■ 「 もう絶望はしたくない。 」



 /0

 かつて主がいてね……うん、それだけさ。

「主って、燕青が前に仕えていた?」

 ん……ああ、そうだよ。マスター、俺から話しておきながら申し訳無いけどこの話はやめようか。俺が話すより、俺はマスターの話が聞きたいな。



 /1

 もう絶望はしたくない。それは誰だって同じだろう? ああ、胸が張り裂けそうな過去をわざわざ掘り起こすのはやめよう。
 ついしてしまった会話の裏話はさておき、俺達はそう語り合ったこともあった。今の主のことだけを考えようとすると、二人きりの時間をつい思い出してしまう。
 主の前で自慰に耽りながら、主のことを考えるなんて。どれだけ俺は藤丸立香という少年のことが好きなんだ。……二人きりじゃないときだって、彼のことを想っている。そうだ、次は今日の狩りであった出来事を思い出そう。

「んぅっ……ぁ……ま、ますたぁ……ぁっ……」

 たった数時間前の話だ。あのときの戦術は的確で爽快だった。マスターの後押しのおかげで体が軽く、空を飛ぶようにして獣を狩っていた。
 巨獣を仕留めて振り返れば大勢が俺に視線を向けていた。自分に注がれている光景に意識過剰にも興奮して、心臓の鼓動を速めた。
 あのときの俺は無傷だった。それなのに一撃で獲物を仕留めた。これは間違いなく期待に応えられている! 多くを見なければならない主ですら自分を見惚れている! 何もかも思うがまま。こんなに嬉しいことがあるもんか!

「ぅ……んんぅ……はぁっ」

 大勢の視線が一身に自分へ注がれるのは気持ち良い。
 でも自分は元々欲張りな人間じゃない。たった一人に見てもらえるだけでいい、それだけで興奮できた。
 床に這いつくばり、ベッドの足元に口付けながらケツの穴を一人弄る。
 傍の視線を想えば、オナニーを見せろという恥ずかしい命令だって従うことができた。

「燕青、凄い声が出ているよ。そんなに気持ち良い?」
「いいっ、いいよぉっ……止められない、っんぅうっ……」

 体を折り畳んで、少しでも奥へ指を挿れていく。
 腰を上げて、右手を伸ばして。唾液で濡らした指を窄まった穴に沈めては、抜く。
 元より散々馴らしていたところだ、命令されずとも自慰を耽ることだってある。いつもの要領でと考えれば、何の躊躇いも無かった。

「ぁぁぁ……いいっ、いいけど、これだけじゃぁ……ぅぅう……」

 と言いたいところだが。
 やはり衣服を全部脱ぎ、這いつくばっての、自分を見世物にしながらの行為は屈辱的だ。
 体を屈ませているせいで妙な声だって出る。だから……マスターの目から見れば、俺は「たった数秒で感じきった淫乱」に思われるのでは? 考えた瞬間、余計に顔が紅潮してしまった。
 そのまま床にキスをしながらアナルを弄りまわしていればいい。主に命じられた通り。そう思っても、俺にだって一端の誇りがある。誇りなんて無いようなやくざ者だって屈辱で足が竦む。無闇にみだりがわしい男だとは思われたくなかった。

「ま、マスター……。な、何か言ってくれよぉ……ん、くぅ……んっ」
「燕青、驚いているよ。確かにオレは『オナニーをして』って言ったけど。燕青のオナニーってそっちなんだ?」
「…………あ?」
「真っ先に下を脱いでお尻を弄り出したのって、いつもそっちでしていたから?」

 急に体がカッと燃え上がった。

 あまりの熱さに自分の血が沸騰する音が聞こえる。動揺で口が巧く動かない。

「そ、それは……その」

 身に纏う物は何も無い。生まれたままの格好で、地に伏せたまま自分を慰めていた。
 指で穴の入口を行き来させて、もう片方の手は自らの乳首を弾き、性器を冷たい床に押し付けて……主の視線がご褒美だと自分で言い聞かせながら、一人励んでいた。
 決して「そうしろ」と言われた訳ではない。
 言い逃れができなかった。赤い顔を主に見せられず額を床につき、悶える。

「……マスター、俺は……そんな」
「いいよ、続けて。薬で気持ち良くなっているんだろ? もっと良くなろう。燕青が好きなやり方でしていいから」
「………………」
「指が止まってるよ。もう嫌になっちゃった?」
「っ……。違う、まだやれる……ぅぅぅっ……!」

 さらに体を丸めて、指を自分の中へ挿れていった。
 指を第一関節、第二間接と中へずぶずぶ割り開いていく。
 正直に言えば、辛い。難しい態勢が、じゃない。ぐりぐりと中をこじ開けていくことぐらい、痛みなんていくらでも我慢できる。
 そうじゃなくて……。いや、今はそれを考えるのはやめよう。目を瞑って中を擦ることに専念しよう。胸を弄っていた左手の愛撫を忘れて、ひたすら指を動かしていった。



 /2

 辛いのは、屈辱的な行為を強いられているからじゃない。
 どんなに主のことを愛していても、この人には届いていなかった。それに気付いた瞬間から苦痛は始まっていた。

「燕青。『これ』を飲んで、オレのことを好きになってほしい」

 部屋に呼ばれたのは俺一人。ベッドに腰掛ける藤丸立香と対峙するのは、大勢居る中で俺だけ。
 乱れの無いベッドの上に腰を下ろす俺の主。その手には、暖かい色の液体が入った小瓶があった。

「これはね、ダヴィンチちゃんから貰った媚薬だよ。前々から見かけていたけど使う機会なんて無くて放置していたんだけど、俺……どうしても燕青に飲んでほしくって」

 几帳面な主は、照れながらも一つ一つ説明していった。
 その薬が、人心を操作することに長けた霊薬であること。
 飲んだ人物は、目の前にいる人間に好意を抱くということ。
 性欲を亢進させる効果もあり、単純に心が晴れて気持ち良くなれるということ。
 真っ当でこの上ないほど正統派の媚薬である。そして堂々と俺に手渡してきた。

 間違いなく、話は俺に向けられていた。
 冗談ではなく、主を好きになれと命令された。
 思わず顔が歪む。笑うしかなかった。

「燕青と出会ってもう随分経つよね。長い間、考えたんだ。オレにとって誰よりも大事な人は燕青なんだって。サーヴァントとマスターの関係だけじゃなく、友達としてだけでなく……オレは」
「俺……俺もあんたのことは気に入ってるって、前に……」
「オレはね、燕青が大好きなんだ。きっと燕青が考えている以上に。オレのものになってほしいから、飲んで」

 人理を救ったという組織に喚び出され、誰かに仕えられる喜びを噛み締めていやある日。あれは何が原因だったか、藤丸立香という人間性を知った。
 主としてでなく一人の人間として彼が好きだと自覚し、彼の為にありたいと決意して……最終的には「自分自身を求めてほしい」と思えるようにすらなっていた。
 だからそんな物を使わなくったって主を好いていた。「後で部屋に来い」と言われたとき、顔に出さなくてもどれだけ嬉しかったことか!

「……こんな礼儀知らずの無頼を好いてくれるなんて嬉しいねぇ。でも本気かい、マスター? 俺だぞ? もっと可愛い子がここにはいっぱい居るだろうに」
「またそうやってはぐらかす。いつまで経っても燕青はオレのモノになってくれない。何度も好きって言ったって笑ってかわすだけだった。そんなのもう嫌なんだ。我慢できない。だから、応じてほしい」
「はははは、マスター、それはそれは」
「飲んで」

 低い声に、思わず頬が引き攣る。

 ――信頼されていると思っていた。特別視されていると有頂天になっていた。
 実際にマスターは自分を大切にしてくれていた。「薬を飲め」と強く命令するぐらいには。
 ああ、嬉しい。それほど俺を大切に想ってくれていたのか。小賢しい俺を自分のものにしたいっていう強い意思、もちろん嬉しさもある。嬉しいさ。でも!
 ……心を縛る薬なんかで、俺の想いを押し潰したくなかった!
 だって本当に好きだったんだ! 瓶を手渡すその指で触れてもらえるだけで幸せだと思えるほど、愛していたというのに!

 ……まあ、それも、仕方ない話と言える。
 きっと……俺が悪い。嬉しさを顔に出さなかった俺が悪かった。
 優しくされるのが心地良くて、軽口を叩き合うのが気分良くて、俺は気付かないうちにマスターからの好意を無碍にしていたのだろう。

 数日前、マスターがやけに俺のことを褒めてくる日があった。褒められて上機嫌の俺に、続けて『そんな燕青が、好きなんだ』って言ってくれた。
 『正気かい、マスター!』 そうやって俺は茶化した。もちろん照れ隠しだ。『こんな無頼漢な俺を信用していいの。新しい主は物好きだなぁ』 彼の頭を撫でながら、笑って言ってやった。
 お互い笑っていた。幸せな時間だった。愛する主に褒められて、好きだと言われて、嫌な顔なんてできるものか。

 ――なんでそのとき俺は、『ありがとう』とも『俺も好きだ』とも言わなかったのだろう。

 俺を傍においてくれたことを心から感謝するって伝えていた。誠意をもってこの拳は主に仕えると心まで預けておきながら。
 うん……そういや『あんたのことを愛している』とか『あんたと一緒にいたい』とか口にしたことなんて無かったな……。後悔で沈む心のまま、小瓶の蓋を開ける。

 言えなかったのは、臆病になっていたからだ。
 どうせ素直に言ったとしても俺の言葉なんて聞いてくれない。栄華を極めた救世主様が俺の一言で動く訳ない。昔だってそうだった、無理に決まっている。なら少しだけでも心地良い関係で居られる今で充分だ。
 そう学んだ筈なのに、どうしてまた後悔しなければならないのだろう。



 /3

 小瓶を口元へ傾けた、それだけ。
 演技なら得意だ。だから愛の霊薬とやらを飲んだように見せかけて一滴も口にしていない。

「燕青……燕青。オレのこと……どう想う?」

 騙された主は、薬を飲んで惚けている俺を満足そうに見つめている。ベッドに来るように呼んで、自分から口付けをするように命じたぐらいだ。

「は、恥ずかしいこと言わせるなよ、マスター」

 俺は主の要望通り、彼の唇に唇を重ねる。
 眼前にある俺を抱き締めた。髪を撫でてくれる。そして「効果があったんだ!」と安心そうに微笑んだ。

 ……いいや、そんなの薬の力じゃない! 俺の、俺自身によるものだ!
 叫びたかったが、呑み込んだ。
 何故って、知らしめたかったから。
 もっとマスターを充分に愛してあげた後に、薬が一滴も減ってないことを教えよう。そうすれば俺が最初から藤丸立香を愛していたという証明になる!

 だから命令された以上のキスを続けた。やめろと言われたとしても唇を重ね、舌を捻じり込んだ。
 無理に引きはがされるまで口内を犯す。強く強く主を想っているんだと思い知らせるように。

「嬉しいよ、燕青。オレ、ずっとこうしたかったから」
「へへっ……さぁて、そのずっとっていうのはどれぐらいなんだろうねぇ? そう想っていたなら押し倒してくれれば良かったのに。それとも、押し倒される方が好みだった?」
「考えたよ。そうしようと何度も。けど燕青に嫌われたくなかったから……」
「へぇ?」
「でももう我慢の限界だ。無理矢理にでもオレのものにする。もうオレのだよ、燕青。誰のものでもない、オレの」

 甘い甘い言葉をいくつも耳元で囁かれては、顔が赤くなってしまう。

 はて、愛の尺度とは何で測ればいいのか。哲学家の英霊でも呼んで討論してもらわなければ判らないか?

「燕青……好きだよ」

 俺は主のことを好いていた。主は俺のことを好きと言ってくれていた。それならと俺も主と同じと言った。言葉を被せるように「俺が思っている以上に好き」と言い切られた。
 何を基準に愛の重さなんて測れるんだ? 今の俺は体で証明した後、薬の力など借りていないと宣言することで、自分の愛の強さを見せつけようとしている。それって正解なのか? どうするのが一番なのだろう?
 ぐるぐると思考を巡らしているうちに、マスターは服を脱ぐように命じてきた。
 今まで一度もされたことのない命令に、彼は性行為で俺の愛を測ろうとしているのか、とボンヤリ考えておく。

「燕青って、本当に下半身にも刺青があるんだね」

 口付けで昂ったままのストリップショーを、恥じらいながらも眺めていた。
 人理を救った大魔術師様とはいえ、その正体はまだ酒も飲めないぐらいの少年だ。おそらくセックスの経験だって片手で数える程度。子供には刺激が強すぎるかなと思ったが、彼は赤くなっても目を逸らそうとしない。

「あれ、以前話してなかったっけ? かつて仕えた主がいてね。俺の親代わりだったんだが、その人が……」
「うん、聞いている。会ったばかりのときに聞いた。お腹や背中だけじゃなくて、足にも刺青があるって」
「俺の肌が綺麗だって言うんで、もっと見栄えを良くするために掘らせたんだよ。……ほら、ここの刺青。見せたのは前の主と、マスターだけだよぉ」

 羞恥心は、ある。オレも顔を赤らませていた。
 けど、ようやくこの少年に……本来の自分を見せることができた喜びがある。
 実は待ち侘びていた瞬間だった。かつて唯一自分が褒められたものだ、いつか彼にも見せたいと思っていた。モノがモノだし子供の主には荷が重いかなと諦めていたところに、今日ようやく……。
 ああ、嬉しさについニヤリと笑ってしまう。

「オナニーをして」

 しかし笑ったのがいけなかったのか。
 無表情に低い声で命じられ、思わず固まってしまった。


 ――それからは、必死だった。

「はぁ……んんんぅ……」

 俯せに丸めていた体を、表に向ける。
 床に背をついて、足を広げた。蹲ってじゃなく、全部剥き出しにして穴を晒す。ベッドに腰掛ける主に見せつけるように開いて、もう一度指を沈めていった。

「ぅぅぅん……ぐぅうっ……ますたぁ、もう……!」
「ねえ。燕青は、お尻でイくのが好きだったのかな?」

 目を開けば、微笑む主の顔が視える。
 自分の内側だけで閉じこもるよりも、主が自分を見ていてくれるという安心感が心地良かった。

「う、うん……俺、こっちで……ぐちぐちするのが、イイ……」
「そっか、好きだったんだね。そんなに」

 もっと見ていてほしい。俺を、俺自身を。主のことを想って乱れる俺を見てほしい!
 先ほどの恥じらいを捨て去って、一人ひたすら指を動かした。
 するとベッドに座っていたマスターの足が、仰向けに自慰に耽っていた俺の股間に忍び寄る。
 素足が俺の性器に触れた。軽く、でも着実に押し潰してきた。

「ぇ……ぁ……ま、マスターっ?」

 ぐ、ぐぐっと、押し潰される。
 全体重は掛けられていない。死ぬほどの痛みじゃない。だが文字通り足蹴にされていることに、背筋がゾクリと鳴いた。

「こうされるのも、好きだった?」
「うぅっ! んっ……」
「指、止まっている。もう嫌になったのかな、燕青? オレの為に頑張ってくれないの?」
「ぅ……んんんん……っ!」
「ああ、こんなことされても続けてくれる。好きだったんだね。やっぱり飲んでもらって良かった。その顔を見せてくれて嬉しいよ」

 ぐりぐりと刺激は強くなっていく。前から圧し掛かるものも、自分で動かす後ろからのものも。
 重すぎない適度な刺激と、自分のことだからよく判っている確実な刺激。異常な状態に段々と興奮していく体。自ら仰向けになっておきながら、いざ恍惚な表情を見られていると思うと……涙が溢れてきてしまった。

「ん、ぅうんっ!? ……ぁ…………いい……」
「いいの? これ? これも良かったの?」
「いい、いいよぉ、凄く……好きぃ……」
「そんなに主のこと好き?」

 主の足の指が、不器用にイイところを突く。タイミングを合わせたように沈めていた俺の指が、一番好きな場所を捉える。
 そうして体がビクンと跳ねた。まだ絶頂には遠いが、息が荒くなるぐらいには気持ち良い。
 ぼんやりした意識の中、問い掛けに頷く。見上げれば主が優しい微笑みがある。何かを問い掛けてくる声もうっすらと聞こえていた。
 痛い……けど気持ち良い。甘い夢見心地に浸っていた。

「ぅぅ、うん……うん、俺、主のことが……好き……好きだったんだよ……」
「燕青、そうなんだ」
「……俺、主に部屋に呼ばれないとき……一人で隠れて自分を慰めるぐらいには……好きで……。だから俺は……あんなの無くたって……好きで……」
「そうなんだ」
「……好きだよ……主のこと……いつだってこんな風に……準備できていた。だから……」
「そうなんだ」

 目の前の少年のことを想って夜を何度も越した。だから今が夢みたいに思えるほど嬉しく、話しているだけで体が火照っていく。
 そのとき、ぐりっと強い衝撃が腹部を襲った。何てことは無い痛みだ。連日戦っている身としてはその程度は死ぬほどの問題でもない。
 敢えて言うなら――マスターが俺に力を込めてせたげたことが、一番の痛みだった。

 恐る恐る目を開けば、主の微笑みはもう無い。
 先程のような無表情ですらない。主とは思えないほど恐ろしい怒りを感じさせる目に変貌していた。



 /4

 全然痛くなかった。今の俺は魔力によって形成された超越的存在であり、彼は一般人に毛が生えた程度。何十体のサーヴァントを使役するマスターといっても、それを供給する魔力は人工物あってのもの。彼自身には大きな力など無く、暴力も俺にとっては他愛ない。
 けれどマスターが俺を虐げるという事実が、胸を貫く。やめてくれと懇願した。情けない声だった。

「なんでだよ。なんで、なんで好きなんだよ」

 理由が判らないから何も言えず、頭に血が昇ったマスターを見上げるしかできなかった。
 情けない声に引き続き、不格好な表情で晒してしまう。だからだろう……マスターは、そんな表情を見て平静を取り戻した。「ごめん、燕青」 謝りながら赤くなった俺の頬を撫でてくれる。

「ま、マスター……?」
「燕青……。好きならもっと気持ち良くしてあげる。四つん這いになって。あ、ベッドに顔を上げてもいい。お尻をオレに突き出してくれればいいから」
「……あ……」
「ちゃんとイきたいだろ? イかせてあげるから。『オレが』ね」

 優しい声なのに、体が震える。
 頬を撫でる手は暖かく、触れていられるだけでいいと思わせたあの手と同じものだと確信した。だけどこんな震えは初めてだった。
 情けをかけてくれるのは嫌じゃない。彼から施しを受けられるのは望んでいたことだ。いいことだ、待ち望んでいたことなんだと必死に言い聞かせ、懸命に体を動かし……顔をベッドに突っ伏した。

「んっ……!」

 臀部を撫で回された後に、自分の指で馴らした箇所に主の指が触れてくる。
 一度は恐怖していたが、いざ触れられると期待するかのように甘い痺れが全身を襲ってきた。
 クスッと笑う声が聞こえて、きつく目を閉じて震えていた体が少しだけ和らぐ。彼は指で俺の肛門を摩りつつも、もう一つの手で全身を暖めるように撫でてくれていた。

「さすがにこんなところまで刺青は無いか」
「わ、笑わせるなよマスター。……ひぃっ……」

 すぼまる肛肉をマスターの指が割り開いていく。
 自分で刺激していたところでも、他人が侵入してくる感覚はまた違うものだ。思わずらしくない悲鳴が出て、咄嗟に掌で口を抑えた。
 一人で彼のことを想ってしていたのとは違う刺激に、早くも体が熱くなっていた。

「ひゃぁっ……やぁっ。い、急ぎすぎ、だろぉ……?」
「もっとゆっくり感じた方がいい? さっきはなかなか一人でイけなくって苦しそうに見えたけど。ねえ、オレが燕青を良くしたいから……自分から動かなくてもいいよ」
「そ、そんなこと言われたってぇ……」

 指の行き来が徐々に早くなっていき、むず痒い感覚に包まれていく。
 はっきりと快感を与えられていた。気が早いと笑われたっておかしくないが、元より彼からの快感を得ようと励んでいたから……早く、早く強い刺激が欲しいと、動いてしまう。
 けど、マスターは「動かなくていい」と止める。焦らされている。シーツを掴み、もっともっとと心の中で叫んで、髪を振り乱すしかなかった。

「燕青の髪……綺麗だ。背中の刺青も、揺れる髪も全部綺麗」
「……んん……ぅうううんっ……」
「ここは特等席だったんだ。全部見られるなんて幸せ者だね、主ってやつは」

 彼は振り乱す俺の髪を撫で、背中も摩ってくれる。
 優しい動きだった。いつものように気遣ってくれるマスターの声と掌に、またゾクゾクと背筋が震えて……感じきった声しか出なくなる。
 ああ、どこまで淫らなんだ俺は。一人でマスターのことを想って準備するだけに飽き足らず、勘違いして行為をおっぱじめたり、褒めてくれているのにただただ快感が欲しいと唸ったり。
 ついには差し込まれた指以上のものが欲しくてたまらないと、腰を動かして……誘ってしまった。

「燕青、好きだよ」

 長い愛撫だった。
 綺麗だとか、可愛いとか、少し男としては屈辱的な言葉も並べられたがいくつも俺を褒めたマスターは……俺に自分の方を向くように命じてくる。
 ようやく入れてもらえると思ったらまた焦らされる? けどマスターは「正面から抱きたい」と囁いてきた。
 頭の中が真っ白になりそうながらも必死に頷く。彼の首にしがみ付いた。そうしてあまりに気が遠くなりかけたとき、ようやく亀頭を押し当てられる。

「ぁぁ……俺……俺ぇ……」

 興奮しきったそれを、散々馴らした場所へと導いた。

「ぁ……くぅう……痛ぁ……うう……うううぅっ」
「ほらぁ……燕青の中に全部入る」
「んぁぁぁ……ぃい……いいよぉ……すごく……ぅうううん!」

 マスターもまた挿入までに体力を使ったからか息を荒くしている。それでも満足な笑みを向けてくれていた。
 自分も笑う。痛みはあるが、苦痛はあるが欲しくて欲しくてたまらなかったものだ。全部入っていく時間は、満足感とはまた格別だった。
 薬を使ったら痛みは緩和されていたかもしれない。快感だけを味わえたかもしれない。けど、そればかりを求めてマスターの優しい愛撫を無碍にしたのかも? 今なら一つ一つの動作に甘えることができる。これで良かったんだ……。正面で無我夢中に腰を沈める彼を見ながら、快楽に打ち震えた。

「ぁぁ……ん……だめぇ……」

 サーヴァントであっても精神を犯す効力を持つ液体を飲めば、たちまち藤丸立香の虜になっただろう。身も心も、彼が欲しくてたまらなくなるだろう。
 だけど、そうなるのが怖かった。
 己の心が別のものに支配される恐怖を知っている。自分が潰されるのは、自分がどうでもいいものにされてしまうのは――自分を見てもらうことすらできなくなるのは、恐ろしいことなんだ。

「ぁ、ぁああ……か、感じるよぉ……! 凄く……気持ち良くってぇ……あんたのぉ……ぅんんんっ……!」
「燕青、燕青……気持ち良いよ、好きだよ、燕青」
「ぅんっ……んんんっ……好きぃ……」

 今の自分は、他人に成り代わる力なんて持っていない。けどその力を振るった記憶は魂にあった。
 だからたびたび恐ろしい恐怖の記憶が蘇る。苦しむ日もあった。でもそんな自分を気遣ってくれるマスターがいて、思うが儘新たな主に仕えていればいいと思い始めたんだ。
 決意した矢先に、「薬で心を潰せ」と言われたら。それは本気で抵抗してしまうもの。

「好きだ……好きだよ……」

 ぎゅうっと首にしがみ付いて、自由に叫ぶ。
 いくら恥じても、痛みに襲われても、正面から自分を好いてくる彼の顔を見て愛情が溢れていった。
 気持ちが変わらない。これは俺自身が彼を好きだということだ。間違いない。俺はこの人を愛している。彼も俺を大切にしてくれている。
 実感した。間違いない、間違いない。俺は最初から判っていたけど、今なら主にだって「薬なんていらないものだ」と証明できる……。
 次第に快楽がビリビリと下半身から全身へと染み込んでいくのを感じた。
 燃え上がっていく肉体はどの部分も鋭敏になっていく。ぎゅうっと腕で抱きしめられただけで大きく喘いでしまう。

「好きだ……主……好きだよ……!」

 高まる快感に喘ぎながら、夢中で彼を求めてしまった。



 /0

「かつて主がいてね……うん、それだけさ」

 ――主って、燕青が前に仕えていた?

「ん……ああ、そうだよ。マスター、俺から話しておきながら申し訳無いけどこの話はやめようか。俺が話すより、俺はマスターの話が聞きたいな」

 切なそうに微笑む燕青。オレと何日も共に過ごした大好きな人。
 オレはベッドの上で彼の話を聞く。彼はテーブルの上で足を組んで、笑う。その距離は心地良いものだった。
 でも、もっと近くになりたいと切望していた。

 ――じゃあさ、燕青。オレの話をしていいかな。

 なんだい。切ない笑みを振りきるように、無理矢理彼は笑ってくれる。
 そう、無理矢理だ。生まれ変わっても捨てられない大切な過去を、オレのために無理矢理振り払って。

 ――オレは燕青がどんな生き方をしていても、燕青が頑張ろうとしたことを知っている。見たことないけど、知った。死ぬほど苦しんだことも、苦しんで忘れようとして狂ってしまった世界があることも知っているよ。そんな努力家なところもオレは、大好きで……。そんな燕青が、好きなんだ。

「正気かい、マスター! こんな無頼漢な俺を信用していいの。新しい主は物好きだなぁ」

 燕青はオレの頭を撫でながら、笑う。
 それだけだった。

 切なそうに微笑むなんて特別なこと、オレの話では見せない。
 いつものように、何の変哲の無い、特別でもない笑顔でオレを茶化して終わり。
 その笑顔がどれだけオレを絶望させたか。
 彼はきっと判っていない。オレのこの顔を見る前に、部屋の外へ出て行ってしまったから。
 そうか、無理矢理にでも腕を引いて見せつけなければ判ってくれなかったのか。
 そうか、無理矢理にでもこちらに振り向かせなければ、判ろうともしてくれなかったのか。




 /5

 突然、噛みつかれた。
 龍の顔が血に染まる。流れた血が花をも赤く染めていった。
 主は吸血鬼だったのか!? 吸血鬼の英霊にそうされてしまったか!? そんな訳が無い! でも彼は、俺の肌を傷つけ、傷口を広げるように指を突き立てようとする。まるで俺の皮を剥ぐかのように。

「なんでだよ。なんで、なんで好きなんだよ」

 また怒りの形相になっていた。
 皮を剥ぐのは――生前、ある人にもらった刺青を剥ぐのは――物理的に不可能だと悟った彼は、凶行を終える。でも今度は憎々しげに俺を見つめてきた。
 その間もズンと俺の中を犯していく。戸惑いながらも快感は止まらない。一瞬何が起きたか判らなかったが肉棒は容赦なく俺を虐げ、甘い痺れに為されるが儘にされる。

「あ……ぁ……?」
「オレは燕青のことが好きだよ。こんなに好きだよ。好きになってもらいたくって必死なんだ」
「ぁ……ぅん……知っている……知っているよ……? ぁ、ん、ぁぁっっっっっ……!?」

 突き上げられる。しがみ付く。よがり泣く。でも幸福感が、遠のく。

「じゃあ! なんで主って、主って言うんだよ! オレはこんなに好きなのに! ……なんでもういない奴のことばっかり言うんだよ!?」

 幸福感が遠のいているというのに、肉体の暴走は止まらない。

「ぁ……っ……ッッ……!」

 直腸からの快楽を受け留めている下半身は激しく燃え盛り、止めようにも既に自分の意識では何も出来ずに泣きじゃくるだけになってしまった。
 だから何も言えない。
 ――違う、主っていうのは、あんたで、マスターで、かつてのあの人のことなんて言ってない、そんなの誤解だ、あの人のことは愛していた、でも彼とは別だ、そんなんじゃない、俺が心から愛しているのは間違いなくあんたで――!
 どうにか弁明しようにも、遅かった。

「ッッ……! ッッッ……!!!」

 散々焦らされた後の快感は体の自由を全て奪っていく。意識が破裂する。戻ってこれない。さっきまで出ていた嬌声も今は無く、歯を食いしばり、ビクンビクンと身を震わせるだけになってしまう。
 だから……余計に勘違いされてしまう。
 無言は肯定だと、思われてしまう。
 違う、違うって、違うんだよと首を振ろうにもそれはまるで快楽にのたうち回っているようで……それでもなお続けられるピストンに、言語能力を全て奪われてしまう。

「だから……だから、飲んでくれなかったんだろ。薬! 一滴も! なんで一滴も! ……そんなにオレのこと、好きになりたくない? オレのことなんてどうでもいい!? こんな物に頼ろうとするほど人を好きになったの、燕青が初めてだったんだよッ!」

 精液が腸内に放たれ、染み込んでいく。
 熱い衝撃が中を刺激し、また震える。ようやく声が出ても、か細いものだ。「ちがっ、ちがぅ……」 そう必死に首を振ったが、断続的に続く絶頂のせいで、何も伝えられなかった。
 俺が快感を欲しくて焦らされていたように、彼もまた我慢をして俺を愛していた。膨張しきった彼自身は言葉とは裏腹に喜びに満ちているのか、射精を続けている。
 精液が直腸のさらに奥へと流し込まれていった。放出されていくと、また意識が途切れそうな痺れに襲われ、しがみつくしかできなくなる。

 きゅぽん。軽快な、小瓶の蓋が開く音がした。

 一滴も減っていない小瓶に口付けているマスター。ああ、それ、間接キスだぁ……なんて気の抜けたことを考えているうちに、彼は液体をどんどん口に含んでいく。
 俺への口付けまで一秒も掛からなかった。

 唇が襲い掛かる。がっちりとしがみ付いていたのは自分だ、今更キスから逃れることはできなかった。
 押し退けようとする。かなわない。普段なら弾き飛ばすぐらいの力がある。でも今は不可能だ。離れられない。強い口付けに勝てない……。
 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
 やめて、やめてくれよ、好きなんだよあんたのこと、求められるのは嬉しいんだ、命令とかじゃなく俺からとかじゃなく彼からキスしてくれるのは嬉しいんだよ。
 でも嫌だ、それは嫌だ! そんなキスはしたくない、そんなの飲みたくない、やめてくれあんたのことが嫌いだからじゃなくて好きだから……好きだからそれは嫌なんだあの感覚が蘇る自己が塗り潰されていく恐怖が自分が曖昧になっていく恐怖が俺自身が押し潰されて失われていく恐怖がまた嫌なんだ好きなんだよでもそれはやめて俺はあんたのことを好きでいる俺を失いたくないんだよぉ――――!

 …………絶頂を迎えた体は呼吸を求める。サーヴァントだって窒息には弱い。
 どんなに拒んでも、愛した人自身を拒めない俺は従順になっていくしかなかった。



 /0

 次第にむずがるように動き始める燕青は、新たな声を上げた。
 非常に媚びたものだ。少し燕青らしくないと思えてしまう。でも……オレの腕に抱かれているのは燕青に違いない。
 美しい黒髪はボサボサ。整っていた刺青は血で濡れている。端整な顔つきも涙と鼻水と飲み干せなかった液体で散々だ。でも、燕青だ。オレが愛した唯一の人に違いなかった。

「燕青……燕青。オレのこと……どう想う?」

 肉欲に生きていくことを決意した目になっていても、それが燕青には違いない。
 だからオレは再び同じ質問を投げ掛けた。今度こそ望んだ答えが返ってくるに違いないと信じて。そうでなければわざわざ霊基すら変貌させるという薬を用意した意味が無い。
 見苦しい嫉妬? 構うもんか! 無理矢理だっていい。そうやって手に入れるしかないなら、無理矢理にでも……。
 だってもう絶望はしたくない。それは誰だって同じだろう?




 END

マスターに自慰を見せる。羞恥心に悶えながらも自分の愛を証明するために心を隠す新宿のアサシン。主従に必要なのは相互理解と確かな会話。その先には不幸しかないって聖杯戦争が教えてくれた。
好き好き全力好き好きを展開しておきながら伝わっていなくて後悔する新殺くんがかわいい。心からお仕えしております貴方のためにこんなに尽くしますってアピールしてたのに報われなかったから自分を変えようとしても第二の人生でも同じことを再現してしまう新殺くんかわいそかわいい。

2017.3.30