄さんは寂しがり屋だからな。一人じゃないって思えるのがそんなに嬉しい?』
「あ、なにそのムカつく言い方」

 癇に障ったようにブリジットがワタシを蹴った。今は不可視だから透明の体相手に足の攻撃に当たることはないが、何度も何度も彼はワタシの背中を蹴ろうとしていた。構わず毛づくろいをしよう。
 その間もワタシの中には大勢の叫び声が続いた。大半が救済と浄化を求める悲鳴だった。心が弱ければ呑み込まれてしまいそうな大絶叫だった。
 この絶叫に呑まれて寺でも廃人になった者達がいるというのに、ブリジットにはそれがコンサートの合唱のように聞こえるらしく、うっとりと聞き入っていた。

「皆が集めた大勢の声を束ね、大量の知恵を引き出せすすべを持った当主様。……ああ、気持ち良いだろうねぇ。当主様は千年間の魂を体に秘めているんだから、さぞ美しい合唱だろうなぁ」
『どうかな。いつも大合唱で寝付けないでしょうよ』

 と、『常に眠りに落ちている男の顔』を思い浮かべながらワタシは言ってやった。

 ――辿り着いた公園には、惨劇が繰り広げられていた。

 公園の中は真っ赤だ。人間が弾け飛び、臓物をばら撒いている。ブリジットが雑に口にしていた加工肉や果肉が雑多に刻まれた赤黒いソースを思わせる光景だった。
 数分前に駆けつけた警察官は、訳も判らぬまま、殺された。「どうして」。心の叫びが、動きを止めた表情から読み取れた。
 それが三つ。三つとも、転がっている同じ表情だった。
 ……物言わなくなった勇敢な男達の体に、とある青年が腕を近付ける。

「また、お可哀想に」

 青年が一言口にすると、その近づけた腕の周囲にポウっとあたたかい光が舞った。腕の中に吸収されていく魂は、三つとも混乱して激しく轟いていた。
 ――何が自分に起きたのか、判らない。
 ――何故自分は死ななければならなかったのか、判らない。
 ――なぜ、どうして、なんでなんで。
 咆哮し暴れる三つの男。叫び続ける悲しい魂。公園で異端によって引き起こされた事件の被害者達は、嘆きの大合唱をしている最中だった。

「お可哀想に。すみません、貴方達を言葉で慰めてあげられるほど、私は口が達者ではないのです」

 魂達に言い聞かせるように、公園に訪れていた金髪の彼――ルージィルは、魂を回収していた。
 その光景を見ていたブリジットは、おもむろにファーストフード店の紙袋からフライドポテトを一本投げつけた。投げた先は……誰でもない、公園で『仕事』真っ最中のルージィルの背中に向けてである。ひゅんっと小さな脂ぎったポテトが宙を舞う。
 だがルージィルは投げられたことも投げつけられることも知っていたかのように、真後ろに投げられたというのにスッと横に移動する。ポチャンと赤い血の海にフライドポテトは沈んでいった。

「その代わり、貴方達に新しい居場所を用意して差し上げましょう。だから暫く『私の中』で大人しくしていてくださいね」

 変わらず、ルージィルが腕の中の魂に語り掛ける。
 ……ワタシにも魂の声が聞こえた。
 回収された彼らは、もう、元の生活を送ることはできない。どんな家庭があったのか知らないが、おそらくはごく普通に今日を過ごし、家族に「行ってきます」と言い、家を出た男達なんだろう。
 そしてこの公園で、とある異端によって殺された。
 彼らはもう「ただいま」を言うことはできない。殺されてしまった彼らは、元の姿に戻ることが出来ず、家に帰れなくなって漂っているしかなくなった。疑問を道行く人々に投げ掛けながら……理不尽な仕打ちに、暴力に訴えたいと考え始める。
 ルージィルが青白く輝く腕を摩っているのは、彼なりに出来るだけ優しく彼らに語りかけているのか。

「異端に殺されたばっかの新鮮の魂が三つも。繁盛してるねぇ、ルージィルさんよぉ」
「兄こそ新鮮な被害者達の魂に、食事を終えたばかりの異端そのものの魂。数も質も、貴方には負けてしまいます」
「どっちも悪くない『仕事』ができて景気が良いな。…………なあルージィル、『あっち』、聞こえたか?」
「ええ。今、私の耳にも届きました」

 ――叫び声が。
 ――新たな魂の声が。

 ワタシは決して公園には入りたくなかった(嗅覚が二人より数倍も優れているだ、キツい鉄の匂いなんて嗅いでられない)が、ブリジットが進んでいくので仕方なくついて行くしかない。
 公園にはさっき事切れたばかりの可哀想な若者達が転がっている。もう戻れない人間の姿が、二つ分折り重なって倒れている。覗き込んでみると、二人も勇敢な警官達と同じように、「どうして」の顔をしていた。ブリジットが助けた魂達と同じだった。

「なんだい、ガキがこんな時間に公園にいたのか。そりゃ襲ってくれって言ってるようなもんだな。一体こいつら何をしてたんだ?」
「日付が変わる頃でも、高校生は夜の公園で遊ぶものです。緋馬様も今の時間に頑張っていらっしゃるんですから、なんらおかしな話ではありません」
「『夜の外は危ないもの』と教えてもらえなかったんかねぇ」
「教えてもらっていても、従う気になれなかったのでしょう」

 もうヒトとして蘇ることのない二つの体を見た。血は満遍なく周囲に振り掛けられていた。
 なんと残酷なことをと考えていると一体、茶髪に染めた若者の指が、ピクリと動いた。死んだ若者が、だ。ブリジットが「ヒュウ」と口笛を吹く。

「おや。アンタ、もう『あちら側』の仲間入りかい?」

 動く筈がなかった死体が、起き上がろうとしている。
 唸り、音を発そうとする。喉を裂かれているというのに話そうとするから、血の海に波が生じた。
 薄気味悪い。背徳の従者……。なるほど、こういう能力の異端だったか。ルージィルも口笛を吹かないまでも、気分が良さそうに茶髪の若者へ語り掛ける。

「喋らなくて結構です。貴方の言いたいことは知っています。『どうして』、『一体何が』でしょう? ……ああ、無理に人間のように動かない方がいいですよ。今のうちに大人しく逝きましょう。それが、貴方の為になります」

 言って、ルージィルがウズマキから出した細剣を一筋。真っ直ぐ茶髪の青年を貫いた。
 何の力もいらなかった。剣はするりと体に飲まれ、ごく普通の人間の反応のように、若者は倒れ伏す。迷える魂だけがビクビクと、『何処かへ行きたい!』と訴えかけるように光っていた。

「この子達もご両親の『夜遊びはやめなさい』という忠告を聞いていれば生き延びられるのに。殺された挙句、グールにすらされてしまって。本当に可哀想な方々。さて、当の異端は」
「ああ、もう狩る人達なら用意できてるだろ。この時間ならご飯いっぱい食べてスタンバイオッケイじゃねーの」
「ご存知なのですね」
「さっきあの辛気臭い当主側近グループがよぉ、近くに緋馬様らを待機させてるって言ってた。……そういうことなんだろ?」
「ええ、そういうことですよ。ああ、彼らに連絡をするまでが私の仕事ですがね。スタンバイしていても誰も声を掛けてやらなかったらスタートを切れませんから」

 べらべらの話を続けるルージィルの横を通り抜け、ブリジットが堂々と血の海に足を落とし、物言わぬ若者の体へと近付く。
 広がる赤い世界に沈んでいっても汚れることを躊躇わず、彼は近付いた。

「――我が家へようこそ。いらっしゃい、歓迎するぜ。アンタ達のような若い知識が我らが神には必要なんだ」

 大変満足そうな声色で、『偶然の死』を迎い入れる。
 茶番。思いながら、ワタシは笑顔を眺めていた。



 ――2002年8月9日

 【     / Second /    /     /     】




 /4

 藤春伯父さんが教えてくれた能力は、本当に初歩的なもの。
 自分の体に備わっている異能の使い方というのも、マッチ棒でどうやって火を点けるか、その程度の単純な仕掛けと理屈しか教えてはくれなかった。
 とはいえ、それだけあれば十分だという考えだった。マッチ棒を擦れば火を点けられると判れば、どうやれば火を消せるのかも、どう調節すれば火を大きくすることができるかも判るもんだから。
 俺は勉強が出来るとは言えないが頭が悪い訳じゃない。言われた通りにやってみれば、あとはコツを掴むだけ。日曜日の午前中に教わった能力講座は、おばさんが「お夕飯の時間よー」と言いにくる頃には終わっていた。

 藤春伯父さん曰く、我が家は火を司る一族らしい。
 水を操作する魔法や風を操る異能、地の精霊を使役する魔術など色々種類はあるが、仏田という血は炎を操る属性が備わっているらしく、火を操るのは最も簡単でやりやすいものとして教わることになった。
 能力を弾き出す力があれば、抑え込むことだってできる。誰かを傷付けたりする目的ではなく、防衛手段として能力を教えるんだと伯父さんは何度も言う。
 ――これでお前はもう、一般人ではない。
 何も無いところから炎を出せるようになった俺には、そんな目を向けられているような気がした。
 俺自身も少しだけ世界を見る目が変わった気がする。些細な変化が生じた夏、俺達は毎年の恒例行事……伯父さんの実家・仏田寺に帰省した。

 寺がある山の麓、駐車場まで車を走らせる。住んでいるマンションからは車で三時間程度のドライブだ。
 もうすぐ駐車場というところで、伯父さんが「開けていいか」と一声掛け、後部座席の窓がガーッと半分まで開かれた。
 夏の日差しが強いせいで、首都を出た時から窓を開けずにいた。車内のクーラーの風が外へ出ていく。とはいえ、山奥までやってくるとクーラーより涼しい風が吹き込むようになる。
 伯父さんに「自然な風の方が気持ち良いだろ?」と言われて、そうだねと相槌を打った。本当はあまりそうとは思わなくても。
 夏の風はいくら都内とは標高が違ったって熱風に変わりない。クーラーの風の方が機械的でより涼しく、寒さを感じることができて良い。凍えるように、突き刺すように寒く作られた風。そっちの方が俺にとっては好感が持てた。
 でも口答えはしない。そんな生意気なこと、伯父さんに言える訳が無かった。
 口応えするのが怖い、とかそういうことではない。生意気なんて言うほど自分は偉くないし、申し訳ない気分になるから。自分はそんな身分じゃないから、伯父さんの意思に反することなんて畏れ多くて言えない。

 ――だから、みずほ。どんな生意気だって言える実の息子の口から言ってほしかった。
 そんな怨念を助手席にいる奴に飛ばそうが、みずほに伝わる訳がない。電波なんて俺には使えない。だから独りよがりに思うしかない。
 前のミラーが、みずほの顔を写した。
 ――なんて顔してんだ、お前。
 ミラーから見えるみずほの顔は、とても酷いものだった。俺も言えたことじゃないが。

「ほら、もうすぐ着くぞ。月彦や寛太(かんた)達も夏休みだから全員いるし、ちゃんと遊んでやれよ」

 とりあえず、みたいに伯父さんは年の近い親戚達の名前を口にする。名前を出されても、みずほは酷い顔を崩さない。何にも反応しないでムスっとしている。伯父さんが何も反応しないみずほを様子を見て、苦笑いした。
 なんだかムカついた。伯父さんは健気にも、お前へあんなに話し掛けてくれてるじゃないか。
 それなのに。
 あさかがいないくらいでなんだっていうんだ。

 ――あさかが居なくなってから四ヶ月。俺が藤春伯父さんの洗脳に気付いて一ヶ月。
 みずほにもあの事実を話して数日。三月の帰省から、初めての仏田寺。
 一年に数回ある伯父の実家帰省は、毎年行なわれているものだ。寺に行けばそこそこ良いご馳走を食べさせてもらえて、同い年ぐらいの親戚達と遊ぶことができる。俺にとってもみずほにとっても、面倒に思うことはあっても嫌なイベントじゃなかった。
 だけど、能力者としての自覚が芽生えた俺としては、双子の兄がいなくなった理由を話された弟にとっては、毎年のように訪れていたこの寺は異界と感じるようになってしまったらしい。
 正直、行くのが怖かった。
 行きたくないで許されるのなら、そう言ってしまいたかった。
 だが伯父さんは「お前達が元気であることを見せるのも俺の仕事なんだ」と言って車に乗せるし、そこで嫌だ嫌だと泣き喚いて拒絶するほど子供の年でもない。
 前々からちょっと怖いと思っていた場所だけど、何かをされる筈じゃないしと思っていた今まで。
 ……もしかしたら、何かされるかもしれないんだ。
 遊んでくれた子供もいた。でも、怖い連中ばかりかもしれないんだ。現に遊んでくれた子供は脅威となったんだから。
 そう思うと恐ろしさに拍車がかかって、「もっと能力の使い方を覚えた方が良かったか」と後悔に似た心まで生まれてきてしまうようになっていた。

 とはいえ、毎回事件が起きることなんてない。
 俺とみずほはとある部屋に荷物を置くように言われ、そこで解放された。
 何をしろという命令がある訳ではない。ここで時間を過ごし、伯父さんの「帰るぞ」でマンションに戻る、それだけだ。
 普段なら「みんなに挨拶しに行こう!」と言うあさかの第一声があったが、今は無い。
 あさかがいない一回目の実家帰省は、世界を何もかも変えていた。

 木々が鬱葱としたある山の中。部屋の障子という障子が開けっ放しにされている、開放的な屋敷。
 夏だから風が通りすぎていけるように敷居を作ろうとしていないんだ。でもどこか、閉鎖的に思えてしまうのは……本質を見てしまったからか。
 敷居が無いから虫も入りたい放題だ。ミーンミーンと鳴く蝉の声すら部屋の中を通りすぎていく。蚊取り線香は焚いてはいるけど、匂いは充満する前に外へと走っていく。
 今年はクーラーも無い部屋に寝泊まりすることになってしまって、俺達のテンションは下がりに下がっていた。
 暑いと何度口走ったか。もうカウントできないぐらい口にした気がする。
 帰ってきたばかり、訪れたばかりの部屋は熱されていた。熱く暑い空気のせいか、どうも頭がクラクラする。
 熱が目に辛い。それは俺が感じているだけじゃなかったらしく、みずほも同じようだった。みずほは扇風機をどこからかずるずると持ってきて、その前に座った。相変わらず気の抜けた顔のまま。

「独り占めすんな」
「しないよ、首まわすからいいじゃん」

 ぽちりと押した扇風機のスイッチ。一気に強風までスイッチを押し、涼しさを貰う。
 機械音がうるさいのは嫌いだ。強風モードは音が不格好であんまり好きじゃなかった。でも文句を言っている暇じゃなかった。

「みずほ。夢見、悪そうだな」
「……にぃ?」
「目の下にクマ、できてる。元から寝付きは良くはなかったけどな、お前」
「夢見ね。悪いよ。昔から良い夢なんて見たことない損な体だから」

 内容の無い話を繰り返すこと、数分。結局、ただただ時間が過ぎていく。
 だって、やることが無いんだ。世間一般でも『夏休みになったら故郷に帰省する』のは常識らしいけど、故郷に思い入れの無い子供達には迷惑な話だった。
 部屋にはテレビがあったが、太陽がやっと傾き始めた時間に面白い番組なんてやってない。持ってきたゲームをする気すらならなかった。
 故郷の良さが判らない。なんで伯父さんは実家に帰るとき、楽しそうにするのか。ここで生まれ育ったんだから楽しい思い出が沢山あるのは当然か?
 でも特に楽しい思い出の無い身としては、苦痛の時間だった。

「どっか行く?」
「……行きたくない」

 どっちが問いて、どっちが答えたか。
 違っても変わらない結果だったから、よく覚えてないまま時間は進んだ。

 ――思えば、この何気ない時間のときだって何かが出来た筈だ。
 寺に帰ってこられたんだから、寺にしかない物で……それこそ勉強が出来た筈。
 覚えたてで恐怖心の方が勝っていた俺には、前に進む準備をすることなんて考えもしなかった。いや、考えたくもなかったんだ。



 ――2005年11月19日

 【     /     / Third /     /     】




 /5

 夜から朝になりつつある時刻。霞さんは虚空からダガーナイフを取り出すと、ドアに掛けられたチェーンを両断した。
 入口はなんとか開けた。刃物で無理矢理開けたドアを勢い良く開けると、三人は中へ吸い込まれるように走って入って行った。俺は……血の匂いのする家に率先的に入っていけず、警戒して進んで行く。
 濃厚な血の香りは、既に玄関まで蔓延していた。ぱっと入口を見て思ったのは、『靴がぐちゃぐちゃになっていないこと』だった。綺麗に人の手で揃えられている、荒らされていない。薄暗闇でも判った。今はドタドタと土足で入り込んだ男達のおかげで泥にまみれているけど……これは……。
 霞さんの煙草の匂いを追うと、リビングに辿り着いた。思わずウッと唸ってしまう。
 一家団欒の空間は、血に汚れていた。
 躊躇いはあったが状況を詳しく確認するためにも、目を凝らす。
 血の赤は、ハッキリと見てとれた。バケツを返したように海が広がっている。
 ひどい。まずその一言が思い浮かぶ。海の中で漂っている男性の死体。どう見てもその出血量からしてこの世からバイバイしていることは確かだった。

「親父も大山さんも当主様も、最低な事を考えやがる」
「さいてい?」

 不自然に転がる男性の体を見て、霞さんは『このようなことをした犯人』ではなく、親戚の名前を口にした。
 首を傾げて玉淀さんが尋ねる。鼻を摘みながら言ったから、変な声だった。

「最低だろ。だってあいつら、数時間前にはサツが公園で死ぬって判ってたんだろ。その後にガキ二人が死ぬのも判ってたんだ。どっかの家に……この家に、犯人が忍び込むってのも判ってた筈だ。だから、『赤紙』で俺達をレストランに待機させてたんだろ」
「あっ、そういうことだったんだ! どーりで……『次の連絡があるまで好きなだけ食べていていい』って、おかしなお願いだなって思ったよ」
「『未来がある程度読める神子』である当主様が出した、『赤紙』だ。ここまで用意してたんだ、間違いねえ。……事件が終わるまで俺達は、スタンバイさせられてたんだよ」
「……うー。でも、そこまでするかなぁ? あくまで偶然だったんじゃ……」

 ――事件があったのは、ついさっき。血の暖かさからして時間は経っていない。
 警報に駆けつけた警察官三名を殺害、路地裏に逃亡。更に近辺で遊んでいた子供二名(近所に住む高校生)を殺害。現在、この家屋(居住者は三名。安否は不明)に潜伏中とのことで……。近場で食事をしていた俺達が呼ばれることになった。

「うー、なんで……? 事件が起きるの判ったなら、なんですぐに任務に行かせてくれなかったの?」
「すぐに考えりゃ判るだろ」

 ……まるで、偶然のように居合わせた俺達に。奇跡的に、近くのレストランで食事をしていた俺達四人に。
 いや、これは、偶然とか奇跡なんて言って騙される方がおかしい。

「死んでからじゃないと『我が家』に迎えられないから、だろ?」

 …………。

「う、うー……あのさ。一応、脈はあるかどうか見てみようよ、カスミン!」
「はっ、こんな状況で生きてると思うか?」
「でもさ、死んでるって決めつけちゃダメだよ! もしものことがあったらどうするんだよっ! ……あっ、いおりんっ、キッチンの方はどうだったの?」
「人生からログアウト二人目発見」
「……どういうこと?」

 正直、俺は特別この人達(霞さん、依織さん、玉淀さんの三人のこと)と仲が良い訳ではない。
 彼らは同胞で、俺と同じ羽目にあっている人達だと判っているが、交流が特にあるという訳じゃなかった。
 ――『上』からの命令で、某所で集まれと言われた。その後にあのレストランで、金は出してやるから好きなだけ食べてろと言われた。文書で。
 事件が起きるまで待ってろ、と言わんばかりに。
 事が起きてからじゃないと動けない俺達は、食事をしているしかなかった。言われた通り、特に話したいこともなく、命令通りに時間を過ごし、今に至る。

「脈は、無かった」
「………………」
「次、行くぞ」
「………………。すごく怖い顔をしているね、この人」

 酷い現状に、ひどく悲しげに玉淀さんが言った。死体に向けて。
 このような光景が初めてなのか、(それほど親しくない)俺には玉淀さんのことを知らない。この人はいつもこんな反応をするのか、そんなこと全く知らない。
 あまりに悲しく気落ちした顔に、俺は『初めてなんじゃないか』と思わずにいられなかった。

「怖かったんだろうね。……判んなかったのかな」
「……何が」
「……自分が殺される理由。『どうしてこうなったのか判らない』って言っている顔……に見える。恐怖の中で死んでいったのかな……ずっと怖かったのかな。じっと見てると余計にそう思えてくるよ。うー、悲しいなぁ……」
「ていうか、よくじっくり顔なんて見てられるな。俺は怖くて直視なんかできねーよ」

 霞さんはきっちりと生きてるかどうか触って確認すると、立ち上がってすぐにその場から離れた。
 キッチンの方で『二人目』を見ていたらしい依織さんも、早めに退散してくる。

「…………ウマ。オメー、落ち着いてんな」

 戻って来た依織さんに言われる。
 彼の指先は青白く光っていた。……キッチンにいた、女の魂を『回収』してきた証だった。

「まさか。これでも内心ガクブルですよ」
「もっと喚いたっていいんだゼ。こん中じゃ一番のガキはオメーだ。あっちでドラマチックにヒロイン役やってるタマやカスミンになんか任せなくてもいいんだぞ」
「ヒロイン役はやりたいときにやりますよ。今はそんな気じゃないんで遠慮します。それに、玉淀さんにあんな美しいヒロインポジションを見せつけられると、改めてリアクション取らなくてもいいって気がしませんか」
「俺、『泣きたかったら泣け』って男前なセリフ言ったんだゼ? 惚れろよ」
「………………。ところで、報告だと『この家には居住者は三名』でしたね」

 言って、霞さんと玉淀さんが「あっ」と声を上げた。
 リビングに死体が一つ。キッチンにも死体が一つ。衝撃的なリビングを見ていたら、みんな頭から抜けてしまっていたらしい。まあ、この状況だ、判らないでもない。

「あと、俺の勘ですが。犯人はまだこの家の中に居るような気がしてならないんですよ」
「あんだって?」
「霊媒師の勘です。それにこの家には俺達以外に吐息が聴こえるから、多分間違いない」
「リビングでじっくり死体観察なんかしてらんねーな。おいタマ、行くぞ」
「……うー、いおりん、このままにしておくのー……?」
「後で丁重に片付けさせてもらうって。魂だけ拾って次行くゼ、次!」

 言いながら、依織さんは刀を虚空から引き摺り出した。赤く光る刀が薄暗闇に光っている。もう既に鞘は抜いていた。
 玉淀さんは倒れた男の人の前に蹲ったまま躊躇していたが、霞さんに一声掛けられて、やっと立ち上がる。優しい人だ。そう思うと同時に、死んでる体をじっくり見られるなんて度胸のある人だな、と思った。

「リビングとキッチンに居たのって、メオトですか」
「あー。一軒家に住む男と女は、大体は夫婦じゃねーの」
「三人で住んでたんだから、お子さんが居たのかな……。そうだ、子供部屋に行ってみようよ!」
「玉淀さん、過去形になってる」
「うーっ」

 したくなるけど、そこは一応。
 ある部屋の扉を開けた。少しでも呼吸がする部屋を選んだら、そこはやっぱり子供部屋っぽい場所だった。しかも赤い。
 ああ、やっぱり。先程、彼らが話していた話が、そのまま形になっていた。
 子供の部屋で、子供が倒れている。血を流して。

「…………」

 依織さんから言われた「落ち着いてるな」。今さっき言われたばかりというのに、もう揺らぎかけた。
 こんな惨状を見たのは初めてじゃない。一度や二度じゃ済まないつもりだった。けど、俺は生きている人間で、生きている者達と共に過ごしている。普段の世界では……『潰れている人体』など、目にすることはない。だから、取り乱してしまいそうになった。
 前にもあったことなのに、一度見ているものなのに。だとしても、慣れるなんて無理だ。
 落ち着きは慣れからくるもの。慣れないものの前で冷静にいられることは出来ない。そして……死体を見て怖いと思うのは、人は無意識のうちに他人と自分を重ねて見てしまうから。叩き落された虫のような人間を見て、自分に重ねて、流石に怖くなった。

「うわ、こわっ」

 依織さんが口にして言ってくれたおかげで、意識がより早く帰ってきてくれた。
 声によって眩暈を吹き飛ばす。会話という日常的な行為をすることで、非日常の驚愕から帰還しやすくなるからだ。近くにいる人がすぐに口を開く人で良かった。思いついたことをすぐに喋ってしまう人で助かった。
 それよりこれから相手をする奴に集中しなければならない。ぐっと吐き気を飲み込んで潰れた子供に近寄ると、四つ目の死体が目に入ってきた。
 ……四つ目?
 思わず、数え直してしまう。理由はとても単純、簡単なこと。部屋に転がっていたそれが、場違いなものだと思えたからだ。
 住人は三名と聞いたはずなのに、今、四人目の存在を示すものがある。
 気付いたその瞬間、そいつは動き出した。腰から反り返り、まるで見えない糸に操られる不恰好なマリオネットのように起き上がる。
 ――ああ、良かった。部屋、この家にある全部が全部、死という別次元のものじゃない。だから全部、自分と重ねる必要は無いんだ。安心する。
 そう、ここは生きている人間達の世界。血をブチかましていることの方がおかしいんだ。そう考えてしまうと、『なんで四体目があるんだ?』という疑問はあっさり頭から抜けていった。まるでさっきのリビングでの霞さん達のように。

「はんちょこべえぇっ!」

 変な叫び声で再び覚醒した。依織さんの声だった。これで、二度目だ。
 依織さんは、刀で四体目を斬りつける。倒れていたのが折角起き上がったところをもう一度、殺した。
 なんてことを!? 思って……おかしいのが自分だということに、気付かされた。
 馬鹿、あれは死体じゃない。気付くまで何秒かけてるんだ。殺意をむき出しにして、耳を劈くような咆哮。人の姿に似ているようで一回り小さく、緑の爛れた皮膚を纏い、蒸されたような呼気を放つ醜悪な魔物。
 こんなの住人じゃない。依織さんの刀は皮膚を滑りスルリと打ち返され、ちっとも効いていないように見えた。
 人じゃない? ああ、ならやっぱり幽霊か。
 ――俺の、俺達の、我が家の獲物か!

「俺一人でラスボス倒す! かっけーね! でもムリ! ……だからそこに突っ立ってるだけじゃなくて援護すればいいんじゃねーかな、ウマシカ!」

 バカと罵られて、自分が馬鹿だと思い知らされて、溜息が出た。
 それも一瞬。既に装着していた手袋に念力を込める。手が熱さを、指先に集中させる。

「すみません、すぐに爆発させます」

 指を差して、異端を燃した。燃やし続けた。
 早く灰になれ。そして来世に幸あれ。



 ――2002年8月9日

 【     / Second /    /     /     】




 /6

 ――パシャリ。かしゃり。
 夏休みの帰省一日目。じんわりと暑い部屋で居眠りをしていた俺は気怠く、小さなシャッター音で目を覚ましてしまった。

 いつの間にか眠っていた意識を叩き起こして、音の方へと向き直る。
 部屋には雪見障子があって、外の光景が見える。どうして障子を全部開けなかったかというと、虫が入って来させないため。でも閉めっぱなしは視界的に暑苦しいからと、硝子で外が見えるようにしておいた。
 そうやって少しでも気分を変えようとしていた。これでも変えようとする努力はしていたんだ。
 おかげで体中にじんわりと汗が溜まっているが、虫に昼寝を邪魔されることはなく、平和に休むことができた。お昼頃から夕方まで昼寝で過ごすだなんて、優雅な生活すぎるな。そう思いながら隣を見てみるとみずほも、枕も無い畳の上ですよすよ寝ていた。頬を畳につけているから、きっと起きた時は綺麗なバーコードが完成してるだろう。
 さて、雪見障子から見える透明な先。その先に何があるんだと思って目を凝らしてみる。
 縁側で、誰かが一人、腰掛けている。
 鮮やかな『赤』が見えた。それは、髪の毛の色だった。

「……赤い……?」

 普通、日本人の髪は黒だ。染めている人も巷では増えてきたけど、こんな山奥の家では黒髪以外は多くない。
 だというのに、オレンジの夕日の中で明るい髪が見えた。不思議な音が聞こえ、キラキラ光る男の背中。夕日が入ってくる縁側に座っているから、あんなに彼の背中が綺麗に見えるのか。雪見障子の先の人は、変な音を鳴らしながら縁側の廊下中に何かをバラまいていた。
 カメラ。写真。撮っては、中から出てくる景色。
 男は夕暮れの光景を写真に収めているようだった。赤い光の中、オレンジ色に輝く世界は綺麗なもので、どろどろとした汚らしさなど微塵も感じさせない。

 ふと、廊下の先からコロコロと二十センチ台の水晶玉が転がってきた。
 木目の廊下をころころりと回ってくる水晶。夕日に照らされて透明な筈のただの玉が、きらりと光る。廊下の先で誰かがボーリングでもしたのか?
 縁側に座るカメラを持った誰かが、自分の元に転がってくる水晶玉を指で止めた。動かない機械を触っていた指が、動くボールをナイスキャッチ。その指の動きで水晶体はぴたりと動かなくなった。

 ――なんだ、この世界? なんとも珍しい光景もあるもんだ。

 見るものなんて無いと思い込んでいた寺の中で、綺麗な物のオンパレード。声に出して言うほどのこともないし、拍手するほどでもない。ほんの些細な事に小さな時間、感動しただけだった。つまらない実家で唯一思えた感動、ただそれだけのこと。
 そんなちょっとしたことに感銘を受けるほど感性豊かな少年ではないつもりだが、どうしてか心が動かされる。
 夢見でもまずない光景に呆然として……思わず、雪見障子をピシャンと開けてしまった。

「うわぁっ」

 背を向けていた明るい髪の主が、小さく驚いてこちらを振り向く。
 太陽の光の角度が変わって気付いたが、綺麗な赤毛と思った彼の髪は、ただの茶髪だった。夕日の光に照らされて赤く光っていただけの、特殊な光沢もないただの髪。日本人の顔に真っ茶色だから、なんだか不自然にも思える。まだ俺が一度も髪を染めたことがないから、余計にそう感じるのかもしれなかった。
 顔は見たことあるものだが、誰とは言えない。修行僧が着る作務衣を着てないってことは、修行するためにここに住んでいる人達ではない。でも居住用の屋敷に居るってことは……間違いなく俺の親戚の一人だ。おそらく遠縁の。

「緋馬、くん。緋馬くん、だよねぇ?」
「……はい」

 そう思っていると、縁側に座りカメラを持つ男が俺の名前を呼ぶ。
 あっちの人は俺のことに覚えがあったらしい。しかしながら、こちらは全くもってあちらの名前を思い出すことができない。呼ばれて返事をするぐらいしか出来なかった。

「そうかぁ、確かそんな名前だったぁ。何か俺に用ぉ?」
「いいえ」
「そっかぁ」

 縁側の彼は何気なく俺に問いかけ、へらっと笑い、同時に指先で廊下を流れてきた水晶玉をくるくる回していた。
 そんなことをしていれば会話声で昼寝をしていたみずほ(頬にはしっかりと畳のバーコードがついている)が目覚め、廊下の先からは水晶玉を落として追いかけてきたらしい(両手に荷物いっぱいの)男がやって来る。
 一気に集まった人混み。夏の熱風が吹く。一瞬だけ綺麗だなと思った世界は、あっという間に乱されていった。

「芽衣さぁ、さっき水晶が割れなかったからいいけど手に持てないほど大量に荷物を持つんじゃないよぉ。こういう儀式の道具ってそこそこな値段するもんなんでしょぉ? 拾ってあげたのが俺じゃなかったらプンプンされてたんじゃないかなぁ」
「無駄に指紋を付けるな、福広。視えるもんが見えなくなんだろ、それでも立派な魔道具なんだから」
「その魔道具を落としちゃうなんてダメダメだなぁ」

 カメラで遊んでいた縁側の男は親しそうに、荷物ばっかを持った男と話している。
 ――芽衣。福広。
 ――水晶に、ロウソク。巻物に古い本、だぼついた僧衣。儀式に魔道具。彼の放つ異様さは激しい。
 一方で、縁側での彼はシャツにジーパン、髪の色は茶色で、手には精密機器。普通っぽさと異常さが両方存在していて、忙しい廊下だった。
 名を呼び合って彼らがどんな呼び方をしているか知ることができたが、きっと親戚なんだということぐらいしか俺達に判ることはない。だが、儀式だか魔道具だかの会話をしている時点で、彼らが異界の住人だというを知らしめてくる。
 それに芽衣と呼ばれた男は、他にも本や長い棒や丸めた紙などを持っていて、それが全部『普通の生活では使われることのない物』だというのがなんとなくだが察することができた。
 夏だというのに芽衣は、まるで魔法使いのようなずるずるした衣装を身に纏っている。暑そうなのにそんな格好をしなきゃいけないってことは、気味悪いことをしてたのか。しようとしている真っ最中なのか。そんなことを考えていると、

「……にゃ。あの、お手伝いしましょうか?」

 荷物いっぱいの彼に、さっきまで眠っていたみずほがぴょこりと障子口から顔を出して声を掛けた。
 まだ頬に畳の痕が付いていたが、まさか妙な会話に乗り出してくるなんて。困り顔なら手助けしなきゃ、という気になったらしい。……みずほの猫被りは尋常じゃない。

「おっ、ありがとよ。助かるぜ」
「そのお荷物、持っていけばいいだけですよね? そっちのロウソクとかも持ちましょうか?」
「持ってくれるのは助かるわ。けどこっちは落とさないでくれ、割れたら困る物ばかりなんだ」
「芽衣さぁ〜。割れたら困るものをよくもまあ余るほど持ち歩けるよねぇ〜。水晶落として割れたらどうする気だったんだよぉー?」
「うっせえな、カートが出回ってるんだよ。外から来る連中が多くてそっちに荷物取られてる。『こいつら』みたいのがいっぱい来てるからなぁ」

 『こいつら』。流し目で見られた先には、俺達が居た。
 邪険にされた訳ではない。でも言葉振りが少し乱暴で、思わずそうされたのではと思ってしまう。

「……あんれ、手伝ってくれるから誰かと思えば。お前、本家の双子じゃん?」

 ずるずるの法衣の男が、手助けをしてくれるみずほへ改めて目を向けて言い放つ。
 その言い方から自分らのことを知っている分家だというのが判るが、離れている関係なのに一方的に覚えられているなんて、不思議な感覚だ。

「お兄ちゃんは? 片方はどうしたん、右手がいないと大変だろ」
「…………。いないよ」
「……みずほ」
「いないさ。ちょっと入院してる。一年ばかりいない。お兄ちゃんだけどいっしょにいないの。いっしょじゃない。で、これはどこまで持っていけばいい?」

 ロウソクを芽衣から何本か奪い取って、すたすたと廊下を行く小柄な猫。
 ……って、みずほ、お前、猫被りできてない。できないのにするな。
 あの口の悪そうな男も、なんという例えをしてくれた。みずほが双子という事実は一族中に知れ渡ってはいるけど、そんなに見間違えるほど似てない兄弟なのに。その例えは、何かとネガティブイメージしか沸いてこない。
 文句を言う前に廊下に立った二人は去っていく。残されるは、元々あった風景だった。

「なにぃ? 芽衣のヤツぅ、地雷踏んじゃったぁ?」

 カメラに指を戻しながら能天気そうな男も、ちょっと苦い顔で笑っていた。柔らかい喋り口に、こちらに笑いかけて和ませようとする雰囲気がある。

「……うん。あの人、みずほの地雷を素足で踏んだ」
「そりゃ悪かったねぇ。顔は良いけど魅力が無いのがアイツだからぁ、許してやってぇ」
「何やってる人なんですか、あの人」
「ふぇ、芽衣のコトぉ? えーとぉ、当主様直系の緋馬くんに判る説明でぇー? えーとどこから説明してあげなきゃなのかなぁ?」
「……。あの、もしかして俺のこと、バカにしてます?」
「えぇ、なんでぇ? 何かするときは必ず先に断りを入れてからするよぉ、俺ぇ。今言ったのはぁ、高貴なる本家一族の人に判りやすーく下っ端の名前を覚えてもらうにはどうしたらいいか考えただけだよぉ。ほーらぁ、俺が優しい人間だって伝わったぁ?」

 間延びした口調。縁側に座ったまま、へらへら笑いながら俺の顔を覗きこんでくる……軟体動物みたいな姿勢。
 真面目に弁解しているつもりなんだか、年下だからと舐めてからかってきているのか。たとえ本音が前者でも、八割は後者で捉われてしまいそうな雰囲気が、彼にはあった。

「オヤぁ? 無愛想な少年だねぇ、緋馬くんはぁ。噂には聞いていたけど鉄仮面みたいな顔してるよぉ。君のクールなアイズにピッタリだなぁ。あぁ、今のは褒め言葉として言ったつもりだから不機嫌にならないでねぇ。鉄仮面ってナイトっぽくてカッコ良くないかなぁ? つまり緋馬くんって予想以上にカッコ良いよねぇ」
「……和ませるでもなく元からその喋り方なんですね、解読が大変だ」
「んぅ? 全然そうある自覚は無いんだけどぉ? でぇ、さっきまで話してたのって芽衣の説明だっけぇ。えーとねぇ、あいつは大山おじさん……は判るかなぁ、あのニッコニコの人の次男坊ぉ。浅黄様の魔術一座の一員でそっちじゃ色々腕上げてるみたいだけどぉ。他に特徴はぁ、依織って知ってるぅ? アイツのお兄ちゃんでぇ、ほら調子乗ったネコっぽいガキいるじゃん、ちょっと世代が違うかなぁ、そいつが依織でぇ。あと顔は良いって評判だなぁ、一族の中で一番そこそこいい男探せって言われたらアイツがアンケート上位になるんじゃないかなぁ。ハハァ、どこにアンケート出せっちゅーねぇん!」

 ……誰を対象にしたアンケートだよ。
 それよりも居なくなった男の説明より、自己紹介をしてもらおうかと思った。
 いや、その必要は無いか。目の前の茶髪の男・福広さんは……今喋ってる『まんま』の男なんだろう。毒になりそうな、薬草っぽい性格に思えた。

「ああぁ、アイツの弟の依織も元老の元で修業を積んでそこそこいい魔法使いになってるって有名らしいよぉ。アイツんちは根っからの寺大好き一家なんだよぉ。あぶなっかしいねぇ。しかも芽衣は浅黄様だけでなく本家一族の柳翠様の人形創りまで弟子入りまでしちゃっててぇ。あの柳翠様についていけるんだから凄い奴だよぉ。って全然日本語通じないから技術を真似るだけで精一杯って酒の席で愚痴ってたけどさぁ」
「…………」
「……。えぇ? 今、俺も地雷踏んだぁ?」

 カメラを握っている男の顔が変わる。人を和ませるために笑って馬鹿にしたり、否があったら笑って慌てたりするところは印象が良い。
 けど、さっきのは間違いなく地雷だった。
 ……ああ、情けない。この人には罪はない。ただただ事実を言ったまで。
 けれど、たった一言で固まってしまう自分が、不甲斐なくて泣ける。
 ただ、名前を聞いただけなのに。――柳翠という、この家に居れば当然出るであろう名前を。
 ふるふると首を振った。アンタは何も悪くないですよと伝えるために。
 驚く男に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。こんなにも素直に自分の否を認める。それぐらいに、どうしようもないことだ。
 そこにシャッター音が響いた。思わず「あ?」と低い声を出してしまう。目の前の男は、真正面から俺にカメラを向けてシャッターを下ろしていた。

「えっとぉ。緋馬くんもシャッターでも押してみるぅ?」

 突然、話の空気が変わった。
 言われて、思わず口からぽっと間抜けな声が出てしまう。それほど調子の抜けた空気だったからだ。話の前後がよく判らなかったので、余計おかしな声が出てしまった。
 そうしている間にも、先ほど押されたカメラの口はぴろぴろと新しい一枚を吐き出していた。暫く真っ黒だった紙が、ゆっくりと俺の呆然とした顔を映し出されていく。
 物凄く、アホづらだ。
 今すぐ破り捨ててしまいたいぐらい格好のつかない俺の顔。だから「捨ててください」とドスのきいた声で言うと、

「へぇ、そんな凛々しいカッコイイ顔できんじゃん。でもさっきまでしなかったぁ。……アホづらだって気付いたからカッコイイ顔に戻れたんだよぉ?」

 と、意味深なことを口走りながら福広さんは一枚をすぐさまビリビリと破り捨てた。

「俺だけかなぁ、カメラで気分が紛れるのってぇ。世の中クソでイミ判らんなことが多いけれどぉ、それでも寛容的に受けとめていかなきゃいけないじゃん? だからこうして視点を……ってその前に変なこと言ったなら謝るよぉ……何が変なことなのかちっとも判らないけどさぁ。とりあえず今、俺は君を慰めたい訳でぇ。押してみないぃ?」
「……なかなかに不思議なこと言う人だな。そんな特別な気分解消法、滅多にいないと思う」
「俺も言ってからそう思ったぁ。まぁ、持ってみろぉ」

 ずずいと出されたカメラが一つ。
 片手で受け取ると、意外に大きくて重い物だった。穴を覗いてみるが、すぐに世界が現れなくて焦る。やっと出てきた視界は、少し薄暗かった。

「……カメラって、難しいものなんですね」
「おぉ、開始十秒で悟るとはやるなぁ」
「いや、ただ感想を述べただけなんですけど」

 重くてぐらぐらするが、徐々にコツが掴めてきて、小さな穴から窺った風景がようやく脳に到達するほどになる。そして視野はどんどん広くなり、認識できる世界は次第に姿を変えていく。
 全部がオレンジ色になっている世界。機械の穴を覗かなくてもオレンジ色の筈の世界。けれどカメラの水晶を通してみる見るそれは、余計に色を濃くしているような気がした。
 カメラから目を離す。うん、その予想は外れていない。十分に、既にこの世界はオレンジになっている。何も変わってはいない。
 けれど、水晶一つ挟んだだけでここまで変わるのは何故か。……それは、雪見障子の先の世界と、同じ感覚だった。

「別世界だろぉ」

 一言、彼が話す。主語もなく主張の足りない言葉だったが、伝えたいことは判った。
 許可を取ってから、パチリ、指を落とす。
 ゆっくりと紙が下りてきた。そこに写ったのは、一番最初に見た真っ暗なものだった。
 最初は真っ黒な世界。ポラロイドの一枚。そこに閉じ込められている光景は、一度見ているものなのに、きっと綺麗だと思うに違いない。

「別世界だ」
「少しでも視点を変えると世界って面白くなるものでぇ、でも目玉はこの位置から変えるのすっごく大変だよねぇ? だからこうやって写真で別世界を覗くと面白いしぃ、別のもんを見つけやすくなるしぃ、気も紛れるよぉ?」
「……うん」

 肯定する。
 今日の自分は素直だとよく思う。けど、そう思ってしまったのだから仕方ない。
 へらへらと締まりの無い口元。だが、不誠実ではなく真剣に年下の俺を窘めてくれているのは判った。
 労わりの言葉は、本来相手の心を癒すもの。じんわりと優しい言葉で包み込み、冷えた心を暖めてくれるもの。だが福広さんのとりとめのないようでいて実は的確な新世界への誘ないは、俺の気怠く停滞していたこの寺での風景を変えようとする強烈な力を持っていた。
 藤春伯父さんからこの一族の暗黒部を教わった。実際にあさかはその恐ろしさの一端を受け、俺達の前から姿を消した。
 異能なんて普通の人間なら触れ合わない、触れなくてもいいものを教えられるのも……こんな恐ろしい世界のせい。でもそんな世界も見方を変えれば。例えばそう、この人みたいな全然怖くない人が居るというのも知れた訳で……。

「夏休みを昼寝でのんびり暮らす贅沢も良いけどさぁ、おにーさんとちょっと世界を変えてみないぃ?」

 ふにゃふにゃとした導き手は、不安ではあるが、恐怖ではない。
 元はと言えば毎年季節の変わり目にやって来る仏田寺。そんなビクビクしていたら毎年毎年体がもたなくなる。緊張する必要なんて無かったんだ。この人みたいに緩く時間を過ごすぐらいで……。

「この光景さぁ、誰に見せたい?」
「……誰?」
「写真はぁ、この場を『ここに居ない誰か』に伝えることができる手段だからぁ。それを撮ったってことはぁ、誰かにプレゼントしたいからぁ……じゃないのかなぁ?」
「……アンタが撮れって言ったんじゃないですか。そういう考え、初めて聞いた」
「えっ、そうぉ? 写真てそういうものだと思ってたんだけどぉ」
「なんでも自分の考えと人がいっしょだと思わない方がいいんじゃないかな。……俺にも言えるけど」

 真っ暗が変わっていく。何かが映し出されていく。
 なんでもない、ただの実家の庭が現れてくる。
 誰に見せたい、って誰かに見せるとしやら……。この人、もう答えを言ってる。それは、『ここには居ない誰か』に決まってるだろう。



 ――2005年11月19日

 【     /     / Third /     /     】




 /7

 異形の息吹が消え、やっと安心できる時間になった。

 全員が、恐ろしい異端を前に息切れをしていた。依織さんの刀はなかなか通らず、霞さんや玉淀さんが加入しても攻撃することすら敵わず、俺の炎でなんとかダメージを入れることができた。霊体との対決となれば、そうなるのは仕方ない。
 俺の魔術で一人なんとかするしかなかった。でもそんな俺も、依織さんが一喝してくれなきゃ使い物にならなかったのだから、一人でなんでも出来る訳じゃない。
 ……少しテンパってしまったのが恥ずかしい。それだけこの事件の犯人が強敵だったってことにしよう。

「血のニオイ、イヤだね」

 そう言うのは、相変わらず切なそうな顔をしている玉淀さんだった。今回のヒロイン役はやはり絵になることを言う。

「んなモン、好きになるヤツが居たら異常。そんなヤツは、異端として狩られるべきじゃね」

 全くその通りなことを、霞さんが呟く。
 呟きながらも彼は、携帯電話を開いていた。全てが終わったという連絡を『本部』に入れるためだ。流石最年長、動きが慣れている。

「タマ」
「…………うー。いおりん、怪我してるよ」
「怪我は男の勲章だぜ、エンブレムだぜ。あとで治療魔術で治すわ。…………で、やっぱオメー」
「うー……?」
「凝視するんだな、そんなモンを」
「…………悪いことかな」
「俺にゃ死体を凝視するなんて怖くてできない」
「んー。……怖いけど、でも、この子って数分前まで俺達と同じで生きてたんだよ。同じ人間なのに、こんなに変わっちゃうもんなんだ。血がいっぱい出てぐちゃっとしちゃうもんなんだ。だから見なきゃ。同じなんだから普通の人間みたいに見てあげなきゃ差別しちゃうことになっちゃうよ」
「その理屈、ちょっとワカンネ」

 依織さんはそう言って、一応脈を看る為に子供に近付き……。ピタリと動きを止めた。
 その不審な動きを、玉淀さんが視る。察知して、彼は駆け出す。
 霞さんもプッシュの手を止める。俺も、「まさか」と口を開く。

「生きてる!!!」

 三人が、ほぼ同時に声を上げた。
 俺の目には最初……子供が叩き潰されているように見えた。そんな姿を見れば死体に見慣れた見慣れないに限らず、絶対に『死んでる』と思う。
 なのに、よく見れば子供はまだ息があり、動いていた。さっきの四体目とは違う……非常に人間らしい動きで、苦しみ喘いでいる。

「おいウマ! 突っ立ってないで……ホラ! お前も治療の魔術とかやれよ! やるんだよッ!」
「緋馬、無理とか言うなよ? 言うんじゃねーぞ? 死ぬ気でやれよッ!」
「俺も何かするよっ! と、とりあえずタオル!? シーツでもいいっ!?」

 大声で怒鳴られて、前へ引っ張り出される。ああ、はい、と俺は途切れがちに頷いた。
 どう見ても死んでいる人間の前に連れて来られ、息を呑んだ。脅迫されながら患部を看るが……これは、どうやっても。でも。死んでるっぽいのに、生きていた。
 こんな奇跡、何回やっても起きないってぐらい、酷い状況で、生きてる。

 ……まさか。
 ああ、生きている……。
 どうせ死ぬ運命なんだって、決めつけちゃいけないんだ……。

 思い当たる治療の呪文を唱えた。詠唱を間違えないように、でも急いで口ずさんだ。
 依織さんは刀で自分の指先(魂を回収した指ではない指)を傷付けると、その血塗られた指を……体液を、子供の口元に押し込んだ。

「ほうら飲め飲め! 俺の血が飲めないっていうのかーッ!?」
「依織さん、意識の無い人間に水分与えるのは危険ですよ」
「バーロー、緊急事態だ! エマージェンシーだっ! つーかオメーはひたすら止血の術を唱えてろ! 休むんじゃねーぞッ! それに今の俺には6367カロリーの血があるんだ! 栄養あんぞぉ!」
「…………全部計算してたんですか、あのメニュー」

 生きてることぐらいに、そっちも驚きだ。

 ――さて、電話をする霞さんは新たな助けを呼び……玉淀さんはシーツをぐるぐる巻いて冷たくなりつつあった子供を暖め……依織さんは無茶な回復魔法を唱え続けて……。当初のコンセプト通り、冷静に事を進める。
 それで今夜は、終わり。『赤紙』の届いた今夜の任務は、終わる。いつの間にか日付は変わっていた。
 そして今、任務ではない本気を、俺達は出していた。



 ――2005年3月30日

 【     / Second /    /     /     】




 /8

「オレンジ髪はすすめないよぉ」

 高校の新学期まであと数日を控えた春休み。子供達の大型連休になるたびに、伯父さんは仏田寺に俺達を連れてくる。
 4月に入ってもまだ肌寒い山の上、とある屋敷の廊下にて。福広さんは一言、忠告を俺へ送ってくれた。
 やっぱりこの人は言葉が足りてない。どこに進もうとするのか、どうしてダメなのかこちらから聞かないと話さないのは悪い癖だ。相打ちをすることさえも面倒くさがる自分とは、実は相性が悪いんじゃないか。
 と、福広さんと付き合い始めて二年が経ってからの仲で気付く。

「茶髪の俺がそう言うんだからぁ、間違いないぃ」
「ワケ判んない。もっと理由を論理的に説明して」
「論理的かぁ、そりゃ難しいなぁ。暖色って写真映り悪いんだよぉ。赤とか目にきく色ならともかく茶色や橙色はダメだぁ。とにかく顔が目立たなくなるぅ。人間を写す中で茶髪の人ってやりにくいんだぁ。オレンジは色が似てるから、わかるだろぉ?」
「あのさ、福広さん」
「うんぅ?」
「写真撮る専門の人が、自分が写る心配してどうすんの」
「あ」

 やっぱりこの人、正直アタマが足りてないんじゃないかと思う。説明するはいいけど、肝心なところで妙な方向へ走っちゃう人だ。
 だけど俺のツッコミも放置して福広さんはハハッと笑い、一件落着。髪の毛は既にドライヤーで乾かしてある。百均で買ったカッパを着て、さあ準備。
 アタマの足りてないと気付いた人に染めて貰うのは少々不安があるけど、他に頼める人を探すのがメンドイから諦めるしかない。
 今から髪を染める。初めてのことをしてもらう。でも話は前々から聞いていたし、知識も準備も万全だ。
 薬品を出された瞬間、ツンとした匂いが鼻を強烈に攻撃してきた。頭部にひんやりとした感触が広がり、鼻、皮膚に続きて今度は目にじりじりと刺激を染み込ませてくる。次々と押し寄せる揺さぶりに俺は瞼を閉じた。
 本当は見張って自分で指示した方がいいけど、それも面倒になって最終的には全部福広さんに任せた。

「さっきの話ですけど」
「なにぃ?」
「赤は、目立つんだよね」
「ああぁー。赤い着物って写真でも目を惹くだろぉ? 振り袖とかも赤が一番可愛いしぃ。それに和光様が着てるお着物のまっかっかぁの紅蓮もぉ、あれは和光様が紅蓮と呼ばれていたからの格好だと思うけどぉ」
「茶色は、目立たないんだよね」
「俺、さっき言ったよなぁ? それもう一回説明しようかぁ?」
「……あいつら……。そこまで負い目、感じなくていいのにな」
「ええぇ?」

 ぺたぺたと整髪料を髪の毛に付けながら、福広さんが首を傾げたのが判った。
 目を瞑ってるし後ろにいるから、そんな姿は想像なんだけど。

「ところでさぁ、ウマぁ。なんで色、オレンジにしたんー?」

 するすると髪の毛を弄びながら尋ねてくる。
 福広さんは何度も自分で染めてるだけあって手際が良かった。流石だ。元々手先は悪くない人なんだし、思考回路さえしっかりしてれば尊敬に値する人なんだから最後までやってもらいたい。

「藤春伯父さんが金色だから。差別化しようと思って」
「確かに藤春様は髪を金に染めていらっしゃるけどぉ。怒らなかったのかぁ?」
「……染めること、まだ言ってない」
「ははは、不良だなぁ。なんでウマは染めるん?」

 ただのお洒落かぁ? クシで平等に塗りたくりながら、尋ねてくる。
 「そうだよ」と答えてしまうのが一番ラクだった。だからクシの邪魔にならないように頷く。

 ――あの夏からちょっと時間が経って、新年明けた2005年。双子の片割れが『入院』から帰ってきた。
 俺達家族は、全員で退院してきたあさかを迎えた。あさかが、まず帰宅して第一にしたことは……。グレて、『頭を真っ赤に染めた』。
 昔よりは髪を染める人口は増えた。けど、赤髪はそんなにいるもんじゃない。どうして赤く染めたのかいまいち心情が理解できない。どっかの誰かの真似か。あさかが入院している最中に、何かあったのか。そんなことがあったせいか……あさかに負けてられないと、みずほも明るい調子で髪の毛を染めた(こちらの色は茶。案外、普通だった)。

 二人は気分転換に自分を変えたかったんだと思っていた。でもさっきの福広さんの言葉が頭をよぎる。……まさか、みずほがそこまで考えているとは思えない。そんな色彩論を彼らが知ってるとも思えない。ということは、無意識にそうなるよう事が進んでしまったということか。
 それはなんだか物悲しい。あさかはグレたと言っても髪の毛を染めたぐらいだ。でも今までのあさかとは別人になってしまって、みずほもそれを倣って、だとしたら。
 あいつらはやっと二人に戻れたというのに、形を変えてしまった。
 ……いずれ子供は大人になる。成長すれば形を変えていく。それを目に見えて、手っ取り早い形で行なっただけ。今の時代ならごく普通のこと。そう思いたい。
 そして自然なことなら俺だってしてもいい筈だ。……そうだ、してもいい筈だ。二人の変化を『特別』にしないために。俺がすることで『特別』ではなくなるようにするために。ごく自然な行為の一つとして、今の時間を過ごしていた。

「伯父さんも、おばさんも、息子達も、周りが全員染めていて俺一人黒髪というのも芸が無いなと思ってね」
「だからってオレンジ色の頭は強力だぞぉ。滅多にそんな色に染めてる奴ぁ居ないからなぁ。ウマもさぁ、別人に生まれ変わりたいとかそういうのだと実に青春ってかんじでいいねぇって思ったんだけどぉ」

 そうだとしても、青春真っ最中の若者は気恥ずかしくて言えないだろ。そんなこと。
 はいはいそうかもしれませんね、と適当に返すが、そんないい加減な返答にも嫌な顔をせず彼はにまにまと唇を常時歪ませていた。何気ない会話もそこそこ楽しい、と言うかのように。
 福広さんは笑いながらも俺も貶すことなく、最後まで髪染めを手伝ってくれた。
 特殊な色だからか時間は山ほどあっても足りない。匂いが飛ばせるよう選んだ縁側から太陽が見える。もう少しで本物のオレンジ色に染まるぐらい、時間を費やしてしまった。
 水に流しに洗面所に向かい、髪を濡らす。濡らした後の髪は、まだ茶色に見えた。完全に髪の毛が乾くまで、鮮やかな色は出てこないらしい。鏡と暫し睨めっこをしていると、ふっと後ろに自分以外の顔が現れた。伯父さんだ。

「何色だ?」

 現れた途端こんな一言を飛ばすなんて、さすが伯父さん、と口走りそうになった。
 少し頬の筋肉が緩んでしまう。調子づいた声で返す。

「オレンジ」
「オレンジぃ? けったいな色選びやがって」
「驚いた?」
「驚くわ。早く乾かして見せろや」
「良かった。意外性を狙っただけに、驚いてくれて嬉しい」
「そんな一発芸、すぐに廃れんぞ。既に息子で目に痛い赤髪なんぞ見てるからな。食卓で果物より明るい頭ってどうすんだ、お前ら」
「どうするの?」

 頭に乗せたタオルの上から、更に掌が乗ってくる。
 大きくて広い手が、わしゃわしゃとタオルを支える。頭から飛び散る水滴が服に付く。濡れてしまう。でも、嫌とは思えなかった。

「早速、街中でも歩くか」

 斜め横をいった返答に、おもわずタオルの下の目が丸くなる。
 どういう心意気なのか、目で訴えてみた。

「街でも歩いて見せつけてやれや。田舎もんにはいい刺激になるだろ」
「……伯父さんってホント、目立ちたがり屋だよね」
「昔からの性格だからな。そうだ、明日はどっか行くか。今日はもう日が沈むからダメだが、映画にでも行くか?」

 ええ、喜んで。
 優雅に言ってしまいたいが、そんなの俺のキャラが違ってビックリするだろう。口をぐぐっと紡ぐ。「伯父さんが行きたいなら……」と、軽く返事をした。

「そうか、良かった」

 濡れた前髪とタオルを掻き分けて、微笑んだ姿が見えた。
 あんまり伯父さんはニコニコ笑う人じゃない。かと言って無口でクール系という訳でもない。そんな無駄に微笑むなんてことをしないってだけだ。
 だから、一言、俺が誘いを受けたということで喜んで笑うなんて珍しい。さわやかに笑うなんてことをしない人だから、特に。
 洗面所まで福広さんについて来てもらわなくて良かった。外の水道であの人は手を洗ってる。そっちを選んでもらって本当に良かった。でなければ、今の会話が無かったかもしれないから。

 ――実の息子達が帰ってきてからというもの、伯父さんの悩みは無くなったように穏やかな笑みを浮かべる用になった。仮の息子である俺は、強く思う。
 『仕方ない』と自分に暗示をかけていた苦しげな伯父さんは、もう居ない。それもこれも、双子が元通りになったからだ。
 俺がどんなに気遣おうがかなわなかったことを、一瞬にしてかなってしまった。
 悔しいとか、絶対言わない。伯父さんが元通りに笑ってくれる日々になったんだから、良しとする。

「あさかとみずほも一緒に行くの?」
「いいや、アイツらは学校の用事があるって行かないんだと。だから行くのはお前だけだな」
「……それって、二人がキャンセルしたから俺に急遽まわってきたってクチ?」
「そんなことはないぞ。暫く出来なかった親父顔をさせてくれ」

 そうマイナスに物事をとらえるんじゃないぞ、と忠告してくる伯父さん。
 それに隠れて、俺はガッツポーズを決めていた。実際にやった訳じゃない。だって目の前でしたらあやしいし。それに、実際やったら……まるで、デート予約に成功した青春野郎に見えちゃうじゃないか。

「高校生って、券いくらだっけ」
「それくらい俺が払うぞ。お小遣いから金出されたって、結局は俺の金だしな」
「そうなんだけどさ。でも気が引けて。俺、今バイトしてないから」
「学生は学業に専念すりゃいいんだよ。変なところに脱線するな、それにウチは金に足りてねえ家じゃないだろ」
「うん……おばさんが精一杯稼いでるもんね」
「毎日仕事が恋人みたいな女だからな。一番の稼ぎ頭が頑張ってくれているおかげで、楽しく遊べるんだ。だから無駄な心配なんかすんな」

 伯父さんだって同じぐらい働いてるのに、そんな言い方。おばさんとの信頼関係がよく出ていて、自然と頬の筋肉が緩んだ。緩みすぎて落ちて無くなってしまそうだ。
 豪快なんだか、それとも我が家特有の金を撒き散らす馬鹿か。そう言って貰えるのはありがたいんで行かせて頂くことにしよう。
 伯父さんと二人で出かけられるなんて、あまり無いこと。なによりも嬉しく、どんな時間よりも楽しいイベントの訪れに、今から胸が高鳴っている。
 好きな人に良く思われたくて必死に考えついた先の結末に、にやける顔が隠しきれない。
 ふと鏡に写った自分の顔が気持ち悪くて仕方なくなった。ただでさえ顔色悪い表情が歪んで見える。なんてキモイ。
 でも、不機嫌にはならなかった。



 ――2005年11月19日

 【     / Second /    /     /     】



 /9

 退魔組織『教会』は異能関係の警察組織と言える。
 正確には警察と言い張れるほど力は無いらしいが、日本という国で退魔やら異端討伐やらからの防衛手段を持っている能力者集団ではシェア一位。この組織が実質、日本で一番頼れるお巡りさんと言える。自分達の利益を追及している魔術結社の我が家とは大違いな、人々を守る平和維持機関だ。
 遠くのお山に本拠地を構える仲間を呼ぶよりも、近くで救急車を呼べば駆けつけてくれる教会の方が頼りになることもある。実家は実家なりに優しさも暖かさもあるが、時には他人の手も借りねばならないこともある。
 今がそれだ。唯一救出された一家の子供は、『教会』の手で異能関係に精通した病院に搬送された。本日倒した異端が殺した人間を死屍人(グール。ゾンビと言えば判りやすい)にしてしまう力を有していたが、あの子が無事人間として蘇ることができるように祈りながら、俺達は救急車を見送った。
 ピーポーピーポーという音が夜の町に響き渡っている。真夜中の事件ということで、周囲の住民達が窓から不安そうに、もしくは興味深く救急隊員達を眺めていた。でもいくら彼らを目に焼きつけたって、世の事実になるかは判らない。
 そのうち一家惨殺という痛ましいニュースがお茶の間を震わせるかもしれないし、『教会』が情報にストップをかけて一家の存在は人知れず消えていくかもしれない。
 『教会』はその力の大きさと社会の治安を守る尊い精神から、行政機関と連動している。一般市民を不安がらせないために情報統制するのは仕方ないことだ。一気に五人が無くなった今夜のことは、有耶無耶にされる可能性は高いと思われる。
 たとえそれが十人であろうが、おそらく百人が死んだとしても『教会』なら事実を闇に押し込むことができる。おそらく『教会』を動かしている重役の人達にも、我が家の当主陣営が所有しているような記憶改変の術を身につけている人がいるだろうし。

「あの子は、両親と離ればなれになっちゃったね。うー……」

 去っていく救急車を見ながら、玉淀さんがポツリと呟く。
 暫くサイレンの音でうるさかった夜の道、ちゃんと神経を集中させていなければ何て言ったか聞こえなかった。集中させていた理由は、「どうかこれ以上事件が起きませんように」と心の中で切に願っていたから。周囲の異常がありませんようにと警戒していたからだ。

「両親は異端に殺されて。おれ達が魂を回収して。でもあの子だけ助けたから、もう家族は会えないんだね。悲しいな」
「……玉淀さんは、みんないっしょが良かったって思うんですか。あの子も両親といっしょに助からない方が、悲しくなかったと」
「タマはそんなこと言ってねーよ。頭弱いんだからそんなイジメんな、ウマシカ」

 俺が冷たい激励をしてやろうとしたとき、すかさず依織さんが小突いてきた。全然痛くないが、背中を人差し指でぐりぐりと突かれる。その声は厭味ったらしくも怒ったものでもなく、冗談のように軽かった。
 死別は誰にだって悲しい。でも、全員死んでしまってもやっぱり悲しい。
 けど、一番は全員生きていてだが、それが無理なら。……俺達のしてきた救助は、間違いじゃなかったと思いたい。
 前向きになれず嫌な考えが頭をぐちぐちと満たしていく。頭を振るっていると、誰かと通話中だった霞さんが電話を切った。どうやら『本部』との連絡が終わったらしい。
 なんでも近くの公園でも事件があったらしく、そちらでも魂の回収をしろという。『まだ回収していないのだから』早めに、とのこと。……話によるとこの家での事件が起きる前に異端が立ち寄った公園で、そこに居た男子学生二人を殺害、駆けつけた警察官も殺害したらしい。既に三名を殺した後にこの家での一家惨殺を行なった異端。俺達四人が寄ってたかってようやく倒した一体の強さが、ようやく理解できた。
 あの死屍人生みの異端は、今夜だけでも五人を食らって成長していたんだ。負の感情をご馳走に成長する異端だもの。今日が一番、乗りに乗っていたんだろう。

「なんでもあっちの山でも四人ぐらい喰らった異端がいて、『まだ未回収』だって言ってたけど、流石にそこまでは俺達も過労死するって訴えた。別の人を派遣するって渋々折れてくれたが……ったく、大山さんも笑顔で無理難題押し付けすぎだぜ」

 それは霞さん、良い仕事をした。これから公園に行き、しかもあっちの山にも行ってこいなんて酷すぎる。
 いつも柔和で優しく笑顔で対応してくれる大山さんは実は仏でもなんでもないと判って、思わず背筋を震わせてしまった。
 今日だって俺達だけじゃなく、もっと何人かを派遣してくれれば……話を早くよこしてくれれば、その公園の事件とやらを事前の見回りで助けることができたんじゃないか。とある山で起きた四人ぐらいの死というのも、回避できたんじゃないか。
 『せめてあと二人ぐらいいれば』。
 かと言って自分らがすべてやる気にはならない。さっさと近くの公園とやらに行きましょう、と言おうとしたとき、霞さんの電話が再び鳴り響いた。
 それなら電話しながら歩こうということになり、俺達は既にパトカーが到着しているであろう公園に向か……おうとしたが、霞さんはすぐに足を止めた。
 先に進んでいく俺達を「待て」と止めさせる。いや、止めさせたのは……俺だけだった。

「緋馬。落ち着いて聞けよ」

 電話を耳から外した霞さんは、いつになく固まった表情で俺に声を掛ける。
 動きが硬い。ずしっと何かが彼の肩に圧し掛かってうまく喋ることができなくなってしまったような、そんな緊張感に襲われている。玉淀さんや依織さんに比べたら霞さんは元から陽気という訳ではないが、それでも俺に笑いかけてくれていた大人だ。その大人が、俺に凄みのある声を聞かせている。
 それだけで、電話先がとても大切なことを言ったのだと思わせる。
 とてもとても、聞き逃してはいけないことを言ったのだと判らせる。

「お前のおばさんが、死んだ」

 ――ごつん。
 唐突に頭を殴られて激しい眩暈に襲われるような、強烈な一言。
 呼吸が狂いそうなほどの驚愕。心臓が止まりそうな恐慌。他の二人ですらそれは同じ。霞さんの声を聞いた二人は、二人に言った言葉ではないのに、目を見開いて驚き声を上げている。
 みずおちを打たれたように声が出なくなった俺は、魂が抜かれたようにその場に立ち尽くしてしまった。



 ――2005年11月19日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /10

 仏田に嫁いできた女は悲しい運命を辿る。数百年前から言われ決まっていることだ。

 嫁ごうとする女は、そのことを一番最初に教わるらしい。だから全員が知っている。
 時には強制的に仏田へ送られた女もいるそうだけど、現代では自分の意思でやって来る人の方が多いと聞く。『悲しい運命』を約束されているのに嫁いでくるなんて、一体どういう考えだ。悲しいことを進んでする人の気持ちが、俺には判らない。
 仏田は女子を尊ぶ家だが、それは『仏田の血を持つ女子』のみの話。『仏田でなければ人で非ず』とまで考えているような家だ。外からやって来た血など『下賤なもの』としてしか扱われない。
 でも女がいなければ子は作れない。血は残せない。だから女がいない以上、外から母体が求められてきた。『下のもの』と扱われながら、子を生まされる。女子を求められる。そして女子を産むことが出来なかったら『更に下のもの』と見なされる。しかも嫁ぐときは『契約』をして、仮にも仏田を名乗れるよう『体に流れる血を書き換える儀式』を行なう。そうして無理矢理仏田にされてから母になり、功績を上げられなければ仕打ちが待っている。
 どう見ても、先に『女としての幸せ』なんて見出せない。『悲しい運命』はどこまでいっても悲しいものなんだ。何年も何百年も変わること無く、それは続いていた。
 それでも嫁ぐ価値があるとされているのは、仏田を名乗れる『契約』を行なえば千年にも及ぶ魔術の一門の知恵を手にすることが出来るから。自分の子が名家の重役になれば、溢れるほどの金を手にすることが出来るから。もし女子を産むことが出来れば『神を産んだ者』として一生を讃えられる存在になれるから。
 野心家の女であれば嫁ぐ理由は大いにあった。女の周囲にいる野心家達(両親や別の一門の代表者)としても、嫁がせ成功すれば良い話ばかりだった。だから仏田の家に女は集まっていた。
 現に仏田の敷地内に居る女達は、皆エリートだ。重役に認められた者達が揃っている。境内に住む子供達を世話する女中も全て、当主やその周辺に気に入られた一流の能力者達だった。

 全員、仏田の神を求め、魂狩りを目的とし、同化を信仰し、更なる高みを学ぼうとしている研究者達だ。ありとあらゆる分野の者達が集まっている、知恵の拠り所だった。
 女は、現存している仏田を名乗る血筋の一割しかいない。それも殆どが、外から来て『契約』を果たし、『一応仏田の血を流している』だけの女達だ。残念ながらこの女の中に『生粋の出』は一人もいない。仏田の男と仏田の女から生まれた仏田の女子は、ここ数百年では一人もいないとされていた。
 女子を求めて子作りに励む一割の女達。今も尚、繁殖を試みている者達は居たというが、最近は新しい仲間の誕生を聞いていない。やたらと子を作る風習は無くなったのか、単に不作続きなのか、それとも生まれても男ばかりだから無かったことにしているのか……まあ、気分の悪くなる話は後にしておいて。
 あそこで働く女も、そちらで働く女も、仏田の敷地内に居る女は全て、仏田の神に従い研究をし続ける者だったけど、そんな女達の中で一人だけ違う毛色を持った人が居た。

 ――彼女は二十年ぐらい前に、初めて子供を産んだ。
 男子だった。暫く経った後、双子の男子をも産んだ。いずれも女子を産むことは出来なかったが、彼女はそんなの気にしなかった。
 自分の腹で元気な男の子を三人育てることが出来ただけ、好きな男の子供を孕むことが出来ただけ、彼女は女としての幸せを全うしていた。
 それが藤春伯父さんの妻、俺の義理の母・あずまの話だ。
 藤春伯父さんと彼女は、外界で出会った。お見合いじゃなくて恋愛結婚。お見合い率百パーセントだった仏田の中で、藤春伯父さんは外で彼女と出会い、交流を深め、子供を作り、結婚した。
 人間が家から出て働くのも当然。外に出れば人に出会い、出会えば情が生まれ親しくなっていくのも当然の話。でもそれは、『仏田』という閉鎖された山の上では異常な話。
 藤春伯父さんは当時一番偉かった当主の次男坊だ。その大事な大事な血をどこの馬の骨かも判らない女に取られたんだから、お堅い人達ばかりだった当時は大問題になったという。
 そんなことなどお構いなし、自由な心を持った藤春伯父さんは彼女を妻として名乗らせ、子供を産ませた。
 不安があっただろう。でも堅苦しい世界をブチ壊していく二人はとても楽しかったんじゃないか。少しの勇気で出来るものじゃない、周囲をギャフンと言わせたくってやったんだと思う。

 ところが、せっかく産まれた第一子は狭山に攫われた。抵抗はしたが、取り戻すことは出来なかった。
 色々あっても彼女は藤春伯父さんの妻をやめなかった。強い人だ。それどころか、血の繋がっていない甥っ子である俺・緋馬を育ててくれるほど逞しい女性だった。
 続いて彼女は第二子、第三子を産む。今度は何事も無く自分の手で育てることができ、仲の良い三兄弟として俺、あさか、みずほは首都圏のマンションですくすく育った。

 そうして、また事件が起こる。
 今度はあさかの長期入院だ。仏田のお家騒動に巻き込まれ奪われた第一子に続き、仏田の血の関係で、彼女は第二子を奪われることになる。
 言葉汚く言ってしまえば、『どちらも夫側の家に問題のあることだった』。
 ただ愛する男と子を成し、女として母として、凪のように生活できれば良かった筈なのに。夫の周囲がそれを許してくれず、破天荒な人生を歩まされていた。
 彼女は仏田の血など興味が無い。藤春伯父さんに惹かれたから縁を結んだ女性だ。家の継承権がなんだとか派閥の維持のためだとか、血が暴走するとかよく判っていない家の出だ。
 判っている家の方がおかしいんだから彼女は全然悪くない。悪いのは……本当に、『藤春伯父さんの周囲』と、『藤春伯父さんを選んでしまったこと』ぐらいなんだから、彼女は悪くない。
 次は一体何の波瀾が起きるか俺だって心配だった。そんなの当の本人はもっと心配だっただろう。俺より二倍も生きている女性なんだから。

 彼女は俺よりずっと多く考えた。悩んだ。そして決断をした。
 『藤春伯父さんとの離婚』という選択肢を選ぶ決断を。
 『もう貴方の周りに振り回されたくない』と言う選択。いつか選ぶんじゃないかと思っていたそれを、彼女は、一番迷惑の掛からないタイミングで選んだ。
 俺が退魔業を独り立ちしてやっていけるようになった頃。藤春伯父さんの仕事が忙しくない頃。絶妙なタイミングで彼女は離婚届にサインをした。

 その七日後、彼女は不慮の事故で亡くなった。



 ――2005年11月21日

 【     / Second /     /     / Fifth 】



 /11

 通夜は俺達の実家である仏田寺で行なわれた。
 まだ俺やあさか、みずほは学生だから、学校の制服姿で式に出席する。華やかな学生服も式場では誰も元気にしてくれなかった。
 いつも派手な格好をしたがる藤春伯父さんも、今日ばかりは落ち着いた黒のスーツを着ている。
 お葬式のとき、喪主の人は悲しんでいる暇など無いという。俺もクラスメイトの親が死んだから出席するというのは一度や二度経験したことがある。傍から見るとさして親しくなくても手伝いたくなるぐらい、多忙に見えるのに、今日の藤春伯父さんは落ち着いていた。
 ここが実家だからか、式を用意してくれる人達が全員見知った仲だからか。その親しい人達が全員気遣いながら式を進行してくれるからか。藤春伯父さんは慌てることなく、席に着いていられた。

「やぁ、ウマぁ」

 同じように席に着いている俺に、作務衣姿の福広さんが声を掛けてくる。笑ってはいるが、にこやかな表情ではなかった。

「…………ども」
「『不慮の事故』かぁ。新しい人生を歩み始めたばっかっていうのに、残念だったねぇ」
「…………そうっすね」

 茶髪で作業着の彼は、通夜の進行には直接関わっている人じゃない。
 彼の仕事は葬式後のお食事会場の準備や、これから行くであろう墓地の清掃だ。式の進行に関わらないとはいえ、重要な仕事を任されている筈の福広さんが声を掛けてくるなんて。しかもへらへらした顔じゃないなんて。彼なりに、俺への気遣いをしているようだった。
 「やぁ」と声を掛けてきたはいいが、それから先は何も会話は弾まなかった。「元気ぃ?」とも言わない、「ご機嫌いかがぁ?」とも言えない。普段楽しいことしか話さない彼は、シリアスなムードに対応出来る会話の種は所持していないようだった。それはそれで彼の長所でもあるけど、大変そうだった。

「ウマさぁ、ごはん、食べてるぅ?」

 無難で、相手のことを気遣った問い掛けに俺は、笑ってやった。

「そこそこ食べてますよ。今の学校の学食、不味くはないんです。油っこいフライも食べられるようになってきました」
「あぁ、そぅ。そりゃぁ、良かったねぇ」
「おばさんは健康志向の人でしたから、高校生男子が好きそうな油料理は用意してくれなかったんですよ。今じゃそのヘルシー料理も恋しいですけど。もう食べられないのは残念です」
「……そっかぁ」

 十七年間、俺は彼女を母として生きてきた。
 母の料理を食べなくなって三ヶ月、そろそろ恋しくなったところで、この仕打ちだ。涙は流さないまでも、悲しくてたまらない。
 そこで俺はハッとした。
 第一子が攫われ、第二子も奪われた彼女。第三子まで奪われるかもしれないと思われていた彼女。……ああ、奪われていたじゃないか。
 ――俺だ。
 俺は、『彼女の息子』をしてきた。藤春伯父さんのマンションに、彼女が居たマンションに『息子として』、十七年間過ごしてきた。
 今年の夏、俺は『退魔の仕事』と称して寮暮らしを強制され……彼女のマンションから引っこ抜かれて……。
 ――なんで今の今まで気付かなかったんだ。彼女は、四人いる息子のうち三人を……仏田に奪われていたんだ。
 お腹を痛めて産んだ子でないけど、彼女にとっては第一子とも言える子である俺を。「他に適任がいないから」とか「修行不足だから」とか、彼女にとって意味不明な理由で奪われて……。
 そのとき、彼女はどれだけ傷付いたんだ。……また。三度目の傷は、どれぐらい大きなものだったんだ? 四度目が耐え切れないぐらいだったんじゃないか……?
 今年になって離婚を決断したのも、それがキッカケなのか?
 ……俺がいきなり消沈し始めたからか、福広さんはグシャグシャ俺の頭を撫でた。その後、俺の制服のポケットにスニッカーズ(食べやすくてカロリー多めのお菓子だから仕事に追われる人には素敵アイテム)を詰め込み、笑って去って行った。
 こんな俺とは楽しく話が出来ないと思ったからか、話せば話すほど俺のクールビューティが傷付くからと考えてくれたからか。判らない。けど、形のある気遣いだった。

 ――式は進行していく。僧侶長の松山さんが御経を読む。変な楽器をチンチンと鳴らす。喪主を始めに、線香をあげていく。
 その在り来たりな葬式風景の中、俺はずっと今までの彼女のことと、これからの藤春伯父さんのことを考えていた。
 これから藤春伯父さんはどうするんだろう。
 彼女とは、一週間前に赤の他人になったところだった。一生遊んでいけるような慰謝料を払う約束をしたとか聞いたが、ホントかどうか定かではない。
 別れること自体にはトラブルは無かったと聞いている。少しばかり言い争いはあったが、それは喧嘩というよりお互いの心の内側を知るための行為だ。
 藤春伯父さんと彼女は、今や無関係者だった。それでも、二十年間連れ添ってきた女だ。不仲で離婚した訳じゃないから、別れた後もずっと関係を持っていく筈だったのに。……支えを失って藤春伯父さんは、どうなってしまうんだろう。
 俺は不安でならなかった。

 ちなみに。彼女の本当の息子である、あさかとみずほはというと。
 俺が泣かなくてもいいぐらい、今もわんわん泣き続けていた。俺が福広さんに声を掛けられている間も、松山さんが御経を読んでいる間も、ずっとずっと二人仲良く泣き続けていた。でもそんな二人を誰も咎めなかった。今日ばっかりは誰も文句なんて言わなかった。
 式を進行している人達は、死を悲しみ泣き続ける人間なんて慣れっこと言うかのような顔をしているぐらいだ。彼らにとってそれが仕事なんだから当然だった。

 ……ちなみにちなみに。もう一人の息子、本物の第一子である、ときわさんは。

「………………お母さん」

 眠りにつく母の顔を見て、そう呟き、固まっているのが印象的だった。
 付き添いの圭吾さんが肩を抱いてその場を離れさせようとするまで、ずっと見ているぐらいだったんだから。涙は流さなくても、あさかとみずほと殆ど変わらないことをしていた。
 そういや、ときわさんって面と向かって「お母さん」って言ったこと、あるのかな。どうなんだろ。
 これが初めてじゃないことを祈る。そんなの悲しすぎるからだ。



 ――2005年11月21日

 【 First / Second /     /     / Fifth 】




 /12

 雨が降り始めた。まるで陰鬱な雰囲気作りの為のような雨だった。
 冷たい水が地面を覆っていく。体が寒くなっていく。心まで寒くなってしまいそうな、攻撃的な雨だった。
 俺はというと、一晩寝ないで彼女と一緒に居る彼の隣に居た。

「通夜となったら誰かしら起きてなきゃいけないんだから伯父さんが居よう。それに火の用心をしなきゃいけないしな」

 線香の匂い立ちこめる中。おばさんの眠る横に座る伯父さんは、笑ってそう言った。
 交代してくれる身内なら周囲に沢山居るのに、自分が一人で全てやると言ったらしい。

「これは喪主の務めだし、伯父さんがしたいことだから」

 彼の立場に相応しい言葉をそのまま口にしていた。
 反論する隙も無く、「全くその通りだね」と同意せざるえない感じの言葉だったが、俺は隣に腰を下ろした。伯父さんの座る座布団の横に、同じように座布団を敷いて、座る。

「緋馬は眠いだろ? 子供なんだし寝ていいんだぞ」
「俺、夜の活動は慣れてるんだ。ゴーストハントは大抵夜にやってるからね」
「それは改めないといけないな。その年で規則正しい生活しないと、背が伸びなくなるぞ」
「……十七歳の今、絶望視しているからもういいよ」

 出来ればあと五センチ欲しいところだけど、成長率が悪くなっている。
 かと言って運動するとか規則正しく寝るなんてたるくてする気にならない。チビの血を甘んじるのも悪くないと思い始めていたところだった。

「藤春伯父さんが、『おばさんと二人きりにさせてくれ』ってロマンチックに言うのなら出て行くよ」

 それぐらい言ってもいいとは思う。でも伯父さんは、「三人で居よう」と言い出した。
 もし寝ろと言われても今の俺は全然眠くない。一方、規則正しく泣き疲れたあさかとみずほは境内の布団の中だ。多分、火刃里と尋夢が使っている子供部屋で並んで寝ているに違いない。
 ときわさんは……焼香だけすると去って行った。彼は彼で忙しい。通夜ふるまいにも参加しなかった。
 家族の中で伯父さんに付き添い出来るのは俺しかいない。変な使命感に燃えて、俺は眠気をどっかにやっていた。

「家族が居なくなるのは悲しいことだな」

 伯父さんは、どこを見ているのか判らない目でそう言った。
 俺は「そうだね」と、よくある返答の仕方をする。

「いや、もう家族じゃなかった。もう家族じゃなくなったんだっけな」
「……家族じゃなくても、親しい人間が居なくなるのは悲しいことだよ」

 俺もどこも見ていない目で言った。伯父さんは「そうだな」と、よくある返答をする。
 あまり会話が発展しない会話を続けていた。二人でいつの間にかそうやって夜を越そうと決めたみたいだった。

「……ねえ、訊いていいかな」
「なんだ?」
「……嫌だったら言わなくていいことだけど。どうして伯父さんは、おばさんのことを好きになったの」

 いつしか、時間を潰そうと捻り出した話題は『相手の過去を抉る』真似になっていた。
 もちろん「嫌なら話さないで」と断る。嫌々ながら話されても困るから何度もそれを言う。
 でも伯父さんは深呼吸をすると、ゆっくりと口を開いてくれた。

「俺に興味が無い女だったからだ」

 結婚した女性に対してそんなことを言っちゃう伯父さん。
 座布団の上でラクな姿勢を取りながら、本当にどこを見て話しているんだか判らない目で言っていた。

「……説明、してくれるかな」
「緋馬は当然のように小学校、中学校に通った」
「まあ、義務教育だからね」
「義務教育っていつから始まったものだか、知ってるか?」

 俺は知らなかったので、即座に携帯電話を取り出し調べ始めた。
 山奥の寺の電波は一本。外との繋がりは薄い。三本立つことはそうそう無かった。

「ざっと調べてみたけど、『1947年に学校教育法公布』だから……六十年前ぐらいにスタートしたのかな? でも『百年ぐらい前から通学率は九十パーセント以上』なんだって」
「そうか」
「それが?」
「伯父さん達は、その十パーセントだった」
「…………」
「新座は小学校に行けたっけな。悟司も行ってたかな? でも匠太郎は俺と同じで寺に篭りっきりだった気がする。つまり匠太郎より上の連中はな、俺も含めて……大人になるまで外へ出せてもらえなかったんだよ」
「…………」
「大人って言ったって、十五歳ぐらいだけどな。例外は何人か居たけど、例外にならないと出させてくれない時代だった」
「…………」
「寺の外に出さない理由は『穢れた空気を吸わないため』とか『下手に女と交わって外に血を出さないため』とか聞いたな。……寺の方が汚れてると思うよ。あと十五歳以下の子供が女と交わるとか考えるなって思うよな。……そういう考えが普通に蔓延っているここが、俺は嫌だ」

 でも外には出してもらえなかった。伯父さんはずっとずっと遠い目をする。

「今さっき、緋馬は携帯電話で簡単に外にアクセスして、情報を引っ張りだした。そんなこと、昔は出来なかった。外の情報は、外からやって来た人間が気紛れに俺達に教えるだけだった。気紛れを起こさなかったら何一つ外のことなど知りえなかった。学校を知らない俺達は、親が決めた修行のスケジュールに沿って、武術を学んだり魔術を学んだり実戦訓練をしたり字や数を教わったりした。……ああ、字と数っていうのはな、『魔術を学ぶために教わるもん』だと言われたっけ」
「……国語と算数の後の応用じゃなかったんだね」
「だってここは『能力者による能力者のための能力者開発所』。『神を研究する研究者達の研究所』。それがここだからな。……生粋の血で産まれた者は、外から入ってきた者より良い結果が出せるものだとされている。だから教育する側も必死だった。結果を出すように、必死の教育に、必死で振り回されたよ」
「……必死って『必ず死ぬ』って書かれていて不吉だよね」

 緋馬は面白いことを言うな、と感心して笑われた。
 良かった。伯父さんは『そんな声をしていても』まだ笑うことが出来るようだった。

「その修行スケジュールは、今思えばキチガイ染みたもんだった。それで生まれ育って俺は、当時を疑うことなんて出来なかった。……もし緋馬が同じことをされるとしたら、俺は命を掛けて助け出してみせるぐらいだ」
「伯父さんステキ」

 ありがとよと、華麗に返す。なんかスルーされた気もした。

「そんな教育をされていて、俺は外に出た。同時に、自分の家が異常なんだと気付いた」
「……気付けたんだ」
「気付かないでそのまま大人になった奴もいるさ。……狭山様なんか良い例だな。子供を傷めつける教育ことが美徳だと思ってやがる。十二時間も魔導書に張り付かせるとか、十八時間も剣を持たせ続けるとか、二十四時間寝ずに化物に襲わせるとか、そんなものを教育だと信じている」
「…………」
「……俺も外に出るまで『それ』がこの世の道理だと思っていた。でも外に出て、『教育の中で人が死ぬのが普通じゃない』って知ったとき、『他人の否を探して言わせ合うのが普通じゃない』って知ったとき、『女が子供の上に乗って精を強請るのが普通じゃない』って知ったとき。……気付いた」
「…………」
「外に出られたのは勿論『仕事』のおかげだ。初めて外に出て魂を狩りに行った。そのときに外の人に出会って何度も話をして、気付いた。それまで知らなかったんだ」
「……ふうん」
「そんなときに、出会った」

 話が本題に入る。
 酷い世界の構図を話すだけ話して、迷子のまま終わってしまうかもしれないと思い始めた頃に。

「それまで俺は、会ったことある女はみんな抱いてきたんだ」
「…………。なんか、スッゴイたらしみたいな台詞だね」
「事実だ。実母も乳母も叔母も抱いたぞ」
「…………実のお母さん、も?」
「『供給』という名目で。あと女子が出る可能性は産めば産むほど高くなるからな。獣というか、虫みたいに、繁殖を繰り返した」
「…………でも、伯父さんの子って、三人だけだよね……?」

 奪われた第一子と、運良くなのか悪くなのか一緒に飛び出しちゃった双子。その三人の筈。

「『生かした』のがこの女の三人の子ってだけだ。……記録に残ってるのが、ときわとあさかとみずほってだけの話。あとはみんな、女子じゃなかったから。…………失敗だったから」

 失敗だったから。
 ………………だから?

「緋馬。汗、拭け」

 ……11月に言われるとは思わなかった言葉だった。ハンカチなんて大層な物を持ち歩いていない俺は、だらだら流れる汗を腕で拭う。

「『女を産めば神』っていう単純なルールだから、孕める体だったらいくらでも挑戦したくなるもんらしい。……『女』じゃなくて『研究者』っていう生き物は、そういう意識で我が家にやって来るんだぞ」
「…………その、もし……女子じゃなくて……失敗しちゃった、命は、どうしたの?」
「……失敗作を育てても意味が無いから、処刑された。例外無く。ああ、ちゃんと供養はしているぞ」

 しているから良いって話じゃないけど。
 ……例外無く。残っているのは『大量の三兄弟』として存在している者達だけ……ってことか。生き残りはいないんだ……寧ろ、生き残ったのが俺が知っている『三兄弟』なのか。

「伯父さんは知っての通り、ちょっと偉い生まれだった。当主の次男だったからな、いっぱい相手をした。そういう風なスケジュールの組み方だったから、相手をするしかなかった。出会う女はみんな俺の血に興味があったから。…………緋馬、そろそろ判るだろ?」
「……うん」

 あずまおばさんは、藤春伯父さんに興味が無い女性だった。
 それでも、藤春伯父さんと知り合った女性だった。
 ……今まで見てきた世界は恐ろしいものだったと気付いた伯父さんは、今までのことを否定し始める。これからのものを好意的に受け留め始める。よって……。

「『俺に興味を抱かないで知り合えた女』に惹かれた。俺から告白したんだ」
「…………へえ」
「あ、もちろん趣味があったのも大いにあるぞ。好きな食べ物も同じだった。よく食事に行こうって誘われて、仲良くなった。何より……『自分は女兄弟だったから男の子が欲しい』って言ったのが、俺の中ではとても新鮮だった」

 それまでみんな、「女が欲しい」と口を揃えて言っていたから。

「『仕事』のときぐらいしか外に出なかった俺は、アイツがいたから外で暮らそうと思った」
「……それで、あんなキレイなマンション、買っちゃったと」
「マイホームは夢だろ。……好きになった一番の理由は、やっぱりサッパリした性格だったな。物分かりが良かったし、諦めの良いところもあった。衝突しなかったと言えば嘘になるけど、俺の家を理解してくれた……」
「…………」
「ときわが奪われたとき、あんだけ争ったのに、それでも俺の隣に居てくれた。俺に合わせて主張を……諦めてくれた。それでもなお『好きだ』って言ってくれた。ああ、俺は俺を『好きだ』って言ってくれる人が好きになったのかもしれん。……申し訳無いな。ああ、申し訳無い。こんな俺より良い人が幸せにしてくれたかもしれない、そんな良い女だったのに。…………ん?」

 ……俺は、伯父さんの手を握った。
 伯父さんは驚いたというか何だ何だと不思議そうな視線を向けていた。それでも構わず、俺は伯父さんの手を取った。
 雨で気温が下がったから手先が冷たくなってきたんだ。そういう言い訳を用意していたが、伯父さんは……手のことを問い質すことはなかった。

「あのさ。伯父さんがおばさんを否定すると、あさかやみずほが悲しむ。というか、怒るよ」
「……そうだな」
「だから『もっと良い人がいた』とか言わない方がいい。俺は……おばさんの実の子じゃないから、傷付かない。けど、絶対あさかとみずほは傷付く。だって伯父さんとおばさんの子供なんだから。存在を否定されるもんだ。存在否定は誰だって嫌だよ。俺も嫌だ」
「…………すまん。確かに、そうだ。すまん」

 弱々しい声で伯父さんは謝罪の言葉を口にした。
 少し顔を突いたら、涙でも出そうだった。でも伯父さんは大人だから泣かない。俺が前に居るから泣かないようだった。それぐらい、今にも泣きそうになっていた。
 ――泣いていいんですよ。
 そう言おうと思ったけど、そんなの伯父さんのプライドが許さない。俺の前じゃ泣かないと決めているから伯父さんは、今も涙を流さない。
 じゃあ俺がこの場から去ればいい話だが、……それは嫌だった。俺が、嫌だった。

「よしよし」

 伯父さんの頭を撫でる。茶化すように撫でた。
 ……俺は『俺が伯父さんの隣に居たいからここに居る』という我儘な子供だ。伯父さんがおばさんを想う気持ちは知っているけど、それと同じぐらい俺は伯父さんのことが大好きだった。
 一緒に居たいと思った。だから、子供という武器を振りかざして……ここに居続けた。

「伯父さん、好きだよ」

 俺は唐突に告白をした。
 嘘偽りの無い言葉を口にした。ちゃんと伯父さんの耳に届くように、声に出す。

「……緋馬?」
「いつもの伯父さんが好きだよ。これからの伯父さんも、きっと好きだよ」
「……そうか」
「そうか、だなんて一言で片付けないで。……ほら、おばさんと同じように貴方のことを『好きだ』って言う人がいるんだよ。なら大事にしてよ。『好きだ』って言う人を大事にしたくなるんでしょ? 俺は、いくらでも言うよ……」

 ずっと言いたかったことだから。
 …………たとえ『可愛いもう一人の息子』だと思われようが。
 よしよしと撫でる頭が、ふらりと揺れた。倒れてくる。俺の胸の中に傾れ込んできた。

「ごめんな、緋馬。ごめん」
「ううん。好きだよ」
「ごめん」
「ううん。今日からおばさんの代わりになってあげる」

 いいや、寧ろ、ならせてください。
 土下座して頼みこみたいぐらいだったけど、ギャグになるからしなかった。今は雨がしとしと降るシリアスシーンで良いんだ。
 敵わないと判ってギャグに逃げるのは良くない。……俺の本気をこれから見せていかなきゃいけないんだから、踏ん張らなきゃいけないんだ。
 男女の中を越えられるか判らないけど。二十年以上一緒に居た人を越えられるか判らないけど。……死者を越えることなんて、出来る訳ないけど。

「好きだよ」

 ――死んでくれてありがとうなんて絶対言わない。言うもんか。こんなに悲しいんだ。言える訳が無い。
 でも、この状況はなんだか嬉しかった。
 最低だ。俺が死んだ方が良いぐらい。最低だ。



 ――2005年11月19日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /13

 その日のうちに魂を献上する。新鮮な命が腕から離れていき、当主の中に取り込まれていく。
 ずっと光緑様に頭を下げていたが、この場を去るため頭を上げたとき、当主様の『苦しそうな』顔が見えた。
 魂を取り込んだから苦しいのか……? いや、そうじゃない。この状況を苦々しく思っているからの表情だった。
 その顔は燈雅様に似ている。実の父子だから当然のことだけれども……光緑様は半世紀を過ぎた年だというのに、十も二十も若く見える程とても若々しくあるから余計に……。
 当主様の居る本殿、『本部』の間から数十メートル先の廊下まで離れたところで、梓丸が死角から突貫してきた。

「男衾ちゃーんー! お仕事おっつー!」

 普段なら避けるのも容易い筈なのに、俺も気落ちしていたのか、梓丸の気配に気付くことが出来なかった。
 今日の梓丸は、身内の葬式のせいか落ち着いた色合いの振袖姿をしていた。……女物らしい寒色のグラデ着物なのはいつもと変わらずだが。彼なりに謹みを持ってはいるらしい。

「…………なんだ、梓丸」
「ねぇねぇー、リンちゃんがさー、お酒飲もうって誘ってきてくれたのー! 『酒豪の藤春様を元気づけるためだ』ってお酒買ってきたらしいけど、絶対それって違うよねー! 自分が飲みたいだけじゃないかなー? んー、でもリンちゃんって気遣いのデキるステキなオトナだからホントだったりしてー? まーいーやー、可愛いアタシを誘うのはデキるオトコに間違いないーっ。ってワケで男衾ちゃんも飲もー!」
「……いや、俺は結構」

 背中に張り付く両性類な小動物を剥ぎながら、俺は寝室に戻る廊下を歩く。するとシンリンと飲む部屋も同じ方向なのか、梓丸も俺と同じ廊下を歩いていた。
 ふざけた異端の魂を回収したその帰りにもう一つ大仕事を終えた俺を気遣っているのか、茶化しに来たのか、ただ好意で誘いに来ているのか。普段から変わらぬ明るさを振り撒く梓丸を思惑を読み取ることは難しい。俺の拒絶を見ても強引に向き直らせようとしてくる。

「ダメだよー、男衾ちゃーん。気落ちしているときこそ飲んで食べて元気になっておかなきゃー。もっと神経ズ太く生きなきゃダメだよ。そんなんじゃ処刑人とかやってらんないよー」
「やっている。現在進行形だ。やっていられる」
「どーだかー。デキる仕事人は『ボクめっちゃ傷付いてますー』っていうお面を貼り付けながら歩いちゃダメだよー。あ、でも泣きたかったら僕の胸でお泣きー。クリーニング代さえ出してくれれば胸レンタルしてあげるよー」

 梓丸のあまりのハイさにもう既に一杯やっているのかと思ってしまう。一杯飲んでいるのは有り得る話かもしれない。梓丸も藤春様の元奥方の通夜ふるまいに参加したのだから、日本酒の一杯や一瓶ぐらいは……。
 明るく前向きなことを梓丸は言いながら、俺の右腕を取ってきた。腕に抱きつきながらの行進は、不格好で器用に歩みを進められなかった。梓丸が顔を寄せる(と言っても身長差が三十センチはあるからそう簡単に近寄れないようだったが)。そして声を潜めた。

「『男衾ちゃんは無罪なんだから、胸を張っていれば誰も怪しまないってー』」

 …………。

「『だってアレは不慮の事故なんだからー。第一発見者はありのままを言ってればいいんだよー』」
「それでも。………………無抵抗な人間を殺るのは、嫌だった」

 ぱちん。
 至近距離に居た梓丸が、俺の頬を叩いた。
 ぱちんなんて可愛い音だったが、物凄く力を込めての一撃だった。少し位置を変えて中央の骨に命中していたら鼻血が出るぐらい……。そんなの梓丸の手自体が痛くなることだからしないが。

「……梓丸」
「じゃあさ、こう思えばいいよー。『あの人はなんと異端だった』。それなら男衾ちゃんは良いことをしたって思えるよねー? 『異端が藤春様の懐に潜んでいた』って考えたら怖いでしょー! 男衾ちゃん、スッゴイ手柄だよー!」

 ………………。

「っていうか元からあの人、異端だよねー? 悪い人だよー? 何の貢献もしないのに大事な大事な藤春様の二十年を無駄にしたんだからさー! メッチャ悪人じゃんー! だから凄いんだよ男衾ちゃんは、隠れた超ボスを退治したんだもーんー! これで藤春様は外にキョーミ無しになって自分から寺に戻ってきてくれる筈ー! ほらー、ステキだー、元気出しなよー! ひゅーひゅー男衾ちゃんサイッコー!」
「ああ、元気出す。元気出すから……」

 もう黙ってくれ。
 梓丸の口を掌で塞いで、シンリンの居る部屋とならに向かった。そこで一杯飲んでも良かった。……このムカムカした気持ちを抑えつけるには酒の力を借りても良いと思ったからだ。
 一瞬、当主様の顔を思い出した。
 それは多分……ああ、気付いてしまったからだ。あの魂の主が、弟様の大切なものだったんだから。
 バレてしまったか。ああ、最悪の気分だ。そうでなくても最低だというのに。
 最低だ。そう、俺自身が。最低だ。

 これが『悲しい運命』を約束された仏田に嫁いだ女の、終わり方。その一つ。




END

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