■ さわれぬ神 憂う世界 「仏田燈雅の初遇変心」 ・ 番外編1ページ目
【番外編:燈雅】
/1
山奥深く雲に手が届きそうな深緑の森に、仏田の屋敷はひっそりと息を潜めていた。
雪が静かに降る日も、雷鳴が空を裂く日も、屋敷の障子の奥で少年・燈雅はじっと正座していた。火鉢のぬくもりが畳を柔らかくあたため、深紅の小袖に縫いこまれた金糸の紋が静かに光を返す。幼い身には過ぎた衣装だ。肌に吸いつくような絹も、炊き上げられた白米の整い方も、全ては整いすぎている。
だがその生活は、檻の内側と変わらなかった。
燈雅に与えられるのは正しさだけであり、自由はひと欠けらも許されなかった。
「燈雅様、書をお読みください」
老僕の低く張りのある声が、静寂に溶ける。燈雅はすぐに頷き、静かに口を開いた。
怒鳴ったことなど一度もない。戸の開閉でさえ音を立ててはならぬと教わってきた。指先の動き、瞼の伏せ方、箸の上げ下ろし、全てが仏田家の長男に相応しくあるべきとされ、魔術の詠唱と同様に正確さを求められた。
檻は見えない。だが確かにそこにある。
大人たちの沈黙の眼差しという目には見えぬ鉄の格子が、燈雅を囲っていた。
縁側から見える庭は四季折々の花が手入れされていた。だがその庭に下りることすら、燈雅には許されていない。
日々は止まることなく、鈍く淡く流れていく。桜が咲こうと、紅葉が舞おうと、雪が積もろうと、燈雅の暮らしは一片も変わらない。
山の麓の子らが花見に出かけ、川辺で魚を追って笑う声が風に乗って届いても、燈雅は座敷の中。呼吸を習い、瞑想し、呪文を唱え、経文を写し、ひたすら魔術を研ぎ澄ませるしかなかった。
ある日、障子の隙間から鳥影が一閃した。一瞬、胸の奥で何かがくすぐられた。
その感情に名前を与える前に、大人たちの声が降ってくる。
「心を惑わすものを抱いてはなりません。燈雅様は仏田の器でございます」
仏田家千年の魂を宿す器として育てられていた。肉体も精神も、全てはそのために用意されたもの。自分という輪郭は教義と訓練によって削がれ、冷たく尖った刃のように仕立てられてゆく。
個である必要などない。大人たちはそう断言した。燈雅はそれにただ頷くことしか許されていなかった。
時は進んでいる筈だが、燈雅の時間だけはどこかで止まっていた。
自分がいくつになったのか、何年が過ぎたのか、誰も教えようとしなかった。
ただ一つの言葉だけが、変わらずに燈雅の内に響き続けていた。
「燈雅様。貴方は必ずや、仏田家千年の悲願を成す御方でございます」
世界は広いのか狭いのか。燈雅にはそれすら分からない。知るための術も、手立ても、どこにも無かった。
夏の終わりを告げる風が、山の屋敷をそっと撫でる。
燈雅はいつものように筆を取っていた。書き写しているのは呪法。幾重もの禁忌を孕む、複雑で禍々しい文字列。指は少しの迷いもなく経をなぞる。
ふと、気配が揺れた。
風でもなく獣でもない、生きた誰かの気配に燈雅は筆を止め、縁側の向こうへとそっと目をやる。
そこに立っていたのは、見たこともない少年だった。
日に焼けた肌。乱れたシャツ。泥のついた運動靴。少年は目を見開き、燈雅の姿に息を呑んだまま、動けずに立ち尽くしていた。
おそらく、何かの間違いでこの隔離された館に迷い込んでしまったのだろう。警鐘は鳴らない。
けれど、何故だろう。その瞳があまりに真っ直ぐに自分を射抜いてくるから、燈雅は無意識に筆を止めていた。
暫しの沈黙ののち、少年は戸惑いながらも口を開いた。
「一緒に、俺と遊ばないか?」
声は震えている。その奥には、確かな意志があった。
燈雅はゆっくりと瞬きをした。
「遊ぶ。何を?」
本当に分からなかった。遊ぶという概念も、その価値も、燈雅の世界には存在していない。
少年は一瞬ぽかんとし、照れたように笑った。
「鬼ごっことかさ、なんでもいいんだ。ただ……お前、凄くつまんなそうな顔してたから」
つまんなそう。燈雅は思わず目を伏せた。そんな感情、顔に出した覚えなどなかったのに。
「名前は?」
「かみかど、けいご。お前は?」
「……とうが」
「とうが……。かっこいい、綺麗な名前だな。お前にぴったりだ!」
そう言って彼はニッコリと笑うと、縁側まで駆け寄り、砂で汚れた手を差し出してきた。
誰にも言われたことのない言葉。交わしたことのない会話。手を差し出してくれる人など、いなかった。全てが燈雅の胸の奥に、小さな明かりを灯した気がする。
その正体は、まだ分からない。ただ一つ、筆がいつの間にか手から滑り落ちていた――その事実だけが、確かに始まった何かを物語っていた。
/2
数日後、燈雅は再び、あの少年と相まみえた。
仏田の屋敷の広間にて。白木の床に膝をつき、燈雅は端然と正座していた。左右には重臣たちが列を成し、その正面に立つのは超人類能力開発研究所機関の長・上門狭山。その隣には、庭先で出会った少年・圭吾の姿がある。
狭山は切れ長の眼を持つ精悍な男だった。冷徹な光をたたえた瞳と、一分の隙もない仕立ての洋装。寡黙な礼節の奥に、不思議と仏田家の血筋に通じる威圧が滲む。
「我が子・圭吾を、燈雅様とも顔見知りにさせていただければ」
狭山の言葉に、燈雅は静かに首を垂れた。
圭吾も慌てて慣れない所作で頭を下げる。その様子は庭で見たときと変わらず、素朴で、どこか照れくさそうだった。
やがて広間を下がると、燈雅は一人、書院の縁側に佇む。障子を開け放ち軒先から風を迎えていると、圭吾がそっと傍らに現れた。
「燈雅。さっき随分真面目だったな。ああいうの、毎日やってんの?」
燈雅は頷いた。それが彼にとっての日常、疑うことすらしない当たり前だからだ。
「俺には無理だな、あんな堅苦しいの。できるの凄いよ」
圭吾はあっけらかんと笑う。
言葉に毒は無い。むしろ心からの敬意と、率直な思いが宿っている。その無邪気さが、燈雅の胸のどこかを柔らかく撫でていく。
「こうやって外、見てるのは好きなのか?」
「……嫌いではない、かな」
「そっか。じゃあ、俺も一緒にいていい?」
問いながらも、圭吾は返事を待たずに縁側へどかりと腰を下ろした。ぶらぶらと足を揺らしながら、風を掴むように手を動かし、庭の虫に指を差す。
一人で賑やかに、一人で楽しそうに、まるでここが自分の家であるかのように振る舞っていた。
燈雅は何も言わず、ただその様子を眺める。
目の前の少年が何故そんなに自由に動けるのか。どうしてそんなに自然に笑えるのか。分からなかった。けれど、目が離せない。
「燈雅は、何して遊ぶのが好きなんだ?」
「……さあ。遊ぶというものを、知らない」
一瞬圭吾は驚いたように目を丸くして、すぐに唇の端を緩める。
「俺が教えてやるよ。色んな遊び。どれか一つくらい好きになるかもしれない」
午後の陽射しが、縁側に差し込む。温かな光が障子の端から畳を照らし、二人の影を滲ませた。
「行こうぜ」
圭吾は陽を背にして立ち上がり、手を差し出した。
「……どこへ?」
「庭だよ。遊ぼうぜ。こないだ見かけたタヌキ、またいるかもしれない」
差し伸べられた手を、燈雅はじっと見つめた。
胸の奥に戸惑いと僅かな怖れ、そして抑えようのない憧れが生まれているのを燈雅自身も感じていた。
「もしかして、外に出るのが怖いのか?」
圭吾の声が、優しく響く。
「大丈夫だって。俺がいっしょだから」
そのまま、ぐいと燈雅の手を引く。その手は、あたたかかった。確かに、生きていた。
初めて外に出る。土の上を踏みしめる。草の感触。土のぬくもり。風が袖をくすぐり、太陽が瞼を照らす。
燈雅にとって、それら全てが初めて出会う世界だった。
「気持ちいいだろ?」
圭吾が振り返って笑う。
燈雅は小さく息を吸い、ゆっくりと頷いた。
「……うん。少しだけ、気持ちいいかもしれない」
「じゃあ、もっと外にいような」
そう言って駆けてゆく圭吾の背を、燈雅はそっと追った。
その日。燈雅は初めて自分の意志で歩いた。誰にも命じられず、誰にも強いられず、ただ自分の足で一歩を踏み出した。
その尊さを教えてくれたのは、ただ一人の、真っ直ぐな少年だった。
/3
縁側で圭吾を待つ日々も、もう何度目になるだろうか。
燈雅はいつも通り深緋の小袖に身を包み、正座していた。背筋を伸ばし、涼しげな面持ちに淡い笑みを浮かべて。その前に立つのは、中学生となった圭吾だった。
黒の詰襟に袖を通し、どこか誇らしげに胸を張る姿。少しだけ照れくさそうに笑っている。
「見てくれよ、燈雅。これ、制服。かっこいいか?」
「うん。とても似合ってるよ。きりっとしてるし、その服は圭吾の動きによく合ってる」
圭吾は得意げに、学ランの裾をパタパタとはためかせた。燈雅はその様子を見上げながら、目を細める。
「中学って、いいものなのか?」
「うーん、義務教育だから行かなきゃいけない場所だけどさ。できればいい場所だと思いたいな」
「オレには、縁の無い場所だ」
その言葉に、圭吾はほんの一瞬だけ眉を曇らせた。それでも努めて明るく言葉を返す。
「燈雅と中学に行けたら、きっと楽しいと思う」
燈雅は一拍だけ沈黙し、それから小さく首を横に振った。
「学校では魔術はやらないんだろう? じゃあ、無理だな」
ふ、と口元を綻ばせる。冗談に、圭吾は肩を竦めて笑った。
「そっか。そりゃ残念だ」
「オレも、残念に思ってるよ。もし同じ場所にいられたら……楽しいと思う。それは想像できる」
「……いつかそういう場所、作ってやるよ」
「無理だよ」
「言うのはタダだろ?」
燈雅は肩を揺らし、小さく笑った。
季節は音もなく巡り、山の空気は秋の匂いを帯びはじめていた。
中学生になった圭吾は、外の世界の知識を少しずつ深めてゆく。燈雅の知らない言葉、知らない出来事、仏田の中には存在しない常識を、圭吾は縁側で夢中になって語った。
燈雅は相変わらず同じ着物姿で、少し背の伸びた圭吾がその隣に座る。移り変わりが激しい少年は、ラフなシャツにジーンズ、手には小さなカメラを握っていた。
「これ、現像してきたばっかり」
圭吾が手渡したのは、光沢のある写真の束。燈雅はそれを丁寧に受け取り、指先で一枚ずつ捲っていく。
映し出されていたのは、遠い海辺の風景。走る自転車の少年たち、夕暮れの商店街、灯りの揺れる祭りの屋台。どれも音が聞こえてきそうなほど、生き生きとした風景だった。
「これ、圭吾が撮ったのか?」
「ああ。カメラって面白いんだ。色んな景色を燈雅にも見せたくてさ」
照れて頬を掻く圭吾。その言葉には、外に連れ出すことができない代わりにせめて世界の一片でも届けたいという願いが込められている。
「この写真、光が綺麗だ」
「だろ? 夕方ってちょっと切ないのにな……撮ると、あったかい」
燈雅は、その言葉に目を細めた。
「圭吾は、どんどん世界を広げていくんだな」
「燈雅も、そうなれたらいいのに」
「オレは、ここから出られない」
「……知ってる。でも、見ることくらいはできるだろ?」
圭吾は微笑む。けれどその笑みの奥には、拭えない悔しさが滲んでいた。
構わず燈雅は一枚の写真に指を滑らせた。人混み、まぶしい陽光、笑い声。その全てが、自分には触れられない幻のよう。
「ありがとう、圭吾」
それでも燈雅が呟いた瞬間、その横顔を、圭吾は静かにカメラに収めた。
秋の光に浮かぶ笑み。それは記録以上の何かとなる。
「オレなんか撮っても、フィルムがもったいないんじゃないか?」
「撮りたいもん撮って、何が悪いんだよ」
二人はふと笑い合った。自然と、同じ呼吸で。
同時に、圭吾の心の奥には小さな歓喜が湧き上がっていた。
(……やった)
燈雅の笑顔を、またひとつ手に入れた。
レンズ越しの燈雅は静かにそこに在りながら、どこかこの世のものではない美しさを湛えている。
黒髪に白い肌、均整の取れた横顔。昔から綺麗だった。けれど今は、ますます透明になってゆく気がする。
少しの笑みに、心が高鳴る。
(ドキドキすんだよ、まったく……)
圭吾はカメラを胸に抱き、深く息を吸い込んだ。
「圭吾」
名を呼ばれただけで、胸の奥がふわりと浮く。
どうしてだろう――何年経っても、燈雅の声はこんなにも響く。
「そ、それ、その写真……いいだろ、海のやつ。これとか。朝の港町なんだ」
燈雅は写真を一枚ずつ、目を細めながら丁寧に見つめていく。
唇の端が僅かに上がる。まぎれもない笑顔だった。圭吾は喉の奥がきゅっと詰まるような幸福感に包まれた。
(……やっぱ、好きだ)
その想いに、初めて恋という名前を与えたのかもしれない。
最初に出会った日。座敷の奥で一人きりだった少年。話しかけるのが怖くて、けれど目が離せなかった。ただ綺麗だと思っただけだった。けれど、あの瞬間から全てが始まっていたのだ。
外の世界には楽しいことがたくさんある。知識も景色も、感動も。
けれど、なによりも嬉しかったのは――それを燈雅と分かち合い、彼が笑ってくれる瞬間だった。
もっと写真を撮ろう。そのために車の免許も取ろう。たくさん働いて、余裕のある大人になろう。閉ざされた彼の世界に、少しでも多くの光を届けるために。
この笑顔を、もっと見たいから。
(――俺は燈雅のことが、好きなんだから)
圭吾はもう一度、彼に向かってシャッターを切った。
/4
燈雅にとって圭吾と縁側で過ごすひとときは、それだけで幸福の定義だった。
不思議なことに、圭吾が来る日には誰も部屋に入ってこない。
世話役の女中たちは声を掛けず、教育係の魔術師たちも講義の予定を静かに延期する。
そんな規則は存在しない。命令されたわけでもない。けれど、燈雅は知っていた。誰かが決めたのではなく、誰かが思ったのだ――この時間だけは、そっとしておいてやろうと。
その優しさの源が、圭吾の人柄にあることも。
彼はこの屋敷の人間ではない。それでも誠実に挨拶し、時に和やかな世間話を交わす。仏田家の者たちの誰よりも礼節を弁え、誰よりも相手を見ていた。
だからこそ、大人たちは安心して彼を傍に置けた。年齢も立場も超えて人の心を開かせる。それが圭吾という少年の、唯一にして確かな才能だった。
燈雅にとって、圭吾は檻の中に吹き込む外の風だった。心の奥で波打つ微熱。この時間が永遠に続けばいいと、言葉にこそ出さぬまま願う。
「ありがとう、圭吾」
「ん? どうした、急に」
「ううん。ただ、そう言いたくなっただけ」
燈雅の静かな言葉に圭吾は首を傾げて、それから眩しいほどに笑った。
「じゃあ、もっと言わせるぞ俺は。『ありがとう』とか『楽しかった』とか『いっぱい笑った』って、自然に言いたくなるようにしてやる」
笑顔を見ながら燈雅は、自分が生きているという感覚を久しぶりに実感していた。
だが楽園のような時間の裏側に、現実は容赦なく口を開けている。
白く冷えた石畳に朱が滲む。燈雅の掌から、唇の端から、静かに流れ出たものだった。
呼吸が浅い。肺が焼けつくように痛む。視界の端をかすめる霊的残滓は、失敗の証だった。
「もう一度やり直せ。印が乱れていた」
「……はい」
重たく響く声と同時に、また一閃、鞭が背に落ちる。
鋭く割れる音。燈雅は声を上げない。小さく震え、唇を噛みしめ、膝を地につけて倒れるまいと堪える。
(圭吾が来ていたら、これはなかったかもしれない)
そう思った。でもそれは甘えだと自らに言い聞かせる。
本来なら、今この瞬間も完成品になるために費やされるべき時間だった。圭吾のせいで削られたとは思わない。けれど、その遅れを取り戻そうとする大人たちの苛烈さには、きっと意味があるのだと理解もしていた。
魔術刻印は次々と、実験台のように刻まれる。霊的な刺青は視覚に干渉し、思考を操作し、詠唱の精度を高めるために魂そのものを塗り替える。
刻まれた瞬間、視界が裂けたこともあった。呻き声を漏らせば、すぐに口を塞がれた。
「器が悲鳴を上げるなど、恥と知れ」
叱責されるたび、燈雅は誰にともなく頭を下げる。額を床に、己を潰すようにして伏せながら、ただ一つ、誰にも聞こえぬ声で呟く。
(圭吾が来たら、何を話そう)
その数時間の笑顔のために、燈雅は血を流し、倒れ、魂を削り、それでもこの身を差し出すことを選んでいた。
日々は冷たく、苦しく、孤独で、痛みに満ちている。けれど、希望はあった。希望をくれる人が確かに居てくれたから。
今日もまた、窓が無い白い訓練室にいた。
石の祠のような空間にあるベッドに横たわり、胸元には幾筋もの血の痕がある。汗と血が混じり合い喉元を伝って落ちてゆく。
「魔力が足りない。式が不完全だ」
冷たく告げられた声に、燈雅は唇を噛む。謝っても鞭が加えられるだけ。
黙っていても何も変わらない。だから沈黙する。目を伏せ、次に来る痛みをただ受け入れる。
「ならば、供給しよう」
その言葉に、指先が震えた。肌に刻まれた封印がじわりと熱を帯びる。空気の色が変わる。淡く、濁り、濃密になる。
魔力供給――燈雅にとってそれは屈辱であり、避けたかった行為だった。だがこの家では、当たり前の手段として受け入れられていた。
粘膜の奥へ滑り込んでくる感覚。誰かの力で満たされるたび、魂が少しずつ削がれていく。
(どうして……こんなにも、気持ち悪いんだろう)
魔力は、本来神聖なものだったはずなのに。けれど必要だからと口にされるその行為は、ただの穢れだった。
「一人分の魔力では足りないか」
「それなら、二人分。十人分」
「貪欲な体に、大勢の魂の味を覚えさせましょう。いずれ必要となる感覚です」
その言葉とともに、何人もの男たちが並ぶ。
輪姦され、魔力を注がれ、誇り高き器として感謝を強いられる。
供給が終わるたび、身体は熱を帯び、心は冷える。吐き出す息に嗚咽が混ざり、圭吾の笑い声が遠い幻のように脳裏で鳴る。
その音に縋るように、瞼を閉じた。
日々は、変わらない。
圭吾が来て、笑って、優しさに触れて。修行に苦しみ、何人かに抱かれ、魔術を施され、夜は一人で熱に浮かされる。
圭吾が中学を終え、高校へ進学する頃。燈雅もまた、儀式の時間が増えていった。
研究室での手術。何度目か分からない、霊的な強化処置。
天井の霊灯。何百回見上げたか知れぬ光が、今は冷たく自分を嘲笑っているように見える。
(今日の連中、クソだったな)
ぽつりと、思考の底に沈む声が浮かぶ。
(圭吾が光を教えてくれたせいで、闇がこんなにも際立つ)
どれだけ耐えても、誰も見てくれない。
誰も止めない。誰も、気づかない。
この山の奥、屋敷の中、土と血と呪いで作られた檻の中で、燈雅はただ千年前の再来のために磨耗させられているだけ。
(……みんな、死んでくれていい)
その願いは、胸の奥から滲み出す泥のようだった。
朝。桜が肌を撫でる季節。縁側には、あの日と同じように二人が並んでいた。
圭吾は、初めてネクタイを結んだスーツ姿だった。父に似た晴れ姿を、真っ直ぐに燈雅へ見せる。
「どうだ? 似合ってるか?」
ぶかぶかの肩、ぎこちない結び目。それでも、誇らしげなその顔は眩しかった。
「うん。とても似合ってるよ」
燈雅の言葉に、圭吾は耳まで赤くなる。
「そ、そうか? 燈雅が言ってくれるなら、恥ずかしいけど、自信がつく」
「恥ずかしいのか?」
「……なんていうか、俺、こんなに生きていけるとは思ってなくて。ほら、俺って平凡だろ。何も無いただの素体だからさ、いつ処分されてもおかしくないってよくからかわれてたんだ。そんな俺でも、ここまで生き残れた。大人みたいな格好できるぐらいに」
無邪気な言葉に、燈雅は目を伏せるように微笑む。
「圭吾は生きる価値がある人間だよ」
「はは……次期当主の燈雅がそう言ってくれたなら、もっと自信がつく」
「まだ次期当主と決まったわけじゃないぞ。オレより新座の方がいいって意見まだまだあるからな」
「そ、そうなのか。新座くんも凄い子だけど……」
「頑張れよ、圭吾。お前なら、何にだってなれる」
真っ直ぐな激励に、圭吾はまた少し照れて笑った。
彼の存在が、燈雅をひととき人間に戻してくれる。
夜。風が肌を刺す季節。燈雅は布団の中で熱に浮かされていた。
(また……熱か)
痛む体。刻まれた印が、肉の奥で蠢く。額には熱、背には冷え。喉は渇いているのに、水を飲むのさえ億劫だった。
(……オレの体が、オレじゃなくなっている)
けれど、止められない。止めてもらえない。
背中には、昨夜新たに刻まれた魔術刻印がまだ熱を持って鈍く疼いていた。微かに唸ると、胸の奥から咳が漏れる。反応するかのように、刻印が脈打った。
それでもふらつく身体で机に向かい、震える手で魔術書をめくる。
誰も褒めない。誰も救わない。それでも、今日も学ぶ。
それが、燈雅に与えられた生なのだから。
神経系に作用する強化処置、霊的骨格の増幅、肉体構造の再調整。人間という枠を超える調整。
当主の器として、必要なこと。
熱で霞む視界のなか、ふと天井を見つめる。
「……馬鹿馬鹿しい」
障子の向こうから、遠慮がちな足音が聞こえた。乾いた風に乗って、外の匂いが忍び込む。
「燈雅、いるか?」
声を聞こえた瞬間、体が震えた。駆け寄りたかった。けれど痛みが、それを許さない。
「開いてるよ、圭吾」
なるべく心配されないように平然と声を放つと、障子が開く。圭吾がそこにいた。
「おい、大丈夫かよ……顔、真っ白じゃんか」
彼は迷わず部屋に入り、水を注ぎ、そっと手渡してくれる。
「無理すんな。寝とけって。無理言ってお手伝いさんにここに入れてもらえたんだ、すぐ出ていくよ」
「そんなに心配してくれなくていいのに」
「燈雅のことがずっと心配で眠れなかったんだ。悪いかよ」
「優しいな、圭吾は」
圭吾の目には、燈雅が「風邪をひいた病弱な友人」にしか映っていない。
そして、誰もそれを訂正しようとはしなかった。女中も、魔術師も、警備のものも、無知な圭吾には何も教えない。
圭吾は鼻を掻きながら、言い淀む。
「そりゃ……す、好きな奴がしんどそうにしてたら、気になるだろ」
燈雅は、痛みも熱も忘れて、笑った。
――この空気だけが、本物だった。
――この時間だけが、燈雅という名前を思い出せる瞬間だった。
全身は痛い。意識は朦朧としている。
それでも圭吾の来訪は、燈雅にとって何よりも尊いものだった。
/5
肩で荒く息をつきながら、燈雅は片膝をつく。
肋骨の下、焼けるような痛み。先ほど刻まれた新たな印が、皮膚を越え、肉の奥深くに文様を刻んでいた。
何度も同じ苦痛を味わってきたはずなのに、体はまだ、それに震える。
(また新しい魔術刻印を刻まれて……何個目だ)
腕の内側、背骨の間、胸骨の上。目には見えぬ霊的刻印が、既に全身を覆っていた。それは呪文を定着させるための器の仕組み。神を降ろすために設計された人間の最終形。
そう、燈雅は器だ。仏田家が千年をかけて造り上げた、神降ろしのための完成品。仏田家の千年の悲願を叶えるには、この行為は必要不可欠。
「……神を、呼ぶ」
そう、教えられた。
世界は病んでいる。人々は堕落し、争い、欲望に溺れている。だからこそ、神が必要なのだと。救済の象徴、調和の化身。あらゆる苦しみを清め、新たな秩序を築く存在。
その媒体として選ばれたのが――仏田 燈雅。
だが、その言葉を思い出した瞬間、喉の奥から乾いた笑いが漏れた。
「……はは。救済、だって?」
咳とも嗤いともつかぬ音。
(くだらない)
誰かの正義、誰かの理想、誰かの愛のために、命を注がれるこの肉体。自分の声も、感情も、希望すらも――誰かの目的のために使い潰される。
(何故そんなもののために、オレが苦しまなければならない)
街を見たこともない。自由に生きた記憶もない。そんな自分が、世界を救うなどと命じられる。
(馬鹿馬鹿しい)
力の入らぬ手を見下ろしながら、燈雅は目を伏せた。
生まれた時から決められていた人生。ならば、どんな願いも、もはや無意味だ。
叫びもしない。抗いもしない。怒りすら、とうに枯れた。
心は、静かに空へと還っていく。
死すら意味を持たない。何故なら肉体はもう自分のものではない。
――神を呼ぶ。
その言葉の虚ろさに、再び燈雅は小さく嗤った。
冷たい床に額をつけながら、ぽつりと思う。
(この世界が、救われなければいい)
それだけが最後に残された、たった一つの自分となっていく。
燈雅は成人した。
圭吾は大学進学を機に、機関を出て上京し、仏田家から姿を消した。
大学に通い、研究所の監視下からも離れ、ごく普通の生活を手に入れたのだ。もう、隣接した館に顔を出す理由もない。
そう、自分が願った未来だった。圭吾はこのままだと聯合される。優秀でもあり平凡で無能な彼は、いつ殺処分対象になってもおかしくなかった。だから失敗をして殺されるよりも、何をしたって殺されない一般社会に身を置くのが安全だ。
そう思ったから、燈雅は手回しをした。研究所生まれの圭吾は夢見ていた一般人の生活を、これから堪能できるだろう。
自分がしたこと。どんな感情を抱こうと、もう誰にも咎められない。
圭吾がそこまで自由になったこだから、燈雅もまた、自由に感情を抱いてもおかしくはない。
(このまま……世界が終わればいい)
自由に様々な感情を巡らせても、おかしくはない。
――怒り。憎しみ。虚無。それらに身を浸すと、不思議なほど楽になった。
受け入れていたから、苦しかった。
拒絶し、憎んで初めて、呼吸が楽になった。
激しい感情で心を奮い立たせると、なんと心が軽くなることか。
燈雅はその日初めて、己を汚そうとした男の頬を強く叩いた。
逆に見下ろしてやった。
「そんな汚らしいものを、オレに見せて悦ぶつもりか?」
途端に呼吸が、しやすくなった。
やがて、複数人が床に膝をつくのが当たり前になった。
燈雅は、黙してそれらを見下ろした。
眼差しは冷えきっていた。だがその奥に燃えていたのは、氷のように研ぎ澄まされた炎。
「立てないのか? 這いつくばったままなら、犬のように扱ってやるよ」
かつて自分が言われた言葉を、今度は自分が返す番になっや。
支配することに迷いはなかった。支配されていたからこそ、相手の崩し方を知っていた。
命令される前に、命じる。触れられる前に、選ぶ。傷つけられる前に、笑う。
燈雅は微笑むことをやめなかった。微笑に威厳と侮蔑が混じるようになった。
「魔力をオレに与えたい? なら、這って願え。お前の魂に価値があるかどうか見極めてやる」
その場にいた者たちの誰も、逆らえなかった。
器は、玉座に昇った。かつての拷問室は、支配の殿堂となった。
石畳に伏す者たち。媚び、縋り、欲しがる目。
その全てを燈雅は踏みしめる。血に濡れた床の感触すら、今は快い。
これは復讐ではない。罰でもない。儀式であり、運命であり、仏田という名に課せられた千年の業の果てだ。
「吠えたいなら許すよ。でも飼い主に牙を剥く愚かさは、よく知っているだろう?」
声は美しく、残酷だった。
仏田燈雅は、王となった。
血と呪いに支えられた千年の玉座に、今や誰より自然に座している。
跪く者は増え、従う者は息をひそめ、彼の命令に背く者は存在しない。
あの鞭も、今や彼の手にある。ただ振りかざす必要はない。ただそこにあるだけで、人々は平伏した。
圭吾がいなくなって、どれほどの季節が過ぎただろうか。春が巡り、夏が過ぎ、秋が溶けた。燈雅は、もはや日を数えない。それに意味など、無かった。
あの少年はもう、戻らない。縁側で笑って「元気か?」と尋ねてくれた顔は、もう遠い。
それで良かった筈だ。聯合され死に運ばれる圭吾を遠くに飛ばしたのは、当主が確定した自分がまず第一に行なった仕事だったのに。彼が平穏な日々を手に入れること――それを心から燈雅は望んでいた。
けれど、胸が焼ける。心の底が、ひどく裂けるように痛い。
送り出したのは、自分だった。もう彼は振り返らないだろう。つまりもう、自分は必要とされていない。
――彼の人生に、もうオレが要らないと理解してしまった瞬間、喉の奥に笑いが湧いた。
口角を上げた。自嘲に近い吐息が漏れる。頬を伝った雫が、全てを裏切る。
哀れだ。惨めだ。
あいつが笑えば、それだけで癒された。あいつが来れば、世界が澄んで見えた。燈雅にとって、あの存在は――。
「……神、だったのかもしれない」
もう触れることもできないぐらい遠くに行った友人の正体に気付き、燈雅は胸の内側を擦り切らせていく。
声にならない嗚咽が喉からせり上がる。泣きながら、笑っていた。
「……はは、あいつ、ひどいな。……オレにこんな顔させて……当主だぞ、オレ……もっと縋ってきたっていいぐらいなのに」
嗤いが嗚咽に変わり、嗚咽がまた嗤いを混ぜる。
どちらかでは足りなかった。ただ泣くだけでは、傷は癒えない。ただ笑うだけでは、焼け跡は残ったまま。
彼の声が聞きたかった。名前を呼んでほしかった。もう一度だけ、顔を見せてほしかった。ただ、それだけだった。
けれど王座の間には、誰もいない。臣下も、女中も、跪く者すらいない。
静かな空間で、燈雅はただ一人になった。一人きりになった縁側で、唇が震える。
縁側で一人を噛み締めた燈雅の唇が動き――そのまま、自分自身に命じるように呟いた。
「……いらないな、こんな世界。終わらせよう」
誰も止めない。止められる者など、どこにもいなくなった。
微笑みのまま涙を流す王の姿は、まるで世界そのものの痛みを凝縮した像だった。
苦しみに狂うのではない。
苦しみを美しく焼き上げて、冷たく笑う。
微笑みは神の祝福ではない。取り残された悪魔の決意。そうして彼は歩き出す。止める者のいない道を、一人で。
END
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