■ 002 / 「救済」



 ――2005年9月1日

 【 First /      /     /      /     】




 /1

 ――怨霊は、バラバラになった。

 形を成すことができるまで成長しきった彼女は最期の一撃を受け、崩れていく。痛覚はもう消えてしまったのか叫び声も上げない。
 灰になっていく姿を、ぼうっと見ているしかなかった。
 彼女はどこか、満足だと言うかのような表情をしていた。まるで、愛する人に抱かれているような。今までの未練を、全て晴らしたかのような。
 襲い来る死の恐怖も全て引き受けて、幸せに浸っていた。この消滅の時間が『幸せ』と感じられるのであれば、怨霊は本当に『幸せ』と言えるのだろう。
 彼女が、言葉を発しようと口を開いた。だから手に持っていた武器を消す。魔法の大剣を離して彼女に近付いた。彼女には、もう戦う意志は無い。

 ――ありがとう。それと、ごめんなさい、さようなら――。

 別れと、感謝と謝罪を述べる。未練は無いのか、それ以上言葉はもう聞こえない。
 最期の力を振り絞って、彼女は人間らしい想いをヒトへ伝えることができた。
 それはとても素晴らしいことだ。怨霊という悲しい運命を辿ってしまった彼女の、最期の抵抗が、あれなんだ。
 助けた自分はとても良いことをした、筈。 
 彼女に別れを言って立ち上がった。灰になり、風の中へ消えていく彼女は、もうこの世にはいない。
 在らぬ姿になった不幸な彼女を救ってあげることが自分の役目だった。それが終わったのだから、もう自分はここにいる必要はない。
 けど、どこか名残惜しい。
 彼女自身は後悔も無くこの世を去れた筈なのに。この世に残っている自分が一番、『何か』を引きずっていた。
 ちょっと、駄目かもしれない。
 誰も居ないところで笑ってみせた。
 ほんの少しだけ腕から血が出ている。彼女の悪意の抵抗が流させた血だ。痛みだってちゃんと感じている。それに心だって疲労していた。離れた方が己の為にも、彼女の為にもなる……と思い、ゆっくりと歩き出した。 

 都会のビルの間。 
 心に残る、最期の言葉。
 ありがとうと、ごめんなさいと、さようなら。
 それをいっぺんに言われると、心がひどく疲れる。過去のゴーストハントでも、最期にそれを告げた者達は総じて悲しい存在だった。
 彼女もまた悲しいものの一つなんだと思ってしまって、涙が出そうになる。
 感情的な霊媒師なんて、本当は向いていない。己の血をちょっとだけ呪って、我が家に帰る。
 憂鬱な気持ちは家に帰って家族に会えばすぐに晴れる。だからゆっくりと、着実に、歩き始めた。
 そこは、ただの路地裏。人気の無く、吐息が何一つ無い場所。唯一の息吹は帰路につく。 
 普段通りの静寂が流れた後、僅かにヒトであった残滓だけが腕の中でふらり揺れた。



 ――2005年9月1日

 【 First /      /     /      /     】




 /2

「お疲れ様、新座(にいざ)くん。予定より早く終わっ……、って!?」
「ふえええええええええええええぇぇん!」

 車の前に立つ俺の元へ、新座くんは激しくダイブしてきた。
 帰りの車を用意して道路に突っ立っていた俺を見るなり飛んでくる彼。
 ここは先程まで新座くんがいた路地裏と違う。人通りがある場所だ。大の大人が大の大人の胸を借りて大泣きする場面を数人が目撃し、なんとも言えない視線を送っていた。

「えーと。あー、よしよし?」
「うああああああああああああああああぁぁん」
「…………。とりあえず車の中に入ろう、な?」
「圭吾(けいご)さああああああああぁん」

 号泣する新座くんも心配だが、周りの視線が気にならないとは言えない。
 新座くんを引きずるように自分の車に押し込め、運転席に座る。車の中に入ればまだ……と思ったが、入ったら入ったで轟音を引き受けるのは自分一人になる訳で。
 何があったんだと後部座席で涙を流す新座くんに優しく諭す。車を発進させその場所から遠ざかりつつ。

 運転手の俺が知っているのは『新座くんが路地裏で悪さをする者に鉄槌を下しに行った』ということだけ。
 先程『悪さをしていた者』がこの世から消えた事実は、多少なりとも自分も特異能力者の血を継いでいる人間だし勘付いてはいる。新座くんが怨霊を滅したのは判るが、彼の心理状況までは知ることはできない。
 俺の仕事はただ、現場まで新座くんを送迎すること。それ以外は親から……『本部』から聞かされていなかった。

「新座くん、まずは落ち着こう」
「ふえ……ひっ、く……あぅう……」
「ほら、君だってもう大人なんだから。そんなんじゃ『本部』だって困るだろ、びーびー泣くんじゃない。何があったのかな?」
「あ……えっぐ、む、ぐう……」

 ――『本部』とは、俺達の親戚の集まりのことだ。血の繋がった人々ではあるが、きちんとしたでかい組織ゆえに他言無用は多い。
 こっちから突っついても何も出てこないが、あちらはどんどん力を駆使してくる。力として使われる身である自分らは、とにかくその命令を受けるしかない。日常生活など二の次だ。
 非日常が中心にある血なんだから、『仕方ない』と言って割り切るしかない。……けれど、幼馴染の新座くんは別だ。仕方ないからと言って泣かせている訳にはいかない。

「ゆっくりでいいよ。話したくなかったら話さなくてもいい。とりあえずお疲れ様、任務ご苦労様、だから……」
「彼女、何も悪いことしてなかった!」

 息を切らしながら、新座くんは俯いて叫び声を上げる。
 俺の耳には断片的な音しか入ってこない。でも、要するにそういうことを言っているというのが理解できた。

「『彼女』。今回のターゲットは、女性だったんだね?」
「……うん……」

 言葉より先に意味を探る。
 運転席から新座くんに厳しく問い質すことはできない。少ない言葉で最大限の意味を読み取ろうと努力した。

「……彼女、人を傷付ける気なんて全然無かったよ。それに、一度も誰かを傷付けたことさえも無かった。……彼女は苦しんでいただけだった。なのに……。どうして、彼女を滅してあの世に送らなきゃいけないの……? 彼女は、元々、こっちの人間なのに……!」
「人間、じゃないよ」

 じゃなかったんだろ、と問い掛ける。
 『人間だったモノ』であることは確かだ。けど、彼女はこの世にいるべきものではない。今は異端なのだから成仏させるよう頼んだんだろう、『本部』は。

「今回の標的は怨霊だ。あの世に送らなくてもいい例外なんて無い」
「でもっ、彼女は好きで幽霊になった訳じゃ……!」
「好きで死ぬ人はまずいないよ。生き物は最低限『生きるよう決められてる』し、生きたいと思うもんさ。けどこっちの住人はこっちに住むべきで、あっちのものになったらあっちに行かなきゃならない。同居はできないんだ」
「……むぐ……」

 ミラー越しに俯いてしゃくりあげる新座くんを見る。
 おそらく新座くんの言う『彼女』は、不慮の事故か事件で、寂しく死んだ命だったのか。
 何らかの理由で幽霊になって路地裏に現れた。新座くんの口振りからしてまだ何もしてなかったのか。ただ天に昇れず彷徨っているだけの存在だったのか。
 そんな無実の彼女を、新座くんは浄化した。『親から与えられた任務の一つ』として。
 幽霊の彼女が、何もしない……誰にも危害を加えなかったうちに。平和なうちに事が終われたんだ。

「迷子になった子をいつまでも放置しておく訳にはいかない。そうだろ?」
「…………」
「元のお家とは違う場所に行ったかもしれないけど、居るべき場所に向かったんだ。新座くんは向かわせてあげたんだよ。えらいえらい」
「……でも、元のお家に戻れないのは、悲しいよ。僕だって、お家に帰れないのは嫌だ」
「いいや、『帰る場所』と『居るべき場所』は違うぞ。新座くんは今、怪我をしている。これは転んでついたものか? 違うだろ、幽霊の彼女につけられた傷だ。普通の人間ならこんな傷は負わない」
「……むぐ……」
「ナイフを切られても爆弾を使っても、こんな『腐食のような在らぬ傷』はつかない。あっちのモノがこっちにいる限り、いつかこっちの者に被害が出る。区別しなきゃいけない。そう何度も教えられてきたんじゃないのか、俺達は」
「…………」
「区別だよ、差別じゃない。俺は、俺達は、嫌いだから彼女らを滅するんじゃないんだ。誰かが彼女のような存在を救わなきゃいけない。してあげられるからしているんだ。俺達は救える人間だから。……おまけでお金が付いてくるだけさ」

 停車して、運転席から彼へ手を伸ばした。
 後部座席に頭をぽんぽんと撫でながら、彼の涙を止める。
 本当なら涙を止めてあげるのはもっと適任がいる。けど今はいない。昔からの記憶を呼び起こし、こうすれば落ち着いてくれると思い出しながら彼を撫でた。実際にそれで新座くんは大人しくなっていた。
 それに、間違ったことを言ってない。いてはならないものを殺すというより、助けてあげると言った方が心が安まるものではないか。
 たとえそれが戯言でも。そちらの方が表向き綺麗だ。
 そんなことをしているとコンコンとガラスを叩く音がした。スーツ姿の男が「入れてくれ」と言うかのような仕草で車外に立っている。

「新座くん、適任がやって来たよ」
「……むぐ?」

 ロックを解除し、彼に後ろに乗るよう促した。
 彼は……後部座席で俯いている新座くんの姿を見て、納得し、後ろの席を開けてくる。

「新座」

 ドアが開き、名前を呼ぶ声が聞こえる。俯いた新座くんは顔を上げ、車内に入ってくる彼を確かめる。
 途端、泣きやんだ筈の涙が更に溢れた。……逆効果だったかもしれない。

「……おにい……ちゃ……!」
 
 その後は先程と同じ通り。新座くんは、今度は実兄の胸の中で喚いた。
 泣きじゃくる新座くんを見て、ふと思う。そういや俺、新座くんとは三つぐらいしか離れてなかったような気がする。
 もちろん、年齢の話だ。



 ――2005年9月1日

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 /3

「……突然死、か。しかも死因が『クーラー病』? 志朗(しろう)くん、それって」
「彼女が死んだのは記録的な猛暑日でした。夏の暑い日のオフィス街に勤務していた彼女は、外回りで近道にとあまり人が通らない場所を通った途端……身体の温度調節がイカれて、心臓が耐えきれなくなって……パタンと逝ったそうです」

 室温十七度のオフィスと、ビルに囲まれた気温四十度の空の下。急激な体温変化に体がビックリするのも無理もないか。

「彼女は……誰かに刺されて殺された訳でもなく、自分の血に流れる病気で死んだ訳でもなく。訳も判らず、現代に殺されたんです。そりゃあ、『彷徨う』と思いませんか。何故自分が死んだか判らないまま、ビルとビルとの間で天に昇れずにいたのも、そういうことだと。誰かに殺されたんじゃないから恨み殺して負を吐き出すこともできない。どうしたらいいのか判らなくて、ただその場でぐるぐる回っていた。回るしかなかった」
「……確か依頼は、『徘徊しているのが不気味だから討伐してくれ』だったな?」
「近くのマンションの管理人からの、度々『窓から変なものが見える』という問い合わせだったと聞いてますよ」
「……ちょっと、拍子抜けだな」
「何がですか、圭吾さん」
「普段、俺達の家に来る依頼って『恨み辛みを晴らすため蘇った、血に飢える怨霊』討伐ばかりじゃないか。だから何もしなかった幽霊が……間抜けだと思ったんだ。幽霊なのに、何もしないなんて」
「圭吾さん、いちいちドラマ性なんて求めないでくださいよ。どんな霊だって倒すのは新座なんだ。変に強い敵をまわされたら、何させるんだって親父をボコらなきゃならん」

 そうだ。失礼なことを言った。悪かった。
 お互い、退魔以外の仕事がある身なのにこんな仕事をまわされていたんだった。

「志朗くんも明日から仕事だろう?」
「ええ、明日には取材で青森に飛びますよ。本当なら今にも飛んでしまいたいぐらいです」
「じゃあ君はどうしてここに来たんだい。……『本部』からの依頼を受けたのは、俺と新座くんだけど?」

 車を走らせる中、俺は志朗くんと言葉を交わす。
 新座くんは、既に兄の肩を借りてぐっすりと夢の中だ。
 相当心労していたからあっという間に眠りに落ちた。今は車に揺られ、兄を枕にして寝息を小さく立てている。
 涙のせいで瞼が腫れている不格好な顔を寄せている。志朗くんは心配性な目で弟を見守っていた。年齢とか性別とか関係無い、大切な弟が涙を流していることが気に食わない志朗くんは、疲れて眠る新座くんの手をぎゅっと握っていた。

「圭吾さん。それ、俺に訊きますか?」
「うん。俺の予想している答えと違ったら困る」
「困ることなんて、きっとありませんよ。ただ俺は、久々に愛する弟の顔が見たかっただけです。任務とか家のことなんて知りません。……新座に会いに来ただけですから」
「知りませんって言ってるわりには、『例の彼女』について完璧調べつくしている。それはどういうことだい、志朗くん?」
「ただ消滅させるだけの仕事を弟にさせたくないだけです。理由を説明すればこいつの涙は乾きやすくなるでしょう? ……殺伐とした仕事は、兄貴にでも任せておけばいい。他の連中にもできることなんだし、そっちにやらせればいいのに。……鶴瀬(つるせ)や霞(かすみ)ならやってくれるでしょう。新座には新座の生活があるんだ」

 志朗くんは隣の寝顔を見守る目は、とても優しい。でも家のことを話した途端、目つきが変わる。
 殺伐と口にした本人が最も殺伐とした目つきをしていた。バックミラーを覗きながらうっすらと思う。「そんなに敵視しなくてもいいのに」と。
 ――確かに我が家は殺伐としている。実家に戻ったら何人、首を落としたかの話ばかりするぐらいだ。
 実家に戻らず日常を過ごしていても『本部』は決して逃してはもらえず、お化け退治をしろというお呼び出しをしてくる。
 多くの者は『そういう家に生まれてきてしまったのだから仕方ない』と悟っていく。自分には殺伐とした血が流れているのだから従わなければと納得していく……のだが。

「あ、そこの角を右に曲がってください。新座の教会への近道です」
「『新座くんの住む教会』だろ?」
「……いちいち訂正しないでくださいよ。俺達の周りに教会と関係してるのなんて、新座だけじゃないですか」
「根っからの仏教徒だからなぁ、みんな」
「多分、大半は仏も信仰してませんけどね」
「俺達が信仰しているのは、『俺達の神』だけだからな」
「圭吾さんと違って俺みたいに『神なんてクソ食らえ』と思っている奴もいっぱいいますよ」
「そうかな、志朗くんみたいな方こそ例外だと思うけど。『この血』の多くは神様を求めてるよ、狂った程にね」

 ……深夜。もう信号も作動していないぐらい深い夜。
 人通りの少なくなり、林が見えてくる中で車は、古くも広い西洋の建築物へ向かって走る。
 さあ、到着、お帰りの時間だ。数瞬の時が流れ、振動により新座くんは目を開いた。俺には鏡越しに、心労はもう平気なほどに回復しているように見えた。

「おい新座、大丈夫か?」
「……大丈夫、だよ……」

 大丈夫じゃない声で、新座くんは口を開く。
 苦しそうに瞼を開きながらも、新座くんは首に掛けている十字架のネックレスを握っていた。とても丈夫そうな作りのアクセサリーを握りしめている。指が食い込み抉れてしまいそうな、血が滲んでしまいそうなぐらい強い力に見えた。さすがにそれには兄の志朗くんが「新座……」と心配そうに声を掛ける。

「……大丈夫だよ、お兄ちゃん。心配しなくても……僕、元気になったから」

 十字架を握って、握って……。胸の痛みに顔を歪ませながらも、新座くんはしっかりと志朗くんに応じる。
 どう見ても無茶をしている顔だった。

「……志朗くん、青森に出張するのは明日の何時だっけ?」
「午後の便ですよ。一度、出社しなきゃいけないんで」
「それなら今日はもう遅いから、新座くんのお部屋に泊まらせてもらいなさい。弟といっぱいお話したいんだろ?」
「…………。そうですね、そうさせてもらおうかな」
「それに、新座くんも。お兄ちゃんと一緒に居る方が、落ち着くだろ?」
「むぐ……うん、そうかも」

 今夜は兄が近くに居てくれる、そう思った新座くんの顔色が少しだけ回復する。
 こんな些細なことで体調が改善するなら俺が提案してあげないと。俺の役目は、お化け退治をする新座くんの送迎をすること……だけじゃない。異端討伐に励む能力者をコントロールすることも、職務の一つだった。

「じゃあ、そういうことで。……新座くん、『明日も』宜しくお願いするよ」



 ――2005年9月2日

 【 First /      /     /      /     】




 /4

 今は、甘い恋人同士のような時間。

 ベッドの外へと動く腕を、がしりと掴んだ。逃げ出そうとする新座を逃がさない。
 逃げようとする体は抱擁が嫌になったんじゃない。ただシーツの中が暑いから外に出ようとしただけだ。それでも、全てをここに留めたくて捕らえた。同じシーツの中の熱を、いつまでも感じていたいと思ったからだ。
 太陽が落ちるまであと数時間ある。それまでは体を寄せ合いたかった。
 灯りはつけず、薄暗い部屋。教会で、新座に充てられた私室。名前を呼んで新座を寄せ、その唇に口付けをした。

 もうこれは幾度にも渡って繰り返した行為。切なげに、でも甘く新座の吐息が漏れていく。生身の体を抱き寄せて、額にも唇を寄せる。
 今までに何十回も行なったこの儀式はまだやめられない。これ以上ないぐらいに続けるけど、決して終わることはない愛の語らい。 
 なのに、唐突にその時間は終わった。

「…………!」

 新座が、震え出した。
 まるで初めて抱かれたかのように? ――いや、『恐怖を見たかのような顔をして』。

「どうした?」
「あっ……」

 ビクリと身を強張らせ、途端に目からは涙が溢れた。
 繰り出したキスをいきなり厳しくしたつもりはない。シーツの中での時間はずっと優しいものだった。それまで至って普通だったが突如、新座は怯え出してしまった。
 弟の新座の態度がいきなり急変することは、これまでも何回かあった。
 いきなり泣き出して少し戸惑うが、『いつものことだ』と思えば冷静になれる。突然の発作は子供の頃からのものだから……驚くことはあっても、直ぐに対処できる。もう慣れてしまっていた。
 名前を呼び、今度は頬に口付けてやる。新座の目は次第に潤み、怯えて肩で息をし始めるが、こういうときはとにかく落ち着かせるしかない。何の拍子もなく泣き始めても、必ず理由がある。それを理解してあげなければ。

「ごめ……。お兄ちゃ……んなさい。……ごめん、なさ……」
「泣くことに謝るな。また、悲しかったんだろ?」
「うん……っ。ごめ、あ、うん…………」

 ――いつものことだ。
 でも「いつものことだろ」と口にすると弟は悲しむから、それ以上何も言わないようにした。変に声を掛けて、逆に傷付けてしまってはいけない。
 慰めるために掛けた言葉で相手を攻撃しては元もこうもない。泣いている弟はぎゅっと抱きしめてやるに限る。そして怖がらせないように、優しく撫でてあげることが一番。

 この部屋には俺と新座しかいない。けど、新座は『ここに居ない他人』を感じることができる。
 異能。超能力。感応力。色んな呼び方があったが新座の場合は何と呼んでいたか。
 『遠くにいる誰かの心を読んでしまう』、これは確か千里眼というものだったか?
 非常識な力を持った新座はその能力に振り回されることが多かった。幼い頃から『他人の心』を勝手に読んでしまい、こうやって怯えて泣く。それは三十年付き添ってもまだ克服できない恐怖でもある。
 何もされていなくても突然震えて涙を流す新座。でも彼にはこんな現象が起きるものだと判っていれば、何とも思わない。 
 「怖い」とか「変だ」なんて決して思わない。「そういう奴もいるんだ」と割り切るぐらいには俺ももう大人だ、とっくの昔に大人になった。
 だから新座が何をしようが、認めてあげなくては。
 昔はダメだったけど、今は。

「新座……」

 暫く弟の頭を撫でてやった。長い時間を掛けて悲しい時間を乗り越えて、涙が止まる。
 代わりに俺が笑ってやって、ふざけたように新座の胸に舌を這わした。瞬間、今度は性的な反応で新座の体が跳ねる。 
 これはもちろん悲しくて震えているんじゃない。舌で胸の突起を苛めてやって、逆に笑い出せばいいと思った。

「ぁ……っ、お兄ちゃん、くすぐったいよ……」
「くすぐってるんだ、当然だろ」

 細かく声が漏れ始める。
 順々に硬くなっていく突起。敏感に反応したことに俺が安心する。空いた手を秘所へと伸ばしていくと、行動の意図に気が付いて新座が身を固くした。
 指を動かすと喘ぎが一段と高くなる。
 その響きに、やられそうになる。
 うっすらと汗をかいた身体。シーツの中に充満する香り。その匂いに焼けそうになる肌。
 あたたかい。触れていたい。
 乱れる呼吸。零れる吐息。淫らな温さ。激しく悶えた後に俺を見つめてくる潤んだ瞳。
 泣かせたくなかった。

 精一杯、体を愛してやった後にシャツを着た。情事が終わった後も、暫くはあたたかさが体の中を巡っていた。 
 このあたたかさこそが兄貴達がよく言う『魔力』というものかもしれない。
 俺は満ち足りた。新座も涙なんて流さずすやすやとベッドの上で転がっている。シーツの中で寝息を立てる弟は、もう一人でも大丈夫な顔をしていた。
 けど、泣いた証として瞼が少し腫れている。
 一瞬だと思ったが、実際新座が目に見えない苦痛と戦っていたのはとても長い時間のようだった。
 新座は長い間、涙と戦っていたのか。
 今日もお勤めご苦労な、と声を掛け……新座の住む部屋から出て行く。

 ――そして、今日が始まる。それぞれの朝を迎える。

 太陽はまだ完全に顔を出していない。
 俺達の実家の寺とは大違いの、西洋的建築物。新座の新しい居所を一瞥して、俺は今日の仕事のために一度自宅マンションへ向かった。
 新座の一日が穏やかなものでありますようにと思いながら帰宅し、まずテレビをつける。
 女性が近くの高層マンションから飛び降りたことを報じるニュースが語られていた。
 ここから数キロ離れたマンション街で起きた事件らしい。女性には、家庭環境に問題があったようだ。朝の番組だというのに非常に良く調べられている。
 簡単に調べられるほどその家庭に問題があったということか。軽く触れただけで判る地獄を報じていた。

 ――なるほど、これなら一瞬だけ見えたとしても大層な涙を貰える。
 おそらく新座はあの女の思念を拾ってしまったんだ。

 あの女は死ぬ前にどれほどのことを想ったのだろう。悲しい? 憎い? 悔しい? どれほどの負の感情を吐き出そうとしただろう。
 空を飛んだ彼女の感情は、巡り巡ってベッドで愛されていた新座に届いた。せっかくの愛の時間だったというのに。
 そう思うとムカついてすぐにチャンネルを変えた。違う番組では株価のニュースを報じている。まだこっちの方がいい。
 ブラウン管の向こうにいた真正面の女の顔。あの女は、当分好きになれそうにない。
 まあ、死んでしまった彼女にやれる言葉も無いのだけれど。

 泣いている新座も可愛い。けど笑っている方がいいに決まっている。
 まったく興味が無い株のニュースを見ながら煙草をふかした。



 ――2005年7月13日

 【     / Second /     /     / Fifth 】




 /5

 ドタドタと廊下を爆走していく。
 少年達が走っている。女中達に顔を顰めようがクスクスと笑われようが、みずほは構わず全力疾走していった。
 逃げるみずほを追うのは野球バットを持った少年達。この光景を『子供達の楽しい鬼ごっこ』と大人達は見るだろう。けれど少年達は暗黙の了解である『廊下では走ってはいけません』のお約束を見事に破っている。頭の固い『本部』の連中に見られたらどうなるか、僧侶や女中達は気が気でないんじゃなかろうか。

「待てー、こわっぱーっ!」
「わっぱ〜」

 先頭を火刃里(ひばり)、しんがりを尋夢(ひろむ)がみずほを追いかけていく。
 追いかけられているみずほは人の隙間を抜けて行き、時に雑巾やぬいぐるみを投げ飛ばしている。素早いみずほには誰も届かない。猫のように体をくねらせ逃亡を続ける。

「オマエら走るの遅いんだなー! そんなんじゃ本場に行ったってゼンゼン役に立たないよー!」

 別棟に繋がる橋廊下への曲がり道を通らず、みずほは柵に足を掛けるとひょいっとジャンプした。
 軽く飛び跳ねて、別の棟に乗り移る。後ろで必死に追い掛けていた火刃里が、その光景を見て叫んだ。

「そんなんだったらこっちだって魔法使うぞーっ!」
「ダーメ! お屋敷で魔法使っちゃいけないって言われてるだろ!?」

 ならば「廊下を走るな」と言われていることはどうしたかと言いたいところだが。そこには誰も追及しない。

「……ッ!?」

 大声で火刃里に反論するみずほだったが、突如視界の先に現れたものに目を見開いた。
 縄だ。一本の縄が、今まさにトラップとして目の前に現れた。このまま全力疾走すれば、みずほは転ぶこと間違いなし。
 そんな思考を巡らせている合間に、今度は縄ではなくバケツが転がってきた。

「バケツぅっ!? んにゃあっ!」

 ばしゃあんという水音。
 縄を避ける脳は先にあっても、水の上を飛ぶことまで考えることはできなかったみずほは盛大にすっ転ぶ。靴下が濡れ、廊下は瞬間的に濡れ広がっていく。つるりと滑る足に、みずほの逃走劇は終幕を迎えた。

「痛いっ! こ、こら、引っ張るな引っ張るな! イタイイタイ! ぎぶーっ、ぎぶぎぶーっ!」

 びしょびしょの廊下に転んだみずほの腕を、がっしりと腕を掴んで離さない少年がいる。
 みずほは掴まれていない逆の手で降参の合図を送るが、奴の双子の兄は容赦なくみずほをホールドしていた。

「捕まえたー。……でさ、なんでみずほ逃げてるの?」
「逃げてる理由知らないんだったら捕まえるなよ、あさかぁ!」

 腕を全力で掴みながら、兄あさかはにっこりと弟みずほに笑いかける。
 どんなにみずほがジタバタと腕を動かしたが、あさかの馬鹿力は引き離せない。そうしているうちにもドタドタと後ろの陣は近寄っていた。

「どうせみずほのことだから、プリンを食べたとかそういうどうでもいいことで追いかけられてるんだろ?」
「その通り、よく判ったにゃ。ったくなんでプリン如きであんなに怒るんだかアイツらは! 二ダースぐらい大したことないだろ、ねえ!?」
「二ダース分も食べたのかぁ。そんなに食べたらお腹が冷え冷えになるよ」
「――何をそんなに盛り上がっているんだい?」

 廊下で転がっている双子の前に、着物姿のおじさんが参上する。
 大人の登場に、笑いながらみずほを追いかけていた少年達の騒ぎもピタリとやんだ。
 優しくも低い声が、廊下の少年達を包む。

「盛り上がるのは結構、子供は元気が一番。しかし、騒ぐ所を間違えてないかな? 外はこんなに良い天気なんだ、遊ぶなら中庭か石段下の公園に出なさい。お屋敷は休むところだ、ふざける場所でないよ?」

 大山(おおやま)さんの登場。……誰だって大人の登場は、自分らにとって悪いものだと百も承知だ。大山さんは声を上げて怒るような怖い大人じゃないけど、それでもこの場を黙らせるぐらいの存在ではあった。

「それに……もし見付かるのがおじさんじゃなくて、違うおじさんに見付かっていたら、君達が大変だろう?」

 その言葉に、あさかもみずほも、犯人を追いかけていた少年達は反省しながらもウンウンと激しく頷いた。
 目の前で優しく説教する大山というおじさんは、まだヤンチャを許してくれる大人だ。
 でも中には許してくれない大人もいる。怒鳴り散らした後、大変なお仕置きをする人だっている。ここで廊下に大山だけが現れたのは幸運と噛み締めるべきだ。皆がそう思い、頷く。

「……で、緋馬(ひうま)くんは何をしているんだい?」

 悪さをしていたガキどもを説教するだけしてどっか行けばいいのに、大山さんはわざわざ俺にまで声を掛けてきた。
 なんてことはない。廊下が濡れていたから俺が雑巾がけをしただけじゃないか。水溜まりに映る自分の顔は、いつも通り無表情で気だるげなものだ。水の中でもオレンジの髪色が映っている。格好の派手な彩色も、表情の色の無さまでくっきりと見える。いつもの俺と何にも変わっちゃいない。
 それなのに大山はわざわざ俺の前にしゃがみ込んで、「おじさんの話、聞いてる?」なんてわざわざ訊いてくるんだ。

「……耳は生きてますから聞いてますよ」
「そっか。じゃあ緋馬くん、他の子達も緋馬くんの手伝いをさせ……」
「結構です、これは俺だけでやりますよ」
「みんな反省している最中だ。だから掃除を手伝わせるのも……」
「ですから結構です。元々、みずほを捕まえるために水を撒けって提案したの、俺なんで」
「ほう。水撒きの実行犯だから後片付けぐらい自分でなんとかする、と?」
「ええ。変にトラップを仕掛けてもみずほは勘が良いから直ぐ回避されるし、かと言って寺を燃やして炙り出すのもつまらない。だから、水をぶっ掛けて手っ取り早く転ばせればいい……そう考えついたのは俺です」
「寺を燃やすのがつまらない、か。ハハ、そういうことは冗談でも言わないでおくれ、誤解されるよ」
「冗談? はあ、冗談ですか、気を付けますよ」

 大山はふうとあからさまな溜息を吐く。「どうもこのオレンジ頭は難しい」と言うかのように。

「緋馬くんは他の子よりも年上なんだから、みんなに見習われるようにしてもらわないと困るよ。それは年上の務めだ」
 
 大山は困ったように笑いながら、いかにもオトナな意見を言った。扱いに困るものを見ながら。
 それはともかく、大山が少年達の方へ振り返る。

「今回は緋馬くんが全面的に悪いって言ってるけど、騒いだ子はみんな悪い子だよ。廊下は走るものじゃないって判るだろう? だから全員緋馬くんに全て押し付けないでちゃんと反省すること。いいね?」
「はーい」
「はーい!」
「はぁ〜い」

 もう一度道理を説明し、みずほ、火刃里、尋夢の元気な返事を引き出す。
 これ以上するんじゃないぞというお約束の言葉を言い終えた後、再度大山は俺へ声を掛けた。

「緋馬くん、本家屋敷に顔を出しなさい。――話があるそうだ」

 なんだと思った。けど、直ぐに頷く。
 おそらく『赤紙』の話だったからだ。



 ――2005年7月13日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /6

 春になれば桜が咲き乱れる境内は、夏らしく瑞々しい緑を咲かせている。ここは山奥の寺だけあってまだ暑くない。大山に言われた通り、大乱闘の館とは違う屋敷に向かう。
 山のてっぺんにある森の中の寺は、とにかく広い。仏像ばっか置かれた本殿、修業に篭る僧侶の屋敷、来賓用の館、一族が住む家などなど細かい建物がいくつも、まるで一つの山で町が形成されているような場所だった。
 そこが自宅だ。俺――緋馬を含む多くの者にとって、この山が『我が家』と言える。
 数百年前に建てられた屋敷もあれば、つい数ヶ月前に増築されたスペースもある。先程わいわい子供達が騒いでいたのはその一画。他の場所に比べると新しい建物は心が弾むから、外に出ずギャーギャーと騒ぎたくなったのだろう。
 その気持ちは、子供だった俺にもよく判る。年の近い弟の火刃里が、布団の中で「あの区画が遊び甲斐があって楽しい」と夜に語っていた。
 俺はあいつらに比べると少し大人だ。もう鬼ごっこで遊ぶような年ではない。他の娯楽は無いと言うしかない。山奥の寺でどう騒げというんだ。それこそ鬼ごっこやかくれんぼぐらいしか子供が楽しめる遊びは思いつかなかった。
 携帯電話をポケットから取り出し、覗き込む。山の奥とはいえ、現実世界を捨てた場所ではないから電波塔が建っている。おかげで幸い圏外ではない。
 だから定期的にメールチェックをする。変化は無し。誰からも着信無し。外との繋がりを確認する、それが俺の、今時年頃のスタイルだった。

 閑静な引き戸を抜け、ある場所に辿り着く。すると割烹着をつけたままの男性が顔を見せた。

「緋馬様、ご帰還ですか」
「……ども」

 お帰り、と言っても違う棟に移っただけなんだが、と思ったがそれも今更。
 広い屋敷と広い屋敷を繋ぐ廊下を渡れば別世界。面倒なルールを思い出しながら、割烹着姿の男・銀之助(ぎんのすけ)に軽く頭を下げた。
 銀之助は大山と同じく大人ではあるが、大山のようにちゃらんぽらんで威厳の無い男性じゃない。流石の俺も背筋を正さなければいけないような衝動に駆られる、そんな厳格さを感じる大人だった。

「緋馬様。呼び出された理由は聞いておられますか?」
「いいえ。とにかく『本部』へ顔を出せと大山さんに言われただけです」
「そうですか。しかし、判ってはいられるようですね」
「……まあ、それなりに」

 相当な悪さをしてなければ、わざわざ『当主様が居らっしゃる本殿』に呼ばれることもない。
 だから多分……あのことだろう。思っていると銀之助は「ついて来なさい」と、ある部屋まで俺を連れてきた。
 『本部』の連中が居る和室の前。周辺に人気は無い。僧侶や女中だって限られた者しか入室を禁じられている、もちろん子供達も呼び出しがかからない限り入ってはならないエリアにやって来てしまった。
 悪戯と冒険好きなみずほ達なら夜に忍び込むことぐらいしてそうだが、もし見付かったならどうなるか。リアルで、目を刳り貫かれるんじゃないか。子供じゃない俺だって思ってしまうぐらいの手厳しさが伝わってきた。

 部屋の前で銀之助が跪いた。真似をして、俺も部屋の前で正座をする。「銀之助で御座います」と名乗り上げると、中で音がする。微かにだが、「入れ」という男の声がした。
 流石にここまで厳格さをアピールされると現代人の俺は怖じ気づきそうになる。けど、ふと耳に入った聞き覚えのある声に、すっと体の重しが取り除かれていく。
 銀之助が障子を開け、中に入ると……長い漆机の周りに、着物姿の男達がズラリと並んでいた。男達の後ろには黒いスーツの野郎どもが控えてやがる。決まってどいつもこいつも愛そうが無く、入って来た子供の俺をギロリと睨んできた。
 凄まじい迫力に襲われる。でもその中に、唯一心を許せる人がいてくれて安心した。

「……藤春(ふじはる)伯父さん」
「おう」

 いつも呼んでいる名を呟けば、彼はフレンドリーに返事をしてくれる。
 周りが誰も彼も黒髪の着物姿で厳格さを醸し出している中、一人だけ金髪でシャツ姿の伯父は、とても心に優しかった。
 今の俺は必死に無表情を心掛けているが、冷汗はかきまくりだ。一人でも仲間がいる幸運に感謝しなければならない。
 ほっとしながらある席に座らされた。そして頭を下げる。漆机を挟んだ先に、敬意を表明しなければならない相手がいたからだ。

「緋馬よ、よく来てくれた」

 上座に座る、深い緑色の着物に身を包んだ男性。
 皆の中央に居て、威圧する独特なオーラを醸し出している。人形のように整っている造形で、口角が上がっているのにどこか感情の欠ける目の人物。
 あれが……『我が家の当主様』だ。
 あれが今まで……話でしか聞いたことのない、『この家で一番偉い人』だ。
 この国の王様で、最も素晴らしいとされている人で、絶対に服従しなければならない相手で……。心の中で何度も繰り返しながら、「実在してたんだ」と口走りそうな衝撃を噛み殺した。
 だって、十七年生きていて初めて会ったのだから仕方ない。この仏田寺に住まっているって知っていたけど、伯父の実兄がいるって判っていたけど、いきなり来て凄い人を見てしまったら反応も困る。
 自分と同じ血を引いている筈なのに、人間を見た気がしない。室内の緊張感がとんでもなかった。

「さて、『仕事』の話なんだが」

 無言のままでいると、一族の当主がばっと口を開いた。

 ……うん、きっとこれから「俺に退魔の仕事を与えるんだろうな」と覚悟していた。
 玄関での銀之助も「判っているようだな?」と当然の如く目で合図してきたから、その内容だと理解はしていた。
 けれど、まさか本当にその話だったとは。……なんか順序がおかしくないか? せめて「これから初任務を渡します」と宣言してほしいと愚痴る。あくまで心の中でだが。

「……えっと、『仕事』ですか?」
「場所は全寮制の男子校。そこは頻繁に『出る』。校舎が建てられている山が元々祟神の加護を受けている土地でな。霊地の管理人が廃れ、買い付けの無くなった山に目を付けた業者が高等学校を建設した。だがろくは祓いをせずに建てたせいで、多くの一般人達に悪行を目撃されている」

 典型的な幽霊学校の例だった。

「ここ最近やたらと被害が多くなっているという。なにせ百年ほど前に混乱期が訪れた国だからな、土地の管理は他国によって成されたが霊地の管理まではされていない。若年層が住まう場所ともなれば、自然と思念が沸く。元から霊地として名高い所だ、半端な知識だけでも力が倍増するな。しかも管理者が三代も前に途切れた土地。一つの怨霊を倒したとしても引っ込みが効かず、次から次へと頻繁に出現するだろう」
「一回の除霊でなんとかならない、ですか」
「だから、常に除霊を行わなければならない」

 淡々と語る当主・光緑(みつのり)様は、声に高低が無い。機械的な声だ。
 自分の父の兄にあたるが、血が繋がっているからって悠長な顔はしていられない人だ。身内とはいえ「長話だから聞き逃しました」は許されない。話を取りこぼさぬよう必死にしがみつく。
 でもほんの少し。俺は、視線を当主から別の人達に移してみた。 
 他の者は、どこに視線を向けているという訳でもない。話の中心の当主に顔を向けている者もいれば、俺を見ている者もいる。そんな人達と目が合うのは居心地が悪いから、なるべく当主と目を合わせようと心懸けた。

「して。君に管理者を務めてもらう」
「……はあ」
「暫くその男子校に在籍してもらい、『退魔』に専念してもらう。一つ終わり次第、連絡を入れてくれるだけでいい。どう対処するかは大人な君だ。もう年も十七なんだ、任せよう」
「……はあ」
 
 いつの間にか当主の話は終わっていた。 
 ――はて。色々見回している最中にどこまで話が済んだか。
 確かに、自分は今年で十七歳だ。高校二年生だ。都心のとある高校に通う、私立高2学年の高梨 緋馬(たかなし・ひうま)という男子だが……先程、全寮制男子校に在籍とか言ってなかったか?
 改めて話を聞き直そうと姿勢を正したとき、先に伯父・藤春が口を開いた。

「急すぎないか、兄貴」

 実の兄でもある当主に喰いかかる。さすが藤春伯父さん。 
 と思ったのも束の間。『急すぎ』って何だ。それは『時間を空けたらオーケー』という意味にならないか。
 伯父の口出しを聞いた当主の目が、発言者の伯父を見るためジロリと動く。その発言を予想していたのか、取り乱す様子もない。
 しかし実際伯父の問いに対して口が動かしたのは、当主様ではなく待機していた『怖い人』だった。
 その人の名前は、狭山(さやま)。大山とは比べ物にならないぐらい、子供の誰もがお会いしたくない大人の一人だった。

「他に適任が居らぬ。編入テストも優秀な緋馬なら不都合なく受かるレベルの高校だ。全寮制ではあるが、緋馬様が言うなら実家からの登校を特別に許してもらえばいい」

 特別、なのに、許してもらえばいい。どこか繋がらない会話。もう許してもらう気満々じゃないか。
 ともあれ、現在通っている都心の某高校を辞めることはもう確定事項なのか?
 ……藤春伯父さんが、狭山に向き合う。

「だが緋馬は……。確かに子供を『家業を手伝う』ために転校させた例は今までにも何人もいた、が……」
「だが、何と?」
「……緋馬は、経験が浅い。一人で、一度で済まぬ退魔の地に送り込むなど、無謀じゃないのか?」
「ふん。何を今更。緋馬様は直系・柳翠(りゅうすい)様の長男。力は充分だ。寧ろ、この年になるまで一度も『仕事』を与えなかったのも問題では?」
「問題……って、何が問題なんだ?」
「遊び呆けておくことだ。力を持っておきながら我が一族の為に使わぬなど宝の持ち腐れ。今まで指摘されなかったことを考えられた方が良い」

 怖い人は怖い声のまま、ベラベラと喋る。『今まで仕事をしなかったのが悪いんだ』と言いながら。
 尚且つ、『今まで仕事をさせなかった人も悪いんだ』と言うかのように捲し立てていく。

「緋馬様の監督官は一体誰だったかな、藤春様」
「……俺だ」

 判っている謎を、平然と藤春伯父さんに投げかける狭山。
 愛想笑顔も何も無い、ただ伯父さんを攻撃するためだけの態度がそこにあった。

「ならば『経験が浅い』と嘆く原因はご自身にあることを自覚なされよ。緋馬様はもう十七、ただ守られているだけの年齢ではなかろうに」
「だがしかし!」
「…………あの。藤春伯父さん、狭山さん。すみません」
「何か?」

 俺は伯父さんと怖い人の中に言葉だけ突撃する。
 なるべく怖い面にお会いしないように、真面目そうな声で話に割り込んだ。

「藤春伯父さんをそんなに叱らないでください。……要は、『ちゃんと俺も死ぬ気で働いてこい』ってだけでしょう?」

 ――グッバイ、スクールライフ――。
 特別、今通っている高校に執着していた訳ではない。いつか『血の命令』で言うことを聞かなければならない日がくると判っていた。上の命令に従わなければならないことも覚悟していた。
 それでも、心の中で溜息を吐く。

「……俺、明日にでも編入しますよ。今通ってる学校には『消えた』とでも伝えておいてくれますか?」

 変にお別れ会をされるよりは、『俺んちだから』で納得した方がいい。
 ……その方が、人間的に心が楽だ。



 ――2005年7月13日

 【   / Second /     /     / Fifth 】




 /7

 変なところで食い上がる伯父を止め、詳しい話を聞いたがそれほど重要な話をされなかった。
 ただ神秘絡みの事件が起きたら解決に全力を上げ、その後は実家に連絡を入れろとのこと。もし事件が起きなかったら、『単なる親の都合の転校』で終わるという。 
 何も起こらなければ連絡をする必要も無い。普通の、時期外れの転校生で終わってくれる。
 そんなつまらぬ話で時間を過ごせば、もう夕方になっていた畳の色は橙色で黄昏るには持ってこいの時間だ。

 できることなら、非日常など過ごしたくない。思いながら、夏の夕暮れを過ごす。
 事件を解決しろと能力者に頼る。どっかのライトノベルにありがちで心躍る展開かもしれないが、報酬も何も無い我が家には『義務』という重苦しい言葉しか思いつかない。

 不都合なことがあったらすぐに言えばなんとかすると言ってくれた。
 寮の食堂が不味ければ専門のシェフを用意しようと言った。寮部屋が狭ければ、一週間も待てば改装してやると言ってくれた。
 おそらくそれは冗談だ。しかし昼間、大山が言っていたようにそういうことは冗談でも言わないでほしい。じゃないと少しでも本当にそうなるんじゃないかって、誤解してしまう……。

「ウマちゃん引っ越すの!?」
「ウマちゃん引っ越すんだって?」

 用意された部屋で黄昏ていると、双子の兄弟がいきなり顔を出してきた。
 一つは赤毛で、もう一つは茶髪。夕日の時間帯には目の痛いコンビの参上だ。
 赤く染めた髪が兄あさかで、茶髪の方が弟みずほ。二人とも藤春伯父さんの息子で、現在俺と共に都心のマンションで生活をしている兄弟と言える。

「ああ、引っ越すことになった」

 その関係もあと数日で終わる。新学期から俺一人だけ栃木県の山奥にある全寮制の刑務所へ飛ばされることになったのだから。
 それでも俺は双子より年上の、兄である。猫のようにひっそりと入ってくるみずほと、ふるふる尻尾を丸めてやって来るあさかに、わざわざ悪態つくような態度は見せられなかった。

「ウマちゃん寂しくない?」
「ウマちゃんムカつかない?」
「……寂しいって、一人で眠れなくて泣いちゃうほど俺ってデリケートに見えるか。ムカつくって……伯父さんがいる前で駄々こねられる訳ないだろ」
「でも、一人で任務って大変でしょ?」
「でも、いきなりの話で戸惑うでしょ?」
「……霊地に集まる野郎共だから、一人ぐらい俺達みたいな能力者がいるかもしれないだろ。それに突然群馬に帰ってきた理由が判った。俺に、これを伝えるためだったんだな」

 まったく、電話で『明日から違う学校に行ってもらうから』の一言でもいいじゃないか。どうしてわざわざ群馬の山奥に家族総出で帰ってきたか。やっと理解した。
 ここまで用意されると戸惑うどころではない。そこまで用意した現実に、納得するしかなかった。

「でもさ……」
「あのさ……」
「……何だよ?」

 先程まで質問責めだった二人が、二人で向き合っている。何かと目で会話をするのがこの双子の特徴だ。
 こくり。あさかが頷いて、俺の方へもう一度向く。

「寂しくない?」

 これが最期の質問だった。代表者のあさかはハッキリとした声で尋ねてくる。

「……それ、一番最初に訊いてなかったか?」
「訊いたよ。訊いたけどさ、今までずっと僕達と一緒に過ごしてたじゃん。そりゃ学校も学年も違うけど、今まで毎晩一緒にゴハン食べたり喋ったり寝てたじゃんか!」
「……ああ」
「それ、なくなるんだよ。今まで仲良くなった学校の友達ともバイバイなんだよ。……僕はみずほと一緒に生活できなくなったら凄く寂しいよ。ウマちゃんはそう思ってくれないの?」

 まるで、「私のことは大切じゃないの?」と別れ話を持ち出された女のようなことを言う。しかも、二人揃って二票まとめて。
 俺は、一つ一つに溜息を吐くほど芸達者ではなかった。

「……馬鹿か?」

 率直に、そう尋ねてしまう。

「……友達の縁なんていつか切れる。別れはいずれ訪れるもんなんだから仕方ないだろ。また作ればいい。そんでまた切れる。人の出会いなんてそんなもんだ。高校のダチなんてその程度のもんだけど、お前らみたいなイトコ兄弟は違う。そう簡単に切れないから安心しろよ」
「にゃう、ボクはそうは思わないな! 友達は友達じゃん! 高校の友達は、高校の友達で仲良くすべきじゃないかな」
「……じゃあどうしろって言うんだ。『いつまでも俺達一緒にいようね!』って言い合って寄せ書きの色紙でも貰えばいいのか。こちらとカノジョを別れてでも栃木に行くんだぞ」
「あ、そういやウマちゃんってカノジョいたんだっけ?」

 数日経ってもあっちから連絡が来なかったら、それだけの女だったって思うけどな。
 人付き合いであーだこーだ言うのは、実際にその場に行かなきゃ判らない。本当に別れたくなかったら、転校した先で俺からもあっちからも連絡し合うだろう。予言しておくが、そうする確率はゼロに等しい。
 最後の方は、半ば吐き捨てるように言い放った。
 あさかが「そんな自信はいらない」と呟く。まったくもってそう。けれど、本心からどうでもよいと考えていた。

「ウマちゃん、少しは嫌がるかと思った」
「……嫌だよ。大人しく従うけど、嫌って思うね。……藤春伯父さんに会えなくなるから」

 双子との会話が終わる。暫しの沈黙の後、今度は遠くからドタドタドタと廊下を駆けてくる音がした。
 みずほはここにいるから、コイツじゃない違う子供が昼間と同じように走ってきていた。

「兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃんーっ!」
「おにいちゃあん〜」

 しかも大声付きで。思いっきり、昼間の馬鹿騒ぎの中心にいたガキ達だということが姿が見えなくても確信した。
 火刃里……バカうるさい弟だ。
 プラス、うるさくない弟……尋夢も。

「スッゴイや兄ちゃんっ、一人で怪物退治に行くんだってーっ!?」
「……どこで情報の齟齬を来した、火刃里」
「さっすがだね兄ちゃんっ、ピンク色の化け物も一刀両断するんだねっ、カッコイイっ!」
「……俺、剣術は習ってないんだけど。それにピンク色って何だよ」
「おれもね、今度冒険してもいいって松山(まつやま)おじさんが言ってくれたんだーっ! 鎧着て剣持って戦いに行くんだぜーっ! モンスターも悪い盗賊も一刀両断してくるんだーっ!」
「……ああ、とにかく一刀両断したいのね、お前」

 顔を顰める緋馬に、ぎゃーぎゃー笑う弟。
 その会話内容に乗ったのか、いつの間にか双子も「凄い凄い!」と火刃里をはやし立てていた。

「おにい〜ちゃん〜」
「……どうした。尋夢」
「おにいちゃん〜、ひとりでよ〜かい退治だいじょうぶ〜?」
「ああ、大丈夫だよ。尋夢も心配してくれるのか?」
「ううんちっともお〜。だっておにいちゃんだもん〜」
「……尋夢ちゃん、それ、聞きようによっては凄く悲しく聞こえるから言う順序、逆にした方がいいよ」

 あさかが優しくフォローしてくれる。俺より年下なのになんて心の愛い奴だ。

「今日は兄ちゃんの出兵祝いだぁーっ! 誰かご馳走持っ……て、ああっ! そういやプリン全部食べやがったなみずぴーっ!」

 もう、双子の繰り出してきたしんみりとした話は完全にカットされていく。
 あとは今後どうするんだと子供らしく、騒ぎまくるのみ。もうすぐ夜になろうとしているのに、昼間の時間のようにワイワイしている部屋。今度こそ大人の雷が落ちそうだと思う。
 思ったが、特に何も言わない。落ちようが構わないと口を閉ざして、火刃里のバカ騒ぎを聞き続ける。 

 さて、新しく始まる生活は如何なものか。
 柄でもなく、これから波瀾万丈になるだろう未来を読もうと、静かに目を閉じた。




END

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