■ さわれぬ神 憂う世界 「ある従者の小花追慕」 ・ 外伝2ページ目
【外伝:2】
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「誕生日なんてガラじゃねぇがよ。志朗にはくれてやってもいいと思ったんだ」
巨大な漆塗りの机の奥に、ふんぞり返るように座していた男――嵐山 照行は、裏社会の抗争をその拳一つでまとめあげる、嵐山組の絶対的な首領である。その男が照れ隠しのように口元を歪めて笑った。
仏田 志朗は、笑みを返した。22歳、嵐山組の若頭候補。今の地位の大半は「親の七光り」によるものだ。だが10年近く組の中で血を流し、命を張ってきた志朗は、同時に10年近く照行の子でもあった。
照行には本物の息子がいた。だがその子も妻も、狂刃に奪われて久しい。唯一残った肉親と呼べる甥も今では生死不明。血が尽きたこの男にとって、兄の孫である志朗は、口にこそ出さずとも目に入れても惜しくないほどの存在だった。
「照行さん。昨年は車、一昨年はマンション、その前は高級時計でした。もちろん組の為に尽くす覚悟はありますが……頂いてばかりで、まだ何一つお返しができてません。せめて今年は大学を卒業するまで待ってはくれませんか」
「んなこと言って俺が先にくたばっちまったらどうすんだ」
「くたばらなければいいんです。くたばられたら困りますよ、組長」
志朗の切実な声に、照行は豪快に笑って煙草に火を点ける。
「謙虚なのはいいがまだガキなんだ、甘えてろ。安心しろ、今年はマンションより高いもんは用意してねぇ」
「それは、安心しました」
「いずれ別荘地くらいは買ってやる。山一個ありゃ、遊び場になるだろ」
精悍な顔立ちの志朗の表情が、不格好に凍る。別荘ではなく、別荘地。スケールが違う。大叔父の常識外れな金銭感覚に、志朗は内心で苦笑を抑えながら言葉を探した。
「で、今年の贈り物だ。入れ」
照行が手を叩くと、背後が動いた。
現れたのは明らかに人間だった。しかし志朗にはそれが「人間らしき何か」にしか見えない。
長身、引き締まった筋肉、彫刻のような顔。その双眸には光が無い。命令を待つだけの、精密に作られた機械のような沈黙がある。
「……強化人間、ですか」
「そ。機関製。あの上門 狭山の作品らしい」
「……もしかして、機関産の中でも最上位では?」
「当たり前だろ。買うならいっちゃん良いヤツに決まってる。志朗も来年から学生じゃなくなるんだ、秘書なり運転手なりが必要だろ。どうせ雇うなら一流を揃えろって話よ。お前は『一般人』なんだからな、特に」
無慈悲に、無能力者と断じられる。
志朗は反論しない。事実だからだ。
嵐山組は、ただの極道ではない。魔術、異能、呪術といった裏世界の技術を駆使する闇の組織。そこに在籍する構成員の多くは、何らかの「力」を持っている。
だが志朗は違った。魔力はあるにはあるが、自ら感知も操作もできない。使い物にならないのだ。魔術師でも異能者でもない。にも関わらず、この世界の中心に立とうとしている。
「誕生日に人間ですか……」
「おうよ。人間つっても作られたもんだ。骨も筋肉も、魔術耐性も全て練り直されてる。任せりゃ一晩で三つの組を潰せるぞ」
志朗は、無表情の男をまじまじと見た。
まるで彫像だった。目は開いていても光は無く、息をしている筈なのに温度を感じない。強化人間を見た経験はあるが、『調整前の素体』を見るのは初めてだった。
「できるだけ『うちに馴染みそうな顔』を選んでもらった。顔もいじれたが、綺麗すぎても使いにくいだろ?」
「気遣い、感謝します。……名前は?」
「好きに決めろ。デフォルト名は『上門 霞(かみかど・かすみ)』。肉体年齢はお前と同じくらいにしてある。命令には絶対服従、無駄口は叩かない。嫌なら変更しても構わん」
「……性格まで変更可能なんですか?」
「いじれるぞ。心も顔も思いのままだ、お前の親父さんは大した男だよ。こんなの流通させちまうんだから」
志朗は組長に深く感謝をした。立派な贈り物をありがとうと……しかし、内心に広がる薄気味悪さは隠しきれない。
――調律の儀式は、その日のうちに行われた。
照行の専属魔術師が霞の前に立つ。椅子に座った志朗が見守る中、札を取り出し、素体の首元へ貼って呪文を唱え始めた。
「この札は魂の座標を書き換える。元の主を解除し、新たな主を定義する」
志朗は黙したまま、その光景を見つめていた。
札が素体に吸収される。青白い光が肌に滲む。素体の瞳が揺れる。まるで機械の再起動音のような呼吸を始めた。
「用権限の譲渡。旧権限:上門 狭山。新権限:仏田 志朗。感情応答:抑制。防衛優先度:最大……調整完了」
まるで家具の修理が済んだとでも言うように、儀式は呆気なく終わった。
素体――霞という男が、座る志朗の前にゆっくりと膝をつく。
そして、自発的に言葉を紡ぐ。
「仏田 志朗様。私は貴方に仕える者です。貴方の命を護り、命令を遂行し、貴方の為に存在します。私の命は貴方のもの。どうかお使いください」
録音された音声のようだった。感情の揺らぎは一切ない。ただそう設定されただけの、機械的な応答。
志朗はじっと彼を見下ろし……そして、ようやく口を開く。
「……今すぐ設定、変えられます?」
数日後の事務所に足を踏み入れた志朗は、整頓されたデスクを視線を送る。朝の書類は既に整理され、連絡事項は時系列順に、優先度付きで整然と並べられていた。
壁に掛けられた室温計は全てが最適値を保ち、換気も自動で調整されている。生活の質が、目に見えて向上している。それも、ある存在の影響だ。
「おはようございまーす、志朗兄さん。今朝はマジで天気いいっすねぇ。気圧もバッチリ安定してて、絶好調っす」
軽快で馴れ馴れしい声が、場の緊張感を打ち砕く。
まるで大学構内にいるバイト学生のような口ぶりだが、声の主は正真正銘の強化人間だった。
志朗は軽く頷き、今日のスケジュールを確認する。
「出発は9時半っす。道が空いてれば15分前には現場着できる筈だけど……昨日、組の前の通りで軽く事故あったみたいなんで、念のため9時には出発したほうが無難っすね」
やがて街へ出る。志朗の歩みに合わせて、警戒の視線がそっと流れてゆく。
嵐山組若頭候補の傍らに寄り添う男。霞は一糸乱れぬ足取りで志朗に付き従っていた。
「おーっと、一発目から殺気ですね〜。あいつ、目が据わってます。始末しときます?」
敵が飛び出した瞬間、霞の手が首を捻る音が走った。
「はい、処理完了っす。兄さん、スーツに血跳ねてないっすか? あ、替えはトランクに仕込んであるんで」
まるでゴミ掃除のように片付け、指先で汚れを拭うような手際の良さ。
何事も無かったように、霞は志朗の隣に戻ってくる。
「次のアポまで少し時間ありますね。飯でもどうっすか? カツ? 蕎麦? あ、でも最近兄さん、塩分多めじゃないですか?」
「……霞。まさかお前、塩分濃度の計測までできるのか?」
「えっ、いやー、そこまではさすがに。でも必要なら、今度機関に機能追加してもらいましょうか?」
「いらねえ」
「ですよね〜。搭載されたらもうラーメンとか行けなくなりますよ。栄養バランスばっか気にしちゃって味わえないっすもん」
――志朗が選んだのは、『比較的明るい性格』。それだけだった。
沈黙を貫く無表情な従者も悪くはない。だが、志朗にはどうしても『自然な会話』が必要だった。くだけた口調、軽口、親しげなやり取り。それが、彼にとっての救いだった。
理由は、誰にも言えない。
仏田 新座――志朗の一つ下の弟。自らが唯一、心を許せた存在。
山奥の寺で育った幼少期、彼は兄の姿を見かけると嬉しそうに駆け寄ってきた。食事や入浴も、眠る時間も長いこと共に過ごしていた。
仲の良い兄弟だったと思っている。いや、そう思いたいのだ。
実のところ、志朗は周囲に疎まれて育った子どもだった。血筋の不明瞭な異物。陰で囁かれる蔑みの声。大人たちの目は冷たく、触れてはいけないものを見るようだった。そんな世界の中で、ただ一人、笑顔で手を伸ばしてくれたのが新座だ。
きっと弟からすればただ「近しい年の兄」に対する幼い甘えに過ぎないだろう。それでも志朗にとっては光だった。
だから志朗は霞を選ぶとき、言葉にできない願いを一つだけ込めた。
――できる限り弟みたいな存在にしてほしい。自然で素朴、常識的な言動をしてくれるやつで。
照行にも新座にも、霞自身にも決して口に出せない設定。だがそれのおかげで霞の存在はとても扱いやすくなった。
朗らかで、気兼ねなく話しかけられる。軽口を叩ける。心が少しだけ和らぐ。誰にも言えないが、志朗は心からこの設定に感謝していた。
無論あくまで指定できるのは人格設定だけ。あとは霞という個人に任せるしかない。
霞は、よく働いた。自ら思考し、判断し、動く。遺伝子は精密に編集され、感情応答は慎重に抑制され、人型の対人戦術兵器として設計された存在は志朗のもとでよく動いた。
ひとたび任務となれば常人に不可能な戦術を遂行し、平時には誰の目にも馴染む日常的な振る舞いで溶け込む。
時計よりも、車よりも、マンションよりも……何よりも価値のある贈り物になっていた。
「霞が俺のところに来てくれて本当に良かったよ」
ある夜、一仕事を終えて車に乗り込んだあと。志朗は夜景を映す窓の向こうに目を向けながら、そう口にした。
運転席の霞が眉を上げ、軽く笑う。
「あらためて言われると照れくさいっすよ」
言葉は自然体だった。誇張も卑屈もなく、まるで普通の青年が口にする柔らかい反応。
霞は単身で乗り込める兵器でありながら、量販店で洗剤を買って来られるようなフランクさをも備えている。未熟な若造である志朗を支え、補完してくれる装置。そして理想的な部下の在り方に、志朗は改めて深く感謝した。
「今日の……あの毒針だって、お前がいなかったら俺は死んでいたかもしれない」
志朗がぽつりと言えば、霞は肩を竦めて苦笑する。
「あー、あれエグかったすよねえ」
それは、ほんの数時間前の出来事。組の会合を終えて某ビルを後にした際、駐車場で暗殺者の罠が仕掛けられていた。
微細な魔力の異常を察知した霞が即座に動いたからこそ、志朗は命を拾えたのだ。
「あんなの、どうやって気づいたんだ?」
「んー、魔力探知は基礎中の基礎なんで。大したことじゃないですよ。それと……志朗兄さんが傷つけられんの、俺は好きじゃないんです。だから気を張ってたんですよ」
さらりと冗談めかした口調。けれど霞の瞳は、どこか冷たく研ぎ澄まされている。
志朗の活動範囲に、死の気配が近づいている。それはつまり彼が、それだけ恐れられ始めてきたという証でもあった。
「志朗兄さん。今日みたいな九死に一生の夜くらいは、ご自宅まで直に送り届けていいですか?」
「……構わん。霞の気が済むまでやれ」
「ありがとうございます。ついでにマンション内も罠が仕掛けられてないか確認させてください。何も無ければすぐに帰りますんで」
「それはこちらからも、頼む」
都内某所、高層マンションの地下駐車場に車が滑り込む。
志朗が住まう邸宅は、嵐山組が買い上げたも同然の鉄壁の要塞だ。顔認証、指紋照合、霊的識別に至るまで、異様なほど厳重なセキュリティが施されている。だが完璧な檻など存在しない。敵は常に想定外の隙間を縫って入り込んでくるものだ。
ゆえに志朗はあらためて確認を命じた。霞の眼、そして直感を信頼し始めているからだ。
エレベーターが最上階へと静かに昇り、重々しい扉が音もなく開く。
まず出迎えたのは、沈黙だった。やわらかく沈んだ照明の下、広々としたリビングに佇む――白銀の髪に青い瞳。透き通る肌に特徴的な長耳を持つ青年・シキが、無言のまま志朗に歩み寄り、脱いだ上着を丁寧に受け取る。
その所作は滑らかで、何一つ無駄がない。整えられた従属者の姿に、志朗は口元だけ笑った。
「……ああ、シキ。こいつは俺の部下だ。気にしなくていい」
「お邪魔しまーす。ちなみに志朗兄さん、この御方は?」
「俺のペットだ。霞と似たようなもんだよ。学生の頃から飼ってる」
「えっ、こんな美形と一緒にされるなんて恐れ多いっすよ」
「……さっさと調査しろ」
冗談を流し、志朗はリビングへと足を進める。シキは志朗の動線を妨げぬよう、静かに距離を取りながら後を追った。
ソファに腰を沈めた志朗がネクタイを緩める間も、霞が迅速に動く。エントランス、リビング、バスルーム、寝室、ウォークインクローゼット。あらゆる死角に目を光らせる姿は、どこか犬のようでもあった。
命令に忠実な軍用犬。そんな比喩が脳裏をよぎる頃、シキが手にした酒のグラスを志朗に差し出す。
「異常、なしっす」
「……案外早かったな」
「それだけこのマンションのセキュリティがまともに仕事してるってことですよ。でもできれば、何か大きい買い物をしたときには俺を呼んでください。兄さんは殆ど来客を呼ばないでしょうけど、家具とか家電とか、デカ物には危険が潜みがちなんで」
霞がそう告げる間、シキはキッチンへと身を引いていた。志朗との会話に立ち入ることを避けるように、影のように。
その姿に気づいた霞は、人懐こい笑顔を浮かべて軽く頭を下げる。
「お兄さん、エルフですよね? なら魔力探知、普通の人間より得意ですよね? 志朗兄さんは魔力のマの字も使えない素人ですから、もし何かあったらフォローお願いします」
「うるせぇよ。魔法とか使える連中がおかしいだけで、俺の方が普通なんだよ」
「それはまあ確かに。でも……あれ? エルフを飼ってるってことは、俺そもそも来なくても良かったですか?」
「……シキは、ただのペットだ。愛玩用。感知とか戦闘とか、そういうのは無い。綺麗だから……手元に置いておきたい。それだけだ」
グラスを軽く傾けながら、志朗はぼそりと呟く。
ふーんと頷く霞は、何も深く追及しなかった。シキもまた、何も言葉を発さない。ただ静かに目を伏せている。
霞は用件を終えて玄関へと向かった。その背中に、志朗が声を掛ける。
「……霞。貸しを作っておく」
思わぬ言葉に霞が振り返った。目を瞬かせながら聞き返す。
「貸しだ。何か……俺にしてほしいことができたら、言え。可能な限りやってやる」
「いやいや……兄さん、俺にそんなの作ってどうすんすか。俺は志朗兄さんの従者ですよ。守るのが当然の立場でして」
志朗はソファーの背に身を預け、目を閉じる。
「俺がそう決めた。お前は優秀すぎて、ありがたいけど……時々、不気味だ。だから一つくらい貸しを作ってバランス取らせろ。気分の問題だ」
不可解な理屈。
霞はしばらく沈黙したが、堪えきれずふっと笑う。
「じゃあ、大事に取っときます。いざってときに兄さんを困らせる変なお願い、考えとくのも楽しそうですし」
「変なお願いは却下する」
「でも言いましたよね? 『可能な限りやってやる』って」
怠そうに目を閉じていた志朗も、僅かに笑った。
霞の言葉は軽い。だがその裏には、今日確かに命を救ったという現実がある。
――部下だから当然。その一言で、恩義を流したくはない。弟のように好ましい奴相手なら、尚更。
志朗のそうした性分を、霞はとうに理解していた。だから茶化すように笑って見せた。深く詮索せず、きっちり受け取って。
そして何事も無かったように、扉の向こうへと消えていった。
/2
山の天気は変わりやすい。だが霞にとって空模様は関係が無かった。
気温、湿度、気圧。あらゆる環境因子は内蔵センサーが即座に補正し、肉体は最適な戦闘モードへと自動で移行する。
車が山道を走る。やがて霧の向こうに姿を現すのは仏田寺の裏手、山肌を切り拓いて築かれた白亜の箱――無機質な直線で構成された巨大建築群。
そこは霞が生まれた場所だった。外界から完全に遮断された機密施設、超人類能力開発研究所機関。霞にとって、帰る場所というより、回収される場所だ。
霞は知っている。自分が、この施設で何十体もの失敗作を踏み台にして生まれた『最良の試作品』であることを。
自分は、機関の最高責任者・上門 狭山の自信作。だからこそ、完璧でなければならない。――志朗兄さんを守るために。
そのために、仕事の無い休日には機関でメンテナンスを行なわなければならない。
扉の先に広がっていたのは、手術室を思わせる白一色の空間だった。
待ち受けていたのは白衣を纏い、顔の大半をマスクで覆った技師たち。霞はメンテナンス椅子へと歩を進める。背もたれが倒れ、腕と脚が自動的に固定される。
金属のアームが動き出し、こめかみに微細な針が接続された。痛覚は、既に限界まで制御されていた。
「思考回路、異常なし。内臓出力、標準比+2.8%。負荷許容範囲内。関節・骨格・筋組織、全て正常。神経伝導速度、最適値を維持」
技師の声が淡々と響く。これは霞にとっての休息だった。同時に義務であり、主命を果たすための整備でもある。
施術が進む。背面のポートから特殊な液体が注入され、脊髄を経由して神経系へと浸透していく。魔術制御回路が最適化され、神経の流速と魔力循環が新たな基準に書き換えられていく。
その間、霞の意識は沈静化モードへと切り替わった。世界が遠のき、思考が停止する。メンテナンス終了まで、約4時間。
そして……午後5時すぎ。霞は静かに目を開けた。
筋繊維密度+1.7%。神経導通率+0.9%。魔力安定値+4.1%。数字で示される「万全」。
それは霞にとって、この世界に立つことを許される唯一の証明だった。
「目が覚めたか、霞」
声に、霞は瞬きで応じた。廊下の先、研磨された白い床を車椅子が音もなく滑ってくる。
乗っていたのは黒髪を端整に整え、白衣の胸元に複数の資格証をぶら下げた男――上門 悟司であった。
霞と同じ機関産の存在だ。だが彼は戦闘用ではない。霞が「最適な兵士」として設計されたのに対し、悟司は「最適な頭脳」として造られた。人工的に知性を設計され、魔術演算能力を備えた科学者であり、そして霞の二世代前の「兄」にあたる存在だった。
「数値に問題はない。魔力循環値は前回と同等。筋繊維に若干の緊張傾向があるが、実戦稼働に支障なし。総合精度、99.94%」
「なら、十分でしょ」
メンテナンス用ベッドから立ち上がった霞は、軽く肩を回した。
悟司の視線がふと、霞の右腕に向けられる。
「……そこの傷。引っ掻いたような痕が残っているな」
霞は確認することもせず、腕をひらひらと持ち上げた。そこには、浅い傷が赤く残っていた。
「あー、これ。昨夜の戦闘で鉄骨に当たっただけ。痛くもないし」
「除去するか?」
悟司の声には熱も抑揚もない。処理すべきタスクを列挙するように続ける。
「皮膚組織再生カプセルを使えば3時間で修復可能。傷痕は完全消去。現主人が外見を重視するタイプであれば、早急な対処が望ましい。見た目が整っている方が、組織的にも扱いやすい」
霞は、少しだけ考える素振りを見せた。
が、すぐにあっさりと答える。
「志朗兄さん、そういうの気にするタイプじゃないしな。『綺麗でいろ』なんて一度も言われたことないし。むしろ、少しくらい傷あった方がリアルでしょ?」
「……そのリアルという感覚は、どこから仕入れた?」
「コンビニの週刊漫画。わりと勉強になるっすよ」
微かに笑う霞。その表情の軽薄さに、悟司は眼鏡の奥からじっと見つめる。
それは笑いでも呆れでもない。機械では解けぬ、解析不能の一瞬の揺れだった。
「上門の名を与えられた個体が、コンビニ雑誌に感化されるとはな」
「いいじゃん。兄貴だって上門でしょ。俺ら兄弟みたいなもんなんだから、きっと楽しめると思うけど」
「遺伝子構成は別物だ」
「でもさ、兄弟ってそういうもんじゃないっすか。創られたって意味では同じでしょ。ま、俺は兄貴みたいに頭良くないけどね。兄貴は創る人間で、俺は使われる道具だし」
悟司は黙したまま、霞の顔と傷痕とを何度か往復する。
部屋の奥のモニターには、霞の体内情報が数字の羅列となって映し出されていた。
心拍、魔力流速、神経伝達。全て正常、全て完璧。
そして、悟司は車椅子をゆっくりと後退させる。
「次回の調整は1週間後。それまでに精度を90%以下にするな。……仏田 志朗という人間は代替がきかない。お前がヘマをすればそれで終わる。分かっているな」
「うぃーっす。了解」
手をひらひら振って応じた霞は、白い廊下へと歩き出す。
メンテナンスは完了した。数値は理想、動作も滑らか。あらゆる意味で問題なし。だが、施術後には「安定観察時間30分」という規則があった。異常反応がないことを確認するまでは、退出は許されない。
つまりこの白い箱の中で、霞は暇を過ごすことになる。
彼は歩く。ただ歩く。何の目的もないまま、白く塗り潰された無機質な施設の中を。
研究所の中枢は、静かだった。
すれ違う白衣たちは霞を見ない。外部任務から戻った強化個体のメンテナンスなど日常に過ぎず、関心の対象になどなりえないからだ。
霞はその沈黙を当然として受け入れていた。気まぐれに足を向けたのは、第十四魔術行使検証区画。何気なく生まれ故郷を散歩したいがための、何の理由もない選択だ。
眩い照明の下に広がる光景を見る。厚い強化ガラスの向こうに日常が繰り広げられている。
ヒトが、吊られていた。
肉体は部分的に解体され、四肢には何本もの魔術刺が突き立てられている。意識があるのかも判然としない顔が、泡を吐きながら断続的に震えていた。
その周囲では、数名の研究員が淡々と魔法陣の調整を行なっている。刻まれた術式は淡く光り、まるで血管のようにその身体へと食い込み、異様な魔力が内側から肉体を腐らせていく。
「おー、やってるやってる。血、すげー出てるな。あれ、動脈から魔力抜いてんのか。えぐー」
霞の呟きには、倫理の影など欠片もない。
悲鳴はノイズ。血は色彩。痛みはログの変数。ヒトという名の演算対象。霞にとってあれは、日常の現象だ。
「この形式、ちょっと前の魔力接触分離式だ。まだ使ってんの? 非推奨って通達出てなかったっけ。効率悪いのに」
彼は腕を組み、ガラスの向こうを眺める。まるで水槽の中を泳ぐ魚を見つめるように。
しばらく見つめていたが、また廊下へと戻った。その沈黙の中に、ふと言葉が零れる。
「志朗兄さんがあれ見たら、どんな顔するんだろ」
自分でも、なぜそんなことを思ったのか。
ただ、吊られていた個体に長耳が見えた。エルフ族の可能性。それだけで、志朗の顔が浮かんだからだと思われる。
午後5時37分。安定観察時間の終了が、タイマー付きの腕時計に表示される。
霞は踵を返し、通用口へ向かう廊下を歩いていた。
白い回廊。無音の空調。均一に整った湿度と温度。一点の汚れもない床は、感情も倫理も、音のように吸い込んで無へと還していく。
「……もう、あれはダメだな」
ぼそりと、誰にでもなく呟いた。
廊下の角から、ふたりの研究員が話しながら現れる。
「廃棄処分か」
「だな。でもまだ生きてるから、手続きめんどいんだよなー」
「制度上、生きたまま廃棄はNGだし……事故で死んだことにしないと」
「訓練中の事故扱いで殺せねぇかな。楽に済ませたいわ」
「どうやって? お前がやるの?」
「……いや、それもまた、めんどい」
霞はすれ違いざまに、その会話を拾った。
立ち止まり、軽く首を傾けて声を掛ける。
「お困りですか?」
白衣を着た若手と中堅。二人の研究員が、霞の存在に気づき、一瞬だけ口を噤んだ。
が、すぐに苦笑を交わす。
「あー……霞さん、ちょうどいいところに」
「調整明けですよね、ちょっと模擬戦でもどうですか? 戦闘ログも取れるし、ついでに事故扱いとかにして片付けてくれると……ね?」
言外に求められていることは、一つ。
――実験体を殺してほしい。
霞は肩をすくめ、目を細めて応じた。
「地下三の実験ブロックに、まだ動いてる個体が一体。No.0272の拘束ゆるめとくから、適当に“やられた風”で入ってくれると助かるんですが……。ログは後で編集しておくから!」
「いいっすよ。でも、事故の書類は全部そっちにお任せでいいですか? 俺、報告書まとめてる暇なくて」
「やるやる! 本当助かる! 」
二人はほっとしたように笑い、冗談混じりに手を合わせて拝んでみせた。
「あと、何か奢ってくださいよ。人殺すのって結構カロリー使うんで」
「じゃあ、よろしくお願いします。ホント一撃でいいんで」
「了解でーす。一撃で」
霞は軽やかな足取りで、再び廊下を曲がってゆく。
その様子は、まるでコンビニに昼飯を買いに行くよう。
重い音を立てて、地下のエレベーターが開く。四方をガラスで囲まれた、無機質な実験ブロックの中央。そこに、処分対象――実験体No.0272がいた。
……見た目は、20歳前後の青年だった。
明るい金髪が肩にかかるほど伸び、無造作に揺れている。
肌は日本人にしてはやや濃く、身体の作りは妙に整っていて、『普通の若者』の気配をまだ微かに残していた。
だが、その『普通』はとっくに終わっていた。白い実験着は皺だらけ。裸足の足元は薄く黒ずみ、両腕には点々と魔術処置の痕が残されている。
そんな青年が床に座っていた。何も無い空間を見上げ、笑いながら。
口元だけが、柔らかく弧を描いている。それは夢でも見ているような、ふわふわと気持ち良さそうな微笑。
瞼は半分閉じており、おそらく鎮痛剤か精神安定薬、もしくは魔術的な投薬によって、意識は朧になっているのだろう。
霞の姿を見ているようで、見ていない。
霞はセンサーを切り替えた。魔力を感知する。
――ゼロ。測定不能。まったく、無い。
志朗のように持っていないのではない。持っていた筈の魔力が、完全に抜け落ちている。
空の器……かつて莫大な魔力を宿していた存在が、ただの抜け殻と化したときの典型的な数値だ。毎日毎日吸われ続けていたのだろう。限界まで搾り取られ、何も残らなくなった。だからもう、用済みになっていた。
「お前、仕事を果たしたんだな。ご苦労さま」
霞の声は、抑揚のないまま落ちる。
それを聞いた青年が、焦点の合わぬ眼差しのまま笑みを浮かべ……首を傾げる。
「……おれ、おしまい? なんか、そんな気がする……」
「ああ。そうだよ」
「そうだよねぇ……でもね、この薬、すごく気持ちいいんだ。だから、いいよ。もう、いいよ……」
ぼんやりとした声。ふわりとした笑顔。
霞は一歩、青年のもとへ足を踏み出す。それでも青年は表情を変えず、むしろにっこりと笑った。まるで「やっと迎えが来た」と言わんばかりの、安堵の表情。ただ終わりを待つ者の顔だ。
「寝てろ。そのまま、目ぇつぶってろ。すぐ終わらせるから」
「……はーい……」
素直な青年が、穏やかに目を閉じる。
ふわふわとした表情のまま、「……おやすみなさい……」と小さく口にして、何かをするより前に自分から体をゆっくりと横たえた。
その寝顔は――どこまでも、幸せそう。
霞が右手を持ち上げる。掌に浮かび上がるのは魔術の刃。迷いはなかった。一秒の遅れもなく、その刃を放った。
体には、斑点のように刺痕が刻まれている青年。腕には注射の痕が無数に残り、肌の色には鈍く沈んだ諦念の影が滲んでいる。
一見痛々しい身体にしか見えない。それでも、その顔は――あまりに幸福。
綺麗な顔だ。霞は、思った。
まるで、幸福の頂点に触れた直後のような――安らかで夢の中のような死に顔。
ああ、きっとこれは珍しい。今まで霞も何人かヒトを葬ってきたが、「幸せそうに死んだ顔」なんて見るのは初めてだった。
それは霞にとっても記録として残しておきたいほどの衝撃だった。
背後でドアが開く。先ほどの研究員二人が、モニター越しの確認を終えて霞の様子を見に来ていた。
「お疲れさまですー。やってくれました?」
「スキルウェポンの衝撃波は外からも観測できたんすけど……それ、死んでます? No.0272、魔力ゼロだと生体反応センサーにも反応薄くて、判断しづらいんすよ」
霞は振り返らない。
青年を見下ろしたまま、片手だけをひらりと上げた。
「いやー、殺ってないです。てか、センサーにすら出ないなら、殺して記録を残さなくても良くない? 必要ないでしょ」
二人の研究員は顔を見合わせ、気まずそうに笑う。
「まあ、そうなんだけど」
「記録する必要が無いなら、いらないってことで……俺が貰います」
霞の口調は軽く、笑いすら混じっていた。
だが、研究員の一人が眉を寄せる。
「魔力ゼロ、脳も薬漬け、実験データは枯渇済み。そんな使い道のない抜け殻、何に使うんですか?」
「使わない。飼うだけ。用済みなんだし、持っていっても問題ないでしょう? ……何か言われたら、『仏田 志朗に従ってる上門 霞が必要だって言ったから』……これで通してください。今の俺の立場ならいける筈です」
数秒の沈黙ののち、研究員たちはあっさりと肩を落とした。
「マジか。でもまあ、戦闘訓練のログを捏造するより楽だしな」
「こっちで仮保管扱いの申請書、出しときますよ」
「助かります」
霞は再び視線を青年に戻した。
その身体は、まだ静かに床に横たわったまま。未だ幸せそうに目を閉じている。
「じゃあ、決まりな。俺が殺さなかったってことは、今からお前、俺のもんだよ」
その言葉に応えるように、青年がゆるりと瞼を開いた。
焦点の合わない眼差しが霞をとらえ、微かに、本当に微かに、口元がまた綻ぶ。
霞は膝を折り、青年の体を抱き上げた。抵抗は無かった。それでも抱く腕の中、青年の指先が微かに動く。
服の裾を、小さく、確かに握ろうとしていた。
/3
志朗が暮らす高層マンションからほど近い、都内の築年数を感じさせる小さな集合住宅。
その一室、六畳一間に最低限の家具が並ぶだけの空間。殺風景だが整理整頓は行き届いていたそこが、強化人間・上門 霞の拠点だった。
部屋の奥にある薄いベッドに、青年をゆっくりと下ろす。身体は軽い。魔力の枯渇は、まるで体重すら削いでいくかのようだった。
「……変なのー……」
ベッドに寝かされた青年が、小さく笑う。瞼の裏にまだ夢の残滓を漂わせるような、ふわふわした声色で。
「……おれ、拾っちゃうなんて、変なのー……」
霞は背中でその言葉を聞きながら、黙って上着を脱いだ。
肩を竦めるようにして、言葉を返す。
「そうだな、変だな。でも志朗兄さんだってペット飼ってるし。……白くて、ふわふわした髪のヒトだった。あの人がやってるなら、俺がやるのも自然だろ」
独り言のようでもあり、自分自身への納得の作業のようでもあった。
「志朗兄さんは俺に、こう命令してるんだ。『できる限り自然で、素朴で、常識的な言動をしろ』って……はあ」
苦笑にも似た溜息が、喉の奥で漏れた。
――霞は、志朗の弟・仏田 新座に会ったことがある。
社交性を忌避する志朗が、唯一遠慮なく迎え入れる存在。ぶっきらぼうな口をききながらも、霞の目には明白だった。
志朗は、新座の提案に対してだけは逆らわない。可愛い弟の望みには弱く、どんな言葉にも従ってしまう。
何度も顔を出すその弟――「仏田家三兄弟の末っ子として甘やかされて育った、理想主義の塊」。霞の目には、非常に厄介な存在として映っていた。
「自然で素朴、耳障りのいい言葉だよな。……でも実際のところ、あいつはただの甘ちゃんだった。取り繕わない正論と理想を、躊躇いなくぶつけてくる、調和も遠慮も知らないガキ。……ぶっちゃけ、俺は新座のことが嫌いだよ。志朗兄さんが困った顔して、それでも愛おしそうになんでもしてやるの、見てらんねーから」
けれど、霞は知っていた。
志朗の命令に従うということは、結果的に『新座の模倣』をすることに近い。
「……なのに結局、そいつが『俺の人格モデル』なんだよ。笑えるだろ」
霞の中に組み込まれた自然の定義は、新座の輪郭に引っ張られている。
周囲の意見に流されず、正義と理想を信じ、口にする人間。現実的な打算よりも、目の前の哀れさに手を差し伸べてしまう人間。
――もし仏田 新座がここにいて、あの実験室で倒れていた青年を見たらどうするか?
それは、霞が考えるまでもない。
――拾い上げてしまうに決まっている。「可哀想だから」「誰かが助けなきゃ」「そういうの、見過ごせないから」
そんな甘い理想を、躊躇いもなく振りかざすに違いない。
青年を見た瞬間、霞はシミュレートしてしまった。現在霞に組み込まれている『新座の思考チャート』は、どのルートを辿っても、最終的に「助ける」という選択肢しか導けないと。
捨てられた犬を見たとき、拾ってしまう。現実的に飼えるかどうかなんて考える前に、手を伸ばしてしまう。そういう思考パターン、それが霞には埋め込まれていた。
だから、見捨てられなかった。たとえそれがただの、抜け殻であっても。
霞はナイフを取り出した。そして、左手の親指をナイフでなぞるように切る。
皮膚が裂ける音は無く、ただじんわりと、温かな赤がにじみ出る。血は重く、静かに滴った。それをじっと見つめ、ベッドの傍らにしゃがみこんだ。
「飲め。魔力供給できるだろ。吸血が、一番手っ取り早い」
枕元の青年は、夢と現の間に浮かんだまま。身体も上手くく動かないのだろう。魔力回路、生命維持と行動を支える根幹が、完全に機能不全を起こしている。
なかなか動かない青年に痺れを切らした霞は、面倒そうに溜息を吐きながら、青年の口元に指を押しつけた。
意識は朧なまま。それでも青年は、誘導されたかのように舌を伸ばし、傷口に触れる。
獣的でもなければ官能的でもない。ただ生きるために吸う、それだけの行為。
霞は、その動作を見下ろしていた。
傷口に吸いつく熱と柔らかさ。うっすら動く眉、血に反応する肉体。
それらが、霞の中に微細な振動のようなものを生み落としていく。
「悪くないな。誰もいらないって言ったお前が、俺にだけ従ってる。……ちょっと優越感。志朗兄さんもこの感覚、好きなのかな?」
霞はふと満足を覚えた。青年は舌を動かし、霞の指先を追うように舐める。しばらくして、手を引いた。
「これで今日のメンテは終了。あとは寝とけ、犬」
その言葉に、目を閉じたままの青年がふふっと喉を鳴らすように笑う。
「……わん」
霞も笑った。無表情のまま、声帯だけで作った乾いた笑いだったが、どこか本物だった。
3日目。魔力切れで閉じかけていた命の中でも血を与え続けて、ようやく3日。ベッドの上の青年が、ぼんやりとした瞳のまま……ようやく自らの名前らしきものを名乗る。
「……たまよど」
声は未だ夢の中の返事のよう。何度も問いかけた霞に、ついに浮かび上がってきた音がそれだった。
「玉淀、ねえ。和風だな」
「……名前なんて、無いと思ってたんだけどなー。でも、今、なんか……そういうふうに思い出したから……」
「そういうふうって、どんなふうだよ」
問い返しながらも、霞は再び指を差し出した。
玉淀はまるで温かなスープを迎えるように、その指先を柔らかく咥える。
舌は緩慢に動き、唇は無防備なほど柔らかい。あまりに無警戒で、どこまでも情けない。霞は小さく息を吐き、問いかける。
「なあ、玉淀。もう三日も生きながらえてるけど、あと何日ぐらい生きると思う?」
玉淀は微笑む。見た目は青年だが、笑みにはあどけない幼さが混じっていた。
「うー……わかんなーい……でも、そんなにもたないと思うよー」
「根拠は?」
「だって、そうじゃなかったら……白衣の人たち、おれの扱い困んなかったでしょー? 頭のいい人たちが『捨てよっか』って言うぐらいだよー……」
「言えてるな」
霞も笑った。
二人の間に、不思議な静けさが落ちた。死を語りながら、空気はどこまでも穏やかだ。
「だから……多分もって、ほんのちょっとなんじゃないー? それとも、こうやって血、もっともらえたら……生きるのかなぁ」
吸血を終え、指を離した霞はベッドの下に腰を下ろし、胡坐をかく。
タオルで指先を拭いながら、軽く肩を竦めて応えた。
「あー、それはすまん。24時間ずっとお前を食わせてやるほど暇じゃない。俺、これでも多忙だからさ。志朗兄さんの護衛が本業だし」
そっかぁ……と玉淀はのんびりと呟き、また目を閉じた。
霞は無言でタオルを折りたたみ、傷口を押さえる。そのまましばらく、青年の寝顔を見つめていた。
――多分、もって数日。
これは「ペットショップで犬を買った」のではなく、どちらかと言えば、「花屋で生花を一輪だけ買った」ようなもの。
最初から「長く持たない」と知って買う。水をやっても陽に当てても、いつかは枯れる命。
それでも「自分で選んだ一輪が、この部屋に咲いている」ということが、霞にとっては奇妙に、心地良い。
自分の血の匂いをうっすらと感じながらも、霞はぽつりと呟いた。
「……水、飲むか? 花瓶に水を入れるのは、当たり前だもんな」
霞がマンションに戻るのは、たいてい深夜だ。
仏田 志朗の側につく任務は、想像以上に密度が高い。白昼の護衛、会合先での排除、記録の整理、明日の予定の確認。その日も例外ではなく、霞は午後11時をまわった時刻に帰宅した。
狭く殺風景な六畳一間の部屋。清潔には保たれていたそこに、灯りをつけずに入ると、布団の下で身を丸めた青年が、蠢いた。
「……おかえりー……」
掠れた声が、闇の中から漏れる。
布団から覗いた顔は、寝ぼけているのか目が半分閉じたままだ。
金髪が乱れ、片足だけがだらりと布団から投げ出されている。白衣のようなシャツは肩までずり落ち、まるで幼い子どもが眠るような無防備さがあった。
霞はため息をつきながら、淡々と応じる。
「俺、疲れてるから今日はベッドで寝たいんだけど」
「うー……そっかー……でも……ぬくい……」
退く気が無い返答に、霞は笑いながら上着を脱ぎ、キッチンの電気だけを点ける。
流しには空になったレトルトのミートソースの袋が、くしゃくしゃに潰されて捨てられていた。昨日置いておいた保存食だ。ちゃんと食べたらしい。
「ちゃんと食ってんのな。偉い偉い」
ふとした言葉に、再び布団の中から声が返る。
「……うん……なんか……甘くてしょっぱくて……あったかかったー……」
霞は笑う。魔力の枯渇によって常に眠気と倦怠感に包まれている。霞の血を少しずつ分け与えられることで、ようやく生を保っているとはいえ、普通の食事もできるようになったのだ。
「けど、お前さ。パスタソースだけで生きる気か? さすがにもっと食った方がいいぞ」
「……むりー……おれ……動くの、けっこーがんばってるよ……」
「そっか」
リビングの照明を点けるでもなく、霞は深夜のベッド横に腰を下ろした。
膝の上にワープロを開いて、仕事のログを整える。その背後では、玉淀がごそりと布団をくしゃくしゃにして、少しだけ霞の元へ顔を寄せた。
「……ね」
「ん?」
「……今日も、おれ……ここで、いていい……?」
「ああ。ベッドで寝たいなら使え。疲れてる状態ならきっと床でも俺なら即就寝だから」
ただそれだけの会話が、その日の夜の全てだった。
犬や猫というより、やはり例えるなら生花。枯れることを前提に飾られているのだから、まだ咲いているうちは綺麗な場所に置いてやらねばならない。
そんなことを考えながら、霞は今日も命の呼吸を背に受け、何も言わずにキーボードを叩き続けた。
数日が過ぎても、日々の喧騒は変わらない。
霞は依然として日中は志朗の護衛と身辺整理に奔走し、夜になるとようやくこのマンションへと来たくする。
六畳の部屋には相変わらず、布団の上で微睡む玉淀がいる。靴音を忍ばせて玄関を閉める深夜。室内に灯りはなく、かすかな寝息だけが聞こえる帰還が、日常になりつつあった。
「ただいま」
布団の中のぬるくて柔らかい影が、ふにゃりと顔を上げる。
「……カスミちゃん、おかえりー……」
「だから『ちゃん』付けはやめろって言ってんだろ。喉、渇いてるか?」
「うー……でも、だいじょぶー……おれ、我慢できるしー……」
「遠慮いらんって言ってるだろ。どうせ吸わさないと寝つき悪くなるし」
「……うんー」
玉淀は緩やかに微笑んだ。まどろむ目元は半ば閉じられているが、霞がベッド脇に腰を下ろすと、反射のように顔を向ける。
霞は無言でシャツの袖をたくし上げ、手首に爪を立てて、浅く小さな傷を刻んだ。
滲む血に、玉淀がそっと口を寄せる。吸血の音は、いつも静かだ。獣のように貪ることは決してない。ただ夢の中で口づけるように、ゆっくりと、赤を啜る。
「……ん……あったかーい……すごく、やさしい味ー……」
「お前な、俺の血の味に感想つけんなよ。キモい」
「カスミちゃんの血、たぶん、おれがいちばん好きだなー……ふふ……」
「だから『ちゃん』付けんなつってんだろ」
「なんでー……?」
「……新座がカスミちゃんカスミちゃんって呼ぶから」
玉淀は霞の腕に頬を寄せる。
血のぬくもりが残る唇で、何かを言いかけて、そっと言葉を飲んだ。
「なんだよ。何か言いたいことあるのか」
「……ね、カスミちゃん。新座さんってひと……おれ、会える?」
「会えない。会わせない」
「そっかー……カスミちゃんのモデルになった人、どんな人か見てみたいなー……って思っただけ。どんだけ、カスミちゃんに似てるのかなーって……」
「似てねえ。全然な。顔も声も体格も、生まれも能力も、まるっきり別物。あくまで志朗兄さんが『最も望ましい形』って指定した雛型ってだけだ。思考を模してるだけで俺は俺。そもそも俺は玉淀のこと『たまちゃん!』とか呼ぶ奴じゃねえだろ、新座なら言うかもだけど」
「えへへ……カスミちゃん、すごい早口。いっぱいしゃべってる……」
霞の腕を枕にしたまま、玉淀がほわりと笑う。
「おれ、カスミちゃんとおしゃべりするの、好きー……それでね。カスミちゃんがいちばんいっぱい話すの、新座さんのことだから……おれ、好きー」
「はー。もう吸血終わりな」
霞は自分の腕を引き抜いた。玉淀が、小さく「うぅー……」と名残惜しげに声を漏らす。
その顔を見て、つい頬を緩めてしまった。
その週、霞は一度も家に戻っていなかった。連日、志朗の命令による対外折衝や粛清案件が立て込んだ。気がつけば4日が過ぎていた。
任務の切れ間にふと時間が空いた。志朗は会合の後の「久々に自宅に戻りたい」と言い出した。霞には「自由にしろ」とだけ命が下され、その足でマンションへ向かっていた。
(別に、確認しに行くわけじゃない)
言い訳がましく思いながらも、自室のカードキーを翳して扉を開ける。
相変わらず生活感の欠片もない静けさ。だが「玉淀」と呼びかけた瞬間、布団の山がもぞもぞと動いた。
心臓が、ほんの少しだけ解けた。
「……うー……カスミちゃん……おかえりー……」
布団の隙間から、眠気にくしゃくしゃになった顔が覗く。
「まだ、生きてたか」
反射のように零れた言葉は、否定できない本音だった。
「……おれ、カスミちゃんの血飲めば、けっこう、平気……」
「ああ、そっか。お前も機関にいた何かだったんだし、普通の人間じゃねえか」
魔力や生命力、精神エネルギーを糧とする種族は少なくない。夢魔、魔導系の亜種、植物由来の妖精など、食事の定義が曖昧な存在もいる。
もし玉淀が普通の人間でただの成人男性だったら、部屋に残されたレトルト食やペットボトルの空容器の量が明らかに少なすぎる。
つまり玉淀は、そういう異質な存在として機関に保護され、いや、利用されていたのだ。
「なあ……玉淀。お前、どうして機関にいたんだ?」
返答はすぐには返ってこなかった。
ふわりと瞬きをして、質問の意味を探るような沈黙ののち、にこりと微笑む。
「……わかんなーい。覚えてなーい」
「わかんねえのかよ」
「うん。薬のせいかな……? ずっと、ぐるぐるしてた。頭の中、泡だらけみたいで……でも、魔力はいっぱいあったみたいだよ。白衣の人がそう言ってた。おれ、頭悪くても、使い勝手は良かったっぽいー……」
「他人事だな」
霞が呆れたように言うと、玉淀は「えへへ……」と、まるで褒め言葉でも貰ったかのように笑った。
「だってさー……自分のことって、よく分かんないじゃん? 誰かが見て、名前つけて、値段決めて、置き場所も決めて……なんか、そんな感じだった気がするー」
その言葉に、霞は返す言葉を見つけられなかった。
「カスミちゃんはー……?」
不意に呼ばれて、霞は眉をしかめ、玉淀を見る。
「……あん?」
「カスミちゃんは、なんで機関ってとこに、いたのー……?」
一度、小さく息を吐いた。
過去のことだ。振り返るほどの価値も、感情も、もはや霞の中には残っていない。
だが玉淀が知りたいのなら、と喉奥で渋く言葉を押し出した。
「俺はな、あそこで造られたんだよ。人間じゃない。製品さ」
「製品〜……?」
「そう。機関の所長、上門 狭山という人が設計してな。『最低限この数値を出さなきゃ廃棄』って基準があって。一定の点数を超えなきゃ、出荷されない。出来損ないなら、もうこの世にいねぇよ」
玉淀はへえ〜と、まるで御伽噺を聞くように目を細める。
「えー。カスミちゃんって……実はすごい人だったー?」
「実はな」
「実はってことは……普段は全然すごくないってことだね〜」
「うるせえ」
「でも……だから、なのかなー……」
玉淀がのそのそと布団から出てくる。
ベッドの端に腰掛ける霞の隣へ滑り込み、胸元に額を押し当てた。
「凄い人で、優しい人で、……おいしい人だから、救ってくれたんだー……」
胸に顔を埋められた霞の眉が、ぴくりと動いた。
「おいしいは、余計だろ」
「えへへ〜……だって、ほんとに美味しいよ? カスミちゃんの血ー」
「そんな感想、聞きたくなかった」
けれど、その言葉の端には、微かに笑みが滲んでいた。
「ふふー……ねえ、カスミちゃん、飲んでいい? ちょうだいー……」
鼻先を胸に擦りつける玉淀の声は、夢の中の囁きのように頼りなく、
その声に応じる霞のぶっきらぼうな返事もまた、音にならない安堵のように、静かな部屋の空気にぽたりぽたりと溶けていった。
その日は、珍しく何の予定もなかった。
志朗のスケジュールにぽっかりと空白ができ、研究所のメンテナンスも先延ばし。霞にとってはめったにない、完全なる「自由」が与えられた日だった。
朝とはいえ、陽はすでに高く昇っている時刻。霞はタンクトップにスウェットパンツという、明らかに外出の気配を欠いた姿で、ベッド下に腰掛け背を預けていた。
片手にリモコンを持ち、気のない様子でテレビのチャンネルを切り替えている。
その隣では、布団を引きずったまま床に転がった玉淀が、霞を見上げて尋ねる。
「カスミちゃん、今日は……一日いるのー……?」
「いる。休みだからな」
「へー……。えへへへー……」
霞は一瞬、訝しむように眉を寄せた。
「なんだよ、気持ち悪い」
「なんか、嬉しいなってー……カスミちゃんがずっとここにいるの、初めてだからぁ……」
皮肉のつもりで、霞は吐き捨てる。
「腹減ったら、いつでも飯が目の前にあるからか?」
「もー……そういうこと言うんだぁ……」
玉淀は笑った。ふにゃりと、まるでその皮肉すら撫でられて心地良かったかのように。
その表情を見て、霞は肩の力を抜く。
「ほんと、お前、ぬいぐるみかってくらい手間いらずだな。なんかもう、逆に手持ち無沙汰になる」
「うーん……じゃあ、撫でてー」
「撫でねえよ」
「えへ……ちょっと期待したのにー……」
テレビでは、昼のワイドショーが芸能人の不倫を延々と追っていた。
どうでもいい情報の垂れ流し。霞は音量を少しだけ下げる。
気づけば、布団を引きずった玉淀がずるずると近寄り、霞の横で丸くなっていた。
「……ねぇ、カスミちゃん……」
「ん?」
「休みってさ、どうやって過ごすのが正解なのー……?」
「知るか。俺もこんなに時間が空くのは初めてだ」
「……そっかぁ……」
「でもまあ、こうやってゴロゴロして、無駄に時間潰すのも悪くねぇな」
「……うー。おれも……悪くないと思うー……」
玉淀は目を閉じたまま、ふっと笑う。
「カスミちゃんと一緒なら……なんか、なんでもいいかも……」
応えなかった。けれど、そっと体勢をずらし、玉淀の背が冷えないように布団の端を引き寄せてやる。
命の危機も、研究所の数値も、世界の均衡も、ここにはない。あるのは、まばらな会話と、誰にも脅かされないぬくもり。
眠くもない目を、天井へと向ける。ほんの少し、この空白が続いてもいいかもしれない。ふと、そう思った。
――夜。霞は自堕落に時を過ごし、日付が変わる頃には、ひどく静かな幸福感に包まれていた。「何もしない」という贅沢を味わうのは、何年ぶりだろうか。
玉淀は布団にくるまったまま、霞の体にそっと凭れかかる。
「カスミちゃん……あのね、そろそろ……ちょっと、もらってもいいかなって……」
声音には、ほんの少しだけ照れが混じっていた。
だが霞にとっては、もはや何の意外性もない。日課の一部でしかないのだから。
「ああ。いいぞ。ここでいいか?」
「うんー……ありがとう、カスミちゃん……」
霞の隣に玉淀が座り、ゆっくりと顔を近づける。
霞はタンクトップの首元を指で引き、柔らかく露出した肌に、玉淀の唇がそっと触れた。
そして歯が皮膚を破る。ぬるりとした熱が滲む。痛みよりも、くすぐったさのほうが近かった。
玉淀は夢を味わうように、血を吸っていた。
瞼を閉じ、陶酔したような表情で。ゆっくりと深く、満ちていくように。
「お前も、だいぶ飲み方が板についてきたな」
その様子を見つめながら、霞はふと思う。
夢魔か、魔導種族か、それとも単純に吸血鬼なのか。あれこれ詮索しても、今となってはもうどうでもいい気がしていた。
玉淀の吐息が、霞の肩にかかるたび、胸の奥に柔らかな波紋が生まれる。
「もう、いいか?」
「うー……うん。ありがとぉ……」
唇を離した玉淀は、そのまま霞に抱きついた。
霞は首元の傷口に指を添え、血が垂れないよう、淡々と処置する。
そんな霞の様子を見て、玉淀がぽそりと言う。
「カスミちゃんの血、あったかいね……今日のは特に、やさしい味がしたよー……」
「血の味に日替わりなんてあるかよ」
「あるよー……ちゃんと分かるもん。今日のカスミちゃんは、少しだけ……やさしかったー……」
霞はその言葉を受け流すように、立ち上がる。
「寝ろ。魔力補給したんなら、さっさと休め」
「はーい……おやすみー……」
玉淀のくしゃりとした笑顔を背に、霞は洗面所へと向かった。
その背中に向かって、玉淀はぽつりと呟いた。
「……カスミちゃん、また、こういう日……何回あるのかなぁ……」
霞には、その言葉は届いていなかった。
あるいは、届いていても、ただ聞かなかったふりをしていた。
その夜もまた、静かに更けていった。
/5
白の空間に、霞はいた。
いつもの、機関の処置室。仄かに漂う消毒液と冷却剤の匂いが、鼻の奥に薄く残る。冷たいベッドの上で、メンテナンスのスリープ状態に沈みながら霞の脳裏には、昨夜の玉淀の顔が浮かんでいた。
「おれが、カスミちゃんに吸血してあげよっか〜……?」
ふざけた口調で笑いながら、布団の中から身を寄せてきた。
霞は苦笑いして「明日は機関行くんだから、さっさと吸え」と口にした。吸血は、もう何度目だっただろう。数えるのも、億劫になっている。
「……数値、落ちてるな」
処置室の静けさに割り込むように、悟司の低い声が落ちた。
霞の皮膚に淡く浮かぶ、魔術式の光。
精緻な回路が肌の上を這い、情報を余すことなく拾い上げてゆく。
「許容範囲内ではあるが……あと2ポイント落ちれば、志朗様への報告対象だ」
「マジで?」
「マジだ」
眼鏡の奥の目が、ひどく冷たい。
霞は薄く目を見開いたあと、肩を竦める。
「魔力の平均量、8割以上を維持するのが、上門霞の仕様。お前は志朗様の直属の護衛として認定されている。7割まで落ちれば、欠陥と見做される。再調整、あるいは……解体もありえるぞ」
さらりと告げられる事実に、霞は乾いた笑みを零した。
「冗談、きついな」
悟司は応えない。端末のデータを指先で流しながら、次の診断に進む。
「全身に点在する裂傷と、複数の穿孔痕。これも任務中の損傷か?」
「まあ、そんなとこ」
「消すか?」
問いかけに、霞はわずかに考える素振りを見せた。けれど結局、首を横に振った。
――あの痕は消さなくていい。そう、思えた。今はまだ。
「……お前、何か始めたな」
悟司が淡々と、だが確信を帯びて言った。
「兄貴、勝手に妄想するな。ただ……生き物を一匹、拾っただけだ」
「生き物を維持するには、代償が要る。何も削らずに生きられる命なんて、この研究所には存在しない。……忘れるな。お前の定義は『志朗様を護るための存在』だ」
車椅子の足元が軋んだ。白衣の裾が微かに揺れ、悟司の視線が霞を見下ろす。
胸の奥に、言葉が鈍く、重たく沈む。静に突きつけられた言葉ほど、よく刺さる。
魔力を分ける日々。血を啜られる夜。声もなく笑いかけてくる、夢みたいな青年の寝顔。
「ああ、分かってるよ」
霞は立ち上がった。スーツの上着を羽織る。首筋にわずかに残った噛み痕が、布地に擦れて消えていった。
「……さすがに、これ以上はまずいか」
独り言のように呟いた声が、処置室の白に溶けて消える。
その背に、悟司が声をかけた。
「判断は任せる。だが、報告義務が発生したとき、そのときはもう、『お前の選択肢』は消えている」
霞は振り返らなかった。
ただ一つ深く息を吸い込んで、そのまま無言で廊下へと歩き出す。
冷たい空気の中で、霞の胸の奥で、玉淀という存在がふわりと揺れた。
機関から帰った夜、霞は何も言わずにマンションの扉を開けた。
いつもと同じ静けさ。けれどその沈黙はどこか、重く澱んでいた。
照明を灯すと、空気はぬるく温まっている。誰かがずっと、待っていた証がある。霞は部屋の奥へと歩を進めた。シーツの隙間から覗いた頬は、紙のように白く、乾いていた。唇の端にはひびが走り、微かな色も無い。
玉淀の瞼が、ゆっくりと持ち上がる。焦点の合わない瞳が霞を捉えた。
「……カスミ、ちゃん……おかえり……」
掠れた声。けれど、その響きはやはり、いつもと変わらず優しい。
霞は笑わなかった。ただ、黙ってしゃがみこみ、顔を覗き込んだ。
遅い。明らかに反応が鈍すぎる。話すのも目を開けるのも、まるで水底でもがく生き物のように重たい。それなのに苦しそうな気配はない。それがかえって、致命的だった。
「ああ、寿命か」
ぽつりと、言葉が零れた。
感情の無い口調。けれど、そこには微かな諦めの色が滲んでいた。
「ちょうど良かったな」
呟きは、自分に言い聞かせるような響きを持つ。
機関で悟司に忠告された。魔力保持率の低下。霞という存在が志朗の護衛であるなら、これ以上の低下は認められない。再調整か、解体か。それが選択肢だった。
ならば、玉淀は捨てなければならない。『志朗を守る兵器』に、余分な命は不要だ。
そんなときに、彼の方から終わりを告げてくれるとは。まるで、気を遣われたようにさえ感じる。
「お前、俺に気を遣ったのか?」
苦笑ともつかない息が漏れた。そんな筈はないと分かっていながら、口に出さずにはいられなかった。
玉淀は微睡むように、ふわりと微笑む。恐れも苦しみもない。どこまでも淡く、あまりに静かに命が薄れていくのが見えた。
「おれ……最期が、ひとりじゃなくて……よかったー……」
「寝てろ。起きなくていい」
霞は立ち上がり、キッチンへ向かう。
戸棚の奥から小瓶を一つ取り出す。手にしたまま、布団の横へ膝をついた。
「鎮静剤だ」
淡々と、告げる。
小瓶から薬剤を注射器に吸い上げながら、低く続けた。
「お前に投与してたやつ。今日は全部、使う」
玉淀の瞼が持ち上がった。霞の姿を見ているようで、見ていない。それでも、声には反応した。
「……気持ち良くなるやつー?」
「ああ。ふわふわして、怖くなくなる。痛みも何もなくなる」
「うん……やさしいね、カスミちゃん……」
霞は視線を落とす。
「譲ってくれたのは、お前の面倒を見てた研究員の二人だ。『死ぬのに、手間かけるな』ってな」
無表情のまま、注射器を持ち替える。
けれど、その指先が震えていた。見ようとしなければ、気づけないほどの微細な震えだった。
玉淀はそんな霞を見て、なお笑っていた。壊れかけた玩具のように、壊れることも気づかないまま。
「でも……くれるのは、カスミちゃんだもん……」
霞は何も言わなかった。
そっと、腕を取る。無数の斑点のような注射痕が残る肌に、迷いなく針を刺した。静かに、薬が体内に流れ込んでいく。
――今日は、血はあげない。魔力も、渡さない。
『志朗を守る兵器』ならそうする。『新座なら、絶対にしない』。
霞の中の二つの定義が、内側で静かに争っていた。そのせいだろう。針を押す指に、力がこもらない。震えるのを止められない。
それでも注射は終わる。霞はそっと、玉淀の腕を布団の上へ戻した。
彼はもう、半ば眠りに落ちていた。満たされた子どものように、薄く笑みを浮かべながら。
「……玉淀を拾ってきたのはな。俺の主人が、エルフを飼ってるからだよ」
ぽつりと零した言葉に、玉淀はきょとんと首をかしげた。
「おれ、エルフじゃないよー……?」
「そんなん見りゃ分かる」
注射器はもう、足元に転がしてある。霞は乾いた笑みを浮かべ、視線を天井に投げた。
白い平らな天井だった。紋様もなければ、記憶もない。ただの居場所。偶然手に入れた住居にすぎないはずなのに、機関の研究室と同じ空気が漂っていた。無機質で、冷たい。
「俺の主人はな、一般人だ。異能も魔術も、なーんも持ってない、ただの人間だよ。だけどあの人は、エルフを飼ってる。裏社会のてっぺんに立つ仏田家の当主の弟が、異種族の男を拾って、部屋に置いて、生かしてる。……それも、ただの愛玩じゃない。俺の目には……ちゃんと、愛してるように見えた」
「へぇー……変な人ー」
「だろ? でも、格好良かったんだ。……力のある人間が弱い存在を支配するのは、よくある構図だ。でも、あの人はちょっと違ってた。したいから、している。そんな自由。……だから、真似してみたくなったんだ」
「まねー……?」
「俺は、デザインベビーだ。機関で作られて、志朗兄さんに仕えるために設計された。仕事も戦闘も掃除も誰かの始末も……全部そのためにプログラムされてる。でも……志朗兄さんみたいなこと、ただ自分のために誰かを飼う、生かす、弄ぶ。そういう自由を真似てみたら、何が起きるのかと思ってさ」
霞は玉淀の顔を見ないまま、淡々と続けた。
「……だからお前を拾ったんだ。ただの、俺の自己満足。新座の模倣であり、志朗兄さんの模倣。……俺の、自由時間。そのために、お前を延命させて、弄んだ。苦しむ時間を長くした。……ごめんな」
静かに、けれど確かに、謝罪が落ちた。
玉淀は、ぼんやりとしたまま霞を見つめ、ふにゃりと笑う。
そして、霞の手に自らの頬をそっとすり寄せた。
「おれ……カスミちゃんのペットなんだねー。……かわいかったー?」
「気色悪いこと言うなよ」
霞は溜息をつく。けれど、どこかに滲む諦念と微かな慈しみを、玉淀はちゃんと察していた。
嫌いな奴の模倣から始まった生活。やがて尊敬する人の真似になり、そしてそれすら超えて、自分自身の小さな自由になった。
それは全て、玉淀のためではない。
だからこそ、霞は告げたのだ。許しを乞うためでも、正当化するためでもなく。
布団の中で玉淀が、ごろりと横になり、霞の肩へ身を寄せてくる。
「おれ、嬉しいよー……カスミちゃんのためになれたんだーって……」
「いや、むしろ俺はお前のせいでピンチだよ」
「ええー……そんなー……」
ふにゃっと眉を下げた玉淀の顔に、霞は思わず吹き出しそうになった。
「でもさ。……良かったよ。こういうの。他人事じゃなく、実体験として知れた。俺、普通の人間じゃないから、そういうの、分からないままだったかもしれない」
「……偉いなぁー、カスミちゃん……今度ペット飼うときは、もっといい子にしなよー……それこそ、エルフとかさぁ。気高くて、綺麗で、黙ってても家事してくれて、魔力回復も上手でー……」
「俺の安月給じゃ無理だ」
「じゃあ次はー……サボテンとかどう? 魔力も水もいらないよー。日差しだけで、生きていける……」
霞はそっと、玉淀の髪に手をやった。
やや硬く、乾きかけた花のような手触りだった。
「エルフより現実的かもな。……でも、もういい。ペットは……お前で充分だ。もう、悲しみたくないし……悲しませたくも、ない」
本音だった。本音だからこそ、何か言葉が欲しかった。
空気がしん、と沈む。
霞は名前を呼んだ。一度、二度、三度――だが、何の反応も返ってこない。
そっと膝をつき、玉淀に手を伸ばす。布団越しに触れた肩は、まだぬくもりを持っていた。
頬に触れる。柔らかく、静かに冷めつつある。ただ眠っているだけのようだった。……だが。
霞は息を吐いた。
立ち上がることも、叫ぶことも、泣くことも、抱きしめることすらしなかった。
ただ、しばらくのあいだ膝を折ったまま、動けなかった。
「……枯れちまったか……」
沈黙が、部屋を満たす。
涙は出ない。激しい悲しみもない。けれど、無感情では、到底いられなかった。
霞は、最後に玉淀に吸われた首元を、自分の指でそっと何度も撫でた。
その痕だけが、命の名残であるかのように。
/6
志朗の机には、山積みになった書類。その隣に、霞が黙って控えていた。
声の調子は、いつもと変わらない。無駄なく、淡々と。けれど口をついて出た言葉は、これまでにないものだった。
「志朗兄さん。以前、俺に借りを作ったから、なんでも頼れって言ってくれましたよね」
カリカリとペンを走らせていた志朗の手が、ふと止まる。
「ああ、言ったな。なんだ、金でも欲しくなったか?」
冗談めかした声。
だが、霞は静かに首を横に振った。
「いえ、もっとくだらない話です。今、俺の自宅に遺体があります」
数秒の間。いつもの軽口のやり取りかと思った志朗の表情が、すうっと凍りついた。
その変化を、霞は無表情のまま見つめていた。
「稀人だったら、死んだら光になって消えるかと思ったんですけど、残ってまして。成人男性の遺体。身元不明、記録にもありません。……死因は寿命というか、魔力切れによる衰弱死。俺が殺したわけじゃないです。ただ、俺が持ち帰って、世話をしていたやつだったんで」
志朗はゆっくりと腕を組む。
即座に言葉を返すでもなく、怒るでもない。ただ、黙って霞の言葉を受け止めていた。
その眼差しは鋭く、どこか深い地点で霞の真意を測っていた。
「雑に扱いたくないんです。でも、公にするには都合が悪い。そういうとき、兄さんなら、どうしますか」
それ以上、霞は語らなかった。語らなくてもいいと思っていた。
志朗も、咎めなかった。
「要するに、『身内じゃないけど、他人として捨てるのも違う』ってやつか」
「まあ、そんなところです」
志朗は椅子の背にもたれて、深く息を吐いた。
「感情、あるんだな。霞にも」
「ありませんよ、そんなもの」
即座に返した声は、どこか硬かった。否定というより、押し殺しに近い響きだった。
志朗は口の端を上げる。
「別に責めてねえよ。悪いことじゃない。分かった、手は打つ」
「ありがとうございます。処理は、できるだけ穏便に。それと……焼却じゃなくて、埋葬でお願いします」
「そうだな。ちょうどいい山がある。今年の誕生日に貰った、まだ手をつけてない私有林だ。使わせてもらうよ」
そのまま志朗は再び手元の書類に目を戻す。
霞もまた何事も無かったように口を閉ざし、二人の間に仕事の空気が戻ってくる。
けれど、その一瞬。ごく短いほんの刹那、志朗は見た。
霞のがっしりとした体が、ほんの僅かに……不器用に、揺れたことを。
そして、何も言わなかった。それが、兄の精一杯の優しさだった。
都心から外れた、志朗が所有する私有林の奥地。舗装もされていない細道を、古びた車がゆっくりと進む。
トランクには、毛布で丁寧に包まれた一体の遺体。霞はそれを無言で抱え、夜の林を歩いた。
やがて木々の間を抜けた先、ぽっかりと空が覗く開けた土地に辿り着く。
霞はそこにスコップを突き立て、黙々と掘り始めた。
「本当にいいのか、ここで」
後ろから志朗が問いかける。
「うちの土地ってことは誰にも暴かれない。逆に言えば、お前以外、覚えてる奴はいなくなる」
「それでいいです」
霞は掘る手を止めずに答える。声はいつもどおり淡々としていた。
志朗はそれ以上、何も言わず、ただ静かにその様子を見つめていた。
一人で土を掘る時間は、沈黙の中の儀式だった。
誰に見届けられることもなく、誰に証明されることもない。けれどそこには『送る』という行為が存在していた。
十分な深さに達した頃、霞は毛布に包まれた遺体をそっと横たえる。
土の温もりと、夜の涼しさが交じり合う中、冷たくなった頬が毛布に沿ってふわりと緩む。
まるで、安らかに眠る者のような顔だった。
「花、入れてもいいか?」
志朗が訊いた。霞は無言で頷く。志朗の手には、いつの間にか白い百合が一輪、握られていた。
「霞の話だと、こういうのが必要な奴だと思ってな。俺の好みだ」
「ありがとうございます。そういう風情とか、俺はよく分からないんで」
志朗は、ふっと小さく笑い、その花を軽く投げるように墓穴に落とした。
すぐに煙草に火を点け、「……らしくないことをした」と呟いて、煙を夜空へ吐き出す。
「霞。お前、泣いてもいいんだぞ。そういう風情も覚えてもいい」
「泣く理由が無いです」
霞の声は、低く静かだった。
「俺は最初から、枯れる花を買っただけです。ほんの少しだけ、部屋を彩ってくれた。……それに感謝したいから、埋葬してやりたい。それだけです」
「……俺の飼ってるやつ。あれも、最初は同じだった。ただ部屋が少しだけ明るくなればいい。そう思って、見世物小屋から買った」
ふいに、志朗が言葉を切る。
「でも」
「……でも?」
「今はもう、あいつがいないとダメだ」
霞は何も言わなかった。ただ視線を地へと落とす。
「お前も、気づいたろ。……ああいうのって、後から効いてくる」
「……はい」
霞は、両手で土を掬った。最初の一掬いを、遺体の胸元へ静かに落とす。百合の白が、黒い土に音もなく沈んでいく。
その後、霞は無言のまま、手早く、だがどこか丁寧に土を戻していく。
やがて全てを覆い尽くし、最後に数個の小石を拾い、整える。墓標の代わりに。
そこに名は刻まれない。誰にも知られず、誰にも語られない、小さな墓。
帰り道。車に乗り込んだ霞が、ぽつりと呟いた。
「花屋って、この辺だと、どこにありましたっけ」
助手席の志朗が、吹き出すように笑った。
「知らねえよ。こんな真夜中に営業させてやるな」
その声に、霞も小さく笑った。
――俺が死んだら、どうなるのか。
霞には戸籍がある。名前も、番号も。けれどそれは、「人間として」与えられたものではなかった。
超人類能力開発研究所の所長、上門 狭山によって必要に応じて用意された。生まれたから与えられたのではなく、用途があったから配備された。それだけの存在。
家族はいない。親という概念も、霞にとっては設計者に過ぎない。帰る家も、待つ者もいない。
今ここにいるのは、志朗が命じたからだ。それ以外に、自分の存在を証明する術はない。志朗が死ねば、霞の存在価値も一緒に消える。
霞が死んだところで、墓は建たない。葬儀もなければ、弔う声もない。
遺体は、研究所の冷蔵保存庫に入れられるだろう。データの解析に用いられる。保存状態の推移を観察する価値があるから。
あるいは、遺伝的に優良な個体であるという理由で、次世代の素材として保存されるかもしれない。
瓶に詰められ、番号のついた棚に並ぶ。もしくはもっと安価な判断で、「焼却処分して問題なし」と分類される。
人間としてではなく、『試作品・実戦投入済・経年観察対象』、それが霞に用意された死の末路だ。
誰にも泣かれず、誰にも語られず、記録の中に名前が残るわけでもない。ただ、静かに消去されるだけ。
しかし、玉淀の最期を思い出す。人ならざる存在として、霞のもとにいた青年。弱くて、儚くて、愚かで、それでも……。
「……俺より、ずっとすげぇじゃん。ちゃんとした墓、貰えてさ」
霞はぽつりと呟いた。
あいつは、土に還った。毛布に包まれて、百合の花と一緒に眠っている。
誰かに見届けられ、誰かの手で埋められ、静かな山の中で眠っている。
――誰かとして、誰かに埋められた誰かとして。
それは、霞が決して得られないものだった。素晴らしく、愛おしいなと、心から想えるものだった。
マンションの片隅に、小さなサボテンの鉢植えが置かれている。
手のひらにちょこんと乗るほどの丸いサボテン。鋭い棘はなく、代わりにふわふわと白い産毛のような繊毛に覆われていた。
玉淀を埋めた翌日、街の花屋でこの鉢を手にしていた。
特に意味は無い。ただの気まぐれだ。そう、自分では思っていた。
けれどサボテンは窓辺を定位置とし、日光を浴びながら確かに生きている。
水はそう頻繁には要らない。声も出さず、動きもしない。ただじっと、気配をもたずにそこにいる。
玉淀が死んで、どれほどの日が経ったのか。霞は、帰宅のたびにサボテンへちらと視線を向けるようになっていた。
「お前は、まだ生きてるか」
ぽつりと呟いて、スプレーボトルを手に取る。細かな霧が一滴だけ、静かに繊毛を濡らした。
ベランダに鉢を出すと、霞はそっと自分の手をかざし、陽射しを遮った。
「日差し、強すぎんな。……しばらく陰に置くか」
植物に声をかける癖など、これまで一度も無かった。。
けれど、気づけば言葉を与えていた。それが返らないことも、霞はもう知っている。
返事など、ある筈ない。けれど、ふとした拍子に思い出す声がある。ふにゃりと笑って呼んでくる、掠れた甘い声。眠るとき、かすかに感じた重さ。腕にまとわりつく温度。
あの青年がいた時間は、霞の中で――もう記録ではなく、記憶として残っていた。
何のためでもなく、誰かのためでもない、自分のために覚えていたもの。心の中で、生かしておきたかった。
霞はサボテンの鉢を陰に置き、そっと手を離した。
「枯れるなよ」
深く息を吐き、背を向ける。
扉が閉まり、光が落ちる。彼は主人を守るという使命のため、夜の街へ。けれどサボテンは、霞を待つように、そこで。
生きている。
まだ、ここにいる。
END
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