■ Fragrance



 あれは僕の最初の記憶。

 一人。
 光の差さない暗い部屋。
 其処にずっと縛られていた。

 最後の帰りを待って、迎える。
 最後の暴力に受けて、最期に、破裂音。
 太い悲鳴と、音に反応しての足跡。

 それが、一番最初の記憶。



 ―――知らない話声が聞こえ、目を開ける。

 目を開けると白い空が見えた。見たコト無い真っ白な空だった。
 途端、―――じぃん―――とした身体全身の痺れる痛みに襲われる。
 目を閉じると、少しその痛みが和らぐ。開けると、痛みが走る。その繰り返しがずっと続く。

「おはようクロト君。回復おめでとう」

 痛みに耐えているといきなり声を掛けられて、声がした方を向いた。そこには白衣姿の男が立っている。眠っていた時聞こえた、知らない声の人だ。

「傷は若いんだから直ぐ治るよ。3日もすれば走り回る事もできる」

 笑顔で大人の男は話し出した。周りには看護婦さんやら、同じような白衣の大人達が僕を取り囲んでいた。
 取り囲んで、何か話している。
 僕の知らない僕の事情を、僕に内緒で。

 アンタタチダレ。

 尋ねたかった。でも身体全部がイタくって、声が出なくて尋ねられなかった。
 痛い、痛い、痛い……。
 頭を駆け抜ける言葉は、それだけ。ドコが痛いとかどれだけ痛いとか関係ない。とにかく痛い。
 まるで、……頭に「痛い」というものを埋め込まれたみたいに。

「今日から此処が君の家になるんだよ」

 白衣の男がそんな話をしていたけど、僕はそれどころじゃなかった。

 僕は包帯に巻かれてる。
 僕の周りには見たことのない装置が色々置かれている。
 そしてお医者さんらしい人達が何人か取り囲んでいた。
 全くなんなんだよ、と文句が言いたい。でもさっきから口から出るのは「イタイ」しか。
 言いたくないのに口がそれしか動かなかった。
 そのうち口が痺れて「イタイ」も言えなくなる。
 イタイって思わなかったら、何なの。「クルシイ」とか言えって?
 意識が起きてるけど、身体が寝ている。そんな気持ち悪い躰になってしまった。

「歩けるようになったらこれから君が住む所に連れて行ってあげるよ」

 変な笑顔を見せつけて、どっかの大人がそう言う。
 いや、そんな笑顔向けられても困るんだって。だって今痛いんだってば。

「此処には同じ年頃の子も沢山いるから仲良くするんだよ」

 仲良くしてる場合じゃないよ。痛いんだよ、さっきから躰のあちこちが。
 涙を流してそう訴えてるのに、どうして誰も助けてくれないんだろう。
 周りにいるあんた達ってお医者さんじゃないの? ならこの痛いのトメてよ。

 どうしてそんな、みんな平然としてられるの?
 僕一人だけ痛がって、泣いて、ボロボロになってて。

 僕一人。

 声が出ず、立てず喋れず、一人きりで
 住んでいた場所が変わっただけで、後は何も変わってないじゃないか。

「此処にいれば安全だからね」

 どこが安全なの?
 ねぇそれより今の安全を……この痛みを…………早く助けてよ。

「もうお父さんに殴られる心配はないよ?」

 ……………………………………言われて、納得した。
 そっか、だからココは安全なんだ。―――と。



 なんとか動けるようになって、僕は別の部屋に移された。
 寝る場所、洗う場所、食べる場所を教えられる。ここに住むための術をゼロから教えられた。
 そして昼間は同じ年齢の奴等と遊べと言われた。まだ遊び回る年齢だから、って。
 そのかわり勉強の時間は違う時に残してあるって、……何か嫌な響きだった。

 でも、どうやって遊べばいいんだろう。
 全然知らない奴等の中にいきなり放り出されて、一体どうやって。
 そこまでは大人は教えてくれなかった。

 公園みたいな広場を見回す。
 大勢ではしゃぐ子供もいれば、少人数で静かに遊ぶ子供もいる。
 思ったのは、ノンキだね、とか、ヘイワだね、とか。
 僕はあの中にまざらなかった。
 まざれなかった。

 声が出せず、立てず喋れず、一人きりの僕が、どうやってあの世界に入るというのだろうか。

 どうしたらいいかわからない。
 だって今までこんな状況に立った事が無かったから。
 ずっと一人だったから、一人のままで暮らしてきたから。
 人の多い世界は、逆に辛い。

 辛いなら、一人のままでいよう。
 もっと静かな場所に逃げよう。
 一人の世界を見つけだして、そこで暮らせばいい。
 お昼の時間になったら帰ってくればいいだけだ。
 僕は探し出す。
 一人になるための場所を。

 ―――歩いているうちに、子供の気配が消えた。

 子供が誰も来ないような空間に出た。
 うるさい声も聞こえない。騒がしい音は一切しない。
 静かで、暗くて、ちょっと独特な匂いがする部屋を見つけた。
 まるで、僕の家みたいだった。だから入ったのかもしれない。
 そこは、変な部屋だった。
 光のない部屋。薄暗くてインクの匂いが充満している部屋。
 ここなら一人で泣いていても何も言われない。
 誰かがいる所で泣いてるといつもややこしくなるから、だから泣く時はベットの中だけだって決めてる。
 でもこういう暗い所だったら、ベットと同じだ。
 転がる。頭に固い物が当たったけど気にしない。

 じわり。
 視界が歪む。

 暗く、黒かった視界が、真っ白に染まっていく。
 全てを真っ白にしてくれる涙が、溢れて枕に落ちた。

「そんなに泣いたら本が濡れるだろ」

 床に放り出された一冊の本を枕にしてると、突如上の方から声が聞こえた。
 驚いて顔を上げたけど、泣いてるのを思い出して顔を背けた。

 一瞬見えたのは、子供。
 誰かに、泣いてる所を見られた。

 どうやって言い訳しようか必死に考える。
 どうやってココから逃げようか必死に考える。
 変な部屋…………本だらけの変な部屋で、一人考える。

 子供は誰もいないと思ったのに。
 何で子供はいないと思ったんだろう。
 それは、頭上にいるヤツは、子供じゃないからだ。
 僕と同じくらいの年齢(もしくはちょっと上?)だけど、僕よりずっとずっと大人っぽい。そんな子供だった。

「何かあったのか? どうしてこんな所に一人でいるんだ?」

 ゆさゆさ、と其奴は肩を揺さぶってくる。
 うざったい。というか、どうしたらいいか判らなくて、どうにかして逃げようとばかり考えている。

「どっか痛いのか? 誰か人、呼んで来ようか?」

 屈んだのか、声が近くなる。
 本当に、此奴は僕を心配しているようだった。
 それが逆に困る。僕は、心配されるような事は何もしていない。だから……。

「………………いい………………」

 久しぶりに聞いた自分の声は、震えて今にも消えそうなものだった。

「本当にいいのか? だってお前、震えてるぞ」

 そう言って背中を摩ってくれる。
 震えてるのはお前が触ってるせいだよ。
 早くどっか行けよ……。
 そう思っても、声が出ないんだから伝わるわけがなく。

 ―――其奴は、永遠と背中を摩っていた。

 薄暗い部屋が、本当に暗くなってきた頃。
 ずぅっと摩っていた其奴の右手がやっと止まる。

「痛いの……飛んだか?」

 其奴は優しい声で尋ねてきた。僕の前に跪いて顔を上げさせた。
 泣き疲れて力が無くなった僕は、其奴に顔を上げさせられる。

 そこでやっと目が合った。

 最初、一瞬だけ見えたヤツの顔を見た。
 ドコにでも居そうな子供。なのに目だけが落ち着いていて、ヤケに大人っぽい。
 金の髪、緑の目。
 どちらかといえば、他の連中より整った顔立ちをしていると思った。

「お前…………目、真っ赤だぞ」

 目の下を、眼科医のように伸ばしてくる。嫌がって顔を振ると直ぐに顔から指を離した。

「髪の毛と同じくらい、赤いぞ」

 離した指は、僕の髪に移る。
 それも拒否しようとするが、……そうする力がもう無かった。めんどくさくなって為される儘になる。
 此奴は他の連中と違って一回拒否すれば逃げてく奴等とは違う。
 何度僕が嫌だと言って……はいないが示してもずっと構ってくる。
 暇人。周りには時間を潰すための本が散乱してるのに。

「痛くないかそんなに泣いて?」

 ……痛いよ。痛いに決まってるじゃないか。
 そう泣かせてるのはお前だっての。

「そんなに淋しいのか? だから泣きやまないのか?」

 ずっと僕の頭を撫でてくれる。
 違う友達の所に行けばいい。いないから一人で僕の事なんか相手にしてるのだろうか。
 いつまでやってるんだろう。さっさと僕なんか放っておいてどっか行っちゃえばいいのに。

 僕なんか無視して。
 僕なんか、一人にして。

 ……。
 一人でいることを淋しいと言うなら、此奴もココからいなくれば一人だ。

「ねぇ……」

 意を決して、声を掛ける。僕が話したのを聞いて、ビックリしたみたいだ。

「僕は、淋しいんだ。淋しいから一人なの。………………だから、どっか行ってくんない?」

 最初から我慢してそう言えば良かった。一人になりたいって早く言ってしまえば。

「淋しいなら俺が一緒にいてやるよ」
「……お前が淋しいから、だろ……」
「…………………………何だお前、全然喋れるじゃないか」

 奴の声が笑う。落ち着いた笑い方で、癪に障る。

「ずっと黙ってたから、喋れない病気なんかと思った」
「……違う……」
「あぁ、そうだな。安心した。うつったら大変だしな」

 お願いだから……どっか行ってよ。

「でももう部屋に帰った方がいいぞ。いないって騒がれる」

 ……それは困る。昼飯抜いたから何か食べたいし。夕食は抜けない。

「なぁお前、………………一緒に帰るか?」
「ぇ……?」
「図書館からあそこまで、夜になると真っ暗で何も見えないんだ。ホラ、手……」

 其奴は無理矢理僕の手を引いて、その部屋を後にした。
 インクの匂いから解放される。爽やかな匂いに身体が包まれる。
 同時に、闇が僕らを包んだ。

「……っ」

 一寸先は闇。……意味は違うかもしれないけど、そんなカンジ。
 見えるものは何もない。
 それでも前に進めるのは、―――此奴が手を引いてくれるから。

「足下気を付けろよ」

 図書館から僕達の暮らす所までは暗くて前が見えなかった。けど、其奴が先導してくれて無事に帰れた。
 其奴はずっと僕の手を引いてきた。
 触られるのは嫌いだけど、今日は泣き疲れたから抵抗せず、奴の引かれる儘にしておいた。



 次の日も、僕は一人になりにあの部屋に来た。

 どうしてかは判らない。でも僕には多くの子供達とはしゃぎ回るより、一人の方が似合うと思った。
 インク臭くて薄暗い部屋に入る。
 相変わらずその部屋は本以外何も無くて、誰も子供はいなくて、大人もいない。
 只、大人のような子供がいた。
 本棚と本棚の間、1メートルも無い幅の中で蹲って本を読んでいる。
 今日こそ僕一人かな、と思って入ってきたのに、気配を消して読書していたらしい。
 気配って無意識に消せるものじゃないよな……まるで、ヤツは此処に自然に、住んでいるみたいだった。

 言うならば図書室の妖精。……あんまり格好良くない。

 その姿を見ていたら、突然本の文字だけを追っていた奴がこちらを向いた。
 口元と、緑の目が笑っていた。
 楽しい本を読んでいたんだと思ってたけど、後々聞いてみたらそんなに楽しい本じゃなかったとか。
 じゃあ何で笑ったんだよ。言い返すと、変な答えが返ってきた。

「お前、普通に喋ってるよな」

 ……間違えた。コレは答えじゃない。質問を無視されたんだ。

「でも、ちょっと目赤いな……やっぱり昨日一日中泣いてたからだって」

 ページを捲っていたヤツの指が、また僕の目元を襲う。こっちは嫌がっているというのに構わず。
 本を読みに来たのか? と聞いてきた。どうも此奴は僕の質問を忘れてるらしい。
 読むわけないじゃん、と答えると、じゃあ何でこんな所来てるんだと尋ねてくる。

「一人になりたかったから」

 正直に答えた。
 其奴はその答えに納得したのか、本の世界を移した。
 そして、僕はまた一人になる。
 本を枕にして一人の世界に移ろうとした。
 でも条件反射で、僕は寝ようとすると泣き出す仕組みがあるらしい。横になった途端涙が溢れてきた。
 するとヤツは本を置いて近寄ってきて、また背中と摩ってくれた。
 髪を掬ってくれた。
 ずっと、撫で続けてくれた。
 何でこんな事をしてくれるかは判らない。
 自分の読書の時間を割いて、奴はずっと僕の頭を撫でていた。

 そして暗くなって、僕たちは一緒に帰る。
 また勝手に奴は僕の手を引いて前へ前へ走っていく。その手を離さないように僕も走る。
 彼奴の方が体格もいいし足幅も大きい。だから追いつくのが大変だった。
 闇を走り出して数分、子供達が数人、見えだした所で奴は僕の手を離した。
 そして、人混みの中に消えていく。
 あっという間に其奴は消えていって、僕と離ればなれになった。
 でも追いかける理由がない。
 ココに来たら、彼奴と僕は全くの無関係なんだから。
 図書館にいるのも、只の腐れ縁ってヤツなんだから。



 次の日も、僕は一人になりにあの部屋に来た。

 図書館の重いドアを開け、少し空気の入れ換えをしてヤツを探す。
 唯一光の差す、窓の側で其奴は本を読んできた。

「お前は腹空かない身体なのか?」

 と突然ヤツが言ってきた。僕の答えは「なワケないじゃん」。

「そう思ってコレ持ってきた」

 其奴は脇に袋を備えていて、その中からお菓子をいくつか出してきた。
 準備のいい奴。僕もこれからそうしよっと。

「ホラ、コレお前の分」

 とか思ってるすきに、ヤツがお菓子を投げてきた。びっくりした。どうして僕のお菓子を持っているのだろう。
 でも投げ返す気にはならないので、有り難く頂戴しておく。
 有り難うなんて言わないけれど……。
 昨日は本を枕にしたら泣いてしまった。そして奴の読書を邪魔してしまった。
 迷惑だろうから、奴の見えない、本棚と本棚の間に座った。

 途端、涙が溢れてくる。
 声を殺して泣いた。声を殺して泣く事は僕は結構得意だ。
 なのに奴は駆け寄ってきて、僕の背中を摩る。髪を掬う。涙を拭く。
 そして結局、ヤツの読書時間を潰してしまった。

 夜になって帰る時間になると、僕は泣きやむ。
 奴の手に引かれて、夕食の待つ場所へと帰っていく。

 でも、此処で手を離したらどうなるんだろう?
 僕は此処で置いてけぼりになるんだろうか。
 真っ暗な闇の中で一人取り残されるのだろうか。
 そっちの方が『一人』らしい。けどその日は手を離さなかった。いや、離せなかった。

 だって彼奴がぎゅっと僕の手首を掴んでいるから。



 次の日も、僕は一人になりにあの部屋に来た。

 彼奴は本棚と本棚の間の狭いスペースに、仰向けになって本を読んでいた。
 腕を伸ばして、本を上に向けている。タイトルが丸見えだ。
 ……読めないから何て本か言わないのは、ナイショだけど。
 どうして毎日本を読んでるんだ? と聞いてみた。
 そしたら、図書館で本を読むのは世界の法則だ、なんて言い出した。
 全くそうだと思う。だけど僕は此処に来て本は読んでいない。

 何のためにココへ?
 一人になるために。
 泣くために。
 …………慰めてもらうために?

 もしかしたら、此奴を探すために?

 考えてたらワケ判らなくなって、泣いてしまった。
 以下、エンドレスな事をしていると、外が黒くなっていった。

 世界が闇に染まっていく。
 いつものように帰るか、と奴が言ってきて僕を立たせて、手を握る。
 そして闇の中を駆けていく。
 後を追って、また想った。
 どうして此奴は僕の手を握って帰るのだろうか。
 僕は、なんとなく奴の手を振り解いてみた。

「なんだよ」

 奴の歩みが、止まる。そして文句のある顔をして、

「帰るぞ」

 奴は僕の手を握った。

 どうやら僕は、闇の中で留まれないらしい。
 どうやら僕は、一人取り残される事もないらしい。

 僕は奴の手を握り返した。



 次の日も、僕は一人になりにあの部屋に来た。

 高い場所の本を取る為の梯子の上に座って本を読んでいた。
 この梯子揺らしたら、やっぱり落ちるのかな。

「バカな事すんじゃねーぞ」

 ……なんて思ってたら奴が笑ってそう言った。奴はエスパーかもしれない。
 だっていつも僕が泣いてるのに直ぐ気付くし、どうして判るのか。
 ずっと泣いてるのに永遠に、エイエンに僕を撫でてくれるし、どうして疲れないのか。
 それは『エスパーだから』と言えば説明出来るかもしれない。……多分。
 僕は梯子の下に座った。頭上では、真剣そうに奴が本を読んでいる。
 ふと、僕の隣に昨日奴が仰向けで呼んでいた本が見えた。タイトルは読めなかったけど、表紙はバッチリ覚えている。
 一体毎日どんな事を見てるんだろう?
 どんな事を見て思って過ごしてるんだろう?
 キョーミが出て、僕はその本を捲ってみた。
 捲って、捲る。捲りに捲って。
 さっぱりわからなかった。
 途端、涙が出てきた。
 奴は梯子の上から飛び降りて、抱き締めてくれた。
 胸の中で僕は泣く。
 奴は言う。

「撫でるのは手が疲れる。だから今日からはこうする事にした」

 腕は動かない。慰めの言葉も無くなった。
 でも、ただ抱き締めてくれただけなのに、どうして前より嬉しいのだろう。

 そもそもどうして僕は泣いたんだ?
 此奴の世界がわからなかったから? 一緒の世界じゃなくて悲しかったから?
 そもそもどうして僕は此奴のキョーミなんて出たんだ?

 さっぱりわからなくて、やっぱり涙が流れた。
 胸の中に涙が堪って、顔が余計に濡れて気持ち悪かった。

 ……そして、外が暗くなり始めた。
 でも僕の世界はずっと暗い。だって此奴の胸の中だから。
 夜だ、と言ってくれなきゃ気付かなかった。
 離れるのは嫌だけど、時間だから仕方ない。最近昼飯無しでお腹は空くけど嫌じゃない。
 一人になるのがこんなに楽しい事だとは思わなかったから。

「ホラ、手出せよ」

 当然のように奴がそう言って、当然の如く僕は手を出して、闇の中を走っていく。

「お前って左利きなんだな」
「……おかしい?」

 別に。と短く答える。そこで機嫌を損なう事もない。

「箸持つ手も左手?」
「鉛筆持つ手も左手だよ」
「握手する時も左手出すクセだったり?」
「銃持つ手も左手だよ」
「……」

 結ばれた左手は、絶対に離しはしない。



 次の日も、僕は一人になりにあの部屋に来た。

 今日は奴はどんな所でどんな本を。
 どんな表情で、どんな風に僕を迎えるのかを。
 ずっとずっと楽しみにしてた。

 なのに、
 僕は彼を捜し当てる事が出来なかった。

 狭くないその空間を、探しまくる。
 歩いて、時には走ってヤツを探しまくる。

 本棚と本棚の間、
 窓際、
 梯子の上、
 思い当たる所を探す。

 探し疲れて床に腰を下ろし、横たわった。
 頭の所に本があった。固い本が枕になる。
 だけど涙は出なかった。
 だって条件が揃って無いから。
 奴がいて、奴から離れて、奴に見つけてもらわないと意味がない。
 夜になったのに気付いて、仕方なく一人で闇を走る。
 もう何度も来ている道だから一人で帰れた。
 手を引かれる必要なんて、一回目で終わってたんだ。

 今日は無い左手が、虚しかった。



 次の日も、僕は一人になりにあの部屋に来た。

 どうして昨日は来なかったかを問いただしに。
 どんな気持ちで僕は昨日を過ごしていたかを聞いて貰うために。
 昨日と同じルートで、図書館を歩き回る。

 ずっとまわって、まわり続けて

 二周目、五周目が終わる。

 図書館の妖精だから、絶対にココからいなくならない筈なのに。
 でも奴が本当に図書館の妖精なら、消えてしまうのだろうか。

「ねぇ……ドコ…………」

 いつの間にか声を出して奴を捜していた。
 最初の頃は声を出すのも躊躇っていたクセに、今じゃ大声を出して図書館をまわる。
 一人で、探す。

 一人だ。

 僕は一人だ。
 前までは一人じゃなかった。
 でもまた一人になった。
 一人になりに来ていたけど、やっぱり一人は嫌なんだ。
 それに気付いたのは、一人じゃなかったからだ。
 一人でいるのは楽しくない。
 一緒にいてくれたから楽しくて此処にいるんだ。
 だから、一人は嫌で。
 淋しいのは嫌で。
 一人なのは、淋しくて……。

「ドコにいるんだよぉ……返事してぇ…………」

 泣きながら、十周目を迎えた。
 ……そういえば僕、彼奴の名前知らないや。
 多分彼奴も僕の名前、知らないんだろうな。
 知らないで僕達は一緒にいたから。

 名前も言えない寂しさに包まれて、一人、ヤツの姿を追う。

 光の無い部屋。
 僕は座り込んだ。膝を抱えて膝に顔を埋めて休憩する。

 暗い部屋。
 ……ずっとこうして過ごしてきた。
 外には出られない。出してくれなかった。
 窓からの光だけの家で一人暮らす。
 助けてくれる筈のお母さんはドコにもいなくて、
 もう一人の助けてくれる人が僕を縛っていた。
 勝手に出ていこうとすると僕を縛って、許可を取ろうと出たい言い出した僕を殴って、
 殴って、ずっと僕を縛って置き去りにした。
 そこで、声を殺して泣く方法を覚えた。
 声を出して泣くと近所迷惑だとか言って余計殴るから。
 部屋の中は僕は歩けた。縛られてはいたけど。
 不自由な手と、ボロボロの足で部屋の中を歩いた。
 歩けば少しでも自由になった気がして。
 そして部屋の中で外に行く方法を見つけた。
 それは机の中に隠れていた。
 光の無い部屋を、一瞬だけ赤くする事の出来るものだった。
 少しでも光が欲しかった。明るくなるならそれでよかった。
 それは、明るくしてくれるものだった。

 嗚呼、置き去りにした人が帰ってきた。
 何度か口をきいて、
 何度か殴られて、

 ぱぁんと、
 黒いもので、
 部屋を赤くして、

 ―――僕は目を覚ました。

 変な白衣の人達に囲まれて、痛いと心の中で喚いても誰も助けてくれなくて、
 傷が治って変な所に入れられて、
 多くの子供達の中に入れられて、
 改めて僕は一人で暮らしてきたんだって思い知らされて、
 逃げて、
 泣いて、
 出逢った。

 そして一人の僕に辿り着く。

 一人だ。
 一人のまま、誰も気付いてくれない。

 気付いてくれた人ももういない。

 あの人がいなくなれば、
 もう誰も僕の相手をしてくれないんだろうか。

 泣いて喚いても誰も僕の相手をしてくれないんだろうか。
 大声で泣けば誰か僕の相手をしてくれるだろうか。

 大声で、
 泣けば、
 だろうか。

「―――ぅ、うぅうあぁぁああぁああああぁぁぁぁん……っ!」



 ……頭が痛い。

 辞書みたいな大きくて固い本が頭に当たっている。
 本がびしょびしょになるまで、泣く。
 枯れるまで泣く。
 どうか枯れる事がないよう。
 枯れてしまったら、きっと誰も僕の相手をしてくれないから―――。



「そんなに泣いたら本が濡れるだろ」



 床に放り出された一冊の本を枕にしてると、突如上の方から声が聞こえた。
 驚いて顔を上げたけど、泣いてるのを思い出して顔を背けた。

「あーあ、表紙がぐちゃぐちゃじゃねーか。一応図書館のモンなんだからな、怒られるぞ」

 頭上から子供が覗いている。
 大人のような冷めた態度で、僕なんかより本の方が大事そうに。
 そうだよな、大人ってそういうもんだよな。
 納得して、其奴の言うことを聞く。



 もう本を枕にして泣かない。
 これからは、絶対に此奴の胸の中で…………



「ひっ、ぃ…………ひっく…………ッ」

 …………としよう。



「―――どうして昨日、居なかったんだ?」
「あ? そんな毎日いるわけねーだろ。ココに住んでるんじゃないんだから」
「でも、昨日までずっといた」
「時間があったからな。昨日はシスターの手伝いで忙しかったんだよ」

 何でも此奴は大人な性格だからと孤児院でも頼りにされてるらしい。
 全く自慢話かよ。文句は耳にタコが出来ても言いまくるぞ。

「今日も昨日の続きとやらで付き合わされた。ったく、ガキなんだから遊ばせろって」

 奴らしく本を見ながら話す。
 目は文を追い、器用に僕と会話する。
 右手に本を、左手に僕を抱いて。
 僕はその左手を握って、泣かずに眠る。

「な…………名前…………何?」
「は? 今更聞いてどうすんだ」
「知らないと不便だし。僕も教えてあげるよ」

 クロトだよ、と親切に先に言ってあげた。
 なのに奴は全然言おうとしない。

「ずるい! 僕のを教えてあげたんだから早く言ってよ!」
「普通な……初日に名前交換するもんだよな。もうずっとこれで通じたんだから、困らないんだしいいじゃないか?」
「良くない! ……僕が、困る」

 また、奴を見つけられない時、声に出して探す事が出来ない。
 ココにいないと判ったら、外に出て名前で聞き回ればいいんだ。
 そうすれば、今よりずっと一緒にいられるかもしれない。
 それに、名前を知ってるって、それだけでも親しくなるみたいだ。
 そんな小さな一歩もまだ踏み出していないのだから。

「オルガ」
「……おるが?」
「とりあえずそう今は呼ばれてる。本当の名前かは知らないけど」
「……オルガ」
「あんまり連発して呼ぶなよ。…………女の名前でハズイし」
「へぇ、女の名前なんだ! 男なのに!」
「……」

 言わなきゃ良かった、と奴……オルガの顔が歪む。
 一つ此奴……オルガの弱い所を知って、僕は嬉しくなった。

「じゃあ、僕の名前読んでよ!」
「意味も無いのに呼べるか」
「僕が呼べって言ってるんだから意味あるって!」
「……あー、お前ってそんなに五月蠅かったんだな……」

 意外だ、なんてオルガが言う。
 今更判ったの? これからもっと五月蠅くするんだから、これぐらい我慢してよ。

「……………………クロト」
「うんっ!」
「……そんなに名前呼ばれて嬉しいか……?」

 勿論、嬉しいよ。
 そうやって呼んでくれるの、お父さんだけだったから―――。



 闇が近くなって、手を繋いで夜を歩く。

「いつも思うんだけど。オルガの手って冷たいよね」
「あー……冷え性だからな」
「ドッカで聞いたんだけど、手冷たい人って心暖かいんだって」
「よく本で見かけるけど、根拠とか無いだろうな」
「うん、おかしいよね」
「………………その言い方は同意出来ん」
「オルガが冷え性っていうの、他に知ってる人いる?」
「今の所、誰にも。……………………おぃ、何バカ面してんだ」

 バカじゃない、嬉しいだけ。

 どんどんオルガの事知っていって。

 オルガの事は僕が一番になってみせる。

 絶対にこれからも一緒にいたい人だから、絶対に。



 たとえどんな人に逢えたとしても

 どんな風に大人になったとしても、絶対に―――。





 END

 03.9.22