■ さわれぬ神 憂う世界 「ある社員の微熱記録」 ・ 小話1


【小話:1】

 /1

 紙の裂ける音が、幼い藤春の胸を刃のように抉った。
 夢中になって描いた一枚の絵は父の手で無惨に引き裂かれ、畳の上へと落ちていく。鳥の羽がもがれたかのように色鮮やかな断片はバラバラに舞い散り、息を呑む間もなく視界を覆った。
「こんなもの、なんの役に立つ」
 冷ややかな声とともに容赦ない平手が頬を打つ。火が走るような痛みが残ったが、藤春の瞳から溢れた涙は、その衝撃のせいではなかった。殴られた痛みよりも、自分の絵を奪われて踏みにじられたことが、息もできぬほど悲しかった。
 小さな両手で必死に破片を掻き集めようとしたとき、父の影が覆いかぶさり、その手すらも打ち払われた。
 そのとき、兄の光緑が迷いなく前に出た。
 弟を庇うように立ちはだかる。その背中は細く華奢で、折れてしまいそうなのに、不思議と大きく見えた。父の怒気はすぐさま兄へと移り、乾いた音とともに頬を打ち据える。
 藤春に焼き付いたのは、兄の呻きではない。殴られながらも退かず必死に弟を守ろうとする、その姿だった。
 幼い藤春にできたのは泣くことだけ。守られるばかりの自分を責めながらも、あの瞬間、兄の背中に宿っていた温もりを忘れることはない。
 父が部屋を去り、藤春はしゃくりあげながら涙に滲んだ視界を袖で拭った。
 その横で、光緑は膝を折った。畳に散らばった紙切れを拾い集める。裂かれた空の青も、端の折れた色鉛筆の跡も、まるで宝物でも扱うように慎重に。
「綺麗な絵だね」
 破片を両手に抱えながら、兄は柔らかく微笑んだ。頬には赤い腫れが残っているのに、その笑みは春の光のように澄んでいた。
「僕は藤春の絵が好きだよ。だから、また描いてほしい」
 胸の奥がじんと熱くなった。破かれた絵はもう戻らない。けれど、その言葉は失われたもの以上のものを与えてくれる。父に否定されても、兄が認めてくれる。自分が表現したものには意味があるのだと言ってくれた。
「柳翠に見せに行こう。きっとあの子も勉強ばかりで退屈してる。藤春の絵なら、喜んでくれるよ」
 弟が待つ部屋へ続く廊下を思い描くだけで、胸の重さが少し軽くなった。破られた絵ではなく、新しい絵を描こう。幼い弟も笑ってくれるだろう。
 兄の掌に包まれる温もりを感じながら、藤春は心に誓った。
 いつか自分も誰かをこんなふうに守り、慰め、笑顔を与えられる人になりたい。
 父の残した痛みよりもその瞬間に芽生えた願いの方が強く、鮮やかに藤春の心に刻まれていった。


 /2

 1998年、冬の訪れを告げる肌寒い夜。白くほどける煙草の煙が揺れ、安っぽい赤提灯の灯りがせめてもの温もりを漂わせている。
 居酒屋の奥の座敷は、笑い声とざわめきが幾重にも重なり合い、油と醤油と炭火の香りが渦を巻いていた。壁には季節ごとの地酒の短冊が無造作に貼られ、色褪せた紙片は酔客の視界には祭りの飾りのように映る。
 高麗川 日高(こまがわ・ひだか)は熱気の輪の中で、徳利を両手にしていた。
 入社してまだ2年目。若手という肩書きは外れず、注がれる酒の量に気を配り、先輩の愚痴に頷き、杯に笑顔を添えて回る。それが仕事かと問われれば馬鹿らしい。けれどこうした所作もまた会社員の務めの一つであると、自然に身に沁みついていた。
 嫌ではなかった。むしろ心地良い喧騒だった。
 机を囲むのは、口うるさくも憎めない年配の男たち、気風のいいおばさん、疲れを隠しながらも笑顔を忘れない中堅の先輩たち。ここは大企業のように尖った空気の漂う職場ではない。地域の商店街のポスターや祭りのパンフレットを刷り上げ、地元の暮らしを支える中小のデザイン会社。小さな仕事の積み重ねが人の顔を柔らかくし、奇妙な親しさをこの場に育んでいた。
 宴席らしく、ジョッキがぶつかり、どっと笑いが湧く。先輩が「お前も食え」と皿を押しやり、日高は「いただきます」と頭を下げながらそれを口に運ぶ。油の熱が舌に沁みる。
 そのとき。がらりと引き戸が開き、夜気の冷たさが店内に流れ込んだ。
「お疲れさまです!」
 仕事を終えた第二陣が到着する。スーツの上着を片手に担ぎ、ネクタイを緩め、遅れて合流した顔ぶれが笑いながら足を踏み入れる。熱気はさらに膨らみ、座敷は一気に窮屈になった。
「ああ、来た来た!」
「お前ら遅ぇぞ!」
 席を詰め合い、新しいジョッキと皿が次々と並ぶ。笑いと湯気と油の匂いに包まれ、冬の夜はますます賑やかさを増していった。
 日高は徳利を手にして、仲間たちを迎えに向かった。
「あ! 高梨さん来てる!」
「珍しいですね、飲み会に参加してくれるなんて!」
 弾む女性社員の声に、居酒屋の空気が色を変えた。笑いとざわめきの中に、小さな歓声が紛れ込み、視線が一斉に入口へと注がれる。
 注目の一人は、高梨 藤春。30代半ばの男性だ。
 遅れてやってきた彼は少し照れくさそうに頭を下げ、空いた座布団に腰を下ろす。その仕草は控えめでありながら、不思議なほど場を和ませる柔らかさを帯びていた。
 待ってましたとばかりに、押しの強い年配の女性社員が身を乗り出す。まるで舞台の一幕のように茶化すような声を張った。
「いやだぁ、奥さんみたいに世話してあげるわよ〜」
「はは、お手柔らかにお願いしますね」
 藤春の笑みは、どこまでも穏やかで優しい。座敷いっぱいに笑いが広がり、雰囲気が一段と和らいでいく。突っ込みを入れる者、くすくすと笑う者。誰もが自然とその場面に目を向けていた。
 藤春は決して、場の中心を求める人間ではない。目立つ役職ではなく、声を張ることもなく、冗談を連発するわけでもない。けれど、気づけば人は彼に引き寄せられてしまう。
 少し高い体格と整った顔立ちが視線を奪い、その上に柔らかな口調と人を傷つけぬ受け答えが重なって、人望という形になっている。騒がしく時に殺伐とした会社員の飲み会において、彼は清涼な風のように感じられた。
 徳利を抱えていた高麗川は手を止め、その光景をじっと眺める。
 ――やっぱり、この人は目立つ。
 華やかに笑わせるでもないのに、ふと目を奪われてしまう。自然と周りを和ませる力と存在感に、高麗川自身、いつの間にか心を惹かれていた。
 ざわめきに包まれた宴席のなか、藤春の照れた笑顔だけが、不思議と心に刻まれていく。
「高梨さん、あんまり飲み会に参加しないから……」
「今日ラッキー。来て良かった〜」
 軽やかに弾む女性社員の声に、隣席の女子が嬉しそうに頷く。
「だって高梨さん、小さいお子さんがいるからね。シングルだから、退勤したらすぐ帰ってあげるんだよ。お家で待ってる子がいるんだから」
「えっ、そうなんですか?」
「今年で……10歳くらいでしたっけ?」
「そうそう。もうしっかりした子で、パパ大好きなんだって」
「えええっ!? あの顔でパパなんですか!? やば!」
 女性陣の賑やかなやりとりが、ざわめきの中で妙に澄んで耳に残った。
 次のお酌をしようとビール瓶に手を伸ばした高麗川は、その言葉に思わず動きを止める。
(まじか……あの人、子供いたんだ)
 若々しい顔立ちだとしても、30半ばともなれば小学生の子がいても不思議はない。驚きと同時に、胸の奥で説明のつかないざわめきが広がっていく。
 笑い声の絶えぬ座敷の中で、高麗川の視線は自然と藤春へと吸い寄せられた。
 ――気恥ずかしそうに微笑むその横顔。あれが父親の顔なのか。
 自分の父は、末子である自分が物心つく頃には既に老いていた。平成の世に昭和を引きずるような古臭い人間で、家ではステテコにハゲ頭、でっぷりとした腹。そんな「典型的親父像」に慣れきっていた。
 いずれ男はそうなるのだと諦めていた。だが、そこにいるのは俳優のように端整で、会社では穏やかに人を和ませ、家では子に慕われる父親。もし自分があんな父を持ったなら、胸を張って自慢するに違いない。
 羨望が鋭く突き刺さり、思わず酒を煽りたくなるほどだった。
「高麗川くん。ちゃんと飲めてるかい?」
 お酌の合間にぐっと煽ったビールの向こう、そこにいたのは高梨 藤春だった。
 にこやかに、それでいてどこか心配げに目を細めている。ちょうど席替えが始まり、わざわざこちらに声を掛けに来てくれたのだ。
 ――こういう気遣いを嫌味なく自然にできる。だから人に好かれるのだろう。高麗川は改めてその凄さを思い知る。
「はい。最初から参加してますから」
「ずっと動き回ってるように見えたから、休めてないんじゃないかと思って」
「平気ですよ。慣れてますから。俺、家でも年上にお酌するの、よくやってたんで」
 少し照れ隠し気味に言うと、藤春が興味深そうに眉を上げる。
「家でも? 君、まだ20歳そこそこだろ」
「うち、両親も祖父母も兄貴たちも……みんな酒飲みなんです。ホームパーティーが大好きで。定期的に宅飲みやるから、注ぎに回ったり介抱するのはまだ飲めなかった俺の役目で……もう10年以上やってます」
 気づけば舌が軽くなっていた。普段ならこんなに話すつもりはなかったのに、不思議と口が止まらない。
「へえ、ご家族仲がいいんだね」
「はい!」
 即答すると、藤春はふっと笑う。
 社交辞令ではない、相手の答えをそのまま受けとめるような温かな笑み。その光に胸の奥がじんわり熱を帯びていく。
「高梨さんも、飲み会好きそうですよね」
 気づけば口にしていた。藤春が目を瞬かせる。
「そう見える?」
「はい。楽しそうだから」
 藤春はグラスを持ち直し、小さく笑った。
「楽しいね。でも……飲み会って、殆ど参加したことがなかったんだ。好きかどうか自分でもよく分からない。この会社の飲み会も、今日が初めてだし」
 意外だった。あまりに自然に場に馴染み、人を和ませる空気を纏っているから、常連だとばかり思っていた。
 驚き混じりに問い返す。
「ご実家は宴会とかあまりしなかったんですか? 正月とか盆とか、誕生日で集まるとか」
 少しの沈黙。やがて藤春は困ったように、しかし柔らかく微笑んだ。その表情を見て、高麗川は直感的に「あ、これ以上は踏み込むべきじゃない」と悟る。
「そういうの、しない家だったから」
 俯きがちに落とした声は、過去をかすかに振り返る響きを帯びていた。だがすぐに顔を上げ、指先でグラスの縁をなぞりながら続ける。
「もう少しうちの子が大きくなったら、できるかな」
 その言葉に胸が熱くなる。未来を思い描く父の仕草。
 高麗川は、殆ど反射のように声を返していた。
「できますよ、きっと!」
 思ったよりも大きな声が出てしまったのは、煽ったビールのせいかもしれない。けれど藤春は、はっきりとその言葉を受けとめた。驚いたように目を瞬かせ、やがて少し照れながら笑う。
「……ありがとう。ところで高麗川くんちのホームパーティーって、何をするの?」
「母が料理好きで、いつも創作料理の発表会みたいなんです。この前はたこ焼きパーティーやったんですけど、中にチーズとかキムチとか入れて……」
 言葉が次々と口をつく。
 この人は、聞き上手だ。喧騒の渦中にいるはずなのに、藤春と交わす会話は不思議と落ち着いていて、心地良く響いた。


 /3

 数日後。昼下がりのオフィスは、納期前特有のせわしなさに満ちていた。
 マウスを走らせる音、プリンタの低い唸り、絶え間なく鳴る電話の呼び出し音。幾重にも重なる雑音が日常を形づくる。
 その合間を縫うように、部長が軽い口調で言った。
「来週のスケジュールに入れとけよ。小学校の職場体験で小学生が来るからな」
 張りつめた空気がほどける。
 デスクのあちこちから、懐かしさを帯びた声が弾んだ。
「職場体験かー。懐かしいな」
「そういやあったあった。親の勤め先に行けって言われたけど、うちの親はNGでさ、全然知らない会社に行ったんだよ」
「俺は母が保育士で、保育園に行ったな。楽しかったけど……受け入れる側は大変だろうな」
 雑談に耳を傾けながらも、誰もが視線をモニターや資料に戻し、手は止めない。
「ていうか、なんでうちOKしたんですか?」
 問いに、中堅社員が声をひそめる。
「内緒だけどな……受け入れると、ちょっとした補助金が出る」
「まじで!? あれってそんなに儲かるの!?」
「いや、大した額じゃない。でもイメージは良いし、地元誌に載れば宣伝にもなる」
 笑い声がいくつも散り、下世話な冗談の中に温かな気配が流れる。そういう空気が、この会社の居心地の良さでもあった。
「聞いた話だと……高梨さんちの子が来るらしいぞ」
「え、高梨さんの?」
「そう。小学4年生だって。まあ、高梨さんの子なら……いい子そうだよな」
 途端に場の雰囲気が和らぐ。
「あー、確かに。礼儀正しそう」
「父親似なら、将来イケメン間違いなしだな」
 そのやり取りを耳にした瞬間、高麗川はマウスを握ったまま手を止めた。
 胸の奥で、心臓がひときわ強く脈打つ。
 飲み会で垣間見た「父親」という顔。その記憶が鮮やかに蘇り、ざわめくオフィスの中でひとり、自分だけが異なる色彩の世界に放り込まれたように感じた。

 そして迎えた職場体験の日、小さな来訪者がオフィスに現れた。
「……高梨 緋馬です。よろしくお願いします」
 その声は緊張でわずかに震えている。けれど、深々と頭を下げる姿には幼さよりも誠実さが滲んでいた。
 小学4年生、10歳の少年。成長期はまだらしく背丈は低く、声も女の子のように澄んだ高音。それでも背筋をきゅっと伸ばし、ぎこちなさの奥に必死さを宿す姿は、大人たちの胸に響いた。
「かわいい〜!」
「え、小学生ってあんな可愛かったっけ!」
「あれ別格。うちのチビなんて鼻水垂らしてテレビばっか見てるのに」
 女性陣の弾む声が、黄色い歓声となって社内を和ませた。
 高麗川は小学生時代、落ち着きもなくじっとしていられなかった子供だった。だが緋馬は違う。人の言葉を正面から聞こうと耳を澄まし、視線はまっすぐ前を見据えている。小さな両手を前で揃え、まるで大人のように挨拶をする。
 控えめに笑む口元は高梨 藤春の面影をそのまま縮小したようで、内気そうでありながら誠実さに満ちていた。
「うちの会社のアイドル決定だな」
「もう将来有望すぎる!」
「このままうちの会社に就職しない?」
 女性社員たちはすっかり心を奪われていた。パソコンを教えようと手を伸ばす者、コピー機の仕組みを説明したがる者、あれもこれもと少年を取り囲み、絶えず笑いがこぼれる。
 当の緋馬は困ったように眉を下げ、それでも小さな声で「ありがとうございます」と返す。その健気さがまた大人たちの心をくすぐり、歓声をさらに誘った。
 女性陣だけではない。年配の男性社員たちも、すっかり目を細めている。椅子にちょこんと腰掛け、緊張で声は小さいが真摯に耳を傾けようとする様子に、欠点など見出せない。
 むしろその初々しい健気さが、大人たちの心を不意に打つ。
「緊張するとお腹空くだろ、ほらこれ」
「頭を使うには甘いのが一番よ」
「これはおじちゃんの好物でね、緋馬くんも食べてみな」
 スナック菓子やキャンディ、チョコレート。差し出された小さな贈り物が積み重なり、彼のデスクは職場体験用の作業場というより小さな祭壇になった。
「……あ、ありがとうございます……」
 顔を真っ赤にしながらも、一途に頭を下げる。その姿がまた一層、場を和ませていく。
 女性社員は拍手を送り、年配社員は笑みを浮かべて頷く。
 彼の存在は瞬く間にオフィスの空気を柔らげた。誰もが自然に笑顔になっていった。
 ところで、この日の緋馬の教育係は高麗川だった。
 部長のひと言であっさりと決まり、入社2年目の彼にとっては、半ば暇潰しのような任務に過ぎなかった。
 本来なら業務の説明を順序立てて行う筈だった。だが同僚たちが次々と緋馬を構いにやって来ては、お菓子を置いて去っていく。結果として教育係としての出番は殆どなく、机の上には色とりどりの菓子袋が小山のように積み上がっていった。
 高麗川はその山を眺め、苦笑まじりに声をかける。
「いっぱい貰ったね。何から食べる?」
 緋馬は小さな手を膝の上でぎゅっと握りしめ、困ったように俯いた。
「え、でも……お仕事中におやつ食べちゃダメじゃ……」
 真面目すぎる答えに、思わず笑みがこぼれる。
「そうだね。学校じゃ授業中に食べたら怒られるもんな」
 この職場は個人で集中する時間が多く、それぞれのペースで水分補給や間食をするのは日常のことだった。もちろん弁当を広げれば顰蹙を買うが、気分転換にチョコをひとかけ口に入れる程度なら誰も咎めない。
「ここはね、学校とはちょっと違うんだ。だから大丈夫。食べていい時間ってことにしよう。何にする? チョコ? ガム? キャンディ?」
 選択肢を並べると、緋馬はさらに慌てた。視線を机の上に泳がせ、どれも捨てがたそうに見つめている。
「えっと……えっと……」
 小声で唸り、きゅっと眉を寄せる。その一途な仕草に、周囲の社員たちはまたくすくすと笑った。
 やがて緋馬はしばらく迷った末、小さな声でぽつりとつぶやく。
「……おじさんはお煎餅好きそうだから、これ残したいし」
 ――おじさん?
 一瞬、誰のことを言っているのか分からず、高麗川は首を傾げる。
「これ、食べます。チョコ」
「それ美味しいもんね。いいよ、食べて」
「いただきます」
 銀紙を小さな指で丁寧に破り、口に運ぶ前にきちんと礼を言う。その律儀さに、高麗川は感心せずにはいられなかった。しっかりとした育ちだ。きっと家庭の教育が行き届いているのだろう。
 そのときだった。
「……緋馬は、ちゃんとやってますか?」
 穏やかな声がフロアに響き、緋馬の肩がぴくりと跳ねた。顔を上げれば、入口に高梨 藤春が立っている。
 仕事を終えたばかりなのか背広の裾にわずかな疲れを纏いながらも、その眼差しは柔らかく、ひたむきに小さな影を見つめていた。
 瞬間、チョコを頬張っていた緋馬の瞳が変わった。
 緊張で曇っていた色が、一気に花開くように明るさを帯びる。呼びかけを言い切るより早く、椅子から飛び出して駆け寄り、包み紙を握った手のまま藤春の足元に飛び込んだ。
 フロアのあちこちで社員たちが思わず顔を綻ばせる。誰が見ても仲の良い親子だった。
「これ、貰ったから……あげる」
 緋馬が両手で差し出したのは、パリッとした包装に入った煎餅。小さな体に似合わぬほど真剣な眼差しで、藤春の手に押しつけた。
 藤春は思わず目を細め、苦笑する。
「それはお前が貰ったもんだろ。食べていいんだぞ」
「でも……凄くいっぱいあるから」
「は? そんなに貰ったのか! 何やってんだ、ここはお菓子を貰う会社じゃないんだぞ」
 笑い交じりに言う声が、思った以上に大きく響いた。
 職場の隅で見ていた高麗川は、胸の奥が不意に揺さぶられるのを覚えた。
 その表情は、オフィスで見せる柔和な微笑みとは違う。少し豪快で、男前な色を帯びていた。
(……家庭だと、高梨さんって、こんな喋り方をするんだ)
「ほら、食え。せっかく貰ったんだから」
 普段の藤春は、どこまでも穏やかで控えめな声色だった。聞き手に寄り添い、波風を立てない。そんな空気を纏う人。
 だが今、目の前にいるのは別人のように、子を相手に堂々とした言葉を投げる男である。
「……じゃあ、一緒に食べよ」
 緋馬が小さな声でそう返す。一瞬きょとんとしたあと、藤春は破顔していった。

 午後の休憩を挟んだあとも、緋馬は小さな体で真面目に働き続けた。
 コピー機の扱いに最初は指先をこわばらせていたが、すぐにコツを覚え、紙の束を丁寧に揃えて差し出す姿は、もはや立派な新人アルバイトのようだった。
 次に挑んだのは、地域サークル誌のフリースペースに添えるイラスト選び。ウサギのワンポイントか、花柄の囲みか、それとも幾何学模様か。小さな眉をぎゅっと寄せ、視線を紙面に這わせて悩む姿には、幼さよりも誠実さが詰まっている。決して適当に指差すことはしない。時間を掛けてでも正しい答えを探そうとしていた。
 そして最後に、小学校へ提出する宿題である「職場体験レポート」に向き合った。
 鉛筆を握る手は一字一字を正しく置こうと背筋を伸ばし、紙面に向かう。その健気さを横で見守りながら、高麗川は教育係として文章を確かめた。
「俺が小学生のとき、こんな立派な文章……書けてたかな」
 小さく笑みがこぼれる。記憶の底に、自分の体験学習が蘇った。
 両親の職場はどちらも「子供立ち入り禁止」で、結局まるで知らない会社に派遣された。慣れない作業に冷や汗をかき、作文に書けたのは「難しかった」の一行だけ。
 けれど夜には、家族の晩酌の席で「今日、こんなことしたよ」と笑い話に変えられた。父はビールを片手に「へえ、それで?」と相槌を打ち、母は「偉かったね」と唐揚げを皿に取ってくれた。あの温かな光景は、今も胸の奥に残っている。
 ふと視線を横にやると、緋馬がレポートを仕上げ、鉛筆を置いていた。小さな背筋をしゃんと伸ばすその姿に、思わず胸が熱くなる。
(今夜、高梨さんに話すのかな。「今日はこんなことしたよ」って……あの人はきっと、疲れていてもニコニコ聞いてやるんだろう)
 そう想像すると、不思議な懐かしさと、言葉にできない羨望が入り混じって胸を満たす。
 午後の光が緩やかに傾き始めた頃、緋馬は「お先に失礼します」と小さく頭を下げて会社を出ていった。まだ夕方前。大人たちにとっては「そんな時間に帰れるなんて羨ましい」と思うような退勤。だが退勤ですら、小さなイベントになっていた。
 通り過ぎる緋馬に、デスクのあちこちから笑みが投げかけられる。
「うちの子も、あんだけ素直だったらなあ」
「ほんと、出来すぎてるよ。やっぱり高梨さんの育て方がいいんだな」
「大きくなったら絶対かっこいいアイドルになれるよ」
 緋馬は会釈を繰り返し、照れくさそうに笑いながら去っていく。その後ろ姿が消えても、フロアには柔らかな余韻のような明るさがしばらく漂っていた。
 ただ一人、藤春だけは、皆の言葉に笑みを浮かべながらも気まずそうに視線を逸らしていた。
 褒められて悪い気がする親などいない。けれど、過分な称賛はやはり照れくさいのだろう。
「……そんな、大袈裟ですよ」
 口元で小さく呟いた声は誇らしさと戸惑いとが入り交じり、不器用な本音を覗かせていた。

 本日の業務を終えた退勤時刻。早めに会社を出ると、玄関先で藤春と鉢合わせた。
「高麗川くん。今日はありがとう」
 夜風に混じるような穏やかな声音は、いつも通り。
 でも今日は、仮面の奥にある素顔を垣間見た。社交的で、誰にも穏やかに接する「理想的な先輩」の顔の下に、揺らぎを抱えた一人の父親がいる。それに気付いてしまったことが、何故だか高麗川の胸の奥を温めていた。
「いえ、自分も勉強になりました」
 社用駐車場へと続く薄暗い小道を並んで歩く。
 まだらな街灯がアスファルトに光を落とし、二人の影を長く引き延ばしていった。
「緋馬くん、本当にいい子でした。凄く頑張ってましたよ。今夜はいっぱい褒めてあげてくださいね」
 高麗川がそう言うと、藤春は歩調を緩めて、柔らかく笑った。
「ああ、うん……褒めるか。どう言ってやればいいかな」
 声はいつもの調子。けれど高麗川の胸には、わずかな違和感が生まれる。
 ただ「頑張ったな」「よくやったぞ」と言えば済むはずのこと。親子なら自然に口をついて出る筈の言葉、なのに、彼は迷っている。
「普通に言えばいいんです。普通の親子っぽく……頑張ったなとか、よくやったぞって」
「……普通の、親子か」
 その言葉に、藤春の表情がふっと翳った。
 街灯に照らされた横顔は美しいほど整っているのに、その影の奥には深い溝が刻まれている。
 ――やはりこの人は「理想的な父親」であると同時に、どこかで躓き続けているのだ。
 飲み会で自分の家の話を避けたときと同じ、冷たい気配がそこにあった。
「高麗川くん」
 名を呼ぶ声は低く、しかし優しく、胸の奥に沁み入る。思わず背筋が伸びる。
「はい」
「普通って……どこで学べるんだろうな」
 やわらかいのに、どこか恐ろしく、そしてどこまでも哀しい声だった。叱られているわけでもないのに、謝罪の言葉が喉までこみ上げる。
 藤春は足を止め、夜気を吸い込むように小さく息を吐いた。
「……家庭で学ぶものなんだろうな。高麗川くんみたいに」
 その一言に、胸が締め付けられる。
「飲み会でたくさん話してくれただろ。お母さんのホームパーティーのこととか、お父さんと過ごした夏休みのこととか……。楽しそうに笑いながら、いっぱい話してくれた。俺にはね、そういう思い出が一つもないんだ」
 穏やかな口調のまま、藤春は淡々と続けた。
「父親の記憶といえば、殴られたことか、大事にしてたものを壊されたことばかりで……。楽しく語れる思い出なんて、何ひとつない」
 ――この人、虐待サバイバーなのかよ。
 高麗川は息を呑んだ。
 これまで「理想の男」としか見ていなかった存在の、完璧な笑顔の裏に、誰も触れられない深い傷が潜んでいると知ってしまう。
 夜風が冷たく両者の間を抜けていった。藤春の声音は柔らかいままなのに、奥に広がる闇は底知れず、胸の奥を震わせる。
 高麗川の目に映る高梨 藤春は、まさに「神様に贔屓された特別な人間」だった。
 背はすらりと高く、顔立ちは整い、どこにいても人を惹きつける。仕事ぶりは真面目で、性格は穏やか。誰からも好かれる存在で、女性陣からの人気も隠れどころか公然のものだ。
 ――そんな出来すぎた人間を、なぜ父親は殴りつけ、壊し続けたのか。
 理解など到底できない。
 街灯に照らされた藤春の横顔が、ふと伏せられる。
「……弟がいるんだ。昔、その弟が言った。『こんな血は残しちゃいけない。自分の代で終わらせるべきだ』って」
 低く、夜風に混じる声。
 藤春の穏やかな人柄からは想像もつかないほど、重く鋭い響きだった。
「そのとき、俺も同じだと思った。俺も親になるべきじゃない。……子供は作っちゃいけない。同じことを、繰り返しちゃいけないから」
 沈黙が落ちた。駐車場に響くのは、遠くを走り抜ける車の音だけ。
 喉が焼けるように乾く。
 そして高麗川は、震える声で口を開いた。
「でも……実際、高梨さんは、父親してるじゃないですか。ちゃんと、してますよね」
 その言葉に、藤春はわずかに目を細め、苦笑とも溜息ともつかない息をこぼした。
「……人生って、何がどう転ぶか分からないな」
 短いひと言に、重たい実感が滲む。
「弟は『父親になるべきじゃない』って言った。俺もそうだと思ってた。なのに、気づいたら……育ててる。……必死だよ」
 声がわずかに震えていた。
「どうしたらいいか分かった瞬間なんて、一度も無い。……ずっと苦しいくらいに」
 街灯に照らされた横顔は、普段の理想的な父親像とはまるで別人だった。
 血を呪いながらも、手放さずに子を育てる。その矛盾と苦悩を抱えた姿に、高麗川の胸は締め付けられる。
 ――この人は完璧なんかじゃない。ただ必死に、足掻いている。
 そう気づいた瞬間、藤春という存在は一層強く、深く刻まれた。
 夜風の中、二人の影が並んで揺れている。藤春の告白の余韻が胸に響き、言葉が見つからない。だが黙って歩くだけでは、あまりに惜しい気がして、思わず声を絞り出した。
「……俺、まだ結婚もしてないし、相談相手としては場違いかもしれませんけど」
 藤春がわずかに首を傾げ、光に照らされた横顔を向ける。その真剣な眼差しに、喉が乾くほど緊張した。
「的確なアドバイスなら、うちの職場には経験豊富な人がたくさんいます。俺じゃなくても、頼れる人はいっぱいいる。でも……」
 一度言葉を切り、心に浮かんだことをどうしても伝えたくて、思い切って続けた。
「でも今日、緋馬くん。高梨さんが休憩のとき顔を見せた瞬間、凄く嬉しそうでした」
 あの光景が鮮やかに蘇る。
 小さな体でぱっと目を輝かせ、迷わず父親のもとへ駆け寄った姿。あれは取り繕いではない。純粋な安堵と喜びだった。
「知らない大人ばかりに囲まれて、優しくされてもやっぱり不安だったと思うんです。でも……高梨さんが来てくれたとき、安心が一気に押し寄せた。それって、凄く好きで、信頼してる父親だからこそできることだと思うんです。だから」
 緊張で喉が渇く。けれど言葉を結んだ。
「間違いじゃない父親、やれてるんじゃないかと……俺は思います」
 静かな場に、言葉がゆっくり溶けていく。
 藤春が目を伏せ、口元に笑みを浮かべた。いつもの柔和さとは少し違う、照れを帯びた穏やかな笑顔だった。
 その笑みに触れた瞬間、高麗川の胸の奥が熱くなる。
 自分はただの新人で、結婚もしていない。けれど、ほんの僅かでもこの人を救えたのでは。そう思えた。
 言い切った瞬間、高麗川は自分でも驚きを隠せなかった。
 ――何を偉そうに。まだ20そこそこの新人で、結婚どころか恋人だって長続きしたこともないのに。
 頬がじわりと熱くなる。
 けれど、藤春は否定しなかった。
 街灯に照らされたその顔は、どこまでも整っている。長い睫毛の影が頬に落ち、伏せられた瞳が切なげに揺れていた。美しい。そう思わずにいられない。
「……そうかな」
 信じたいのに、信じきれない人の声音。
 儚さが、胸を締めつける。職場であれほど穏やかに誰にでも優しく振る舞える人が、今こんなにも不安に揺らいでいる。完璧に見えて、実際は必死に立っているだけなのだ。
「そうですよ。……俺、今日一日緋馬くんと一緒に過ごして、それが分かりました」
 思わず、また言葉が口をついて出る。
「だってあの子、本当に幸せそうでした。高梨さんを見たときの顔――あんな顔、嘘じゃできません」
 藤春はふっと息を吐き、僅かに笑みを浮かべた。その笑みはどこか切なく、眩しくもある。
 ――何なんだろう、この人は。
 完璧すぎて近寄りがたいのに、こうして隣にいると放っておけない気持ちが胸を満たす。
 高麗川は自分でも気づかぬまま、藤春に歩調を合わせていた。隣に並んで歩くだけで、胸の奥に熱が宿る。切なげに微笑む横顔を盗み見るたび、その熱は確かに大きくなっていった。
「あの、その……緋馬くんには、自分が言ってもらえたら嬉しかった言葉を言えばいいんじゃないですか」
 自分の声が夜気の中に溶けていく。視線を向けると、藤春が驚いたように高麗川を見る。
「俺は、親に相槌をしてもらうだけで嬉しかったです。『そうか』『楽しかったか』『良かったな』、それだけで気分が上がったんです。単純だから」
 言うと、藤春はふっと肩を揺らし、笑った。
 その笑みは柔らかく、どこかくすぐったそうで、綺麗だった。一児の父親だと信じられないほど、儚げで優美な笑み。
「高麗川くんの子供時代、きっと可愛かったんだろうね」
 冗談めかした声音。けれど、その一言に心臓が跳ねた。
(間違いなく幼い頃から美少年だった人に、そう言われても)
 冷静なツッコミを胸に抱えながらも、どうしようもなく鼓動が早まる。笑われただけでこんなにも。
「……ありがとう」
 その一言が、ずしりと心に響いた。
 短い言葉が余韻を引き、静かな夜に落ちていく。気恥ずかしさを紛らわすように、高麗川は口を開いた。
「えっと……もし良かったら、明日、今夜の結果を報告してください!」
 藤春は一瞬きょとんとしてから、吹き出すように笑った。
「えっ……はは、宿題ってことだね」
 頬を染めて笑うその姿は、やはりどこまでも煌めいていた。高麗川は思わず視線を逸らす。けれど胸の奥は妙に熱く、帰り道はやけに長く感じられた。


 /4

 夜の7時を少し過ぎたころ。藤春は静かな足取りでマンションの玄関扉を押し開けた。
 一見すればありふれた都内の集合住宅でしかない。外観は落ち着いたタイル張り、エントランスには観葉植物が置かれ、宅配ボックスが整然と並ぶ。住人も平凡な会社員や小さな子供を連れた家族ばかり。外から眺める限り、それはよくある平穏な暮らしにすぎない。
 だが実際は、研究所機関が用意した牢獄だった。藤春を縫い留め、観察するための檻である。
 監禁されているわけではない。扉は鍵で開閉できるし、外出も仕事や日用品の買い物程度なら許される。けれど、引っ越しはできない。選択の自由など最初から奪われていた。
 廊下の天井に埋め込まれた黒いドーム状の監視カメラを見やるたび、背筋を冷たいものが撫でていく。居間や寝室にも同じ眼が潜んでいるかもしれない。そして、訴える権利などない。
 ここは生活空間であると同時に、彼を囲い込む観察施設なのだから。
 藤春は靴を脱ぎ、スーツの上着を壁際のフックに掛けた。
 玄関から伸びる廊下の先、リビングの灯りが既に点いている。そこに待つのは、まだ幼い緋馬だ。
 ただいまと声を掛ける前に、ふと足を止める。
 ――ここは果たして、帰るべき家なのか。それとも管理された収容所なのか。
 答えの出ない問いが、日々の疲労とともに胸の奥底に沈んでいく。
 けれど次の瞬間、小さな足音がぱたぱたと駆け寄り、弾む声が廊下を満たした。
「おかえりなさい」
 その声だけが、この擬似牢獄を「家」と呼ばせる理由だった。

 5年前。緋馬を柳翠から引き取るまでの藤春は、このマンションに収監されていた。
 監視の目に囲まれた擬似牢獄。その中の一室を、藤春はアトリエにしていた。キャンバスや筆、絵具の匂いに満ちたその空間だけが、心を解き放つ唯一の場所とするために。
 まだ優しかった頃の兄が微笑んで言ってくれた言葉――「藤春は画家になるのかな」、その声をどれほど反芻したことだろう。
 魔術の才に乏しく、父に殴られ、罵られ、無能と蔑まれ、やがて機関に売られるしかない存在とされた日々。そんな中で兄だけは、藤春を否定しなかった。
「絵が好きなんだね。僕は、藤春の描くものが好きだよ」
 あの声と撫でる手の温もりが、いつまでも救いだった。
 画家にはなれなかった。それでも今、地域誌や広告の小さなデザインを扱う――かろうじて「絵に触れる仕事」に携わっている。それが自分に許された細やかな形だ。
 収監されながらも、抗っていた。しかし今では自宅のアトリエは潰し、緋馬と暮らすための生活スペースに作り替えた。キャンバスやスケッチブックは段ボールに押し込まれ、部屋の片隅に残されたペンを立てた瓶だけが過去の慰めの名残として息づいている。
 その日の夕餉。食卓を囲みながら、緋馬が無邪気な笑顔で言った。
「おじさんの職場、行けて良かった。イラスト選ぶ仕事、したよ。高麗川さんが教えてくれたんだ。『真っ白なページでもいいんだけど、真っ白じゃなくて、見てる人の心が楽しくなる模様を入れてみよう』って。そう考えながら仕事をするんだね」
 その言葉に、藤春の胸はきゅうと掴まれた。
 ――ああ、この子も、色に心を寄せてくれたのか。
 自分にとっての世界はずっと灰色で、閉ざされたものだった。そこに色を添えることが唯一の救いだったのに、「無駄だ」「役立たずだ」と切り捨てられてきた。
 その色を、緋馬は小さな光のように拾い上げ、未来へ繋げてくれる。
「……そうか。楽しかったか」
 普段より少し低く響く声で返すと、緋馬は力強く頷く。
 血に呪われた一族の中で、唯一自分に残された居場所。微かな温もりが緋馬の声に重なって胸を熱くした。

 夕食を終え、茶を啜りながら何気なくつけていたテレビから乾いたナレーションが流れた。
 ――虐待を受けた子供は、やがて親となり、自らの子を虐待してしまうことがある。
 淡々とした声だったのに、その瞬間、藤春の心臓は氷を呑み込んだように冷えた。
「……そういうもんだよな」
 誰に向けるでもなく、口の内で呟く。
 脳裏に浮かんだのは、弟・柳翠の顔。
 実子である緋馬を無視し、突き放し、見捨てた冷たい眼差し。思い出しただけで、怒りと悲しみが胸を引き裂いた。
 そして、今は亡き兄・光緑。かつては優しかった兄はやがて闇に呑まれ、父としての温もりなど欠片も与えず、息子たちをただの道具のように扱っていた。
 兄と弟がそうだった。ならば、自分はどうだ。同じ父の血を引く、自分は。
 考えた瞬間、胃の奥がぎゅっと縮み、吐き気が込み上げた。
 緋馬は実の子ではない。けれど、その事実は一片の救いにもならない。
 血の呪いが己を突き動かすのなら、いつか気づかぬうちにあの子を傷つけるのではないか。
 優しくしているつもりが、ある日、声を荒げてしまうのではないか。
 抱きしめるはずの手が、ふいに叩きつける手に変わるのではないか。
 無視され、泣き腫らした小さな顔。そんな像が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
「やめろ……」
 自分に言い聞かせるように、掠れた声で呟いた。
 恐ろしい。耐えがたいほどに恐ろしい。その恐怖が忍び寄り、胸の奥をじわじわと締め上げる。
 どれほど愛おしいと思っても、血に刻まれた呪いが全てを裏切るのではないか。
 疑念が頭をもたげるたび藤春は吐き気を堪え、冷や汗に濡れながら自分という存在そのものを呪った。
「あの……おじさん」
 リビングの灯りの下、小さな声が響いた。
 振り返ると緋馬がプリントを胸の前に抱え、控えめに藤春を見上げている。細い指先が紙の端をぎゅっと握りしめているのは、どこか緊張している証だ。
「今日の宿題、見てくれる?」
 藤春は一瞬、言葉を失った。
 ついさっきまで自分がいつかこの子を傷つけるのではないかという暗い想念に囚われ、吐き気すら覚えていた。その胸の底に、ぱっと光が射し込む。
「ああ……職場体験の作文だな」
 受け取ったプリントには、拙い文字でびっしりと感想が綴られていた。
 文末には、幼い線で描かれた小さなイラスト。形は少し歪で、色も片寄っている。けれど、そこには温もりがあった。
「……上手だ」
 思わず、本音がこぼれた。
 顔を上げた緋馬の表情が、ぱっと花のように明るくなる。
 その笑顔には一片の曇りもなく、ただ褒めてもらえた喜びだけが宿っていた。
 作文の中身もまた、無邪気なほど前向きな言葉で満ちていた。嫌だったことや退屈したことなど一切なく、数時間の体験を「楽しい」と受け止め、宝物のように言葉へと変えていた。
 救われる。
 藤春はそう思った。胸を苛み続けていた血の呪いも、虐待の連鎖も。目の前にある小さな手と澄んだ瞳の前では、ただの影にすぎなかった。
「よく頑張ったな。……緋馬は、本当に偉いよ」
 声が僅かに震えた。
 緋馬は照れくさそうに笑う。巣くっていた黒い影が消える。笑顔一つで、この擬似牢獄は確かに「家」へと変わっていた。
「ねえ、おじさん。おじさんも、もっと絵を描けばいいのに」
 ふいに緋馬が声を上げた。
 その何気ない一言に、藤春の動きがぴたりと止まる。
「……え?」
「だって、職場では描いてるのに、お家では描かない。おじさんが描いてるとこ、見たいよ。高麗川さんに見せてもらったんだ。おじさんが描いたっていう絵。みんな……好きだなあって思った」
 無邪気な提案だった。だが藤春の胸には、思いがけない鋭さで突き刺さった。
 長く沈んでいた記憶が、暗い湖底から浮かび上がる。
 ――まだ幼かった頃。父に描いた絵を引き裂かれた日、兄が自分の頭を撫でながら微笑んでくれた。
「藤春は、画家になるのかな」
 そう言ってくれた声。
「僕は藤春の絵が好きだよ。だから、また見せて」
 そう囁いてくれた温もり。
 あの声は、確かに救いだった。
 けれど同時に、父の怒声と掌の痛みもまた鮮烈に蘇る。藤春は目を伏せ、深く息を吐いた。
「……おじさんはね、仕事なら描けるんだ。でも、家で自由に描くのは……少し難しくなって」
「なんで?」
 緋馬の瞳が真っ直ぐに覗き込んでくる。その純粋さが、かえって胸を刺した。
「緋馬と暮らすようになってからは、自分の時間よりも、緋馬と一緒に過ごす時間を優先したかったんだ。……だって、緋馬といたかったから。だから家では画材をしまってある。仕事で描けるから、それでいいと思った」
「……俺のせい?」
「違う」
 藤春は慌てて首を振った。
「緋馬が来たときのおじさんは、まだ生き方が下手だったんだ。今も上手じゃないけど、『どっちも』を両立できなかった。絵よりも、緋馬の方が大事にしたかった。だからここでは描かなくなっただけ。……中途半端に描いたものは、どうせ破かれる。誰の心にも響かない駄作は、壊されるものだから」
 声がわずかに震え、藤春は慌てて話題を変えようとした。
「……俺の話はいいんだ。今日の緋馬の話を」
 けれど緋馬は少し眉をひそめ、真剣な眼差しで言う。
「破かないよ。壊さないよ。俺が守ってあげる。どんなものでも」
 その言葉に、藤春の心が大きく揺れた。
 ――守られるなんて、思ったこともなかった。
 いつだって自分は、守れなかった側だったのに。
「……はは。頼もしいな」
 かろうじて笑い返すと緋馬が胸を張り、誇らしげに頷いた。
 その笑顔を見ているうちに……また筆を取ってもいいのではないか、そんな思いが心の奥で、小さな芽のように顔を出し始めていた。

 緋馬が布団に潜り、安らかな寝息を立て始める深夜。冷蔵庫のモーター音だけが響く静寂の中、藤春はかつてアトリエだった部屋に立った。
 今では衣服や生活道具に埋め尽くされ、ただの物置と化したその空間。かつて仮初でも「自由」を満たしたくて置いていた絵具の匂いは跡形もない。
 藤春は静かに段ボールを引き出し、眠るように重ねられた古びたスケッチブックを取り出した。紙の端は黄ばみ、何度もめくった跡がざらりと指先に残る。
 その一冊を開く。拙い風景画、ぎこちない似顔絵、色鉛筆で塗りつぶした草花。若さの未熟さを滲ませながらも、どこか愛おしい線ばかりだった。
 ――「俺が守ってあげる」。
 小さな声が脳裏に蘇り、胸の奥をじんわりと熱く締め付けた。震える指先で鉛筆を握る。
 白紙のページを開き、躊躇いながら線を走らせる。カリ、カリ。鉛筆の音が、沈黙に支配された部屋へ沁み込んでいく。
 描き出したのは、今日の緋馬の姿だった。
 プリントを抱えてこちらを見上げ、「見てくれる?」と微笑んだ一瞬。
 線は拙く、形は思うように結ばれない。それでも久しく忘れていた感覚が、手の中に戻ってきた。紙を汚すことでしか生まれない確かな手応え。描くことそのものが、かつての自分を呼び覚ます。
 気づけば、藤春は微かに笑っていた。
 ――こんなのどこにも使えない。仕事にもならない。だからこそ、自分のためだけに描ける絵。無駄で、役に立たなくて、けれど誰にも壊されない、自由な線。こんなにも楽しかったのか。
 白紙が黒い線でゆっくり満たされていくのを眺めながら、藤春はふと悟る。
 緋馬から教わることは、あまりに多い。今日もまた一つ、忘れていた原初の歓びを思い出させてくれた。
 この小さな存在は、感謝してもしきれないほど大事なもの。自分を再び生き返らせてくれる理由そのものなのだ。そう、深く思い知らされた。


 /5

 昼休み、デスク脇でコピー用紙を揃えていた藤春に、高麗川は軽口のように声を掛けた。
「宿題、どうでした?」
 昨夜のやり取りを知っているのは自分だけ。その小さな優越感に背を押されての冗談だった。本気で答えを求めたわけではない。
 けれど藤春はふっと顔を上げ、あの穏やかな声で答えた。
「良かったよ。……高麗川くんのおかげで良い夜になった。ありがとう」
 瞬間、微笑みが射し込む。
 真っ直ぐに射抜くような眼差し。柔らかく口元をほころばせる笑み。職場でいつも見せる柔和さよりも、さらに温かみを帯びている気がした。
「高麗川くんは素敵なお父さんになるんだろうね。……高麗川くんのパートナーになる人が、羨ましいよ」
 ――ここの誰も見たことないような、仮面ではない、心からの笑顔。
 冗談めいた響きを纏いながら、言葉に滲む真摯さは隠せない。
 ――ずるい。そんな風に言われたら。
 心臓が跳ね、熱が一気に頬から耳へ広がる。視線を逸らすことしかできない。
 その様子を見逃すはずもなく、同僚の女性社員がすかさず口を挟む。
「高麗川くんなになに、めっちゃ照れてる〜!? あ、褒められてたの? 良かったねぇ、憧れの先輩に褒められて!」
「ち、ちがっ……! いや、そんな、別に!」
 慌てて手を振り、必死に茶化し返す。笑い声が弾け、場はたちまち和やかに包まれた。
 ――危なかった。
 笑い声に紛れながらも、高麗川は胸の鼓動の速さを隠しきれなかった。
 ほんの数秒前、藤春が浮かべたあの笑顔と台詞。
 「パートナーが羨ましい」――穏やかで、優しくて、どこか切なささえ帯びた微笑。
 軽口に乗せられただけのはずなのに胸に沁み込み、恐ろしいほど愛おしいものになりかけている。
「……やばいな」
 心の奥で小さく呟いた言葉は、誰にも届かないまま胸に残り、仕事中も何度も反芻された。
 笑って誤魔化す。そのはずなのに鼓動は速く、頬の熱はいつまでも引きそうになかった。




 END

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