■ さわれぬ神 憂う世界 「ある従者の冷却演算」 ・ 外伝1ページ目
【外伝:1】
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意識というものがまだ輪郭を持たない、夢と眠りの間のような液体の中。それは固い胎内で浮遊していた。
「従え」
電波が走る、命令信号がカプセル内を満たす。低く振動する駆動音に、それが小さく反応する。
ガラス越しに覗く白衣の研究員たちは、それに次々と伝令を下していった。脳髄の裏側に、淡い熱のように情報が注がれる。
〈神経応答、良好〉
〈筋肉成長率、基準値突破〉
〈魔素適応値、安定領域〉
〈精神制御コード、投入準備〉
〈予定起床時刻、02:00〉
この身体は、まだ誰のものでもない。名前は、まだ存在しない。心は、まだ何も知らない。
けれど、確かに形成されていく。骨が組まれ、肉が包み、感覚が縫い込まれる。データが血流に溶け、目的が魂に焼き込まれていく。
「従え」
それが、この存在の核。
感情は不要、疑念は不要、選択は不要。ただ「命令」に従うためだけの設計をされていく。
〈起動準備完了〉
〈接続コード、最終確認〉
「従え」
やがて、確信的な電気信号が脊椎へ走る。
眼球が薄く震え、唇が形を結ぶ。カプセルの外で記録者が囁く。
「これからお前は『主』というものに出会う。主をお守りする。肉体だけではない、主の意思をお守りするのが使命だ。次期当主様の専属の護衛。これほど光栄な役目を与えられる人形はそういない、励めよ」
「だから、従え」
胸の奥で繰り返しその言葉が揺れた。
電気に反応して、生まれかけの体がビクンと蠢いた。微細な泡が立つ。
生まれかけの言葉、まだ名のない衝動に突き動かされる肉体。
――その人の為に生きたい、絶対に……という、誰にも観測されない『熱』。
設定されていたから? いいや、それだけではない。それは確かに、勝手に出ていた芽の一つである。
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仏田の山に、警鐘が鳴った。
曇りゆく空は天候の気まぐれではない。山を包む結界に微かな歪みが走り、封じられていた檻が破られた兆しが広がる。
仏田寺において最も重んじられる存在、次期当主・仏田 燈雅が消えた。
同行していたのは、上門 圭吾という少年。二人の足跡は山道を越え、やがて麓にある古びた神社へと続いていた。
燈雅は「器」である。千年の魔血を継ぎ、未来の大儀式において中心を担うべき存在。彼が結界を越え、外の穢れに触れることは、あってはならない背信行為である。ましてや寺の許しなくして山を下るなど、決して許されることではない。
それがたとえ、ほんの一時の冒険心であったとしても。あるいは、少年らしい気まぐれに過ぎなかったとしても。
燈雅は、ただの少年ではない。生まれた時から彼には清らかであることが求められてきた。選ばれし身には、自由すら許されなかった。
仏田寺は即座に対応を取った。選りすぐりの黒服たちが山を駆け下り、鈍く光る車列が軋むような音を立てて林道を突き進む。山犬のごとき追跡者たちが神社の鳥居をくぐり、静けさを裂いた。
速やかに燈雅は保護された。彼は抵抗を見せなかった。共にいた少年・誘拐犯として断じられた圭吾も、同様に連れ戻される。
緊急事態は数時間と経たずして、終息を迎えた。
寺へ戻る頃には、空気は既に冷え切っていた。
板戸の向こうには長老たちが並んでいた。燈雅には叱責が重ねられた。「お前は次期当主だ」「器だ。万が一があれば仏田の未来が潰える」「子供の遊びで済む話ではないのだ」「立場を弁えろ」
――燈雅の人生に、外は無かった。
彼の世界は結界の内側、仏田寺のみ。朝は読経と修法、昼は座学と黙想、夜は魔力を補うための儀式。季節の移ろいさえ障子越しに感じるのみで、土を踏むことも風に吹かれることも、燈雅には許されていない。
それが当たり前だった。そう育てられ、教え込まれた。
燈雅の顔は伏せぬまま、真っ直ぐに前を見る。
まるで他人事のように。瞳に冷たい光が宿しながら。汗も涙もなく、唇の端に笑みさえ浮かんでいる。
彼は元来、従順でも反抗的でもなかった。ただ、心の芯に手が届かない。どこまでが演技で、どこからが本音かも分からない、曖昧な温度の少年だった。
しかし、ある声によってその曖昧な空気が変貌する。
「上門 圭吾を処刑する」
燈雅の睫毛が、ぴくりと揺れた。
「当然のことだ。次期当主を誘拐した罪は重い。儀式の器を外へ持ち出すなど……本来ならその場で斬首ものだ」
無言のまま、座敷の天井を仰ぐように視線を宙に逸らす。
その奥底に、言葉にできぬ感情が灯った。
驚きか。怒りか。それとも遅れてやってきた細やかな後悔か。
――上門 圭吾。
屈託のない笑顔で、いつも土や砂で汚れていて、太陽のように明るくて、怒鳴り声でもないのにうるさくて、どこか懐かしい匂いのする少年。
「燈雅に見せたい景色がある」
誘拐なんて大層な計画ではない。ただの善意。純粋な好奇心。
それに燈雅は、抗わなかった。抗おうとすら思わなかった。
外に出た理由など、特に無い。
ただ、嬉しかったのだ。自分という存在に「見せたい」と思ってくれた誰かが、この世にいたということが。
そうして、燈雅は走った。草の匂いのする山道を。神社の鳥居をくぐり、風の吹く開けた場所に辿り着く。初めて見る空の広さを思い知り、言葉を失った。
――圭吾がいる世界は、自分とは違うのだと。
「死刑だ」「当然のことだ。次期当主を誘拐した罪は重い」「儀式の器を外へ連れ出すなど、前代未聞だ」
座敷に居並ぶ長老たちの声が重ねられ、繰り返された。
薄暗い欄間の下、淡く漂う香煙が空気にゆらめく。その中心に燈雅は坐していた。
額を畳に擦りつけ情けを乞えば、彼らは悦に入り、処刑の延期くらいは認めたかもしれない。燈雅ほどの存在が土下座をする、その意味がいかほどか彼自身が最もよく知っていた。
だが、彼はそうしなかった。燈雅は座したまま、身じろぎもしない。
その姿はまるで……見下ろしているかのように映っただろう。
並び立つ長老たちの顔を一人ずつ丁寧になぞるように眺める眼差しは、冷ややかで、値踏みでもするかのようだった。
「――誰の許可を得て、そのような言葉を吐いている?」
ざわり、と、場の空気が揺れた。
「父上の御命か? ……まさか、違うだろう? これはお前たちの勝手な騒ぎに過ぎない。滑稽だな」
燈雅の口元が持ち上がった。冷笑であった。
「次期当主たるこのオレの私物に手をかけようとしている? 命知らずもいいところだ。お前たちごときにそのような権限は無い」
凍りついたような静寂が座敷を包んだ。目を見開いたのは、長老たちの方だった。
これまで言葉少なに従順とも冷淡ともつかぬ振る舞いをしていた少年が、明確な声を持つ。
誰かが咳払いで空気を変えようとした。だが、燈雅の瞳がそれを射貫いた。紫の光を湛えた眼差しは、余計な動きを全て沈黙させる。
誰もが悟った。この少年はもはや、奪われるだけの存在ではない。
跪く者ではなく、跪かせる側に立つ者となったのだと。
「……『アリス』? お前、そこにいたのか?」
唐突に場違いな響きが、緊張に満ちた座敷を裂いた。
誰のものでもない、まるで幼子のように呼びかける声。
長老たちがばっと顔を上げ、一斉に振り返る。助けを求めるような、あるいは怯えを隠しきれぬ動きだった。
視線の先に立っていたのは、仏田家・第62代当主――仏田 光緑である。
燈雅の父親というに相応しく、白磁のように透ける肌、細い首筋に美しい着物を纏い、気品すら漂わせているその男は、既に四十近いというのに年齢を裏切る風情をしている。
かと思えば、佇まいは威厳を纏った、得体の知れぬ神性を孕んでいた。
この家の頂点。今や大企業として世界に名を馳せる機関の支配者であり、仏田寺の秩序を握る王。誰一人、彼に逆らうことはできない。
「……父上。お耳障りでしたら、どうかお許しを。少々羽目を外しただけですので」
そして……この王には、明確な欠陥があった。
誰も明言することはなかったが、誰もが知っていた。――仏田 光緑は、『多重の顔』を持つ。
例えば、無表情に処刑を下す冷徹な執行者。いきなり怒鳴り声を上げて物を投げる幼稚な子供。泣きながら手を握る、優しい父親。……どれが本当かは、本人ですら分かっていない言動を取る。
「父上の御前にてこのような不調法、深くお詫び申し上げます」
燈雅はこの男の実子だったが、未だに父を掴みきれたことはない。笑われたこともある、抱き締められたこともある、次の瞬間には鋭い扇子の骨が頬を裂くことがあった。
尚且つ、ここ数日、光緑は姿を見せていなかった。なんでも「お気に入りの女中が急死した」とかで自室に引き籠もっていたらしい。
悲しみに沈み、塞ぎ込む……と言えば聞こえはいいが、「厳格な父親」であり「一企業の代表である成人男性」のすることではない。これだけでも、誰にも理解されない奇行だった。
だが今、光緑はそこにいる。
とても王とは思えぬほど、動揺した顔で。
燈雅は目を細める。
父の瞳が、迷っていた。戸惑っていた。何故か今の燈雅を見て……焦っている。
この男にしてはあまりに人間くさい表情だ。それがどの人格のものなのか、燈雅にも分からない。
ただ言えるのは……この男の登場によって、場の重力が変わった。光緑が空気を支配した瞬間、座敷にいた全てが無言になった。
誤った言葉を発すればその一言で首が飛ぶと、誰もが本能的に理解していた。
「お前、今度は男になったのか? 違うか? 今のお前は――そこにいる?」
幼子のような声で、しかし張り詰めた刃のような不穏を孕んだ声音。
光緑はふらりと歩み寄ると、燈雅の目の前で、すとんと膝を折った。
仏田家の王が、跪いている。
その視線が、まるで何かに縋るように燈雅を覗き込む。
瞳には、狂気の色が渦巻いていた。焦点が定まらない。次の瞬間には何をするか分からない。そもそもこの場に、いや、この仏田寺に『アリスという名の人間など存在しない』。
支離滅裂な言動。燈雅の背中に冷たい汗が滲む。これは経験上――『最も危険な父』だ。
殴られるぐらいならいい。数日間切り裂かれる痛みを味わわせられることも何度もあった。
そして今は、話の流れが悪い。もし誰かの口から圭吾の名前が出れば、父の琴線に触れ、事態が悪化する恐れがある。それだけは絶対に避けなければならない。
だから必死に燈雅は、喉を焼くような緊張の中で、慎重に言葉を探す。
「元から……貴方と共にある私に、違いありません。ずっと、当主様のお傍にいる、私でございますよ」
穏やかに甘えるように、優しく神経を撫でるような声色で。
一切の嘘をつかず、それでいて真実の輪郭を曖昧に……彼の狂気を刺激せず、安心だけを与えるように。
その一言が、奏功した。
光緑の顔が、ふっと綻ぶ。眩しいほど純粋な笑顔で、息子の身体に抱きつく。
男にしては細い腕、美しい手指。だが決して抵抗などできない。
燈雅は、胸の奥でほっと息をついた。
なんとか突破した。父は自分を「味方」と認識した。であれば、あとは簡単だ。
この男さえ味方につければ、どんな長老も、どんな掟も、容易く排除できる。王の庇護を得た者こそが、仏田家の神聖にして最強の存在なのだ。
燈雅の唇に、誰にも悟らせぬよう微笑が戻る。
その笑みは柔らかく見せかけながら、支配の光を宿していた。
誘拐、そして処刑未遂の騒動から、ひと月が過ぎた。
仏田寺の空気は変わった。長老たちは次第に口を噤み、下層の者たちは燈雅の眼差しを避けるようになった。
少しずつ燈雅は変わった。内に宿る支配者の芽、従わせるための器量が猛威がせり始めてきたのだ。
けれど、所詮はまだ17の少年。たとえ次期当主であっても、依然として守られるべき存在には違いない。
そんな朝の瞑想が終わる頃。静まり返る座敷の襖が音もなく開き、父・光緑が現れた。
「贈り物だ。機関で一番のものを創らせたぞ」
光緑は、祖父の代から続く「超人類能力開発研究所機関」をさらに発展させ、日本でも指折りの異能研究拠点へと育て上げた功労者である。
バブル期の特需を巧みに取り込み、今や機関は日本を代表する異能研究機関となった。その背後にいた男こそ仏田 光緑であり、あらゆる技術と異能の流通を掌握しているといっても過言ではない。
すなわち、この男に創れぬものなど存在しない。その証が今まさに燈雅の前に現れた。
光緑の後ろから、ひとりの青年が通される。
黒いスーツに身を包み、背筋を伸ばし、無言で立つその姿には年若さの影すらなかった。
ただの一言も発さず、名乗りもせず、ただ主人の命を待つ物のように、そこにいる。
後方に控えた中年の調律師が丁寧に頭を下げ、説明を始める。
「本日より、燈雅様の警護を担当させていただきます強化兵でございます。機関内でも特に優秀な個体をお選びしました。ご遠慮なく、燈雅様のお好きなようにお使いください」
なおも説明が続けられようとした瞬間だった。光緑がふっと動く。
なめらかな手付きで、まるで誰も見ていないかのように、燈雅の顎に触れ、指先で撫でる。
「誘拐の件は他から聞いている。もう済んだ話だ、蒸し返すつもりはない。だが、『今のお前』は次期当主の器だ。また連れ去られたら、かなわん」
理由は、ごく真っ当だった。燈雅も表情を変えずに頷いた。
だが違和感は確実に、積み重なっていく。
光緑が、唇を寄せた。人目も気にせず、何の躊躇いもなく恋人のように。親が子へと口づけを与える、あまりに異様で、執着じみた動きだった。
有無を言わさず、抗う隙もなく、そしてそのまま何事も無かったかのように調律師を連れて去っていく。
静けさが戻る。まるで嵐が通り過ぎた後のような、死んだ空気の中……燈雅は黙って、自分の唇を指先で拭った。父の残り香を振り払うように。
そして、目の前の贈り物……人形のような青年と、真正面から向き合った。
――贈られた強化兵の名は、男衾という。
護衛、その言葉を額面通りに受け取るほど燈雅は幼くない。これは監視役だ。長老たちが裏で抵抗したのか、あるいは父が病的な執着を強めたゆえか。
どちらにせよ燈雅にとっては些細なことだった。自分はもう従う者ではない、従わせる者であると決めたのだから。
「『燈雅様のお好きなようにお使いください』……だってさ」
男衾は、黒い影のように傍らに立つ。完璧な静止。余計な揺れも、思考の気配も感じられない。
「お前。オレの命令、なんでも聞いてくれるの?」
対する声は、冷たい水のように静かに澄んでいた。
「自分は燈雅様の命令に全て従うものです」
曇りも躊躇いもない。男衾の目は、燈雅を映す鏡であるかのように無機質で、そして完璧だった。
燈雅は身を乗り出す。男衾の正面に顔を寄せる。熱を帯びない吐息が、男衾の頬を掠める。瞳と瞳が触れ合う距離、燈雅はその眼の中をじっと覗き込んだ。
その奥に、自分が確かに映っている。反射する像、意志を持たぬ鏡像。それが、燈雅の琴線に触れた。
「なるほど。圭吾が人形の目を覗きたがった理由も、分かる。面白いもんな」
数年前に友人にされたことを思い出しながら、
「男衾はオレの手足になる。それでいい?」
囁くように、命令する。
「はい」
即答だった。刃物のような一声が、燈雅の耳には心地良かった。
男衾は、燈雅の傍を離れず付き従うものとなった。
とはいえ誘拐犯がいなくなった今、次期当主が外へ連れ出されることはない。そして元から監禁されているわけではなく、自由意思は与えられている。
平凡と茶を飲むことも、菓子を気ままに食べることもある。『圭吾という危険分子』さえ居なければ、燈雅は騒ぎを起こさない普通の子だったのだ。今日も彼は、悠々と過ごす。卓の上には今日の甘味、中身は芋ようかん。機関の職員が土産に持ち込んだものらしい。
「男衾。お前、甘いものは好き?」
壁際に立っていた黒衣が、声に応じて一歩進み出る。小さな間を置いて、頷いた。
燈雅の目がきらりと面白がるように笑う。予想していなかったのか、あるいは期待通りだったのか、顔に出すその反応は、何かを発見した少年のようだった。
「ちゃんと甘味が好きって認識してるんだ。ふふ……可愛いね。いい趣味じゃないか」
くすくす笑いながら、ひとつ芋ようかんを取り上げる。艶やかに整った四角の菓子を二つに割ると、片方を竹串に刺してひらりと掲げた。
「命令。食べて」
男衾は無言で跪いた。主人の差し出す芋ようかんを受け取り、口へ運ぶ。
「美味い? そうか、美味いか。ふふっ、じゃあこれから色々食べさせてあげよう。餌付けってやつ」
愛らしく笑う燈雅は、まるで飼い猫にミルクを与える少女のよう。
男衾は逆らわない。いや、逆らえない。それを見抜いて、燈雅は満足そうに目を細める。
「なんでも無表情で済ませるくせに、芋ようかんで頬が緩むの、可愛いぞ。機関ではようかんなんて出してもらえなかったんじゃないか? ……もっと好きなもの、知りたくないか?」
ただの戯れ言か、それとも好奇の始まりか。
男衾は口を閉ざしたまま、再び壁際へ戻る。その体内には仄かな甘さが残っていた。菓子の味か、それとも主が与える「微笑みの毒」か。
「もっと食べてくれ。土産はそれなりの頻度で届く。どうせもうオレは、食べられなくなるから」
また別の日。仄かに甘い香りが漂っていた。
小さな木箱に入ったプリン。金色のリボンが結ばれていたことから、誰かが「贈り物」として持ってきたものなのだろう。
燈雅は蓋を器用に開けてスプーンですくうと、膝を折って男衾の前に座り込んだ。
無言で見下ろしている男衾の視線を見上げるかたちで、燈雅は言う。
「男衾は無表情だな。他の表情パターンを記録してないのか?」
男衾は一拍、ほんの一秒遅れて返す。
「燈雅様が希望していただければ、変化いたします」
事務的な、けれど丁寧な声音。そこには上下も色彩もない。その反応に燈雅はふっと息をもらし、肩の力を抜いた。
「いいや。無理に変える必要は無い」
スプーンをそっと差し出しながら、彼は少し目を細める。
「オレだって昔は面倒だから無表情だったし」
男衾は言われるままに口を開き、運ばれたプリンを静かに咀嚼した。
きっと甘さも舌触りも、評価はしているのだろう。だが感想は無い。ただ食べ、受け入れた。与えられたから応じただけだが、燈雅は何の気負いもない笑みを浮かべて続けた。
「ん? ああ、昔の話。オレも感情表現は必要ないと思ってたんだよ。だからしばらくしなかったんだ」
「……今は、違うのですね。燈雅様はよく微笑んでいらっしゃいます」
返答に燈雅はほんの少し、目を伏せた。
笑っていた。けれど少しだけ、過去を見る者の微笑であった。
「オレが笑うのが好きだって……真正面から言ってくる奴がいてさ」
どこか懐かしそうだった。嬉しさと寂しさが同時に滲む声。
男衾は意味までは理解できなかった。けれど主人の声の調子が沈むと、無言で新たなスプーンを取り、自分の手でプリンをすくう。
「……燈雅様は食べますか?」
差し出した先には、先ほどのように少し冷めた甘味と、静かな感情の共有がある。
燈雅は少し驚いたように、それから笑った。
「ありがとう。優しいな男衾。そういうのは嬉しいから、たくさんやってほしい。命令だ」
無表情と微笑み。命令と自発。
遠いようでいて、ほんの一匙の甘さが二人を少しだけ近づけた。
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――夜。深い山の息吹が止まった。虫も鳥も声を潜め、風すら怯えたように揺らすことを忘れていた。
そこは地図に無い村。隠された土地。代々血に宿る力を受け継ぎ、異能の術と祈りをもって静かに生きてきた集落が今夜、終わる。
山道を上ってくるのは仏田家の私兵たち。先陣を切る男の口から低く呪文が漏れる。赤黒い印が空中に浮かび、そして結界が断ち切られた。
村に灯る家々の明かりが一つ、また一つと消えていく。
静寂は崩れ、破られた境に応じて、村の能力者たちが気配を察知する。長老が鐘を鳴らした、その直後だった。
火が降った。呪術と薬剤を掛け合わせた儀式用の炎。
空から地へと突き立ち、木々を裂き、土を焦がし、長く神域と呼ばれてきた領域すら焼き尽くしていく。
「村を、守れ!」
若者が叫んだ。血に眠る力を喚び起こし、両手をかざす。大地が鳴動し、蔦が躍り、侵入してきた兵を締め上げる。
だが真空を断ち割る光が、横一文字に走った。刃だった。鋼でも火でもない、呪的な斬撃。青年の胸を無慈悲に貫き、背中から血の華が弾けた。
「抵抗は無意味だ」
部隊の一人が、額に黒き印を浮かべて呟く。言霊が空気を震わせる。その波に呑まれ、巫女たちがひとり、またひとりと崩れ落ち、口を封じられ、手を縛られていく。
「生きたまま連れていけ。標本は劣化させるな」
部隊の隊長が低く命じると、闇の背後から白衣の研究員たちが現れた。
仏田家が支援する超人類能力開発研究所機関、その実働班だ。
村人たちは一人ずつ選り分けられ、トラックの荷台に組み込まれた拘束装置へと収容されていく。年老いた者から、幼き子まで。優先されるのは、五体満足で捕らえられた者たち。
悲鳴は山霧に吸われるように、音を立てて消えていった。
夜の山道に、一台の黒塗りの高級車が待機していた。
外装は漆黒の鏡面が無言の威圧を放ち、重厚な防弾ガラスが内と外を絶対に隔てる。
内装は深紅の本革と黒檀。僅かに揺れる車体の振動の中、密室にて燈雅が父・光緑と向かい合っていた。
今宵の父は漆黒のスーツに身を包み、一指も動かさず座している。その姿は、精緻に彫られた彫像のようだ。
どこまでも整っていて、誰かがすぐ傍で死んでいようと眉一つ動かさない。あまりにも美しく、恐ろしい男だった。
今ここにいるのは『支離滅裂な言動を繰り返す男』でも『息子に唇を重ねた異常者』でもない。燈雅が最も見慣れた仏田の王――厳格な執行者としての顔がある。
「燈雅。狩猟を見るのは、初めてか」
車内には叫びも熱も届かない。焼け爛れる村の叫びも、炎の唸りも、この密閉空間には侵入できない。
車はまるで外界から隔絶された異界、光緑という存在の内奥そのものだった。
燈雅は頷き、微笑を装う。
「はい。志朗は13の頃にはもう見たそうですが……弟に先を越されるのは、悔しいですね。自分はなかなか、機会に恵まれず」
あくまで敬語。従順な子のふり。だが、心の底では吐き捨てていた。
――その機会を封じてきたのは、他でもない。オレを檻に閉じ込めていた張本人。鍵を握っていたのは、あんただろ。
光緑はその皮肉に気づいたのか、いなかったのか。窓の外を一瞥し、飄々と告げる。
「我ら仏田の血は、他者を喰らうことで力を継いできた。『聯合』――始祖が神より賜った秘術である。力を高めるには、糧がいる。だからこうして、食糧を狩る」
食糧。焼かれているのは村。食われるのは、人。能力者。異種族。かつて、命を持って生きていたものたち。
「……そのための、狩りですね」
燈雅は穏やかに応じる。語尾に皮肉を滲ませても、光緑は肯くのみ。
「いずれ、お前も来る」
「何、でしょう」
「私を喰らうときが」
その一言に、燈雅は瞬きをひとつ落とした。あまりにも平坦で、私情の欠けらもない言葉だ。
父を食う。それは仏田の教育であり、宿命であり、継承の形式。奪う者が生き、奪われる者が資源となる――この家が千年守り抜いてきた法だった。
窓の外を見やる。かつて神域と呼ばれた場所が、今や祭壇として炎に包まれていた。
「私も15から17にかけ、多くを喰らった。圧倒し、見せしめ、誇示し、全てを力と変えた。力とは取り込むことでしか得られない。仏田の血は、そうして濃くなっていく」
燈雅は頷かなかった。だが反論もしない。黙して座すことこそが、最も安全な返答であると、彼はよく知っていた。
今夜の光緑は、父ではなかった。美麗な皮膚を纏った化け物。千年の家を保ち、この世界を蝕むために最適化された冷徹な器――それが、今の彼だった。
「お膳立てはしてある。燈雅。お前も喰らってくるといい。……当主継承の予行練習としてな」
言葉に抑揚は無い。やれではなく、決まっているという調子だ。
燈雅は、静かに息を吐く。
「……ついに自分の手で狩りを始め、咀嚼せよと」
「そうだ」
光緑という男は、やはり一つではない。
怒り、笑い、愛し、命じ、そして何も感じない。今ここにいるのは、そのどれでもあって、どれでもない。だが、燈雅がもっとも相手しやすい相貌を、今日は見せてくれている。
「承知しました」
乾いた返事を残し、燈雅は扉に手をかけた。
車内の異界が開かれる。焼けた空気が一気に流れ込む。灰の匂い。血の匂い。人々の絶望と祈りが焦げた、終焉の香り。それは、かつて燈雅が外と呼んだ世界の匂いだった。
――自分の足で外に出るなんて、随分と久しぶりだ。
遠く圭吾の顔を思い浮かべながら、燈雅はゆっくりと、車を降りた。
幾人かの部隊兵が、焼け焦げた大地に新たな祭壇を築いていた。
血と肉と焼けた脂の匂いが混じりあう、夜の山が呻くような場所に、燈雅は降り立つ。
足元の泥は赤黒くぬかるんでいた。踏みしめるたび、死者たちの名残が音もなく染みこんでいく。
捕縛された異能の民たちが、列をなして並べられていた。生きている者、死にかけている者、既に事切れた者も、皆が同じ顔をしている。
――希望など信じるなと教え込まれたような、負の感情に覆い尽くされた顔ばかり。
彼らは『貴重な異能の血を宿す存在』であった。それは仏田にとって資源であり、素材であり、食糧となる。
小さく息を吐いた燈雅は、瞼を伏せた。そして独り言のように呟く。
「……いただきます」
指をすっと前に伸ばす。
白く細い指先に、術式の光が走った。
空中に浮かぶ幾何学的な魔法陣。複雑に絡む構造が幾重にも展開し、その中心から、重力を捻じ曲げるような圧が解き放たれる。
次の瞬間――列に並ぶ者たちの身体が、音もなく潰れた。
見えぬ力に骨も肉も魂も内へと巻き込まれ、花のようにひしゃげ、泡のように消え、血の霧を散らした。
一人。二人。三人……次々と、機関に最後まで抵抗し続けた力ある十数人の魂が、一つの球体に収束されていく。
人間の形は、もはやどこにもない。どす黒く蠢く塊だった。臓物の湿った香り。焦げた髪と衣の残滓。血液に混じる霊気がほのかに光を帯びる。
燈雅は、球体を両の手で静かに掬い上げる。
まるで神仏に供された宝珠を扱うかのように、崇めるように。
「……うん。綺麗にまとまった」
それは脈打っていた。まだ生きている。まだ、誰かの残りが震えている。
燈雅は、唇を綻ばせた。そして、口を開く。
団子を頬張るように。子供のような無垢な仕草で。
「あーん」
球体を口の中へと放り込む。
咀嚼する。粘度のある霊の重み。舌にまとわりつく情報と苦痛の波。喉奥へ、濃厚な異能のエネルギーが流れ落ちていく。
満腹感。熱。甘美な快楽。脳髄に響く断片的な記憶。彼らの見てきた景色。願い。泣き声。祈り。絶望。その全てが、液体のように燈雅の内部に浸透していく。
「……あれ。なーんだ。あっけなくて……おいしい」
誰に言うでもなく、燈雅は呟いた。
それは快楽か。冷笑か。ほんの少しだけ残った誰かへの哀悼かもしれない。
けれど彼の声は、夜の空気に溶けていく。焦げた森と血の山霧の中で、その囁きはただ、甘く響いた。
燈雅の寝室は、変わらず静かだ。
焚かれた香の煙がゆらゆらと棚引き、障子の向こうでは虫の音が遠く、絹を裂くように響いている。
天目織の寝巻に袖を通す燈雅の動きはゆるやかで、隣には従者である男衾が黙々と着替えを手伝っていた。
「男衾」
薄明かりの下、二人の影が畳の上に重なる。
不意に、燈雅が声をかけた。
「夜食は、どうだ?」
一拍の静寂。男衾は首を傾け、決まりきった口調で応じる。
「必要であれば準備いたします」
「いや、オレじゃないよ」
燈雅はようやく男衾の方へ身を向け、ふっと笑った。
それは夜の静けさに溶けるような、柔らかくも異様な笑みだった。
「男衾、お前が食べないかって訊いてるんだよ」
言いながら、燈雅の右手が空をすっと撫でる。空間が歪み、その掌に例の団子が現れた。
どす黒く、鈍く光る球体。全てが圧縮された食糧。仏田の秘術であり、ヒトを無理やり一つにまとめあげた呪的な栄養源である。
男衾の目が僅かに揺れた。表情の奥に、認識の異常を示す反応があった。
「それは……」
「村人じゃないよ」
燈雅が言葉をかぶせ、楽しげに微笑む。
「見覚えある? ふふ……うるさかったご老人、3人ばかり。口うるさくて、退屈で、『次期当主の自覚を持て』とか『感情を持たぬ器になれ』とか、つまらない説教ばっかりだった」
掌にある球体が、微かに震える。
それは、まだ死にきれぬものの呻きに似ていた。
「せっかくこの術が解禁になったんだから、ね。今まで教育してくれた彼らにも、オレの成長を見せてあげなきゃって思って」
まるで善行でも報告するかのように燈雅が微笑んだ。
その無垢な笑顔に宿るものは、限りなく冷たい嗜虐だった。
「一応は高名な魔術師だよ。あれでも。年老いてるけど、そこそこの魔力はある。……栄養にはなる」
そう言いながら、球体を男衾の前に差し出す。
温もりがあり、脈打つような鼓動が伝わってくる。明らかに死でありながら、どこか生きていると錯覚させる、奇妙な存在だった。
「ようかんじゃないから嫌? プリンやクッキーの方がいいって? それとも、賞味期限寸前の魂なんて食べたくない?」
燈雅の声音は甘やかで、静かに試すようでもあった。
そして男衾はようやく口を開く。その声は変わらず、淡々とした無機の響きであった。
「燈雅様からいただけるのであれば頂戴いたします」
その一言に、燈雅は目を細めた。
満足げに、まるで忠犬を褒めるかのように口元を綻ばせる。
「うん、偉い。さすがオレの従者」
菓子でも手渡すような所作で、燈雅は団子を男衾の手に乗せた。
男衾は何も言わず、それを口元へと運ぶ。静かに確実に、圧縮された命が喉奥へと滑り込んでいく。
血の記憶、霊の震え、魂の余熱。その全てを、無言のまま飲み干した。
「……彼らの一声で、父上は男衾を創造させたんじゃないかな。つまり男衾は今、創造主を食べたわけだけど。どう思う?」
目の前で妖艶に微笑む主人に、男衾はやはり、変わらぬ声で応える。
「燈雅様から銘菓だけでなくお夜食をいただけるなんて初めてです。ありがとうございます」
「ふはっ」
燈雅は、喉の奥で笑いを漏らした。
奇妙に愉快で、ほんの少しだけ愛おしげで……それでもやはり、どこまでも残酷な夜の音だった。
/3
書院造の静かな一室に、紙をめくる音だけが淡く響く。
仏田寺の奥、当主家専用の私室。机の上に広げられているのは、機関から届いた『今週のご馳走』の目録だった。
綴じられた報告書。表現こそ報告だが、実態は選別、献立だった。
燈雅は濃紺の着物の袖をすっと払って、ページに目を通す。
眼差しはごく自然。昼下がりの貴族が昼食のメニューを吟味するような、無垢な選択の仕草。
そこには、整然と候補たちが並んでいた。
――九州地方・日隠郷の、鬼の血を引く一族。外見は人間と変わらず、異常な回復力と筋力を誇る。味は濃厚、滋養に富む。
――北陸の山間・澄水家。水霊術を相伝する隠者の家系。現当主は若く、清浄波を操る。保存性に優れた淡泊な肉質。
――都市部の某大学に潜伏する高名なテレパス・鈴置 美香。精神干渉系能力者。加熱処理を要するが、霊子純度は高い。
――被験者A37群。先月収容された逸脱個体群の再加工案。品質は低いが、数が揃う。
各項目には、写真と能力値、霊的濃度、摂食適性、加工方法。
表現はどれも整っている。だがそれはあまりにも明白に、「人」ではなく「素材」を語っていた。
背後には、黒き影。既に長く当然のようにそこにいる従者・男衾が控えている。
目を伏せることなく、呼吸すら揺らがず、ただ存在しているだけ。
「なあ、男衾」
燈雅がふいに声をかける。
男衾は応えない。それが問いではなく、独白であることを知っているからだ。
「鬼の一族って興味はあるんだけどさ……肉質が良かったこと、あまり無いんだよね。硬くて筋張っていて、なんか臭みがある」
ページを捲るたび、紙の質感が指先を滑る。
「水霊術の家は、保存が効くって書いてある。味は淡泊だけど、清浄っていう能力はちょっと気になるんだよね。オレに足りない属性かも」
ふと、燈雅は手を止める。
「それとも精神干渉系にしてみようか。テレパスって便利らしいよ。記憶をいじる補助に使えるし、ね」
くす、と笑う。
まるで食後のデザートを思案するかのように。
「でも脳の加工って繊細で、研究員たちがいつも文句を言うんだよな。……味もさ、どうなんだろ。霊子濃度って、食感に差が出るのかな」
外では風が吹き、どこかで鳥がひと声、鳴いた。
その音すら、食卓の雑談のように、この場の空気に馴染んでいた。
燈雅はふと口元に指を添え、考えるふりをする。それは楽しげにも、退屈げにも見える、絶妙な表情だ。
「……じゃあ、これにしようかな」
指が一項を選ぶ。
「水の家。澄水家にしよう。清めの力も手に入るし、仏田家の火属性の器にどう作用するか……試す価値はある」
くすりと、喉奥で笑った。
声に応じるように、男衾が音もなく動いた。懐から取り出された携帯端末に、選択された番号が入力される。
命令は言葉ではなく、選択の指で伝わる。その瞬間、北陸の山に生きる一家の運命は、終わりを告げていた。
「今週は澄んだ味で。……そういえば、父上が倒れたらしいな?」
書類を閉じた燈雅が、ぽつりと零す。
「報告だけだと『倒れた』としか書いてなかった。まあ、20年ずっと働き詰めだった人だ。いつ限界が来ても不思議じゃない。これからは、後継者についての話が多くなるかな? 次期当主はほぼオレで決まりだよなあ……あの口うるさい上層部どもが健在だった頃は、末弟の新座を推す声もあったけどさ」
「新座様は、魔術の天才と評されておりましたので」
燈雅は生まれて18年、常に鍛練に励んできた。朝は術式の基礎、昼は肉体訓練、夜は呪具の精緻な調整と精神統制。一日たりとも、力のために生きることをやめた日はない。
しかし、その努力を掻き消すかもしれない存在がいる。
「新座は……それなりに鍛えられたらしい。それなりでも、オレに拮抗する候補者として推される……まったく、才能ってものは困ったもんだよな」
皮肉にも似た言葉だが、そこに憎しみはない。
ただ静かに積み上げた自負と、少しの焦燥が混じっていた。
「燈雅様は今こうしてお食事をすることで力を貯めております。新座様には、それがありません。次の当主は燈雅様に間違いないかと」
即答する。
単なる忠誠の言葉ではない。事実だった。誰よりも近くで、燈雅の努力と――摂食による力の吸収を見てきたからの言葉だ。
「ま、無能な志朗は論外だし。新座も、食べ始めなければ……このままオレが当主だろうなあ。父上が目を覚ますかもしれないけど、このまま復帰できない可能性はあるし。どちらに転んでも、オレは動かねばならない」
男衾は、黙して頷いた。
――その夜、水の音が消えた。
北陸の山奥。澄水家と呼ばれるその一族は、代々、清らかな水脈を守り、その力をもって祈りを捧げてきた。
地元の人々からは、ただの隠者と噂されていたが、真実を知る者は、ごく僅かだった。
彼らが紡いできた水は、特別な力を持っていた。穢れを祓い、毒を浄め、迷える霊を鎮める。それは洗うための水。殺すための力ではなく癒し、清め、鎮める力。
それゆえに、仏田家は彼らを選んだ。
霧に紛れ、山道を這い上ってきたのは、仏田家の実働部隊だった。
彼らは言葉を持たず、音もなく山門を越える。張られていた結界は、呪符一枚で断ち切られた。
霊符が破れ、御神体の水鉢が粉々に砕ける。霊気の流れを読む祖母が声を張り上げるより早く、前庭は血に濡れた。
人を殺すことに躊躇のない者たちが、戸を蹴破り、屋内へと雪崩れ込んでくる。
泣き叫ぶ声。必死に術を放つ者たち。敵わない。
水の力は清めるものであって、破壊のために研がれてはいなかった。祈りは刃に変わらず、術は火薬にもなり得なかった。
それでも、ひとりの少女が逃げた。
代々の力を濃く受け継ぎ、家の未来と目されていた少女。
白い着物のまま、裏山へと駆ける。夜露に濡れた草に足を取られながら、それでも走った。
だが、その背に呪が落ちた。
見えぬ手が脚を掴み、意識が反転する。世界が黒く反転し、音が遠のく。冷たい闇の中で、少女は倒れた。
目を覚ましたときには、全てが変わっていた。金属の匂い。白い光。無機質な冷気が肌を刺す、清潔すぎる密室。
そこは、超人類能力開発研究所機関。研究と称し、何百という命を分解し、測定し、再利用してきた――地獄だった。
少女は、白衣の手によって薄い衣に着替えさせられ、床に座らされていた。手は震えず、声も出なかった。
ガラス越しに、誰かがこちらを覗いている。男も女も、白衣を着た者たちが筆記具を持ち、何かを話している。まるでモルモットでも眺めるように。
足首には識別タグが巻かれていた。「No.12」 名前は、もうどこにも記されていない。
ふと、視線の先に、あるカプセルが映る。
透明なガラスの中で、少女がひとり、静かに浮かんでいた。目は開いているが、何も見ていない。生きてはいるが、生きていない。それが自分の未来であることを、少女は悟った。
ここからは出られない。家はもう無い。家族も、皆、殺された。愛する人もきっと。……水は、もう流れていない。
全身から力が抜けていった。その瞬間から人間ではなくなると、理解しているかのように。
燈雅の夜の私室は、柔らかな光に包まれていた。
和紙を透かす天井照明が、淡い金色の陰影を畳に落とす。
その中央に据えられた漆の膳は、金と銀で縁取られた見事な造作。完璧な距離で燈雅の前に置かれている。
燈雅は黒絹の室内着を身にまとい、深く椅子に身を預けていた。
膳の上には、まるで絵画のような一皿。
漂うのは温かな香り。果実酒と血の旨味が融合した赤いソースが、艶やかにソテーされた肉に絡む。
添えられた野菜のひとつひとつにも魔力の調律が施されており、ただ美味いだけではない、霊的に完成された構成だった。
「……凄いな」
燈雅はフォークで肉を切り分け、そっと唇に運ぶ。
じゅわ、と舌の上に溶け出す旨味。その余韻には、確かにヒトの気配があった。
生命の密度。魂の震え。高度な魔術によって練り上げられた、仏田の聯合を芸術にまで昇華した料理。
「料理人は確か……西大家、だったか」
燈雅はナイフの先で皿の隅をなぞりながら、独り言のように呟く。
「オレの聯合は、もっと乱暴だった。魂をただ団子にして、口に放り込んでた。でもこれは……違う。魂も肉も、魔力の層も、全て完璧に調律されてる。調味も、火加減も、香りも……まるで感謝を込めて、誰かを殺したような味だね」
背後に控える男衾が、黙って頷く。
「料理人・西大家をお呼びいたしましょうか」
その言葉に、燈雅は微笑んで首を振った。
「いきなり呼んでも困るだろうし……いつか、お礼に行こう。『こんなに能力者を美味しくできる異能、素晴らしい』って」
再び肉を口に運ぶ。その味は、昼間研究所に運ばれた少女。その残滓が、見事に昇華されたものだった。
水の魔力はソースに溶け、清めの術式は旨味として増幅されている。
霊的な筋繊維は火入れによって繊細に変質し、魂の名残は、ソースの奥底でひそやかに揺れていた。
それをまるで芸術品を味わうように、丁寧に噛みしめる。
「……仏田の秘術を、こんな風にアレンジするとはね。やっぱり、閉じこもって祈ってるだけの魔術結社は駄目だ。拓けた機関は、良い人材を発掘してくる」
そう言って、燈雅は最後の一口を静かに飲み込み、男衾に命じる。
「とりあえず『感謝していた』と、先に伝えておいてくれるかい?」
「承知いたしました」
男衾の声は、相変わらず低く、揺らがない。
そして食事は終盤に差し掛かる。漆の盆に置かれたデザートが運ばれた。
淡い青のジュレ。真珠のように白いムース。その上には銀箔が、舞うように散らされている。香りは柑橘とバニラの柔らかな甘み。まるで夜空に咲いた一輪の月のような、静かな佇まい。
その一皿には、同じ日に運び込まれた、ある能力者の男がいた。
燈雅はスプーンを取らず、しばらく眺めていた。そして、ふと手を伸ばして皿を指先で押しやる。
「男衾、食べな」
控えていた視線が、静かにこちらを向く。
「……燈雅様のものです」
「肉料理を食べたからオレはお腹いっぱい。いや、美味しすぎてペロリだったけど……ほら、男衾は甘いものが好きだろう?」
燈雅は、軽やかに笑う。
純粋な気遣いだった。だがその夜の男衾は、答えなかった。
肯定も否定もない。珍しく沈黙が長い。燈雅は首を傾げる。
「食べたくない?」
スイーツの皿を、差し出すように持ち上げる。
そして、静かに告げられた。
「……興味なければ、聞き流してください」
男衾の声は、いつも通りの冷たさのまま。
「そのデザートの男と、肉料理の女は――婚約者だったそうです」
燈雅の瞳に、一瞬の空白が走った。
沈黙。男衾はそれ以上、何も言わなかった。
やがて燈雅の表情に、理解がゆっくりと浮かび――次の瞬間。
「あ……あ、あははははっ」
肩を震わせて笑い出す。それは愉悦とも、愛しさともつかぬ笑い。
「なるほど。オレの中で二人が再会できる、と……ロマンチックだね! 男衾は、可愛いなあ」
燈雅はくすりと笑みを深め、スプーンでムースをひとすくいすくった。
とろける口溶け。甘みの奥に、微かな苦みと、焦げかけた記憶のような残響。
「美味しいよ、男衾。まるで二人がオレの口の中で寄り添ってるみたいだ」
そう微笑む燈雅の声に、男衾はほんの一瞬だけ、睫毛を伏せた。
感情を持たぬ従者。そう作られたはずの男の横顔が、その夜だけはどこかほんの少しだけ、哀しげに見えた。
その夜の仏田寺は、異様なほど静まり返っていた。虫の声すら潜める回廊に、黒漆の床が冷たく月明かりを弾いている。
私室の奥では、燈雅が書に目を落とし、静かに筆を走らせていた。
襖の向こう、広縁の先には男衾が控えている。沈黙の塊のように、気配さえも押し殺して。
――だが、今宵の空気は、どこか僅かに揺れていた。
風はない。松明の火も揺れていない。それでも、何かが揺れた。
最初に気づいたのは男衾だった。一歩も動かず、瞳の奥で察知する。襖が僅かに開く、その刹那、静止からの一閃。男衾の体が宙を裂き、剣が掌から疾駆する。
障子を突き破って侵入した黒装束の男に、刃が吸い込まれるように突き刺さった。
敵は異能の暗殺者だった。術式で気配を断ち、空間を歪め、仏田寺の結界内に潜り込んできた。だが、術が完成するより先に、急所は穿たれていた。
呻き、倒れた敵の身体から呪気が噴き出し、霧のように空間を満たす。
燈雅が口を開きかけたときには、既に男衾の片手が宙に掲げられていた。空間に展開された結界が呪霊の爆裂を封じ、全ての術式を無音で鎮める。
全てが静かに終わった。
燈雅は椅子から立ち上がらず、茶をひと口啜る。
「凄いな、男衾。まったく気づかなかった」
「二重結界の間隙を利用して侵入したようです。内部に、協力者がいる可能性も」
微笑みながら、燈雅は茶器を置く。
「本当に、当主守護に相応しい働きだ。ありがとう、男衾」
「燈雅様を守るのが、自分の役目です」
「なら、今夜も安心して眠れるね」
命の重みは、あまりにも軽かった。呪気の残滓も空間の歪みも、既に男衾の手で完璧に処理されている。
燈雅はゆるりと立ち上がり、男衾の方へ振り返る。
「……男衾」
「はい」
「やっていいよね」
男衾は、黙って頷いた。
燈雅が指をすっと振る。空間に展開された術式が、仄かに輝きながら死体を包み込む。
皮膚が溶け、骨がたわみ、筋肉が滑らかに圧縮されていく。呪術によって潰されるのではなく、丁寧に和菓子を練るように、形を整えられる。ほどなくして血のような光を帯びた、丸い食材が掌の上に出現した。
重さは手頃、魔力の渦が脈打っている。
「半分こにしよう」
燈雅はそれを唇に運び、舌に乗せる。
あらゆる味覚が交錯し、視界が反転する。走馬灯のように流れ込む他人の記憶、視線、音、肌の感触、そして死の直前に残された魂の声が燈雅の中を巡った
《任務:仏田 燈雅、暗殺》
《理由:未成熟、危険視、機関との接近》
《報酬:機密指定魔具、血統の記録簿一冊》
咀嚼と共に理解されていく。燈雅は口元を拭い、嗤った。
「……旧派の残党が、まだ足掻いてるとは。仏田家もなかなか根深いな」
口に残る鉄の味も、力に変わる。
冷たく、理知的な微笑みが燈雅の口元に浮かぶ。それは哀れみに近い、勝者の顔だった。
手のひらに残されたもう半分の団子。血と魔術の余熱を湛えたそれを、燈雅は持ち上げる。
「毒は無いから、男衾も食べなよ」
まるで親しい人にお菓子を勧めるかのような、柔らかな声だ。
男衾は沈黙し、低く返す。
「……申し訳ありません」
「なにが?」
燈雅の眼差しは優しげでいて、芯を見透かすように鋭い。
「まるで、燈雅様に毒味役をさせてしまいました」
その答えに燈雅は一瞬だけ目を瞬き――そして、喉の奥で笑い出す。
「あ……ははっ。確かに、そうだよな。間抜けな話だ。暗殺者を倒した直後に毒で死んだとしたら……完全にコントだ」
珍しくも若々しい無防備な笑い。
だが男衾の顔は沈黙のまま、僅かに固く引き締まっていた。
「笑い事では、ありません……」
声には、悔恨と責任が滲んでいる。
その姿に燈雅は団子を摘まんだまま、男衾と目線を合わせる。
「拗ねるな。落ち込むな。……ミスなんてしてないんだから。誰にも見られてないし、完璧な仕事。完全犯罪さ」
だが、男衾の顔はますます無表情に沈む。
感情を押し殺したのではない。処理できず、沈めてしまったのだ。
「男衾ってさ、案外ユーモアあるんだな」
燈雅は団子を彼の前に掲げる。目がきらりと笑う。
「はい、あーん」
男衾は、受け取ろうと手を伸ばす。だが、燈雅が一歩、顔を寄せた。
声の調子を下げ、命令として囁く。
「だめ。命令。あーん」
それは支配者の声音だった。男衾は躊躇い……それでも、静かに口を開いた。
白く美しい指が、団子を彼の唇へと運ぶ。
無表情な男が、それを噛まずに受け入れ、喉へと落とす。
「よしよし、偉い偉い。……男衾はオレの傍を許されてるんだからさ、オレと同じモノを摂りなよ。共犯らしくさ」
「それは、恐れ多いです」
「命令だ」
「はい」
燈雅は満足げに微笑んだ。誰にも見られぬ密やかな場所で交わされた、一片の甘やかし。
だがその中にも確かに在る。命令と服従、主と従者の構造。そして血と魔術に彩られた、仄暗い夜の記憶のように……その甘さは、決して純粋なものではなかった。
一晩にして、燈雅と男衾の手によって暗殺者を送り込んだ一派は姿を消した。
粛清はあまりにも早かった。騒ぎも血の匂いも外には漏れず、旧派の残党は、息をする間もなく地に沈められた。
仏田家の闇――その支配権は、もはや燈雅の指先に宿っている。
命も血筋も、古き名跡さえも。彼が「不要」と判断すれば、それらは煙のように消えていく。
報復はない。涙も叫びもない。ただ「無かったこと」として、部下たちが淡々と処理を終えた。
燈雅は全てを終えた後、散歩から戻るような足取りで私室へと戻る。
衣には返り血の一滴すら付いていない。白磁のように清廉なその姿は、暴力の痕跡すら許さない。
襖を開けた瞬間、そこには男衾が待っていた。変わらぬ無表情で、寝巻きを静かに手にして。
「……今日は、よく働いた」
ぽつりと漏らされた声は、どこか満ち足りていて、それでいて微かに疲れていた。
「男衾、気遣え」
その言葉に男衾は一礼し、静かに歩み寄る。
何も言わず燈雅の帯に手を添え、優しく引く。滑らかな動きで着物をほどき、肩を支え、袖を脱がせる。
露わになった肌に触れる指先には、寸分の躊躇もなかった。
その所作は儀式ではなく、日常の延長だ。
主が甘え、従者が受け止める。そこには、揺るぎない信頼と習慣があった。
羽織らせた寝巻きには香の香りが染みている。
男衾は、乱れた髪を指先で撫で、ゆるやかに紐を結ぶ。
手早く、しかし丁寧に。機械のようでいて、どこか人間的な温もりを秘めていた。
「……もう、立っていたくないな」
燈雅が呟くように言ったその声に、男衾は無言のまま応じた。
ゆっくりと、燈雅の身体を抱き上げる。硝子細工を扱うような繊細な手つきで、腕の中に燈雅はすっと身体を預けた。
「お前に運ばれるの、悪くない」
吐息まじりに微笑み、男衾の胸元に頬を寄せる。
抱かれた燈雅は、戦いの場で見せる冷酷な当主とはまるで別人だった。
柔らかく、幼い。ひとときだけ鎧を脱いだ者の顔。
それは主従という枠を超えた、曖昧で、静かな繋がりだった。
男衾は寝台へと向かい、燈雅を静かに下ろす。
夜気が入り込まぬよう、寝巻きの裾を整え、布団をかける。
燈雅は微かに笑い、目を閉じたまま言った。
「今日は……お前が傍にいたから、乗り越えられたよ。ヒトの腕の中が、一番安心するんじゃないかって思った」
男衾は、何も答えなかった。
けれどその視線は深く、揺らぎなく、全てを受けとめる器のようだった。
/4
父・光緑の病状は、日を追うごとに深く沈んでいった。
倒れた直後こそ暴れ、錯乱の症状を見せていたが、燈雅の判断による強制的な投薬治療の開始により、やがてその姿はベッドに沈みきった。意識は朧となり、言葉も乏しく、時折目覚めても子どものように怯えるばかり。
威厳を湛えていた男がもはや、仏田の当主の顔を失っている。
療養室の空気は、死にゆく者のもので満たされていた。回復の兆しなど一度もなく、見舞いに訪れる者も徐々に減っていった。
仏田寺の住職ぐらいしか当主に毎日面会する者はいなくなったが、形ばかりの気遣いとして、燈雅とその母・邑子は顔を出していた。だが、そこにあるのはただ幼児退行した「何か」であって、かつての父ではなかった。
「……あれは、もう寿命だな」
誰もが口には出さずとも、そう思っていた。
次期当主の話題は、油を注がれた焚き火のように燃え広がる。座敷の影で囁かれ、廊下を渡る目配せの奥で熱を帯び、寺の空気はざわめいていた。
その中心に立つのは他でもない、燈雅だ。
実働部隊の指揮権を握り、機関との外交を一手に担い、摂食による異能強化までも進めている。仏田家の中枢は、既に彼の掌中にあった。
名ばかりの「後継候補」として新座の名が時折囁かれたが、彼は姿を見せなかった。「外の友人宅に滞在中」との報告もあったが、燈雅は何も言わなかった。
あれは、戦わずして降りたという意思表示だ。
盤面から自ら身を引くことで、誰より鋭く空気を読んでいる。さすがは天才児。燈雅は正直、少しだけ嫉妬した。
機関とのやり取りも、かつてないほど円滑だった。戦闘支援、物資供給、試験薬の運用、血統調査……全てが燈雅の一存で動いていた。
「当主不在」であるにも関わらず、いや、だからこそ仏田は滑らかに動いていた。
父が沈み、弟が消え、いよいよ燈雅がその座に手をかけようとしていた。
――燈雅が22歳になったある晩のこと。
もはや誰も、形式だけの延命措置を続ける光緑を「当主」とは呼ばなくなって久しい。その夜、滅多に訪れる者のいない療養室の襖が、静かに開かれた。
明かりも殆ど灯されていない室内。微かな灯のもと、白く痩せた父の肉体が静かに横たわっている。
燈雅は、すっとその頬に手を伸ばした。
温かい。まだ、生きている。しかしその中身は既に空だ。言葉も意志も威厳も、もうどこにも無い。
「いただきます」
静かに、唇が綻ぶ。そのまま喉元へと顔を寄せる。
甘噛みするように首筋を食んだ。皮膚を裂き、血を吸い、骨を割る。肉が崩れ、命が蕩けていく。
咀嚼とともに溢れ出す魔力と血の奔流。破壊ではない。これは吸収であり、継承であり、仏田家における儀式だ。
燈雅の中へ、何かが流れ込む。
無数の声。千年の血脈を繋いできた当主たちの、断末魔、咆哮、恨嗟、歓喜、呪詛、嗤い。異能、秘術、拷問の記憶、術式の残響、生者の断片、死者の記憶。かつて彼らが喰らった何百、何千の魂さえもが、伴って押し寄せる。
怒声、懇願、憎悪、愉悦。全てが燈雅の頭蓋を満たし、意識の奥底で叫び続ける。常人であれば、一瞬で狂い死んでいただろう。
――なるほど。父上が支離滅裂だった理由がようやく分かった。これほどの声を、たった一つの器に詰め込んでいたのだから。
だが、燈雅は立っていた。瞼を閉じ、両腕を開き、微笑む。
「うるさいよ。順番に喋って。順番に力を貸して。騒がないで。オレの中で暴れないで。オレが主人。お前たちは中身。当主に従うものだって、教わらなかったの?」
瞬間、仏田家という呪われた継承の系譜が彼という存在に集約された。
廊下の外で控えていた男衾は、気配の変化に即座に反応し、襖が開かれるのを待つまでもなく、膝を折る。
「燈雅様、おめでとうございます」
深く頭を垂れる男衾に、燈雅は微笑を返した。
その笑みは、どこまでも静かで、どこまでも冷たい。
もはや彼は、一人の人間ではない。千年の魂を従え、歴史を内包し、未来を定める者。彼こそが、仏田家そのものとなった。
――あの日からだ、と男衾は思う。
継承の儀と葬儀を終え、父である光緑の肉体を喰らい尽くして以来、燈雅は変わった。それ以前と以後で確実に何かが断絶していた。
見た目は、何ひとつ変わっていない。以前のように麗しく、涼やかな黒髪をなびかせ、微笑を絶やさぬ主人である。
指先の動きも、声の調子も、仕草のひとつに至るまで、完璧に「仏田 燈雅」になっている。
しかし、男衾には分かる。それは再現なのだ。
本物は、もういない。
機関の報告書を読み、評価を下し、まるで高級料理の献立を考えるように、一人を定める行為。それは燈雅が日々行なっている行事の一つであった。
だが、当主になってから新たな行為も加わった。
食材としてではなく、「今夜」として定める行為を。
天蓋の垂れる聖域。清らか見えるように管理され、設計された檻……寝台。
才のある者、美しき者、魔の血に親しき者が当主に選び取られ、跪かされるという夜。
今夜もまた、選ばれし者としてある男が、名誉かのように夜更けの寝室へと通された。
「君は、綺麗だね」
迎え入れられた男にかかる当主の声は、甘やかで優美だ。女王のような微笑みで囁く。
その手は恋人に触れるように頬を撫で、その指先は供物を確かめるように脈を測る。愛しさの仮面を被った、搾取の夜が始まる。
「怖い? ……良かった。怖がる必要は無いよ。君は、オレに選ばれたんだから」
彼は手を伸ばす。男の顎にそっと指を添える。首筋に唇を近づけ、耳元で囁く。
「君の力を、全部オレが美しく使ってあげる。……だから安心して、委ねなよ」
やがて寝台へ。男は伏せられ、燈雅はその上に身体を預ける。
絡む指。交わる吐息。その夜、快楽と苦痛のあわいで、魔力はゆるやかに搾り取られていく。
魂の深層に眠る魔術の血が、肌から肌へと流れ込む。男は朦朧とする意識の中で、歓喜とも絶望ともつかぬ表情を浮かべながら、当主に全てを捧げる。
やがて選ばれし者は命の残り香を宿すことなく、役目を終えて消える。その夜、得られた魔力は、永遠に仏田 燈雅のものとなるのだ。
夜の儀が終わった後の燈雅は、柔らかな寝間着をまとい、寝椅子に身を預けていた。
白磁のような四肢を無造作に投げ出し、濡れた髪を肩に流した姿は、まるで退廃の女神のようだ。
足元には、つい先ほどまで人であったものの残骸が転がっている。魔力を抜き取られ、内側から空洞になった肉体は、やがて従者たちの手によって静かに回収されていく。残されたものは、衣擦れと血の香、甘美な死の余韻だけ。
男衾は無言でその傍らに跪き、濡れた手拭いで主人の肌を拭った。
体液と血の混じる滑らかな皮膚は、穢れているはずなのに神聖ですらあった。
「どうした、男衾?」
燈雅が穏やかに問いかけた。
夜更けの眠る前の他愛ない会話のように。けれどその言葉には、鋭い刃が仕込まれている。
燈雅の知性は、沈黙に潜む機微を決して見逃さない。
男衾は手を止めず、無言で拭き続けた。その動きは変わらず正確で、機械のように忠実だった。
「いつになく難しい顔をしてる」
「そんなことは、ございません」
即答だった。
その声音は揺れていない。だが、燈雅はそれを信じない。
「そうかい? 何か言いたげな顔かなって。物申したい忠臣に見えたよ」
くす、と口元が歪む。その微笑は試すようでもあり、どこか寂しげでもあった。
男衾は答えない。ただ静かに、燈雅の掌を見つめる。
「もしかして、さっきの子は男衾の好みのタイプだったとか? お前もあの子、食べてみたかった? 甘味みたいに、分けてもらいたかった?」
細く、白いその掌が、人を選び、抱き、呑み込み、命を終わらせていく。それでいて美しく、冷たく、圧倒的なまでに正当である。
「言いなよ。……オレが命じれば、何でも言うものだろ?」
燈雅は寝椅子から身体をずらし、膝を崩して男衾の方へ顔を寄せる。
その声は、真綿のように柔らかい。甘さで包み込むようにして、従属と服従を撫で回す。
男衾はしばしの沈黙ののち、静かに答える。
「燈雅様の全ては……正しさの内にございます」
それは、主の狂気に向けて放たれた唯一の言葉。
忠誠の枠から一歩も出ることのない、完璧な従属。
「そう。なら、いいんだけど」
燈雅は瞼を伏せ、ゆっくりと寝椅子にもたれた。
だが目を閉じながらも、男衾の腕を掴み、寝台へと引き寄せる。
「でも、知ってるよ。お前の中にある、『何か違う』って気持ち」
囁く声に、柔らかく笑む口元に、男衾は何も返さなかった。
支配者としての矜持を持ちながら、今の主人は……まるで悲劇を喜劇に見せかける道化のように笑う。
命の終わりを玩具にし、犠牲者の頬に舌を這わせ、その血をまるで赤ワインのように啜りながら、悦楽の中で昇華させていく。
自らの体を使って、笑いながら甘やかな死の接吻を与えるもの。
それは美しく、あまりに冷たい。仏田 燈雅は、いまや悪魔だ。『悪魔の女』のようだ。
――かつて語った『彼が笑顔を浮かべる理由』は、そんなものだっただろうか。
/5
真夜中に、障子が鳴った。
無音に近い足音。寝室の主である燈雅が寝巻き姿の裸足で髪を解けたまま、ふらりと廊下へ出て行く。灯りも持たず、目的も告げず。
気配を察した男衾が、影のように並ぶ。
「燈雅様。いかがいたしました」
声を掛けた。が、返答はない。
燈雅はまっすぐ前を見ていた。けれどその目は、何も映していない。虚ろに、幻でも追うように、その口がぽつりと動いた。
「……あいたい……」
どこか異国の言葉のような響き。誰か人名を呟いているようにも聞こえる。だが男衾の知る限り、仏田家の関係者に燈雅が呟く名は無かった。
「燈雅様」
男衾は歩を止め、すっと腕を伸ばす。その手が、燈雅の肩に触れた。
瞬間、燈雅の全身がぴたりと止まる。そして瞳が焦点を取り戻す。現実を認識する。真夜中の静寂が、痛いほどに響く。
燈雅はゆっくりと自分の手を見下ろす。
まるで、自分という存在が今しがた戻ってきたばかりだとでも言うように。
「初めてか?」
燈雅の声に、僅かな震えがあった。だがすぐに押し殺され、平坦に戻る。
「はい。自分が知っている限り、燈雅様が夢遊病のような状態になったことは今まで一度もありません」
男衾は端正な姿勢のまま、燈雅の視線を正面から受け止める。
燈雅は数拍、沈黙ののち微笑もうとした。その笑みは、不自然に口角だけを引き上げた形ばかりのものだった。
「……すまない。止めてくれて、ありがとう……」
ぽつりと、謝罪が落ちた。
普段は命令と笑顔で世界を統べる主人が、誰に強いられたでもなく、自発的に頭を下げた。
その言葉は深く、男衾の胸に響いた。
眠りの中で彼が追っていたものは何だったのか。口走っていた「マキョウ」とは何なのか。そこに踏み込むことは、今はしなかった。男衾は一礼する。
「燈雅様。お戻りください。夜気は心身を蝕みます」
「……そうだな」
小さく応じて二人はまた、何もなかったように寝室へと戻っていく。
ただ男衾はいつもより一歩近く、燈雅の隣に座していた。
主が再び、名も知らぬ誰かの夢に引きずられることがないように。黙って守るために。
――燈雅の中には、幾億を越える魂がある。
摂食によって得られた魂は、彼の血肉となり、魔力の核となっていた。
吸収した者の能力を己のものとする仏田家の秘術『聯合』。喰らえば喰らうほど、その器は満ち、ひとつの身体で数千の魔力を統べることができる。
燈雅は当主となる以前から、食事のように命を重ねていた。
そして、継承の儀式。千年分の智慧と怨嗟が注ぎ込まれたとき、燈雅は文字どおり神の器となった。
「オレの中には、千を超える魂がいるんだ。うるさいくらいだよ。でも、全部黙らせた。オレの命令に従わせた。それが当主の力だから」
燈雅はそう言って笑った。柔らかく、清らかに。
声音の奥に、微かなノイズが混ざっていたとしても。口元が、一瞬だけ他人の歪みに見えたとしても。命令の節回しや、感情の震えの方向が、どこかずれていたとしても。
――夜半。眠れぬ主人と、黙して控える従者だけが、闇の底に残されていた。
燈雅は寝間着のまま、薄羽織を纏い、背を障子窓に向けて静かに座していた。
灯りはひとつ、ゆらゆらと頼りなく揺れている。
「なあ、男衾」
夢遊の衝撃が冷めたあとの声は、あまりに穏やかで。
まるで夜そのものが、人の言葉に姿を変えて囁いているようだった。
「オレの使命を知ってるか?」
ふいの問いに、男衾はすぐには答えなかった。
目を伏せ、慎重に言葉を選ぶ。
「仏田家の当主として、我らを導いていただくことかと」
「まあ、そう答えるか」
燈雅は肩を震わせて笑った。けれどその笑みは、空に浮かぶ月のように淡く、どこか儚い。
「すまないな、意地悪な出題で。……じゃあ、もう一つ。どうして仏田家っていう魔術結社が、千年も命を喰らい続けてきたと思う?」
灯明の火が揺れ、燈雅の頬に朱を落とす。
男衾は唇を引き結び、低く応じた。
「この荒んだ世に救いの神を降臨させ、全てを無に帰すことで、人類を救済するため――と、聞き及んでおります」
「なんだ。知ってたじゃないか」
燈雅は、ふっと目を細めた。
その瞳には、底なしの夜が宿っている。
「機関の所長・上門 狭山も、常に言っていることだ。……この世界は、もう限界だ。倫理は崩れ、死に場所も、生きる意味すら見失われてる。だから神が必要なんだ。救いを与えるために。……その神を呼ぶためには、膨大な魂が必要だ。だからオレが、器として千年分の命を溜め込む」
燈雅は掌を見つめた。
その細い指先から、淡い紅光が立ち昇る。
「……食べた魂たちが、中で蠢いてる。願いも怒りも悲鳴も、全て。だけど、オレが制してる。誰ひとり逃がさない。誰ひとり殺させない。それがオレの使命。神の器として、それを為すのが、オレだけの役割」
沈黙が降る。外では風が梢を揺らし、遠くで梟が短く鳴いた。
男衾は、言葉を捧げた。
「まさしくそれこそが燈雅様の尊き御役目。魂を抱き、贄を引き受ける、その身こそ神の代行かと」
「……神の代行か。ふふ、良い響きだ」
燈雅の背に、幾重もの影が重なって見えた。
歴代の当主か食らった魂か、それとも神の兆しか。
「男衾」
彼は夜の奥底を映す瞳で、じっと従者を見つめた。
「オレが神を呼んだとき……お前は、隣にいてくれるか?」
「はい。命の続くかぎり、永遠に」
灯火が、爆ぜた。
燈雅はその音に目を細め、まるで未来の契りを見守るように微笑む。
「……男衾。近くへ」
その声は、夢のなかから滲んでくるように、柔らかかった。
「はい」
男衾が近寄り、跪く肩へ、燈雅が身を寄せる。
衣擦れの音すら、静謐のなかに溶けていく。白い腕が首へと絡み、額が肩に触れる。髪が鎖骨に流れ落ちる。
「オレの体は、重いか?」
囁きのような問い。
「いいえ。毎夜、寝台へお運びしておりますが、苦になったことは一度もありません」
「ふふっ……でもオレには、重いんだ」
その声は、翳りを孕んでいた。
「最近……幾億という声が、息を吸うたび、指を動かすたびに蠢くんだ。泣いてる。叫んでる。死にたくなかったって。なぜ自分が食われたのかって……」
燈雅は男衾の胸に額を押し当て、ぽつりと呟く。
「……黙らせるのに魔力を使う。眠らせるのに快楽がいる。そんなの、知ってた?」
「存じませんでした」
「オレも、今夜ようやく気づいた。……当主でも、制しきれない声があるって」
言葉は落ち、また夜が満ちる。
「……重いな」
燈雅の指が、男衾の胸をぎゅっと握った。
「これだけ詰め込んだ。従えて、押さえつけて、それでも正気でいようとする……。でもさ。誰かが受け止めてくれると、少しだけ軽くなる気がするんだ」
沈黙。障子の外で、風が鳴った。
男衾はそっと、腕を伸ばし、主を抱きしめた。彼の胸に抱かれるのが、ただの器ではなく、ひとりの人間、仏田 燈雅であると知っているから。
「……男衾」
燈雅の声が、微かに震える。
「オレに、優しくしてくれるか。……もしオレが、重さに潰されて、歩けなくなったら……お前に背負ってほしい」
「はい。命の重さも、罪の数も、燈雅様の全てこの身に背負わせていただきます」
その答えに、燈雅は微笑んだ。そして微笑みの奥に、誰にも見せぬ夜がまたひとつ、降り積もっていく。
「お前は、耳に心地良いことしか言わないなあ」
燈雅の声は湿っていて、柔らかかった。吐き出されたそれは冗談とも皮肉ともつかぬ響きを纏いながら、静かに宙へ溶けていく。
だが言葉の裏には、誰にも触れさせぬ深層があった。
男衾は、わずかに瞬きをしてから頷く。
「はい」
一音が、仄暗い空気を微かに震わせた。
まるで、密やかに打たれた鐘のように。
――そう、造られているから。
仏田 燈雅のために設計され、鍛えられ、調律された存在。
鼓動の速ささえ、燈雅の情動と共鳴するよう、整えられている。
怒らせぬように。沈ませぬように。暴発を抑え、癒すために、常に傍にいる。
それが、器守 男衾の役割。ゆえに、言葉に躊躇はなかった。
「……ふはっ、はははは!」
燈雅が、その構造を悟って吹き出した。
吐息のように、喉奥で転がる乾いた笑い。
「そうだよな。お前はそうやって、オレの機嫌を取る。……それが一番の薬だって、機関の連中も思ってる。オレが壊れないように。誰も殺さないように。ただ上機嫌にしておけば、済むって……」
瞳の光が、静かに歪む。
幾層にも重なる色が、奥底を覆い隠し、虚無の深みを宿す。
男衾は、黙して動かない。
それが『最良の設計』だと知っているから。――所詮、それだけのこと。
燈雅が、ゆっくりと身を屈めた。白磁のような指先が、男衾の頬へ滑る。僅かに触れ、撫でるだけ。
「お前に罪は無い。……罪があるのは、オレをこんな風に組み上げた奴らと、それを受け入れて笑っている、オレ自身だ。お前はただ、そう在るよう命じられただけ。それで、いい。……それしかないんだよな」
指先が、ふるふると震えた。
微かに。――「裏切られたかもしれない」という温度が、そこに宿っていた。
何も男衾は裏切っていない。
だが、燈雅の『本当にほしいもの』を与える存在でもない。
その齟齬が、彼の指を冷やす。
「燈雅様。自分は……」
「いい。言い訳するな」
燈雅は視線を逸らさず、唐突に問うた。
「なあ、男衾。答えてみろ……仏田家って、好きか? 嫌いか?」
男衾は、一瞬だけ瞬きをし、視線を揺らした。
「燈雅様がお好きなら、好きです。お嫌いなら、嫌いです。自分は、燈雅様の意志に従います」
「……ほんと、耳に心地良いことしか言わないなあ」
燈雅の唇が歪む。
今度の笑みには、涙が滲んでいた。
「……お前に、あいつを重ねるなんて。いけないこと、しちゃったなあ……」
彼は男衾の髪に指を差し入れ、肌の輪郭をなぞるように梳いた。
触れた手は熱く、どこか切なげで……そして冷たい執着に満ちていた。
「……ふふ。オレはね、男衾のことが気に入ってる。そういうふうに造られてるって分かってても、ちゃんと安心できるんだ。お前は、オレのもんだろ?」
「はい」
男衾は即答した。そこに迷いは無い。
「だからさ。……お前の自由意思ってやつ、ちょっとぐらい尊重してあげようと思ってる」
燈雅は、言葉の響きを味わうように呟く。
自由という言葉が、男衾にとって何を意味するのか、誰よりもよく知っていながら。
「食べたいものがあれば言ってよ。世界中どこからでも取り寄せる。行きたいところがあれば、好きに行けばいい。金も人も用意する。……好きな子ができたらさ、思いきりデートしな。服も香水も贈り物も、全部、オレが出してあげる」
男衾の頬へ、自らの頬を寄せた。
子が母に甘えるような仕草で、だがそれは確かに支配の印だった。
「それくらい、オレはお前を大事にしたいと思ってる。……こういう甘え方、オレにはお前ぐらいしかできないんだ。遊ばせてくれよ。その代わり」
声の温度が落ちる。
「オレの手足であることは、やめるなよ」
囁く声が、耳を掠める。
「オレが殺したいと思った相手を、ちゃんと殺して。欲しいと思ったものを、奪って。……それさえ守ってくれるなら、お前は何をしてもいい。自由ってやつを、許してあげる。……だから、今までどおり、甘えさせてくれ。これからも、オレを心地良くさせる装置でいろよ……」
歪んだ優しさ。絶対的な支配。その両方を孕んだ声。
男衾は、瞼を伏せて受けとめた。
「自由は、自分には必要ありません」
それは、彼にとっての真実だ。
命じられたことを完璧に遂行する。それ以外のことに、意味を見出す回路を彼は持たない。
「そんなこと言わずに」
燈雅は気怠げに微笑み、男衾の胸元に指を滑らせた。
「オレが、今こんなに上機嫌なんだからさ。権利くらい、持っておいてよ」
男衾は、その言葉の奥に何か、別のものを感じ取る。
「……オレが、自我を失うようなときが来るかもしれない。無限の声に飲まれて、命令すら正しくなくなる。そんなとき、お前の自由意思が助け船になるかもしれないだろ?」
ふっと、燈雅は男衾の胸に額を預けた。
「オレを救うために、必要になるかもしれない。お前の勝手が」
「……つまり、独自に判断しろと?」
「そう。オレがしてほしいことを、常日頃からしておいて……いざって時に、役に立てて」
それは冗談ではない。
彼自身が、未来の崩壊を薄々察している証だった。
男衾は、静かに、主の身体を支えるように抱いた。
「……分かりました」
それは、従者としての同意ではなかった。
男衾にしては珍しく、そこには確かな意志があった。
燈雅はそれを感じ取ったのか、満足げに口角を上げる。
「やっぱり、お前はいい。オレの道具でありながら、いざってときには刃を持てる顔をしてる」
「その覚悟は、ございます」
「ふふ。じゃあさ、オレの心を惑わすような人間が現れたら、どうする?」
「殺します」
僅かな迷いもなく返された言葉に、燈雅はゆっくりと目を細める。
その笑みは狂気の淵に咲いた、耽美で寂しい微笑だった。
「……参ったな。男衾には、あいつを紹介できないや」
男衾は黙して、ただ腕に力を込める。
そのぬくもりを、確かに感じながら。
夜はまだ続く。この世に残された光は全て、闇の裾に飲まれていく。仏田邸もまたその摂理に従い、静寂に沈んでいた。風は鳴かず、虫も黙し、ただ仄かな寝息だけが、薄い夜気の中で揺れていた。
燈雅は、今度こそ眠っていた。深い夢の底に身を沈めたまま、穏やかな顔をしていた。
その寝顔を、男衾は隣で見守っていた。
仏田 燈雅――仏田一族に望まれて生まれてきた器でありながら、否定する願いを持ってしまった存在。
神の器として設計され、生ける供物として育まれ、無垢なる魂のまま力という呪いを受け容れた男。
そして自ら選んだ王座にすら、本当のところその身を捧げるるしかなかったという哀れな魂。
――この世を、全部無に帰す。始祖が愛した『悪魔の女』のように。
それが彼の願い。誰にも言えず、誰にも許されず、けれど何度も何度も喉奥で繰り返し、やがて声にもならなくなった祈り。
――この世界は、もう、要らない。
それが彼の、本当の望みだった。
男衾は、知っていた。それを認識したとき、心など持たぬはずの身体が確かに軋んだ。
この命は、彼に与えられた。彼を護るために。
でも護るとはなんだ? 笑顔を? 肉体を? 魂を? あるいは……彼の、その滅びの願いを?
そっと、手を伸ばす。燈雅の黒髪が、夜の波のように指に絡まる。
絹糸のようなその手触りは、かつての熱を失って久しい。それでも、触れるたびに、まだ確かに生きていると信じさせてくれる。
自分は彼のために創られた。その笑顔の裏にある絶望を受けとめるために。その言葉にならぬ願いを、解してやるために。
誰よりも近くに在り、誰よりも遠く、誰にも触れさせず、ただ独り、主の終焉を看取る者として。
たとえこの先、燈雅が全てを壊し、自らの名さえ失う未来が来たとしても、その最後の一瞬まで、男衾はそばにいるだろう。
彼の手足として。彼の影として。そして、もし主の声が届かなくなったそのとき――その手を取って、終わらせてやる。
それを約束とする。
誰に与えられたわけでもない。誰に強制されたわけでもない。
それでも、男衾は決める。確かに、自分の意志として。
燈雅の睫毛が震えた。夢の中で何かに触れたのか。思い出の浸れたのか。……愛する誰かに出会えたのか。
男衾は、そっと目を伏せる。祈るように、そして、誓うように。
――主よ。貴方の終わりに、どうか寄り添えますように。
本心から。
夜はまだ深く、仏田邸は何事も無かったように眠り続ける。
世界の終焉に向かう主と、その影として添う従者。二人だけの静かな密約が、誰にも知られぬまま夜の奥に溶けていくとも知らず。
END
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