■ さわれぬ神 憂う世界 「住職見習の幽夢余響」 ・ 外伝3ページ目


【外伝:3】


 /1

 7月の終わり。陽はまだ天高く照りつけているのに、境内に落ちる光はどこか色を失い、褪せた絹のように淡く沈んでいた。山を包む夏の熱気は蝉の声を引き延ばし、耳の奥にじりじりと焼きつけてくる。どこからともなく線香の香りが濃く立ちのぼっていて、今日もまた誰かがこの世を送り出されたのだろう。
 仏田寺は、死者を迎える場所である。生と死の境を曖昧に溶かす千年の堂宇は、真夏の陽射しの下にあってなお冷たさを孕んでいた。
 犬伏 寄居は、まだ多くを知らない十代の少年である。
 その肩に背負わされたものは、年齢には不釣り合いなほど重く、古い。仏田寺という世間から僅かに隔たれた場所で、父――住職・犬伏 頼道の庇護のもと、見習いとしての夏を送っていた。
 僧として生きる決意は、まだ固めていない。寺を継ぐ覚悟も遠い。ただ流れに身を任せている。
 それは怠惰ではない。朝の本堂を掃き清め、来客に茶を淹れ、父の留守に訪ねてきた人々と短い世間話を交わす。全てが覚悟を決めるための修行だった。
 寄居は学校の終業式を終えてからこの夏を初めての「仏田寺の住み込み」として過ごしている。炊事の手伝いに立ち、法事や葬儀の支度を覚束なくも助けながら、日々を粛々と過ごしていた。

 寺の朝は早い。夜明け前に寄居は本堂の戸を押し開ける。夏だというのに肌を撫でるのはひやりとした気配。煤けた木の香りと線香の余薫とが溶け合い、まだ夢の続きのような静けさを迎える中。
 ――見える。
 ああ、今日もいるな、と寄居は思った。
 廊下の角、柱の陰、障子の隙間。ふとした拍子に、ふわりと白い気配が視界を掠める。人の影に似ながら、人ではないもの――小さな少女の幽霊だった。
 歳の頃は五つか六つ。和服に身を包み、柄も色も時代から外れて見える。何一つ語らず、ただ廊下の隅でじっとしていた。声を掛ければすぐに溶けて消え、目を逸らせばまた戻ってくる。
 悪戯をするわけでもない。ただ、そこに居る。
 寺での生活にまだ慣れぬ寄居は、どう向き合えばよいのか分からなかった。
「父さん……今日も、いたんだ。あの子、柱のところに」
 熊のような巨体をした住職・父の頼道は、どんな話でも気さくに聞く人だった。不安げに洩らした息子の声にも、明るく応じる。
「ああ、いるもんだよ。ここは死者が通る場所だからな」
 まるで「背が伸びたな」と言うかのような軽さ。
 父の横顔を不安から見つめたが、頼道は微塵も構える様子がない。
「放っておいていいさ。もし害を成すようなら別だが、そうでないならそっとしてやれ。向こうも、何かの縁でここにいるだけだ」
 それは、この寺で生まれて死者を見送り続けてきた男ならではの処世だった。
 霊は畏れるものでも排除すべき異物でもなく、この世の理の一つとして受け入れるもの。頼道はそういう静かな認識で過ごしていた。
「寄居が一人前になるため頑張ってるから、気になるのかもしれん」
「俺、掃除とお茶汲みしかしてないけど」
「充分だ。人にきちんと向き合って、茶を出し、言葉を交わし、感謝し合う。仏事はそこから始まる」
 背後に目をやると、仏間の入り口にあの少女がまた佇んでいた。首を僅かに傾け、じっと見ている。恐怖は無い。ただ切なさに似た感情がじんわりと胸を満たす。
 名前はあるのだろうか。そんな想いが過ぎったとき、父は陽気に続ける。
「恐ろしい様子だったらすぐ言えよ。そうじゃなければ、この夏のうちに仲良くなってみろ」
 寄居は思わず口を開けて固まった。
 まるで「友達と遊んでこい」と言うような調子で、幽霊と仲良くしてこいとは。
 無茶ぶりだよと呆れを込めて溜息を一つ。怖いかと問われれば、そうではない。怨念も敵意もなく、ただこちらを見つめるだけだから。
 なら、少しだけ。
 寄居は畳を踏み、仏間へと歩いた。蝋燭の灯がふっと揺れる。その明かりの中、少女は古めかしい着物姿のまま立っていた。
「……こんにちは」
 上擦った声を掛けても、反応しない。
 霊感があっても話したり祓えるわけでもない。寄居は躊躇いがちに言葉を継いだ。
「ご機嫌いかがで……いや、死んでる人の気分の浮き沈みとか分かんねえな。じゃあ……悪いことせず、成仏しろよ」
 頭を掻き、気恥ずかしさに顔を背ける。馬鹿みたいだと思う。
 けれど、無視するよりはいい。心を向ける方がマシだ。そういう人間でありたいと思った。
 少女は何も言わなかった。寄居は背を向け、廊下を引き返す。
 その背中を、少女の霊はいつまでも見つめ続けていた。


 /2

 陵珊山の麓にある保育園の庭から、子どもたちの笑い声が響く。
 おはよう。ご飯だよ。お昼寝だ。歌いましょう。あらゆる言葉が朝から晩まで飛び交い、風に溶けて山裾の空に滲んでいく。寄居にとってそれがそのまま「家」の風景だった。
 寄居の住まいは保育園だった。昼も夜も誰かの笑いや声が絶えなかった。朝から晩まで園児が走り回り、若い父母が顔を出し、畑帰りの近所の老人が縁側に腰を掛けて世間話をしていく。実母は保母として忙しく働き、祖父母は園長として園を切り盛りしながら孫の面倒も見る。保育士たちの誰もが寄居に目を配ってくれたから、独りになる時間は殆ど無かった。
 365日、絶え間なく降り注ぐ陽だまりのような我が家。寄居は、この騒がしい母方の家が大好きだった。
 対して、父・犬伏 頼道の姿を見るのは年に数えるほどだった。陵珊山の奥にそびえる仏田寺の住職である彼は、麓の家に滅多に帰らない。
 それでも寄居は父を嫌わなかった。母も祖父母も頼道を悪く言うことはない。何故なら、頼道は忙しさの合間に必ず顔を出す律儀な父親だったからだ。
「ヨリーのお父さんが来たぞー!」
「くまさん来たー!」
 父は快男児という言葉がそのまま似合う男だ。熊のような巨体で、朗らかな声を響かせて現れる姿は、園児たちにとって格好の人気者である。
 歓声に迎え入れられた頼道は太い腕で子どもをひょいと抱き上げ、ぐるぐると宙に回しては豪快に笑う。大きな手で頭を包むように撫で、「いい子だったか」と問う声は、聞く者の心を温める響きを持っていた。
 滅多に会えないけど、悪い人ではない。その考えは、中学生になって思春期を迎えても曇ることはなかった。
 中学二年にもなれば、教師たちは将来の話を口にし始める。
 進路指導に直面した同級生たちは、それぞれの仕方で揺れていた。「まだ先の話だろ」と笑い飛ばす者。現実に引き戻されたように俯く者。苛立ちを隠せず声を荒らげる者。その中で寄居は、楽観的だった。
 成績は平凡。部活のサッカーは楽しいがプロを夢見るほどではない。友達と遊ぶのも、テレビゲームも、週末に観る音楽番組も好き。やりたいことはまだ見つからないけれど、だからといって人生に悲観するほどの理由も無い。
 母・皆枝(みなえ)に「進路調査票を渡されたんだ」と話すと、園児を抱き上げながら穏やかな答えが返ってきた。
「決まってなくてもいいんじゃない? 急いで答えを出すことでもないしね」
 その翌日の夜。寄居がリビングでテレビを眺めていると、不意に玄関の戸が開いた。
「寄居、ドライブしようぜ」
 ごつい肩幅に黒い作務衣、さらにジャンパーを羽織った父の姿は、夜を渡る巡礼僧のように見える。
 夕飯を食べに帰ってきた気配はない。駐車場にはエンジンをかけっぱなしの車が待っていた。
 すぐに「母さんが電話したんだ」と悟った。進路の話を父に伝えたのだ、と。行事以外では滅多に姿を見せない父が、わざわざ山を下りてきた理由はそれしかない。
 そうして久しぶりのドライブが始まった。

 大人たちは「山中の寺の住職というのは忙しいのだ」「頼道さんは立派な人だ」と口を揃えて言う。立派と呼ばれるほど働いているのだと、中学生の寄居にも分かっている。
 そんな父がわざわざ進路相談に来たのだ。身構える寄居の予想に反して、父はしばらく何も言わなかった。
 取り留めもなく走っていく夜の車。両手でしっかりとハンドルを握り、時折ウィンカーを出すたびに、その大きな指が灯に照らされる。節くれ立った皺の一本一本が、静かに年輪を物語っていた。
「父さん……そういや、ちゃんと聞いたことなかったんだけどさ」
 助手席に座る寄居は、窓の外に目をやったまま切り出す。気取らず、けれど正面から向き合うには少し照れくさい話題だった。
「お寺の住職って……やっぱり、子どもが継ぐもんなの?」
 車は大通りを外れ、郊外の川沿いの道へと差しかかっていた。街の明かりから遠ざかるにつれ、夜風は澄み、どこか現実味の薄れた静けさが車内を包む。
「寄居も、そんなことを考えるようになったのか」
 頼道はハンドルを切りながら、低く呟いた。
「んー、考えたってほどでもないけどさ。……周りが言うんだよ」
「周り?」
「ご近所のおばあちゃんたちとか。『寄居ちゃんは、あのおっきなお寺を継ぐんだからねえ』って」
「はは、言いそうだなあ」
「でもさ、母さんもじいちゃんも、一度もそんなこと言わないじゃん。……そういう空気にしてくれてるんだろうなって」
 ちらりと運転席を盗み見た。父の顔はいつも通り、口角の皺がやわらかく寄り、目元も緩んでいた。
「……本当は、どうなん?」
「本当なら、そうだ」
 頼道の声は、静かで重かった。
「寄居の言う通り、父さんも有無を言わさず父さんから仕事を引き継いだ。それが義務で、当たり前だった。長男に生まれたなら寺を継ぐのが当然。疑う暇もなかった。父さんの父さんも、多分そうやって育ったんだろう」
「へえ……」
「でもな、寄居」
 その声に僅かな力がこもる。
「お前はそうじゃなくていい。義務でも当然でもない。お前が何になりたいか、それで決めりゃあいい」
 寄居は思わず父を見た。言葉の意味がすぐには胸に落ちてこない。
「いいの? 本当に?」
「いいさ。お前の人生は、お前のもんだ」
 頼道は信じられないほどあっさりとした顔で笑った。その笑顔が、寄居にはかえって少し怖かった。
 普通は逃れられないものがある。犬伏という姓。仏田寺という山。そして父の背中。それら全てを背負っている人が今、「継がなくてもいい」と告げている。
 心が揺れた。肩の荷が下りたようで、同時にどこか寂しい。期待されていないのではという疑問もよぎる。
「俺の息子である寄居は、俺の後を継ぐ資格がある。けど、それを義務にしたくはない。……もうそういう時代じゃないからな。西暦も2000年だし」
 頼道は、はにかむように笑った。
 昭和に生まれ、平成を駆け抜け、気づけばミレニアム。父が子に未来を強いるのが当然だった時代は、もう遠ざかっていた。
「でも……それって、本当に良いことなの?」
「良いことだよ。お前のしたいことを、制限したいなんて思わない。もちろん道を外すようなことなら止めるけどな。サッカー選手になりたいって言えば応援するし、アイドルになりたいって言っても応援する」
 寄居は思わず吹き出した。
「今のところそのどっちも予定はないけどさ。……いいんだ、そんな緩くて」
 自嘲めいた言葉に、頼道は豪快に笑った。
「実は良くない。そんなこと言ったら父さん、色んな人に怒られるんだ。ご先祖様たちにもな。夢に出てきて、『寄居に継がせろ』って言われそうだ」
 半ば冗談のようでいて、ふと頼道の横顔に影が差した。
「でも……嫌だろ? したいことをできないのは」
 その声には、過去を思い返すような痛みが滲む。
「俺は嫌だ。子どもに、やりたいことをやらせてやれないのは」
 なんて出来た父親なんだ、と思った。
 エンジン音だけが二人の沈黙を埋める。寄居はゆっくりと、その言葉を受けとめた。
「……ありがと」
「礼なんていらん。俺は父親だからな。もし寄居がお寺を継ぎたいと言うなら、それはそれで全力で応援する」
 ハンドルを握る大きな手の横で、声は夜風に溶けるように響いた。
「俺が歩んできた道だからな。丁寧に教えてやれる。サッカー選手やアイドルになるよりは、きっと立派に育ててやれるぞ」
「だから、そのどっちもなる気は無いってば」
 苦笑する頬には、ほんの少し照れが滲んでいた。父にそう言ってもらえることは、悪い気はしなかった。
「……でもな。俺は、この仕事のつらさも知ってる。じいさんばあさんが言うよりずっと、厳しい世界だ」
「厳しいって?」
「優しすぎる子には向かない。葬式を預かるってのは、人の死に触れることだ。泣き崩れる家族を前にしても、式を進めなきゃならない。遺体に経を唱えるとき、こっちの心がどれだけ揺れても、それを顔に出すわけにはいかない」
 淡々とした口調に、拭いきれない記憶の重みが滲む。
「それに……うちの寺は普通じゃない。仏田寺は……人の業や呪いといった、深いところに触れる場所でもある。生半可な覚悟じゃ、務まらない仕事なんだ」
 寄居は黙って耳を傾けた。仏田寺がただの寺ではないことを、薄々知っていた。
 だが父の口から「強烈だ」と告げられると、未知の世界の扉が開くように感じられた。
 冗談めかして言葉を返す。
「じゃあ、おすすめはしてくれないんだ? 父さんは、今の仕事……嫌なの?」
 一瞬の沈黙。そののち、頼道は微笑んだ。
「嫌じゃないさ。俺は、あそこに居るべきだと思ってる。……あそこに居たくて、居続けたんだ。ただ……慣れって怖いもんでな。辛いことも重いことも、毎日のように重ねてると、いつの間にか当たり前になっちまう。気づけば何が普通か分からなくなってるかもしれない」
 車内に、ふっと静けさが落ちた。
 寄居は言葉を失い、ただ父の横顔を見つめた。
「だから……考えなしにおすすめなんて、やっぱ言えねえなあ」
 頼道はそう締めくくった。静かに、けれどどこまでも誠実に。
 胸に、温かさが広がる。自分はただ自由を与えられているのではない。父は自分の人生をかけて、今、目の前で言葉を選んでいた。
「……父さんが、いい人で良かった」
 思わず、ぽつりと口にしていた。
 頼道の眉が僅かに動く。驚きと照れの混じった仕草。
「どんな道に行っても、父さんなら俺のこと守ってくれそうだし。進路のことも、人生のことも……きっと俺よりずっと先回りして、母さんと話してくれてたんだろ。俺の知らないところで」
 言葉を口にしながら、記憶が甦る。
 仕事帰りの父が、玄関で母と笑い合う姿。夜更けまで書類仕事をしていた母に、缶コーヒーをそっと置いて立ち去る後ろ姿。祖父母に媚びるでもなく、けれど必ず感謝を言葉にする、絶妙な距離感で笑う大人の顔。
 寄居にとって両親は、いつまでも友達みたいな夫婦だった。心から尊敬していた。
 きっと自分の知らないところで無数の会話や相談が交わされていたに違いない。寄居がのびのびと生きられたのは、その見えない努力に支えられてきたからだ。そう気づける年齢になっていた。
 だからこそ、言わずにはいられなかった。
「ありがとな、父さん」
 照れでも皮肉でもなく、真っ直ぐな気持ち。素直に、優しくなれる夜だった。
 将来のことはまだ決まっていない。この先、焦る日も来るかもしれない。けれど今だけは、この人の息子で良かったと、心から思えた。
 ……なのに。
「俺は、褒められる父親じゃないよ」
 頼道が、不意に低く呟いた。
「いい人でも、ねえんだ」
 寄居は耳を疑った。
 笑っていたはずの横顔には、いつの間にか深い翳りが落ちていた。
 柔らかな笑みは跡形もなく消え、そこにあったのは……長い歳月、何かを抱え続けてきた男の、重く沈んだ眼差し。
 視線を道路に据えたまま、黙してハンドルを握る。
 エンジン音だけが、夜の底に溶けていく。さっきまで心地よく流れていた風が、遠ざかってしまったかのように思えた。


 /3

「――あんたも、もうそんな年じゃないか。どうか跡継ぎを見せておくれよ」
 夕暮れどきの仏間。線香の香が淡く立ちのぼり、橙色の光が障子越しに差していた。年老いた母が小さな湯呑みに茶を注ぎながら、静かにそう告げた。
 声は穏やかだ。だがその一言が宿す重みは、頼道の熊のような体躯ですら支えきれないほど深く、胸の底に沈み込んでいく。
 幾度も幾年も、周囲の者たちは同じことを口にした。
「そろそろ、後継ぎを考えなきゃいかんだろう」
「寺の家はな、代々受け継ぐもんだ」
「犬伏さん、立派な息子さんを早めに……」
 そんな言葉は雑音だった。聞き流すことも、うまく躱すこともできた。
 けれど。母の口から初めて「頼む」と言われたとき、四十路を目前にした頼道は、己の深部が軋む音を聞いた。
 白髪の混じった髪、丸くなった背。かつて父の叱責を宥め、支えてくれた母が、今はか細い手で懇願している。
 分かっている。世代交代が迫っていた。
 もう三十を越えた。同年代の男たちは次々と父になった。仏田寺を守る家、犬伏家の者として、「誰かに継がせる」責務は避けようがない。
 父が繰り返し口にしていた『男ならば継げ』という言葉。傍らで母が笑って宥めていた光景も、いまや遠く霞んでゆく。
 だが頼道には、すぐに応えることのできない理由があった。
 仏田 光緑。
 同い年の男。犬伏家が命を賭して守るべき、仏田家の当主。……そして、愛してしまった人。
 頼道は彼を守ると誓った。少年の日に小さな手を取って「俺が一生、光緑を守る」と約束した。その幼い誓いは、やがて頼道の生き方そのものとなった。
 彼の優しさに救われ、彼の笑顔に支えられた。彼が冷酷で残酷な姿へと変わり果てても、それでも傍に在り続けると決めた。光緑だけが、世界の全てだった。
 他の誰にも目を向けられなかったのは、弱さでも逃げでもない。それほどに彼だけを、どうしようもなく欲していたからだ。
 父母は知らない。夜、光緑を抱きしめたことを。彼に縋られ、泣き濡れたことを。その全てが、消えることのない記憶として頼道の心の芯に焼きついていることを。

 仏田寺の奥深く、人々の記憶から遠のいた一角にその部屋はあった。
 かつて栄華を誇った当主のために設けられた療養室。今では訪れる者も絶え、忘れられた廃墟のように沈黙に包まれている。
 支配しているのは、規則正しく滴る点滴の雫の音だけ。頼道は今日も変わらぬ足取りで療養室を訪れる。義務からではない。愛の延長線にある日課だった。
 医療ベッドに、光緑が横たわっている。
 かつて仏田家を率い、尊敬と畏怖を一身に集めた当主は四肢を拘束具で固定され、点滴から流れ込む霊薬によって深い眠りに沈んでいた。
 時折、重い瞼が僅かに開き、虚ろな瞳が天井を彷徨う。そこには何も映ってはいない。
「光緑……今日は顔色がいいな」
 頼道は、名を呼ぶ声をできる限り優しくした。恋人に囁くような、柔らかな響きで。
「良い夢でも見ているのか? どんな夢か、教えてほしいな」
 外の者たちは皆、口を揃えて言う。「当主様はもう終わりだ」と。
 医師でさえも半ば義務のように点滴を確認し、淡々と病室を後にする。誰ももう、この存在を「生きている」とは呼ばなかった。
 だが、頼道は違う。
 光緑はまだここにいる、遠くから帰ってきているのだと知っていた。
 声を掛ければ届くかもしれない。指先に触れれば、僅かな反応が返るかもしれない。そう信じて、頼道は今日もこの傍らに座る。
 虚ろな瞳がゆっくりと瞬いた。天井を見つめたまま、微かな震えが唇に宿る。思い出の断片を探るかのように。だが言葉にはならず、瞼は再び静かに閉じられた。
 頼道は息を呑み、嗚咽を堪えるように、ただ黙ってその体温を求める。
 ――俺は、お前と共に、生き続けたい。
 声には出せぬ願いを胸の奥に抱きながら、今日もただひとり、愛する人を見守り続ける。

 光緑が眠るベッドの傍らに置かれた椅子に腰を下ろし、掌に挟むように一枚の紙を見つめた。
 いつもなら寝顔ばかりに目を注いでいた。だが頼道の視線はある写真に落ちている。
 母が用意した、見合いの写真だった。
 幾度となく告げられてきた「犬伏家に跡継ぎを」。父も親族も、寺に仕える者たちまでもが頼道にその役割を求めている。
 写真の中の娘は、清楚に髪を結って穏やかな微笑みを浮かべていた。経歴も申し分なく、父は現市議会議員、母は陵珊山麓の地主の家系。土地と人脈を備えた一族で、近年は教育事業にも勢力を伸ばしているという。
 仏田寺にとってこの縁談はまたとない好機だった。誰もが「受けるべき」と口を揃えるだろう。
 頼道も理解していた。断る理由など、どこにもない。
 人と話すことは好きだ。どんな相手の中にも良さを見出すことができる。会えば、彼女の優しさを見つけるだろう。会話を重ねれば、きっと愛着も芽生える。好きになる未来も、想像できた。
 けれど。
「……光緑……俺は……」
 見合い相手を愛せるかもしれない。けれど、光緑以上に愛せる自信はどこにもない。
 ベッドに目をやる。拘束具に縛られ、点滴に沈む光緑。虚ろに瞼を開けても、もはや言葉を返すことはない。
 それでも……彼は、頼道にとって唯一の人だった。
 頼道は重く瞼を閉じた。胸に去来するのは理と情の板挟み。寺か、一族か、それともただ一人のためか。
 優しげに笑う娘の写真。その背後に透けて見えるのは、犬伏家の未来、仏田寺の安泰、そして両親の安堵した顔。全てが「正しい道」と呼ばれるも。
 だから、静かに言葉を紡ぐ。
「……俺は、演技をしよう。彼女にとって、良き夫になる。跡継ぎが生まれたなら、良き父になる。……俺のせいで悲しむ人を増やしちゃいけない。彼女も、産まれてくる子も、両親も、寺のみんなも……俺の我儘で、悲しませるわけにはいかない。……そうだろう……」
 それは、自分に言い聞かせるための言葉だった。
 愛する人を失いかけている現実の前で、それでも生きていかなければならないのだと。
 けれど言葉を重ねるたび、胸の奥で矛盾が疼く。
 ――本当に守りたいのは、今こうして眠り続ける彼だけなのに。
 頼道は写真を伏せ、光緑の削げた頬、閉じられた瞳を見つめた。どんなに話しかけても、反応は無い。ただ、点滴の滴りが冷たく間を刻むばかり。
「……俺なら、できるかな、光緑」
 罪悪感は鉛のように胸に沈んでいく。光緑を裏切るわけではない。生きている者たちのために微笑むだけだ。
 そう言い聞かせながらも頼道は強く唇を噛み、俯いたまま光緑の手を握りしめた。冷たくも確かな温もりが、痛いほどに指先へ伝わってきた。

 婚姻を約束して数日が経った。頼道は相手の娘と向き合い、穏やかに挨拶を交わした。誠実であろうと努めれば、きっと彼女を幸せにできる。そう自らに言い聞かせて婚約して数日、光緑の死を告げられた。
 最期の瞬間、頼道はそこにいなかった。
 毎日のように病室に通い、時に桜咲く外へと連れ出し、微笑みを見ようと努めていたのに。肝心の、その終わりの瞬間だけは看取ることができなかった。
 胸の内側からぽっかりと空洞が広がっていく。埋めようのない虚無が言葉を拒むように重く満ちていく。
 長い年月をかけて慕い続け、ただひとり愛してきた人。
 ――光緑。
 その名を心の奥で繰り返し呼んだ。届かぬと知りながら、それでも呼ばずにはいられない。
 静寂がその声を飲み込み、どこへも届かぬまま、頼道の内側だけに響き続けていた。


 /4

 中学三年の夏。クラスメイトが一斉に受験勉強へとエンジンをかけ始める頃、寄居は別の道を選んだ。
 ノートに向かうより父の背中を見たい。この夏は仏田寺に住み込み、僧侶の真似事をすることに決めた。
 その希望を伝えたとき、頼道は僅かに驚き、それから「偉い」と短く言った。
「仏田家の当主に挨拶するぞ」
 幼い頃から父の口から幾度となく聞いてきた名――仏田家の当主。この寺を、そして裏の世界までも支配する一族の頂点。父が生涯をかけて仕える主と対面する。
「へえ。君が頼道さんの息子か」
 その人――仏田 燈雅は、瞬きをするのを忘れるほど美しい男だった。
 真夏の陽射しの下にも関わらず、汗一つ浮かべていない涼しさ。指先の仕草にまで漂う気品。白く透けるような肌。黒曜石を磨いたような髪。男だと分かっているのに、妖艶という形容しか思いつかない。『この世のものではない』、寄居の胸に浮かんだのはその言葉だった。
「どんな子熊が来るかと思ったけど、可愛いじゃないか」
 燈雅は軽やかに笑う。その声は柔らかだが、視線は鋭い。
 内側を透かし見るような眼差しに、寄居は呼吸ができなかった。
「うちの息子はまだ挨拶もろくにできず、すみません」
 頼道が苦笑交じりに口を開く。
 父のその声で、ようやく寄居は声を絞り出す。
「よろしく……お願いします」
 蚊の鳴くような声になってしまった。それでも燈雅は唇を緩めてくれる。
「うん、よろしくね。寄居くん。良い夏にしよう」
 まるで、夏の怪談が始まるような喋りの人だ。
 燈雅が去った後、部屋は空気ごと持ち去られたように静まり返る。
 頼道が大きく息を吐き、ようやく寄居も普段通りの声を出せるようになった。
「……綺麗な人だったね」
「ああ。仏田の人たちはみんな綺麗なんだ。あいつの親御さんもな」
「へえ……お母さん、きっと綺麗だろうねえ」
 寄居の無邪気な声に、頼道は「えっ」とか声を裏返した。
 頼道の脳裏に浮かんだのは、美しく儚い面影の男である。だが寄居がそんな過去を知るはずもなく、「きっとお母さんが凄い美女に違いない」とあどけなく呟く。
「ねえ、あの人が一応……俺たちの上司なの?」
「そうだな。でも上司というより、本当は支え合う関係なんだ。仏田家と犬伏家は同僚みたいなものだ」
「ふーん。父さんも実は当主様と同じくらい偉いの?」
「形式上はな。けど、お前と燈雅くんじゃ年が離れすぎてるだろう。どうしてもあっちが先輩になる。上司だと思って敬っていけ」
「うん」
 素直に頷く。
 親子のなんてことのない会話。頼道は心を静めるようにそっと息を整え、立ち上がった。
「さあ、掃除でもしてもらおうか。まずは『どこを掃除すべきで、どこを掃除してはいけないか』を覚えてもらうぞ」
「えっ……体力仕事なら楽勝だと思ってたのに、頭も使うの?」
「どっちも必要だぞ。坊さんは覚えることが多いうえに体が資本だ。悟りを開く前に、筋肉を鍛えろ」

 7月も終わりに近づいたある朝。仏田寺の霊園に真夏の陽が射し込んでいた。
 青く澄んだ空の下、湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、蝉が声を張りあげる。そんな中、寄居は草むしりをする。
 大掛かりな除草ではない。アスファルトの継ぎ目、墓石の縁、供花を供える陶器の影。そんな隙間から顔を出す、したたかで憎めない夏草を一つずつ指先で摘み取っていく。単調で根気のいる作業だった。
「……ちくしょう、こいつ根が深い」
 小さく毒づきながら腰を屈める。汗がうなじを伝い、タオルで拭っても、すぐに新しい汗が滲んでくる仕事だ。
 墓石の陰に手を伸ばしたときだった。
 視界の端で、白い影が揺れた。寄居は反射的に顔を上げる。
 そこに、少女の幽霊がいた。
 小さな和服姿の女の子が、墓標の影に立っている。涼しげな顔。瞬きもせず、ただそこにある。
 寄居は思わず溜息をこぼした。
「……暑くなさそうで、羨ましいな」
 もちろん、返事はない。
 幽霊は暑さも感じなければ、汗もかかない。虫に刺されもせず、日焼けもせず、ただいる。羨ましくて堪らない。
(この子……ここの、誰かの墓に眠っているのか)
 寄居はぼんやりと考える。
 どこかの墓石の下にいるのか。あるいは奥の共同墓か。いや、もっと恐ろしい可能性……この地に縛られた地縛霊なのか。
 確かめる術はない。寄居は草むしりの手を止め、その小さな姿をしばらく見つめた。
「……ちゃんと、涼しいとこで休めてるか?」
 ぽつりと声にしてみる。目に映るものと、無視せずに付き合う。
 数秒ののち、少女はふいに姿を消した。寄居は短く息を吐き、再び中腰になって草に手を伸ばす。
 その上を、蝉の声が一段高く重なった。夏の時間がまた進んでいく、そんな当たり前の時の流れを確かめるように。
 正午を過ぎ、夏の陽が真上から境内を容赦なく照らし始めた。
 その日はある一家の四十九日法要があった。住職・頼道の読経が低く響いた後、納骨されるのは30代半ばの若い母親だった。
 参列しているのは夫と、小学校低学年ほどの娘。二人は俯きながら住職の声に耳を傾けている。草むしりを終えた寄居はその後ろに控え、見習いとして黙って立っていた。
 父の読経は、どこまでも穏やかで揺らぎがない。
 けれど寄居の胸には、ざわめくものがあった。水分は摂っていたのに、やけに喉が渇く。汗が背を伝う。なんか、おかしい。嫌な予感は、霊園へ向かう中でさらに色濃くなっていった。
 骨壺を抱えた夫が、ゆっくりと足を進める。隣で娘が顔を伏せてついていく。墓前に立ち、壺を納めようとしたそのとき、ぞわりと背中を氷の指でなぞられたような感覚が襲った。
 真夏の熱気が消え、皮膚の内側から冷気が這い上がってくる。
 そこに、いた。
 女の霊――いや、もはや幽霊という言葉では括れない。
 骨壺の真上、空間が裂けるように濃密な闇が口を開き、その奥から白い顔が飛び出している。
 髪は乱れ、口は裂け、剥き出しの白目がぎょろぎょろと動く。女は夫と娘に向かって、耳を劈くほどの絶叫を浴びせていた。
 言葉の意味は判らない。だが、それが祝福や別れの声ではないことだけは明らかだ。
 怨嗟。絶望。断ち切られた叫び。だが夫も娘も、まるで何も聞こえていない。俯いたまま静かに目を閉じ、ただ哀しみに沈んでいる。近くで喚き散らしているのに、微塵も気づかぬまま。
 寄居は一歩退いた。膝が震え、声を上げようにも息が出ない。吐き気を催すほどの気が全身を覆い、頭の奥をきりきりと締めつける。
 ――あの世へ行くことを拒むかのような絶叫。断末魔の叫びを永遠に続けるかのように。
 吐き気を覚えた寄居が口を押えた、次の瞬間、寄居の耳にひときわ異質な音が届いた。
 穏やかで澄んだ声だった。
 まるで風鈴の音にも似た涼やかな響きが、炎天下の墓地に不意に差し込む。はっとして振り返った。そこには、白い日傘を差した着物の男性がいた。
 艶のある長い黒髪、景色から浮き立つような美しさの男――燈雅が、何か歌を唄っているようだった。
 荒れ狂っていた怨霊の絶叫が、唐突に止む。
 裂けた口も剥き出しの白目もそのまま固まり、蝋燭の炎のように揺らぎ、霧となって溶けていく。
 同時に響く頼道の読経が、僅かに調子を変える。燈雅の声と、頼道の声。二つの響きが目に見えぬ呼応を交わし、女の魂を解き放っていった。
 納骨は、何事も無かったかのように進む。
 骨壺は静かに墓所へ収められ、夫と幼い娘は深々と頭を下げた。線香の煙が空へと揺れ昇り、住職が読経を終えて静かに頭を垂れる。
 恐怖の影など跡形もなく消えた儀式が終わり、頼道が遺族に声を掛けている隙に、寄居は墓地の外れへと足を運んだ。
 そこには、まだ燈雅がいた。白い日傘の下、袖を風に揺らしながら静かに佇んでいる。
「燈雅さん……今のは」
 問いかける寄居に、燈雅は穏やかに答えた。
「うん。怖いことを始める前に、祓わせてもらったよ」
 その声は驚くほど柔らかい。歌でも囁きでもなく、ただすっと耳に沁み込む響きだ。
 寄居は立ち止まり、彼の横顔を見つめた。
 白い肌。日傘の影に包まれた涼やかな眼差し。その姿は、ただひとり季節の外側にいるようだ。
「やっぱりあれ、悪いやつだったんですか……祓わなきゃいけないやつだったんですね」
 声は震えなかったが、全身が暑さだけではない汗で濡れていることを寄居は自覚する。
 燈雅はふっと目を細めた。
「『どうして私が死ななきゃいけないの。悪いことなんて何もしていないのに。生きてるのが羨ましい。貴方たちはどうして』。……どの叫びも、理解できるものだね。叫びたくなるのも分かる。でも、そんな動機で旦那さんと娘さんを呪い殺したら、生きていた頃の『本当の彼女』が浮かばれないだろう?」
 小さく息を呑み、頷く。
「……優しいんですね」
「はは。偶然、呪殺未遂の現場に居合わせただけさ。つい手を出したけど、いつもしているわけじゃない。オレがしなくても、頼道さんが後で窘めていたろうね」
 そのとき、燈雅はふいに楽しそうな笑みを浮かべ、自分の指を舐め取った。まるで蜂蜜を舐めるような仕草だった。
 突然のことで寄居の目が大きく見開かれる。
「……ふふ。久々だな、この味。四十九日直前の、成仏したがらない魂って……こんなに薄味だったんだ」
 風が吹き抜け、夏草がさわさわと揺れる。日傘の縁がひらりと翻り、その影が地面に散った。
 影の奥へと溶けるように姿を消す。寄居はひとり取り残された。胸に残ったのは恐れではない。確信だった。
 ――幽霊を食べたんだ、あの人。やっぱり普通じゃない。

 午後の儀式が終わり、寄居は使い終えた道具を片付け、庫裏の縁側に目をやった。
 水分を補給している父がいた。納骨の立ち合いを終えた男が、汗を拭きながら必死に水を飲んでいる。
「父さん。燈雅さんに祓ってもらった……あれ、良かったの?」
 突然の問いかけだったが、頼道は驚いたような顔は見せない。
 少し遠くを眺めるように目を細め、ゆっくりと頷く。
「ああ。誰かに害が及ぶ前で良かったよ。俺が動くより先に燈雅くんがやってくれて、さすがだよな」
「やっぱり……幽霊を祓えるようにしておいた方がいいんだね。俺も、修行とか、しなきゃいけないのかなあ」
 声に躊躇が滲む。
 あの怨霊の凄まじさは、まだ背中にこびりついていた。何もできなかった自分を情けなく思いながらも、あれに立ち向かう勇気までは湧いてこない。
 けれど頼道は、真面目な声音で寄居を見つめる。
「寄居。……俺はな、幽霊を『消す』とか『退ける』とか、そればかり考える坊さんにはなってほしくないと思ってる」
「そうなの?」
「もちろん誰かに危害を加える霊は放っておけない。だが、できるなら穏やかに済ませたいんだ」
 ごつい手が、給水コップの縁をなぞる。
「力で封じるのは簡単だ。でもそれじゃ『そこに居た理由』を見ないままになる。今日の女の霊だって……本当は、ただ声を聞いてほしかっただけかもしれない。言い残したことがあったのかもしれない。……それを誰も聞けなかったとしたら、哀しいと思わないか?」
「父さんって、意外と平和主義なんだね」
「こんな図体だから、霊を殴って黙らせるタイプに見えるんだろうな。でも平和が一番だ。話せるなら、話で解決したい。……人も、霊も、同じだよ」
 その声には、寺に生きる男のどこまでも優しい哲学が宿っていた。
 西日が樹々の隙間から光を差しこませ、蝉の声が重なりはじめる。夏の縁側の影の中、父を見やる寄居には先ほどとは違う感情が芽生えていく。
 恐れの中に、ほんの少し『知ろうとする気持ち』が混じり始めていた。
「父さんは、幽霊と話せる?」
「燈雅くんほどじゃないが、たまにな」
「俺は見えるだけで話せない、伝わらない、返ってもこない」
「修行したらできるようになるかもしれないぞ。俺はそうだった」
「そっかぁ。……いいな」
 口にした途端、深くそう思えた。先ほどの女の霊は、怖かった。でも、助けてやりたくないとは思わなかった。
 なんとかしてやりたい。そう思ったのは確か。なんとかしてやれる力が手に入るなら、修行するのもやぶさかではない。じわりと向上心の芽が育っていく。
「……でもな。一番、話したい人と話せないから、意味は無いんだよ」
 父は、確かにそう言った。
 寄居が意味を聞き返しても、何も返ってこない。ひらりと手を振り、庫裏の奥へと歩いていく背中。
 言葉の裏に、寄居には分からない深い翳りがあった。

 頼道は何度も思った。あれほど愛した人なら、きっと死後も逢いに来てくれるはずだと。けれど――光緑は、一度も現れない。
 読経を重ねても、祈りを尽くしても、姿も声も訪れない。
 ただ、燈雅の中にふと見える断片、仕草や言葉の癖。そこに光緑の影を感じることがある。
(代々当主の中に光緑の魂が宿っている、そうだとしたら、いくら祈っても会えないのかもしれない)
 寄居には理解できない秘密を胸に、頼道は笑みを作った。こんなの言える訳が無い。言ったとしても、「理想の父親の演技」から離れるだけだから。


 /5

 頼道と別れて次の手伝いに回された寄居は、客間へ入る前の廊下でふと立ち止まった。
 仏間の奥。半開きの障子の隙間から、かすかな気配が洩れている。
 息を潜めて近づき、そっと覗き込む。
 今日の少女は柱の陰にしゃがみ込み、かくれんぼをしているかのように小さな背を丸めていた。人であった頃の癖なのか、落ち着きなく首を動かし、誰かを探すように視線を揺らしている。
 寄居は思わず眉をひそめた。害はない。ただ、目立つ。
 もし燈雅が再び現れたらこの小さな霊はどうなるだろう。想像すると、背筋に冷たいものが走る。
「あー……こらこら」
 誰にも見られていないのを確認してから、寄居は廊下にしゃがみ込み、秘密を囁くように声を落とす。
「そんなにウロチョロしてるとさ……」
 ふっと間を置き、わざと真顔になって囁く。
「燈雅さんに、食べられちゃうかもしれないぞ?」
 少女の霊が、ぴくりと動いた。
 あどけない顔がこちらを向き、ほんの一瞬……驚きの色を浮かべた。
(あれ、通じた……?)
 少女は後ずさり、小さな足で仏間の奥へと駆け出していった。
 壁を抜けると同時に、風にほどける霧のようにすっと姿を消す。残されたのは廊下の静けさと、間の抜けた自分の顔だけ。
「わりと意思疎通できるじゃん」
 苦笑しながら呟く。
 幽霊とは話せないと思っていた。けれど今の反応は、どう見ても『会話』だった。言葉を聞き取り、意味を受け止め、反応して消えた……確かにそこには、意志がある。掃除と草むしりという修行には、効果があるのかもしれなかった。

 以来、少女の霊は頻繁に現れるようになった。
 朝の掃除の最中にも、夕方の水撒きの折にも、気づけば彼女はどこかでこちらを見ていた。もう以前のように黙って立ち尽くすだけではない。隠れるふりをしていた頃とも違う。
 寄居が目を向ければ、きちんと応えてくれる。
 小さく首をかしげたり、驚いたように身を引いたり。言葉はなくともその仕草に個性や情緒が宿っているのを、寄居は感じ始めていた。
 ある朝。本堂前の手水舎をホースで洗い流しながら、寄居は口にアイスキャンディーを咥えていた。
 水を貰いに厨房へ行ったとき、親しくなったおばさんが「暑いのに頑張るねえ」と笑って渡してくれたものだ。細長い形をしたそれは真ん中にくぼみがあり、二つに割って分け合えるようになっている。寄居は片方を口に、もう片方を手にぶら下げたまま水を撒いていた。
 ふと視線を感じた。顔を上げると、石灯籠の陰から少女がひょこりと覗いている。
「朝から隠れんぼか? 俺、もう見つけるの得意になってきたぞ」
 少女の霊は影に隠れたまま、ほんの少しだけ頬を膨らませたように見えた。
 言葉はない。けれど悔しがっているのか、拗ねているのか、どちらにせよ反応があることが寄居には妙に嬉しかった。
「……アイス、食う? お供えってことで」
 冗談めかして言った寄居がバケツの水を捨てようとした、そのとき。
 背後で風が抜けたような音がした。
 はっとして振り返る。少女の霊は、もういない。
 そして寄居の手に残っていたはずのアイスキャンディーの片割れも、消えている。
 代わりに……石灯籠の上に、小さな白い野花が一輪、そっと置かれていた。
(……完全に、懐かれてる)
 不思議と怖さはない。
 彼女が誰なのか、なぜ成仏していないのか。分からない。
 翌日もその翌日も、少女は姿を見せる。そしてそのたびに寄居は少しずつ、会話を交わすように彼女と心を触れ合わせていった。

 夏休みが始まって1週間が過ぎた。
 朝の掃除、昼の草むしり、夕方の水撒き。夜には大人たちの晩酌に顔を出して世間話の相手。仏田寺での暮らしにすっかり馴染み始めた昼下がり、本堂の縁側で一息ついているとポケットの中で携帯電話が震えた。
「あ、母さん」
 受話口の向こうからは、小言が矢継ぎ早に飛んでくる。
 山の気候は体に合っているか。眠れているか。寺の人に迷惑をかけていないか。学校の宿題は進んでいるのか。
 寄居は木柱に背を預け、気だるげな声で相槌を打つ。
「はいはい……だいじょぶ。ちゃんとやってるってば……うん、またね」
 電話を切ると、辺りには蝉の声だけ。ほんの数分の会話なのに、まるで一度だけ現実に戻り、また異界に引き戻されたような心地になる。
 視線を感じた。顔を上げると、障子の向こう、柱の影から白い影が覗いていた。少女の霊だ。その幼い顔が、じっと寄居の手元の携帯を見つめている。
「あー、お前、勘違いしたな?」
 寄居は思わず笑い、携帯を軽く振ってみせた。
「誰も居ないのに話してたから、幽霊とおしゃべりしてるって思った? 違うんだ、これは電話ってやつ。遠くの人と声だけで話せるんだよ。さっきの相手は母さん。俺の家の人ね」
 幽霊に幽霊相手じゃない説明している自分が可笑しくなって、ぷっと吹き出した。
「なんか、変だな、俺」
 そのときだった。
 少女が、動いた。声は出ない。けれど……確かに『口』が言葉を形作った。
 ――お・か・あ・さ・ん。
 寄居の目が大きく見開かれる。
 幽霊がこの世に留まる理由は様々だ。けれど……いま目の前の少女は、『遠くの人と話す』という行為を、不思議そうに、そして切なげに見ていた。
 その仕草に、思い至ってしまう。
「お母さんに、会いたいの?」
 少女は何も言わない。ただ風が吹き抜け、彼女は消える。縁側の風鈴が小さくちりんと鳴った。
 寄居は携帯をそっとポケットにしまい、少女のいた場所を見つめる。残された場所には、微かな冷気。その冷たさが、寄居の胸に『彼女の孤独』を形として刻み付けた。

 少女の霊が「母」という言葉に反応したその日から、寄居の彼女を見る目は変わった。
 気付いたのだ。少女は、自分の前にだけ現れているのではない。柱の陰から覗くその視線は……寄居ではなく、少し離れたところにいる父・頼道の背に注がれていた。
 その眼差しは、まるで「お父さん」を見上げる子どものもの。
(そっか。この子は、俺に会いに来てるんじゃない。父さんのところに現れてる。……お父さんとお母さんを探してるのかな……)
 大きく力強く、穏やかで優しく、どっしりとそこに在る人。
 子どもなら、そんな存在の傍にいたいと思うのは当たり前のことだ。
「……お前、両親と……死に別れたんだな」
 自分も生まれ育った実家を離れ、父と暮らしている。心細さからか自然と父の背を追っている。だからこそ、分かってしまう。
 彼女は、寂しいのだ。声も言葉もなくとも、その寂しさは滲むように伝わってくる。
 その寂しさを埋めるために、この寺で『父親らしさ』を最も体現している男を目で追いかけているに違いない。
「……探してあげたいな」
 ぽつりと、そんな言葉が飛び出してしまう。
 この子はずっと探している。終わらないかくれんぼのように。ひとりで、ずっと。
 そんなの、未熟な住職見習を言い訳に放っておいていいものではない。

 8月に入った。昼間の陽射しは鋭く、霊園の石畳は照り返しで熱を帯びた盆入り。参詣や墓参に訪れる人々の姿が普段より多い中、目を引く来訪者があった。
 ひとりは高身長で、端正な顔立ちの男だ。白い開襟シャツに涼やかな身のこなし。真夏の山道を歩いてきたとは思えないほどの落ち着きで、軽く汗を拭う仕草さえ品を帯びている。
 その隣には、寄居と同じぐらいの年頃の少年がいた。やや鋭い目つきの奥に影が揺れている。後ろからついて歩きながらも、周囲への警戒を解かぬよう張り詰めた気配を纏っていた。
 頼道が二人に気づき、歩み寄る。
「頼道兄さん……お元気そうで何よりです」
 白シャツの男が微笑み、深く頭を下げた。
「変わりない。そっちも仕事は順調か、藤春」
「ええ。ようやく一段落つきましたので、墓参りにと」
 藤春。その名に、寄居はどこか引っかかりを覚えた。頼道が寄居に目を向ける。
「寄居、紹介しておこう。こちらは藤春さんと緋馬くんだ。藤春は、俺の弟みたいなもんでな」
 弟みたいなもん。曖昧な言い方だ。
 叔母がいることは知っているが、男兄弟の話は聞いたことはない。しかも父方の祖母からは「一人で跡継ぎを背負った」と何度も聞かされていた。目の前の藤春は、頼道と骨格も声もまったく似ていない。しかしその笑みには、確かに深い親しさが宿っている。
「こんにちは、寄居くん」
 柔らかな口調と控えめな笑み。眼差しの奥には、笑っていてもどこか哀しみを帯びている。
 寄居は息を呑み、思わず頭を下げた。
 すぐ傍にいた少年・緋馬と視線が一瞬だけ交差した。言葉はなく、沈黙が続く。物静かな親子だった。
「緋馬とは年が近いから、仲良くしてやってくれ」

 仏田寺から霊園へと続く山道を連なって歩いていた。先頭に頼道と藤春。その後ろに、寄居と緋馬が続く。
 緋馬は人見知りなのか内向的なのか、あるいはただ会話に意味を見いださない性分なのか、どれとも断じきれぬ沈黙を纏っている。
 寄居も無理に言葉を掛けない。互いに距離を乱さぬように、心地良い静けさを作っていた。
 前を行く二人は対照的だった。大柄で骨太の頼道と、穏やかな印象を漂わせる藤春。体格も雰囲気も正反対でありながら、並んで歩く姿は実の兄弟のように調和している。会話の呼吸は柔らかく、言葉を交わすたびに古い絆の確かさが滲んでいた。
 やがて、霊園の奥にそびえる大きな石塔の前で足を止める。
 仏田家の墓――この山に深く根を張る一族の象徴に藤春が花を挿し、水をかけ、線香に火を灯した。その所作は丁寧で、慎ましく、そこに確かな祈りの重みがある。
「……藤春が毎年こうして来てくれて。きっと、あいつも喜んでるよ」
 巨体の男の声音は、僅かに揺れていた。
 線香を供え終えた藤春が、静かに微笑む。
「柳翠はこういうこと……きっと好きではないでしょうから」
 皮肉めいた言葉と共に藤春は墓に視線を落とし、低く続ける。
「でも、俺は……兄にちゃんと挨拶がしたいんです。晩年がどうであったとしても、俺にとって光緑兄ぃは……大切な兄でしたから」
 寄居は少し離れた場所でその様子を見ていた。隣で緋馬も言葉なく手を合わせている。
 蝉の声が遠のき、風さえ止まったかのような一瞬。墓前を包む空気はひどく澄み、重たくも静謐なものとなっていた。

 寺の一角、古い座敷の襖の向こうから大人たちの笑い声が響く。
 頼道と藤春、かつて兄弟のように肩を並べた男たちが久々の再会を喜び合っていた。
「大人の話を聞いてもつまんないだろ。お前らは好きにしてな」
 そんな頼道の一声で、寄居は自然と緋馬を預かることになった。
 縁側に座布団を二枚並べる。緋馬は片方に腰を下ろし、携帯電話を取り出した。数度ボタンを押しては眉を顰め、短く吐き捨てる。
「……電波、一本かよ」
「そりゃそうだ。この山じゃ電波は弱いんだ。裏の井戸の辺りでようやく二本立つくらい」
「マジか。詰んでんじゃん」
 不満げに呟き、緋馬は携帯をしまい込む。
 しばし沈黙。蝉の声が遠くからじりじりと重なり、風鈴が小さく揺れる。木の梁の軋む音が、やけに際立って聞こえた。
 やがて、不意に。
「なあ。ちょっと話していい?」
 緋馬が口を開いた。顎で縁側の先を示す。
「……あれ。ヤバいもんじゃない?」
 寄居も視線を追う。
 仏間の柱の陰に、少女の霊がいた。白い素足を揃え、障子越しの光に淡く溶け込んでいる。
「見えるの?」
「まあね。うち、そういう血筋だし」
「ヤバいもんじゃないと思う。7月からずっといるけど、呪われたことなんか一度もない」
 緋馬は数秒黙って霊と見つめ合った。少女は表情を変えず、ただじっと二人を見ている。
「……ずっと同棲してんのか」
「言い方やらしいな。同じ家に住んでるのは否定できないけど」
 確かに彼女はこの寺の日常に入り込んでいた。気づけば傍にいて、呼べば姿を見せる。言葉はなくとも、もう生活の一部と言えた。
「見えてるなら、聞けよ」
「何を」
「成仏したいのか、ここに居たいのか」
「……それができたら苦労しねえよ。意思疎通なんてできない」
 寄居は霊に目を向ける。
 少女はふっと視線を逸らし、柱の陰に溶けるように消えた。風がそよぎ、鈴がひと声鳴る。
「でも……気持ちだけなら、少しずつ分かるようになってきたかもな」
「へえ。長く付き合うと、そういうもんか」
「だから付き合うとか言うなって」
 緋馬がふっと笑った。笑顔は柔らかく、案外人付き合いは悪くないのかもしれないと寄居は思う。
 やがて緋馬は座布団に身を預け、ごろりと横を向いた。
「真剣に交際したことある?」
「……は?」
「幽霊と。ちゃんと面と向かって話そうとしたこと、ある?」
 あまりの言い方に呆れたように笑い、肩を竦める。
「何度か挑戦したことはある。でも向こうは喋らないし、ほぼほぼ独り言で終わりだよ」
「ならさ、『俺の体を貸すから話してみれば』って提案してみたら? 器が無いから声が出せないんじゃないか」
 寄居は盛大にむせかけた。
「あのなあ、無害そうな子でも……普通は怖いだろ。体を貸すとか」
 そう否定しながらも、寄居の胸の奥に「その手があったか」という感心が灯る。話ができない彼女の『本心』を知りたいと思ったことは、何度もあったからだ。
 わりと嫌な考えではあるが、良いアイディアではある。寄居はそう前置きし、廊下へ視線を向けた。
 少女の霊は柱の影から顔を出してこちらを見ている。
「ねえ、君さ」
 立ち上がり、声を掛けた。
「俺の体、使って……何かを伝えること、できる?」
 少女は凍りついたように動きを止めた。瞳に微かな揺らぎ。ゆっくりと首を傾げ、瞬間、風が吹いた。障子が揺れる。
 寄居が瞬きをした頃には、もう姿は消えていた。
「……あれ、どっちだと思う?」
 呟く寄居に、緋馬が気怠げに答える。
「『できるよ』だったら、そのまま乗っ取り事件だな。怖すぎ」
「だよな……日常が崩壊するわ」
 冗談めかすと緋馬が小さく笑った。
 少女の答えは無いまま。けれどこのやりとりが彼女の心に小さな波紋を残したことを、寄居は直感していた。


 /6

 書院造りの一室。床の間には香が焚かれ、障子越しの夏の陽が柔らかく射している。
 仏田家当主・仏田 燈雅は黒い着物の襟を整え、背筋を伸ばして座っていた。机上には数通の書類と、冷めかけた緑茶。整然とした指先で頁を捲るたび、乾いた音が静かな室内に小さく響く。
 やがて「失礼します」と頼道が頭を下げ、部屋へ入ってきた。
 五十路の大男に燈雅は顔を上げ、変わらぬ笑みを見せたが、その眼差しに感情の色は無い。仏のような穏やかで、誰に対しても同じ仮面の微笑みを見せる。
「うん、頼道さん。ご苦労さま」
 頼道は正座し、懐から取り出した資料を差し出した。
「昨日まとめた報告です。寺の収支と今後の行事案、それから送り火の準備について、地域との調整も完了しております」
「ありがとう。いつも通りだね」
 燈雅は淡々と頁を繰る。
 報告には抜かりがなく、秩序は徹底されていた。二人の会話に余計な賛辞も詮索もない。ただ職務を果たす者同士の、無言の了解がある。
「寺の方は大きな問題はありません。……強いて言えば、やはり少子化の影響で初盆の参加は例年より減っております」
 自然な流れだ。抗えぬ時代の風には身を任せるしかない。
 涼やかに微笑む燈雅。頼道は僅かに頷き、少し声を和らげた。
「最後に。息子を町内会の挨拶に出してみようと思っています。顔を覚えてもらうだけですが、経験として損はありません」
「ああ、寄居くん」
 燈雅の声が僅かに弾む。
「頼道さんの息子、ようやく麓の保育園から寺に姿を見せてくれて嬉しいよ。今からでも遅くない、たくさんの人に揉まれて育ってほしい」
「素直な子です。愛想はいい。緩衝材として使えます。挨拶はまだ拙いですが」
 頼道の口元に、微かな苦笑が浮かんだ。
「でもまだ深い仕事をさせる気はありません。受験の合間に、何か心に残ればと考えています」
 その言葉に、燈雅は唇の端を上げる。
「……ふふ。深い仕事、ね。相変わらず頼道さんは機関に厳しい」
 穏やかな声に、うっすらと毒が滲む。水面に一滴の墨が落ちるように。
 表向きは、仏田寺の住職と仏田家の当主。だが互いに知っている。この山奥では法で裁けぬ裏の営みがあることを。
 頼道は言葉を呑み、薄く笑った。
「……俺の口から語ることではありません。犬伏は、あくまで表の顔ですから」
「それでいい。頼道さんが表で笑っているから、仏田は影で笑っていられる」
 風鈴の音が遠くで鳴った。
 蝉の声が薄く障子を透けて届くが、この奥の間はどこまでも静謐だ。燈雅は冷めた茶を口に含み、ふと声を落とした。
「頼道さん。……率直に、お父さんである貴方にお訊きしたい。寄居くんは、オレのもとで働ける子かい?」
 声音には一切の抑揚がない。脅しでも期待でもない、ただの確認である。だが意味は明白だった。『裏の世界の門を、開く気はあるか』、その一点。
 息を呑んだ頼道は、視線を外さずに答える。
「そのはずです。……ただ、俺の後を継がせるかはまだ決めていません。寄居ではなく、別の僧侶を立てるかもしれない」
 慎重な返答に、燈雅の眼差しが揺れた。
「あれ? 寄居くんは一人息子じゃなかった?」
「はい。……外から入れる、ということです」
 頼道は静かに顎を引く。
「寄居が別の未来を望むなら、俺はそれを止めません。そのときは別の者を後継に据えるまでです」
 穏やかな声だった。奥底に父としての揺るぎなさが宿った言葉だ。
 燈雅はしばらく何も言わなかった。茶碗の縁を指先でなぞり、鼻に抜けるような低い声で、ふっと笑う。
 瞳が変わった。涼やかさの奥に、薄い嘲りが滲む。
「……へえ。貴方は、家を絶やすつもりか。代々受け継いできた聖職の血を、この仏田寺を? 大きく出たねえ、頼道さん」
 語る声には美しさがあった。
 だが口元に浮かぶ笑みは、明らかに頼道を見下している。
「可哀想に。自分の役割を見失ってしまったんだね」
 頼道は唇を引き結んだまま、視線を逸らさない。
「俺は、息子の自由を守りたいだけです。この寺を血で繋ぐことだけが全てだとは、もう思えない」
「つまり……使命よりも個人を優先する、そう言いたいのかい?」
「使命を忘れるつもりはありません。だからこそ、もし寄居が継がないのなら他の者を立てる。寺は続く。ただし強制ではなく選ばせる。……それが、俺の答えです」
 静寂が落ちた。
 燈雅から先ほどの侮蔑は薄れ、代わりに冷たい感心が滲む。
「面白いね。若輩者のオレから、一つ一般論を語ってもいいかな?」
「……どうぞ」
 頼道は正面から見据えた。
 湯呑を指先で軽く回しながら、燈雅が声を落とす。
「代々受け継いできた血筋を手放す。その意味を、貴方ほどの僧侶が分かっていないはずはないよね?」
 黙したままの頼道は、眼差しを外さない。
「犬伏家の記録はせいぜい300、400年前までだ。けれど千年の歴史を持つ仏田家を支えてきたのは、常に貴方たちだった。表門の儀式も、里との緩衝も……縁の下の力持ちがあったからこそ、オレたちは平成の今も魔術結社として体裁を保っていられる」
 燈雅は湯呑を机に置いた。陶器が触れる音が、やけに耳に残る。
「犬伏家でなければ成り立たない役目もある。……それを、やめると?」
 突き刺すような問い。
 頼道は重く、それでいて穏やかに応じる。
「別の家の優秀な人物に委ねることは、悪ではないと考えます。理念や智慧は血に宿るのではない。伝える心に宿るものです。……なにより、寄居が成人する頃には俺は引退を考える年齢になる。こんな萎びた親父よりも、意欲ある者がいるならそいつの背中を押してやりたい」
「なるほど。今どきの考えだね」
 唇の端だけで笑い、やがて顔を上げた。
 その瞳はどこか寂しげで、それでも嘘のない真実を映している。
 ……千年の儀を背負う家に生まれ、血と契約に縛られてきた者の、心からの「残念」がそこにはあった。
「オレは少し落胆したよ。……これは雑談だけど、頼道さん自身は住職なんて本当はなりたくなかったんじゃない?」
 抑揚のない問い。好奇心か、それとも探りか。
 頼道は考え、やがて静かに首を振った。
「……いや、俺は、この立場を誇りに思っている。人を導き、死を導き、地域を守る。素晴らしい役目だと心から思っているよ。ただ……それは俺自身が、この家に戻りたかったからだ。支えたいものがあったから。けれど、息子はそうは思わないかもしれない。だから縛りたくない。ただそれだけ……なんです」
 一拍の沈黙。燈雅は小さく笑う。
 驚きでも同意でもない。乾いた音色。
 頼道の胸に冷気が走った。しまった。そう悟る。――燈雅がどのように育てられたか、頼道は知っている筈だった。
 彼は「選んで」ここにいるのではない。産声をあげたときから『当主の器』とされ、自由を奪われ、血と呪術のためだけに育てられた。逃げられなかった。抗えなかった。選ぶということすら知らなかった。
 そんな彼に「自由は素晴らしい」と説いてしまったのだ。
 どっと頼道の背を冷汗が伝う。言葉を継げずに固まる。一方で、燈雅は、より朗らかに微笑んだ。まるでそんな話題は過去のことにしてしまったのか。仏像のような、仮面の笑みだった。
「いい話を聞かせてくれてありがとう、頼道さん」
 礼を告げた燈雅であったが、伏し目がちに目尻を下げた。切なげに揺らいだ表情を頼道は見てしまう。
 そして気づいてしまった。
 その表情が、あまりにも似ていることを。
 ――頼道の記憶に刻まれた、かつての当主。己の青春を、誓いを、愛の全てを捧げた男。優しさと危うさを抱き、生き抜いた彼。
 悲しそうに笑う燈雅は、あまりにも光緑に似すぎていた。
「……失礼、致しました」
 血の繋がりを思えば当然だ。燈雅はその息子。親子である。それでも、燈雅は燈雅だ。別の命、別の歩みをした存在。分かっているのに。
 無意識に、頼道の表情が揺らぐ。
「ふふ、頼道さん。……顔が、崩れているよ?」
 はっとして頼道は視線を心の奥底ではなく、現在の燈雅へと戻した。背筋を冷たい汗が伝う。
 燈雅がいつものように笑う。声音は柔らかだが、意地の悪い甘さが混じっていた。
「そうだ、頼道さん。先ほどね、機関に顔を出したんだ。そこの接待で少しばかり上等な酒を貰ってしまってね。晩酌の相手が欲しかったんだが……どうだい? たまには」
 気づけば、燈雅は立ち上がり、机向かいに座っていた頼道の横へと移動していた。普段の柔らかさを保ちながらも、どこか艶やかに湿り気を帯びている。
 ふわりと香の匂いが漂い、頼道の右腕が、するりと白い指に取られた。
 頼道の喉が無意識に鳴った。反射的に腕を引こうとするが、笑みを崩さぬままの燈雅が手を放さない。
 すっと手首を撫でるように取られる燈雅の指。本気で逃げようと思えば逃げられる力だ。だが、その軽さがかえって眠っていた記憶を呼び覚まし……頼道は眩暈に襲われた。
「逃げるようなことでも、ないだろう?」
「……当主。僭越ですが、そういう真似は……」
「オレと貴方の仲だろう? 犬伏と仏田。代々で約束された関係だ。……もっと踏み込んだって構わないはず。一心同体の血筋なんだから」
 頼道が応じる間もなく、燈雅はすっと身を傾けた。艶やかな長い髪が、頼道の肩や胸に触れる。
 細い腕が回り込み、頼道の大きな身体を抱いた。
「酒宴を機に、仲良くしようじゃないか。……だって頼道さん、この仏田家から、心が離れているみたい」
 耳元に熱を含む声が落ちる。言葉に絡め取られるように、唇が寄ってくる。
「貴方は必要な人だよ。この寺を支える犬伏家は、表。表がなきゃ、裏は成り立たない。いなくなったら駄目だよ。当主のオレは……仏田を預かる者として、頼道さんを縛りつけておかなきゃだね」
 儀式の一環であるかのように自然な仕草で、燈雅の唇が震える唇に重なった。
 一瞬で頼道の心は激しく揺らぐ。引き金は記憶だった。――涙に濡れながら唇を重ねてきた彼の、遠い日の夜が頭を巡る。
「っ……い、いけない、燈雅くん……」
 頼道は必死に体を離そうとした。唇が離れた直後、頼道の目の前に現れたのは、またもあの切なげな微笑。その顔は、愛する人に似すぎている。
 理性が、激しく軋んだ。

「……ふふ、頼道さん。仏田家の当主と犬伏家の住職は、いつだって並んで支え合ってきたじゃないか」
 燈雅の声は夜気の中でも響く。芝居めいていて、どこか粘りつくような、心の奥を撫で回すような声音。
 その囁きは、頼道の動きを止める力があった。衣服を剥がれ、仰向けに横たわる頼道の胸に、燈雅が囁きと共に舌を這わせる。
 動こうと思えば動けた。燈雅の身体は細い。五十を越えた己の腕力でも、押しのけることなど容易い。けれども、馬乗りの裸体の彼を突き飛ばすことはできない。その艶姿を……かつて『どうしても手に入れたかった愛する人』とそっくりな器を、受け入れてしまう。
 長い黒髪が唇を寄せるたび、頼道の視界を奪う。闇に溶け込み、彼のことしか考えられなくなる。
「ねえ、頼道さん……貴方、この寺でもう大切なものがなくなって、自暴自棄になっていたんだろう?」
 甘い声が、内奥の痛みを無遠慮に暴いていく。
「両親に跡継ぎを見せて、立派な墓に納めてやった。弟分は外で平穏を得た。妻と息子は麓で健やかに生きている。……そうだろう? 本当に愛した人たちは、もうここにはいない。だから使命を捨ててもいいと思った? 後腐れないから?」
「と、燈雅くん……そんなことは……」
「酷い人だなあ。オレのことなんて眼中にない。さっさと他に継がせて、自分だけ楽になろうとしてるんだ。仏田のことは全部オレに押しつけてさ」
「そんなことはないッ!」
 頼道が声を荒げると同時に、燈雅はさらに身を寄せ、その体温で覆い尽くした。
 乱れた呼吸を整える余裕もなく、頼道は仰向けのまま、唸る。
「俺はっ……燈雅くんを蔑ろになんてしたくない。……お前は、あいつの忘れ形見だ。だから、大切で……」
「だろうね。父は、貴方を誰より愛していた。そんな貴方に守られるなら、オレも父も、きっと幸せだ」
 囁きは優しげでありながら、弱点を撫でるように残酷だ。
 燈雅は腰を動かし、頼道のものを受け入れながら、支配を進める。
「父は今も、そう言っている。オレの中にいる父が、今も頼道さんに『会いたい』って叫んでいるんだ。なのに貴方が居なくなったら……オレも父も、不幸せだ」
 頼道は、呼吸ができなくなった。
 酸素を送り込むように、燈雅から幾度目かの口付けが交わされる。
 記憶に身を委ねるように、頼道は目を閉じた。燈雅が光緑の幻を纏っている。心地良い。年老いた肌をなぞる指先。求めてほしかった人に、求めてもらっている錯覚。たとえ愛でも敬意でもなく、ただ所有を刻む手つきだとしても、頼道は抗えなかった。
「……頼道さん。貴方は、オレから離れたらダメだよ」
 燈雅の指が、頼道の額に触れる。
 その仕草は、主が愛玩の獣を撫でつけるのと同じ。
「父の偉大な異能はオレに必要不可欠だからさ。貴方がいなくなって、父の魂に悪影響を及ぼしたら、そんなの仏田の大損失だよ。……仲良くしよう。命が尽きるまで。使命を果たすその時まで、ずっと」
 逃げ場など、とうに奪われていた。

 やがて燈雅は唇の端に笑みを留めたまま、元の座椅子に腰掛けた。
 着物は整えられていない。白磁のように滑らかな鎖骨を晒したまま、ぽつりと囁く。
「……男衾。口直しして」
 頼道は既に「朝だから」と部屋を去っていった。朝方の光が立ち昇っている中、襖がすうっと滑るように開く。
 まるで影から抜け出したかのように音もなく従者が現れ、薄く冷やされた果実酒が用意された。それを一瞥した燈雅が、満足げに微笑む。
「ふふ……男衾、聞いてた? あの声」
 果実酒をひと啜りし、喉を細く震わせる。
「凄かったよ、頼道さん。あんな律儀で、堅物で優しくて……ああいう人、嫌いじゃない。むしろ好みかもしれない」
 男衾は沈黙を守る。応えず、ただ影のように控えるのみ。
 酒を舌の上で転がす燈雅は、ひやりとした甘さに瞼を伏せ、うっとりと目を細める。
「でも、どうしてかな。真面目な人ほど、意地悪したくなっちゃうんだよね」
 声には艶が混じり、からかうような甘さと残酷さが同居していた。
「じゃあさ……若くて、今どきの考え方をする寄居くんも、好みに入るのかなあ? でも、悪い人に引っかかっちゃ可哀想だよねえ」
 燈雅は舌の上で弄ぶように転がし、笑った。
 その笑い声は果実酒よりも甘く、冷たく、朝の座敷に長く尾を引いた。


 /7

 風鈴が鳴る。その音は、いつものそれとは違って聞こえた。
 軒先には簾が揺れ、砂利道の先には古びた木戸。煤けた欄間、木造の柱。人々の衣は全て和装で、声や所作に古さが漂っている。
 ここは、古い。現実じゃない。寄居は『自分が夢の中にいる』と気づいた。
 少し先、日差しの溜まる庭のあたりに、何人もの人が集まって和やかに笑い合っているのが見える。
 その中心に、小さな女の子がいた。着物姿の幼い彼女は間違いなくあの霊で、心から楽しそうに笑っていた。
 視線の先に美しい女性が立っている。端正な顔立ちに、上品な立ち居振る舞い。少女を抱き上げるその腕には、惜しみない愛情が宿っていた。少女は何よりも嬉しそうに……おそらく母であろう彼女の胸に頬を寄せている。
(綺麗なお母さんだね)
 今度は父親らしき男が現れた。裃に近い服を着てはいるが、堅苦しさはなく、眼差しには温和な笑みが宿っている。
 男は少女の頭を撫で、抱き上げ、くるりと回る。少女が声を上げて笑い、母が口元を押さえて笑う。
 絵巻物から抜け出したような幸福。疑いようもなく、この家族は幸せに包まれていた。
(だから……死んでも『会いたい』って思うんだろうな)
 寄居には自然に、その気持ちが理解できた。
 自分も似たように育った。保育園という大きな家に暮らし、たくさん友達に囲まれ、友達の父母に声を掛けられ、母は優しく笑い、たまに現れる父も自分を撫でてくれた。
 人の手の中で育つ幸福。孤独を知らずに過ごす日々。自分と彼女は、似ている。そう思うと、少しだけ嬉しくなる。
 ふと、視界の端にある柱の意匠に目を奪われた。細工の形状は、間違いなく仏田寺の本堂のものだ。
 もしここが仏田寺の昔の姿だとすれば……この少女は、仏田家の娘ということだ。そういえば父が「仏田家は男系ばかりで、女子が生まれることはまずない」と語っていたような。
(じゃあ、家系図の中に数少ない女子を探れば……この子のことが見つかる?)
 景色が揺らぎ、また変わった。
 少女は縁側で遊んでいる。その前に、跪く男がいた。長い袈裟をまとった僧侶。ふくよかで屈強、しかし穏やかな顔立ちをしている。
 寄居は息を呑んだ。父だ。いや、あれは犬伏家の祖先。そう確信する。
 少女は僧侶に手を引かれ、楽しげに笑っていた。まるで姫と従者のような光景だ。
 寄居の胸に、じんわりと熱がこもる。
 ――ああ、そうだったのか。自分たちは、こうして繋がっていたのだ。
 仏田の娘と、犬伏の僧。
 夢の中で寄居は、初めて……自分の血が、この土地が、全てが結びついていることを実感した。

 仏田寺の裏手に、納戸のように使われている古い蔵がある。
 屋敷の喧騒から切り離されたその空間は、夏の夜の虫の声だけが響いていた。
 寄居が重い扉を開けると、もわっとした埃と古紙の匂いが鼻を突く。
「どうもヨリーちゃん〜。家系図を探したいんだってえ?」
 ひょっこり姿を現したのは、とぼけた声に間延びした口調の青年。作業服に日焼けした肌、頭にタオルを被った明るそうな男。仏田寺の用務員兼雑用係、福広である。
「はい。父に頼もうかとも思ったんですけど……最近忙しそうで」
「まあねえ。住職さん、今は葬式ラッシュだもん〜。ってか最近あの人、動きっぱなしじゃない〜? ちゃんと寝てんのかねえ〜」
 どこか緊張感に欠ける調子。けれど、悪意のない柔らかさを纏う人柄だった。
 笑いながら福広は奥の棚に手を伸ばす。
「でもまあ、住職の息子の頼みってことでこうして俺の貴重な夜が犠牲になりました〜。やってらんねぇ〜」
 そう言いつつも手際よく古い木箱を引き出す。
 重厚な金具のついた箱の蓋には、墨で「系譜」と書かれていた。
「お、あったあった〜。ラッキーだね。まあ捨てられてるわけないとは思ったけどさ〜」
「本当に……ありがとうございます」
 寄居は箱の前に正座し、息を整えた。
「で? なんでまたこんな古い記録に興味持ったの〜?」
 福広の問いに、一瞬言葉を詰まらせる。「夏休みの自由研究みたいなもんです」と軽く答えた。
 夢で少女の記憶を見て幽霊の正体が分かるかもしれないんです、なんて言えるはずもない。自分でも現実味のない話だった。緋馬のような異能者ならまだしも、ただの用務員には理解されないだろう。
 そして福広は気にした様子もなく、近くの古い扇風機をガタガタ回し始めた。巻き上げられた風に、積もった書類がぱらりと舞う。
 黄ばんだ紙の匂い。墨の跡。繰り返される「仏田」の名。その合間に混じる、たった一人の少女の名を探す。だが、見つからない。
「……読めないっすね」
「読めないね〜」
 筆跡は崩れ、もはや川の流れのような線にしか見えなかった。人名なのだろうが、呪文のようで寄居には歯が立たない。
「崩し字ってやつさ。昔の人、字が自由すぎるんだよなあ〜」
 福広は肩をすくめ、扇風機の風を寄居の方に向ける。だが熱気は紙に吸われるばかりで、涼しくはならない。
「素直に、お父さんとか頭のいい人に聞いてみたら?」
「父さんは……今は無理だな。葬式続きでずっと忙しそうだし」
「お坊さんはお盆休みも大変だね〜。ま、あの住職は動いてる方が楽しいタイプかもしんないけど〜」
「他に、頭のいい人。……燈雅さん、こういうの得意そうですよね?」
 何気なく口にしたつもりだった。
 だがその名が出た途端、福広の目が揺れた。笑ってはいる。けれど、その奥にブレーキが掛かっていた。
「当主様を宿題の相手にしようとか、勇気あるなあヨリーちゃんは〜!」
「駄目ですか?」
「ん〜……一応、国のトップみたいな人よ〜? 仏田の王様、その王様に『宿題見てください』って持ってくのフツーは臣下が止めるでしょ、ビックリで済めば優しい方だわ〜」
 冗談めかした声だったが、その裏には薄い緊張が漂っている。
 やがて福広は、「ま、ここまで見つかっただけでも収穫収穫〜!」と笑い、立ち上がった。
 家系図を手に、むせ返るような蔵の空気から外へ出る。夜の山風が、汗ばんだ肌を撫でた。
 寄居は肩の汗を拭いながら福広に礼を述べ、家系図の木箱を抱えて自室へ戻った。途中、厨房で冷凍庫を開け、二つに折れるアイスキャンディーを一本頂戴する。
 自室の扇風機を回し、畳に腰を下ろした。木箱の蓋を開け、巻物を広げる。ふわりと墨の匂いが立ちのぼった。
「暑いし、食べよーっと」
 わざとらしい独り言を大きめに漏らし、ぱきりと小気味よい音を立てて氷菓を割る。
 片方を口に咥え、もう片方を虚空へと差し出した。
「食べたい?」
 誰もいない。けれど、すぐに風が吹いた。
 襖の隙間から入り込む風ではない。冷ややかな気配が、まるで返事のように頬を撫でる。
 寄居は目を閉じた。……次に瞼を開けたとき、手にあったはずのアイスは消えていた。
 畳にポタリと果汁がひとしずく落ちる。慌てて巻物を避けた。幸い墨の上には一滴もかかっていない。
「セーフ。汚したらさすがに怒られるとこだ」
 呟いた瞬間、視線の端に何かが留まった。
 畳に沁みかけた甘い匂いのすぐ横。古びた紙の片隅に、一つだけ奇妙に孤立した名がある。
 ――瑠璃。
 達筆な筆致で、他の名と同じく重く流れるように記されている。
 けれどその下には何も繋がっていない。枝葉もなくただ一つだけ、宙に浮いたよう。
 若くして死んだのだろう。婚姻も子も残さず、家系の流れから切り離されてしまったのだ。
 寄居は息を呑む。……夢で見た少女、母に抱かれて笑っていたあどけない顔、どこか寂しげな瞳。その姿が、名と重なった。
 呼びかけるように墨の文字を見つめる。扇風機の風と、果汁の甘い匂いが混じり合う。夏の夜のひととき、時がふと、別の季節や時代へと繋がったかのように思えた。

 次に見た夢は、前よりも鮮明だった。
 寄居の前に広がるのは、うららかな座敷。蝶よ花よ、まさにそんな言葉が似合う子が瑠璃だった。
 小さな手を大人たちが次々に取っては頬を撫で、笑顔を向ける。少女はくすぐったそうに笑い、どこまでも幸せそうに微笑んでいた。寄居は胸の奥が温かくなるのを感じる。
(良かった。この子は、ちゃんと幸せに育ったんだ)
 場の空気が、ふっと捻じれた。
 座敷の中央に、美しい女がいた。瑠璃の母だ。
 白磁のように透きとおる肌、しなやかな体つき。艶やかに垂れた黒髪、熟れた果実のように紅い唇。笑えば座敷全体の空気が揺らぐほどの妖艶さ。傍にいる男たちの視線は、ひとり残らず奪われていた。
 彼女は蛇のように、するりと袖を取る。蜘蛛のように、細く長い指を差し伸べ、見えない糸で男たちを絡め取る。
 抗える者はいない。誰もが陶然と従い、彼女のひと声で財布を開き、富を流し込む。微笑の奥で、彼女は子どもが見るには残酷すぎる行為をも平然と行っていた。
 瑠璃は、その母を見上げていた。
 まだ善悪も、男女のことも知らぬ年頃。ただ「大好きなお母さん」がそこにいることが嬉しくて、きらきらと瞳を輝かせて。
 寄居の胸がぎゅっと縮む。
 現代に生きる寄居の目には、その女は醜悪でしかない。妖艶さの裏に潜む欲と欺き。幾人もの男を『食べて』得た富の上に築かれる幸福。その歪みの上で育つ少女の姿に、寄居は堪らなく胸を痛めた。

 夢の景色が揺らぎ、寄居の前に現れたのは父親だった。
 瑠璃の父は、いつも笑みを湛えていた。その腕に小さな娘を抱き上げ、天井に届くほど高く放り投げては、確かに受けとめる。少女が甲高く笑い、父の胸に顔を埋めていた。
 そこには疑いようのない幸福がある。寄居の目にも、それ以上のものには映らない。
 次の瞬間、その腕は別の誰かを抱いていた。
 泣き叫ぶ人間。縋りつき、命乞いをする声。その頭を撫でる仕草は、娘に向けたものと寸分違わぬ優しさ。そして刀が振り下ろされる。鮮烈な音。命が潰える重苦しい響きが、夢の底にいつまでも反響する。
(な、なんで?)
 父は微笑んでいた。飛び散る血を浴びても、その表情は崩れない。娘と遊ぶときと同じ穏やかさを浮かべたまま。
 斬り落とされた肉塊はきちんと集められ、壺や倉の奥へと運ばれていく。暗い空間に、まるで宝物のように整然と並べられていった。
 それは一度きりでは終わらなかった。
 日をまたぎ、月をまたぎ、何十人も、何百人も。救いを求めてやって来る者たちを抱きしめ、慈愛を囁き、そして刀で斬り伏せ、保管する。その禍々しい反復が延々と続いた。
(なに……何してるんだ、この人は?)
 寄居の身体は震えた。夢の中なのに、足が動かない。逃げられない。
 けれど父はいつだって娘を抱いていた。愛しい瑠璃を。「大事だよ」と囁き、愛の言葉を繰り返しながら。
 ――優しい父でありながら、冷酷無比な大量殺人者。
 その矛盾が、寄居の心を裂くように突き刺さる。
 瑠璃は夢の中でただ無邪気に笑っていた。血に染まった手で撫でられながら。気づいていないのか。あるいは、気づいていても彼女にとっては「大好きなお父さん」であることに変わりはないのかもしれない。

 はっと目を覚ました。
 胸が詰まる。息が苦しい。寄居は布団の上で上体を起こし、ぜえぜえと寝汗を吐き出した。
 外はまだ闇だ。障子の隙間から差す光はなく、部屋はひっそりと閉ざされている。夜明けまではまだ遠いのだろう。時間の感覚が、夢の余韻に攫われていた。
 背筋をすっと冷たいものが撫でていく。汗のせいではない。確かな寒気。乾いた笑いが、震えとともに漏れる。
「……はは。幽霊が枕元に立つのは、さすがに怖いから……やめてほしいな」
 冗談めかした口調。けれど、それは心の底からの願いでもあった。
 現に、そこに立っていたからだ。
 布団の脇に、少女がいた。輪郭は淡い光に滲み、ただ無言で寄居を見下ろしている。
 眠っていたら枕元に幽霊が立っているなんて、怪談にはありふれた話だ。けれど実際にそれを目にする恐怖は、物語の何倍も強烈だった。
 夢で幾度も会い、親しみすら覚えた霊であっても、こうして現実に近すぎる距離で立たれると心臓がひどく軋む。喉の奥をひりつかせながら、寄居は掠れ声で言った。
「君のこと、嫌いになりたくないからさ。驚かすのは、やめてくれないか……瑠璃」
 その名を呼ばれた影は蝋燭の火のようにふっと揺れ、消える。
 寄居は大きく息を吐いた。全身の力が抜け、布団に倒れ込む。恐怖の汗とともに安堵が胸に広がった。
 彼女は、脅かすために立っていたのではない。呼べばすぐに消える。そこにあるのは敵意ではなく親しみだ。
 『呼んだら消える』から安心だ。だが同時に……『呼ばない限り、ずっとそこにいる』ということに気付いて、心のどこかで震え続けていた。


 /8

 8月も半ばを過ぎた夜、山の麓の町は夏祭りの喧噪に包まれていた。
 商店街には提灯が川のように連なり、焼きそばの香りや金魚すくいの水音が夜気に混じる。遠くからは太鼓の響きが絶え間なく寄せ、空を焦がす花火の支度が進められていた。
 例年なら寄居もその群れの一人として、友と肩を並べて歩いただろう。屋台をひやかし、顔見知りの大人たちに「よく来たねえ」とご馳走を分けてもらう。祖父母貰った小遣いで、夜更けまで笑い合う。それが当たり前の夏だった。
 今年は違う。寄居は客ではなく、運営の一員としてそこに立っていた。父・頼道の傍らで。
 境内を法被姿の男たちが駆け抜け、商店街の役員らが手を振り合う。そんな中で頼道はひとりひとりに笑顔を向け、深々と頭を下げていく。
「お世話になります。今年もよろしくお願いします」
 寄居も父に倣い、強張った背筋を折って挨拶を続けた。
 市長、商店街会長、イベント会社の社長。頼道はそんな彼らと並び、自然な調子で談笑を始める。
「こちらが息子です。寄居といいます」
 名を呼ばれるたび、寄居は慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げる。返ってくるのは、いずれも大人の余裕を帯びた微笑だった。
「住職のご子息か。立派に育ったな」
「お父さんの背中をよく見て、これから頑張るんだよ」
 ほんの一言が胸を震わせる。
 その後も頼道は、途切れることなく人々と挨拶を交わしていった。商工会の役員、消防団の青年団、婦人会の世話人。寄居には知らない顔ばかりだったが、誰もが父を「住職さん」と呼び、信頼の色を浮かべて笑みを返す。
 同じ夏祭りでありながら、これまでの夜とはまるで景色が違っていた。友人たちと歩いた夏はただ眩しく、ただ楽しかった。だが今は、夜風に責任の匂いが滲んでいる。
 町を支える人々の輪に加わること。それがこれほど重く、背にのしかかるものだとは知らなかった。
 紹介を受けるたびに背筋を正し、言葉少なに頭を下げる。大人たちの会話は軽やかで、時に鋭く、子供の口を挟む余地などない。だがその輪の中に立つことで、「父の役割」というものに対する熱が、じわじわと形を持ち始めていった。
 父は、町の要なのだ。人と人を繋ぎ、信頼を育み、祭りを守る。誰もが父を必要としていて、父もまた人々を必要としている。
 ふと、その父が歩みを止めた。人気の薄い参道の暗がりに、浴衣ではない数人の影が立っていた。がっしりした体躯、夜の気配を纏った男たちがいる。
「おう、住職さん。ご苦労さまで」
 低く響く声に、寄居は思わず肩を竦める。
 しかし頼道は旧友にでも会ったかのように、朗らかに頭を下げた。
「こちらこそ。おかげさまで今年も賑やかになったよ」
 男はにやりと口元を歪め、背後の部下に目配せをした。封筒が差し出された。父はそれを軽く手で制した。
「気持ちだけで十分。寺に顔を出してくれることが、何よりの支えだから」
「はは、相変わらずだな。けどまあ、困ったときはいつでも言ってくれ。住職さんには借りがある」
 そのやり取りを横で聞いていると、背筋を冷たくなっていく。
(ああ、ヤクザだ)
 町の裏には嵐山組というものがあり、金も人も動かしているとは知っていた。自分とは遠い世界の話だと信じていた。
 だが父は、何事もない顔で彼らと語らっている。
 ――表の顔、秩序を守る住職。裏の顔、金と力を操る者たち。その両方を繋ぐ結び目に、父は立っていた。
 市長も商店街も、父を無視できぬ理由がようやく腑に落ちる。人々の尊敬だけではなく、この土地を流れる金と血の通路にまで、父は深く関わっていたのだ。
 寄居の胸には、誇らしさと、抗いがたい怖れとがせめぎ合った。
「おーい、ちょっと若いの、手を貸してくれ!」
 声を掛けられ、寄居ははっと我に返る。
 振り向けば、祭りの設営スタッフが櫓の飾り付けに手間取っていた。頼道を見やると、父は軽く顎をしゃくって合図する。
「行ってこい」
 寺での手伝いで慣れた縄結びなら任せられる。寄居は駆け寄り、指示を受けて縄を引き、提灯を結わえた。
 観客だった頃には決して触れられなかった景色が、そこに広がっていた。
 やがて櫓の提灯にぱっと火が入り、朱の光が夜空を染める。
 どっと歓声が沸き上がった。寄居の胸もまた、歓声に呼応するように熱く膨らんでいた。

 境内を抜け、町の広場へ戻ると、夜の熱気はなお渦を巻いていた。
 屋台の提灯が赤や黄の光を揺らし、浴衣姿の人々が途切れなく行き交う。遠くで響く太鼓は花火の時刻を告げるように鳴り続けている。
「頼道兄さん、寄居くん」
 背後から名を呼ばれ、振り返ると藤春が手を振っていた。
 その隣には緋馬。口にクレープを押しつけたまま、何とも言えない面持ちでこちらを見ている。
 頼道の顔がふっと変わった。挨拶回りで纏っていた仕事の仮面が消え、快活で自由な、無骨な少年のような笑みになる。
「藤春! 本当に来てくれたのか!」
 弾む声に、藤春は少し照れたように肩を竦めた。
「緋馬に『花火大会がある』って言ったら行きたいって言ってくれたんだ。俺もこういう祭りに顔を出すのは久しぶりで……せっかくだから」
 寄居は目を丸くする。言葉の軽さとは裏腹に、緋馬の方はどうか。
 ぶっきらぼうにクレープを噛み続けている。耳の先が赤く染まっているのを見て、心の中で小さく笑った。
「そこに地ビールの屋台があるぞ。藤春、好きだったろ?」
 頼道が楽しげに顎をしゃくると、藤春は一瞬躊躇い、苦笑を浮かべる。
「好きだけど……車の運転が」
「うちに泊まっていけばいいさ。誰も文句は言わせん」
 そのやり取りはまるで、時を巻き戻した兄弟の会話だった。大柄で骨太な頼道と、穏やかさの奥に翳を抱く藤春。やはり見目も雰囲気も対照的なのに、長年の積み重ねが呼吸のように響き合っている。
 父親たちは当然のように泡の立つビールを分け合い始めた。仕事の顔はもう消え、ただの再会を祝っている。その背中から「お前たちも楽しんでこい」という無言の気配が伝わってきた。
 寄居は隣に視線を送る。緋馬はすでにクレープを食べ切り、包み紙を丸めて投げ込み、携帯を取り出して親指を滑らせていた。画面の白い光が頬を淡く照らし、彼は完全に一人の世界に籠っているように見える。
「何か食べたいものある?」
 声を掛けると、緋馬はちらりと目だけを上げてきた。
「何かって、何があるの」
「なんでも。さっき運営の人からチケット貰ったんだ。5店まで無料なやつ」
「え、なにそれ。破格すぎるじゃん」
「だろ。だから使わないのはもったいない」
 ぶっきらぼうな口調の奥に、隠しきれない子どもらしい食欲が覗く。
 寄居は苦笑し、たこ焼きの屋台へ足を向けた。鉄板で油が弾け、甘辛いソースの匂いが夜気に漂う。気づけば緋馬も自然と隣に並んでいた。携帯はもうポケットにしまわれている。
 受け取った舟皿を二人で分け持ち、熱気を吹きながら歩き出した。
「あっつ」
 緋馬がひと口頬張り、舌を押さえるように息を吐いた。寄居も口に運びながら、思わずくすっと笑う。
「だから言ったろ、気をつけろって」
「はいはい……でも、うまい」
 言葉は短い。そこに滲む温度は冷たくない。
 花火が打ち上がる直前のざわめく夏の夜、二人の間にはまだ言葉にならない距離が横たわっていた。
 けれどその距離はたこ焼きのおかげで、ほんの少しずつ埋められていった。

「本日の花火大会は午後八時より打ち上げを開始いたします。ご覧になる方は、どうぞ足元にお気をつけください……」
 頭上のスピーカーから淡々とした声が繰り返され、太鼓の音と重なって夜の町にさらなる熱気を与えていく。
 寄居の隣では、緋馬がりんご飴を手にしていた。赤い飴玉は夜店の光を受けて宝石のように輝き、彼はかぶりつくでもなく遠くを眺めている。
 視線の先には、ビールの屋台があった。頼道と藤春が並び、笑い合っている。まるで少年に戻ったかのように。
「父さんは、あの状態になると……もう解放してくれない。身勝手な奉行だから」
 寄居が呟く。拗ねた響きよりも、諦めの色の方が濃い。
「……ちなみにおじさんも、ああなると絶対に離れなくなるよ。けっこう飲兵衛だから」
 緋馬が小さく笑った。
「似てないようで、やっぱりそっくりなんだな」
「……俺、おじさんと花火を見たかったんだけどな」
「でも、あれじゃ無理そうだ」
 りんご飴の赤が緋馬の横顔に反射し、目尻に滲む切なさを隠す……前に、彼はぱきりと飴を割った。どこかその横顔は、置き去りにされた子どもの寂しさを感じさせる。
「じゃあ、俺と見るか」
 寄居はあえて軽く言った。
「そうするしかない。……おじさんがあんな楽しそうなんだ、邪魔したくないし」
 そうして二人は人波を抜け、夜店の灯りを離れて歩いた。
 寄居が先を行き、地元の者しか知らぬ小道へと足を向ける。祭囃子は遠のき、虫の声と草むらを擦る足音が耳に戻る。
「どこに行くんだよ?」
「陵珊山の途中。寺までは行かないけど、街の明かりが遠くなって、花火が一番綺麗に見える場所」
「へえ、穴場ってやつか」
「まあ、地元民の特権」
 緋馬は短く返し、夜風に揺れる綿あめをちぎって口に運んだ。
 しばし沈黙が続いたのち、不意に緋馬が言う。
「そういやさ。……幽霊に体を貸すって話、どうなった? やってみた?」
 寄居は足を止めかける。
 肩を竦め、夜風に髪を揺らして答えた。
「提案した日から……毎晩枕元に立つようになった。おかげで毎晩、幽霊の夢を見る羽目だ」
「マジかよ、それ……ごめん」
 緋馬が眉を寄せ、律儀に謝る。その真面目さに寄居は苦笑しつつも、声の奥に疲労を滲ませてしまう。
「でも、そのおかげで名前も分かった。どうして俺があの子と縁を結んだのかも、少し見えてきた」
「……思ったより進展してんじゃん」
「呼べば来るくらいには仲良くなったよ」
「進展しすぎて、もうゴールインしてんだろ」
 呆れたように言いながらも、緋馬は目を細めた。寄居も苦笑し、屋台で買った小箱を取り出す。
 中にはチョコレートがかかった一口サイズのバニラアイスが並んでいる。一本を抜き、串に差して掲げた。
「食べる? ……いや、さすがにここじゃ出てこないか」
 冗談めかし、寄居はそっと目を閉じた。
 夜風が頬を撫で、ひと呼吸の静寂。
 ……瞼を開けると、掲げていたアイスは跡形もなく消えている。
 残されたのは、串にわずかに残る冷気だけ。隣の緋馬は、数秒言葉を無くしていた。
「一応この辺は仏田の敷地だから、地縛霊的に出現オッケーって解釈しておこう」
 隠れて寄居は冷や汗を拭い、震えを紛らわせるように自分の串のアイスをかじった。
「結局、地縛霊だった?」
「いや、確証はない。ただ昔から寺にいた子だと思う。……寺に近いとはいえ麓まで来てくれて、ごめんな」
 幽霊に突然謝り始めた寄居に、緋馬が怪訝な顔を向けた。「何言ってんだ」とでも言いたげにした途端、ひゅう、と夜風が抜けた。
 木々がざわめき、二人の頬を撫でていく。あまりに良すぎるタイミング。二人は息を呑み……確かにいるなと悟った。
「……暑い夜に、涼しい風をありがとう」
 とりあえず寄居は小さく微笑み、声を投げた。
「ああ……そうだね」
 緋馬も一拍置き、虚空に向かって言葉を添える。
「きっと寄居は……綺麗な花火を君に見せてあげたかったんだよ。ここまで来てくれて、ありがとう」
 そんな意図は無かったんだが、と寄居が言いかけた瞬間――どんと、大地を震わせる音とともに夜空に大輪の光が咲いた。

 金の火花が尾を引き、深い群青の闇を一瞬で染め上げる。
 続いて赤、緑、白。破裂するたびに奔流のような光が夜山を照らし、寄居と緋馬の横顔を浮かび上がらせる。
 腹の底に響く低音。色とりどりの閃光が闇を裂く。毎年のように見慣れた地元の花火。それなのに、今夜だけは違う。寄居は思わず息を呑んだ。
 隣で緋馬も、黙っていた。少し前までは「本当はおじさんと見たかった」と呟いていたのに、今はその言葉を胸にしまい、ただ花火を仰ぎ見ている。夜空の芸術には、もはや余計な言葉を差し挟む余地がない。
 そして、もうひとり。
 寄居は視線の端に、淡く透き通った横顔を見つけた。
 小さな少女。
 花火に照らされ、儚い輪郭が鮮やかに浮かび上がる。その瞳は、夜空に咲く光に釘づけだった。きらきらと輝く目に映っているのは、純粋な驚きと歓喜。まるで「こんなにも色鮮やかで不思議なものが、この世にあるなんて」と訴えるかのように輝いていた。
(……花火って、いつの時代からあったんだっけ)
 寄居の脳裏を、先日見た家系図の文字がよぎる。
 ――瑠璃という名は、江戸の頃に記されていた。
 年の頃は、わずか五つか六つ。もし幼くして世を去ったのなら、彼女は生涯で一度も、この光を目にすることはなかったのだろう。
 だから今、時を越えてようやく触れているのだ。現代の空に咲く、火花というアートに。
 ぱっと開く大輪の赤に目を見開き、尾を引いて消える金を名残惜しそうに追う。幼い横顔は、涙ぐむほどの感動に満ちていた。
(見せてあげられて、良かったのかもしれない)
 どん。どん――。
 夜空は絶え間なく色を変え、光の花を咲かせてゆく。菊のように丸く開き、柳のように垂れて散り、ハートや星を描くものまで。伝統の技と現代の演出が惜しみなく繰り出され、夏の闇を鮮やかに染め抜いていった。
「……なんか派手だな」
 緋馬が口を開いた。仰ぐ目には、驚きと感嘆が入り混じっている。
「こんなに気合い入った花火大会だったんだ」
「ああ、それは……今年で最後だからだよ」
「最後?」
「来年はもう無いんだ。夏祭りは来年もやるけど、恒例の花火大会は今年でおしまい。……続けられないらしい」
 赤から青へ、青から金へ。打ち上がる光が変わるたびに、緋馬の横顔も揺れて見えた。
「経営が厳しいんだ。花火師を呼ぶのも金がかかるし、運営だって町のボランティア頼み。あと……みんな年を取った。父さんも五十を過ぎてる。祖父母も七十を越えた。若い力が足りないし、客も年々減ってる。少子化のせいだって」
 ぱらぱらと散った火の粉が、流れ星のように闇に消える。
 緋馬はそれを見送り、低く呟いた。
「……文化って、消えるんだな」
 その声には、寂しさが滲んでいた。
 寄居は俯き、握った手の中のチケットの切れ端を見た。無料で配られたそれは、町が振り絞った最後の気力の証だ。鮮やかな光景を前にしているのに、胸の底にはひどく現実的な重みが沈んでいた。
「最後の綺麗な花火だよ、堪能しようぜ。……3人でさ」
 どん、どん、と連なる火の華。
 次々に咲いては散る大輪の光。その一つひとつを追いかけるように瞳を輝かせる姿は、まるで宝物を数える子どものよう。
 今、ようやく見ているのだ。
 時を越え、死を越え、現代に響く轟音と光を、その身いっぱいに受けて。
 少しでも独りぼっちの彼女が楽しめますように。そう思わずにはいられない横顔を、寄居は見つめた。

 酒の匂いを含んだ夜風が、寺の廊下を抜けていく。夏祭りのざわめきは既に遠く、仏田寺には虫の声と木の軋む音だけが漂う。
 頼道は藤春と緋馬が泊まれるように、二人を連れて行った。寄居は汗を拭って廊下を歩く。瞼の裏には、まだ花火の残像がちらついていた。腹に響いた轟音の余韻が、今も胸を震わせている。
 ふと、廊下の向こうに人影が立っているのに気付いた。
「おかえり、寄居くん。挨拶まわりのお勤め、ご苦労さま」
 燈雅だった。
 変わらぬ微笑を浮かべ、夏の夜気の中に立つ姿は外の喧噪とは別の時を生きているように見える。仏像のように涼やかで、一滴の汗も見せないその姿は、美しいのに……本物の幽霊よりも、恐ろしく思えた。
「あ、はい。ありがとうございます」
 間を埋めるように、咄嗟に言葉が零れる。
「燈雅さんは、花火……楽しめましたか?」
 その一言に、燈雅の微笑が揺れた。
「花火? ……山に響いていた音、それだったのか」
 寄居は息を呑む。あれほど夜空を染め上げた光を、見ていなかったのか。
「火薬で夜空に絵を描く……面白いものだね。知識では知っている。でも、縁が無くてね」
 その声には、人間の娯楽を楽しむ温度が微塵も感じない。完璧な異物感を覚え、胸にぞくりと寒気が広がる。
「もしかして……燈雅さん、花火を見に行ったことがないんですか?」
「うん。記憶に無いな。子供の頃は外に出られなくてね」
 一瞬、納得しかける。その線の細さなら、確かに祭りの雑踏に耐えられなさそうだ。
 だが燈雅は淡々と続ける。
「見たことはなくても知識はある。原理も、製造の仕方も分かるよ。知識は、日々の食事で得ているからね」
 口を噤む。普通の人間なら、花火の原理や製造法など知らない。ただ夜空の光を楽しむだけだ。
 寄居は苦笑する。
「それは……少し残念です。テレビで花火を中継することもありますけど、実際に見るのとは全然違いますから。いつか花火大会、行ってみてください。あ、でも来年からは花火大会が中止で。いや、違うとこの花火大会に行けば見られますけど……」
 燈雅の瞳が寄居を捉えた。
 涼やかな目に、薄い影が差す。唇が愉快そうに歪む。
「おや。寄居くんはオレに花火を見せてあげたいんだ?」
 声の調子は柔らかい。けれど底に艶めいたものを孕んでいた。
「可哀想なオレに、優しくしてくれるの?」
「……優しく、したいって思っただけです」
「ありがとう。いつか、優しい寄居くんと花火を見に行きたい。……連れていってくれる?」
 柔らかく穏やかな声。品格を保つはずの笑顔。傷一つない綺麗な指がすっと伸び、寄居の袖を取る。強くはない。
 寄居の脳裏に『夢の中の女』が蘇った。
 艶やかな黒髪、蛇のようにしなやかな手先。蜘蛛のような微笑みで男たちを絡め取り、優しい顔で喰らい尽くした女――瑠璃の母。
 今、目の前にいる燈雅の姿と重なる。
(同じだ)
 綺麗な顔も、澄んだ声も、今は危うさに満ちている。
 胸が縮む。心臓が跳ねる。寄居は無理矢理息を吸い……声を吐き出した。
「機会があったらッ!」
 廊下に反響するほど大きな声。殆ど威嚇に近い叫びだった。
 獣の気配を察した小動物が、思わず声を張り上げて身を守るように。
「……そんなに元気に返事されると、びっくりするなあ」
 燈雅の瞳が驚きに見開かれる。いつも崩れぬはずの微笑が、一瞬だけ途切れた。
 困ったように目を細め、再び笑みを整える。
「ふふ。元気な返事だね」
 だが寄居の胸の奥には、まだ夢の影が残っていた。心臓の鼓動は速く、汗は止まらない。
 無意識の叫びは、きっと本能だった。……「悪魔に近寄ったら、食われるぞ」、という。

「どうした寄居……と、ご当主? いかがなされましたか」
 寄居が思わず張り上げた大声のせいだろう、廊下の端から頼道が姿を現した。
 頬を赤くしていたが、決して酔い潰れるほどではない。酒を嗜んでも、息子や当主の前で崩れることはない。僅かな紅潮はむしろ、頼道の精悍さを際立たせていた。
「ご苦労様、頼道さん。急な客人が来たそうだね?」
 燈雅の声はひどく柔らかい。寄居のすぐ傍に立ちながら、仏のような微笑を浮かべている。
 頼道は一瞬、目だけで状況を測ると、息を整えて答えた。
「藤春と緋馬くんを泊めることになりました。でも一晩だけです。客室を使うほどではないので、俺の部屋を貸すことに。明日の朝には帰るそうです」
 燈雅は小さく頷き、何かを測るように目を細めた。
 そして、唇に柔らかな笑みを宿す。
「それだと部屋が窮屈だろう。頼道さん、オレの部屋に来ないか。また良い酒を貰ってね。……もう酔っているなら、さらに酔ったっていいでしょう?」
 ふわりと香を含んだ声。人を酔わせるような、危うい甘さ。
 そして、
「……寄居くんも誘ってみる?」
 無邪気な調子で投げかけられる言葉。
 途端、父の顔が強張った。上気した頬の赤を残したまま、頼道は寄居を見やる頼道の視線は、迷いながらも確かに息子を庇おうとしていた。
「……寄居はまだ、十五です」
 短い言葉。だがそれは明確な境界線だ。父として譲れぬ防壁があった。
「十五なら、十分だ」
 燈雅は唇の端に笑みを浮かべる。障子越しの薄明かりが、その整った横顔を妖艶に照らす。
「オレは十三の頃には相手をさせられたよ……大人たちの相手を、何人もね」
 冗談めかした声音。けれどあまりに滑らかで、嘘ではないことが伝わってしまう。寄居の背筋を冷たい汗が伝った。
「ご当主……御冗談は程々に」
 頼道の声がいつになく鋭く響く。燈雅の微笑みに、父の苛烈な響きが真っ向から抗う。
 その横目で寄居を見た。――早く行け、と無言で命じる。喉が焼けるように渇いたまま、寄居は必死に頭を下げた。それ以上ここに留まってはいけないと本能が叫んでいた。
「失礼します」
 声は震えていた。足早に廊下を駆け抜ける。背後を振り返る勇気など、持てるはずもない。
 やがて寄居の影が角を曲がり、気配も完全に消える。
 廊下に燈雅の笑い声が艶やかに広がった。そして細い腕が頼道の太い首へと回される。白磁のような指先が、汗ばんだ項を撫でるように這った。
「っ、廊下ですよ……!」
 低く制する声。だが燈雅は意にも介さぬまま、頼道に顔を寄せる。
 吐息が首筋をかすめ、紅潮した唇に舌先が濡れた熱を置いた。燈雅の瞳は獲物を捕らえる蛇のように光っていた。
「……んんっ」
「ねえ。その顔は……息子に見せられないって顔?」
 仏田家当主の支配は、廊下であろうと場所を選ばない。
 頼道の喉が低く唸る。一つ救いがあるとすれば、寄居はすでに、ここを見ていない。父としての威厳といった、全てが揺らぐ光景を。
「奥さんに申し訳ないって顔? それとも……自分の理性を繋ぎとめたい顔? どんな感情?」
 唇を重ねたすぐ後、吐息すら触れ合う距離で、燈雅が愉しげに囁く。
 声音は毒も棘もなく、子供が面白がって問いかけるように柔らかい。頼道の胸には、凍りつくような痛みが走る。唸るように声を搾り出す。
「……燈雅くん。好きでもない相手に……こんなことをしてはいけない。口付けも、抱擁も……愛している相手とするものだ」
 父が子に諭すような、当たり前の常識。頼道の声には懇願の色が滲んでいた。
 だが燈雅は面白おかしく嗤う。
「だからオレは十三の頃から相手をさせられたよ」
 甘く、残酷な声のまま。
「大人たちの相手を、何人も。好きでもない、愛なんて欠片もない相手ばかり。でもしたんだ。触れられたんだ。……それは、他でもない『貴方たち大人』だったね」
 頼道の顔から血の気が引いた。
 ――知っていた。直接その場にいなかったとしても、止められなかった。見て見ぬふりをした大人の一人だった。
 言葉を失った頼道の表情に、燈雅はますます楽しげに嗤う。
「愛する人とだけ、なんて……貴方は平気で言うんだね。でもオレの人生にはそんな相手……いないんだよ。だからその言葉は、冗談にしか聞こえない」
 残酷なほど空虚で、無垢な愉悦を帯びた宣言。
 頼道は唇を固く結び、返す言葉を持たなかった。後悔が胸を焼き、喉を締めつける。
 退こうとした頼道の腕に、蜘蛛が獲物を巻くように、燈雅は自然に糸を絡める。抗おうとした大男の足を、寝所へと導いていく。
「……来て」
 甘い囁き。
 腕力では押し返せるはずの頼道は、地に根を張ったように動けず、むしろ吸い寄せられるように敷居を跨いでしまう。
 灯明の揺れる寝室に、二人の影が落ちた。
「頼道さん。……いいでしょう?」
 長い髪が頼道の頬に触れ、吐息が首筋を撫でる。
 蜘蛛の糸に縛られながらも、……頼道の胸から、どうしようもない叫びが込み上がった。
「……それでも……貴方は、貴方が愛する人と……いるべきだ」
 それは頼道なりの、祈りだった。
 愛していない自分ではなく、本当に心を寄せる相手と共に生きてほしい。必死に祈りを絞り出す。
 燈雅の瞳が一瞬だけ揺らいだ。嗤いか哀しみか、判別のつかない微かな光が揺れる。
 しかしすぐに、また美しい仮面のような微笑へと戻る。
「……愛する人、か。そんな人が傍にいてくれたなら、とっくにそうしているよ」
 囁きながら、燈雅の指は頼道の胸をさらに這い、糸を重ねるように絡みついていった。


 /9

 夢の景色は、絵巻物のように艶やかで残酷だ。
 幼い瑠璃は母に抱き上げられ、微笑みを浴びていた。母は相変わらず妖艶で美しい女だ。蛇のように人を惑わせ、蜘蛛のように男たちを絡め取る女。その目は欲と欺瞞に満ちていたが、幼子に注ぐ光だけは確かに母の愛情だった。
「私たちの、かわいい瑠璃」
 紅い唇が囁き、少女の頬に口づけが落ちる。
 次に、大きな父の手が頭を撫でた。
 男は人を斬り、屠り、魂を壺に納める残酷な殺人者。けれどその声音は、不思議なほど穏やかだった。
「お前は、よく出来た子だね。どうか健やかに育つんだ。育って、我らの夢を叶えてくれ」
 そこにあるのは確かに愛。だが、愛の中身は最初から歪んでいた。
「私の夢を。――神の召喚を」
「母の夢を。――世界の崩壊を」
 二人は少女を抱き締めながら、未来を呪詛で染めていく。
 愛され、祝福され、慈しまれて……けれどその祝福の果ては、生贄。
 寄居の胸が重く沈む。夢の中で「これは違う」と叫ぶ。本来、愛と呪いは同じ器に収まるはずがない。そんなのあってたまるか、と醜い両親に吐き捨てる。
 その矛盾を断ち切る者が現れた。
 座敷に踏み込んできたのは、一人の僧侶。袈裟をまとい、厳しい目をしたその男は……犬伏家の先祖。
 僧侶は迷わなかった。祭壇の上に祀られるように座らされていた、愛らしい少女へ。……振り下ろされる白刃。
 瑠璃の小さな体から紅い花弁のような血が散る。
 愛されていた少女なのに。その命を、世界を救うために僧侶は奪った。
(どうして……どうしてこんな……)
 惨殺はあまりにも冷酷だ。けど、理屈は理解できてしまう。
 ――あのままなら恐ろしいものは召喚され、世界は滅んでいた。だから僧侶は殺した。世界を守るために、愛されていた子供を――。
 瑠璃の小さな唇からこぼれた声が、夢の底で木霊する。
「……どうして……」
 たった一言が、寄居の心臓を深く抉った。

 はっと目を覚ました。
 布団の上で胸が激しく上下している。嗚咽を噛み殺しながら膝を抱えた。夢にすぎないのに、あまりにも真に迫っている。寝間着は汗に濡れて張り付き、息は詰まり、頬には涙が伝っていた。
「……っ……どうして……」
 口から零れた言葉は、夢の中で少女が最後に放ったものと同じ。
 瑠璃は……両親に愛され、大勢の人に愛され、僧侶にも愛されて、それでも殺された。愛と矛盾のただ中で命を終えた少女の姿が、焼き付いて離れない。
 母の腕の温もりも、父の笑顔も、夢で見たあの光景は、あっけなく血の海に沈んでいった。
 ――枕元に、また彼女がいた。
 瑠璃。小さな影。夜の闇に輪郭を滲ませながら、じっと寄居を見下ろしている。
 本来ならここで叫ぶべきなのかもしれない。だが寄居の唇は閉ざされたままだった。追い払うなど、とても言えなかった。
 何故なら彼女は一度として「うらめしや」と怨嗟を吐いたことがない。
 恨みの視線を向けたこともない。燈雅が片手で祓った怨霊たちのような黒い濁流の負の感情を纏ったことが、一度もなかった。
 そこにいるのは、ただ黙って寄り添う子供の影。
「……意味が、分からなかったんだよな」
 震える声が、闇に落ちる。
 両親は確かに愛してくれた。どれほど歪んでいても、少女にとっては「優しいお父さんとお母さん」だった。
 仏田寺に集った大人たちも、彼女を姫のように持ち上げ、笑いかけ、可愛がっていたにすぎない。
 そして、犬伏家の僧侶。彼もまた、殺したくて殺したわけではなかった。
 刃を振り下ろす前、確かにその男は少女と笑っていた。大きな掌で頭を撫で、ひょいと抱き上げ、あやすように笑っていた。
 それが、次の瞬間には鋭い刃へと変わった。
「どうして……って思うよな。遊んでくれた優しい人が……いきなり斬りかかってきたんだから……」
 恨みよりも、恐怖よりも、きっと最初に湧き上がったのは「どうして?」という戸惑いだっただろう。
 なぜ、こんなことをされるのか。
 なぜ、自分が。
 なぜ、生まれたときからそんな使命を背負わされなきゃならないのか。
 分からなかったから、彼女はずっと目で訴えて、教えてほしいと縋ってきたのだ。誰に? 自分を殺した――犬伏家の者に!
 頼道を見ていたのは、父親を思わせる風貌だからではない。寄居の前に現れていたのも、新参者が珍しくて近寄って来たのではない。ただ、あの僧侶と同じ血だったから。惹かれ合ってたから、だった。
 布団が涙で濡れる。呼吸はずっと浅いまま。寄居の胸は、引き裂かれるように痛み続ける。
「……ごめん。君に何をしてあげるべきか、俺には分からない」
 少女に向けて、そう告げる。
 彼女はやはり、何も言わなかった。
 ただ影のまま、寄居の涙を見守っているだけだった。

 夜明けを待たず、寄居は布団を抜け出した。
 一睡もできなかった。瞼を閉じれば、夢で見た鮮血と笑顔が重なり、息が詰まる。眠るという行為そのものが恐ろしかった。再び夢に引き戻されるのが嫌で、東の空が白み始めた頃、屋敷の廊下へ出た。
 仏田寺の裏手に連なる屋敷は広大だ。木造の柱が連なり、障子戸がずらりと並んでいる。その一枚一枚を開け放ち、夜の湿りを払う。朝の風を取り込むのは本来、下働きの者たちの役目である。けれど寄居は眠れぬ夜の余白を埋めるため、その役を奪うように引き受けていた。
 障子を開け放つたび、冷たい朝の風が流れ込む。まだ夜気を含んだ風が、汗ばんだ首筋を撫でる。
 無心に作業をすれば、何も考えずに済む。だから寄居は黙々と戸を開け続けた。
 一つ、また一つ。作業を積み重ねていれば胸のざわめきも少しは和らぐかもしれない、そんな祈りを込めながら。
 からりと障子を引いた音に、背後から声が重なった。
「朝から頑張っているね、寄居くん」
 振り返ると、藤春が立っていた。
 まだ空気は薄青の早朝。昨夜は頼道と並んでビールを酌み交わしていた彼は、何事も無かったようにケロリとしている。手には大ぶりのガラスコップ。冷水で喉を潤していた。
「ああ、アルコールを抜くためにもね。一晩経って酔いは抜けてるけど、念のためだよ」
 冗談めかしながら喉をさすり、笑う。その笑顔には、どこか少年のような軽さがあった。
「ウマは……さすがにまだ寝てますか」
「うん。あの子は学校に行く日ですら、いつもギリギリまで寝てるんだ。今は夢の中だろうね」
 その口調には呆れと愛情がないまぜになった温度がある。
 寄居は思わず、昨夜クレープを頬張りながら不器用に誤魔化していた緋馬の姿を思い出した。クールを気取ってるくせに、父親に甘えまくってやがるなアイツ、と心の中で呟いた。
「……寄居くん。昨日は緋馬と遊んでくれてありがとう」
 不意に藤春が、軽く頭を下げた。冗談でも気安さでもなく、真摯な礼の仕草だ。
 寄居は慌てて手を振る。
「いや、別に。ただ一緒にいただけですよ」
 けれど藤春は真っ直ぐに続けた。
「寄居くんが良ければ……緋馬の友達でいてほしい。あの子はシャイだから。これからも、よろしく頼みたい」
 家族を想う真剣な眼差し。寄居の脳裏に、昨夜の夢がよぎる。――両親に愛されながら呪物のように扱われ、生贄にされた少女。歪んだ愛情に彩られた光景。
 それと比べれば、目の前の藤春の願いはなんと真っ当で、あたたかいのだろう。寄居は笑みを浮かべて答えた。
「もう友達ですよ。祭り、あんだけ回ったんで」
「はは、そうか。そりゃあ良かった」
 心底安堵したな笑み。それに触れたとき、寄居の胸の奥にわだかまっていた夜の冷えが和らいでいくのを感じた。
 藤春は、素朴で親しみやすい男だった。どこか気を抜けるような柔らかさを纏いながら、よく見れば顔立ちは驚くほど整っている。燈雅に似ている、と寄居はふと思った。
「……もしかして藤春さんたちって、仏田家なんですか。燈雅さんの親戚だったり?」
 何気なく口をついて出た言葉。苗字を聞いたことはなかった。父も詳しく語らない。ただ「似ている」という直感が、寄居の舌を動かす。
 藤春は一拍置き、苦笑を浮かべた。けれど嫌がる様子はない。
「燈雅くんは、俺の甥なんだ。燈雅くんの父親が、俺の兄でね」
「あ……どーりで顔が似てる。そっか、そんなに近い人なら納得ですね」
 寄居はぽんと手を打った。血筋を知って、妙に腑に落ちる。
 だが藤春の表情はやわらかさの奥で、微かに影を曳いていた。
「でも俺は勘当されているから。燈雅くんとは……今は他人なんだよ」
 さらりと告げられた言葉は、妙に重い。
 複雑すぎる。途轍もなく複雑だ。寄居は思わず視線を彷徨わせる。これは踏み込むべきではない事情だ、と直感した。
 気まずさをほどくように、藤春が言葉を続けた。
「寄居くんは、頼道兄さんの後を……仏田寺を継ぎたい?」
 問いかけは進路相談のような響きでありながら、鋭く核心を突いている。
 寄居の胸がざわめく。昨夜の夢の余韻、家系図に孤立して記されていた名、纏わりつく血の影。その全てが「継ぐのか」「継がないのか」という言葉に絡みつく。
 藤春はただ柔らかな眼差しで見守っていた。咎めるでも押しつけるでもない。だが「仏田家に生まれた自分が歩んだ道」と重ねながらの問いであることは、寄居にも察せられた。
「……昨日。藤春さんは父さんと飲んでましたよね?」
 寄居は敢えて問いをかわし、逆に探るように切り出す。
「そのとき、俺のこと何か言ってませんでしたか。……四六時中いっしょにいた直後なんだから、酒の席でも話題になると思うんですけど」
 軽口めかしてみせたが、声には確かに期待が滲んでいた。
 藤春はふっと目を細め、苦笑した。
「勘がいい子だな」
 一瞬、答えをためらう。話すべきかどうか。
 けれど、深い息を吐いてから静かに口を開いた。
「自由でいてほしい、と言っていたよ」
 短い言葉。しかし確かな重み。
 寄居の胸がひくりと揺れる。その反応を見守りながら、藤春は続けた。
「それは心からの願いだろう。同時に葛藤もあった。『後を継ぐべきだ』と良識は訴えていた。でも本心では、やっぱり寄居くんの自由が一番だと……繰り返し言っていた」
 父の姿が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
 真っ直ぐで、融通が利かないほど誠実な人。酒の席でも飾れない人。だから……父はどこまでも父なんだ。
「でしょうねえ。予想通りで、今まで通りです。今の段階だとノーコメントです。まだ中学生で将来を決めるの、早すぎると思うんで。……昔はそうじゃなかったみたいだけど、今は今なんで。きっと母さんもそう言うと思う。……だから母さんは、あっけらかんとしてたんだろうし」
 言いながら、寄居は少し笑った。懐かしむように、どこか甘えるように。
「……でも、父さんのもとで修業していくの、悪くないって思ってるんですよ」
「それは、なぜ?」
 促され、寄居は短い沈黙ののち、ぽつりぽつりと口を開いた。
「昨日、色んな人に頼られる父さん、カッコイイって思ったから。憧れていて、そうなりたいと思ったから。とか」
 気恥ずかしげに息を吐き、続ける。
「あと……幽霊に対処できる力を、平和主義のまま持てるぐらいの力を、俺も身につけたいなと思ったから、とか。……使命とか、先祖からの命題とかは、さっぱり分かりませんけど。普通に『憧れ』で将来を決めるのは……悪くないと思いませんか」
 藤春はしばし黙って見つめている。
 口元に浮かんだ笑みは、羨望と安堵、そして言葉にできない切なさの入り混じったものだった。
「……そうだな。悪くない。むしろ、一番大事な理由だ」
 緩やかに笑みを浮かべ、肩を竦める。
「使命とか家の掟とか……おじさんも散々縛られてきた。けど、そんなものより頼道兄さんは強かった。……強い『自分だけの意思』を持っていたから。確固たる意志と、前を向く力を持っていたから、諦めず努力できた。結局、続いていくのはそういう気持ちなんだと思う」
 それは説教でも教えでもない。ただ、自らの過去から滲み出た本音を置くような、優しい響きだ。
 寄居の胸にじんわりと温かさが広がる。父とは違うけれど、やはりこの人も『父親によく似た兄弟』だと思えた。
「おじさんも……寄居くんには縛られてほしくない。けど、頼道兄さんと親しい俺としては……頼道兄さんを安心させてくれる息子さんであってほしい。心から思うよ」
「それは……俺もそうありたいと思ってます。住職になっても、ならなくても」
「うん、そうあってくれ」
 声には、心からの願いを包む温かさが宿っている。
 すると、静かな朝の空気を破るように遠くから声が響いた。「おじさーん?」という間延びした寝ぼけ声。緋馬だ。まだ夢の余韻をまとった声色が、廊下の奥からふわりと流れてくる。
 思わず寄居は吹き出した。緊張を張り詰めていた空気が、その声一つでほどけていく。
 藤春も同じだった。コップの水をぐっと飲み干し、口の端に小さな笑みを浮かべて、
「……進路、頑張って」
 短く、それでいて重みのあるエールを残し、藤春は廊下へ歩み去った。
 消えていく背中を目で追いながら、小さく息を吐く。気恥ずかしさを紛らわせるように頭を掻き、廊下の影に向かってぽつりと声を零した。
「幽霊に対処できる力を、平和主義のまま持てるぐらいの力を……俺も身につけたい。そう思い始めたのは、間違いなく君のせいだよ。瑠璃」
 それは、独り言のつもりだった。
 けれどこの屋敷では独り言は独り言で終わらない。寄居が呼べば、必ずそこに姿を現す影がある。
 振り返ると、やはり少女が立っていた。
 夜明けの光に溶け、微かに透ける輪郭。目を閉じれば消えてしまいそうな儚さ。けれど確かに、こちらを見ている。
「俺は、可哀想な君の魂をどうにかして救ってあげたいって……思い始めてる」
 寄居は姿勢を正し、吐き出すように言葉を続けた。
「仕方ないだろ。もう一ヶ月も一緒にいるんだ。情ぐらい移るさ。……もう、友達なんだから」
 少女は無言のまま。だが、その瞳が揺れた気がした。
「君の名前を知って、過去を視て、どうして地縛霊になっているかも分かった。けど……君の救い方が分からない。まだ俺が未熟だからか、どうしたらいいか何も思いつかないんだ」
 悔しさと無力感を抱えた声は、まるで告白のように廊下へ響く。
「……仕方ないだろ。もう一ヶ月も一緒にいるんだ。情も移るほどの、友達なんだからさ……」
 繰り返す言葉。
 視線を逸らさず、小さな影を真っすぐに見据える。
「見捨てられないよ。……助けたい」
 言葉が途切れた瞬間、風がすっと吹き抜ける。簾が揺れ、風鈴が小さく鳴った。
 朝の光に照らされた少女の姿は淡くほどけそうに揺らいだが、その瞳だけは一瞬、確かな光を帯びていた。


 /10

 あと3日で夏休みが終わる、そんな夕暮れ。
 寄居は父・頼道に呼ばれ、自室の畳に正座させられていた。障子越しに差す橙の光が、父の大きな背を縁取っている。
「この夏は、大変助けになった。寄居のおかげで乗り切れたことが多かったよ」
 僧侶らしい穏やかな声。丁寧で誇らしげな声が続いた後、ぐっと父親らしい調子を取り戻す。
「ところで。学校の宿題は終わってるんだろうな?」
「……ぼ、ぼちぼち……ね」
 曖昧に笑って誤魔化した。途端、頼道の眉がぴくりと動く。
「終わらせてるものだと思ったんだが?」
 低く落とした声に、畳の空気が重くなる。父は大声で笑った。
「ははは! まあいい。あと三日でなんとかしろよ。宿題を提出しないなんて、俺は許さないからなあ!」
 笑顔で放たれるその一言の方が、よほど怖い。寄居は苦笑しながら、背中に冷や汗を感じていた。
 この人なら本当に笑顔のままケツを叩いてくる。時代錯誤なお尻ペンペンを本気でやってのける。そういうところだけは、どうにも現代に追いつかない親父だ。
 頼道は笑みを収め、やや真顔になった。
「寄居の今後のことを聞きたい」
 声音は重い。けれど威圧ではなく、親の温かさが滲んでいる。
「俺の後を継ぐか、それとも継がないか。継ぐなら、そのための学校を用意してやる。……違う夢があるなら、そのためにお前自身で勉強を始めろ」
 寄居の喉が、どくりと鳴った。
 父の眼差しは真っ直ぐで、逸らせない。だがそこにあったのは押しつけではなく――「選ばせたい」という願いだった。
「あー……それだけどさ」
 畳に置いた両手をぎゅっと握りしめ、乾いた喉で言葉を絞り出す。
 寄居は、とにかく語った。
 藤春に話したことを。今まで思っていたことを。夏の間に抱いた憧れを。
 今の自分には寺を継げる覚悟が無い。まだ中学生だし、未来を決めるには早すぎる。でも、父の背中を見ていて、その凛々しい姿には憧れがある。素直に告げた。
「人に頼られて、幽霊にだって臆せず向き合える。そういう強さが格好良い。だから俺も……幽霊に対処できる力を、平和主義のままで持てるくらいの力を身につけたい。それが今の夢。……まだ、将来の具体的な目標は、決められないです」
 吐き出すように言い切って、寄居は息をついた。
 こんな風に正直に言葉をぶつけるのは、ほんの数か月前には考えられなかった。
 悩んだ結果の言葉はそうなった。ずっと頭に浮かんでいたのは、瑠璃の影と過ごした時間。どうしても見捨てられなかったあの心。「どうにかしてあげたい、この子を」。でも今はどうにもできない。なら……することと言えば。
「父さんの手伝いをする。つまり、現状維持をさせてください」

 頼道は息子をじっと見据えた。威圧でも試す眼でもない。ただ一言一句を受け止めようとする眼差し。
 やがて大きく息を吐き出す。
「……この夏で、そこまで考えるようになったんだな」
 声音には誇らしさと、ほっとした安堵が混じっていた。
「寄居が俺を高く買ってくれるのは、嬉しいよ」
 気恥ずかしさを滲ませながらも、穏やかに笑う。
「そりゃあ尊敬してるよ。父さんは立派な人だから」
 寄居もまた気恥ずかしげに、それでも真顔で告げた。軽口でも冗談でもない、素直な本心だった。
「いいや」
 頼道は重々しく首を横に振る。
「俺はそんな人間じゃない。誇れる男でもない。……寄居の期待も、母さんの信頼も、裏切り続けてきた。今だって……」
 そこで言葉を噛み、迷う。爛れた現状を、息子に晒していいものではない。だが父としての顔を崩すわけにはいかない。
「知らないよ、そんなの」
 そんな葛藤を、寄居はあっさりと遮った。
「裏切りがあるのかもしれないけど、俺は見てない。知らない。感じてない。だからそれでいいじゃん。父さんは『よくできてる』。ちゃんとやってるよ。それで俺を気分良く育ててくれてるんだ。……感謝するな、尊敬するななんて言われても、無理」
 打算も疑念もない、ただ子が父を見上げて抱いた実感。
 言葉は鋭く、けれど真っ直ぐに父の胸を打つ。
「もし父さんが『演技』で凄い人を演じてるんだとしたら……俺も母さんも騙せてるんだから、良いじゃん。で、本当に本物を見せたい相手にだけ、正直になればいい。……その相手は息子じゃなくてもいいと思う」
 母ならもっとサラリと言うだろう。そう思いながら寄居は、照れ隠しのように口角を上げた。
 頼道の胸に熱が広がった。
 罪深さを暴かれたのではない。むしろ赦されてしまった。だからこそ重みは増す。――この信頼だけは裏切ってはいけない、と。
 静かに目を閉じる。
 寄居の言葉が、頼道の胸の奥で幾度も反響する。「俺ならできるか」と遠い昔に呟いた独り言の結果が、いま生まれた。

 寄居は自室の荷物をまとめた。
 寺に住み込みで働いていた持ち物といえば、衣服と教科書・ノートぐらいだ。生活そのものが寺に溶けていた分、こうして「自分の物」だけを取り集めると、かえって心細さが募る。
(机に座るの、正直億劫だな)
 この夏は体を動かす日々だった。力仕事も雑務も、僧侶の手伝い。気づけば全部が習慣となり、今は学生らしく勉強机に戻ることの方が重荷に思えていた。だが宿題を仕上げるには、自分の部屋に戻るしかない。
 実家に戻る準備をし終えたとき、襖が音もなく開いた。
「寄居くん」
 涼やかな声。そこに立っていたのは燈雅だった。
 当主の姿はいつもと変わらない。美しい着物に、乱れ一つない所作、そして微笑を絶やさぬ端正な顔立ち。夏の蒸し暑さを寄せつけず、別世界に立つ人間のように涼やかな気配を纏っている。
「この夏、お疲れ様」
 燈雅は口元に笑みを浮かべ、寄居を眺めた。
「修行で根を上げて逃げ出すかと思ったけど……逆に居心地が良すぎたから追い出されるなんて。君は面白い子だね」
「はあ、すみません……」
 褒められているのか、からかわれているのか判然としない。とりあえず頭を下げるしかなかった。
「また来るのだろう?」
 問いというより、確信に近い響きが襲い掛かる。寄居は、素直に頷いた。
「まずは中学を卒業してからですかね……これから普通科の高校に進むために受験勉強してきます。それでも、年末年始はまたお世話になるつもりです。父さんと同じになるために」
「随分、遠回りの希望だね。もっと近道でお父さんの後を継ぐ方法もあるはずだろう?」
 囁く声は、冷たくも甘やかでもある。
 寄居は一瞬考え、はっきりと首を振った。
「そういう遠回りがいいんです。正月も、来年の盆も、仏田寺で修行は続けるつもりです。……でも、選択肢を狭めないでいたい。少し逃げみたいに思われるかもしれませんけど、それでも俺は戻ってくるつもりです」
 一つ一つの言葉に、迷いはなかった。
 まだ中学生という年齢には似つかわしくないほど、進路への意志をはっきりと刻んだ声音。だから燈雅は、じっと寄居を見つめた。眼差しに嘲りも憐れみもなく、ただ興味深そうな光だけが宿して。
「本当に、不思議な子」
 小さく笑う。
 まるで観察者が、珍しい花の成長を愉しんで眺めるかのように。涼やかな声には、どこか甘く絡みつく響きがあった。
「それと、寄居くんに聞いておきたいことがあった。……その子、祓おうか?」
 紫色の瞳が横を向き、さらりと告げる。
 微笑は崩れなかった。けれど細く白磁のような指がひらりと持ち上がった途端、空気の質が変わる。
 指先に宿る気配は、ただ鳴らせば影の存在など煙のように掻き消えるだろうと確信させるもの……。
「祓わないでください!」
 寄居は絶叫に近い声を上げた。胸の底から、灼けつくような熱を伴った叫びだった。
 燈雅の体が僅かに跳ね上がる。完璧に整った顔に、驚きという素の色が走った。
「その子、悪霊じゃないです。害は無い。……俺が、なんとかしたいんです。だから修行したい。助けたいんです。……友達なんです!」
 真っ赤に火照った顔で、真っ直ぐに射抜くような声。
 しん、と部屋が鎮まった。
 遠くで蝉が鳴いているのに、この一室だけは時間が止まったかのような沈黙。やがて燈雅の肩がふっと揺れ、涼やかな笑いが零れた。
「寄居くん、あまりに真剣だから……オレ、笑わずにいられないよ」
 目尻を細める微笑は柔らかい。白い指が顎に触れる。唇の端には、まだ笑みが残っていた。
「友達のために修行、か。そんな理由、初めて聞いた。……普通はね、家のため、血筋のため、権力のために学ぶものだよ。それを、友達を助けたいから? 面白いなあ」
「笑われてもいいです。俺にとっては、それで十分です」
 寄居は、目を逸らさなかった。
 長い睫毛の影が畳に落ちた。また沈黙が訪れる。静寂の中で、遠くの蝉の声さえ薄れていく。
「……羨ましいね。助けたいと思える友達がいるなんて。そのために自分の未来を選べるなんて。……オレは一度だって、そんな選択を許されたことがなかったからさ。いいね、寄居くん。本当に、いい」
「燈雅さんだって……選べますよ。花火だって、これから見に行けるって言いましたよね。友達とか好きな人だって、これから作ればいい。選ぶこと、誰にだってできるじゃないですか」
 寄居は息を呑んだ。
 燈雅の笑みが止まっていた。
 形は崩れない。だが、その眼差しだけが冷たく凍りついている。氷の下に閉じ込められた光のように、動かない。
 からかいも芝居もない。そこにあったのは、乾ききった痛みだけだった。
「寄居くん。残りの学生生活、大切にするといい。選べるうちに、好きなだけ迷って、好きなだけ後悔しなさい」
 燈雅はニコリと完璧な仮面を取り戻し、部屋を去っていく。
 その声は優しすぎて、足取りも素早すぎて、だからこそ寄居にはどれも冷たく思えた。
 ――オレに『選べ』なんて言葉を掛ける……随分、残酷だね。
 産まれた時から『当主』という器に押し込められてきた。愛する人を選ぶことも、望むことすら許されなかった。そんな燈雅には、寄居の言葉は耐え切れなかった。
 だから、逃げ出していた。燈雅自身も気がつかない、無意識のうちに。

 厨房のおばさんが手渡してくれたのは、いつものアイスキャンディーだった。
「まだ暑いから、食べながら行きなさいな」
 笑顔に送り出され、寄居は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。また冬に」
 背中には小さな荷物、手には白い氷菓。
 石段へ向かう足取りは軽いようでいて、どこか名残惜しい。山門をくぐれば、真夏の日差しが容赦なく照りつけ、蝉の声も風鈴も遠のき、ただ熱気だけが肌を焼いた。
 寄居はアイスをぱきりと折った。片方を口に咥え、痺れるような冷たさに舌を震わせる。もう片方を指に挟み、空へ差し出すように掲げた。
「食べる?」
 誰もいない石段に、敢えて問いかける。
「君、アイス好きだろ。……江戸時代にアイスなんて無かったよな?」
 わざと軽口を叩く。独り言のふりをしながら、けれどそれはもう独り言ではない。
 寄居は深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じる。再び開けたとき、指先の片方は消えていた。残るのは冷気の余韻だけだ。
 苦笑が洩れる。何度目だろう。彼女が受け取ってくれる、あの確かな気配は。
「……今の俺には、君を満足させたり、お母さんたちに会わせてあげたり、浄化してあげることもできない」
 荷物を背にずらしながら、麓へ向かう石段を下る。蝉の声が耳を塞ぐほど鳴き、昼前の熱がじわじわと背を焼いた。
「やれることなんて、こうしてアイスを渡すくらいだ」
 手の中には、もう溶けかけた棒だけが残っている。消えたもう片方を思いながら、寄居は呟く。
「いつか聖職者として、霊媒師として、もっと成長したら。必ずなんとかしてやる。それまで無害な幽霊でいてくれ」
 疲労と自嘲の混じる声。まだ十五の少年には、どうにもできない現実と、どうにかしたい気持ちだけがあった。
 ふと脳裏をよぎるのは燈雅の姿。指先一つで怨霊を吹き消す当主。その力と冷たさを思い出し、寄居は眉を顰める。
「特に、燈雅さんに食べられたりすんなよ。あと父さんにちょっかいかけて、勝手に成仏されるな。まあ……もし君が本当に成仏したいなら止めないけど」
 そのときだった。
 ふわりと頬に冷たい風。夏の風にしては不自然な冷ややかさ。ひやりと走った感触に寄居は足を止めた。
「うわっ」
 頬にじんわり残るのは、まるで子供の小さな掌でぺちんと打たれたような痛み。
「……ビンタ?」
 唖然と呟く。答えはない。けれど確かに『意思』はあった。
 ――「成仏したいなら止めない」
 その言葉に、少女は怒ったのだ。
 ――「させてくれるのは寄居だろ」
 そう叱咤するように。
 寄居は唇を噛み、夏空を仰ぐ。
「……ごめん。そうだよな。もう少し待っててくれ」
 謝罪の言葉は風に溶けた。だが不思議と背筋は涼しくなり、それが確かに届いたと感じられた。
「君は、みんなに愛されていた可愛い子だ。人を恨まず、優しいままでいた子。だからさ……」
 石段を下りながら、寄居は言葉を紡ぐ。
「成仏するとしたら、神様だって君の『いい子っぷり』を認めて、きっと良い場所にしてくれる。だからもう少し、そのままでいてね」
 山を抜ける風が頬を撫でた。今度は柔らかく、温もりを含んで、振り返らず空に向かって小さく笑った。
「……またね」
 再会を信じて放った言葉は、蝉時雨に溶けて消える。けれど確かに、応える気配があった。
 音も姿もなく、ただひと筋、胸の奥に涼しさが残る。
 夏の光はいよいよ眩しく、石段の先には日常が待っている。
 まだ見習の寄居は、小さな荷を背負い直し、未来へ歩みを進めた。




 END

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