■ 003 / 「仕事」



 ――2005年9月19日

 【     / Second /     /      /     】




 /1

「起きろ、馬鹿」

 朝一番の言葉がそんな言葉。たった一言の始まりで、天気はとても良いのに、心地の良い目覚めとは言いにくいものとなる。
 元から車の中で眠っていたのだからそんなに深い眠りについてはいない。一言、下品な起こし方をされて直ぐに目を開けた。
 車窓には少し厚めなカーテンが掛けられている。隙間から入ってくる日光が、いかに今日が清々しい朝かというのを知らせてくれていた。
 ふくよかで大きめな車はいつか使ったカプセルホテルより寝心地が良い。それでも車内は寝づらかった。

「……んっ、むぐ、う。カスミちゃん、なんだよう。まだ到着してないじゃんか」
「その寝ぼすけの顔のまま依頼主に会いに行くのか? 馬鹿言ってんじゃねえぞ馬鹿」

 乱暴な言い方とあくびで眉間が歪む。がしがしと肩を揺すって起こす彼は、もう顔も洗ったかのように元気だ。常に生気で溢れているのが、カスミちゃんらしいとは言える。
 ダッシュケースに入れてあるウェットティッシュを手に取り、顔を洗う。隣から「新座も下品よ」と指摘されたが、流石にここはキャンピングカーでないから水道まで完備されていないのだからしょうがない。でも僕らの為に何でも揃っていた。
 車内で一夜を過ごしてどう元気を出せというんだ、と文句を言いそうになって口を噤んだ。こんなの言ったら、カスミちゃんの導火線に火を付ける。危ない危ない。
 車は揺れていたが、顔を拭いているうちにある場所に停まる。大きなお屋敷の前の駐車場に着いた途端、大柄で元気いっぱいのカスミちゃんは飛び出した。普通の車よりは居心地の良いここも、朝から体をまわせないとなると苦しいらしい。
 ドアが開かれて生の風が入ってくる。カーテン越しに見る空とは、全く違うものが見えた。
 運転席の圭吾さんが、エンジンを止めてふうっと軽く息をつく。助手席に座っていたもう一人・悟司(さとし)さんは、後部座席にいる僕へビニール袋を投げ飛ばした。慌ててそれをキャッチする。
 コンビニの袋の中身は、その見た目通りコンビニのおにぎりだった。

「――うむ、おはよう、新座くん。軽く食事をしたら行くから準備してくれ」
「おはようございます、悟司さん。圭吾さんもおはようございます……。あの、圭吾さんって、一晩中運転してたの?」
「ああ、運送が俺の役目だからな。これぐらいしかすることないもの。幽霊退治の本番は兄貴と霞(かすみ)に任せるだけだ。もちろん、新座くんにも」
「あ、はい。僕以外、全員朝ご飯食べたのかな?」
「霞と兄貴はとっくにね、俺は今から。まぁ、俺は本当に新座くん達をここまで送り届けることが仕事だから、これからゆっくり食べさせてもらうよ」

 聞いて、「僕はゆっくり取ってる場合じゃないのか」と察し、慌てておにぎりのビニールを剥がし始めた。
 車外を見れば、カスミちゃんが準備運動を始めている。体の鈍りを取るために動かしているようだった。
 その動きは先程の圭吾さんの言葉といっしょに、僕を急かしているようにも見えた。駐車場でストレッチをしている変な筋肉男は置いといて、もう少し周りを見渡してみる。
 とても豊かそうなお屋敷が建っていた。

「新座くん。そんなにがっついて食すな。仕事中に腹を壊されては困る」
「あ、むぐっ、ごめんなさい」
「大丈夫だよ、この任務はきっとすぐに終わるさ。終わったら新座くんの好きなお店で打ち上げでもしよう。腹八分目にしておくんだよ」
「ありがとうございます、圭吾さん。美味しいケーキのお店、探しておいてくださいね」
「……もうケーキを食べることは決定なんだ? はは、了解。だからちゃんと終わらせてくるんだよ」

 はははっ、と軽く笑う圭吾さんにつられて笑う。
 悟司さんに叱られながらもシーチキンマヨネーズを呑み込み、車外に出た。

 ――僕らは、仕事の為に昨夜、車に乗り込んだ。
 急な話だった。いきなり教会に車を横付けされて、カスミちゃんに押し込められた夜。車内で大体の事情を話されたが、準備が一切出来ずにここまで連れて来られた。と言っても、『オバケ退治』の準備なんて体が一つあれば済む話なんだが。
 それにしても急だ。我が家の『本部』は、いつもこうだった。
 気遣ってくれるときはとことん神経質なほど過保護になるのに、人手が足りなくなったら強制的に遣わされる。
 無論やることをしたらそれなりの報酬を貰えるとはいえ、もう少し待遇を改めてほしい。直ぐに車に入れられたせいで、ロクなオシャレもできないままだ。ちょっとそれが気にくわない。
 せっかく綺麗なお屋敷にお呼ばれされているというのに。薄暗い太陽の下、あらためて『現場』を見て愚痴りそうになった。

 車外に出るとそれに気付いてカスミちゃんが僕を見る。
 見ただけ。何も言わず、仏頂面に屈伸運動なんてしている。相変わらず態度の乱暴な幼馴染を見て、彼の性格だと判っていても、口がへの字になった。
 きっとカスミちゃんも、僕と同じように『押し込まれて来た』んだ。だから自分を押し込んだのもその憂さ晴らしで、押し付けられた『仕事』の慰みに……。

「なんだよ? 馬鹿新座、メシ食うの遅いんだよ」
「起きてすぐゴハンなんて食べられないよ。それとバカバカ言うな、ふんだ」
「さっさと起きないのが悪い。日が昇ったら目覚めろよ、それとジロジロ見んな」
「見てない。……けど」
「けど?」

 仕事は、家の仕事だ。
 お互いそれを職としている訳ではない。それは車内にいる圭吾さんも、悟司さんも当てはまる。
 自分達は家からの命令で動く。命令という言い方は強いニュアンスを含んでしまうが、それ以外に言い方が思いつかない。それを、『現世神からのお告げ』とでも言えばカッコイイか。
 依頼人と取り決めた約束の時間まであと八分というところで、車を出た悟司さんに「新座くん、霞。行くぞ」と声を掛けられる。
 さあ、行くか。僕達のしている行為をただ『お父さんからのおつかい』と言ってしまうこともできる。オバケ退治なんて、そんなに大したものではない。家業だから、手伝わないと後が怖いだけだ。

「おはよう。まだ言ってなかっただろ。それとカスミちゃんのバーカ」



 ――2005年9月19日

 【 First /    /     /     /     】




 /2

 『退魔』というビジネスがある。
 魔を退く。オバケや悪魔を祓ったり退治をする仕事。『霊や悪魔の始末屋』だと格好付けすぎる言い方だと思うが、つまりはそういうことだ。
 『殺し』ではない。始末しなければならない存在は生者以外であって、僕達が扱うのはもう死んでる人達だ。

 昔から『退魔』は血によって受け継がれていく。魔物を退治する方法は、一般的な学校では教わらないことだ。知っていてもいいが、あまり公にしない方が良いと学んでいた。ここ数百年では異端の力を口にすることは好まれないと現代は、特にそういう風潮になってきている。
 けれども現代にも魔物は存在するし、非日常は隣り合わせにある。異端を認知する者達は少なくなってはいるが、魔物の数が減ったという訳ではない。表に出さなくなっただけで、退魔はずっと継がれていくものだった。

 武器で魔を倒す家もあれば、術で魔を滅す家もある。我が家は典型的な退魔の家系で、十の魔術を一つの結晶にして遺していき、血筋をより濃くしていったものだ。
 本来であれば『その家の技術』は大抵一子相伝で、本家の長男だけが受け継ぐものとされている。しかし、我が家は違う。
 特定の魔術書を纏めた訳でもなく、ただ一人にしか扱えない伝説の剣を作り上げたのでもない。
 僕の家が生み出したものは、『特別な血』だった。
 『その血』を引いた子供は、何百何千年と溜め込んで来た『知識』全てを扱うことができるというもの。
 どんな仕組みなのかは、何百何千前の祖先でないと判らない。簡単に言ってしまえば、『我が家に生まれてきた子供は自然と退魔師の力を得る』仕組みになっている。
 だから親戚同士で集まって退魔業をしていた。「力を持って生まれてきたんだから手を貸せ」というのが『本部』の言い分だ。
 この現代社会、外で会社員をしてようが私立高校に通ってようが、その血を持っている者なんだから『本部』の言う事には従う。そう多くが教育されていた。
 僕はその『本部』にいる人物の三男坊だ。
 通常の特殊能力者一家であれば、力を引き継ぐことのできない論外の三つ目。年は今年で三十になった。普段は実家から二県も離れた小さな仕事場で、現代社会人として生活をしている。
 しかし『血を全部抜きでもしないない限り』、どこに住んでいようが何をしていようが『本部』からの命令は下る。
 それは今日、同じ車の中にいた者達も全員当てはまることだった。カスミちゃんも圭吾さんも悟司さんも、みんな同じ血だ。全員親戚で、僕にとって他三人はハトコ兄弟にあたる。そして、あの三人は三人とも実の兄弟だ。
 僕と彼らは小さい頃から実家で同じ釜の飯を食べた親戚幼馴染みでもあった。お互い無事に成人し、職を持ち、実家を出て新たな生活をしている。
 年に数回、こうやって顔を見せることがある。それが今だった。

 車で圭吾さんは待機、他三人は品の良い屋敷に入る。
 チャイムを鳴らせば、これまた上品な女性が出迎えた。この屋敷に住むに相応しいとも言える、優しげな壮年の女性だった。
 入り口を通してもらうと、やはり中も西洋風の豪華な邸宅。何かに取り憑かれそうなお家だった。

「ご依頼頂いて参りました。このお家に間違いないでしょうか」

 悟司さんが先頭に立って女性と話す。
 この三人の中では最年長で一番落ち着きのある悟司さんは、喋ることが仕事でもあった。依頼人と話をすることなんて誰にでも出来ることかもしれないけど、退魔業をするにあたって一番重点を置かなきゃいけないことかもしれない。
 悟司さんの眼鏡の下の真面目そうな目は、どんな依頼主にも信頼を得る。堅物な親父なら誠実な好感を得られるし、若い女性なら軽く食事に誘えるだろう。少し軽めの人なら威圧感を与え萎縮させることだってできる。
 今日の悟司さんはひどく落ち着いていた。母に近い年頃の女性ということで、柔らかく接するよう心懸けているようだ。

「はい、わたくしの自宅です。少々お待ち下さいな、今すぐご用意しますから。三人分、お茶を」
「お気遣いありがたいですが、結構です。我々は貴方の悩みを解決するために来たのですから。お茶でしたら終わった後、個人的にお付き合いしましょう。お困りのことがなくなった後なら気兼ねなく楽しいお話ができますしね」

 婦人がふわり微笑んだ。
 途端、悟司さんの後ろにいたカスミちゃんが顔を逸らして腕を組む。ゾワリと寒気がしたんだろう。実の兄が、母親ぐらいの年齢のオバサマを口説いたのを見たんだから。
 女性に失礼にならぬよう僕も笑う。充分に和んだところで、本題に入った。

「もしかしたらワタクシの気のせいかもしれません。けれど……嫌な人影が見えて、怖いのです」
「人影ですか。泥棒ではなく?」
「人間であれば雇った警備員が対処しますし、監視カメラも反応するでしょう。もちろん、警備員と監視カメラの目が届かないほど高度な泥棒さんなら困ったものですが……あれ、は……。居間にいるときに、ふっと見たのです」
「泥棒ではないという確信があるのですね?」
「人影というのは、皆さんに判りやすく言うためです。実際、ヒトの形をしているのかワタクシには自信がありません」

 居間に連れて来られ、女性は高級そうなソファに腰を下ろし話を始める。
 座るよう勧められたが、席に着いたのは悟司さんだけで、僕とカスミちゃんは大人しく後ろに立っていた。
 紅茶も出されたけど僕らは飲まない。けど悟司さんは、依頼人に気遣わせないようにカップに口を付ける。甘党でもないのにたっぷり砂糖を入れて、場を和ませるのが仕事と言わんばかりに。

「視界の端にふっと現れて、見ようとすると消える。もしかしたらワタクシも仕事のストレスかもしれないと思ったのですが、そうでもないようで。……ワタクシ以外の者も見たと言いますから。メイドも、それこそ警備員までも。『恐ろしい影が居る』と、だから不安で……」
「このお屋敷にはいつから?」
「元々、知人に譲り受けたものですの。ちょっと市街から遠いですけど、自然に囲まれて良い場所でしょう? それに装飾品も綺麗だし、一目で気に入りましたので簡単に手放したくないんです」
「ええ、自然豊かで素晴らしいお家ですね。……車で、一晩かかったぐらいですから」

 嫌味ではなく、ジョークとして悟司さんは口にする。
 女性もそれを好意的に受け取ったらしく、クスクスと笑った。
 冗談じゃない、とカスミちゃんだけは苦い顔をしている。依頼主の女性には見えぬよう、居間の窓を向いてだ。

「綺麗にしましたけど、古いお屋敷ですの。だからもしやと思って……貴方達に来て頂けて嬉しいわ。そちらは指名する人が多いでしょうから、もしかしたら来てくれないと思っていたの」
「ありがとうございます。しかし、何故、我らをご指名に?」
「もちろん、確実なお仕事を為さると聞いたからですよ。それに長年続く素晴らしいお家ではないですか」

 有名ですよ、と言わんばかりに女性は笑う。
 どうやら、駄目もとで掛け合ってみたのに一級品に選ばれて、ちょっとだけ嬉しかったみたいだ。
 確かに我が家は、あちこちから仕事が来る。大きな場所の何を退治しろから、小さな家のあれを消してくれ、まで。
 あれこれやりすぎているから、実家を出ていった者達にまで声が掛かるんだ。手広くビジネスをしている『本部』が憎まれても仕方がない。
 憎むような輩はそういない、けど。

「お褒め頂き嬉しい限りですよ。私も『仏田』の名に恥じぬよう、全力で貴女をお助けします」



 ――2005年9月19日

 【     / Second /     /      /     】




 /3
 
 女性と屋敷にいる者達を外に出させた。
 外では待機している圭吾さんが対処している筈だ。対処と言っても、仕事が終わるまでの世間話の相手だけど。

 僕達三人以外誰もいなくなった屋敷。何かがいる中心部を探して歩き回る。
 西洋風のお屋敷は歩けば歩くほど『お城』という言葉が使いたくなる場所だというのが発覚した。
 家具は煌びやかだし、掃除は行き届いている。所々に置いてある花瓶も燦々と咲いていた。先程言ってた通り、お姫様を夢見る女性であれば一目で気に入るお屋敷。だけど、お姫様を夢見なくても違うものに気に入られるかもしれない。

「おい、馬鹿新座、どうだ?」
「……居間が一番良いね。さっきおばさんも『居間で見た』って言ってたし、あそこが好きなのかな。奴も」

 高級感漂うカーペットの敷かれた階段を下りながら、そんな会話をする。
 廊下を通り、居間に戻ってみると悟司さんが先程から座っているソファの上でノートパソコンを開いていた。
 カタカタと指でならしているキーボードに、光る眼鏡。なんだかマッドサイエンティストのようで少し怖い。仕事で顔を作るときは優しい声も暖かな視線も作れるのに、自分一人になると眼鏡の下が無表情になる。悟司さんはそういう人だ。
 静かな顔が似合う悟司さんは何かをリサーチしていた。一方、カスミちゃんは腕を上に伸ばしながら、怠そうにあくびをした。朝っぱらからストレッチをしていたあの元気さは無い。清潔感溢れる耽美な世界を歩いていたせいで、疲れているらしい。
 カスミちゃんは、お城よりジャングルの方が似合う男だ。今は一応スーツを着込んでいるが、上着の下はタンクトップ、車の中では色褪せたジーンズを履いていたぐらいだ。「さっさとこんな趣味の悪い城なんて出ていきたい」というのを全身から醸し出していた。

「アニキ、何か判ったかよ?」
「うむ。今、ときわに調べてもらったんだが、やはりこの屋敷はいわく付きのようだ。前の主が不審な死を遂げていると記録があった」
「はぁ、またそれかよ。『おつかい』させられる度に同じ台詞を聞いてる気がするぜ」
「それだけこの国にはいわくが多い。いや、どの世界に行っても我々退魔師が行き着く現場はいわくだらけだぞ。諦めろ」
「たまには派手な怨霊とかいないのかよ」
「そんな大層なモノの場所へ下っ端のお前が送られるものか。今日は別の場所でも何人かが『仕事』に出ている。我らは我らに与えられた任務を遂行させろ」

 ぶつぶつ言い合う悟司さんとカスミちゃんを置いといて。
 僕はきょろきょろと居間を見渡す。

「以上のことが判った、新座くん。『相手の姿は視えたかね』?」
「……ありがとう。想像できた。ゼロから知るのは難しいけど、そこまで判れば、尻尾を掴めるよ」

 女性が話していたときは何も感じなかった。そして、今も何も感じない。
 見慣れぬ男が三人もいるから警戒してるのか? そんなシャイな霊なんだろうか?
 廊下の、窓の位置とドアの位置から一番風が溜まりやすい場所を選んで、着地する。
 中心からちょっと離れた場所。ちょうどそこは絵画が飾られている部屋で、大きなノッポの古時計が置かれていた場所だ。

「始めるよ。手伝ってくれる?」

 頷いたのを確認して、古時計に歩み寄る。僕は僕の首元を掴んだ。
 ぐっと、首に掛けた十字架を握る。指が痛んだ後、十字架から手を離して……再度、自分の首を触った。どくんと音がする場所を探して、ぐっと指を押し込む。
 首へ。血流へ。ふらりと倒れそうになるぐらい自分で首を絞め続けると、スイッチがカチリとなった。

「新座、おい? 誰に話しかけてやが……」
「話し掛けるな、霞。……始めたんだ」

 スイッチが入った後、視界がネガポジになった。

 それも一瞬。『通常の世界ではない世界』を見て、ふっと顔を横に傾ける。
 普通では見られなかったものが、その世界では見えた。
 普通でない血がそうさせている。首の苦しみが消えぬうちに、奴を追う。
 こんなにも煌びやかな西洋のお屋敷。騎士やプリンセスが住んでいてもおかしくない場所に、一つ――妖しい影がある。
 それは、白く歪んでいた。
 黒い影ではないのが特徴だ。人影……をしていないこともない。
 白く揺らめくそれは知識の無い一般人ならヒトと思うのだろうか? 雲のような歪む白が人間の肌の色に見えるのだろうか?
 咄嗟にそう考えたら、白黒世界は終わっていた。
 ……残るは違和感だけ。

「時計の左陰だよ、カスミちゃん」
「……おうっ!」

 突然の呼びかけにも戸惑うことなく、カスミちゃんは時計の前に駆け出した。
 僕が立つ横を通り抜け……九時の横に激しく殴りつける。
 ぐしゃり! 壁が抉れた。
 白い壁紙は大男の拳を食らってボロリ崩れる。
 一般人の目から見れば、いきなり男が何も無い壁に向かってパンチしたように見える。そして、カスミちゃんにもそうにしか見えてない。

「……おい、馬鹿新座。ちゃんと当たってるのか?」

 カスミちゃんは、人の言う通りに攻撃するしかない。
 というのも、カスミちゃんには『視えない』からだ。
 血を受け継げば、退魔の知識を得る。それが我が家のルールというかセオリーだが、れっきとした物――魔術書や聖剣――を受け継いだものではないこの血は、個人差が現れてしまう。
 例えば、『異端を視る』のに特化した血。例えば、『異端に接触する』のに特化した血。例えば、『それ以外』の血――。
 僕は知覚することができる血で、カスミちゃんは攻撃することができる血だった。だから『本部』は二人を今回、選んだんだ。感じる力が殆ど無くても交渉や情報収集ができる悟司さんと、運搬の圭吾さんをおまけに付けて。

「大丈夫、当たってるよ。痛がってる」
「そ、そうか。で、もう一回殴った方がいいか?」
「ううん。でもその腕のままでいて。そう、ちょっと手が痛いだろうけどそのまま……」

 カスミちゃんは、拳を壁にめり込ませたままの形で深呼吸をする。右手に力を込めて、ぐぐっと壁に力を押し込んだ。
 たった一撃の拳だが、もう少し加速をつけて力を加えれば向こう側の部屋に通路が造れるかもしれない。
 僕は、そんなカスミちゃんの拳を両手で包み込んだ。
 正確に言えば違う。カスミちゃんの拳に捕らわれているモノを、だ。

「乱暴なことをしてごめんよ。でも君、ずっと僕が呼びかけても出てきてくれなかったから。申し訳ないけど、お話させておくれよ」

 悟司さんはソファに座ったまま、置き時計の傍に居る僕ら二人を見ていた。
 カスミちゃんは僕に手を掴まれてぞわぞわしながら、それを聞く。彼には独り言にしか見えない。優しく語りかける僕が気持ち悪く思えるだろう。だが、決して腕に込めた力は抜かなかった。

「君は、おばさんとお話がしたかったのかな? メイドさんとお茶がしたかったのかな? ……違うよね。君は、『食事』をしたかったんだ」

 目が薄い色を灯す。
 少し苦そうな顔をしたが、すぅっと息を吸い込んで言葉を続けた。

「お話したいんだったら姿、ちゃんと見せるもんね。声も聞こえる筈だもん。けど、君はそれをしなかった……ヒトとも思えぬ姿をして見せたり……視界の端にチラチラ現れてみたり……この屋敷の人を不安にさせるようなことばかりしたよね」

 自分の指にぐっと力がこもる。込めた先は、カスミちゃんの拳にだった。
 すると……ギリギリと壁に押し込まれる拳が、動きかけた。

「……ッ!?」
「不安……。おばさん達を『嫌な気持ち』にさせるのが目的で、そんなことしたんだろ……? 悪意が美味しいんだね。……この屋敷の人達を自分流に美味しく育てた後に、食べちゃうつもりだった? ……悪意を生もうとするなんて。悪意をご馳走と思っているなんて。最低な『異端』だ」

 カスミちゃんの拳が動く。
 彼自身は動かす気なんてない。僕も動かそうとしているつもりはない。
 拳の先のヤツが『逃げよう』としているのことに、カスミちゃんも気付いていた。歯を食いしばって壁へ押し付ける。
 その度にベキベキと壁紙が剥がれていった。常人の力ではない力に押されて、貧相な壁紙は音を立てて崩れ落ちていく。
 どんどん傷は広まり、部屋が見窄らしいものになっていく。
 ひび割れる壁。
 けれど、力が抜けられない今。
 カスミちゃんの拳にも、赤が点ってきた。

「君が更正する態度を見せてくれるなら、連れて行ってあげる。けど、今のままじゃ許せない。苦しませるだけ苦しませて、自分だけ楽しむなんて、許せる訳がない。……それでも君は」
「あ、だあ、だあああああああぁぁっ!」
「……抵抗する、の?」

 カスミちゃんが咆吼する。冷や汗が流れる。
 最初は抑えつけていただけの拳が、既に敵意を持って相手を粉砕する一撃に変化していた。
 掛け声にもう僕の声が薄れていく。
 小さく、息を吐いた。
 目を細めて、小節を唱える。
 低く発せられた声に、カスミちゃんの腕が移動する。いや、移動してしまう。

「■■■、■■■、■■■■■■■■■!」

 僕の小さな呟きと短い別れの後に、カスミちゃんの拳は魔術的に強化され、二つの力は爆発した。

 彼は精一杯の力を壁に叩きつけた。
 轟音をさせ、壁が破壊される。
 一瞬だけ煌めいた。白い影が粉砕された証の光だった。
 生者は生きているときに輝く。
 逆に、死者は死ぬときに輝く
 つまり霊がその光を見せたということは……。カスミちゃんの力押しと、僕の審判が命中したってこと。

「…………げっ」

 自分が叩き割った居間の白い壁を見て、カスミちゃんはなんとも言えない声を上げる。
 隣の部屋へと続く道路が出来てしまうほどの穴。と思った時計の横には、在ってはならないものがあったからだ。
 壁に穴を空け、壁の中が見えた。
 ……壁の中にあったものが見える。壁に隠されてたもの、それは……。

「霞、新座くん……よくやった」
「あ……あ、ありがとう、悟司さん……その」
「……ア、アニキ……ちょ、コレって……?」
「幽霊を相手にするお前らが何をたまげる。――古びた屋敷の壁の中に白骨があった、それぐらい驚きもしないだろう?」
「驚くっての!」

 カスミちゃんは叫んで、拳を壁から放した。少し血が滲んでいた。
 僕も驚いた。けど、……直ぐに視線をそれから外すことは出来ずにいた。
 ……どうしても凝視してしまう。

「新座くん?」
「…………」

 悟司さんが気遣ってぽんぽんと僕の頭を撫でてきたが、僕は『それ』を見つめ続けた。
 壁にめり込んである、人骨。
 理科室にあるような奇麗な形のガイコツの人型が、壁の中にあった。
 目は真っ黒で、何も映らない穴。けれど時計に隠れて居間を見つめていただろう穴。
 それに夢中になった。

「女性にこれは刺激が強すぎると思うが説明するべきだな。この屋敷での不審な死の輩とこの白骨は何の関わりがあるのか。しかし、彼女に対する恨み辛みではなかったか。新座くんの言う通り、『異端特有の空腹に満たされたいだけの化け物』だったか」
「……つーかさ。俺、壁を壊したけど弁償ってことはないよな? これ、取り除くことが俺らの仕事になったんだからさ……俺は悪くないよなっ?」
「その辺をこれから彼女と話し合わなければ。それは俺の仕事だ。どんな形であれ感謝されれば金持ちの女性だ、修理を申し出るだろう。家を壊されたと怒らなければの話だがな……。そして新座くん。泣くな」

 ぽんぽんと二回だけ僕の頭を叩いた悟司さんが、更に追加で三回、頭を叩いた。
 カスミちゃんがぎょっとするぐらい、僕は壁を凝視していた。

 そこから離れられなかった。ちっとも離すことができなかった。
 意識が、それに縛られて動けなくなった。
 ……だって、破壊した途端、『中に流れ込んできた』から。

 悟司さんが頭を叩くだけでなく、腕を引いてくれた。
 無理矢理時計の前から離れさせ、廊下へと連れ出してくれた。カスミちゃんの連れ立って居間から離れる。やっとだ。

 ――ガイコツの意志が、僕の体の中に流れてきて……苦しくてたまらなかった。

「新座くん。泣くな」
「…………。ごめ、ん、なさ、い。……また、……や、っちゃあ、た」
「泣くな。今日は、君を慰める兄さんはいない」
「すいま、せ、う、ぁ、む、ぐぅ……」

 ぼろぼろと涙が零れて、へたれこんだ。
 頭の中は真っ赤だった。先程まで白を見続けていたが、突如『入り込んできたもの』の影響で視界が真紅に染まった。
 おそらくその光景は……。白骨の本体が襲われた光景。
 死ぬときの光景。死ぬ瞬間の恐怖。
 それを僕は、『知る』。

「むぅ、ぐぅ……!」
「新座くん……」
「うあ、あああ、ああああ」

 その世界に、僕自身の意思は反映されない。中に入ったものの色が包んで染めていく。染めていく現象は、入ってきたものが出ていくまで続く。
 追い出そうとする度に体内から出るのは、目からのものだった。
 こぼれ落ちるものが熱くて、頭が蒸気する。
 余計に自制を保てなくなり、叫び声を上げかけた。
 先程カスミちゃんが潰したものの断末魔の叫びが、僕を通してなされるように。

「……泣くなよ、馬鹿っ!」
「…………あ。ぁあ……ああああ……!」
「ああ、馬鹿。さっきまでカッコつけてたのが台無しだろうが! ナニ、取り憑かれてんだよ! テメー、いくつだよ、いいかげんそのクセ直せよっ! ……さっさと追い出せよ馬鹿!」

 廊下にしゃがみ込んでしゃくりあげる前に、カスミちゃんが立ってうるさく叫ぶ。怒鳴る。喚く僕に叱咤する。
 ずっとカスミちゃんは……うるさい声を上げていた。

「……『オマエ』、俺に潰されたんだからとっととあの世に逝きやがれ! いいかげんにしろ……さっさと消えろっ! ユーレイやらバケモンやらはこっちにいられると困るんだよ! ……俺がなっ!」

 叫び終わり、カスミちゃんは大きく振りかぶる。
 その瞬間を悟司さんは見逃さず見ていた。
 頭を抱えて泣く僕に、壁をも破壊する拳が――ごつり、と。



 ――2005年9月19日

 【 First /    /     /     /     】




 /4

 ぐらぐらと車が揺れる。脳がぐっちゃぐちゃになりそうで堪らなかった。
 ダッシュケースの中のウェットティッシュを使い切る勢いで頭に乗せていた。車酔いの気持ち悪さと、局部的な痛みがヒンヤリした感触で和らげればと必死になって抑えつけていた。
 ふくよかな体つきの車は、大の大人を四人分呑み込む。運転席は変わらず、送り届け係の圭吾さん。助手席は、最初から最後まで女性のカウンセリングをしていた悟司さん。そして後ろは、討伐部隊二名。
 車内での会話の大半は、前に座る二人のものだった。後ろは黙ったまま、自分のことで精一杯だ。
 車酔いだけでなく違う理由で頭が痛いから喋りたくない僕と、元からそんなにおしゃべりが得意ではないカスミちゃん。二人共、むっと膨れた頬を戻さないまま、既に数時間が経過していた。

「実質、お屋敷にいたのは二時間か。その大半も壁の修復についての話だったし。朝に着いてお昼には退散するんだから、忙しいな」
「我々が手こずるような相手であれば、プロが駆けつけている。我々はあくまで『本部』のサポートだ。『本部』がわざわざ手を下す迄もない件を解決する。それが我ら、駒の役目だ」
「駒、ね。随分悪意のこもった言い方だな、悟司兄貴。不愉快なことでもあったのか?」
「……本来なら今日は、味濃い濃厚こってりラーメンを食いに並びに行くつもりだった。『本部』の使い魔がやって来なかったら、今頃は」
「俺だってこんなとこ山登りしてられっか。せっかくの日曜なんだ、アパートで寝てるっつーの」
「そうかそうか。霞も兄貴もご立腹か。じゃあ、甘いケーキと味の濃いラーメンが美味しくて、尚かつ昼寝ができるお店が帰り道にあるといいな」

 笑いながら圭吾さんは車を走らせる。
 圭吾さんにしてみれば車を動かして、待ち時間にはメイドさん他お手伝いさんとお喋りをしていただけだから、元気が有り余っているようだった。
 三人が不満そうな顔をしていたり、苦そうな顔をしていても、圭吾さんは笑っているしかない。

「ともあれ、お疲れ様」

 困った表情を浮かべている僕ら三人に、圭吾さんは言葉を送った。
 そして全員に漂うあまりの不機嫌っぷりに耐えかねて、次の話題へと口を開く。

「食事を取ってから話そうと思ったけど、先に言うぞ。帰る前に『あと二件仕事してこい』って『本部』から使い魔で連絡があったんだ。日曜もあと半日残ってることだし、頑張ってくれよな」



 ――2005年8月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /5
 
 藤春伯父さんは、部屋を出る前に煙草一箱とライターを一つ渡してくれた。

 寮生活に入る前日。最期の伯父の家での生活となる日。一緒に暮らしていた赤茶の双子は「ウマちゃんのお別れ会をしよう!」などと言ってきたが、俺は大袈裟なことはしなくていいと断った。
 だから、最後の食事もあまりいつも変わらぬ光景だった。心成しか、精が付く物が多い気がするだけの、ごく普通の夕食の後に……。

「緋馬、これでも持っておけ」

 伯父は餞別だと言うかのように、デザートをくれるみたいに、それを机に置いた。

「なに、形見? 『これを伯父さんだと思え』って言いたいの?」
「そう思いたければ思えばいい。お前は喫煙者なんだし、緋馬には万年筆を贈るよりこんな物の方がよっぽど嬉しいだろ?」
「伯父さん……。普通、全寮制の高校は禁煙で、高校生は基本、煙草なんて持ってちゃいけないもんじゃないかな」
「別にいらなきゃ俺が吸うだけなんだが」
「いただきます」

 反論はしたけど、煙草の箱を丁寧にジャケットのポケットへ押し込む。
 伯父から貰ったものは決して無駄にしないというのが、俺の信条だったからだ。

「お前は『仕事』をやるの、今回が初めてだったよな?」
「俺の記憶ではそうだけど」
「今まで知識はそれなりに与えていた。それでも初心者だというのに、潜入捜査任務か……。少し難しい仕事になるかもしれんな。でも安心しろ。初めて任されるお前に、誰も大きな期待はしていない」
「……伯父さん。それフォローのつもりで言ったなら、素敵だと思うよ」
「ん? フォローのつもりで言ったから俺は素敵になってしまったようだな」
「おめでとう、伯父さんはとっても素敵だよ。……前から知ってるけど」
「俺が素敵か不敵かどうかはどうでもいいんだ。それほど大きな問題を初任務の奴に押し付けてくる訳がない。だから、不安がるなよ。決して一人で不安がるな」

 伯父さんが「ふう」と目の前で溜息を吐く。とてもわざとらしく。
 目に見えての気遣いに、ちょっと驚いた。若者は素直に心配されると照れてしまう習性がある。だというのにこの人は、真っ当に俺の不安の払拭しようとしていた。
 嬉しくない訳が無い。

「任務が終わったら、いつでも連絡を寄こせ。終わらなくても何か判らないことがあったら、こちらに戻って来ればいい」
「伯父さんってこんなに心配症だったっけ?」
「大切な息子の一人が旅立つ前夜に心配して何が悪い。俺はお前の実の親じゃないが、こうやって今まで育ててきたんだから、手放すのが惜しいと思ってもおかしくないだろ」
「うん。やっぱ素敵なことを言ってくれるね、伯父さんは」
「素敵でもなんでもない、これは普通のことだ」
「それでもさ。……いや、もういいや」

 一度ポケットにしまった煙草を取り出して、中身を確認する。
 封は開けてあるが、一本も吸われていない新品そのものの箱だった。

「伯父さんの声援で、物凄くやる気が出たよ。ありがとう。俺……これ、大切にするから」
「まっ、そんなもん自販機ですぐ買い直せるがな」
「だから、普通の高校に煙草の自販機は無いって」



 ――2005年9月8日

 【 First / Second /     /      / Fifth 】




 /6

 黒板を弾くチョークの音が、学生達を眠りの世界へいざなう。
 単調な音、教科書を読むだけの先生。早く時間よ過ぎろ、終われ終われと願う生徒達。てっきり、学校とは『そういうもの』だと思っていた。

 ……ああ、また居眠りしちまったな。
 今は、それも無理もない生活をしている。寧ろ、今までよく居眠りをせずに1週目を乗り切ったものだ。
 ……煙草が吸えないってことよりも地獄かもしれない。

 新しく始まった生活は、今まで通っていた都内の高校とは全然違う、山奥にある全寮制の男子校での毎日。そこはそれらのキーワードだけで今時の若者だったら普通は委縮してしまうのに、魔界だった。
 前評判からある程度の覚悟もしていた。閉鎖的な空気には、家柄的に慣れているつもりだった。だがそれとはまったく違うことで、理解しがたい現実に突き当たっている。
 生徒達は元気ハツラツ。さわやかな白い制服に身を包んで、学生生活を謳歌している者ばかり。
 古臭い教材は使わず、ハキハキとした教師達が彼らを出迎え、大学ばりの自由な授業編成を取り行なっている。学校側が生徒を縛って卒業させるのでなく、自分で単位を勝ち取るシステムを採用していた。
 流されるままに暮らすことに慣れた自分には、苦痛だった。
 ……元気の良い高校生活ってねーだろ。授業中眠れないのは、最悪だ。
 夜に活動する自分にとって、これほど活動的な学生生活が苦になるとは思っていなかった。
 ……居眠りを気付かれてないのも、奇跡だな。居眠りを起こる先公なんて、どこの世界の熱血だ。
 授業についていけない訳ではない。自慢ではないが、自分は勉強はそれなりに出来る方だと思っている。言語も数字も体育も、悪い成績だけは取ったことがないから苦労はしていない。けれども、ついていけないのは……。
 優しいクラスメイト様が声を掛けてくれるこの環境。
 非常にありがたく、面倒くさいことだった。
 全寮制の男子校。山の中の進学校。
 キーワードを上げたらキリがない、異質な学校。
 その中で、多くの生徒達がイキイキと暮らしている。それが解せなかった。クラスメイトを撒いて逃げてきて、どっかの教室の誰とも知らぬ生徒の椅子に、腰かける。

 ……だりぃ。

 言わずにはいられなかった。
 なんで、俺なんかに話しかけてくる生徒も先公も多いかな。
 普通、高校生ともなれば人間関係がドライになってくる頃だろ。少なくとも今までの生活ではそうだった。
 寮生活での『仕事』は、いちいち学校に通って退治するよりラクだと考えていた。だけど一日中気が抜けないようなものだから、かえって厳しく思える。
 前の学校が良かった、とは思わないんだけどな。
 転校する前の学校が恋しいなんてことは思わない。それも一切考えなかった。
 知り合いが居ないから寂しいなんてことも、特に思いつかない。家族に会えないからとかも、それほど。
 ポケットに手を突っ込んで、箱の感触を確かめた。持ち物検査で制服を調べられたら一発でアウトの代物が、そこにはある。
 もう何度も隠れて握ったそれを、もう一度握り直した。中身が全部入っているものだから、何度握っても形は崩れずポケットの中に納まっていた。

 ……寂しくないと思ったんだけどなぁ。

 全寮制の学校という閉鎖的な空間。そんな閉じ込められた場所で、幸せそうに過ごしている生徒達。
 外から入って来た俺にとっては異質に見えるが、『住めば都』という言葉もある通り、慣れれば閉じこもった世界が一番生きやすいものになる。
 ……そのことに関しては、俺の家も同じだ。
 山の上に独自の世界を築いて、自分達だけの熱血空間を作り出して、何かを学んで上をを目指す。
 この学校も、あの家も全く同じだった。
 外から見ると馬鹿馬鹿しく思えるこの学校の制度。まあ、つまりは、外から見ればあの家も……。

 寝よう。今夜のためにも。
 別に煙草が吸いたいからそんなことをしているんじゃない。自由に煙草が咥えられないのは痛手ではあるが、こっそり一人部屋で吸えばなんとかなる。
 早く、終わらせるためにも。
 そうじゃなくて、問題は……。早く、帰るためにも。
 連続して、事を進めていく。



 ――2005年9月8日

 【 First / Second /     /      / Fifth 】




 /7
 
 『仏田』の名は、千年続いているという。
 といっても俺だって千年生きている訳じゃないから、そうなんだと伝わっている話でしか言えない。
 今の当主が五十か六十代目。単純な掛け算をしたとして、一代を二十年ぐらいやっていたと仮定して計算しないと、千年は越せない。一人が二十年、当主として幽霊退治や霊関係の仕事を受け持っていると考えれば、長い歴史も無茶な話ではない。
 だから「千年間、代々退魔を生業としている」というのは、「長すぎるだろ嘘くせー」と思っても、信憑性はあるのかもしれない。
 企業は三十年続けば大物と言われる。少なくとも我が家は百年は確実に続いているんだから、仏田という会社は老舗中の老舗、大企業だった。

 俺は今年十七歳になる高校生だ。
 世襲で退魔業を手伝わされているが、本業は学生である。学校で学ぶことが本来の仕事だ。
 しかし表向きはそうだとしても、裏家業を重視する家では無視されてしまう。本業がちっとも本業に出来ない毎日が、少々、煩わしく思うこともあった。
 今も授業をサボって教室で、寝る。教師や知人に注意されつつも、自分に割り当てられた部屋で、寝る。ぼちぼち夕食をとりつつも、また寝る。とにかく、目的の時刻まで……寝る。
 そうして本業の夜の時間に、目を覚ます。
 二十二時以降の出歩きは禁止されている学内を歩くのが、もう普通になってきてしまっていた。
 既に夜の方が目が慣れていた。夜空に飽きが来るぐらい慣れてしまったから、何が現れても察知できるし、追いかけることができる。
 この数日で、昼間に『何者か』に襲いかかられる可能性が極端に低いことが判った。だから夜は構えていればいい、そんな安心感が出来てしまってゆったりしているぐらいだ。
 恐怖心なんてものは同じ事を繰り返していれば、何にも思わなくなってくる。幽霊なんてもの、とっくの昔にどうにも思わなくなった。がさっ。

「わっ!?」
 
 ……。
 …………。
 ………………。

「…………。ふん、驚かすんじゃねえ」

 幽霊が怖くなくても、突然驚かされてしまえばビビってしまうものである。
 そればっかりはどうしようもない。

 さて、昨夜に検討をつけた場所に訪れ、確信した。
 薄暗い夜の空気の中に、ゆらりと揺れる白い影が居る。
 自分の『おかしな眼』で通して見ればよく判る。いくつもの魂が交錯するのが、ハッキリと捉えることができた。
 ……今夜は、一段といるな。
 まだ人を襲うような危険なものは、いないように思えた。
 だけど時が経てば、巨大化するのではないかと思わせる大きな魂達が彷徨っている。
 そいつらを懲らしめることが退魔師としての役割だ。そいつらを片付けチリトリで回収するこそ、最も重要な役目。ふうと溜息を吐いた。

「…………"■■"」
 
 開始はもちろん自身の声。
 短く呪文を唱えると指先から炎が飛び出し、体内から火の塊が放出、巻き上がった。ゴオッと実体の無い筈の魂が燃え盛る。
 自然では在り得ない明るく煌めくオレンジ色の炎の中で、ヒトではない者達が消えようとしている。
 炎に照らされて、それを見送る……だけに留まらない。

「おっと、そう簡単に消えるんじゃない。……成仏する前に、『俺の中』に来い」

 一声かけると、魂達が反応し、天に昇る筈の動きを変える。
 軌道の先は、俺の『顔』。
 そして消える。言葉の通り、俺の『眼の前』で。俺の体に吸収されるかのように魂達が消滅し、炎は建物を焼き払うことなく消え去った。

 『俺の中』に入った瞬間、一瞬だけ魂達の声がした。

 すぐさま俺が独り言を言えば、そんな声は押し潰されて聞こえなくなる。
 魂達は『俺に食われた』。鶏肉を食べたってニワトリの鳴き声は腹の中では聞こえないのと同じ、中に閉じ込めた魂は、もう鳴かない。

 ……こいつら、地縛霊か? ホントに多いんだな、この学校は。気味悪い。

 死者が完全に消滅すると同時に、独り言を言いながら安堵の息を吐いた。
 けどそれも束の間。今まで見ていなかった方向へ振り向く。
 何かが、いや、誰かが、居ることに気付いてしまった。それも無視できないだけの何かを感じる。
 今夜は早く寝ようと思ったのに……徹夜四日目かよ。
 愚痴り、学園内を飛翔する。
 まだ夏のにおいが残る秋。夜は薄寒さとねっとりした熱気をどちらも含んでいる。動きまわるだけで苛立つ夜に、逃げ出さず近づいて行った。
 ……量が多いな。集団自決でもした連中とか?
 そんなことを愚痴りながら、おどろおどろしい化け物に向かって指差す。

 指差した相手は、俺のオレンジから霊的な色を表わす青い炎に包まれる。そのまま奴は仰向けに倒れ、灰へと還った。
 ……こりゃ数ヶ月したら寮に住んでる全員を食らうとかいう計画でもしてる、か?
 ぶつぶつと文句を言いながらも、次から次へと小さな異端に点火する。
 俺一人でなんとかしろって『本部』も無茶を言う。
 次から次へと焼き払っていかなくてはならないぐらい、そこには魂があった。
 ……もしかして計算違いなのかもしれないな。素直に俺、逃げ出した方がいいのかな? もう一人ぐらい手伝いがいたって損はしねえぞ。
 ずっと立てていた指をくいくい曲げて調子を確かめながら、肩を落としてそんなことまで言い始めるぐらい。
 暇だし声を荒げながらも、奥から出てこようとする死霊の群れに対して、的確に炎で包んでいく。
 魔力で強化された炎によって、まだ実体の無いそれ達は活動を停止する。
 昼間であれば、ここは活発的に生徒達が行きかう廊下だ。教室は教員達がこの上ない学園生活をと熱血指導にあたる活気のある場所、なのに。
 親友同士が語らう愉快な庭ですら、まるで湧き水のようにどんどん地面から湧き上がってくる死霊達。仕方なく炎の雨を降らせていった。
 そうすると再び現れた気配に向かって、俺は跳躍した。
 気配は此処から1キロほど離れた区画に出現した。少し離れているが、全力で走ればほんの数秒で到着できる距離だ。

 その場所に向かって歩く、もう一つの気配があった。
 死霊の気配ではない。
 つまり人間。一般人が、居る……?
 ……バッカか! 夜なんだから大人しく人間は寝てろ!
 感じた気配は、どんどん異端達の溢れる地の中に入ってしまう。
 むやみにますます先を行く何者かの気配。このままでは間に合わない。
 毒づき、魔力を最大開放して加速する。目的地を視認。その奥にある標的に狙いをつける。
 指先から魔力を通して炎の矢を形成させた。
 胸のうちで悲鳴を上げる。
 何者かの気配は異端達に接触してしたようだ。悠々と、それは近づいていく。
 これでもう、その人物の運命は決定的。無力な人間に、仮初とは言え不死身の化け物に抵抗する術は無い。
 ――間に合わない!?
 狩るモノと狩られるモノは出会った瞬間、その関係を明確にしてしまう。
 そう、出会った瞬間に。

「え?」
 
 違和感はすぐに感じた。
 死霊達と何者かの気配が遭遇した瞬間。弾けるようにして消えていく複数の気配を。
 ものの数秒ほどで、合わせて五体が消滅したのを感知した。

「……何だ?」

 訳が判らず呟く。
 いつでも焼き払えるように魔力を解放したまま、慎重に足を踏み入れる。
 少し気分が悪い。油断無く、慎重に、相手が僅かでも動けば反撃できるように身体を構えておく。

「……お前。……誰だ」

 姿の見えない、けれど確かに存在する相手に向かって声を掛けた。
 夜の暗幕の向こうに、人の形をした闇はゆっくりとこちらに振り返ったのが判った。
 それと同時。

「!?」

 咄嗟に身を低くし、それまで『俺の頭があった空間を貫く槍』を回避する。
 思考を瞬時に切り替えて、指先から炎の弾丸を放つ。
 だけど赤い閃光は、相手の目の前に現れた『鉄の壁』で塞がれてしまった。
 次にあちらから放たれる、持つところの無い刃の群れ。
 一度だけそれを炎の壁で防いだが、威力が敵わないと判明すると回避運動に専念することにする。

「なんなの……っ」

 闇の先から声がした。
 少年の声だった。

「……あ、ん?」
 
 ……ちなみに、その声は俺が知っている声の一つだった。

「お前……」
「お前……」

 お互いを確認する声が、同時に生じる。
 俺よりちょっと背が低く、シャツ、パーカー、ジーンズという、何の変哲もないごく普通の少年の姿。
 夜の闇を凝らして見た先には、比較的自分と似た顔の、十七歳ほどの少年が居た。
 十七歳だとはっきり判る。似ているのも仕方ない。真っ先に思い出す。いきなり現れた気配とは、俺と大変似ていて……どう見ても親戚の顔だった。
 剥き出しの刃を構えて、自然を変形させている彼は、間違いなく、記憶の中のハトコ兄弟と酷似していた。

「……お前、寄居(よりい)だな?」
「お前、ウマじゃん」
 
 二人の声は夜の空に響き、そして消えていった。



 ――2005年9月8日

 【 First / Second /     /      / Fifth 】




 /8

「いきなり殺気をぶつけてくるから思わず攻撃しちゃったじゃん、ウマ。助けに来てあげた人に対してもうちょい友好的にできないの?」

 自分より少し小柄な少年、同じ『仏田』の名を持つ彼・寄居は、そう愚痴りながら自販機から野菜ジュースのパックを取り上げ、俺へ投げて寄越した。

「悪かったな。まさか、ホントに誰か助っ人が一人来るとは思ってなかったんだよ」

 右手で野菜ジュースを受け取り喉を潤してから、バツ悪く返す。
 現在居るのは、先ほどの場所から少し離れた自販機の前。
 自分の周囲にあるものを使い、『何でも』武器にしてしまう力を持った寄居が、この学園内に入り込んだのはつい三十分前だという。

「寄居、お前どうやって学内に入った。一応、警備員が見張っている筈だろ」
「ウマ、夜中は警備員が学校をまわっていると思うけど、それはどうやって撒いてるの?」
「……催眠の魔術で、俺を見えないように仕向けている」
「ははは、右に同じ」

 左に座る寄居が野菜ジュースを飲みながら、あっけらかんと答えた。

「俺様ちゃんもただ、『上』に言われてここに来ただけさあ。しかもこう見えて俺ってば、初栃木上陸なんだよね」
「こう見えて……って、お前のどこに意外性があるんだか」
「『本部』から言われたのは、『ウマが一人で夜中ガンバってるみたいだからそれを一日だけでも手伝ってあげなさい』ってコトだけだよ。あと皆無」

 一日だけ、ねえ。

「あんまりに大雑把な命令だったから、テキトーに学校入ってテキトーに夜中うろつけば不良とユーレイに出会えるかなって思ったのさ」

 テキトーに、かあ。

「ははは、ユーレイにも会えたし、不良っぽい生徒にもこうして会えたから結果オーライだよね」
「……ホントに俺のこと助ける気があんなら、先にメールの一通ぐらい入れろって」
「ごっめん、俺ケータイうまく扱えないタチなんだ」

 そんな十七歳、居るのか。
 ぼんやり口を開くと、淡々と、それでいてニヤリと唇だけを歪ませて寄居が謝ってきた。
 メールを送らなかったのはわざとではないと思うが、その意地悪げな目が可能性を捨てきれなくさせた。

「寄居のいいかげんさは、変わらないな」

 というか自販機から野菜ジュースをセレクトしたのは寄居だが、それを買うための金を出したのは俺だ。
 なんでも所持品は服一丁でそれ以外は何にも無いという。ケータイもサイフも何一つ無い状態だ。
 彼の力は、若いながらも目に見えて素晴らしいものであるのは確か。環境を操作し武器を創り出す『領域遣い』としてはかなり優秀。何でもその場で作り出してしまう力故に、この性格なのか。
 それとも性格から力が反映されているのか、俺にも判らない。

「てゆーかウマのメアド知らねーし」
「そうだな、俺もお前のメアドを交換した記憶は無い」
「そんでもって、こうやって話するの、何年ぶりだっけ?」
「そんなにかよ。……二年……三年……? 少なくとも、ケータイは一人一台で普及してないとき以来だ、これは確かだ」
「そーだよね。大山さんに『ケータイ持て』って言われたの、ここ二ヶ月だし」
「なんだ、先に言うことがあったじゃないか。……久しぶりだな、寄居、元気にしてたか?」

 今更すぎるタイミングで、お互いの『今まで』を同情しあう。

「ああ、久しぶりだね、ウマ。お互い一週間ぶりな気分でいたでしょ、感動もへったくれもないね。ウマは東京で気ままにスクールライフを送れず山奥の牢獄に囚われてるって聞いたよ。元気かい?」
「……誰だ、そんなこと言った奴」
「はっははは、みずほだよ。ここに来る前に聞いたさ、ウマが大変だから助けに行くんだって言ったらケラケラ笑って教えてくれたよ」
「みずほに会ったなら、あいつ経由で俺の番号教えてもらえよ。俺とみずほなら連絡取れそうなぐらい予想できるだろ」
「おう、その考えは無かったぜ。……まあ、こうやって再会することは必然だった訳だし、電波でフライングしたって先は変わらなかったって」
「連絡が取れてたら少しでも効率が上がっただろ。お前、『あそこ』から帰ったばかりなんだし、俺だって気遣うわ」
「『あそこ』も慣れれば面白い場所だったよ。実験体っていうのも貴重な体験だったさぁ。それに一瞬の効率なんて考えるなよ。俺とウマは会えた。あのときあの場所で。それは神様が決めていたことなのさ」
「……わざと話を壮大にしたって、メンドーなのはメンドーなんだよ」

 くすくすと笑う寄居につられ、俺も微笑もうとした。
 だが不意な影の動きにそうも出来なかった。『あるもの』に気付いてしまったからだ。

「おい、寄居。あれは……」
「……ふう、随分な大物が出てきたらしいねぇ?」

 空気の全てが凍るような殺意が、夜の校舎を覆いつくしていくように思えた。
 苦笑を交えて、二人で立ち上がる。

「で。寄居さんよ。再会の仕方はどうであれ、俺の仕事を手伝う気はちゃんとあるんだよな?」
「俺様も見ているだけの趣味は無いからね。無駄な時間を過ごすほどウマみたいにのんびりした性格でもないのさ」

 どの口が言うのか、寄居はのんびりとした声を放つ。
 そして二人で殺気の発信源へと向かって走り始めた。
 その場所は、まさに異界。何の変哲も無い教室は、青い光に塗り潰されていた。

「これはまた、悪趣味だな」
「まったくだ。ウマの高校、悪趣味すぎ」

 一定区間に入った二人で、口を揃えて同じ台詞を吐いた。
 空気を肺に入れるたびに、吐き気を強める味が口の中にこびり付いてくるのを感じる。

「何をどうやったら、こんな学校いっぱい霊が籠もるんだか」
「ねーウマ。予想するけどこの学校、そう長くはもたないね」
「判ってら、それぐらい。『閉鎖的で幸せな世界は長続きしない』って知ってるよ」

 大きく、おどろおどろしいモノが一体。くすくすくすくすと、小さな笑い声と共に夜の闇が歪み、一体が現れた。
 ――それは、青の強い光。
 霊格の高いもので身を纏めた、黒い布だけを纏った裸身の美女……のように視えた。
 女性の姿を模っている光は、男子校、夜、幽霊の渦の中という、『ここではありえないモノ』という恐怖を表現している。
 妖艶な美しさは、人外と見張るに相応しく立っている。男だらけの世界に女の頭領。これはますます……。
 それに、真紅に染まった瞳や、その内にある泥のような闇。
 違いこそあれ、今まで俺が燃やしてきたものと変わりなかった。

「なー、ウマ。この学校がどんだけ呪われてるか数分前に来た俺様には判らないけど。とりあえず、あれを押さえればなんとかなるんじゃないかと思うんだ」
「そう簡単にうまくいくかよ。一応、俺は毎晩夜も寝ずに頑張って幽霊退治をしていた身なんだ。……ただ、あんな綺麗なオネーサンを見ておいて、このまま寝る選択肢だけは無いな」
「そうそう、一回はシコっておかないと」
「ああね。この手で消し去ってあげよう」

 瞬間、寄居の手に体ほどある大剣が現れた。
 その腕を大きく振り上げ、鳥躍する。
 地を駆ける獣のような突進で間合いを詰め、大剣を激しく殴りつけるように押し斬った。
. だが女の前に見えない壁が現れ、大きな一撃を拒む。結界は強固で、殴った寄居の剣の方が破れる。ガラスがヒビ割れるように、石の塊のような剣が粉砕した。

「ひゃあっ、鉄の女ってこういうことを言うのか」
「そういやカタブツな女は嫌いっぽいな、寄居」
「そうでもない、よ!」

 寄居が拳を振り上げる。
 次の瞬間には、寄居の手には石で出来た斧があった。
 再度女の体を守る結界を押しつけるように破壊を試みる。バキンとひと振り――。

「……燃えろ!」

 そしてこっちが叫ぶ。
 叫んだ先は、女自身ではなく、寄居の斧を指差しながら。
 寄居が作り出した武器が炎を上げ、より大きな斧を創り出した。
 寄居の二度目の強打。その一撃に、霊の前に張られていた不可視の結界はガラスのように粉々に砕け散った。
 彫刻めいた白い左腕を、炎の斧が切断する。
 声と共に炎の魔弾が降り注いだ。
 だが、女が口をぱっくり開けると、気が付いたときには違う青い炎が寄居を襲いかかっていた。
 俺の炎を吸収し、目の前の寄居に移行したかのような早業だった。
 二度も声を上げたのは、その光景を見ていた俺だった。

「お、おい、寄居! 生きてるか!?」

 慌てて駆け寄ろうとして、足を止める。
 炎に覆われた寄居は、少し苦そうな顔をしただけで……再度立ち上がったからだ。

「おい、寄居」
「あー、気にしないで」
「……無茶言うな、馬鹿」

 炎が寄居の服に燃え広がっていた。じゅわじゅわと寄居の皮膚を焼く音が聞こえる。
 だけど寄居は立ち上がる。
 立ち上がり、もう一度剣をその場に錬成していた。

「はあ、良かった。カウンターってことで炎がウマの方に返されなくて、本当に良かったよ」
「あ、ああ。痛いのを逃れられたのはラッキーだが。寄居、ホントに大丈夫なんだよな……? お前、燃えてるけど……」
「まー、こうやって動けるから生きてるかな。大丈夫。ちょっとばっかし自分の痛覚がズレているのが役に立ってくれたね」
「……って、おい! 痛みが鈍くなっているだけで不死になったとかそういうドッキリ設定は無いのか!?」
「はっはっは、不死ならいいねえ。じっちゃん達もそんな人材が居たら、こんな俺でも重宝してくれるだろうよ」

 寄居はけらけらと笑いつつも眉を顰めてはいた。
 それなりに苦しさはあるようだ。

「そういう研究も『あそこ』じゃされていたみたいだけど。俺は、それの仲間じゃなかったなぁ」
「……ああ、そういや……お前って」
「でも、俺の改造人間話は今するもんじゃないよね。片付けよう!」

 寄居の切っ先が光る。
 迅雷を斬り払った寄居は、続く第二撃より先に疾走した。
 大剣を片手持ちに抜き放つ。予知してたが如く敵の前に稲妻が躍り出るも、紙一重で躱しながら武器を突き付けた瞬間……。
 炸裂した火花に、寄居はその身を切り刻まれた。
 いきなりの苦痛に、寄居が危うく武器を落とし掛ける。
 ダメージこそ致命的ではなかったが、動揺の方が大きい。
 感電の衝撃が、寄居の脊髄を掻き毟っていっているだろう。逃れる術は皆無と腹を括り、肉体に紫電を纏わせ、立っている。
 寄居が風を切る二つの矢を放つ。領域遣いの力によって錬成された矢は、弓で張られることなく飛んで行く。
 空間そのものを斬裂せしめるように奔流し、目に映る全てを青色に塗り潰していった。

「ウマ……。早く帰りたいんだろ?」
「……え?」

 寄居の言葉で、一瞬、叔父さんの顔が思い浮かんだ。
 恥ずかしくなった。

「んん。なんだよ、いきなり」
「ウマは早く帰りたいかって訊いたんだけど、それってすぐに答えられない問題なん?」

 …………。

「早く帰りたいよ、そりゃあ」
「どうして? この学校、幽霊がいて大変なのは今の時間で判ったけど、この上ないぐらい『最高の学園』だって聞いたぜ?」

 …………。

「授業をもう何日も受けているなら判るだろ。学習レベルもサイコーで、教師も選りすぐり、校風も良くって、人あたりも良いと評判。全寮制の前評判の悪さと、交通の便が良くないぐらいで。これ以上無いっていう学校なんだって。それでも、ウマは早く『お仕事』終わらせて帰りたい?」

 …………。

「……ああ、帰りたいよ。早く帰って、挨拶したい人が居るんだ。ここは天国でも、好きな人がいない」
「そうだね、そうだと聞いていた。そうだろうねってみずほが言ってたさ。だから早く助けてやらんと思ってた」

 乱舞する閃光は程なくして、女性の形をした悪意の塊の周りを煙により抉っていく。
 強烈な霊の向かい風を感じた。
 あちらさんも目に見えない攻撃と共に応戦してきている。
 ああ、応戦してきている。あちらさんが、こちらの攻撃に寄って来ていた。

 そうして、やあっと、外まで連れ出せた。

「ウマ、出番だ。燃やせ」

 総攻撃の中、寄居は腕を翳した。

「了解。……丸焼になれ!」

 膝から蛇のように這い登ってくる電流。苦虫を噛み潰す。
 かざした両手に、火炎を纏わせる……顕れる炎の篭手。
 足元に浮かんだ炎に魔力。出力最大で叩き込むと同時。
 獄炎が具現し、炎が上がる。
 全てを、灼き尽くすようなオレンジの炎。けど、建物までは燃えない幻の炎。
 形無いものだけが消滅する炎を唱えていく。寄居の腕を焼くことなく、相手だけを討ち滅ぼす。
 音という音が、闇という闇が断ち切られ、一面が煉獄と化した。

「ふう……ウマの炎はやっぱ熱いな。俺様すら燃えちまいそうだ」

 地獄の業火の呼び名に相応しい破壊によって、不安定だったものの臨界点が突破された。
 暗黒の淵さえ灼熱色に塗り替える。空から火の粉が舞い、落ちていった。



 ――2005年9月9日

 【 First / Second /     /      / Fifth 】




 /9

 黒板を弾くチョークの音が、学生を眠りの世界へいざなう。
 ……ああ、眠い。
 それでも寝てはならない規則に立ち向かわなければならない。今日もまた、眠気との死闘を繰り広げながら、授業を戦い続けていた。
 そんな中、机の上のケータイが激しく震動した。メール受信だけなら数秒で終わる震動が、一向に終わらず震え続けている。
 授業から抜け出してみると、見たことのない番号がディスプレイに表示されていた。

『よう、オレオレ、オレだよ』
「……寄居か。こっちは授業中なんだけど」
『授業中ならなんで電話出てるの?』
「お前が電話掛けてきたから出てるんだ、感謝しろ。クラスの真ん中で電話を取ってるんじゃないぞ。さすがにそんなことをする勇気は無い」
『ははん、真面目アピールしているようだけど、真っ当な学生なら電話を取るために教室を離れることもしないよ』

 うるせえ、変な勘繰りを入れるな。
 とっとと要件を言って切れよ、バカ。

『今朝、眠くてしんどそうだったからさっさと俺帰ったんだよ。お前に対する気遣いだ。昼間の良い時間になったから話したくて電話したと思いねえ』
「とても良い気遣いだねえ。欠点は相手が高校生だってことを考えてないことかな」
『ああ、そういやそうだった。……で、『本部』からの連絡を言うよ。ちゃんと聞くように』
「あん? なんで寄居経由で連絡受けなきゃいけないんだよ」
『文句なら監督者に言えばいいよ、俺は伝えるだけだ。ちなみに監督者は、あの鬼の狭山伯父さんだから』

 ……俺、狭山嫌いなんだよ。
 あいつのことを好きな奴なんて、俺の家にいないだろうけどさ。

『ウマは、もう暫くその高校に居て監視を続けろ、だとさ。徹夜して数日頑張った場所、物凄い量だったよって報告したら「数居るなら今後も更に出る可能性がある」って言ってたよ』
「……確かに、その可能性は無いとも言えないな」
『だからね、ウマがその校舎に居られる限り、ずっとそこで監視すればいいんじゃないかって。そのままそこで卒業までしてしまえ、だってさ』

 …………。

『良かったねえ。国内最高レベルの高校だよ。不良なウマには最適な牢獄じゃん』

 ……終身刑かよ。

『ああ、でも徹夜はもうするなってさ。あーゆー霊は、ある程度の数減らしたら、夜もそんなに危険じゃなくなるんだって。幽霊がテキトーに出てきちゃったら倒すカンジで、今後とも宜しく……だとさ。何気なーく楽しげに学生生活を楽しんでこいって言ってたよ。ウマなら友達もすぐできるって。そこの学園の人柄の良さは有名だってさ、幽霊が悪意を全部吸い取ってるからみんな良い人なんじゃね?』
「……幽霊ばっか出る学校でどうやって楽しめって言うんだ。無茶ぶりもいいとこだぞ」
『ま、「ウマなら大丈夫」だって当主様に推薦した人がいるからそういうことになったみたい。恨むならその人を恨むんだね』
「……誰だそいつ、ホントに恨むぞ」
『知りたいの? 聞いたらその人のこと……嫌いになっちゃうかもよ』

 元々、俺の家に好きな奴の方が少ないよ。

『藤春おじさん』

 …………。あんまり、聞きたくなかったな。

『ガンバレ、もう俺は応援しに行かないと思うけど、バカ騒ぎが起きたら行ってあげてもいいから』
「ハイハイ。ありがと、ありがとうな」
『感謝のこもってないありがとうだなぁ。もちろん応援に行くかどうかは『本部』が決めることだし、俺が勝手に行く訳にはいかないけどね』
「そんなこと判ってら。……『お家の命令は絶対だ』ってことぐらい、子供じゃないんだから判ってる。言われたことは、子供らしく大人しく従うさ」
『…………。ふふっ』
「あ? なんだよ、その気持ち悪い笑い方は」
『いやいや。子供じゃないから……大人しく従う、ねえ?』
「なんだよ、文句あるなら口に出して言え」
『いやいや。……ひとりぼっちはイヤだから早くお家に帰りたかった……。って、文句あるなら口に出して言っちゃいなよ』
「燃やすぞ、テメエ……。もう切っていいか。授業に戻るからな、俺は」
『どうぞ。授業でも別教室でもお部屋でもお好きな場所でお眠り……』

 電話を切って、ポケットの中から箱を取り出す。
 一緒にライターも取り出して、今後箱が崩れるのを覚悟に一本煙草を取り出した。
 魔術の炎ではない純然たる灯りが、俺の目の前に散る。
 久々にライターの火を見た。それと……伯父さんの煙もかなり久々に見た気がした。

「……俺、あんたのところに戻りたくて、徹夜してたんだけどなぁ……」

 これもまた久々に、口の中に独特の苦さを感じていた。



 ――2005年9月20日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /10

 袖になされるまま腕を通し、帯を巻かれる。
 昔から着付けをしてくれるのは、梓丸(あずさ まる)の仕事だった。本家一族の世話は女中が看るものだが、オレの指名で彼を選んでいる。
 本来なら女性が手伝うもの。けど手伝いをしてくれる梓丸は男性でありながら、女中と言われてもあやしまれないほど可憐で華麗だった。性別は男性でも女物を巻く彼は、女形でもなんでもない。単に女物の方が好きだからという物好きっぷりが、梓丸という男をよく表していた。
 長く慣れ親しんだ仲だから、自分の世話に彼をつけている。少しばかり時代離れした光景だと昔、弟の新座に言われたことがあった。

 慣れた身のこなしで着付けを終え、一息つく。
 さて、これから部屋を出ようかという時に、廊下の端で足音がした。
 障子の先に、影が現れる。警戒する素振りは無い。足音に、自分も梓丸も聞き入った。その音は聞き慣れ、親しんでいるものだったからだ。

「男衾(おぶすま)です」
「入れ」

 呼びかける一言が終わる前に、了承した。それでも一礼してから入ってくる影。
 仏頂面のそれを見てから座椅子に着く。着付けしてもらったばかりの衣服を乱さないように、それでいてラクな形に。
 その場にいる顔ぶれは、気を掛ける必要などないぐらい身近な者達だ。梓丸も新たな訪問者でも気遣うことなく、静かに衣服を箪笥に片付け始める。

「燈雅(とうが)様。本家の内に御報告が入りました」
「彼らの任務は終わったのか。圭吾が電話でもしてきたのかい?」
「いえ、圭吾様ご本人が本殿にお見えになっています。お会いになられますか」

 静かに話す男衾の声を聞いて、少し腕を伸ばし、閉められていた雪見障子に手をかけた。
 開いたガラス戸の先に、庭が開らける。ひっそり点けられた灯りが、ぽつぽつ見えた。話の中に出てきた本殿はこの部屋からは見えない。ここからでは、違う建物と林しか見えない。
 現在自分達が居る離れの屋敷と本殿は、境内でも正反対に位置していた。窓を開けただけでは見られない距離だ。
 それでもあちらの方向に彼がいると思って、目を細めて夜の先を窺う。
 暫く夜の黒を眺めた後、障子を戻した。ほんの一瞬の時間だった。

「やめておこう。オレ達には、これから行く場所があるしね」
「畏まりました。ですが、出発にはあと二十分あります。新座様らの『回収した』お話を伺えると思いますが」
「オレを圭吾と会わせたいのかい、男衾は」
「いえ」
「彼には、いつでも会えるよ。それに弟達が仕事を頑張ってることぐらい、充分知っているつもりだ。新座だけじゃない。他の子達も頑張ってるってことぐらい、いくら世間知らずのオレだって判っているぞ」

 ダークスーツに身を包んだ男衾は、必要以上のことを喋らず頭を下げるのみとなった。
 腕を組み、実弟のこと……新座のことを考える。
 実家の寺から離れ遠くの『教会』に住んでいる一風変わった弟は、時々だが我が一族の仕事に加わっている。
 その仕事の中渡しを行っている人物が、圭吾だ。圭吾が帰ってきたということは、彼周辺の仕事が一段落着いたということ。弟が、元気に『魂の収集』をしてきたということ。
 また一息ついていると、後ろに下がっている梓丸がクスクス笑い始めた。オレの着物の片付けも終わり、いつでも出発できるという梓丸は、男性だというのにその表情は母親が見守るような、落ち着いた笑みを浮かべていた。

「ええー、みんな頑張っていますよー。アタシも男衾ちゃんもー。いっぱい成果を出して褒められたいですからねー!」
「梓(あずさ)も褒められたいのかい」
「はいー。この家に住まわせてもらっている以上、退魔任務は義務であることは承知ですー。けどー、どんなコトだって頑張ったら認めてもらいたいじゃないですかー? 誰だって頭撫でてもらえるだけで嬉しいんですよー」
「梓は撫でてもらいたいのか?」
「褒められて嬉しくない人なんていませんからー! おそらく圭吾様も仕事が終わって誰かに頭を撫でてもらいたいと思ってますよぉー?」
「誰か、ね」

 柔らかく言って、梓丸は笑う。
 しかしそれでもと、首を振った。
 梓丸が出発の準備が出来たのを計らって立ち上がる。上着の準備は備えられていた。袖を通してもらい、扉を開ける。

「そんなに撫でてほしいなら、あっちからオレのもとに突撃してくるよ。新座の武勇伝を聞きたいけど、それは本人の口から語ってもらうことにしよう。あいつも自分の口から語りたいだろうしね、また今度にするよ」

 下拵えは出来ている。
 夜の行動は、慣れていた。用意は全部出来た態勢。
 言葉で確認するまでもなく頷く。するとその瞬間、室内から跡形もなく消え去った。全ては退魔のために。――異端を狩りに行くために、オレ達は外へと向かった。



 ――2005年9月20日

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 /11

 声が、何かを訴えていた。
 何かを伝えたいならハッキリとした声で、ハッキリとした言い方で、こちらに判りやすいように伝えてほしい。そんなことも教えてもらえなかったのか、この『声』は。
 超越的存在は僕らの考えを遠くまで超越しているから、僕らの『判らない』という悩みを気にしてくれないのか。
 それはともかく、頭が痛かった。声の聞き過ぎだった。

「…………。むぐぅ」

 時折、頭痛に見舞われる。
 悲しいことに夢見は昔から悪かった。良い夢はあまり見ないから、気分の良い夜を過ごすことは、まず無い。
 そのせいか。生まれてから何回も夜を越えてきたけれど、子供の頃から『夜は怖いもの』という印象が拭えない。
 太陽が無くなって真っ暗になって何も見えなくなるから怖いとか。誰も居なくなったように見えるから怖いとか。真冬は寒くなって動けなくなるから怖いとか。真夏は決まって怪談を聞かされるからオバケが出ると思って怖いとか。
 生業でオバケ退治をしていても、怖いものは怖かった。
 今は、気持ち悪い夢と頭痛が苦しめてくるから夜自体が怖い。
 それに、あの仏田寺という屋敷では夜になるとあれやこれやと周囲で何かを啜る声も聞こえたし。怖い怖いと言っていても、地球がまわってる中で生活しているから我慢しなくてはならない。
 夜が来ない国に行けば解放されるという問題でもない。今夜もちょっとばかり勇気を出してこの時間をくぐり抜けようとする。
 たった数時間のこと。それでもこんな勇気を、毎日続けなければならなかった。
 不自由な人生だ。見る夢は悉く恐ろしいものばかりで、リアルティたっぷり。そんな夢の中で、酷いことが起きたり言われたり、夢を夢だと疑えるのはなかなか出来ないことだから、ありえないことがありえないものと割り切れないまま進んでいく。
 毎日が苦しかった。

 誰かが自分を呼び出している音がする。
 だって電話が鳴っていた。こんなときに。
 こんな時間に誰が、と思ったが、こんな時間でも構わず掛けてくる相手を知っている。おそらく僕の家族の誰か、だろう。

『あっ、出てくれたー! おはようございますー、新座様ー……もしかしてずっと起きてましたかー? アタシの声、誰か判りますー?』

 聞き覚えのある、明るい女の子のような男声が受話器から流れ込んでくる。
 真夜中だというのに朝を知らせるニュースキャスターのように、ハキハキした声だった。

「むぐ、偶然にも起きてたよ。でも毎日ってワケじゃない、普段だったら朝の三時はまだ眠りの世界さ」
『今日が特別ですかー。新座様ー、これから何か予定でもお有りでー?』
「いや、特に何も。何にも用事も無く電話してくるような子じゃないよね、梓丸くんは」
『はいー。アタシは何も用事無く電話掛けるなんて無駄なことはしませんよー』
「だよね。ということは……何かな。これから、『お仕事』を手伝えって?」

 時刻は、朝の三時をちょっとだけ過ぎた頃。窓の外を覗いても、まだ太陽は顔を見せない。
 けどこの時間から動き出す人はお百姓さんを始め、たんといる。こんな朝に近い時間……オバケ退治をしていたとしたら、もう終わらなきゃいけない頃だ。
 梓丸くんは、「これからお仕事の説明するから二十四時間を目安にお仕事を完遂させてこい……」とかいう話をするんじゃないだろうか。
 顎で受話器を固定しながら、話の出来る体勢になった。優しく明るい声ながら、窓口になる彼・梓丸は仕事に真面目で厳しい面もあるのを知っているから、ちゃんと聞かなきゃ怒られるかもしれない。でも。

『違います、仕事の手伝いをしろじゃないですー。だって新座様は、昨夜お仕事を終えたばかりじゃないですか。お疲れでしょー? 悟司さんや霞さんと共に三件無事完遂させたという連絡を、圭吾さんから頂いてますよー。昨日の今日で戦わせるなんてムチャなことはしませんー』
「むぐっ、どうだか。いっつも僕らにムチャばっか押しつけてくるくせに」
『しませんよー。第一、一日経っただけじゃ消費した魔力も回復しませんからスッカスカな能力者なんて使えたもんじゃないですー』

 その通りだ。……それ以上ない理由を言ってくれる。まず第一に気遣いの声を言わないところが流石、梓丸くんだ。

『なんだか新座様、言葉の端々がトゲトゲしいですねー。アタシの知っているいつもの貴方とは少しイメージが違うなー。気分でも悪いですかー、機嫌が悪いだけですかー?』
「朝から電話されて怒ってるのかもね。『様付け』も、以前注意したのに直してくれてないからそれも有るかも」
『あー、失礼しましたー。でも貴方は用事も無いのにこんな時間に起きているー。寝ていた訳でもないんだからおしゃべりしてもいいでしょー?』
「…………。正直に言うと、ちょっとだけ体調が悪いんだ」
『そーなんですかー!? それは失礼しましたー、お医者様を呼んだ方がー』
「お医者さんはいらない。シンリンくんから貰ってる薬があるから平気だよ」

 というか、調子が悪いなと思って薬を飲もうとしたけど口にしてない状態だ。
 飲む前に梓丸くんから電話が来たから。
 でも持病がぶり返してるだけだし、処方箋を飲めば治まる筈だ。あまり深刻には考えていない。

『そういや新座さんもリンちゃんに診てもらっているんでしたっけー』
「そのシンリンくんとはもう暫く会ってないけどね。その分、薬は多めに貰っているから。って、おしゃべりしたいだけで電話をしてきたの、梓丸くん?」
『いえー、ちゃんと用事があったんですがー。新座さんの体調が悪いのでしたら自重しますー。大事な直系様のお体を無理させませんー』
「……とりあえず、用件を言ってくれるかな。事が重大だったら苦しくても我慢して応じるし、そうでなかったら薬を飲んで眠らせてもらうよ」
『タイミングが悪くてすみませーん! 実はアタシ達ー、新座さんの居る教会の近くに居るんですー』
「……『アタシ達』? 僕の住んでる教会の近くに居るの?」
『ええー、先ほどまでオバケを狩ってましたからー』
「今夜は梓丸くんも『お仕事』の日だったんだね。お疲れ様。オバケ退治が終わってのこの時間なのかな」
『はーい、そうでーす。そこでせっかく近くまで来たんですから「新座さんにお会いできるかな」と申されましたので、連絡した次第でーす』
「……燈雅お兄ちゃんが、言ったのかな?」

 自分の兄の名前を出すと、電話から「そうですそうですー」と明るい声と、その先で共に頷く姿が幻想できた。
 そうだよな。梓丸くんは、燈雅お兄ちゃん付きの使用人さんなんだから。彼が関わってるって、つまりお兄ちゃんが関わっているってことだから。

『よくお判りでー。今は車の外から電話をしてるのなんとなく音で伝わっていただけますかねー?』
「そうだね、街中の音が微かにだけど聞こえるよ」
『燈雅様にはー、車の中で待ってもらってるんですー。もし新座さんがよろしければ五分でも構わないので、お話をー……』
「なんだ、そういうことか。……会うよ、もちろん会う。志朗お兄ちゃんとは普段から会ってるけど、そっちのお兄ちゃんとは全然会ってないんだ。今すぐこっちへおいでよ」
『でもー、無理されてまではー……』
「薬を一粒飲めば頭痛が止まるようになってるよ、僕の体は。そういう風になるように子供の頃から作り変えられてるの。梓丸くんのお父さんのおかげでね」
『へえー、そういうことも出来るんですねー、ふしぎー。父はよく判らない薬を作りますけどアタシ自身は父にお世話になったことはないんでー』
「健康的で良い証拠じゃないか。銀之助さんの治療は的確だけど厳しいからね。……着いたら礼拝堂から入って来なよ、先に鍵を開けておくから」
『うふふー、ありがとうございまーす! 五分で向かいまーす! きっと新座さんの疲れも取れますよー』

 では一旦電話を切りますねー、という言葉で電話が切られてしまう。
 その前に、僕は尋ねる。

「梓丸くん。燈雅お兄ちゃんは、元気?」

 最初に訊いておかなきゃいけないことを。

『はいーっ、元気ですよー。お電話替わりましょうかー?』
「ううん、後で来てくれるんだし、いいや。すぐに話せるもんね。…………お兄ちゃんは、どれくらいぶりの『外界』なの?」
『そんなに久々じゃないですよ、十三ヶ月ぶりのお外ですから』

 ……そう、と溜息を吐く。
 お兄ちゃんは、一年も外に出てなかったんだ。……そんなにあそこから出してもらえなかったんだ……なるほど。

「……そりゃあ、お仕事が終わってもすぐに帰りたくないか。そういうもんだよね」
『まったくー、困ったもんですー』

 ぶつっ。
 明るい声で軽い挨拶を口にした電話先の彼は、思ったことをそのまま口にして、さっさと通話を終わらせた。



 ――2005年9月20日

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 /12
 
 朝の四時にも近くなると、そろそろ太陽が顔を出してくる。吸血鬼なら棺桶に入る時間だ。
 外はまだ暗い。気軽に散歩に行けないけど、そろそろ街の活気が戻って来る頃だった。

 都会には二十四時間運営のお店がある。『夜だから人が居ない』なんて子供の頃に怯えた原因の一つが、実家を飛び出した頃には無くなってくれた。
 朝と夜の区別なんて、太陽が出ているか否か。それだって電灯があれば、終わってしまう話題。だからさっきの悩みなんて懐中電灯を片手にコンビニに行けば終わってしまう。
 唯一消えない悩みは、これが現実か夢なのかどう判断すればいいか未だに判らないことぐらい。
 そんなねちょねちょした悩みも、薬を一粒飲めば消えてしまった。
 相変わらずの薬の効き目に安心した。『薬は使い過ぎると体が慣れてしまって効果が無くなる』と外の人に言われたが、そんなこと無いなと思っている。体が慣れれば、効果が倍増するもの。現在飲み干している物がそうなんだ。

 ――飲めば飲むほど無痛になっていいぞ。
 ――この薬に限っては効果が増していくものだから、もっと貰っておけ。

 幼馴染の薬剤師(さっき話の中に出てきたシンリンくんのことだ)が言っていたのだから間違いない。あんな良い子が、嘘など教えることは無いから本当だ。
 一族のお医者さんを継ごうとしている彼が嘘を吐くメリットなど無い。全面的に信用することにしている。……だから、二粒ほど飲んでおこう。
 と思ったけど久々に飲んだ薬はとても苦いので、甘党な自分はさっさと諦めた。

「燈雅お兄ちゃん。久しぶり、元気?」

 礼拝堂に入って来た着物の男性を見て、そう声を掛けた。
 「おはよう」と言うにも仕事終えたばかりの彼は眠っていないだろうし、「こんにちは」だと他人ぽく思えたから、敢えてそんな挨拶をした。
 彼は汚れの無い端整な着物姿だ。あんまり街中では見かけない、綺麗な色の和服を身に纏っている。女性ならお稽古事で外でもそんな姿をしているのを見るけど、男性ではまず見られない。それに教会ではそんな姿は特に。
 そのすぐ傍に、さっき電話をしてきた彼と、もう一人、ボディガードの子が控えていた。

「……むぐぅ。燈雅お兄ちゃん、あんまり元気じゃなさそうだね」
「そんなことはないよ」

 その声が返ってくるまでに、数秒かかった。
 隣を見ても、明るいあの可愛い子はふわふわ笑っているだけ。また隣のボディガードの彼を見ても、役職に相応しく無表情で大人しくしているだけ。
 兄の周囲に居る二人は、確かにそこに居るけど、居ない。介入してくる気は無いらしく、ごく普通に『空気』に変身していた。

「なあ、新座。久々に会ったんだ……頭、撫でさせてくれ」
「え? あっ、うん」
「よしよし。頭痛、よくなりますよーに、よくなりますよーに」
「むぐっ……はは。梓丸くん、言っちゃったなー。心配させるようなことを言うのは気遣い下手だぞー? それとお兄ちゃん、そんな撫でて治っちゃうぐらいならシンリンくん達のお仕事、無くなっちゃうよ」
「でもこうすると気持ち良いもんだろ? 撫でると痛みが引くって教えてくれたのは、新座だったじゃないか」
「もうっ、ちっちゃい頃の話じゃないかぁ。ちゃんとお薬飲んだから痛くも痒くも無いって。お兄ちゃんは心配しなくていいんだよ」
「新座も今日、いや、もう昨日の話か……。『手伝い』を終えたというのは聞いている。大変だったか?」
「ううん、悟司さんやカスミちゃんも一緒だったから何ともないよ」

 『本部』も僕達ができる『仕事』しかまわしてこない。そんなに不都合を押しつけて来ることだってない。
 労働の文句なんて言い始めたらキリが無かった。それより僕はお兄ちゃんの方が気になると正直に口にすると、「気になるか?」と何故か意外そうに言う。
 僕にとっては全然意外じゃない。すっごく、と声を張って言ってやった。

「オレに与えられる『仕事』は少し無理すればなんとかなるものばかりだから、気にしないでいいんだよ」
「……ああ、やっぱり少しは無理をするんじゃないか。僕よりずっとオバケ退治が本業な燈雅お兄ちゃんが無理するんだもの、やっぱり辛いんだね」
「やっぱり?」
「見た感じ、お兄ちゃんは辛そうに見える。……だからここに連れてきたのかな、梓丸くん?」

 振り返り、『空気』と化して「アタシらのことはお構いなく」と言うかのような梓丸を見る。
 僕に見られて、やっぱり彼は「アタシらは空気ですよ」と言うかのような顔をしていた。にこにこと可愛い笑顔を見せて言葉を出さずに言ってくる。

「久しぶりにお外でオバケ退治したんだもの。一年ぶりの外……だっけ、それまでずっとお家だもん。そりゃあ……疲れるよね、燈雅お兄ちゃん?」
「まあ、な。疲れてないって言ったら嘘になる。でもすぐに終わらせた『仕事』だ。問題無い」
「うん、傷一つ無くてなによりだ。魔力は随分減ってるみたいだけど……。で、なに、梓丸くん。久々に会えたんだから『弟が供給してくれ』って頼むんだったらちゃんと口で言いなよ、判りにくいなぁ」

 梓丸くんをチクチクするために意地悪く言ってやる。すると空気と化していた彼がクスクスと笑い始めた。

「えっとー、新座さんはアタシよりずっと大人ですから口に出さなくても判ると思いましたー。そんなに伝わらなかったでしょうかー?」
「ううん、何をやらせたいか充分受け取ったよ。梓丸くんが何を求めているか……仕事帰りのお兄ちゃんを連れて来るってとこから判ってたけどさ。口があるんだから使ってくれよ、人間なんだし」
「口を使わなくても判っちゃうのが、『新座様』の素晴らしい能力ではないですかー。一族随一の『感応力師』である、貴方様のー」

 にこにこ、と。真夏の女の子みたいに輝かしい笑顔で、彼は笑う。
 隣に居るボディガードが無表情だから、余計に差が目に見えて、ひどく眩しかった。
 ……はあ。また『様』付けをしてる。

「……梓丸くんはあんな風に言ってるけど、お兄ちゃんも『供給』目当てに教会に来たのかな」
「違う。オレは、新座に会いに来ただけだよ。久々にお前と話がしたかっただけだ。疲れなんて……少しぐらい、我慢できる」

 少し、少しか。
 お兄ちゃんは、『そんな顔』で少しって言うんだね。ずっとずっと青白く切なそうな顔で。
 不健康だって自覚が無いんだろうけど、お祈りをしに来た人がそんな顔してたら懺悔室より先に入院を勧めるかな。
 梓丸くんが平然としてるから夜のせいだと思ったけど、違う。
 ――兄は、本当に心配されてしまうような顔をしていた。

「……お仕事、お疲れ様、燈雅お兄ちゃん。親戚の者でも充分美味しいだろうけど、出来ればもっと近い者……実の兄弟の方を吸いたいもんね、血」
 
 ……僕は、部屋から持ってきていたナイフで自分の指を切る。
 兄は僕が指を切るなり、自分の唇を僕の指に吸い寄せてきた。
 指に舌が這う。舌の絡め方が、「さすがはプロだなぁ」と思う。何のプロと言ったら、兄は『オバケ退治のプロ』なんだけど、だからこそ一番良い治療法……回復の仕方を知っているなと思う。

 ナイフで傷付けた傷口を抉る舌が、あんまり痛く感じない。ぬめっと動くそれが生き物みたいに動くけど、元は優しい兄の体だから気遣いのある蠢き方をする。
 普通だったら気味の悪さを感じるけど……優しくて、なんか色々、凄い動きに思わず息を呑んでしまう。
 ああ、そういえば。幼馴染から処方された薬を飲むと、少しだけ興奮するんだっけ。
 いつも薬を飲むのはベッド周辺での事だったから気にしてなかったけど、ちょっと意識してしまってドキドキした。舐める兄の仕草が、やたら官能的なのがいけない。
 ちゅうっと僕の指に唇を触れさせ、ちゅるちゅると小さな音を立てて体内に押し込んでいく光景。
 我が兄ながら、実の血を分けた兄ながら、指の先に舌を寄せる仕草はなんだか綺麗で妖艶な仕草だから、余計にドキリとしてしまう。
 指を舐めるたびに兄の長い黒髪がパサリと落ちるのが、やたら色っぽかった。
 周囲に二人も他人が居るというのに、興奮しかけた。
 いや、それが目的なんだけど。

 今やっている『供給』という行為は、気を湧き上がらせることで熱いエネルギーを生じさせる儀式。
 人間を構成させる体液の交換。生の実感を思い知らせること。活動力を湧かせる儀式。言葉を濁していくらでも説明できるが、正直に体液交換と同時にエクスタシーを感じれば、『魔力供給』は行える。失ってしまった魔力を回復することができる。それが近しい者なら効果は倍。……そういうことになっている。
 『供給は身内同士の方が絶大な効果がある』の判りやすい例と言えば、「腹痛の子供のお腹をお母さんが撫でると痛くなくなる」とか「痛いの痛い飛んでいけー」とかだ。
 興奮すれば興奮するだけ、効果がある。
 原理はよく判らないが、そう簡単な例で説明されるとなるほどと思う。家の研究者がそう言うのだから、間違いない。

「……んっ」

 家族は嘘を吐かない。仲間であって、唯一無二の味方だから。自分自身であってそのものだから。自身に嘘を吐いたって無駄な事だから、みんな信用している。
 だから、家族中で協力し合う。『仕事』を手伝ったりとか、傷を文字通り舐めあったりとかをして――。

「ん……ぁ。う? すまん、新座……ちょっと抉り過ぎたか?」
「ちょっとね。でも大丈夫。燈雅お兄ちゃんのは気持ち良いから平気。もっと痛いのや不器用なの知ってるから、それから比べたら全然平気だよ」
「痛いのは嫌いだから……。これでも、オレなりに精一杯気遣ってるつもりなんだが」
「……うん。その気持ちが伝わってくるから……嬉しいよ。お兄ちゃんと供給するのは、好き」

 そう言っても、兄は決して赤面したりはしない。
 他人に言ったら告白でどっきんしてもらうことができる台詞も、家族同士だから問題なくスルーされる。
 普通の家族だったら血を舐め合うこともしないそうだけど、性別が同じでも違っても体を重ね合うこともしないそうだけど、まあ、それはそれで。

「んっ……。どうした、新座」
「礼拝堂でイチャイチャするのって……西洋の神様的には有りなのかなって思った。ここ、一応教会だから」
「ぅ……。どうなんだ、ここで働いている身としては? 何か言われたりしないのか?」
「シスターしている人に訊いてみないと判らないな。ここだと頻繁に『声』を聞くけど、それが神様のものなのか判らないし……きっと違うだろうし」
「シンリンから薬を貰ってるんだろ? それなのに、『声』が聞こえるのか」
「……シンリンくんがくれる薬は、『何も考えなくしてくれる』だけだから。僕が耳を閉じても、『あっち』が喋ってきたら意味が無い。それに一方的に『あっち』が喋ってきたことを僕は聞いているだけだから……都合良く『礼拝堂でするな!』って僕達宛に言ってくれなきゃ判らないよ」
「なら、いい。怒られるまで場所を使わせてもらおう。どうせここは日本だ」
「怒られるまでやめないって子供の開き直りみたいだよ、お兄ちゃん。……んっ」

 兄の美しい動きに、声が洩れる。
 また、どきどきしてしまった。
 『空気』に化しているとはいえ、二人の他人が見ている前だから。彼らも、口付ける兄も、どちらも慣れているようだったけど。恥ずかしいという気持ちは嘘じゃなかった。

「梓丸くん」

 空気の顔をした従者に話しかける。「なんですかー」と素直に人間に戻って、返事をしてくれた。

「君も、まざる?」
「えーっ、そんなそんなー。実の弟様とされた方が燈雅様の負担になりませんよー、回復量が桁違いですー」
「桁違いって……そんなゲームじゃないんだから数値で表せるもんじゃないでしょ、体力なんて。見ているだけって楽しくなくない?」
「アタシ達は普段から燈雅様の『供給』を拝見していますからー。直接的なことを為さらない新座さんがちょっともどかしいなぁって思ってるぐらいですー」
「ちょ……。あのさ、それって……」

 ――人のセックス、見られてるってことなの?
 兄に目で問うと、「そうだけど?」という自然な顔で返事をしてくれた。
 …………。

「新座。……次、しようか?」
「あ、今の顔、かわいい。……うん、しようか。僕も慣れてる方だから」



 ――2005年9月20日

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 /13

 時間はどんなにゆっくり流れていても、止まることはない。
 太陽はすっかり上がってきた。吸血鬼ならもう棺桶の蓋を閉じないと消えてしまうぐらい、明るい光が差し込んでくる。それほど長い間、時間を費やしてしまった。
 笑顔の従者は朝に相応しい明るさで、兄の背を押して帰りの車へと去って行った。ありがとうございますと何にでも使える便利な言葉を言って、丁寧な挨拶と感謝の言葉を盛大に贈ってくれる。
 電話を掛けたときから僕に『供給』をさせるつもりでいたんだろう。敢えてこちらが気付かなかったとしても、持ちかけて来たに違いない。
 消耗した主を気遣って。全ては主の為に。

「新座様」

 梓丸くんが実兄を連れて礼拝堂を出て行った後、ずっと黙っていたポーカーフェイスのボディガードが漸く口を開いた。
 ここに来てから頭を下げるぐらいのコミュニケーションをしなかった彼がだ。こんな声だったか、というぐらい新鮮に感じた。

「なあに、男衾くん?」
「新座様は、屋敷にお戻りになる気は」
「今のとこないけど。……それ、前に会ったときみんなに話したよね? 僕の記憶では確か、男衾くんもその席に居た筈だけど」
「はい。ですがもう一度お尋ねしたかった、いえ、お願い申しあげたかったのです。屋敷に、お戻りになる気は」
「今のとこ無いって。男衾くんだって、僕の事情……知ってるでしょ?」

 はい。
 男衾くんはハッキリと返事をする。

「お父さんと喧嘩して、家出して……先に外に出ていた志朗お兄ちゃんや、鶴瀬くんに取り繕ってもらって、やっと戻れるぐらいに仲直りしたとこなんだ。これでも結構苦労をしたんだよ」
「はい」
「まだ波風を立てたくないの。黙って家を飛び出したときは、もう実家の土は踏めないかなって思ってたぐらいなのに、やっと特別に入ってもいいぐらいになれたんだよ。今更『やっぱ実家が一番です。戻ります』なんて言ったら、狭山さんやみんなはどんだけ怒るかな。現状維持が一番だから、戻るつもりはないよ」
「いけませんか」
「一応、君の話を聞いておこうか。どうして僕に戻ってほしいの?」
「燈雅様の為です」

 それきり、彼は黙る。
 それが全てだ、それ以外は無いのだ、と言い切るように真っ直ぐな瞳で、彼は黙り込む。
 その行為は、「それだけで意味は伝わるもの」。というより。「失言を重ねないように逃げにまわった」ように思えた。卑怯だ。

「『供給』は、赤の他人より同じ血の方が効果がある。いつもはきっと……君達がお兄ちゃんのお相手をしているんだろうけど、濃度の濃い実の兄弟の方が効率的に回復できる」
「はい」
「志朗お兄ちゃんは戻る筈が無い。そもそも志朗お兄ちゃんはあんまり血を濃く引き継がなかったし、お父さんはいつも寝てるし。それなら一番僕が便利だね。働き盛りなお兄ちゃんの相手は、僕がベストだねぇ」

 全くその通りだという目を無表情のまま向けてきた。
 きやがった。口には出さず、自ら汚れは踏まず。

「うん、ベストだね。僕が、弟という立場じゃなく他人で、燈雅お兄ちゃんの味方だったら……男衾くんと同じお願いをするかな。だって僕は、単なる仲違いの家出で離反しただけの人だもの。目を瞑れば、これだけ条件が良い人間はいないよね。でもヤだ、帰らない」
「…………」
「君みたいに人を食い物に考えている人がいっぱい居る所、イヤに思っちゃってるからなぁ」
「それでは失礼しました。――おやすみなさいませ、新座様」

 綺麗な顔をして、美しい上司への愛を見せつけて、完璧な従者は去って行った。
 何も悪びれもせず、間違いもせず。

 ――男衾くん、ごめんね。僕は一応その後ろ姿に謝っておく。
 彼みたいにお兄ちゃんのことが大好きでお兄ちゃんの下に居たら、僕だって同じように言う。梓丸くんも君も、お兄ちゃんを大事に大事に想ってくれている。……それが判ってるから、不機嫌はチャラにしてあげよう。
 そうでもなかったら、怒り狂っていたかもしれないけれど。
 自分にとって大事な実の兄を、心の底から心酔している人相手だから何も言わないでおこう。

 礼拝堂のシンボルを見た。
 神を、『一応』象った物が目についた。だから、一礼した。

 ――ごめんなさい、神様。
 貴方に敬意を示すことをしなくて……先に謝っておくべきでしたね。

 間違いなく神様に伝わるように、声を出した。これで勘違いされることはない。
 全知全能の神様だったら何でも知っているから、「そんなこと言わなくても判るよ」と言ってくれそうだけど、念を込めて声に出す。

「ごめんなさい。貴方のことより、とても重要なことだったんです、今の僕達は」



 ――2005年10月22日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /14

「…………は? タマ、まさかお前、親戚の名前も覚えていないワケ?」

 依織(いおり)が「信じられない」と言うかのような声を上げた。
 そんな台詞を他人に興味無さそうな依織が言うとは思わなかった。ちょっとだけ驚く。
 自宅アパートに寝転がってケータイを見ながら、依織と玉淀(たまよど)の会話を盗み聞いていた。堂々と寝っ転がっているところに二人が喋っているから、耳に入ってしまうだけ、ただそれだけだ。
 この場の俺は、あいつらの馬鹿騒ぎの視聴者だった。

「ちょっ、いおりんー。うー、おしゃべりするのはいいけどウデはちゃんとウゴかしてほしいよー」
「あー?」
「プラモデルを彩色するのって一発しょーぶなんだよ? ホントーにウデがあるヒトは何やったってキレイに塗れるんだろうけど。残念ながらおれらにはそんなウデ無いだろー? だからしゅーちゅーするべしっ」
「ダアホ、こういうモンはなるようになれなんだよ。気合入れたって技術が無い身がやったってどうにもならん。なら楽しんで時間を過ごした方が得じゃないか」

 依織は普段通りのムスっとした顔で常識を垂れ流している。その表情と台詞は彼らしさをよく表わしている。
 不器用そうにムスっとしている依織だが、中に秘めたものは熱い奴だ。言葉の端々が熱血漢で、それでいて道理に通っていて、理想論を叩きつけるけど否定するのは難しいことばかりを口走る。難しく表現しているが、要は悪そうに見えた良い奴。それが俺から見た依織の姿だった。
 一方もう一人、金髪に染めた髪に、ひらがなの多そうなぽややんとした喋り方の玉淀は……まあ、見たまんまの性格だ。
 彼ら、依織と玉淀の関係はイトコ兄弟。同い年の遊び仲間。年の近い親戚同士、こうして趣味の玩具で遊んでやがる。
 ……俺のアパートで。

「カスミーん、いおりんが仕事しなーい。やる気出してあげてー」

 俺に言っても何もしねーよ。
 っていうか、やる気の出し方って何をすればいいんだ。

「うー、カスミンもしごとしなーい! おれひとりガンバんなきゃじゃーん。いおりん、そんなコト言うんだから『あ、やべ、間違って塗っちゃった』とか言わないでね。そのガンプラ、けっこーカッチリ作れなかったら……」
「あ、やべ、間違って塗っちゃった」
「うわーん用意したテンプレ通りに言ってくれたーっ!?」

 ばばっとプラモを見る玉淀。
 けど、それほど依織は間違った塗りをしてなかった。二ミリぐらい塗る箇所を食み出しただけだったらしい。
 それでも十五センチの全長に二ミリは多大な被害だと思うが、まだ失敗を取り戻せる範囲だということで玉淀は安心してふにゃふにゃし始めた。

「で、タマ。お前、ヒトの名前、覚えていないの?」

 玉淀が注意して尚且つ失敗したというのに、依織は元の話に戻そうとする。
 奴の顔はムスッとしているだけで、彼は超が付くほどおしゃべりな性格なんだから、こうなっても仕方ない。
 同じ空間に二つ以上の生き物が居たら、犬だってヤギだって話し掛ける男なんだから、仕方ない。
 依織に精密作業を任せてしまったことを、自分の失敗だと正直に認めるしかないんだよ、玉淀よ。

「うー……おれだって、まわりのヒト達ぐらいは覚えるよ。お父さんや弟達の名前ぐらいはね」
「ホントか?」
「けどそれだけだな。だってウチってシンセキ多すぎじゃん。血が繋がっていないシンセキだっていっぱいいるし、シンセキじゃなく、いそーろーしている人達だってたっくさんいるぐらいだし、出入りが激しいし」

 ウチのお寺はホテルみたいなもんだからね、と的確な例え話をする。
 さすがに全員なんて覚える気にはなれないというのは、俺も同意見だった。

「アニメキャラの名前は全部覚えるクセにか?」
「あれは別だもん、きょーみがあるものは覚えられるもんだよー。アイドルグループ全員の名前は言えるけど、英単語がなかなか思い出せないのといっしょだよぉ。好きなアイドル十人を覚えるより、通っているガッコのこーちょーせんせー一人の名前を覚えるのって苦になるでしょ。……あんまりキョーミ無いヒトは覚えない方針なのー。覚えすぎたら、脳がパンクしちゃうだろ?」
「んなことはありえねえ」

 依織は、筆を持った手を止めて、言う。
 元から作業してるんだかしてないんだか、怪しい手だったが。

「脳がパンクとか、ありえない」
「……そーなの?」
「脳は無限に記憶し続けるもんだ」
「うー、そうなんだ」
「だからいくら積み重ねても平気だ。忘れるのは……記憶したのに、うまく引き出せなかっただけだろ。上手に脳の中で整頓しておけば、簡単に覚えたものは引き出せるもんだ」
「それはさ、いおりんー。引き出せるヒトの言い分だよ。いおりんはすっごく記憶力良いとか一度覚えたものは忘れないんだろーけどさー?」
「なめんなよ」
「そこはフツーに『ほめんなよ』にしときなよー。さっきの言葉はさ、そういう特技があるヒトだから言えることであって……フツーの人は、自分の手が届くキョリ以外のものには干渉できないんだってー」
「…………」
「知りうる事実しか知ることはできないし、覚えておける範囲しか覚えておけない。『見えないもの』や『知ることが不可能なもの』には、手が届かないんだ。届いたかどうかも、判別できない。どうしようもないから、普通に『身近でとりあえず覚えておかなきゃいけないもの』だけ、手を伸ばすんだよ。うー」
「…………」
「あっちからこっちまで腕を伸ばしたって……人生七十年の間に届くかどうかも判らないんじゃ、ムダな行為じゃないかー」
「…………」
「……うー、ゴメン。名前を覚えてもらえるのは純粋に嬉しい行為なのに、ムダと言うのは失礼だね、ゴメン」
「タマ。お前さ、今の発言はあまり寺でしない方がいいぞ」
「うー?」

 最初に、玉淀が茶化すようにガンプラ彩色を忠告したのとは、また空気が違う。不思議で、不気味な忠告だった。
 あまりにシリアスな声で、真剣に、言い聞かせる声で依織が発するものだから、聞いている俺まで背筋がゾクリと凍った。

「……いや、いい。彩色作業に戻るぜ」
「え。ちょ、ま、待ってよ、いおりんぃー! そんなマジな声を出されたら困るよ、ビビるよー!? なにそのシリアスな空気を作ってさ……。って、ただのRX−78なのにキャスバルガンダムっぽくなってるよぉー!? 真っ赤じゃんー! インク一つしか使わないでいるってどういうことー!?」
「赤けりゃ三倍なんだろ? 得したな」
「なにその『ちょっとだけガンダムのこと知ってます』程度の発言は! 学人(まなと)といっしょにファーストから逆シャアまで宇宙世紀シリーズ全巻見ただろ! ビデオで! 二回ぐらい! そんなトーク番組のネタで使われる程度しか知らない発言されたってスルーしないよ! いおりんがガンオタなのは俺、知ってるんだからー!」
「同人誌作るほどじゃねえよ、真っ赤が嫌ならブルーデステニってやろうか」
「戦慄のブルーを知ってる時点で同人誌作ってなくても充分オタだよ! 普通にアニメ見ただけの社会人だって知らないヒトが多いよ、真っ青なモビルスーツなんてさ――!」

 異世界語を喋り出す、玉淀と依織。
 おめーら、せめて日本語を喋ってくれ。聞き取れないじゃねーか。意味不明な言語を喋ってるだけだったら追い出すぞ。
 ここは俺のアパートなんだから。ったく、我が物顔で使いやがって。
 ……別にいいけど。

「――しゃらららーん、『おしえていおりんセンセイ』の時間です。まず、今の当主様の名前は言えるかね、タマちゃんよぉ?」

 ひとまず。ガンプラ彩色は切り上げてシンナー臭い部屋を換気しながら正座しつつ、違う講座を行うこと五分。
 記憶力の良いと噂に名高い依織が、思った以上になんでも知っていることにビックリしてしまった。なんでもかんでも覚え過ぎだろ、あいつ。一年間朝昼晩何を食べたか言われたってどう答え合わせしろっていうんだ。飯を作ってる銀之助さんに確認しろって? アホか。
 それにまさか、敷地内に墓参りへ頻繁に来るご近所さんの名前まで全部暗記しているとは。そんなの記憶力がそこそこ良い俺でも知らねーよ。さっすが寺に篭りっきりの申し子だけはある。そういうことにしておこう。今日の変な収穫だな。

「うー……? ……みつ……のり。光緑様、です?」
「そこ、疑問系にすんな」
「光緑様ですっ!」
「よろしい! 正解した勇者には、ちいさなメダルを授けよう!」
「わーい! ビール瓶のフタだー! 王冠みたーい!」
「つーかもし言えなかったら……狭山叔父さんにゲンコツ食らわせられるぞ。本気で、冗談でなくな。言うならばザラキ」
「あはははー……。流石にお寺で一番偉いヒトの名前ぐらいは覚えるさあ」
「覚えてなかったらメシ一週間は抜きだったかもな! タマ、お前が干からびても俺は友達で居てやんよ! さらばだ!」
「うー、その前に、バイトでもして買い食いしまーす。あとはホントにお腹ぺこぺこになったら、カスミンに奢ってもらうから平気ー」

 って、なんでそこで俺の方を向くんだ。
 玉淀、てめー、何かと俺に頼るんじゃねーよ。寝っ転がってケータイを見ながらぼやく。

「いーじゃんー! 頼られるなんてステータスだよー!? カスミンは優しさを大セールした方がいいよー、そしたらおれいっぱい買っちゃうんだからねー!」
「はいはい。じゃあ、次の質問だ、依織様の質問でででん」

 依織はどこからか出したノートの切り端に、ペンでキュッと文字を書く。
 その字は、『住職』。
 それを見て、次に何を言わせたいか即座に理解した。

「住職は、松山(まつやま)」
「おっと、先に言うんじゃねえ。……って、これは愚問すぎたか。お前の父親の名前だもんな」
「うん、自分の父親ぐらいは覚えるさー。『お父さんって何しているヒト?』って訊かれることは、外に出てもあるからね。と言ってもおれ、『じゅーしょく』が何するヒトなのか判んないからずっと『寺で働いてる』って言ってるけど……」
「なあ、タマ。崇高な質問を授けよう。お前、ウチの『魂の回収』ぐらいは判ってるよな?」
「うー? 何だっけそれ」
「絶対教わってるハズだぞ。まあいいや。その辺は後で狭山叔父さんに訊いてゲンコツ貰って来い」
「うわーん! なんでわざわざ殴られに行かなきゃいけないんだよーっ!?」
「俺達『仏田一族』は……退魔、異端や幽霊退治や厄介祓いで金を貰って食っている。そこはオッケー?」
「そこはオッケイ! あんまり外には言っちゃダメなことなんだよねー、ふふん、おれ知ってる。うー!」
「間違っても学校の作文で書けねえ職業だな。で、幽霊を単に成仏させるんじゃなくて、魂をお持ち帰りしてるんだ」
「なんで? ばっちくない?」
「きたねーと思ったらきたねーんじゃねーかな、人のだし。……なんで集めるかって言ったら、魂を集めていっぱい貯めると、『良いこと』が起きるんだってよ」
「良いこと……ドラゴンが出てきて願いを叶えてくれるとかっ? おれねー、願い叶うならねー、おっきなバイク欲しいなー、今使っているヤツよりおっきーのー。あ、そしたらカスミンに今使ってるの、あげるね! ちいさなメダルぽーい!」

 いたっ。
 ああ? お前らいきなり話をよこすなよ。あとビール瓶の蓋、投げんな。
 ……あー、でもあんがとよ。で、マジメに質問答えられなかったら本家行って殴られてこいよって顔を依織がしてるぞ。
 紙に思いっきり書いてやがる。「(`・ω・´)」って、自分の顔色を表わす凛々しい記号を。

「…………。ごめんなさい」
「んで、じゃじゃじゃーんとスゲー量の魂を集めると……『椅子』が完成する!」
「『イス』……? イスって、チェアーの椅子?」
「ああ。神様が座るための『椅子』がな」
「うー……どういう仕組みってのは聞いちゃダメだよね。流石にいおりんも判らないよね。その『椅子』を作って……神様に座ってもらうんだ?」
「そう。流石に、その『神様』が誰なのかは判るよな?」
「ああ、それぐらいは……。女の子、だろ?」
「確かめるまでもなかったな。ああ、俺達の血で『女子』が生まれたら『無条件でその子は神になる』という。なんでも俺達の血はX染色体だけだとメチャクチャ何かが強くなるらしい。……この辺は俺、興味無いから聞いてないけど」
「ふむふむ、うー」

 話を戻すぞ、と依織がガリガリ字を書いていく。
 おい、畳に絶対はみ出すんじゃねーぞ。小学生じゃないんだからそれぐらいのことはできるよな。

「光緑様は、この仏田寺の第六十二代目の当主。滅多に表に出ることはないし、俺も滅多に会わない。朝の会合に時々出席されるぐらいで、そう易々と寺をうろつく身分でもないらしい。きっと多忙な方なんだと思われる」
「ほうほう、ふむー」
「で、表の家業として全権を任されているのが、松山住職。……タマ、お前の父だから、説明しなくていいだろうけど」
「うんうん、『寺で働いてる』って言えば、大体のヒトは判ってくれるかなー」
「その中でも一番偉いがな。……で、松山住職の兄、お前の伯父にあたる狭山叔父さんと……俺の父、大山」
「つまり、おれと依織とカスミンはイトコ、と」
「俺の父親・大山が長男で、カスミンの父親・狭山は次男、タマの父親・松山が三男。イトコ同士に間違いない」
「カスミンは一人年が離れてるけど、俺といおりんは同い年だよねー。わー、カスミンだけ仲間外れだー、ごめんねー」
「イトコなんだからよくある話だろ。……決定的に俺達が違うのは、俺は三男でお前は長男ってことだけど」
「えへへー、おれには月彦(つきひこ)っていう二歳下とー、寄居っていう三歳下の弟がいるんだよー。うー!」
「俺には男衾と芽衣(めい)っていうバカ兄が二人いる! 参ったか!」

 参んねーよ。何が参るんだよ。

「ここに俺の名前で……寄居の名前で……。えへ、カスミンの番がきたよー、おれが代わりに書いておいてあげるねー」

 キュッキュとペンを走らせる依織。
 紙は一家族書いただけで大きな円になる。それが既に3つだ。
 小さく書いたって収められない葡萄の形になっていく。

「狭山叔父さんの三人の息子……悟司、圭吾、霞は判るな。あー、霞っていう字、めんどーだ、カタカナでいいよな。タマ、これぐらいは人の名前、覚えてるな?」
「うー! いおりんセンセイ。カスミンならそこでごろんちょしてまーす!」
「そのとーり、ごろんちょしてる。じゃあ次。……俺達のじーさんである照行(てるゆき)じーさん。ばーさんは数年前に亡くなったな」
「ああ……おじいさん、やっぱおばあさんのこと愛してたんだなってカンジの葬式だったよね。いいな、おれもあんないいひと貰いたいー」
「お前の女事情なんて聞きたかねーよ。……さて、俺達のじーさんは次男坊。じーさんの兄が、和光(わこう)様。現当主の光緑様のお父様で、先代の当主様。あまり会ったことないからよく知らないが。じーさんが時々話すに、和光様はメチャクチャ怖いヒトらしい」
「今の当主様も優しいのか知らないけどね……。ホラ、昔の人って厳格なヒト多いし? そういうもんじゃない? 王道にカルシウム不足だよねー」
「かもな。……でもって、照行じーさんの弟が、浅黄(あさぎ)様。俺の師匠にあたる」
「魔術のお師匠様、だっけ?」
「ああ、俺以外の一族も何人かお世話になっているな。……この辺はタマ達には関係ない話か」
「だね、おれ、そういうのまったくキョーミ無かったクチだし。つーかずばりキョーミ無い、怖いのイヤだもん! 修行とかイヤだし!」
「あー、別に一人ぐらいそう思ってる奴が居てもいいんじゃね。魔術って才能が第一だし」
「うー。それっておれが無能って言ってるみたいでイヤー」
「違うコトに才能あるってことだよ」

 ポンポンと増えていくヒトの名前に、人々の集まりである葡萄はいくつも増えていく。
 三角形上に、いくつもいくつも。

「和光様の息子も三人。……我が家は『子供は三人まで』って決まってるからな。長男が光緑様、次男が藤春様、三男が柳翠様」
「なんでいつも兄弟って三人なんだろ?」
「昔、女の子が欲しいからって三十人生ませて一人も女ができなかった種だけ男がいたんだってさ」
「うわ、そりゃすっごー。三十人が三人ずつ生んだらそれで百人近いじゃん。凄い功労者だね、そのヒト」
「云十年前のジジイの話だがな。……女の子が生まれてほしいのに生まれないから、三人生んでダメだったら生むなってコトだ」

 その功労者のジジイの名前は知らないけど、と葡萄から遠く離れた端にちょっとだけインクを垂らす。
 ただの点だ。それでも……今の家を作り、繁栄させた偉大なヒトには変わりない。

「和光様の長男が光緑様。じゃあ、問題。その光緑様の長男の名前は?」
「…………と、燈雅様」
「……タマ。お前、本気で答えられなかったなら、一度マジで狭山叔父さんに殴られてこい」
「こ、答えられたんだからいいじゃないかー!」
「次期当主様の名前が言えないってヤバイぞ。お前、誰に食わせてもらってんだってコトになるぞ。不敬罪ってことで牢屋に入れられるかも」
「そんなコトするヒトじゃないってー! 燈雅様には話しかけられたことあるよー。時々、そこら辺の落ち葉を箒で掃いてるヒトだよね!」

 まあ確かにフレンドリーなヒトだったな、と依織は頷く。しなくてもいい落ち葉拾いなんてしている次期当主だって。
 怖いと称した和光、厳格なイメージが残る光緑よりは、その息子の燈雅は……年のせいかずっと優しげな印象があった。それは二人の共通認識で、間違いでもないらしい。
 俺も……圭吾アニキがよく次期当主様と話している印象ぐらいしかねーな。俺は分家の生まれだし、一方あっちは大企業の社長の息子で高貴な人だし、仕方ない話だけど。

「そうか。タマ、お前、この辺から名前が曖昧なんだな。イトコ以上になるともう覚えてないのか」
「……イトコの名前が全部言えるだけ、評価してもらいたいもんだよ。うー」
「バーカ、そんなの交流のある家だったら当然だっての。十人ぐらい余裕で覚えてろ。
 ……燈雅様の弟が、志朗(しろう)と新座(にいざ)。
 藤春様の息子が、ときわ、あさか、みずほ。この辺はずっと年が下になるから覚えてるだろ。
 でもって、柳翠様の息子が、緋馬(ひうま)、火刃里(ひばり)、尋夢(ひろむ)」
「うー、怒涛の勢いだぁー」
「さっきとペース変わってねえだろが、三人ずつだ。じゃあ、逆。俺らのじーさんの弟である浅黄様の方にいくぞ。
 浅黄様の奥様が、清子(きよこ)様。ほら、時々説教しにくるババアがいるだろ、あれだあれ。
 その息子三人が一本松(いっぽんまつ)、銀之助(ぎんのすけ)、匠太郎(しょうたろう)。
 一本松の息子が瑞貴(みずたか)、陽平(ようへい)、慧(けい)。この三人は三つ子だからよく似てるよな。
 銀之助の息子が梓丸(あずさまる)、福広(ふくひろ)、小川(おがわ)。
 匠太郎の息子が学人(まなと)、保谷(ほや)、寛太(かんた)……」
「ど、怒涛すぎて追いつけなくなってきたよー!?」

 びえっと泣き声を上げる玉淀。
 ゆるい頭には四桁を越える文字数が押し寄せるとパンクしてしまうらしい。それなのに、次から次へと喋りまくる依織とよく付き合ってられるもんだ。

「怒涛に言ってみたけどな。特徴を挟んで言っていった方が良かったか?」
「……うー。どこまでとくちょーを挟んでも覚えられるかどうかわかんないけど、たのんだー」
「前向きな意見で宜しい、後で褒美を取らせよう! ……燈雅様は次の当主様だから覚えろ、それは必須だ。今後、寺で一番偉い人になるんだからな。燈雅様の周辺には、何人も御付きがいる。次代の当主様を守っている人達がな」
「うー、エスピーになるヒトだっけ?」
「そんなようなもん。それが俺の兄……男衾と、浅黄様の孫の梓丸さん。それと、シンリン」
「……えーと。今さっき怒涛のターンの中に無かった名前が早速混じってるんですけどー?」
「さっき言ってないヤツだからな。シンリンってヤツは、俺達とはだいぶ遠い親戚だ。すっげー遠い。六親等ぐらい」
「六親等……。公民のじゅぎょーでやったようなやらなかったようなー」
「もう一度中学からやり直して来い。簡単に言えば、遠い親戚みたいなヤツだ。俺らの家族は身内で全部まつりごとをまとめちまうが、特例がいる。能力が高ければどこに入ってきてもいいんだ。……シンリンには、妹がいるからな」
「へえ」
「……そこは、へえ、じゃねえだろ」
「えっと?」
「だから、シンリンには妹がいるんだって」
「いもうと……。あ、あーあーあー! なるほど、女の子ね! そっか、そりゃ優遇される訳だ……ってこと?」

 それぐらい確認を取るなよ。
 ……だがしかし、そういうことだ。

「ウチの家系は、女子をとにかく大事にするからな。シンリンの血族は、『女を生んだ』ってことで特別枠として当主の周辺にいてもいいことになっている。シンリン自身がただでさえ腕が良いってのもあるとは思うが……。一応霊媒医者なんでね、アイツ」
「いおりん、知ってるような口ぶりだー?」
「知ってるからな。……俺も、次代の当主陣営に加えられているから、立場は同僚ってやつ」
「ふえー、いおりんクンがとっても優秀に見えるぞー」
「はっはっは、俺様は優秀ってことにしとけよ」

 キュッと忘れず、依織は『依織』と自分の名前の上に花マルを付けた。抜かりなく、自分を目立たせるために。
 負けじと玉淀も『玉淀』の名前に星マークを付ける。
 何に対抗しているのか、自分達も判らなくなってないか?

「あとタマが記憶にありそうなのは……。あさか、みずほ、緋馬、火刃里、尋夢あたりのガキども周辺か? こいつらは平均年齢十五歳のイトコ集団で、光緑様の血に近いが年が離れているから、もう独立したグループってカンジがするな」
「ああ、その子達はねー、おれの弟の寄居や月彦達が遊んでいるらしいからよく名前は聞いてるよー。緋馬って子がいるだろ、アイツがなかなかオシャレさんで、毎回キマった格好していて見ていて面白いんだ。オレンジ頭ってだけで寺じゃ目立つしなー」
「金髪のお前も、寺じゃジューブン目立ってるよ」
「うーっ!」
「話に出た緋馬だけど、コイツは今、寺を出てとある学校に行って仕事をしている……退魔の仕事をな。まあ、してないヤツの方がこの家では少ないと思うが」
「そう? みんないっぱいお仕事やってて偉いねえー」
「…………。あとは浅黄様の孫達かな……三つ子がいるっていうのと、福広あたりを覚えていろよ。詳しい性格は、ヒトの見る目で変わるから敢えてコメントしないことにしよう」

 ペンで全員分の名前を書いたところで、ふう、と依織はため息をつく。
 綺麗な三角形が作られたが、『シンリン』を始めとするいくつかの名前が飛び出していた。
 それが、この家の複雑さをよく表わしている。

「うー。そういやさー、依織センセイ。……外人さんが時々、我が家って歩いてるよね。あれはお客さんじゃなくて、身内っていうのホント?」
「ああ。さっき言ったけど一度に三十人も生ませたヤツもいるぐらいなんだぜ。国を跨いでたっておかしくないだろ」
「そうなのかなぁ。ウチっておれみたいにフリーダムなヒトもいるけどさ、基本的閉鎖的だろー。それぐらいは俺にだって判るよ。……なのに、外の血が混ざっている外人さんを認めてくれてるのかなー?」
「はっきり言って、認めてない。『外国人なんて出て行け』って言ってる連中も多い。俺、人の悪口が露骨すぎる奴は大嫌いだ」
「そーなんだ」
「でも、さっきのシンリンみたいに『特例』として認められているんだ。その特例は、外人嫌いの人達には渋々だろうな。実際に、歩いているのを見かけただけでイヤな顔をするヤツだっているぜ。……そういうのを見るとこっちがイヤな顔したくなるよな」
「うー、良かった。いおりんが今風な考えの持ち主で」
「意味も無くヒトを嫌うのはキライだ。俺みたいに、理由があってヒトを嫌うならともかく」
「ふーん」
「タマが見かける外人っていうのは、背の高い金髪の男とかのことだろ。アイツらも、れっきとした仏田の血を引いている、俺達の親戚だ。それに、よく見るとアイツら東洋風な目の造りをしてるぞ。髪の毛も自前かどうか判らん。染めているかもしれない。お前みたいに、純粋な日本人でも金髪にしているのもいるぐらいなんだ。外見であーだこーだ言うのは、間違ってるよな」
「へえー……。じゃあ、金髪の外人さんにも妹がいるんだね。金髪の女の子なら見たことあるよ」
「…………ふうん、そうなんだ?」

 依織が、何気なく玉淀の言葉に聞き返す。
 その返答の仕方に、『ああ、依織も知らないことがあるんだ』と思った。
 思っただけで、……深く追及はしなかった。
 ――ただ玉淀は、『金髪の女の子を見たことある』だけらしいから――。

「で、外人の双子がいるんだが一卵性でソックリだからビビる。二人揃うと、どっちがどっちだか判らなくなるぐらいだな。瑞貴ら三つ子がいるけどアイツらは似ているだけでソックリじゃないし、あさかとみずほも双子だけど好みが違うから服装から判るもんな」
「そっか……。双子以上が三組もいるんだ、この家」
「そんな珍しい話でもないだろ。どっちかって言うと『女子が生まれない』っていうジンクスが二百年続いてること自体が珍しいというか、奇跡だな。呪われてるって言われても仕方ない。……というか、呪われてるんだな。今のところ確認できてる女は、シンリンの妹ぐらいなんだし」
「……あれ……? …………。ま、いっか……?」
「タマ、どうした?」
「うー。いいよ、気にしなくて。それじゃあ、シンリンさんって人のお父さんは嬉しかっただろうね、念願の女の子が生まれたんだから」
「それだって当主様から五親等以上離れたんじゃ意味ねーって言われたみたいだぞ。嬉しかったのは変わらないだろうけどな。ちなみにシンリンの父親の名前は、航(こう)だ。あんまり会ったことはないけど、浅黄様の門下生だから知らないところで会っているのかもな」
「うー、もう三十人も四十人も名前聞いてるだけだから写真でも見ながらじゃないと判らないよ。とりあえず、当主様の名前覚えているだけでいい?」
「……とりあえずとか言ってるお前、狭山叔父さんの前で同じコト言って殴られて来い」

 シンナーの香りが部屋から消えた頃。もしくは、二人の鼻がシンナーに慣れてしまった頃。
 二人は、元居た席に着席した。
 最初の作業に戻るためだ。

「タマ、質問だぜ」
「うい?」
「新座さんの兄を燈雅様以外で答えよ」
「え、えーと……。し、志朗さん!」
「正解。……なんだ、結構覚えられるじゃねえか」
「えへー! 運が良かっただけだなぁ。ここで『そのお父さんのお父さんを答えよ』とか『外人の双子のお父さんを述べよ』とか言われたら答えられなかったよ。当主様だから和光様って判るし……。あさかとみずほのパパは藤春様だって覚えたけど流石に外部の人のまでは覚えられないなあ」
「……って言うか、それは教えてねえよ。その双子の名前だって教えてねえだろ」
「あれ、そうだったっけ? なんだ、言ってなかったかあ。悩み損じゃん! ていうかさ、いおりん、覚えすぎだよー。遠い親戚のそのまたお父さんの名前とか覚えていて、得したことある? 全部知ってたって何かは変わるかもしれないけど、何かは些細なことでしかないさ。些細以外の大半しか人間は届かないんだから」
「全部知っていることに損したこともないだろ……。あと、その発言は寺の中では控えた方がいいって俺は言ったぞ。ほら、そこのカスミンも同じ顔してるぞ」
「え?」




END

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